光る源氏の十八歳冬十月から十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語
[主要登場人物]
第一章 藤壷の物語 源氏、藤壷の御前で青海波を舞う
七月に藤壷女御、中宮に立つ---七月にぞ后ゐたまふめりし
[第二段 試楽の翌日、源氏藤壷と和歌遠贈答]
つとめて、中将君、
「いかに御覧じけむ。世に知らぬ乱り心地ながらこそ。
もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
袖うち振りし心知りきや
あなかしこ」
とある御返り、目もあやなりし御さま、容貌に、見たまひ忍ばれずやありけむ、
「唐人の袖振ることは遠けれど
立ち居につけてあはれとは見き
大方には」
とあるを、限りなうめづらしう、「かやうの方さへ、たどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の、かねても」と、ほほ笑まれて、持経のやうにひき広げて見ゐたまへり。
[第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸]
行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり。春宮もおはします。例の、楽の舟ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と、尽くしたる舞ども、種多かり。楽の声、鼓の音、世を響かす。
一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに、春宮の女御は、あながちなりと、憎みきこえたまふ。
垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり。宰相二人、左衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬを取りつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひける。
木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう散り過ぎて、顔のにほひけにおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さし替へたまふ。
日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひたまへるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの尽きにければ、他事に目も移らず、かへりてはことざましにやありけむ。
その夜、源氏中将、正三位したまふ。頭中将、正下の加階したまふ。上達部は、皆さるべき限りよろこびしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。
[第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う]
宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、隙もやとうかがひありきたまふをことにて、大殿には騒がれたまふ。いとど、かの若草たづね取りたまひてしを、「二条院には人迎へたまふなり」と人の聞こえければ、いと心づきなしと思いたり。
「うちうちのありさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心うつくしく、例の人のやうに怨みのたまはば、我もうらなくうち語りて、慰めきこえてむものを、思はずにのみとりないたまふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし。人の御ありさまの、かたほに、そのことの飽かぬとおぼゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも、知りたまはぬほどこそあらめ、つひには思し直されなむ」と、「おだしく軽々しからぬ御心のほども、おのづから」と、頼まるる方はことなりけり。
[第二段 藤壷の三条宮邸に見舞う]
藤壷のまかでたまへる三条の宮に、御ありさまもゆかしうて、参りたまへれば、命婦、中納言の君、中務などやうの人びと対面したり。「けざやかにももてなしたまふかな」と、やすからず思へど、しづめて、大方の御物語聞こえたまふほどに、兵部卿宮参りたまへり。
この君おはすと聞きたまひて、対面したまへり。いとよしあるさまして、色めかしうなよびたまへるを、「女にて見むはをかしかりぬべく」、人知れず見たてまつりたまふにも、かたがたむつましくおぼえたまひて、こまやかに御物語など聞こえたまふ。宮も、この御さまの常よりことになつかしううちとけたまへるを、「いとめでたし」と見たてまつりたまひて、婿になどは思し寄らで、「女にて見ばや」と、色めきたる御心には思ほす。
暮れぬれば、御簾の内に入りたまふを、うらやましく、昔は、主上の御もてなしに、いとけ近く、人づてならで、ものをも聞こえたまひしを、こよなう疎みたまへるも、つらうおぼゆるぞわりなきや。
「しばしばもさぶらふべけれど、事ぞとはべらぬほどは、おのづからおこたりはべるを、さるべきことなどは、仰せ言もはべらむこそ、うれしく」
など、すくすくしうて出でたまひぬ。命婦も、たばかりきこえむかたなく、宮の御けしきも、ありしよりは、いとど憂きふしに思しおきて、心とけぬ御けしきも、恥づかしくいとほしければ、何のしるしもなくて、過ぎゆく。「はかなの契りや」と思し乱るること、かたみに尽きせず。
[第三段 故祖母君の服喪明ける]
少納言は、「おぼえずをかしき世を見るかな。これも、故尼上の、この御ことを思して、御行ひにも祈りきこえたまひし仏の御しるしにや」とおぼゆ。「大殿、いとやむごとなくておはします。ここかしこあまたかかづらひたまふをぞ、まことに大人びたまはむほどは、むつかしきこともや」とおぼえける。されど、かくとりわきたまへる御おぼえのほどは、いと頼もしげなりかし。
御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせたてまつりたまふを、また親もなくて生ひ出でたまひしかば、まばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の地の限り織れる御小袿などを着たまへるさま、いみじう今めかしくをかしげなり。
[第四段 新年を迎える]
男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。
「今日よりは、大人しくなりたまへりや」
とて、うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
「儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」
とて、いと大事と思いたり。
「げに、いと心なき人のしわざにもはべるなるかな。今つくろはせはべらむ。今日は言忌して、な泣いたまひそ」
とて、出でたまふけしき、ところせきを、人びと端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見たてまつりたまひて、雛のなかの源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどしたまふ。
「今年だにすこし大人びさせたまへ。十にあまりぬる人は、雛遊びは忌みはべるものを。かく御夫などまうけたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、見えたてまつらせたまはめ。御髪参るほどをだに、もの憂くせさせたまふ」
など、少納言聞こゆ。御遊びにのみ心入れたまへれば、恥づかしと思はせたてまつらむとて言へば、心のうちに、「我は、さは、夫まうけてけり。この人びとの夫とてあるは、醜くこそあれ。我はかくをかしげに若き人をも持たりけるかな」と、今ぞ思ほし知りける。さはいはど、御年の数添ふしるしなめりかし。かく幼き御けはひの、ことに触れてしるければ、殿のうちの人びとも、あやしと思ひけれど、いとかう世づかぬ御添臥ならむとは思はざりけり。
[第二段 二月十余日、藤壷に皇子誕生]
参座しにとても、あまた所も歩きたまはず、内裏、春宮、一院ばかり、さては、藤壷の三条の宮にぞ参りたまへる。
「今日はまたことにも見えたまふかな」
「ねびたまふままに、ゆゆしきまでなりまさりたまふ御ありさまかな」
と、人びとめできこゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほすことしげかりけり。
この御ことの、師走も過ぎにしが、心もとなきに、この月はさりともと、宮人も待ちきこえ、内裏にも、さる御心まうけどもあり、つれなくて立ちぬ。「御もののけにや」と、世人も聞こえ騒ぐを、宮、いとわびしう、「このことにより、身のいたづらになりぬべきこと」と思し嘆くに、御心地もいと苦しくて悩みたまふ。
中将君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなくて所々にせさせたまふ。「世の中の定めなきにつけても、かくはかなくてや止みなむ」と、取り集めて嘆きたまふに、二月十余日のほどに、男御子生まれたまひぬれば、名残なく、内裏にも宮人も喜びきこえたまふ。
「命長くも」と思ほすは心憂けれど、「弘徽殿などの、うけはしげにのたまふ」と聞きしを、「むなしく聞きなしたまはましかば、人笑はれにや」と思し強りてなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。
主上の、いつしかとゆかしげに思し召したること、限りなし。かの、人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人まに参りたまひて、
「主上のおぼつかながりきこえさせたまふを、まづ見たてまつりて詳しく奏しはべらむ」
と聞こえたまへど、
「むつかしげなるほどなれば」
とて、見せたてまつりたまはぬも、ことわりなり。さるは、いとあさましう、めづらかなるまで写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。宮の、御心の鬼にいと苦しく、「人の見たてまつるも、あやしかりつるほどのあやまりを、まさに人の思ひとがめじや。さらぬはかなきことをだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべきにか」と思しつづくるに、身のみぞいと心憂き。
命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。若宮の御ことを、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、
「など、かうしもあながちにのたまはすらむ。今、おのづから見たてまつらせたまひてむ」
と聞こえながら、思へるけしき、かたみにただならず。かたはらいたきことなれば、まほにもえのたまはで、
「いかならむ世に、人づてならで、聞こえさせむ」
とて、泣いたまふさまぞ、心苦しき。
「いかさまに昔結べる契りにて
この世にかかるなかの隔てぞ
かかることこそ心得がたけれ」
とのたまふ。
命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放ちきこえず。
「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむ
こや世の人のまどふてふ闇
あはれに、心ゆるびなき御ことどもかな」
と、忍びて聞こえけり。
かくのみ言ひやる方なくて、帰りたまふものから、人のもの言ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命婦をも、昔おぼいたりしやうにも、うちとけむつびたまはず。人目立つまじく、ならだかにもてなしたまふものから、心づきなしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひのほかなる心地すべし。
[第三段 藤壷、皇子を伴って四月に宮中に戻る]
四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起き返りなどしたまふ。あさましきまで、まぎれどころなき御顔つきを、思し寄らぬことにしあれば、「またならびなきどちは、げにかよひたまへるにこそは」と、思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと、限りなし。源氏の君を、限りなきものに思し召しながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、飽かず口惜しう、ただ人にてかたじけなき御ありさま、容貌に、ねびもておはするを御覧ずるままに、心苦しく思し召すを、「かうやむごとなき御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、疵なき玉」と思しかしづくに、宮はいかなるにつけても、胸のひまなく、やすからずものを思ほす。
例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き出でたてまつらせたまひて、
「御子たち、あまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば、思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、皆かくのみあるわざにやあらむ」
とて、いみじくうつくしと思ひきこえさせたまへり。
中将の君、面の色変はる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがた移ろふ心地して、涙落ちぬべし。もの語りなどして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、わが身ながら、これに似たらむはいみじういたはしうおぼえたまふぞ、あながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地の、乱るやうなれば、まかでたまひぬ。
わが御かたに臥したまひて、「胸のやるかたなきほど過ぐして、大殿へ」と思す。御前の前栽の、何となく青みわたれるなかに、常夏のはなやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもとに、書きたまふこと、多かるべし。
「よそへつつ見るに心はなぐさまで
露けさまさる撫子の花
花に咲かなむ、と思ひたまへしも、かひなき世にはべりければ」
とあり。さりぬべき隙にやありけむ、御覧ぜさせて、
「ただ塵ばかり、この花びらに」
と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、
「袖濡るる露のゆかりと思ふにも
なほ疎まれぬ大和撫子」
とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、よろこびながらたてまつれる、「例のことなれば、しるしあらじかし」と、くづほれて眺め臥したまへるに、胸うち騒ぎて、いみじくうれしきにも涙落ちぬ。
[第四段 源氏、紫の君に心を慰める]
つくづくと臥したるにも、やるかたなき心地すれば、例の、慰めには西の対にぞ渡りたまふ。
しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露に濡れたる心地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、なまうらめしかりければ、例ならず、背きたまへるなるべし。端の方についゐて、
「こちや」
とのたまへど、おどらかず、
「入りぬる磯の」
と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、いみじうされてうつくし。
「あな、憎。かかること口馴れたまひにけりな。みるめに飽くは、まさなきことぞよ」
とて、人召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。
「箏の琴は、中の細緒の堪へがたきこそところせけれ」
とて、平調におしくだして調べたまふ。かき合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば、え怨じ果てず、いとうつくしう弾きたまふ。
小さき御ほどに、さしやりて、ゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただひとわたりに習ひとりたまふ。大方らうらうじうをかしき御心ぼへを、「思ひしことかなふ」と思す。「保曾呂惧世利」といふものは、名は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、かき合はせ、まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。
大殿油参りて、絵どもなど御覧ずるに、「出でたまふべし」とありつれば、人びと声づくりきこえて、
「雨降りはべりぬべし」
など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、
「他なるほどは恋しくやある」
とのたまへば、うなづきたまふ。
「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづ、くねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしかくもありくぞ。おとなしく見なしては、他へもさらに行くまじ。人の怨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさまに見えたてまつらむと思ふぞ」
など、こまごまと語らひきこえたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくもいらへきこえたまはず。やがて御膝に寄りかかりて、寝入りたまひぬれば、いと心苦しうて、
「今宵は出でずなりぬ」
とのたまへば、皆立ちて、御膳などこなたに参らせたり。姫君起こしたてまつりたまひて、
「出でずなりぬ」
と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。もろともにものなど参る。いとはかなげにすさびて、
「さらば、寝たまひねかし」
と、危ふげに思ひたまへれば、かかるを見捨てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ。
かやうに、とどめられたまふ折々なども多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿に聞こえければ、
「誰れならむ。いとめざましきことにもあるかな」
「今までその人とも聞こえず、さやうにまつはしたはぶれなどすらむは、あてやかに心にくき人にはあらじ」
「内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、ものめかしたまひて、人やとがめむと隠したまふななり。心なげにいはけて聞こゆるは」
など、さぶらふ人びとも聞こえあへり。
内裏にも、かかる人ありと聞こし召して、
「いとほしく、大臣の思ひ嘆かるなることも、げに、ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬほどにはあらじを。などか情けなくはもてなすなるらむ」
と、のたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御いらへも聞こえたまはねば、「心ゆかぬなめり」と、いとほしく思し召す。
「さるは、好き好きしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、またこなたかなたの人びとなど、なべてならずなども見え聞こえざめるを、いかなるもののくまに隠れありきて、かく人にも怨みらるらむ」とのたまはす。
[第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす]
主上の御梳櫛にさぶらひけるを、果てにければ、主上は御袿の人召して出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、この内侍常よりもきよげに、様体、頭つきなまめきて、装束、ありさま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、「さも古りがたうも」と、心づきなく見たまふものから、「いかが思ふらむ」と、さすがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、かはぼりのえならず画きたるを、さし隠して見返りたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、いみじうはつれそそけたり。
「似つかはしからぬ扇のさまかな」と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森の画を塗り隠したり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、「ことしもあれ、うたての心ばへや」と笑まれながら、
「森こそ夏の、と見ゆめる」
とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけむと苦しきを、女はさも思ひたらず、
「君し来ば手なれの駒に刈り飼はむ
盛り過ぎたる下葉なりとも」
と言ふさま、こよなく色めきたり。
「笹分けば人やとがめむいつとなく
駒なつくめる森の木隠れ
わづらはしさに」
とて、立ちたまふを、ひかへて、
「まだかかるものをこそ思ひはべらね。今さらなる、身の恥になむ」
とて泣くさま、いといみじ。
「いま、聞こえむ。思ひながらぞや」
とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、「橋柱」と怨みかくるを、主上は御袿果てて、御障子より覗かせたまひけり。「似つかはしからぬあはひかな」と、いとをかしう思されて、
「好き心なしと、常にもて悩むめるを、さはいへど、過ぐさざりけるは」
とて、笑はせたまへば、内侍は、なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡衣をだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせず。
人びとも、「思ひのほかなることかな」と、扱ふめるを、頭中将、聞きつけて、「至らぬ隈なき心にて、まだ思ひ寄らざりけるよ」と思ふに、尽きせぬ好み心も見まほしうなりにければ、語らひつきにけり。
この君も、人よりはいとことなるを、「かのつれなき人の御慰めに」と思ひつれど、見まほしきは、限りありけるをとや。うたての好みや。
[第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される]
いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。見つけきこえては、まづ怨みきこゆるを、齢のほどいとほしければ、慰めむと思せど、かなはぬもの憂さに、いと久しくなりにけるを、夕立して、名残涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみありきたまへば、この内侍、琵琶をいとをかしう弾きゐたり。御前などにても、男方の御遊びに交じりなどして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼえける折から、いとあはれに聞こゆ。
「瓜作りになりやしなまし」
と、声はいとをかしうて歌ふぞ、すこし心づきなき。「鄂州にありけむ昔の人も、かくやをかしかりけむ」と、耳とまりて聞きたまふ。弾きやみて、いといたう思ひ乱れたるけはひなり。君、「東屋」を忍びやかに歌ひて寄りたまへるに、
「押し開いて来ませ」
と、うち添へたるも、例に違ひたる心地ぞする。
「立ち濡るる人しもあらじ東屋に
うたてもかかる雨そそきかな」
と、うち嘆くを、我ひとりしも聞き負ふまじけれど、「うとましや、何ごとをかくまでは」と、おぼゆ。
「人妻はあなわづらはし東屋の
真屋のあまりも馴れじとぞ思ふ」
とて、うち過ぎなまほしけれど、「あまりはしたなくや」と思ひ返して、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。
頭中将は、この君のいたうまめだち過ぐして、常にもどきたまふがねたきを、つれなくてうちうち忍びたまふかたがた多かめるを、「いかで見あらはさむ」とのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。「かかる折に、すこし脅しきこえて、御心まどはして、懲りぬやと言はむ」と思ひて、たゆめきこゆ。
風ひややかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまどろむにやと見ゆるけしきなれば、やをら入り来るに、君は、とけてしも寝たまはぬ心なれば、ふと聞きつけて、この中将とは思ひ寄らず、「なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめ」と思すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、見つけられむことは、恥づかしければ、
「あな、わづらはし。出でなむよ。蜘蛛のふるまひは、しるかりつらむものを。心憂く、すかしたまひけるよ」
とて、直衣ばかりを取りて、屏風のうしろに入りたまひぬ。中将、をかしきを念じて、引きたてまつる屏風のもとに寄りて、ごほごほとたたみ寄せて、おどろおどろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、先々もかやうにて、心動かす折々ありければ、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、「この君をいかにしきこえぬるか」とわびしさに、ふるふふるふつとひかへたり。「誰れと知られで出でなばや」と思せど、しどけなき姿にて、冠などうちゆがめて走らむうしろで思ふに、「いとをこなるべし」と、思しやすらふ。
中将、「いかで我と知られきこえじ」と思ひて、ものも言はず、ただいみじう怒れるけしきにもてなして、太刀を引き抜けば、女、
「あが君、あが君」
と、向ひて手をするに、ほとほと笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそ、さてもありけれ、五十七、八の人の、うちとけてもの言ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御なかにてもの怖ぢしたる、いとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて、恐ろしげなるけしきを見すれど、なかなかしるく見つけたまひて、「我と知りて、ことさらにするなりけり」と、をこになりぬ。「その人なめり」と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜きたるかひなをとらへて、いといたうつみたまへれば、ねたきものから、え堪へで笑ひぬ。
「まことは、うつし心かとよ。戯れにくしや。いで、この直衣着む」
とのたまへど、つととらへて、さらに許しきこえず。
「さらば、もろともにこそ」
とて、中将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、ほころびはほろほろと絶えぬ。中将、
「つつむめる名や漏り出でむ引きかはし
かくほころぶる中の衣に
上に取り着ば、しるからむ」
と言ふ。君、
「隠れなきものと知る知る夏衣
着たるを薄き心とぞ見る」
と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出でたまひぬ。
[第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう]
君は、「いと口惜しく見つけられぬること」と思ひ、臥したまへり。内侍は、あさましくおぼえければ、落ちとまれる御指貫、帯など、つとめてたてまつれり。
「恨みてもいふかひぞなきたちかさね
引きてかへりし波のなごりに
底もあらはに」
とあり。「面無のさまや」と見たまふも憎けれど、わりなしと思へりしもさすがにて、
「荒らだちし波に心は騒がねど
寄せけむ磯をいかが恨みぬ」
とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御直衣よりは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。
「あやしのことどもや。おり立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多からむ」と、いとど御心をさめられたまふ。
中将、宿直所より、「これ、まづ綴ぢつけさせたまへ」とて、おし包みておこせたるを、「いかで取りつらむ」と、心やまし。「この帯を得ざらましかば」と思す。その色の紙に包みて、
「なか絶えばかことや負ふと危ふさに
はなだの帯を取りてだに見ず」
とて、やりたまふ。立ち返り、
「君にかく引き取られぬる帯なれば
かくて絶えぬるなかとかこたむ
え逃れさせたまはじ」
とあり。
日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。いと静かに、もの遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公事多く奏しくだす日にて、いとうるはしくすくよかなるを見るも、かたみにほほ笑まる。人まにさし寄りて、
「もの隠しは懲りぬらむかし」
とて、いとねたげなるしり目なり。
「などてか、さしもあらむ。立ちながら帰りけむ人こそ、いとほしけれ。まことは、憂しや、世の中よ」
と言ひあはせて、「鳥籠の山なる」と、かたみに口がたむ。
さて、そののち、ともすればことのついでごとに、言ひ迎ふるくさはひなるを、いとどものむつかしき人ゆゑと、思し知るべし。女は、なほいと艶に怨みかくるを、わびしと思ひありきたまふ。
中将は、妹の君にも聞こえ出でず、ただ、「さるべき折の脅しぐさにせむ」とぞ思ひける。やむごとなき御腹々の親王たちだに、主上の御もてなしのこよなきにわづらはしがりて、いとことにさりきこえたまへるを、この中将は、「さらにおし消たれきこえじ」と、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。
この君一人ぞ、姫君の御一つ腹なりける。帝の御子といふばかりにこそあれ、我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹にてまたなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際と、おぼえたまはぬなるべし。人がらも、あるべき限りととのひて、何ごともあらまほしく、たらひてぞものしたまひける。この御中どもの挑みこそ、あやしかりしか。されど、うるさくてなむ。
【出典】
出典1 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一)(戻)
出典2 よそへつつ見れどつゆだに慰まずいかにかすべき撫子の花(新古今集雑上-一四九二 恵子女王)(戻)
出典3 わが宿の垣根に植ゑし撫子は花に咲かなむよそへつつ見む(後撰集夏-一九九 読人しらず)(戻)
出典4 塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝る常夏の花(古今集夏-一六七 凡河内躬恒)(戻)
出典5 潮満てば入りぬる磯の草なれや見らくすくなく恋ふらくのおほき(拾遺集恋五-九六七 坂上郎女)(戻)
出典6 伊勢の海人の朝な夕なにかづくてふ海松布に人を飽くよしもがな(古今集恋四-六八三 読人しらず)(戻)
出典7 大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし(古今集雑上-八九二 読人しらず)(戻)
出典8 ほととぎす来鳴くを聞けば大荒木の森こそ夏の宿りなるらし(信明集-二八)(戻)
出典9 わが宿の一むら薄刈り飼はむ君が手馴れの駒も来ぬかな(後撰集恋二-六一六 小町姉)(戻)
出典10 笹分けば荒れこそまさめ草枯れの駒懐くべき森の下かは(蜻蛉日記-二四二)(戻)
出典11 黒髪に白髪混じり生ふるまでかかる恋にはいまだあはざる(拾遺集恋五-九六六 坂上郎女)(戻)
出典12 限りなく思ひながらの橋柱思ひながらに仲や絶えなむ(拾遺集恋四-八六四 読人しらず)(戻)
出典13 憎からぬ人の着せけむ濡れ衣は思ひにあへず今乾きなむ(後撰集恋五-九五三 中将内侍)(戻)
出典14 山城の 狛のわたりの 瓜作り な なよや らいしなや さいしなや 瓜作り 瓜作り はれ 瓜作り 我を欲しといふ いかにせむ な なよや らいしなや さいしなや いかにせむ いかにせむ はれ いかにせむ なりやしなまし 瓜たつまでに や らいしなや さいしなや 瓜たつま 瓜たつまでに(催馬楽-山城)(戻)
出典15 東屋の 真屋のあまりの その 雨そそぎ 我立ち濡れぬ 殿戸開かせ 鎹も錠もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ おし開いて来ませ 我や人妻(催馬楽-東屋)(戻)
出典16 わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも(古今集墨滅歌-一一一〇 衣通姫)(戻)
出典17 紅のこ染めの衣下に着て上にとり着ばしるからむかも(古今六帖五-三二六一)(戻)
出典18 別れての後ぞかなしき涙河底もあらはになりぬと思へば(新勅撰集恋四-九三七 読人しらず)(戻)
出典19 石川の 高麗人 帯を取られて からき悔する いかなる いかなる帯そ 縹の帯の 中はたいれたるか かやるか あやるか 中はいれたるか(催馬楽-石川)(戻)
出典20 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答えよわが名漏らすな(古今集墨滅歌-一意t一〇八 読人しらず)(戻)
【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 神無月の--神な月(月/+の<朱>)(戻)
校訂2 見たまひ--見給ひ(ひ/#ひ)(戻)
校訂3 深山--(/+み)山(戻)
校訂4 たまふ--給へ(へ/&ふ)(戻)
校訂5 飽かぬと--あかぬに(に/&と<朱>)(戻)
校訂6 ままに--(/+まゝに)(戻)
校訂7 屈し--(/+く)し(戻)
校訂8 さるべきこと--さるへ(へ/+き)こと(戻)
校訂9 仰せ言--おほす(す/$せ)事(戻)
校訂10 言忌--(/+こと<朱>)いみ(戻)
校訂11 なく思し定めたることにこそは」と、心--(/+なくおほしさためたる事にこそはとこゝろ<朱>)(戻)
校訂12 ましかば--*まし(し/+△は)(戻)
校訂13 詳しく--(/=くはしく)(戻)
校訂14 さりぬ--さか(か/$り<朱>)ぬ(戻)
校訂15 あれど--?(?/#あ)れと(戻)
校訂16 むつかしければ--*むつは(は/=かイ)しけれは(戻)
校訂17 たまへれば--*給つれは(戻)
校訂18 なることも、げに、ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬほどにはあらじを。などか情けなくはもてなすなるらむ」と--*なるなと(戻)
校訂19 いらへて--は(は/&い<朱>)らへて(戻)
校訂20 持たまへる--もたせ(せ/$<朱>)まへる(戻)
校訂21 画を--かたえ(え/$を<朱>)(戻)
校訂22 隠し--かへ(へ/$く<朱>)し(戻)
校訂23 蜘蛛--(/+く)も(戻)
校訂24 うつし心--うつく(く/$<朱>)し心(戻)
校訂25 いとど--いと(と/+と)(戻)
校訂26 ほほ笑まる--おほ(おほ/$ほゝ<朱>)えまる(戻)
校訂27 さて--(/+さ)て(戻)
校訂28 されど--され(れ/+と<朱>)(戻)
校訂29 御供に--御とん(ん/$も<朱>)に(戻)
源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入