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渋谷栄一注釈(ver.1-1-2)

  

蜻蛉

 [底本]
財団法人古代学協会・古代学研究所編 角田文衛・室伏信助監修『大島本 源氏物語』第十巻 一九九六年 角川書店

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第三巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第十六巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第五巻 一九九七年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第十巻 一九八八年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第八巻 一九八五年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第六巻 一九七六年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第十二巻 一九六八年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第五巻 一九六三年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第七巻 一九五五年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転

  1. 宇治の浮舟失踪---かしこには、人びと、おはせぬを求め騒げど
  2. 匂宮から宇治へ使者派遣---宮にも、いと例ならぬけしきありし御返り
  3. 時方、宇治に到着---かやすき人は、疾く行き着きぬ。雨少し降り止みたれど
  4. 乳母、悲嘆に暮れる---内にも泣く声々のみして、乳母なるべし
  5. 浮舟の母、宇治に到着---雨のいみじかりつる紛れに、母君も渡りたまへり
  6. 侍従ら浮舟の葬儀を営む---侍従などこそ、日ごろの御けしき思ひ出で
  7. 侍従ら真相を隠す---大夫、内舎人など、脅しきこえし者どもも参りて
第二章 浮舟の物語 浮舟失踪と薫、匂宮
  1. 薫、石山寺で浮舟失踪の報に接す---大将殿は、入道の宮の悩みたまひければ
  2. 薫の後悔---殿は、なほ、いとあへなくいみじと聞きたまふにも
  3. 匂宮悲しみに籠もる---かの宮はた、まして、二、三日はものもおぼえたまはず
  4. 薫、匂宮を訪問---宮の御訪らひに、日々に参りたまはぬ人なく
  5. 薫、匂宮と語り合う---やうやう世の物語聞こえたまふに、「いと籠めてしもは
  6. 人は非情の者に非ず---「いみじくも思したりつるかな。いとはかなかりけれど
第三章 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う
  1. 四月、薫と匂宮、和歌を贈答---月たちて、「今日ぞ渡らまし」と思し出で
  2. 匂宮、右近を迎えに時方派遣---いと夢のやうにのみ、なほ、「いかで
  3. 時方、侍従と語る---大夫も泣きて、「さらに、この御仲のこと
  4. 侍従、京の匂宮邸へ---黒き衣ども着て、引きつくろひたる容貌も
  5. 侍従、宇治へ帰る---何ばかりのものとも御覧ぜざりし人も、睦ましく
第四章 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む
  1. 薫、宇治を訪問---大将殿も、なほ、いとおぼつかなきに
  2. 薫、真相を聞きただす---あさましう、思しかけぬ筋なるに、物もとばかり
  3. 薫、匂宮と浮舟の関係を知る---「我は心に身をもまかせず、顕証なるさまに
  4. 薫、宇治の過去を追懐す--「宮の上の、のたまひ始めし、人形とつけそめ
  5. 薫、浮舟の母に手紙す---かの母君は、京に子産むべき娘のことにより
  6. 浮舟の母からの返書---いたくしも忌むまじき穢らひなれば、「深うも触れ
  7. 常陸介、浮舟の死を悼む---かしこには、常陸守、立ちながら来て
  8. 浮舟四十九日忌の法事---四十九日のわざなどせさせたまふにも、「いかなりけむ
第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち
  1. 薫と小宰相の君の関係---后の宮の、御軽服のほどは、なほかくておはしますに
  2. 六条院の法華八講---蓮の花の盛りに、御八講せらる。六条の院の御ため
  3. 小宰相の君、氷を弄ぶ---心強く割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き
  4. 薫と女二宮との夫婦仲---つとめて、起きたまへる女宮の御容貌
  5. 薫、明石中宮に対面---その日は暮らして、またの朝に大宮に参りたまふ
  6. 明石中宮、薫と小宰相の君の関係を聞く---姫宮は、あなたに渡らせたまひにけり
  7. 明石中宮、薫の三角関係を知る---「いとあやしきことをこそ聞きはべりしか
第六章 薫の物語 薫、断腸の秋の思い
  1. 女一の宮から妹二の宮への手紙---その後、姫宮の御方より、二の宮に御消息ありけり
  2. 侍従、明石中宮に出仕す---心のどかに、さまよくおはする人だに、かかる筋には
  3. 匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う---この春亡せたまひぬる式部卿宮の御女を
  4. 侍従、薫と匂宮を覗く---涼しくなりぬとて、宮、内裏に参らせたまひなむと
  5. 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う---東の渡殿に、開きあひたる戸口に
  6. 薫、断腸の秋の思い---東の高欄に押しかかりて、夕影になるままに、花の紐解く
  7. 薫と中将の御許、遊仙窟の問答---例の、西の渡殿を、ありしにならひて
  8. 薫、宮の君を訪ねる---宮の君は、この西の対にぞ御方したりける
  9. 薫、宇治の三姉妹の運命を思う---「なみなみの人めきて、心地なのさまや」と

 

第一章 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転

 [第一段 宇治の浮舟失踪]
【かしこには人びとおはせぬを求め騒げど】−浮舟失踪の翌朝。「おはせぬ」の主語は浮舟。「人びと」の述語は「求め騒げど」。
【物語の姫君の--やうなれば】−『伊勢物語』第六段、『大和物語』第百五十四段、同百五十五段など。
【詳しくも言ひ続けず】−三光院説「作者の分別となり」と指摘。
【京よりありし使の】−浮舟の母からの使者。
【また人おこせたり】−主語は浮舟母。
【まだ、鶏の鳴くになむ、出だし立てさせたまへる】−使者の詞。
【かの心知れるどち】−右近と侍従。
【身を投げたまへるか】−主語は浮舟。宇治川に身を投げたか、の意。『異本紫明抄』は「世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ」(古今集俳諧、一〇六一、読人しらず)を指摘。
【泣く泣くこの文を開けたれば】−主語は乳母や右近など。
【いとおぼつかなさに】−以下「はべりぬべければ」まで、浮舟母の手紙。
【なほいと恐ろしく】−『集成』は「本妻方の呪詛など恐れるのであろう」と注す。
【ものへ渡らせたまはむことは】−薫の京の新築した邸へ移ること。四月十日の予定であった(浮舟巻)。
【そのほど】−薫の邸へ移る前に。
【昨夜の御返りをも開けて見て】−浮舟から母への返事。主語は右近ら。
【さればよ】−以下「つらきこと」まで、右近の心中の思い。
【聞こえたまひけり】−浮舟が母に。辞世の歌をさす。
【幼かりしほどより】−右近は浮舟の乳母子。
【足摺りといふことを】−『異本紫明抄』は「白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」(伊勢物語)を指摘。
【いみじく思したる御けしきは】−以下「いかにしつることにか」まで、右近の心中の思い。浮舟の苦悩の様子を思う。『完訳』は「以下、右近の心情に即した行文」と注す。
【言はれける】−「れ」自発の助動詞。

 [第二段 匂宮から宇治へ使者派遣]
【例ならぬけしきありし御返り】−浮舟から匂宮への返書。「からをだに」の歌(浮舟巻)。
【いかに思ふならむ】−以下「行き隠れむとにやあらむ」まで、匂宮の心中の思い。匂宮は入水したとは思いもよらない。
【いかなるぞ】−匂宮の使者の詞。
【上の今宵】−以下「惑ひたまふ」まで、下衆女の詞。
【ものもおぼえたまはず】−主語は女房たち。下衆女から見れば上位の身分。
【頼もしき人も】−『集成』は「母君のことなどであろう」と注す。
【さぶらひたまふ人びとは】−女房たち。
【惑ひたまふ】−主語は女房たち。会話文中なので、敬語がつく。
【かくなむと申させたるに】−使者が取次の者に、これこれしかじかでしたと、匂宮に申し上げさせる。
【夢とおぼえて】−主語は匂宮。
【いとあやし】−以下「をかしげなりしものを」まで、匂宮の心中の思い。
【時方行きて】−以下「問ひ聞け」まで、匂宮の詞。
【かの大将殿】−以下「人しげくはべらむを」まで、時方の詞。
【下人の】−宇治山荘の下人。
【思し合はすること】−匂宮が浮舟に通じているということ。実は薫は既に知ってしまっている。
【さりとては】−以下「言ふなり」まで、匂宮の詞。

 [第三段 時方、宇治に到着]
【かやすき人は】−時方をさす。
【今宵やがてをさめたてまつるなり】−浮舟方の人々の詞。
【ただ今ものおぼえず】−以下「え聞こえぬこと」まで、右近の詞。
【今宵ばかりこそかくも立ち寄りたまはめ】−係結び「こそ--め」逆接用法。『完訳』は「浮舟が死ねば交渉もなくなるとする」と注す。
【さりとて】−以下「今一所だに」まで、時方の詞。もうお一方に、すなわち侍従に会いたい。
【いとあさまし】−以下「立ち寄りたまへ」まで、侍従の詞。
【思しもあへぬ】−主語は浮舟。突然の急死。
【申させたまへ】−時方から匂宮へ。
【いと心苦しと思ひきこえさせたまへりし】−浮舟が匂宮を。先夜、逢わずに帰したこと。
【この穢らひなど】−死の穢れ。近親者は三十日間家に籠もる。

 [第四段 乳母、悲嘆に暮れる]
【内にも】−邸宅の中。
【乳母なるべし】−時方の目を通しての叙述。
【あが君や】−以下「見たてまつらむ」まで、乳母の詞。
【おぼえたまひ】−「たまふ」は浮舟に対する敬意。乳母が思う。
【頼みきこえつるにこそ、命も延びはべりつれ】−【頼みきこえつるにこそ】−浮舟が京の薫に引き取られる日を楽しみにしていたこと。
【きこえつるにこそ--延びはべりつれ】−係結び法則、逆接用法。
【帝釈も返したまふなり】−帝釈天のせん子蘇生仏説を踏まえる(仏説せん子経)。
【なほのたまへ】−以下「見たてまつる」まで、時方の詞。
【聞こし召さむと】−主語は匂宮。
【御使なり】−わたし時方は匂宮の使いである。
【聞こし召し合はする】−主語は匂宮。
【またさりともと頼ませたまひて】−主語は匂宮。『集成』は「それに、いくら何でも(確実なことを話してくれるだろう)と頼みなさって」。『完訳』は「さすが右近や侍従は嘘をつくまいと宮は信頼し。一説に、浮舟は死んではいまいと。前者に従う」と注す。
【君たちに】−右近や侍従をさす。
【人の朝廷にも、古き例どもありけれど】−中国の漢武帝と李夫人や玄宗皇帝と楊貴妃の話が有名。
【げにいとあはれなる】−以下「聞こえなむ」まで、侍従の心中の思い。
【例ならぬことのさま】−姫君浮舟の突然の失踪事件。
【などかいささかにても】−以下「言ひ続けらるるなめり」まで、侍従の詞。
【かの殿の】−薫をさす。
【初めより知りそめたりし方に】−薫をさす。
【この御ことをば】−匂宮との関係。
【御心乱れけるなるべし】−浮舟の心。
【あさましう、心と身を亡くなしたまへるやうなれば】−暗に自殺したことをほのめかす。
【かく心の惑ひに--なめり】−乳母の発言の背景を推測して説明する。
【さらばのどかに】−以下「おはしましなむ」まで、時方の詞。「のどかに」に下に、なってからの意が含まれる。
【御みづからも】−匂宮ご自身。
【あなかたじけな】−以下「御心ざしにはべるべき」まで、侍従の詞。

 [第五段 浮舟の母、宇治に到着]
【目の前に】−以下「いかにしつることぞ」まで、浮舟母の詞。
【鬼や食ひつらむ】−以下「言ふなりし」まで、浮舟母の心中の思い。
【さては】−以下「人もやあらむ」まで、浮舟母の心中の思い。
【かの恐ろしと思ひきこゆるあたりに】−薫の正室女二宮をさす。
【かう迎へたまふべしと】−薫が浮舟を迎えることをいう。
【たばかりたる人もやあらむ】−浮舟を誘拐した人が。
【今参りの心知らぬやある】−浮舟母の詞。
【いと世離れたりとて】−以下「帰り出ではべりにし」まで、女房の詞。宇治はたいそう不便な田舎だと言って、の意。
【今とく参らむ】−新参の女房の詞を引用。
【帰り出ではべりにし】−京に帰ってしまった。

 [第六段 侍従ら浮舟の葬儀を営む]
【身を失ひてばや】−侍従、浮舟が日頃口にしていた詞を想起。
【亡き影に】−浮舟の「なげきわび身をば捨つとも亡き影に憂き名流さむことをこそ思へ」(浮舟)とあった歌の文句。
【さて亡せたまひけむ人を】−以下「いとほしきこと」まで、侍従の詞。
【言ひ合はせて】−右近と話し合って。
【忍びたる事とても】−以下「つくろはむ」まで、侍従の詞。
【いとやさしきほどならぬを】−『集成』は「別に恥ずかしいお相手ではないのですから」と訳す。
【かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ】−『集成』は「このように全くどうなったやら分らないといった心配ごとまで」。『完訳』は「真相を明らかにしえない不安」と注す。
【かたがた思ひ惑ひたまふさま】−主語は浮舟母。
【骸を置きてもて扱ふこそ】−亡骸を安置して葬儀を執行すること。
【聞こえて】−浮舟母に浮舟の死を。
【と語らひて】−侍従が右近と相談しあって。
【さはこの】−以下「亡せたまひにけり」まで、浮舟母の心中。
【おはしましにけむ方を】−以下「はかばかしくをさめむ」まで浮舟母の詞。
【さらに何のかひはべらじ】−以下「いと聞きにくし」まで右近たちの詞。
【とざまかくざまに】−『完訳』は「浮舟の行方をあれこれ想像」と注す。
【この人びと二人して】−右近と侍従。
【車寄せさせて】−『集成』は「遺骸を運び入れる体を装う」と注す。
【乳母子の大徳】−浮舟の乳母の子である大徳。
【それが叔父の阿闍梨】−乳母子の大徳の叔父である阿闍梨。
【御忌に籠もるべき限りして】−近親者による三十日間の忌籠もり。
【出だし立つるを】−葬送の車を。
【いといみじくゆゆしと】−『完訳』は「まだ生きているかもしれないのに、の気持から、不吉だとする」と注す。

 [第七段 侍従ら真相を隠す]
【御葬送の事は】−以下「仕うまつらめ」まで、大夫らの詞。
【ことさら】−以下「あればなむ」まで、右近らの詞。
【思ふやうあればなむ】−『完訳』は「子細があるとするが、具体的に言わない。不審がられるゆえん」と注す。
【田舎人どもはなかなかかかることを】−田舎人とは大夫や内舎人をさす。『完訳』は「彼らは都人よりかえって、葬送などを丁重に扱い縁起などもかつぎやすい」と注す。
【いとあやしう】−以下「せられぬることかな」まで、大夫らの詞。
【例の作法など】−葬式の入棺や拾骨の儀式など。
【誹りければ】−非難すると、またその一方で、というつながり方。
【片へおはする人は】−以下「京の人はしたまふ」まで、大夫らの詞。『完訳』は「兄弟のいらっしゃるお方。一説には、一方で妻妾をお持ちの薫、とする」と注す。
【かかる人どもの】−以下「疑はれたまはむ」まで、右近や侍従の心中の思い。
【同じ御仲らひにて】−匂宮は薫と同族の親しい間柄。
【いと気高くおはせし人の】−浮舟をいう。
【げに亡き影に】−「げに」は浮舟の独詠歌「なげきわび」歌を受ける。「亡き影に」はその歌中の語句。
【けしきも見聞きつるには口かため案内知らぬには聞かせじ】−右近らの思い。
【ながらへては】−以下「なるべし」まで、右近らの思い。『集成』は「悲しみのあまり、とても生き永らえそうにもないが、という含み」と注す。
【悲しさ覚めぬべきこと】−『完訳』は「真相を知っては疑惑が先立つとする」と注す。
【この人二人ぞ】−右近と侍従。

 

第二章 浮舟の物語 浮舟失踪と薫、匂宮

 [第一段 薫、石山寺で浮舟失踪の報に接す]
【入道の宮】−薫の母女三宮。
【かしこを】−浮舟をさす。
【さなむと】−浮舟の入水。
【御使のなきを】−薫の使者。
【人目も心憂しと思ふに】−主語は浮舟の家人たち。
【御荘の人なむ参りて】−薫の荘園の人が石山寺に参籠中の薫のもとに。
【御使そのまたの日まだつとめて】−浮舟の失踪事件が判明した翌日の早朝。薫の使者が宇治に来る。浮舟の葬送は当日の夜に執行され、その後となる。
【いみじきことは】−以下「ここのためもからき」まで、使者の伝える薫の詞。
【かく悩みたまふ御ことにより】−母女三宮の病気平癒のための参籠。
【昨夜のことは】−葬送のこと。夜に荼毘にふす。
【などか】−「急ぎせられにける」に係る。
【とぢめのことを】−葬儀の事。
【山賤の誹りをさへ】−『完訳』は「大夫・内舎人らの批判も薫の耳に入ったらしい」と注す。
【大蔵大輔】−薫の腹心の家司で大蔵大輔仲信。

 [第二段 薫の後悔]
 殿は、なほ、いとあへなくいみじと聞きたまふにも、
【心憂かりける所かな】−以下「犯したまふなりけむかし」まで、薫の心中の思い。『新釈』は「わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(古今集雑下、八九三、喜撰法師)を指摘。
【人も言ひ犯したまふなりけむかし】−「人」は匂宮をさす。
【悩ませたまふあたりに】−母女三宮が病気中。
【京におはしぬ】−薫は宇治に赴かず、京へ帰った。
【宮の御方にも】−薫の正室女二宮。
【ことことしきほどにも】−以下「いまいましうて」まで、薫の詞。浮舟について言う。『完訳』は「浮舟を、低い身分で表だった妻妾ではないとする」と注す。
【ゆゆしきことを】−浮舟の死を言う。
【ありしさま容貌】−『完訳』は「以下、薫の回想と感慨」と注す。
【うつつの世には】−以下「こそはあなれ」まで、薫の心中の思い。
【かかることの筋につけて】−女性関係のこと。
【さま異に心ざしたりし身の思ひの外にかく例の人にて】−『集成』は「世間の人とは違った願いを持っていた身なのに。この世の栄華を求めず仏道修行を志していたのに」。『完訳』は「世人に異なって道心を身上としたはずのわが人生なのに、現世に執着する結果となったと反省」と注す。

 [第三段 匂宮悲しみに籠もる]
【かの宮はた】−匂宮。
【いかなる御もののけならむなど騒ぐに】−主語は匂宮の女房たち。
【思し静まるにしもぞ】−『完訳』は「気持が落ち着くとかえって」と注す。
【人には】−周囲の人、さらには世間の人。
【いかなることに】−以下「沈みたまふらむ」まで、女房たちの詞。
【かの殿にも】−薫をさす。
【この御けしきを】−匂宮の状態。
【さればよ】−以下「出で来なまし」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「文通のみならず、情交もあったとうと推測。「--けり」と、確信」と注す。
【見たまひては】−主語は匂宮。浮舟を見たら、の意。
【さ思しぬべかりし人ぞかし】−『完訳』は「宮が必ず執心するはずの女。男を魅了させる浮舟の美貌をいう」と注す。
【ながらへましかば--出で来なまし】−反実仮想の構文。主語は浮舟。
【ただなるよりぞ】−『集成』は「匂宮と浮舟の関係は、やがて世間に知れ、そうなれば匂宮とは叔父甥の間柄だけに、自分も恥を晒すことになるのだった」と注す。
【胸もすこし冷むる心地したまひける】−『完訳』は「浮舟の死に胸をなでおろす気持さえまじる」と注す。

 [第四段 薫、匂宮を訪問]
【宮の御訪らひに】−匂宮のお見舞い。
【ことことしき際ならぬ思ひに籠もりゐて】−以下「ひがみたるべし」まで、薫の心中の思い。「ことことしき際」は浮舟の身分。
【思ひに籠もりゐて】− 浮舟の喪に服す。
【式部卿宮】−蜻蛉式部卿宮、以前に娘を薫にと志したことがある宮(東屋)。
【御叔父の服にて】−薫の叔父。軽服三ケ月の喪。
【思ひよそへられて】−叔父の服喪に浮舟を悼む。
【人びとまかり出でて】−匂宮邸の様子。
【御簾の内にも例入りたまふ人には】−薫のような人。
【見たまふにつけても】−匂宮が薫を。
【おどろおどろしき心地にも】−以下「おもひはべる」まで、匂宮の詞。
【慎むべき病のさまなりと】−『集成』は「物の怪かもしれないと疑っている」と注す。
【内裏にも宮にも】−帝と明石中宮。匂宮の両親。
【げに、世の中の常なきをも】−『完訳』は「現世の無常が薫の口癖。それに「げに」と納得しながら、浮舟の死を悼む気持も言外に出る趣」と注す。
【かならずしも】−以下「見ゆらむ」まで、匂宮の心中の思い。薫は浮舟との関係を気づくまい、と思う。
【さりやただこのことをのみ】−以下「思しわたりつらむ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「匂宮には「とおぼすも」と敬語、薫は「と思ふに」と書き分ける。以下、薫、匂宮の思惑の違いを相互に書く」。『完訳』「以下、秘事を確信する薫の心中」と注す。
【こよなくも】−以下「人しもつれなき」まで、匂宮の心中の思い。『完訳』は「薫はなんと薄情な人か。以下、冷静な薫を見ての匂宮の心中」と注す。
【かからぬことにつけてだに】−人の死去ということ。
【空飛ぶ鳥の鳴き渡るにも】−『完訳』は「景物に感情の増幅される趣」と注す。
【もののあはれも知らぬ人にもあらず】−薫をさす。
【世の中の常なきこと惜しみて思へる人しもつれなき】−『集成』は「世間無常の道理を深く悟っている人は、かえって(身辺の不幸には)冷静でいられるのだな」。『完訳』は「薫の独自な道心ぶりを評す」と注す。
【真木柱はあはれなり】−『源氏釈』は「わぎもこが来ても寄り立つ真木柱そもむつましやゆかりと思へば」(出典未詳、源氏釈所引)を指摘。薫も浮舟ゆかりの人と思えば懐かしく思われる、の意。
【これに向かひたらむさまも】−浮舟が薫に向かい合っているさまを。
【形見ぞかしとも】−薫は浮舟の形見だ、の意。

 [第五段 薫、匂宮と語り合う]
【いと籠めてしもはあらじと思して】−主語は薫。薫と浮舟との関係を。
【昔より心に籠めて】−以下「聞こし召すやうもはべるらむかし」まで、薫の詞。
【御暇なき御ありさまにて】−匂宮をいう。
【宿直などに、そのこととなくてはえさぶらはず】−主語は薫。
【そこはかとなくて過ぐしはべるをなむ】−係助詞「なむ」の下に、今まで話さなかったことを申し訳なく思う、などの意が省略。以上、まえおき。
【はかなくて亡せはべりにし人の同じゆかりなる人】−故大君の妹の浮舟。
【あいなく人の誹りもはべりぬべかりし折なりしかば】−女二宮との結婚の時期であった。
【このあやしき所に】−宇治の山荘をさす。
【かれもなにがし一人をあひ頼む心もことになくてやありけむとは見たまひつれど】−『完訳』は「女(浮舟)の方も、私一人を頼りにする気も特になかったのではないか。匂宮との仲を暗に皮肉る」と注す。
【やむごとなくものものしき筋に】−正妻待遇をいう。
【見るにはた】−世話する。
【悲しくなむ】−係助詞「なむ」の下に「はべる」などの語句が省略。
【聞こし召すやうも】−浮舟のことをさす。『完訳』は「匂宮の秘事にさりげなく迫る」と注す。
【これも】−薫をさす。
【いとかうは】−以下「をこなり」まで、薫の心中の思い。『集成』は「匂宮に奪られた女のことを、宮の前で嘆くのは間抜けなこと、という気持」と注す。
【けしきのいささか乱り顔なるを】−薫のやや取り乱した態度。
【あやしくいとほしと思せど】−『集成』は「浮舟との秘事を知られたか、とようやくこのあたりで気づく体」と注す。
【いとあはれなることにこそ】−以下「聞きはべりしかばなむ」まで、匂宮の詞。
【いと堪へがたければ】−主語は匂宮。
【さる方にても】−以下「参り通ふべきゆゑはべりしかば」まで、薫の詞。『完訳』は「あなたのしかるべき相手として。匂宮の愛人として紹介したかったとする。匂宮への痛烈な皮肉」と注す。
【人になむ】−係助詞「なむ」の下に「ありける」などの語句が省略。
【宮にも参り通ふべきゆゑ】−「ゆゑ」は理由。中君と浮舟は異母姉妹の関係。
【御心地例ならぬほどは】−以下「おはしませ」まで、薫の詞。
【すぞろなる世のこと聞こし召し入れ】−『集成』は「つまらぬ世間話をお耳にあそばし、お心を騒がせられますのもよろしくないことですございます。暗に、浮舟の死をそう嘆かれますな、と言い、それゆえの病と察していることを仄めかす」と注す。

 [第六段 人は非情の者に非ず]
【いみじくも思したりつるかな】−以下「かからじ」まで、薫の心中の思い。
【高き人の宿世なりけり】−『完訳』は「高貴な匂宮に愛された点で浮舟をすぐれた宿運の人とみる。前の女房たちと同じ見方」と注す。
【見たまふ人とても】−『集成』は「妻となさる方とても、並一通りではなく。正夫人の六の君、側室の中の君、それぞれ一方ならずすばらしい女性である」と注す。
【これに】−浮舟に。
【この人を思すゆかりの御心地のあやまりに】−『完訳』は「実は、浮舟に執心するあまりの錯乱だった、と薫は合点」と注す。
【この人のらうたくおぼゆる方は劣りやはしつる】−『集成』は「この人(浮舟)がいとしく思われたことでは(匂宮に)劣っていただろうか。以下、高貴の身の自分からも、宮に劣らず思われる浮舟の宿世に感嘆する気持」と注す。
【今はと】−浮舟は今は亡き人と。
【かからじ】−『集成』は「もう嘆くまい」と訳す。
【人木石に非ざれば皆情けあり】−薫の詞。「人は木石に非ず、皆情有り、如かず、傾城の色に遇はざらんには」(白氏文集・李夫人)の一節。
【後のしたためなども】−浮舟の葬送の儀式。
【宮にも】−『完訳』は「匂宮。一説には中の君」と注す。
【母のなほなほしく】−以下「こと削ぐなりけむかし」まで、薫の想像。浮舟の母は八宮の女房中将の君、現在は受領の北の方という低い身分。
【兄弟あるはなど】−『完訳』は「兄弟のある人は葬儀を簡略にするとの風習」と注す。
【長籠もりしたまはむも便なし】−以下「心苦し」まで、薫の思い。宇治に行き三十日間の忌籠もりをするのは不都合と考える。

 

第三章 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う

 [第一段 四月、薫と匂宮、和歌を贈答]
【月たちて】−四月となる。
【今日ぞ渡らましと】−薫の思い。四月十日が引っ越しの日であった。
【御前近き橘の香のなつかしきに】−『集成』は「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集夏、一三九、読人しらず)を指摘。
【宿に通はば】−薫の口ずさみ。『源氏釈』は「亡き人の宿に通はばほととぎすかけて音にのみ泣くと告げなむ」(古今集哀傷、八五五、読人しらず)を指摘。
【北の宮に】−二条院をいう。薫邸は三条宮。
【渡りたまふ日なりければ】−主語は薫。
【忍び音や君も泣くらむかひもなき死出の田長に心通はば】−薫から匂宮への贈歌。『河海抄』は「いくばくの田を作ればかほととぎすしでの田長朝な朝な呼ぶ」(古今集雑体、一〇一三、藤原敏行)。『花鳥余情』は「死出の山越えて来つらむほととぎす恋しき人のうへ語らなむ」(拾遺集哀傷、一三〇七、伊勢)を指摘。
【二所】−匂宮と中君。
【けしきある文かなと見たまひて】−『完訳』は「浮舟のことをほのめかしたと気づく」と注す。
【橘の薫るあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれ】−匂宮の返歌。『全書』は「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集夏、一三九、読人しらず)を指摘。
【このことのけしきは】−夫の匂宮と浮舟との関係及び浮舟の死。
【あはれにあさましき】−以下「それもいつまで」まで、中君の心中の思い。
【我一人もの思ひ知らねば】−姉の大君や妹の浮舟と比較して。
【隠したまひしがつらかりし】−匂宮の詞。『完訳』は「中君が浮舟の素姓や境遇を」と注す。
【異人よりは睦ましくあはれなり】−浮舟は中君と姉妹ゆえに。
【ことことしくうるはしくて】−六条院の様子。
【例ならぬ御ことのさまも】−婿の匂宮の病気。
【おどろき惑ひたまふ所にては】−主語は夕霧。
【父大臣兄の君たち】−六君の父大臣夕霧や兄弟の公達。
【ここはいと心やすくて】−匂宮の本邸二条院。正妻のいる六条院と比較。

 [第二段 匂宮、右近を迎えに時方派遣]
【いと夢のやうにのみ】−『完訳』は「以下、匂宮の心中。いまだに浮舟の死が信じられない。「なほ」は「いぶせければ」にかかる」と注す。
【右近を迎へに遣はす】−時方や道定をして宇治に右近を迎えにやる。
【母君も】−浮舟母。その葬儀には立ち合った。
【頼もしき者にて】−主語は宇治の人々。
【入り来たれば】−主語は匂宮の使者たち。
【あやにくに】−以下「なりにしよ」まで、時方らの感想。『完訳』は「皮肉にも、今にして思えば最後の対面の機会だったのに、宮を邸内に導くことができなかった。以下、時方たちの回想である」と注す。
【さるまじきことを思ほし焦がるること】−時方らの感想。
【おはしましし】−主語は匂宮。
【抱かれたてまつりたまひて】−「れ」受身の助動詞。主語は浮舟。
【かくのたまはせて、御使になむ参り来つる】−時方の詞。
【今さらに】−以下「語りきこえまほしき」まで、右近の詞。
【聞こし召し明らむばかり】−主語は匂宮。
【あからさまにもなむ】−『完訳』は「京に用事がと言いつくろっても、おかしくない時期を待って」と注す。
【げにいと夢のやうなりしことども】−匂宮の「いと夢のやうにのみ」を受ける。使者が伝えたのであろう。

 [第三段 時方、侍従と語る]
【大夫も泣きて】−左衛門大夫時方。
【さらにこの御仲の】−以下「まさりてなむ」まで、時方の詞。
【君たちをも】−右近や侍従。
【言ふかひなく悲しき御こと】−浮舟の死をさしていう。
【私の御心ざしもなかなか深さまさりて】−『集成』は「浮舟存生中は、主命による奉公だったが、もはやそれもないかと思うとかえって、の意」と注す。
【わざと御車など】−以下「参りたまへ」まで、時方の詞。
【思しめぐらして】−主語は匂宮。
【今一所にても】−侍従をさしていう。
【さは参りたまへ】−右近が侍従に言った詞。
【まして何事をかは】−以下「忌ませたまはぬ」まで、侍従の詞。
【悩ませたまふ御響きに】−以下「参りたまへ」まで、時方の詞。
【残りの日】−忌明けまでの残りの日数。
【ありし御さまも】−匂宮の姿。橘小島に同行した折の印象。
【いかならむ世にかは見たてまつらむ、かかる折に】−侍従の心中の思い。匂宮にお目にかかれる機会を思う。

 [第四段 侍従、京の匂宮邸へ]
【裳はただ今我より上なる人なきにうちたゆみて】−『完訳』は「裳は、唐衣とともに、主人の前に出る際の礼装。今はお仕えする主人も亡くなったので、油断して鈍色のを染めておかなかった」と注す。
【薄色なるを持たせて参る】−『集成』は「薄紫色の裳を持たせて参上する。お供の女の童などに持たせるのであろう」と注す。
【おはせましかば】−以下「心寄せきこえしものを」まで、侍従の心中の思い。「ましかば--まし」反実仮想の構文。浮舟が生きていたら。
【忍びて出でたまはまし】−主語は浮舟。匂宮に密かに京へ連れ出されたろうに、と仮想。
【人知れず心寄せきこえしものを】−主語は侍従。匂宮に対して。
【女君には】−中君。
【寝殿におはしまして渡殿に降ろしたまへり】−『集成』は「ご自身は寝殿においでになって。中の君のいる西の対にいたのを、侍従到着と聞いて、自室(寝殿)に赴いたのである。侍従を渡殿に降ろさせなさった。寝殿の東の渡殿に車を着けさせたのであろう。西の対から遠く、人目にも付かぬよう計らう体」と注す。
【あやしきまで】−以下「なむはべりし」まで、侍従の詞。
【かく心強きさまに】−浮舟の入水という事件をさす。
【さるべきにても】−以下「溺れけむ」まで、匂宮の心中の思い。『集成』は「詮方もない病気で」。『完訳』は「避けられぬ前世の因縁によって病死することなどよりも」と注す。
【これを見つけて】−浮舟の入水現場を見つけて。
【御文を焼き】−以下「はべらざりけむ」まで、侍従の詞。
【かの巻数に書きつけたまへりし】−浮舟の母へ返書として巻数に書きつけた。

 [第五段 侍従、宇治へ帰る]
【御覧ぜざりし人も】−侍従をさす。
【わがもとに】−以下「離るべくやは」まで、匂宮の詞。
【あなたももて離るべくやは】−「あなた」は中君をさす。浮舟の異母姉であることをいう。反語表現。
【さてさぶらはむに】−以下「過ぐして」まで、侍従の詞。
【この御果てなど】−一周忌。
【またも参れ】−匂宮の詞。
【かの御料に】−浮舟をさす。
【贈物にせさせたまふ】−匂宮が侍従に持たせる。
【さまざまにせさせたまふことは】−『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。
【なに心もなく】−以下「わざかな」まで、侍従の感想。
【かかる御服にこれをばいかでか隠さむ】−侍従の感想。

 

第四章 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む

 [第一段 薫、宇治を訪問]
【大将殿もなほ】−『完訳』は「「なほ」とあり、前に宇治行を決しかねていた気持が揺曳」と注す。
【いかなる契りにて】−以下「思ひ知らするなめり」まで、薫の心中の思い。『集成』は「世の無常を悟らせようとするのであろう」。『完訳』は「仏が懲らしめようとする」と訳す。
【ありけむさまも】−以下「はかなくなりたまひにし」まで、薫の詞。浮舟の死にいたるまでの経緯。
【尼君なども】−以下「わづらはしう」あたりまで、右近の心中の思い。
【あやしきことの筋にこそ】−匂宮との関係。『集成』は「不埒なこと」。『完訳』は「匂宮との秘密の情事」と注す。

 [第二段 薫、真相を聞きただす]
【あさましう思しかけぬ筋なるに】−入水事件をさす。
【さらにあらじと】−以下「いふにかあらむ」まで、薫の心中の思い。
【いかなるさまに】−『集成』は「入水ではなくて、匂宮がどこかへ隠しているのではないか、と疑う」と注す。
【宮も思し嘆きたる】−以下「泣き騒ぐを」まで、薫の心中の思い。
【かくおはしましたるにつけても】−主語は薫。心中文に語り手の薫に対する敬語が紛れ込んだ表現。
【御供に具して】−以下「え信ずまじき」まで、薫の詞。『集成』は「逃げ隠れているなら、供の女房を連れているはず」と注す。
【いとどしく】−『集成』『完訳』等は「いといとほしく」と校訂。『集成』は「大層困ってしまって」。『完訳』は「右近は大将がおいたわしくて」と訳す。
【さればよ】−『完訳』は「薫の詰問は懸念どおり」と注す。
【おのづから聞こし召しけむ】−以下「はべるなるものを」まで、右近の詞。
【かの筑波山も】−浮舟の母。夫が常陸介なのでこう呼ぶ。また「筑波山」は常陸国の歌枕。風情ある言い方。
【渡らせたまはむことを】−浮舟が京の薫のもとに。
【心得ぬ御消息はべりけるに】−『完訳』は「納得できぬ文。薫からの「波こゆる--」と心変りを非難された。それが浮舟を一方的に追いつめた、の気持もこもる」と注す。
【あやしきさまにとりなしきこゆることども】−『集成』は「おかしな具合に歪めて推測申し上げることもいろいろございましたが。宿直人が気をまわして山荘の警備を厳重にしたことをいう」と注す。
【御消息などもはべらざりしに】−薫からの手紙。接続助詞「に」原因理由の意をこめた順接条件。下文の浮舟の悲観・絶望の気持ちへと続く。
【などおもむけてなむ】−『完訳』は「悪いほうに考えて、の気持」と注す。
【その筋よりほかに】−『完訳』は「薫の不信をかった以外には」と注す。
【いささか残る所もはべるなるものを】−『完訳』は「証拠を残していくもの。入水以外には考えられぬという気持」と注す。「なる」伝聞推定の助動詞。
【紛れつる御心も失せて】−匂宮が隠しているのではないかと疑って紛らされていた悲しみの気持ち。わずかの希望も消え失せる。

 [第三段 薫、匂宮と浮舟の関係を知る]
【我は心に身をもまかせず】−以下「さらにな隠しそ」まで、薫の詞。
【今近くて】−近々京に浮舟を迎えて、の意。
【おろかに見なしたまひつらむこそ】−主語は浮舟。
【分くる方ありける】−『集成』は「悠長な自分より、熱心だと思う恋人がいたからだろうと、匂宮のことをほのめかす」と注す。
【いとかたはに】−『集成』は「全くけしからぬほど」。『完訳』は「まったく不都合にも」と訳す。
【人の心を】−女性の心を。
【たしかにこそは聞きたまひてけれ】−右近の心中。
【いといとほしくて】−『集成』は「とても困ってしまって」。『完訳』は「まことにお気の毒に思われるので」と訳す。
【いと心憂きことを】−以下「はべらぬものを」まで、右近の詞。浮舟身辺の出来事は委細に見届けている自分の話こそ真実だ、という含み。
【おのづから聞こし召しけむ】−以下「見たまへず」まで、右近の詞。
【この宮の上の御方に】−京の二条院の中君の所に。
【いみじきことを聞こえさせはべりて】−『集成』は「お側の女房たちの才覚で事無きを得た、と言う」と注す。
【出でさせたまひにき】−主語は匂宮。
【それに懼ぢたまひて】−主語は浮舟。
【かのあやしくはべりし所に】−三条の小家。隠れ家。
【音にも聞こえじと】−匂宮に噂としても知られまい、の意。
【この如月ばかりより】−『完訳』は「匂宮が浮舟の宇治の住いをかぎつけたのは一月上旬、同月下旬に宇治行を実行。事実を意識的にぼかして過小の言い方をした」と注す。
【それより他のことは見たまへず】−『集成』は「きっぱりと密通の事実を否定する」。『完訳』は「密通などなかったとする言いぶり。事実をまげて語り収める」と注す。
【かうぞ言はむかし】−『集成』は「以下、薫の心中に添って書く」。『完訳』は「こんな場合はこう答えるもの。主人を弁護し自分たち女房の過失を隠のが女房の常」と注す。
【宮をめづらしく】−以下「求め出でまし」まで、薫の心中の思い。
【いと明らむるところなく】−『集成』は「〔もともと〕はっきりした考えもなく」。『完訳』は「浮舟はまるで判断力に乏しく」と注す。
【さし放ち据ゑざらましかば--深き谷をも求め出でまし】−反実仮想の構文。浮舟を放置していたことに対する後悔。
【深き谷をも求め】−『紫明抄』は「世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりけれ」(古今集俳諧、一〇六一、読人しらず)を指摘。
【いみじう憂き水の契りかな】−薫の感想。
【この里の名をだに】−宇治の地名。「宇治」は「憂し」に通じる。

 [第四段 薫、宇治の過去を追懐す]
【宮の上の】−中君が。
【人形とつけそめたりしさへ】−「人形」は祓いの後に水に流されもの。
【ただわが過ちに失ひつる人なり】−薫の後悔の念。
【母のなほ】−以下「しなしけるなめり」まで、薫の心中の思い。
【後の後見も】−死後の世話、葬送の儀式。
【いかに思ふらむ】−以下「思ふなるらむかし」まで、薫の心中の思い。浮舟の母の心中を忖度。
【わがゆかりに】−自分の縁者、薫の正室女二宮の方から何かあったのではないか、と。
【穢らひといふことは】−浮舟が死んだ場所の穢れ。
【御供の人目もあれば】−世間や供人には病死と言ってある。
【昇りたまはで】−穢れに触れないよう室内に上がらない。
【今は】−以下「心憂かるべし」まで、薫の思い。
【我もまた憂き古里を荒れはてば誰れ宿り木の蔭をしのばむ】−薫の独詠歌。八宮、大君、中君に続いて自分薫までが、の意。
【阿闍梨今は律師なりけり】−律師は、僧正、僧都に次ぐ地位。
【罪いと深かなるわざ】−薫の思い。「自殺者殺生之随一也」(河海抄所引)。「なる」伝聞推定の助動詞。
【あらましかば今宵帰らましやは】−薫の思い。浮舟が生きていたら。反実仮想の構文。反語表現。
【いともいとも】−以下「臥してはべる」まで、弁尼の返事。
【うつぶし臥して】−『河海抄』は「世を厭ひ木のもとごとに立ちよりてうつぶし染めの麻の衣なり」(古今集雑体、一〇六八、読人しらず)を指摘。
【骸をだに】−以下「混じりけむ」まで、薫の心中の思い。
【いづれの底のうつせに混じりけむ】−「うつせ」は「うつせ貝」、空になった貝。『弄花抄』は「今日今日とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずやも」(万葉集巻二、依羅娘子)を指摘。

 [第五段 薫、浮舟の母に手紙す]
【慎み騒げば】−京の娘は出産を控えて死穢に触れることを避けている。
【例の家にも】−夫常陸介の家。
【旅居のみして】−『集成』は「三条の小家にでもいるのであろう」と注す。
【残りの人びとの上も】−浮舟以外の娘たちの身の上。
【あさましきことは】−以下「尋ねたまへ」まで、薫の手紙。浮舟の死をさす。
【闇にか惑はれたまふらむと】−『河海抄』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を指摘。
【過ぎにし名残とは】−『集成』は「亡き人(浮舟)の形見とも思われて」と注す。
【かの大蔵大輔】−薫の家司、仲信。
【心のどかに】−以下「思ふべくなむ」まで、薫が仲信に伝えさせた口上。
【年ごろにさへなりにけるほど】−昨秋から今年の四月までの間。浮舟を宇治に置いておいた間。

 [第六段 浮舟の母からの返書]
【いたくしも忌むまじき穢らひなれば】−浮舟の死は邸宅内での死ではないので。
【深うしも触れはべらず】−浮舟母の詞。
【御返り】−浮舟母から薫への返書。
【いみじきことに】−以下「やすからずなむ」まで、浮舟母の返書。
【かたじけなき御一言を】−薫が浮舟を京の邸に迎えようと言ったこと。
【里の契りも】−宇治という地名。「憂し」に通じる。
【さまざまにうれしき仰せ言に】−自分のことや子供たちの将来のことに目をかけてくれるという言葉に。
【目の前の涙にくれて】−『全書』は「行く先を知らぬ涙の悲しきはただ目の前に落つるなりけり」(後撰集、離別羇旅、一三三三、源済)を指摘。
【かの君に】−浮舟に。
【よき班犀の帯太刀のをかしきなど】−斑犀の帯、太刀。『集成』は「浮舟にさし上げて、家臣の料などに与えてもらう積りだったのであろう。「斑犀の帯」は、斑文のある犀角を飾りにした石帯。四位五位の束帯に用いる」と注す。
【これは昔の人の御心ざしなり】−浮舟母の詞。
【昔の人】−故人浮舟。
【贈らせてけり】−召使をして贈らせた。使者に帰り際に贈り物ををする作法。
【いとすぞろなるわざかな】−薫の詞。
【言葉には】−口上には、の意。
【みづから会ひはべりたうびて】−浮舟母自身が。
【幼き者どもの】−以下「さぶらはせむ」まで、浮舟母の詞を引用。
【人に何ゆゑなどは知らせはべらで】−『完訳』は「浮舟が薫の妻妾にまでならなかったことからの配慮」と注す。
【あやしきさまどもを】−浮舟の異母弟たちを謙遜していう。
【げにことなることなき】−以下「見すべきこと」まで、薫の心中の思い。
【ゆかり睦び】−親戚付き合い。
【さばかりの人の娘たてまつらずやはある】−反語表現。受領の娘が後宮に入内した例はある。
【人の誹るべきことかは】−反語表現。非難できない。
【世に古りにたるなどを】−いちど結婚したことのある女。
【わがもてなしのそれに穢るべく】−『集成』は「浮舟とは正式な結婚をしたわけではないから、女の身分を云々されても、自分の落度にはならない、の意」と注す。

 [第七段 常陸介、浮舟の死を悼む]
【かしこには】−三条の小家。浮舟母のいる所。
【立ちながら来て】−『集成』は「ちょっとやって来て」と訳す。
【折しもかくてゐたまへることなむ】−常陸介の詞。娘の出産という重大な時期に、の意。
【いづくになむおはするなど】−主語は浮舟。
【はかなきさまにておはすらむ】−常陸介の心中。主語は浮舟。
【京になど迎へたまひて後】−以下「など知らせむ」まで、浮舟母の心中。
【よき人かしこくして鄙びものめでする人にて】−高貴な人を崇めて田舎人らしく何にでも感心する性格。
【いとめでたき御幸ひを】−以下「頼もしきことになむ」まで、常陸介の詞。
【喜ぶを見るにも】−主語は浮舟母。
【さるはおはせし世には--あらずかし】−『万水一露』は「薫の心を草子の地にいへる也」と注す。
【わが過ちにて】−以下「慰めむ」まで、薫の心中。
【人の誹りねむごろに尋ねじ】−薫の心中。

 [第八段 浮舟四十九日忌の法事]
【いかなりけむことにかはと】−『集成』は「あるいは生きているかもしれない、とも思う」。『完訳』は「遺骸がないだけに不審が残る」と注す。
【とてもかくても】−生きているにせよ亡くなったにせよ、法事は罪障消滅になる。
【宮よりは】−匂宮から。
【殿の人ども】−薫の家人。
【あやしく】−以下「誰れならむ」まで、殿人の心中。
【常陸守来て主人がり居る】−『完訳』は「浮舟の養父というだけでなく、薫からの後援があるという頼もしさも加わって、得意然とする」と注す。
【少将の子産ませて】−左近少将、常陸介の婿。産養いを盛大に行おうとする。
【この御法事の、忍びたるやうに思したれど】−『集成』は「この(浮舟の)ご法要が。以下わが家の産養と比べる常陸の介の心中」と注す。「思し」の主語は薫で、薫に対する敬語であろう。
【生きたらましかば】−以下「宿世なりけり」まで、常陸介の心中。
【宮の上も】−中君。
【七僧】−法会を行う役僧。講師、読師、呪願、三礼、唄、散花、堂達。
【かかる人持たまへりけり】−帝の感想。「持つ」の主語は薫。
【おろかにもあらざりける人を】−以下「いとほし」まで、帝の心中。「人」は浮舟をさす。
【宮にかしこまりきこえて】−女二宮、薫の正妻。
【二人の人の御心のうち】−薫と匂宮。
【あやにくなりし御思ひの】−匂宮についていう。
【あだなる御心は慰むやなどこころみたまふこともやうやうありけり】−匂宮の好色な性格。
【かの殿は】−薫。
【いふかひなきことを忘れがたく思す】−薫の性格。匂宮との対照性を語る。

 

第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち

 [第一段 薫と小宰相の君の関係]
【后の宮の御軽服のほどは】−明石中宮の叔父の故蜻蛉式部卿宮の軽服、三か月間。
【二の宮なむ式部卿になりたまひにける】−匂宮(三宮)の兄、式部卿となる。
【重々しうて常にしも参りたまはず】−主語は匂宮の兄、式部卿宮。母明石中宮のもとに。
【この宮は】−匂宮。
【一品の宮】−匂宮の同母の姉、女一宮。
【よき人の容貌をも】−女一宮のもとに伺候している美貌の女房の顔を。
【小宰相の君といふ人の】−女一宮のもとに伺候している女房、小宰相君。『完訳』は「「--の」は、「同じ琴を--」に続く。その間は挿入句」と注す。
【この宮も】−匂宮も小宰相君に執心。
【言ひ破りたまへど】−匂宮が薫と小宰相君の仲に水をさすような悪口を言う。
【などかさしもめづらしげなくはあらむ】−小宰相君の心中。世間一般の女と違って自分は簡単に匂宮に靡くまい。
【まめ人は】−薫。
【すこし人よりことなり】−薫の心中。小宰相君の貞操に共感。
【見知りければ】−主語は小宰相君。
【あはれ知る心は人におくれねど数ならぬ身に消えつつぞ経る】−小宰相君から薫への贈歌。『完訳』は「暗に、浮舟にも劣らぬ己が恋情であるとほのめかす」と注す。
【代へたらば】−歌に添えた詞。『弄花抄』は「草枕紅葉むしろにかへたらば心をくだくものならましや」(後撰集羇旅、一三六四、亭子院御製)を指摘。
【常なしとここら世を見る憂き身だに人の知るまで嘆きやはする】−薫の返歌。『集成』は「よくぞ察してお尋ね下さった」。『完訳』は「浮舟だけを深く思っているように思われるのは心外だと反発」と注す。
【このよろこび】−以下「いとどなむ」まで、歌に続けた詞。「このよろこび」とは小宰相君の弔問に対するお礼、の意。
【いとものはかなき住まひなりかし】−『全集』は「語り手の、小宰相の局への感想」と注す。
【かたはらいたくおぼゆれど】−主語は小宰相君。
【見し人よりも】−以下「置いたらましものを」まで、薫の心中。浮舟と比較した感想。
【かく出で立ちけむ】−女房として出仕していること。
【さるものにて我も置いたらましものを】−隠し妻として囲って置きたい女だ、の意。
【人知れぬ筋】−恋情。

 [第二段 六条院の法華八講]
【蓮の花の盛りに】−季節は夏六月ころに移る。
【御八講せらる】−明石中宮主催の法華八講。
【五巻の日】−薪行道が行われる日。
【女房につきて参りて】−女房の縁故をたよって。
【五日といふ朝座に果てて】−法華八講は五日目の朝座で終わる。
【御堂の飾り】−寝殿を御堂に見立てて法華八講が催された。
【姫宮】−女一宮。
【もの聞き極じて】−五日間の法華八講の聴聞に疲労。
【御前】−女一宮の御前。
【皆まかでぬれば】−『集成』は「皆退出していないので」。『完訳』は「法師たちは誰もみな退出してしまっていたので」と注す。
【かくいふ宰相の君など】−『集成』は「(西の渡殿は)さきほどからの話に出ていた」。『完訳』は「先刻の話の」と訳す。
【ここにやあらむ人の衣の音す】−薫の心中。小宰相君の存在を思う。
【着替へたまへる人】−大島本は独自異文。女一宮。
【苦しう思さるるにやあらむ】−挿入句。語り手と薫の視点と一体化した叙述。
【ここらよき人を】−以下「あらざりけり」まで、薫の心中。女一宮の美しさの感動。
【土などの心地ぞするを】−『河海抄』は「上の心油然として*(きょう=心+兄)たること遇へること有るが如し左右前後を顧みるに粉色土の如し」(白氏文集、長恨歌伝)を指摘。
【用意あらむはや】−薫の感想。
【なかなか】−以下「見たまへかし」まで、小宰相君の詞。仲間の女房に言ったもの。
【たださながら】−氷を割ろうとせず、そのまま、の意。
【この心ざしの人】−薫の意中の人、小宰相君。

 [第三段 小宰相の君、氷を弄ぶ]
【さま悪しうする人もあるべし】−語り手の批評。
【いとうつくしき御手をさしやりたまひて】−女一宮の姿態動作。
【拭はせたまふ】−「せ」使役助動詞。女房をして。
【いな持たらじ雫むつかし】−女一宮の詞。
【限りもなくうれし】−『完訳』は「薫の感動を直接的に叙述し、以下の心中叙述に連なる」と注す。
【まだいと小さく】−以下「するにやあらむ」まで、薫の心中の思い。
【いかなる神仏のかかる折見せたまへるならむ】−『完訳』は「偶然のかいま見の感動の強さから神仏のなせるわざとする」と注す。
【例のやすからずもの思はせむとするにやあらむ】−前に浮舟の件で苦悩したのを思い起こす。
【こなたの対の北面に】−西の対の北廂。
【人もこそ見つけて騒がるれ】−下臈の女房の心中の思い。「もこそ」は懸念の気持ち。「るれ」受身助動詞。『集成』は「小言を言われては大変」と注す。
【この直衣姿】−薫。
【ふと立ち去りて】−主語は薫。
【誰れとも見えじ好き好きしきやうなり】−薫の心中の思い。
【いみじきわざかな】−以下「聞きつけたまはぬならむかし」まで、下臈の女房の心中の思い。
【ものの聞こえあらば】−垣間見られたという噂がたったら、の意。
【出で来なむ】−責任追求がなされる。
【単衣も袴も生絹なめりと】−薫の装束。生絹は薄く軽いので衣擦れの音がせず、その接近に気づかれない。
【聞きつけたまはぬならむかし】−「たまふ」尊敬語は女房たちに対する敬意。下臈の女房の視点。
【かの人は】−『完訳』は「薫の視点に沿って語ってきた語り手は、「かの人」として距離を置き、その心中を語り直す」と注す。
【やうやう聖に】−以下「乱れましや」まで、薫の心中の思い。
【ひとふし違へそめて】−八宮の大君に恋情を寄せたこと。
【背きなましかば--乱れましや】−反実仮想の構文。出家を仮想。係助詞「や」は、疑問の意。
【などて年ごろ】−以下「わざにこそ」まで、薫の心中の思い。
【見たてまつらばやと】−女一宮を。

 [第四段 薫と女二宮との夫婦仲]
【女宮の】−女二宮女一宮の異母妹、母は麗景殿女御。
【いとをかしげなめるはこれよりかならずまさるべきことかは】−薫の心中の思い。女一宮は女二宮より。
【さらに似たまはずこそ】−以下「折からか」まで、薫の心中の思い。
【御さまかな】−女一宮のすぐれた美貌。
【いと暑しや】−以下「をかしけれ」まで、薫の詞。
【あなたに参りて】−以下「縫ひて参れと言へ」まで、薫の詞。「あなた」は薫の母女三宮方をさす。「参る」の主語は女房。
【大弐に】−女三宮方の女房で衣服調達係の女房。
【御前】−女二宮の御前。
【例の念誦したまふ】−主語は薫。念仏修行が日常化した生活。
【渡りたまへれば】−正妻の女二宮のもとに。
【なぞこは】−以下「あへあhべりなむ」まで、薫の詞。
【劣りたまはねど】−女一宮に。
【さまざまなるにや】−『完訳』は「それぞれの個性的な美しさ。しかし薫は、女二の宮が姉宮に劣るとして絶望的な思いになる」と注す。
【絵に描きて恋しき人見る人は】−以下「見たてまつらましかば」まで、薫の心中の思い。『異本紫明抄』は、『白氏文集』巻四「李夫人」を指摘。
【似げなからぬ御ほど】−女一宮と女二宮は姉妹であることをいう。
【と思へど】−薫の心中思惟、自省、また語り手の客観描写とも、読める叙述。
【我混じりゐ】−女一宮に。
【一品の宮に御文は奉りたまふや】−薫の詞。一品宮は女一宮。
【内裏にありし時】−以下「さもあらず」まで、女二宮の詞。
【さのたまひしかば】−女一宮に手紙を出すこと。
【ただ人に】−以下「と啓せむ」まで、薫の詞。『完訳』は「臣下の妻室に降りたのを低く見られるのが不満だとする。女一の宮の文に自ら接したい思いから、文通のないのを大げさに言う」と注す。
【恨みきこえさせたまふ】−女二宮が女一宮を。
【いかが恨みきこえむうたて】−女二宮の詞。
【下衆になりにたりとて】−以下「聞こえめ」まで、薫の詞。
【おどろかしきこえぬ】−女二宮が女一宮に。

 [第五段 薫、明石中宮に対面]
【宮も】−匂宮。
【丁子に深く染めたる薄物の単衣を】−匂宮の服装。
【女の御身なりの】−女一宮の身なり。『完訳』は「「女」の呼称は、恋情をこめた表現である」と注す。薫の心中を通しての叙述。
【まづ恋しきを】−女一宮を。
【ただなりしよりは苦しき】−語り手の批評を交えた叙述。
【絵をいと多く持たせて】−主語は匂宮。
【あなたに】−女一宮のもと。
【この里に】−以下「はべらじかし」まで、薫の詞。自邸にいる女二宮についていう。
【姫宮の御方】−女一宮をさしていう。
【かやうのもの】−絵をさしていう。
【なにがしがおろして】−『完訳』は「薫が持参するのではその絵も見るかいがないとする。女一の宮から直接贈られ、その手紙などに触れたいとする下心がある」と注す。
【あやしくなどてか】−以下「それよりもなどかは」まで、明石中宮の詞。
【それよりもなどかは】−女二宮のほうから。「などかは」の下に「聞こえたまはざらむ」などの語句が省略された形。
【かれよりは】−以下「からきことにはべり」まで、薫の詞。
【好きばみたるけしきあるかとは思しかけざりけり】−『全集』は「薫には女一の宮に近づこうとする計略があるとして、それへの語り手の評言をこめて言う」と注す。
【一夜の心ざしの人に】−以下「慰めに見むかし」まで、薫の心中の思い。小宰相君をさす。
【げにいと様よく】−語り手が御簾の内の女房に同感した叙述。
【おほかたには】−以下「思ふらむかし」まで、薫の詞。
【この御方の】−女一宮。
【甥の君たち】−薫の甥、すなわち夕霧の子息たち。
【今より】−以下「ならせたまふならめ」まで、女房の詞。

 [第六段 明石中宮、薫と小宰相の君の関係を聞く]
【あなたに】−寝殿東面の中宮のもとに。
【大将のそなたに参りつるは】−大宮、すなわち明石中宮の詞。「そなた」は女一宮のもとをさす。
【大納言の君】−女一宮づきの女房。
【小宰相の君に】−以下「はべりつめれ」まで、大納言君の詞。
【まめ人の】−以下「いとうしろやすし」まで、中宮の詞。
【御姉弟なれど】−明石中宮と薫は異母姉弟という間柄。
【人も用意なくて見えざらむかし】−明石中宮の心中の思い。女房に対する要求。
【人よりは】−以下「かたじけなきこと」まで、大納言君の詞。
【心寄せたまひて】−主語は薫。
【宮を】−匂宮。
【思ひて】−主語は小宰相君。
【いと見苦しき御さまを】−以下「この人びとも」まで、中宮の詞。

 [第七段 明石中宮、薫の三角関係を知る]
【いとあやしきことを】−以下「泣き惑ひはべりけれ」まで、大納言君の詞。
【亡くなしたまひてし人は】−浮舟をいう。
【常陸の前の守なにがしが妻は】−『集成』は「「なにがし」は実名を言ったのをぼかして書く」と注す。
【叔母とも母とも】−『完訳』は「中将の君(浮舟の母)の身分の低さが知られる叙述」と注す。
【女も宮を思ひきこえさせけるにや】−『完訳』は「浮舟も匂宮になびいたために投身したと判断される点に注意。右近や侍従が真相をひた隠しにしていが、意外にも漏洩」と注す。
【誰れかさることは】−以下「のたまひしか」まで、明石中宮の詞。
【のたまひしか】−主語は薫。
【いさや下衆は】−以下「たてまつらぬにやありけむ」まで、大納言君の詞。
【かしこにはべりける下童】−宇治宮邸の下童。
【聞かせたてまつらぬにや】−明石中宮に。
【さらにかかること】−以下「思はれぬべきなめり」まで、中宮の詞。

 

第六章 薫の物語 薫、断腸の秋の思い

 [第一段 女一の宮から妹二の宮への手紙]
【姫宮の御方より】−女一宮。
【見るにもいとうれしく】−主語は薫。
【かくてこそとく見るべかりけれ】−薫の心中の思い。
【たてまつらせたまへり】−「せたまふ」最高敬語。明石中宮が女二宮に。
【芹川の大将の遠君の、女一の宮思ひかけたる秋の夕暮に】−『芹川物語』の主人公「遠君」(後に大将に昇進する若いころ)が女主人公の「女一宮」に恋慕する秋の夕暮場面。
【かばかり】−以下「あらましかば」まで、薫の心中の思い。
【荻の葉に露吹き結ぶ秋風も夕べぞわきて身にはしみける】−薫の独詠歌。
【さやうなるつゆばかりの】−以下「橋姫かな」まで、薫の心中の思い。故大君を追慕。『集成』は「以下、薫の心中に即した書き方」と注す。
【得たてまつらざらまし】−「まし」反実仮想の助動詞。女二宮と結婚しなかったろう、の意。
【聞こし召しながらは】−主語は帝。
【橋姫かな】−『完訳』は「大君。上に「なほ」とあり、やはり大君こそ憂愁の原点とする」と注す。
【また宮の上に】−以下「悔しき」まで、薫の心中に即した叙述。「宮の上」は中君をさす。
【これに思ひわびてさしつぎには】−中君に。『集成』は「以下、地の文」。『完訳』は「前の「思ひあまりては」に照応。憂愁が新たに女への執着を生み、それがまた新たな憂愁を生む趣」と注す。
【あさましくて亡せにし人の】−浮舟をさす。『集成』は「思いもよらぬ死に方をした人(浮舟)」。『完訳』は「嘆かわしい有様で死んでいった宇治の女君」と注す。
【いみじとものを思ひ入りけむほど】−「思ひ入り」の主語は浮舟。「けむ」過去推量は薫の推量。
【わがけしき例ならずと】−薫が浮舟の匂宮と通じていることを気づき、警戒し出した態度。
【聞きたまひしも思ひ出でられつつ】−薫が右近から聞いたこと。
【重りかなる方ならで】−以下「おこたりぞ」まで、薫の心中の思い。
【思ひもていけば】−薫の心中思惟。『完訳』は「ただわが--」に続く。あえて匂宮も浮舟も関わらぬ人としながら、己が人生に、現世に安住できぬ魂の彷徨の運命をみる。女一の宮への憂愁に満ちた追慕の情もここに重なるはず」と注す。
【宮をも】−匂宮。

 [第二段 侍従、明石中宮に出仕す]
【心のどかにさまよくおはする人だに】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。
【宮はまして】−匂宮は薫以上に。
【かの形見に】−浮舟をさす。
【対の御方ばかり】−中君、浮舟の異母姉。
【深くも見馴れたまはざりける】−主語は中君。中君と浮舟の交際は近年の二、三年前から。
【いと深くしもいかでかはあらむ】−語り手の感情移入による叙述。
【侍従をぞ】−浮舟づきの女房、侍従。
【皆人どもは】−宇治の女房たち。
【乳母とこの人二人】−乳母とこの女房二人、すなわち右近と侍従の計三人。
【取り分きて思したりしも】−主語は浮舟。特別に目をかけて下さった、の意。
【侍従はよそ人なれど】−侍従は右近と違って乳母子でなく、後に仕えた普通の女房。
【世づかぬ川の音もうれしき瀬もやあると頼みしほどこそ】−『弄花抄』は「祈りつつ頼みぞ渡る初瀬川うれしき瀬にも流れあふやと」(古今六帖三、川)を指摘。『源氏物語引歌』は「心みに猶おりたたむ涙川うれしき瀬にも流れあふやと」(後撰集恋二、六一二、藤原敏仲)を指摘。
【京になむ】−係助詞「なむ」は「このころゐたりける」に係る。
【尋ねたまひて】−主語は匂宮。
【かくてさぶらへ】−匂宮の詞。
【御心はさるものにて】−以下「聞きにくきこともあらむ」まで、侍従の心中の思い。
【さる筋のこと混じりぬるあたりは】−『完訳』は「浮舟が中の君の異母妹でありながら中の君の夫匂宮の情愛を受けたという、複雑な関係に遠慮」と注す。
【后の宮に参らむ】−侍従の意向。
【いとよかなり】−以下「思しつかはむ」まで、匂宮の詞。
【心細くよるべなきも慰むや】−侍従の心中の思い。
【きたなげなくてよろしき下臈なり】−明石中宮方の女房の侍従を見た評価。
【ものの姫君のみ参り集ひたる宮】−明石中宮のもとには高貴な大家の姫君ばかりが女房として出仕している。
【見たてまつりし人に似たるはなかりけり】−侍従の感想。上流の貴族の娘ばかりだが、浮舟ほど美しい女房はいなかった、の意。

 [第三段 匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う]
【式部卿宮】−蜻蛉式部卿宮、桐壺帝の皇子、源氏の弟。
【継母の北の方】−『完訳』は「式部卿宮の後妻。話題の「御むすめ」は先妻腹であろう」と注す。庶妻とも考えられよう。
【兄の馬頭】−継母の北の方の兄弟。右馬頭、従五位上相当官。
【心懸けたるを】−継母の北の方の兄弟の右馬頭が式部卿宮の御娘に懸想している。
【いとほしうなども思ひたらで】−主語は継母の北の方。
【さるべきさまになむ契る】−継母の北の方が縁づけた。
【聞こし召すたよりありて】−主語は明石中宮。
【いとほしう】−以下「もてなさむこと」まで、明石中宮の詞。明石中宮と式部卿宮の御娘は従姉妹の間柄。
【いと心細くのみ思ひ嘆きたまふありさま】−式部卿宮の御娘の様子。
【なつかしうかく尋ねのたまはするを】−式部卿宮の御娘の兄弟の侍従の詞。明石中宮の詞を聞いてこう言う。
【迎へ取らせたまひてけり】−『完訳』は「中宮方で女房として引き取る」と注す。
【姫宮の御具にて】−女一宮のお相手。
【限りあれば宮の君などうち言ひて裳ばかりひきかけたまふぞいとあはれなりける】−『集成』は「(とはいえ)決りがあることなので(女房として出仕したものだから)、宮の君など名付けて。召名(女房としての呼び名)が付く」「裳くらいは。唐衣は略している体。主人の前では女房は裳、唐衣着用の正装が決りである」と注す。語り手の同情が移入された叙述。
【兵部卿宮】−匂宮。
【この君ばかりや】−以下「兄弟ぞかし」まで、匂宮の心中の思い。「この君」は式部卿の娘、宮の君をさす。
【恋しき人】−浮舟をさす。
【父親王は兄弟ぞかし】−宮の方の父故蜻蛉式部卿宮と浮舟の父宇治八宮の兄弟である、の意。
【人ゆかしき御癖やまで】−『集成』は「女あさりの」。『完訳』は「女人にはまるで目がないというお癖がやまず」と注す。
【大将】−薫。
【もどかしきまでも】−以下「わざにこそ」まで、薫の心中の思い。
【けしきばませたまひきかし】−主語は蜻蛉式部卿宮。「東屋」巻に語られている。
【水の底に身を沈めても】−浮舟の入水をさす。
【人よりは心寄せきこえたまへり】−宮の方に対して。憐愍と同情から。
【この院におはしますをば】−明石中宮が軽服のため六条院に里下りしている。
【左大臣殿】−横山本や池田本は「右大殿」とある。『集成』は「右の大殿」と校訂。『完訳』は「左大臣殿」のまま、「「右大臣」とあるべきか。夕霧。六条院の現在の主である」と注す。
【営み仕うまつりたまふ】−明石中宮の里下りをはじめとして万事に世話する。
【この宮】−匂宮。
【例の御心ならば】−『完訳』は「普通なら匂宮は、その好色な本性から宮の君などを相手に、浮気沙汰を引き起していたはず」と注す。現在、浮舟を失って悲嘆中。
【し出でたまはまし】−「まし」反実仮想の助動詞。現在は悲嘆にくれて意気消沈。
【人目にすこし生ひ直りたまふかなと見ゆるを】−語り手の判断。
【このころぞまた】−浮舟失踪後三か月が経過。

 [第四段 侍従、薫と匂宮を覗く]
【涼しくなりぬとて】−季節は初秋七月に推移。
【宮内裏に参らせたまひなむと】−明石中宮、蜻蛉式部卿の軽服三か月の喪が明けて、内裏に帰参。
【秋の盛り紅葉のころを見ざらむこそ】−女房の詞。係助詞「こそ」の下に「口惜しけれ」などの語句が省略。
【この宮ぞ】−匂宮。
【かかる筋は】−管弦の遊び。
【朝夕目馴れても、なほ今見む初花のさましたまへるに】−匂宮の美しさ。『完訳』は「目のさめるような匂宮の美しさにいまさらながら感嘆させられる趣。女房の感想。次の薫のあり方と対比」と注す。
【例の二所参りたまひて】−匂宮と薫、いつものように明石中宮のもとに参上。
【かの侍従は】−かつては浮舟づきの女房、現在は明石中宮のもとで下臈の女房として出仕。
【いづ方にもいづ方にもよりて】−以下「心憂かりける御心かな」まで、侍従の感想。浮舟の悲運を思う。「いづ方にも」は薫と匂宮。
【めでたき御宿世--おはせましかし】−反実仮想の構文。浮舟が生きていたら。
【あさましくはかなく心憂かりける御心かな】−「御心」は浮舟の思慮。『集成』は「浮舟の入水を悔む、侍従のひそかな思い」。『完訳』は「自分だって下臈女房にならずにすんだろうに、との無念の気持」と注す。
【そのわたりのこと】−宇治での出来事。
【宮は】−匂宮。
【聞こえさせたまへば】−匂宮が明石中宮に。
【いま一所は】−薫をさす。
【見つけられたてまつらじ】−以下「と見えたてまつらじ」まで、侍従の心中の思い。
【御果てをも過ぐさず心浅し】−一周忌明けを待たず出仕したことをさす。

 [第五段 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う]
【物語などする所におはして】−主語は薫。
【なにがしをぞ】−以下「いとなむうれしき」まで、薫の詞。「なにがし」は薫自身をさす。
【さるべからむこと】−女房たちの知らないこと。
【弁の御許】−古参の女房。
【そも睦ましく】−以下「かたはらいたくてなむ」まで、弁御許の詞。
【面無くつくりそめてける身に】−『完訳』は「厚かましさが身についている私が応対の役を引き受けないのも、いたたまれぬ気がして」と注す。
【恥づべきゆゑ】−以下「口惜しけれ」まで、薫の詞。
【見れば唐衣は】−以下、薫の視点を通しての叙述。
【手習しけるなるべし】−薫の推測。
【かたへは】−『集成』は「(女房の)半ばは」と注す。
【女郎花乱るる野辺に混じるとも露のあだ名を我にかけめや】−薫の贈歌。「かけめや」反語表現。『河海抄』は「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだ名をや立ちなむ」(古今集秋上、二二九、小野美材)を指摘。
【心やすくは思さで】−歌に続けて書いた文言。
【うしろしたる人】−後向きにしている人。『完訳』は「中将のおもと」と注す。
【花といへば名こそあだなれ女郎花なべての露に乱れやはする】−中将の御許の返歌。『古今集』歌「女郎花多かる野辺に」歌を踏まえる。
【今参う上りける道に塞げられてとどこほりゐたるなるべし】−薫の推測。薫が中宮のもとに参上しようとした途中で戸口にいる薫に道を塞がれて留まっていた女房かと想像する。
【いとけざやかなる翁言憎くはべり】−弁御許の詞。『完訳』は「薫の歌を、女に囲まれても浮気心を持たぬ老人言葉と戯れた」と注す。
【旅寝してなほこころみよ女郎花盛りの色に移り移らず】−弁御許の贈歌。薫を挑発する歌。
【さて後定めきこえさせむ】−歌に続けた詞。
【宿貸さば一夜は寝なむおほかたの花に移らぬ心なりとも】−薫の弁御許の挑発に応えた歌。
【何か】−以下「聞こえさすれ」まで、弁御許の詞。ちょっと冗談を言っただけ、宿は貸しません、の意。
【はかなきことを--聞かまほしくのみ思ひきこえたり】−女性からみた薫の魅力のあることを印象づけた叙述。
【心なし】−以下「折にぞあめる」まで、薫の詞。
【分きてもかの御もの恥ぢのゆゑ】−誰か他に男性がいて物陰に隠れていりのだろうという。暗に匂宮の存在をいう。
【おしなべてかく】−以下「心憂けれ」まで、ある女房の思い。自分たちまでが弁御許のようにあけすけに物を言う女房だと薫から思われてしまうのはいやだ、の意。

 [第六段 薫、断腸の秋の思い]
【東の高欄に】−寝殿の東の簀子にある高欄。
【中に就いて腸断ゆるは秋の天】−「大抵四時は心惣べて苦なり中に就いて腸の断ゆるは是れ秋の天」(白氏文集、暮立)。『和漢朗詠集』秋にも所収の詩句。
【ありつる衣の音なひしるきけはひして】−薫に道を塞がれ和歌を詠み交わした中将君が中宮のもとに参上。
【あなたに入るなり】−「なり」伝聞推定の助動詞。薫が衣擦れの音で推測している叙述。
【これよりあなたに参りつるは誰そ】−匂宮の詞。
【かの御方の中将の君】−女房の答え。中宮づきの女房、中将君だと言う。
【聞こゆなり】−「なり」伝聞推定の助動詞。薫が女房の返事を耳にする。
【なほあやしのわざや】−以下「聞こゆる名ざしよ」まで、薫の感想。『完訳』は「浮気な男に問われるままに、安易に名を告げる女房の軽率さを非難」と注す。
【いとほしく】−中将君に対する同情。
【この宮には】−『集成』は「薫の心中に即した書き方」と注す。『完訳』は地の文扱い。
【おりたちてあながちなる御もてなしに】−以下「人の心は」まで、薫の心中。匂宮の浮舟に対する振る舞い。
【女はさもこそ】−女性一般。眼前の女房たちから浮舟まで含めた女性。
【この御ゆかり】−匂宮とその同母の女一宮をさす。
【例の心入れて騷ぎたまはむを語らひ取りて】−匂宮が熱中している女を横取りして、の意。
【わが思ひしやうに】−自分がかつて味わったような苦い思いを匂宮にさせてやりたい。
【まことに心ばせあらむ人はわが方にぞ寄るべきや】−薫の自負。終助詞「や」詠嘆の気持ち。
【対の御方の】−以下、薫の心中に即した叙述。
【かの御ありさまをば】−匂宮の好色な振る舞い。
【いと便なき睦びになりゆくが】−自分薫との仲が不都合になって行く。
【さし放ちがたきものに思し知りたるぞ】−主語は中君。
【さやうなる心ばせある人】−以下「すこしは好きもならはばや」まで、薫の心中の思い。
【ここらの中に】−ここ明石中宮方に仕えている大勢の女房の中に。
【入りたちて深く見ねば知らぬぞかし】−主語は薫。この中宮かたの様子を。
【今はなほつきなし】−語り手の批評を含んだ叙述。

 [第七段 薫と中将の御許、遊仙窟の問答]
【例の、西の渡殿を】−かつて女一宮を垣間見た場所。
【あやし】−『評釈』は「そのような薫の行動を、「あやし」と評したのである」と注す。
【姫宮夜はあなたに渡らせたまひければ】−女一宮は夜は中宮方でお寝みになる。
【人びと月見るとて】−女一宮づきの女房たち。
【寄りおはして】−主語は薫。
【などかくねたまし顔にかき鳴らしたまふ】−薫の詞。『源氏釈』は「故故将繊手 時時小絃 耳聞猶気絶 眼見若為怜」(遊仙窟)を指摘。女房の弾く箏琴のさまを遊仙窟の十娘が琴を弾くさまに比して言う。
【似るべき兄やは、はべるべき】−中将御許の詞。『遊仙窟』の「気調如兄 崔季珪之小妹」を踏まえた表現。
【まろこそ、御母方の叔父なれ】−薫の詞。『遊仙窟』の「容貌似舅 潘安仁之外甥」を踏まえた表現。暗に自分は女一宮の叔父だ、話題を女一宮に転移。
【例のあなたに】−以下「せさせたまふ」まで、薫の詞。女一宮が中宮方にいらっしゃる。
【御里住みの】−六条院での生活。
【あぢきなく問ひたまふ】−『集成』は「聞かでものことをお聞きになる」。『完訳』は「気もなさそうにお尋ねになる」と訳す。
【いづくにても】−以下「過ぐさせたまふめれ」まで、中将御許の詞。
【をかしの御身のほどや】−以下「思ひ寄る人もこそ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「優雅にお暮しのお身の上だな」。『完訳』は「なんと結構な御身の上よ」「自分に憂愁を抱かせる当人はもっぱら優雅な日々を暮しているとして、自らの苦悶が際だつ気持」と注す。
【あやしと思ひ寄る人もこそ】−女一宮に寄せる思慕の情を女房たちに気どられてはならない。
【なかなかなり】−女房たちの思い。かえって気がもめる、最後まで聞きたい。
【わが母宮も】−以下「心にくかりける所かな」まで、薫の心中の思い。薫の母女三宮も中宮腹の女一宮に劣らない。
【隔てこそあれ】−薫の母女三宮は女御腹。「こそあれ」の係結びは、逆接用法。
【帝々の思しかしづき】−女三宮の父帝朱雀と女一宮の父今上帝の寵愛。
【明石の浦は心にくかりける所かな】−明石一族の数奇な幸運を思う。
【わが宿世は】−以下「持ちたてまつらば」まで、薫の心中の思い。今上帝の皇女女二宮を正室に迎えている。その上に女一宮までも頂戴したら、と夢想する。
【と思ふぞいと難きや】−『全集』は「夢想としても、あまりしたたかな現世繁栄の欲望であろう。語り手が「いと難きや」と評するゆえんである」と注す。

 [第八段 薫、宮の君を訪ねる]
【宮の君は】−蜻蛉式部卿宮の女王。女一宮のもとに出仕。
【御方したりける】−お部屋をもっていた、の意。
【いであはれこれもまた同じ人ぞかし】−薫の心中の思い。宮の御方も皇族の女王で、父親王にかわいがられていた方だ、の意。
【親王の昔心寄せたまひしものを】−薫の心中の思い。生前に式部卿宮が薫に好意を寄せていた、薫を婿にと申し込まれたことを思う。
【見つけて入るさまども】−童女たちが薫を見て室内に隠れ入る様子。
【これぞ世の常と思ふ】−薫の思い。童女の振舞いを常識的な振舞いだと思う。男性から姿を見られまいとする態度。
【南面の隅の間に寄りて】−西の対の南廂の隅の間。
【人知れぬ心寄せなど】−以下「求められはべる」まで、薫の詞。
【言より外を】−『異本紫明抄』は「思ふてふことよりほかにまたもがな君一人をばわきて忍ばむ」(古今六帖五、わきて思ふ)を指摘。
【求められはべる】−「られ」自発の助動詞。
【君にも言ひ伝へず】−宮の君をさす。「君」は主人の、のニュアンスを含む。
【いと思ほしかけざりし】−以下「よろこびきこえたまふめる」まで、女房の詞。思いもかけなかった宮仕え。
【思ひたまへ出でられてなむ】−この女房は式部卿宮家に仕えていた女房と分かる。「たまへ」謙譲の補助動詞、「られ」自発の助動詞。
【折々聞こえさせたまふなり】−薫が宮の御方に対して。「なる」伝聞推定の助動詞。陰ながらのお言葉。
【よろこびきこえたまふめる】−主語は宮の御方。

 [第九段 薫、宇治の三姉妹の運命を思う]
【なみなみの人めきて心地なのさまや】−薫の感想。『集成』は「(取次の女房の挨拶だけでは)世間並みの扱いのようで、失礼ではないか、とおもしろくないので」と注す。
【もとより思し捨つまじき筋よりも】−以下「えこそ」まで、薫の詞。
【えこそ】−下に「尋ねきこえざれ」などの語句が省略。『集成』は「とても(お話しできません)」。『完訳』は「とてもお伺いしかねます」と訳す。
【松も昔のとのみ】−以下「頼もしうこそは」まで、宮の御方の詞。『源氏釈』は「誰れをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(古今集雑上、九〇九、藤原興風)を指摘。
【ただなべてのかかる住処の人と思はば】−以下「ならひたまひけむ」まで、薫の心中の思い。ただ普通の局住まいする宮仕えの女房と思えば、しかし宮の御方は皇族の血をひく方である。
【ただ今はいかでかばかりも人に声聞かすべきものと】−宮の御方が男性の薫に直接に声を聞かせること。『集成』は「身分にふさわしくない軽率さを批判する」。『完訳』は「親王の姫君ともあろうお方が。男に直接応答するような身分に下落した無残さを思う」と注す。
【人に声聞かすべき】−『集成』は「男に直接応答してもよいというふうに」。『完訳』は「人に声を聞かれなければならぬようなことに」と注す。
【容貌もいとなまめかしからむかし】−薫の心中の思い。
【この人ぞ】−以下「ありがたの世や」まで、薫の心中の思い。
【かの御心】−匂宮の好色心。
【をかしうもありがたの世や】−薫の感想。しっかりした女性というものは、めったにいないものだ。
【これこそは】−宮の御方をさす。以下「をかしかりしか」まで、薫の心中の思い。
【さる聖の御あたりに】−宇治八宮のもとに。
【山のふところ】−宇治をさす。
【このはかなしや軽々しやなど思ひなす人も】−浮舟をさす。
【かの一つゆかりをぞ】−宇治八宮の一族。
【あやしうつらかりける契りどもを】−大君とは死別、中君は生別離の他人の妻、浮舟は行方不明、入水の噂。
【蜻蛉のものはかなげに飛びちがふを】−蜉蝣目の昆虫。はかないものの象徴。
【ありと見て手にはとられず見ればまた行方も知らず消えし蜻蛉】−薫の独詠歌。『花鳥余情』は「あはれとも憂しとも言はじかげろふのあるかなきかに消ぬる世なれば」(後撰集雑二、一一九一、読人しらず)「ありと見て頼むぞ難きかげろふのいつともしらぬ身とは知る知る」(古今六帖六、かげろふ)を指摘。
【あるかなきかのと】−歌に続けた独り言。『源氏釈』は「たとへてもはかなきものは世の中のあるかなきかの身にこそありけれ」(出典未詳)を指摘。『対校』は「あはれとも憂しとも言はじかげろふのあるかなきかに消ぬる世なれば」(後撰集雑二、一一九一、読人しらず)。『新釈』は「世の中といひつるものはかげろふのあるかなきかのほどにぞありける」(後撰集雑四、一二六四、読人しらず)を指摘。
【例の独りごちたまふとかや】−『一葉抄』は「記者のわかかゝぬよしの詞也」と指摘。『全集』は「伝聞形式で余韻をこめる」。『集成』は「伝聞の形で語り手の存在を示す草子地」と注す。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入