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渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)

  

総角

 [底本]
財団法人古代学協会・古代学研究所編 角田文衛・室伏信助監修『大島本 源氏物語』第九巻 一九九六年 角川書店

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第三巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第十三巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第四巻 一九九六年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第八巻 一九八七年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第七巻 一九八三年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第五巻 一九七五年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第十巻 一九六七年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第四巻 一九六二年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第六巻 一九五四年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ

  1. 秋、八の宮の一周忌の準備---あまた年耳馴れたまひにし川風も、この秋は
  2. 薫、大君に恋心を訴える---御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど
  3. 薫、弁を呼び出して語る---けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと
  4. 薫、弁を呼び出して語る(続き)---「もとより、かく人に違ひたまへる御癖どもに
  5. 薫、大君の寝所に迫る---今宵は泊りたまひて、物語などのどやかに
  6. 薫、大君をかき口説く---かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は
  7. 実事なく朝を迎える---はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて
  8. 大君、妹の中の君を薫にと思う---姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる
  1. 一周忌終り、薫、宇治を訪問---御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても
  2. 大君、妹の中の君に薫を勧める---姫君、そのけしきをば深く見知りたまはねど
  3. 薫は帰らず、大君、苦悩す---暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮、いとむつかしと思す
  4. 大君、弁と相談する---姫宮、思しわづらひて、弁が参れるにのたまふ
  5. 大君、中の君を残して逃れる---中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと
  6. 薫、相手を中の君と知る---中納言は、独り臥したまへるを、心しけるにやと
  7. 翌朝、それぞれの思い---弁参りて、「いとあやしく、中の宮は、いづくにか
  8. 薫と大君、和歌を詠み交す---姫宮も、「いかにしつることぞ、もしおろかなる心
第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚
  1. 薫、匂宮を訪問---三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば
  2. 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う---二十八日、彼岸の果てにて、吉き日なりければ
  3. 薫、中の君を匂宮にと企む---「さなむ」と聞こゆれば、「さればよ、思ひ移りにけり
  4. 薫、大君の寝所に迫る---「今は言ふかひなし。ことわりは、返すがへす
  5. 薫、再び実事なく夜を明かす---例の、明け行くけはひに、鐘の声など聞こゆ
  6. 匂宮、中の君へ後朝の文を書く---宮は、いつしかと御文たてまつりたまふ
  7. 匂宮と中の君、結婚第二夜---その夜も、かのしるべ誘ひたまへど、「冷泉院に
  8. 匂宮と中の君、結婚第三夜---「三日にあたる夜、餅なむ参る」と人びとの聞こゆれば
第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る
  1. 明石中宮、匂宮の外出を諌める---宮は、その夜、内裏に参りたまひて
  2. 薫、明石中宮に対面---中宮の御方に参りたまひつれば、「宮は出でたまひぬなり
  3. 女房たちと大君の思い---かしこには、中納言殿のことことしげに
  4. 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る---宮は、ありがたかりつる御暇のほどを
  5. 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる---人びといたく声づくり催しきこゆれば、
  6. 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く---九月十日のほどなれば、野山のけしきも
  7. 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える---宮を、所につけては、いとことにかしづき入れ
  8. 匂宮、中の君を重んじる---わりなくておはしまして、ほどなく帰りたまふが
第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り
  1. 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り---十月朔日ころ、網代もをかしきほどならむと
  2. 一行、和歌を唱和する---今日は、かくてと思すに、また、宮の大夫
  3. 大君と中の君の思い---かしこには、過ぎたまひぬるけはひを、遠くなるまで
  4. 大君の思い---「我も世にながらへば、かうやうなること見つべき
  5. 匂宮の禁足、薫の後悔---宮は、立ち返り、例のやうに忍びてと出で立ちたまひけるを
  6. 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う---時雨いたくしてのどやかなる日
第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護
  1. 薫、大君の病気を知る---待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して
  2. 大君、匂宮と六の君の婚約を知る---またの朝に、「すこしもよろしく思さるや
  3. 中の君、昼寝の夢から覚める---夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて
  4. 十月の晦、匂宮から手紙が届く---いと暗くなるほどに、宮より御使あり
  5. 薫、大君を見舞う---中納言も、「見しほどよりは軽びたる御心かな
  6. 薫、大君を看護する---暮れぬれば、「例の、あなたに」と聞こえて
  7. 阿闍梨、八の宮の夢を語る---不断経の、暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに
  8. 豊明の夜、薫と大君、京を思う---宮の夢に見えたまひけむさま思しあはするに
  9. 薫、大君に寄り添う---ただ、かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり
第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆
  1. 大君、もの隠れゆくように死す---「つひにうち捨てたまひなば、世にしばしも
  2. 大君の火葬と薫の忌籠もり---中納言の君は、さりとも、いとかかることあらじ
  3. 七日毎の法事と薫の悲嘆---はかなくて日ごろは過ぎゆく。七日七日の事ども
  4. 雪の降る日、薫、大君を思う---雪のかきくらし降る日、終日にながめ暮らして
  5. 匂宮、雪の中、宇治へ弔問---「わが心から、あぢきなきことを思はせ
  6. 匂宮と中の君、和歌を詠み交す---夜のけしき、いとど険しき風の音に、人やりならず
  7. 歳暮に薫、宇治から帰京---年暮れ方には、かからぬ所だに、空のけしき

 

第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ

 [第一段 秋、八の宮の一周忌の準備]
【川風もこの秋は】−『完訳』は「風が秋の当来を告げる。その秋は悲哀の季節。故八の宮の一周忌近い今年の秋はとりわけ悲しい」と注す。薫二十四歳秋。宇治八宮薨去の翌秋。
【御果ての事】−八宮の一周忌の法要。昨年の秋八月二十日ごろに薨去した。
【人の聞こゆるに従ひて】−女房たちが申し上げるのに従って。
【かかるよその御後見なからましかば】−語り手の目を通しての感想。「ましかば」反実仮想。薫や阿闍梨の世話がなかったらできなかったろう、の意。
【みづからも参うでたまひて】−薫自身。
【阿闍梨もここに参れり】−山の阿闍梨が姫君たちの邸に来ていた。
【かくても経ぬる】−『源氏釈』は「身を憂しと思ふに消えぬ物なればかくてもへぬる世にこそありけれ」(古今集恋五、八〇六、読人しらず)を指摘。
【そのことと心得て】−姫君たちは名香の糸を作っているのだ、と分かって。
【わが涙をば玉にぬかなむ】−『源氏釈』は「より合わせてなくなる声を糸にしてわがなみだ涙をば玉にぬかなむ」(伊勢集)を指摘。
【伊勢の御もかくこそありけめと】−伊勢の御は宇多天皇の中宮温子に仕えた女房。『大和物語』にそのエピソードが語られている。
【内の人は】−御簾の内側の姫君たち。
【ものとはなしにとか】−『源氏釈』は「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(古今集羈旅、四一五、紀貫之)を指摘。
【心細き筋にひきかけけむ】−「筋」「ひきかけ」は「糸」の縁語。

 [第二段 薫、大君に恋心を訴える]
【御願文作り】−主語は薫。願文は漢文で書く。
【客人】−薫。
【あげまきに長き契りを結びこめ同じ所に縒りも会はなむ】−薫から大君への贈歌。「総角」は催馬楽の曲名。その詩句を踏まえる。
【例のとうるさけれど】−『完訳』は「椎本でも薫は匂宮と中君の媒にかこつけ大君に胸中を訴えた。「例の」と繰り返される」と注す。
【ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばむ】−大君の返歌。「契り」「結び」の語句を用いて返す。「もろき涙の玉の緒」に余命短いことをいう。
【あはずは何を】−『源氏釈』は「片糸をこなたかなたによりかけてあはずは何を玉の緒にせむ」(古今集恋一、四八三、読人しらず)を指摘。
【みづからの御上は】−大君ご自身の身の上については。
【宮の御ことをぞ】−匂宮が中君にのご執心であることを。
【さしも御心に】−以下「承りにしがな」まで、薫の詞。
【まことにうしろめたくはあるまじげなるを】−『完訳』は「匂宮は安心できる人。以下、表面的に匂宮を言いながら、内実、自分を拒む大君への不満を哀訴」と注す。
【世のありさまなど】−男女の仲。
【違へじの心にてこそは】−以下「いかなるべき世にかあらむ」まで、大君の詞。
【げにかかる住まひなどに心あらむ人は】−『集成』は「仰せのように、こんな山里の住まいなどをしていますと、物の分る方なら物思いの限りを尽すことでしょうが。「世のありさまなど、おぼしわくまじくは見たてまつらぬを」という薫の言葉を受ける」と注す。
【こののたまふめる筋は】−大君自身の結婚に関する話。
【いにしへも】−故人父宮も、の意。
【さらにかけてとあらばかからばなど】−「さらにかけて」で、一向に何一つ、の意。「とあらばかからば」で、もしこならば、またああであったならば、の意。
【かかるさまにて】−いままで通りの状態で。
【世づきたる方を】−結婚生活。
【思しおきてけるとなむ】−主語は父宮。
【深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を】−『完訳』は「前言から転じて、前途が長く山篭りをさせる気の毒な中の君の縁談に腐心」と注す。『異本紫明抄』は「かたちこそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ」(古今集雑上、八七五、兼芸法師)を指摘。
【いかなるべき世にかあらむ】−『集成』は「どのような縁に決りますことやら」。『完訳』は「これから先どうなるのでございましょう」と訳す。

 [第三段 薫、弁を呼び出して語る]
【けざやかにおとなびてもいかでかは賢しがりたまはむ】−薫の心中の思い。大君がどんなにてきぱきと大人ぶって妹の縁談を進めようとしても、どうしてそれができようか。反語表現。
【古人召し出でてぞ語らひたまふ】−『完訳』は「大君相手では埒があかず、弁に打ち明けて加勢を頼む」と注す。
【年ごろはただ】−以下「例なくやはある」まで、薫の詞。
【もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ】−八宮の晩年の様子についていう。
【この御事どもを心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを】−『集成』は「この際自分の側に引きつけた言い方」。『完訳』は「八の宮の晩年に、姫君二人の将来を依託されたこと(橋姫・椎本)。「心にまかせてもてな」すようにとは、薫の勝手な解釈による」と注す。
【いかに思しおきつる方の異なるにやと】−『完訳』は「八の宮には、私(薫)以外に意中の人物があったのか、の意」と注す。
【いとあやしき本性にて】−薫自身についていう。今まで女人に心引かれることはなかったことをいう。
【昔の御ことも違へきこえず】−故八宮の遺言に違わず、の意。
【我も人も】−「人」は大君をさす。
【さやうなる例なく】−『完訳』は「落葉の宮と柏木などもその例」と注す。
【宮の御ことをも】−以下「なほいかにいかに」まで、薫の詞。「宮」は匂宮。匂宮と中君の縁談。
【思ほし向けたることのさまあらむ】−『集成』は「内々にやはり別のお考えの相手がいるに違いない」。『完訳』は「内々に別のお心づもりでもおありなのでしょうか」と訳す。
【例の悪ろびたる女ばらなどは】−『首書或抄』は「草子地より弁かことをいはんとて世間の女房とものことをいふ也」と指摘。
【言よがりなどもすめるを】−推量の助動詞「めり」は語り手の推量。

 [第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)]
【もとよりかく】−以下「御ことならじとはべるめる」まで、弁の詞。
【人に違ひたまへる御癖どもに】−姫君たちの性質をさしていう。
【思ひよりたまへる御けしきに】−結婚について。
【頼もしげある木の本の隠ろへも】−『河海抄』は「侘び人のわきて立ち寄る木のもとは頼む蔭なく紅葉散りけり」(古今集秋下、二九二、僧正遍昭)を指摘。
【昔の古き筋なる人も】−『集成』は「昔からの古いご縁故の人々も。宮家に代々奉公してきたゆかりの者たち」と注す。
【まして今は】−八宮亡き現在。
【おはしましし世にこそ】−以下「行ひなすなれ」まで、よからぬ女房の意見。係助詞「こそ」は「とどこほりつれ」に係る。係結び、逆接用法。
【限りありて】−宮家としての格式があって。
【かたほならむ御ありさまは】−不釣合なご縁組は、の意。
【いかにもいかにも世になびきたまへらむを】−『完訳』は「このままでは暮しがたい意」と注す。
【こそはあらめ】−係結び、逆接用法。
【松の葉をすきて勤むる山伏だに生ける身の捨てがたさによりてこそ】−「すく」は飲み込むこと。松の葉を食べて修行をする山伏でさえ生身の体は捨てがたいので、の意。
【よからぬことを聞こえ知らせ】−『完訳』は「宮家の品格を損うような意見」と注す。
【たわむべくもものしたまはず】−主語は大君。
【中の宮をなむ】−係助詞「なむ」は「たまふべかめる」に係る。
【山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの】−薫の宇治訪問についていう。格助詞「の」は同格の意。
【年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも】−薫が大君を。
【疎からず思ひきこえさせたまひ】−主語は大君。
【かの御方をさやうにおもむけて聞こえたまはば】−『完訳』は「中の君を薫と結婚させたいと、大君は望んでいるとする。大君自身、自らは独身と決め、中の君を「深山隠れ」の「朽木」にはしたくないと、薫にも語った」と注す。
【となむ思すべかめる】−弁が大君の考えを推測したもの。
【宮の御文などはべるめるは】−匂宮からの手紙。
【あはれなる御一言を】−以下「まかせてやは見たまはぬ」まで、薫の詞。八宮の遺言をさす。
【いづ方にも見えたてまつらむ同じことなるべきを】−大君と中君のどちらと結婚しても同じ。
【さまではた思しよるなる】−大君が私薫を中君の結婚相手にと考えているということ。「なる」伝聞推定の助動詞。
【心の引く方なむ】−大君をさす。係助詞「なむ」は結びの流れ。
【なほとまりぬべきものなりければ】−大君に執着を覚える意。
【改めてさはえ思ひなほすまじくなむ】−改めて中君に思い直すことはできない、の意。
【もてなしたまはむなむ】−仮定の気持ち。係助詞「なむ」は「疎かるまじく頼みきこゆる」に係る。
【いとさうざうしくなむ】−係助詞「なむ」は「疎かるまじく頼みきこゆる」に係る。
【疎かるまじく頼みきこゆる】−大君に親しくしていただきたいと期待申し上げている、意。
【后の宮は】−明石中宮。表向き薫の異母姉。
【三条の宮は親と思ひきこゆべきにもあらぬ】−薫の母女三の宮。前年に三条宮邸は焼失して現在は六条院に住んでいるが、本来の呼称でよぶ。
【限りあれば】−『集成』は「親子の分がありますので」。『完訳』は「皇女で、出家の身という制約」と注す。
【その他の女はすべていと疎くつつましく恐ろしく】−姉や母以外の女性はすべて馴染めず気後れして恐ろしい、という薫の女性観。
【懸想だちたることはいとまばゆくありつかずはしたなきこちごちしさにて】−薫は、仮初の色恋めいたことでも気恥ずかしく性に合わず体裁の悪い不器用さだ、という。
【心にしめたる方のことは】−大君のことをさす。
【見えたてまつらぬこそ】−『集成』は「〔大君に〕見て頂けないのは」と訳す。
【宮の御ことをも】−匂宮と中君の縁談。
【まかせてやは見たまはぬ】−私薫に任せてくださいませんか、の意。
【かばかり心細きに】−八宮死後の心細さ。
【あらまほしげなる御ありさまを】−大君には理想的な薫の有様、と弁は思う。
【さもあらせたてまつらばやと】−大君と薫を結婚させたい。

 [第五段 薫、大君の寝所に迫る]
【物語などのどやかに聞こえまほしくて】−大君とゆっくり話などをしたくて。
【やすらひ暮らしたまひつ】−『集成』は「ぐずぐずしながら夕方まで過された」と訳す。
【わづらはしくてうちとけて聞こえたまはむことも】−主語は大君。
【おほかたにては】−『集成』は「この好色の筋をのけたら、ほかはすべて世にも稀な実のあるお人柄なので」と注す。
【仏のおはする中の戸を開けて】−仏間と廂間の隔ての中の戸。仏間は母屋の西面にある。大君は仏間にいる。
【簾に屏風を添へて】−母屋と廂の境の簾。光に照らし出されるのを避けるために屏風を置いた。
【外にも大殿油参らすれど】−母屋から見た外、薫の居る西の廂。
【悩ましうて無礼なるをあらはに】−薫の詞。「無礼」は男性詞。
【ゆゑゆゑしき肴など】−『集成』は「上品なつまみ物などを添えて」と訳す。
【この御前は人げ遠くもてなして】−薫と大君の周辺。『完訳』は「供人たちが気を利かす」と注す。
【思ひ焦らるるもはかなし】−『評釈』は「ふとくずれては他愛もない人の心、と、自嘲めくことばである」。『全集』は「薫の自嘲とも語り手の評言ともとれる」。『完訳』は「現世離脱を身上としてきた薫の変化を、語り手が評して結ぶ体」と注す。
【かくほどもなきものの隔てばかりを】−以下「おこがましくもあるかな」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「もどかしく思っては、あせるだけの優柔さが、あまりに愚かしい。俗情に苦しむ薫の自嘲である」と注す。
【内には】−御簾の内側。
【さしももて離れたまはざらなむと思ふべかめれば】−女房たちの思いを、語り手が推測。
【さし退つつ、みな寄り臥して】−接続助詞「つつ」同じ動作の反復。女房たちが大君の側を下がり下がりして、の意。
【心地のかき乱り】−以下「また聞こえむ」まで、大君の詞。
【山路分けはべりつる人は】−以下「いと心細からむ」まで、薫の詞。「山路分け」は歌語的表現。
【半らばかり入りたまへるに】−主語は大君。「に」接続助詞、弱い順接の意。--したところ、の意。
【隔てなきとは】−以下「めづらかなるわざなる」まで、大君の詞。薫の「隔てなく聞こえて」の言葉を受けての言葉。
【いよいよをかしければ】−「をかし」は美しさに心引かれる、魅力があるの意。
【隔てぬ心を】−以下「過ぐしはべるぞや」まで、薫の詞。大君の「隔てなきとは」の言葉を受けての言葉。
【めづらかなりとも】−大君の「めづらかなるわざかな」を受けての言葉。
【人はかくしも推し量り】−『完訳』は「人々は、自分たちに情交がなかったとは思うまいが」と注す。
【世に違へる痴者にて】−『完訳』は「自分は世人と異なり、ばか正直に大君の気持を尊重するとする」と注す。
【御髪のこぼれかかりたるをかきやりつつ見たまへば】−薫、大君と直に対面している。

 [第六段 薫、大君をかき口説く]
【かく心細くあさましき御住み処に】−以下「わざならまし」まで、薫の心中の思い。『集成』は「以下、美しい大君を見ての薫の心騷ぎ」と注す。
【あらましかば】−「止みなまし」と「わざならまし」に係る。反実仮想の構文。
【来し方の心のやすらひさへ】−副助詞「さへ」によって、将来の不安はもちろんのこと、過去の優柔不断な態度までが不安となる、という意。
【言ふかひなく憂しと思ひて】−主語は大君。
【かくはあらで】−以下「折もありなむ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「大君がこんなにいやがられるのではなくて」。『完訳』は「薫の無理じいしようとする気持が、気長に待とうとする気持に移る」と注す。
【かかる御心のほどを】−以下「慰む方なく」まで、大君の詞。
【ゆゆしき袖の色など見あらはしたまふ心浅さに】−『集成』は「薫の無体な振舞に、自分の不用意さをも悔やむ」。『完訳』は「顔を見られたことの屈辱は、口に出して言うことさえできない」と注す。
【いとかくしも】−以下「心になむ」まで、薫の詞。
【思さるるやうこそ】−嫌う気持ち。
【袖の色をひきかけさせたまふはしも】−『源氏釈』は「奥山の晴れぬ時雨ぞわび人の袖の色をばいとどましける」(出典未詳)を指摘。
【さばかりの忌おくべく今始めたることめきてやは思さるべき】−『集成』は「それくらいのことを憚らねばならないような、この頃始まったことと同じにお考えになっていいものでしょうか。喪中を口実にするのは、昨日今日の恋ならともかく、自分の場合は長年のことだからと、次に、二年前の垣間見のことから話し出す」と注す。
【かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて】−薫が二年前に月明りに中に姉妹の合奏しているさまを垣間見したことから話し出して。
【恥づかしくもありけるかな】−大君の心中の思い。我が身の不注意を恥じる気持ち。
【かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな】−大君の心中の思い。薫の下心を疎ましく思う。
【短き几帳】−丈の低い三尺の几帳。
【仏の御方にさし隔てて】−仏に憚る気持ち。
【かりそめに添ひ臥したまへり】−『完訳』は「実事のない添い寝」と注す。
【人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて】−一般の人よりは道心深い薫の人柄についていう。
【わづらはしく】−『集成』は「気がとがめて」。『完訳』は「うしろめたい気持になられるので」と訳す。
【墨染の今さらに】−以下「たわみたまひなむ」まで、薫の心中に反省する思い。
【思ひそめしに違ふべければ】−『集成』は「自分の本意にも反することだろうから」。「完訳」は「仏道に志した当初の気持」と注す。
【かかる忌なからむほどに】−八宮の一周忌が明けたころに。
【かからぬ所だに】−『集成』は「こうした喪の家でなくても」。『完訳』は「こうした山里でなくてさえ」と訳す。
【峰の嵐も籬の虫も】−「峰の嵐」「籬」は歌語。
【時々さしいらへたまへるさま】−大君についていう。
【いぎたなかりつる人びとは】−眠たがっていた女房たちをさす。
【かうなりけりとけしきとりて】−『集成』は「さてはそうだったのかと、様子を察して」。『完訳』は「大君と薫が契りを交したと思う。そう思われても無理からぬ事態」と注す。
【宮ののたまひしさまなど思し出づるに】−主語は大君。
【げにながらへば】−以下「わざにこそは」まで、大君の心中の思い。『集成』は「女房たちも自分に従わないのを見ての嘆き」と注す。
【水の音に流れ添ふ心地したまふ】−『奥入』は「辺風は吹き断つ秋の心緒、隴水は流れ添ふ夜の涙行」(和漢朗詠集、王昭君、大江朝綱)を指摘。

 [第七段 実事なく朝を迎える]
【馬どものいばゆる音も旅の宿りの】−『奥入』は「晨の鶏再び鳴いて残月没りぬ、征馬連に嘶えて行人出づ」(白氏文集巻十二、生別離)を指摘。
【人の語るを】−薫の供人。
【光見えつる方の障子を】−朝の曙光。『集成』は「母屋から廂の間に出た趣」と注す。
【もろともに見たまふ】−『完訳』は「男女がともに夜明けの戸外を眺めるのは、後朝の典型的な一場面」と注す。
【女もすこしゐざり出でたまへるに】−『集成』は「見た目には、恋をする男女の体なのでこう言う」と注す。
【何とはなくて】−以下「過ぐさまほしき」まで、薫の詞。『完訳』は「夫婦というわけでなくとも」と注す。
【かういとはしたなからで】−以下「あるまじくなむ」まで、大君の詞。「かう」は直に対面する体裁悪さをいう。
【むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ】−『河海抄』は「むら鳥の立ちにし我が名今さらにことなしぶともしるしあらめや」(古今集恋三、六七四、読人しらず)を指摘。
【今はいと見苦しきを】−大君の詞。『集成』は「帰りを急がす言葉。周囲に憚る気持」と注す。
【ことあり顔に】−以下「こそかひなけれ」まで、薫の詞。完訳「わけあり顔に。朝露を分けて女のもとから帰るのは、後朝の男の典型的な姿。大君のつれなさを恨む気持もこもる」と注す。
【人はいかが推し量りきこゆべき】−『集成』は「かえって二人の仲は疑われよう、の意」。『完訳』は「どうせ人は、結婚した仲と思うから、早く退出してはかえって不都合でもあったかと疑うだろう」と注す。
【例のやうになだらかにもてなさせたまひて】−『集成』は「いつものように何気なくお振舞いになって」。『完訳』は「普通の夫婦のように穏やかにおふるまいになって」と訳す。
【世に違ひたることにて】−『完訳』は「実事のない親交をさす」と注す。
【今より後は】−以下「従ひたまへかし」まで、大君の詞。
【今朝はまた聞こゆるに】−係助詞「は」、他とは区別する意。私の申し上げることを聞いて下さい、の意。
【いとすべなしと思したれば】−主語は大君。
【あな苦しや】−以下「惑ひぬべきを」まで、薫の詞。
【暁の別れやまだ知らぬことにてげに惑ひぬべきを】−『花鳥余情』は「まだ知らぬ暁起きの別れには道さへまどふものにぞありける」(出典未詳)を指摘。
【山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな】−薫から大君への贈歌。「とりあつめたる」に「鳥」を響かす。
【鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを世の憂きことは訪ね来にけり】−大君の返歌。「鳥」「山」の語句を受けて返す。『異本紫明抄』は「飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)『集成』は「いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ」(古今集雑下、九五二、読人しらず)を指摘。
【昨夜入りし戸口より出でて】−西廂と母屋の境の戸口。
【名残恋しくて】−『花鳥余情』は「夜もすがらなづさはりぬる妹が袖なごり恋しく思ほゆるかな」(古今六帖五、あした)を指摘。
【いとかく思はましかば月ごろも今まで心のどかならましや】−薫の心中の思い。反実仮想の構文。『完訳』は「悠長に構えた過往を悔む気持」と注す。

 [第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う]
【姫宮は、人の思ふらむことの】−『完訳』は「この巻では、以下、大君をも姫宮と呼ぶ」と注す。「人」は女房をさす。
【頼もしき人なくて世を過ぐす身の】−以下「ありぬべき世なめり」まで、大君の心中の思い。『新大系』は「以下、大君の心中に即した叙述」と注す。
【思しめぐらすには】−連語「には」、その一方では、というニュアンス。
【この人の御けはひありさまの】−以下「わが世はかくて過ぐし果ててむ」まで、大君の心中の思い。「この人」は薫。
【みづからはなほかくて過ぐしてむ】−独身で過すことを決意。
【人なみなみに見なしたらむこそ】−人並みに結婚させることをいう。
【人の上になしては】−『集成』は「妹の身の上のこととしてなら(中の君と薫を結婚させたら)、心の及ぶ限り大切に世話をしよう。姉として、気のつく限りの婿扱いをしよう、の意」と注す。
【また誰れかは見扱はむ】−反語表現。誰も後見する人がいない。
【恥づかしげに見えにくきけしきも】−『集成』は「あまりに立派で近づきがたい薫の様子なのも。「見えにくし」は、親しく夫婦の語らいもしにくい気持」と注す。
【わが世はかくて過ぐし果ててむ】−前にも「みづからはなほかく過ぐしてむ」とあった。それより「果ててむ」と強い決意の表れ。『集成』は「何度も決意を固める体」。『河海抄』は「いざここに我が世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し」(古今集雑下、九八一、読人しらず)を指摘。
【この宮は】−中君。
【御衣ひき着せたてまつりたまふに】−中君が大君に御夜着を掛けてさし上げる、意。
【御移り香の紛るべくもあらず】−薫の移り香。大君の衣装に染み込む。
【まことなるべし】−中君の心中の思い。女房たちが大君と薫の仲についてひそひそ話していたことは真実なのだろう、と思う。
【すくすくしく聞こえおきて】−『集成』は「しかつめらしく口上を申し上げておいて」。『完訳』は「姫宮への伝言をきまじめにお申しおきになって」と注す。
【総角を戯れにとりなししも】−以下「思すらむ」まで、大君の心中の思い。薫の歌をさす。
【尋ばかり】−催馬楽「総角」の歌句。
【日は残りなくなりはべりぬ】−以下「御悩みかな」まで、女房の詞。
【組などし果てたまひて】−名香の組糸。総角に組み上げる。
【心葉など】−以下「思ひよりはべらね」まで、中君の詞。
【せめて聞こえたまへば】−『完訳』は「(心葉は)箱などにつける飾り花。普通は金銀などの彫金細工。ここは組糸で作る。それを大君に作ってほしいと、起き出すようしむけた」注す。
【暗くなりぬる紛れに】−『集成』は「暗くなって顔も見えなくなった頃に」。『完訳』は「昨夜の薫との一件を恥じる気持」と注す。
【人伝てにぞ聞こえたまふ】−『集成』は「女房の代筆でお返事なさる」と注す。
【さも見苦しく若々しくおはすと人びとつぶやききこゆ】−『集成』は「薫からの文を、後朝の文ととる女房たちは、大君のはにかみと見て文句を言う」。『完訳』は「薫からの大事な後朝の文なのに大君は返事さえ書かない、の気持。大君の結婚を頼みに思う女房たちの、世俗的打算からの非難」と注す。

 

第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる

 [第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問]
【かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを】−姫君たちの心中の思いを地の文で語る。
【いみじく思ひのほかなる身の憂さ】−姫君たちの心中の思い。
【薄鈍にて】−除服の後は平服に戻るの普通だが、姫君たちはなお志厚く薄鈍色の喪服を着用している。
【うつくしげなる匂ひまさりたまへり】−『集成』は「可憐な美しさという点では姉君よりすぐれていらっしゃる」と注す。
【御髪など澄ましつくろはせて】−大君が女房をして中君の御髪を洗い整わせて、の意。
【近劣りしては思はずやあらむ】−大君の心中の思い。『集成』は「薫は中の君を期待外れだとは思わないだろう」と注す。
【かの人は】−薫をさす。
【藤の衣も改めたまへらむ長月も静心なくて】−『完訳』は「その喪服を改める九月の到来を待ちかねた。九月は忌月で結婚がはばかられる。命日の八月二十日ごろから、日数をおかずに訪ねたことになる」と注す。『河海抄』には「男女初会合忌正五九月云々」とある。
【例のやうに聞こえむ】−薫の訪問の主旨。
【心あやまりして】−『集成』は「〔大君は〕かたくなな気持になって」。『完訳』は「姫宮は気分がすぐれず」と訳す。
【思ひの外に】−以下「いかに思ひはべらむ」まで、薫の手紙文。
【今はとて】−以下「え聞こえぬ」まで、大君の返事。
【怨みわびて】−主語は薫。
【例の人召して】−弁の君をさす。「例の人」で一語。
【思ひにかなひたまひて】−『集成』は「(姫君が)自分たちの願い通りに薫と結婚して下さって、世間並みに京のお邸にお移りなどなさることを、大層結構なことだと話し合って」と注す。
【ただ入れたてまつらむ】−女房たちの詞。

 [第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める]
【かく取り分きて】−以下「心にこそあめれ」まで、大君の心中の思い。
【昔物語にも心もてやはとあることもかかることもあめる】−反語表現の構文。『集成』は「昔物語でも、姫君の一存で、とかくのことが起ろうか。みな女房の仲立ちによるものだ、の意」と注す。
【うちとくまじき人の心】−女房の思慮。
【せめて怨み深くは】−以下「つつみたまふならむ」まで、大君の心中の思い。薫がどうしても諦めずに、深く恨むようなら、の意。
【この君をおし出でむ】−妹の中君をさす。
【劣りざまならむにてだにさても見そめては】−『完訳』は「劣った女を相手にしてさえ。薫の気長なやさしさを認めた判断」と注す。
【ふとさることを待ち取る人のあらむ】−反語表現の構文。中君との結婚をさす。
【本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは】−薫は弁の君から大君が中君をという意向を聞かされたが、同意しなかったという話は、の意。「なかなる」の「なる」は伝聞推定の助動詞。
【人の思はむことを】−こちら大君自身をさす。推量の助動詞「む」婉曲の意。
【思し構ふるを】−中君と薫の結婚を計画する。
【けしきだに知らせたまはずは罪もや得む】−大君の心中の思い。
【昔の御おもむけも】−以下「見たてまつりなさばや」まで、大君の中君への詞。「昔の御おもむけ」は亡き父宮のご意向、の意。
【世の中をかく心細くて】−以下「心つかうな」まで、父八宮の遺言。
【おはせし世の御ほだしにて】−父宮在世中のお足手まといで。
【今はとてさばかりのたまひし一言をだに違へじと思ひはべれば】−生涯結婚すまい、という意。
【げにさのみやうのものと過ぐしたまはむも】−『集成』は「でも、あの人たちの言う通り、あなたまでが私と同じに独り身で過されるのも」と注す。
【御ことをのみこそ】−あなた中君のことばかりが。
【君だに世の常に】−「君」は二人称。
【かかる身のありさまもおもだたしく慰むばかり】−自分の身の上もあなたが薫と結婚したら面目が立って気持ちが慰められる。
【見たてまつりなさばや】−中君の結婚を背後からお世話したい。
【いかに思すにか】−中君の心中の思い。姉君はどうお考えなのか。
【一所をのみやは】−以下「いかなるかたにか」まで、中君の詞。反語表現の構文。
【聞こえたまひけむ】−主語は父宮。
【思されためりしか】−主語は父宮。推量の助動詞「めり」は中君の主観的推量のオニュアンス。
【なほこれかれうたて】−以下「思ひ乱れはべるぞや」まで、大君の詞。

 [第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す]
【御消息ども】−『集成』は「薫の口上。あれこれと多い趣」と注す。
【いかにもてなすべき身にかは】−以下「ただ一方に言ふにこそは」まで、大君の心中の思い。
【一所おはせましかば】−両親のうちどちらか生きていらっしゃったら。反実仮想の構文。
【さるべき人】−『集成』は「娘の結婚の世話をするのが当然の人。親のこと」。『完訳』は「親の世話を受けながら、その指図どおりに結婚して」と注す。
【扱はれたてまつりて】−「たてまつる」の主体者は親、自分自身に対する敬語表現になる。この下に「〜まし」の気持ちがある。
【身を心ともせぬ世なれば】−『源氏釈』は「いなせとも言ひ放たれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり」(後撰集恋五、九三八、伊勢)を指摘。
【皆例のことにてこそは人笑へなる咎をも隠すなれ】−親の勧める結婚なら失敗しても世間の物笑いにならない、の意。
【ある限りの人は】−仕えている女房は皆。
【聞こえ知らすれど】−自分自身に対する敬語表現。主体者は女房。
【こははかばかしきことかは】−反語表現。
【人めかしからぬ心どもにて】−使用人の分際で。身分制度の意識。
【引き動かしつばかり聞こえあへるも】−主語は女房たち。『完訳』は「女房が、大君を薫と対面させるべく、強引に誘うさま」と注す。
【かかる筋には】−結婚に関する話題。
【あやしくもありける身かな】−大君の思い。『集成』は「一人ぼっちの変な身の上の私だこと」と注す。
【例の色の御衣どもたてまつり替へよ】−女房の詞。
【皆さる心すべかめるけしきを】−『集成』は「一同婚儀の段取りを進めるらしい様子なのを」。『完訳』は「薫に逢わせる準備をする様子」と注す。「すべかめる」は大君に心中に即した叙述。
【あさましくげに何の障り所かはあらむ】−『集成』は「大君の心中から自然に地の文に移る書き方」。『完訳』は「いかにも相手が近寄るのに防ぐものがあろうか。日ごろの薫の、障りや隔てのない親交の訴えを受け、「げに」とする。地の文に心中叙述の割り込んだ形」と注す。
【山梨の花ぞ逃れむ方なかりける】−『源氏釈』は「世の中をうしと言ひてもいづこにか身をば隠さむ山梨の花」(古今六帖六、山梨)を指摘。
【いつありけむことともなくもてなしてこそ】−薫の大君処遇の考え。
【御心許したまはずはいつもいつもかくて過ぐさむ】−薫の詞。
【おのがじし】−女房同士。
【顕証にささめき】−『集成』は「大っぴらに私語し」と訳す。
【さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる】−『湖月抄』は師説「弁か事を草子地也」と指摘。『集成』は「何といっても、心根が浅はかなので、年をとってわけもわからなくなっているのか、姫君がお気の毒に思われる。草子地。弁などは、年輩の思慮深い女房であるはずなのに、という気持が下にある」と注す。

 [第四段 大君、弁と相談する]
【弁が参れるに】−『集成』は「姫君の説得に来たのだろう」と注す。
【年ごろも】−以下「聞こえなされよ」まで、大君の弁への詞。
【人に似ぬ御心寄せ】−薫の人物評。
【のたまひわたりしを】−主語は故八宮。
【思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて】−好意の他に結婚を望んでいた気持ちをさす。
【世に人めきてあらまほしき身ならば】−『完訳』は「私が人並に結婚して暮したいと思う身なら。実際には独身を通そうの決意。反実仮想の構文」と注す。「あらまほしき身」は夫を持ちたい身、の意。
【いと苦しきを】−『集成』は読点で「を」接続助詞、逆接の意。『完訳』は句点で「を」間投助詞、詠嘆の意に解す。
【昔を思ひきこえたまふ心ざしならば】−「昔」は故人八宮。「たまふ」は弁に対する敬語。
【さのみこそは】−以下「雲霞をやは」まで、弁の詞。
【さはえ思ひ改むまじ】−『集成』は「以下「後見きこえむ」まで、薫の言葉をそのまま伝える体」と注す。
【となむ聞こえたまふ】−主語は薫。
【いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに】−『集成』は「大層ご熱心に奔走あそばしてご結婚のお計らいをあそばされましょうとも」。『完訳』は「格別大事にお世話申し上げていらっしゃる場合でも」と訳す。下文に「さし集ひたまはざらまし」とある反実仮想の構文。
【たつきなげなる御ありさま】−『完訳』は「弁はあえて宮家の生活の窮乏にふれる」と注す。「たつき」の読みについて、『集成』は「たつき」。『完訳』は「たづき」。『岩波古語辞典』には「中世、タツギ・タツキとも」。
【後の御心は知りがたけれど】−挿入句。『完訳』は「婿君の将来の気持は分らぬが。男の心変りもありうるという一般的な判断を、挿入させた文脈」と注す。
【故宮の御遺言】−『集成』は「「おぼろけのよすがならで、--この山里をあくがれたまふな。ただかう人に違じたる契り異なる身とおぼしなして--」とあった(椎本)」と注す。
【それはさるべき人のおはせず】−『集成』は「それは、お家柄にふさわしい殿方がいらっしゃらず、身分の釣合わぬ縁組でもなさりはせぬかと(父宮が)ご心配あそばして」。『完訳』は「宮家の婿にふさわしい人」と注す。
【戒めきこえさせたまふめりしにこそ】−係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。
【この殿の】−『集成』は「このお殿様が。薫のこと。もはや、主人といった呼び方」。『完訳』は「「殿」の呼称に注意。薫を邸の主人格に呼ぶ」と注す。
【一所をうしろやすく見おきたてまつりていかにうれしからまし】−「一所」は姉妹のうちの一人。推量の助動詞「まし」反実仮想の意。
【のたまはせし】−主語は故八宮。
【ほどほどにつけて思ふ人に後れたまひぬる人は高きも下れるも】−一般論として、親に先立たれた娘が不本意な結婚をする例の多いことをいう。
【あながちにもて離れさせたまうて】−『集成』は「取り付くしまもなくお断り申しなさって」。『完訳』は「あなたが勝手に振り切って。大君の「昔より思ひ離れ--」への反論。「行ひの本意」もそこから出た言葉」と注す。
【さりとて雲霞をやは】−『対校』は「背くとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ」(古今六帖二、尼・伊勢物語)を指摘。『集成』は「仙人のような暮しもなるまい、の意」。『完訳』は「出家しても衣食の心配は必要」と注す。

 [第五段 大君、中の君を残して逃れる]
【中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと】−『完訳』は「中の宮も姉君を、なんとも不本意なおいたわしいご様子よと」と訳す。
【うしろめたく】−大君の不安な気持ち。
【いかにもてなさむと】−『集成』は「(大君は)気がかりで、弁などが何をするだろうと、不安にお思いになるが。薫を導き入れるかもしれないと不安を覚える」。『完訳』は「自分(大君)がどう対処したものか。一説に、弁が何をするのか」と注す。
【をかしき御衣上にひき着せたてまつりたまひて】−大君が中君に。『完訳』は「中の君の身体に。薫が忍び込んだら、妹を美しく見せ、自らは逃れるつもり」と注す。
【まだけはひ暑きほどなれば】−八月下旬であるが残暑が残っている。
【すこしまろび退きて臥したまへり】−『集成』は「少し離れて横におなりになった。「まろびのく」は、前出催馬楽の言葉を用いる」。『完訳』は「寝返りする意」と注す。
【いかなればいとかくしも】−以下「思ひ知りたまへるにや」まで、薫の心中の思い。
【いとどわが心通ひておぼゆれば】−『完訳』は「道心を身上とする薫の心に」と注す。
【さらば物越などにも】−以下「忍びてたばかれ」まで、薫の弁への詞。
【心して人疾く静めなど】−主語は弁。『集成』は「気をつけて、ほかの女房たちを早く寝静まらせたりして」と注す。
【人の忍びたまへる振る舞ひ】−『完訳』は「「人」は薫。以下、「思ひけるに」あたりまで、薫を寝所に導く弁に即した叙述」と注す。
【え聞きつけたまはじ】−主語は大君。
【同じ所に大殿籠もれるを】−『集成』は「以下「--見たてまつり知りたまへらむ」まで、弁の心中」と注す。
【ほかほかにともいかが聞こえむ】−今夜は別々にお寝みになるようにと、どうして言えようか。反語表現。弁の内省。
【御けはひをもたどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ】−薫は大君の感じをはっきりと知っているだろうから、姉妹を取り違えることはあるまい。
【うちもまどろみたまはねば】−主語は大君。
【いといとほしく】−『集成』は「以下、大君の心中の思いと動作を交互に書く」と注す。
【いかにするわざぞと】−『集成』は「どうしたらよいのだろうと」。『完訳』は「弁らがどうするのだろうと」と訳す。
【ともに隠れなばや】−大君の心中。中君と一緒に隠れたい。
【いかにおぼえたまはむ】−大君の心中。中君の心中を察する。
【あらましごとにてだに】−以下「思し疎まむ」まで、大君の心中。『集成』は「将来の心積りとして話しただけでも、ひどいと思っていらっしゃったのに」と訳す。中君に薫との結婚を勧めたことをさす。
【今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど】−故父宮が山寺に入った夕べの最後の姿。

 [第六段 薫、相手を中の君と知る]
【心しけるにや】−薫の心中。『集成』は「薫を迎える積りで、大君を一人にさせたのかと思う」。『完訳』は「大君が自分を迎えてくれたと欣喜」と注す。
【やうやうあらざりけりと見る】−『集成』は「以下、敬語抜きで薫の心中に密着した書き方」。『完訳』は「以下、薫の目と心に即した行文。敬語の用いられない点に注意したい」と注す。
【あさましげにあきれ惑ひたまへるを】−主語は中君。
【げに心も知らざりける】−薫の納得する気持ち。
【これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど】−中君を他人のものとはしたくない。『完訳』は「薫は中君にも執心」と注す。
【うちつけに】−以下「異人のやうにやは」まで、薫の心中。
【宿世逃れずは】−『完訳』は「中の君と結ばれる宿世だとしても、姉の大君と同じに思おう」と注す。
【例の】−『完訳』は「昨夜と同様、実事のない逢瀬」と注す。
【中の宮いづこにか】−以下「あやしきわざかな」まで、老女の詞。
【さりともあるやうあらむ】−老女の詞。
【おほかた例の】−以下「憑きたてまつりたらむ」まで、老女の詞。
【などていともて離れては】−『集成』は以下を老女の詞とする。
【恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ】−大君に取り憑く。『細流抄』に「世俗の諺に嫁すべき時過ぎぬれば神のつくと也」とある。『河海抄』は「玉葛実ならぬ樹にはちはやぶる神そつくとふならぬ樹ごとに」(万葉集巻二、一〇一)を指摘。
【あなまがまがし】−以下「思ひきこえたまひてむ」まで老女の詞。
【なぞのものか憑かせたまはむ】−反語表現。何の憑き物もついてない。
【つきづきしげにもてなしきこえたまふ人】−母親などをさす。
【思さるるにこそ】−「るる」自発の助動詞。係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。
【見たてまつり馴れたまひなば】−大君が薫に。
【思ひきこえたまひてむ】−大君が薫をお慕い申されるだろう。完了の助動詞「て」確述の意、きっと--するだろう、のニュアンス。
【とくうちとけて思ふやうにておはしまさなむ】−女房の詞。終助詞「なむ」他に対するあつらえの気持ち。
【逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど】−『源氏釈』は「長しとも思ひぞはてぬ逢ふ人からの秋の夜なれば」(古今集恋三、六三六、凡河内躬恒)を指摘。
【いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひ】−大君と中君。区別のつかないほど共に優美な姿。
【あひ思せよ】−以下「見習ひたまふなよ」まで、薫の詞。姉君のように振舞いなさるな、の意。
【後瀬を契りて出でたまふ】−後の逢瀬を約束して。『異本紫明抄』は「若狭なる後瀬の山の後も逢はむわが思ふ人に今日ならずとも」(古今六帖二、国)を指摘。「後瀬山」は若狭の国の歌枕。
【我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど】−『集成』は「逢いながら逢わぬ中の君との出会いのこと」。『完訳』は「実事のない逢瀬の複雑な思い」と注す。
【つれなき人】−大君。
【例の出でて臥したまへり】−大君邸における薫の習慣化した動作。

 [第七段 翌朝、それぞれの思い]
【弁参りて】−『完訳』は「薫と入れ替りに、弁が現れる」と注す。
【いとあやしく中の宮はいづくにかおはしますらむ】−弁の詞。
【いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に】−中君の気持ち。
【いかなりけむことにか】−中君の心中。昨夜の薫との出来事。
【昨日のたまひしことを】−昨日大君が中君に薫との結婚話を勧めたこと。
【つらしと】−『集成』は「ひどいお方と」。『完訳』は「うらめしく」と訳す。
【壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる】−『河海抄』は「季夏蟋蟀壁ニ居ル」(礼記、月令)を指摘。壁の側に隠れていた大君を漢籍の故事にちなんで蟋蟀に譬える。
【思すらむこと】−中君が大君を恨んでいるだろうこと。
【ゆかしげなく】−以下「あらぬ世にこそ」まで、大君の心中の思い。『完訳』は「姉妹ともに薫から顔をあらわに見られ、奥ゆかしげもなく、情けないことだ、の意」と注す。
【心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ】−『集成』は「女房たちへの不信と警戒心」と注す。
【あなたに参りて】−薫のいる西廂の間へ。
【あさましかりける御心強さを】−大君の強情さ。
【来し方のつらさは】−以下「漏らしたまふな」まで、薫の弁への詞。
【今宵なむ】−朝になってから言っているので、正確には昨夜の出来事をさす。
【身も投げつべき心地】−『源氏釈』は「頼め来る君しつらくは四方の海に身も投げつべき心地こそすれ」(馬内侍集)を指摘。
【捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを】−『完訳』は「亡き父宮が姫君たちを残していかれた気持のおいたわしさを思うと、わが身も捨てられぬ意。自分は遺託をうけたのにと脅迫めく」と注す。
【いづ方にも】−大君と中君のどちらにも。
【宮などの恥づかしげなく聞こえたまふめるを】−匂宮が。『完訳』は「以下、結婚をするなら身分の高い匂宮を望むのか、のいやみ」と注す。
【例よりも急ぎ出でたまひぬ】−『完訳』は「普通の後朝の別れよりも早々に。腹立たしさを見せつける趣」と注す。
【誰が御ためもいとほしく】−薫にも大君にも。

 [第八段 薫と大君、和歌を詠み交す]
【いかにしつることぞ】−以下「ものしたまはば」まで、大君の心中の思い。
【おろかなる心も】−薫が中君を疎略に扱う心、の意。
【すべてうちあはぬ人びとのさかしら】−『集成』は「やることなすことちぐはぐな女房たちのお節介」と注す。
【御文あり】−後朝の文。
【かつはあやし】−語り手の批評。『集成』は「考えてみれば、おかしなこと。草子地。本来は薫の懸想を迷惑がっている大君なのに、という気持」と注す。
【おなじ枝を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや】−薫から大君への贈歌。大君を「山姫」という。反語表現。自分の気持ちはもともと大君のほうにあるという意。『異本紫明抄』は「同じ枝を分きて木の葉のうつろふは西こそ秋の初めなりけれ」(古今集秋下、二五五、藤原勝臣)を指摘。
【おし包みたまへるを】−包み文。『集成』は「恋文ならば結び文にする」と注す。
【そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり】−大君の推測。昨夜の中の君との一件をうやむやに済ませてしまうらしい。
【見たまふも】−主語は大君。
【御返り】−女房たちの詞。返事の催促。
【聞こえたまへ】−大君の中君への詞。中君が書くように促す。
【山姫の染むる心はわかねども移ろふ方や深きなるらむ】−大君の返歌。中君のほうに心を寄せているのでしょう、という意。
【をかしく見えければ】−主語は薫。大君の返歌を興趣ありと見た。
【身を分けてなど】−以下「棚無し小舟めきたるべし」まで、薫の心中の思い。
【つれなからむも】−中君に対して気持ちが移らないのも。
【はじめの思ひ】−薫の大君思慕。
【老い人の思はむところも軽々しく】−『完訳』は「薫は弁に大君思慕を強調してきただけに、中の君との一件を知られては不都合と思う」と注す。
【心を染めけむだに悔しく】−大君を思慕したことさえ後悔される。
【棚無し小舟めきたるべし】−『源氏釈』は「堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎ返り同じ人にや恋ひわたりなむ」(古今集恋四、七三二、読人しらず)を指摘。
【兵部卿宮の御方に参りたまふ】−六条院にある匂宮の曹司に。

 

第三章 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚

 [第一段 薫、匂宮を訪問]
【三条宮焼けにし後は、六条院にぞ移ろひたまへれば】−三条宮邸が焼失したことは「椎本」巻に語られていた。
【思ひつるもしるく】−薫が想像していた通り。風流好みの匂宮は有明の月を愛でるために起きてきた。
【ふとそれとうち驚かれて】−主語は匂宮。すぐに薫と気がついて。
【階を昇りも果てず】−主語は薫。寝殿の庭から簀子に昇る階段。
【ついゐたまへれば】−『完訳』は「挨拶のため、臣下の薫は親王に対して、卑下の態度をとる」と注す。
【なほ上に】−匂宮の詞。
【高欄によりゐたまひて】−主語は匂宮。
【かのわたりのことをも】−宇治の姉妹のことをさす。
【よろづに恨みたまふもわりなしや】−『集成』は「以下、地の文から自然に薫の心中の思いに移る書き方」。『完訳』は「中の君を取り持つ薫の尽力が足りぬと恨むのは、困ったもの。以下、薫の心中叙述へと転移」と注す。
【さもおはせなむ】−薫は中君を匂宮に結びつけ大君を自分のものしたいと考えている。
【あるべきさまなど】−『完訳』は「宮を中の君に導く手だてなど」と注す。
【山里のあはれなるありさま思ひ出でたまふにや】−語り手が匂宮の心中を推測した挿入句。
【このころのほどはかならず後らかしたまふな】−匂宮の詞。
【女郎花咲ける大野をふせぎつつ心せばくやしめを結ふらむ】−匂宮の詠歌。宇治の姉妹を女郎花に譬える。推量の助動詞「らむ」は原因推量。
【霧深き朝の原の女郎花心を寄せて見る人ぞ見る】−夕霧の返歌。「朝の原」は大和国の歌枕。『集成』は「人の見ることや苦しき女郎花秋霧にのみ立ち隠るらむ」(古今集秋上、二三五、壬生忠岑)を指摘。
【あなかしかまし】−『花鳥余情』は「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしかまし花もひと時」(古今集雑体、一〇一六、僧正遍昭)を指摘。『集成』は「「花もひと時」(盛りも過ぎてしまいますよ)の意を言外にきかす」と注す。
【年ごろかくのたまへど】−『集成』は「匂宮が、もう何年も宇治の姫君たちにご執心のよしを仰せになるが。二年前、薫が初めて、姉妹のことを語って以来である」と注す。
【人の御ありさまを】−中君の様子。
【容貌なども】−以下「たまふまじかめり」あたりまで、薫の心中に沿った叙述。
【かのいとほしく】−以下「恨みをも負はじ」まで、薫の心中に沿った叙述。
【思ひたばかりたまふありさまも】−大君が逃げて中君を薫にと考えたことをさす。
【さはたえ思ひ改むまじくおぼゆれば】−大君の思惑どおり中君に乗り換えることもできない。
【譲りきこえて】−中君を匂宮に譲って。
【いづ方の恨みをも】−大君と中君の恨み。
【例の】−以下「心苦しかるべけれ」まで、薫の詞。
【よし見たまへ】−以下「まだなかりける」まで、匂宮の詞。
【かの心どもにはさもやと】−以下「こそはべるや」まで、薫の詞。宇治の姉妹は匂宮と結婚しようとは思っていない、といなす。
【おはしますべきやうなど】−宇治へお出向きになる時の注意を。

 [第二段 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う]
【二十八日の彼岸の果てに】−八月二十八日の秋の彼岸の終りの日。
【后の宮など】−明石中宮。
【さりげなくともて扱ふもわりなくなむ】−『集成』は「薫の気持と地の文を重ねた書き方」と注す。
【舟渡りなども所狭ければ】−宇治八宮の山荘は川の手前。夕霧の山荘は対岸にあるが、それは利用せずに、その近辺の荘園の管理人の家に泊まって、そこから宇治の姉妹のもとに訪れる計画。
【下ろしたてまつりたまひておはしぬ】−匂宮を車から下ろして管理人の家に留めおいて、まず薫だけが故八宮邸に来た。
【見とがめたてまつるべき人も】−『集成』は「(匂宮を同行しても)お見咎め申すような人もいないけれど。警護の手薄のさま」。『完訳』は「同行する匂宮に気づく人も」と注す。
【宿直人はわづかに出でてありくにもけしき知らせじとなるべし】−『岷江入楚』は「草子地歟」。『全集』は「薫が匂宮と別行動をとった理由を述べる」と注す。
【中納言殿おはします】−宿直人の詞。
【移ろふ方異に匂はしおきてしかば】−大君の心中の思い。『集成』は「中の君に心移ったはずと、それとなく言っておいたから」。『完訳』は「いつぞやも、中の宮ののほうにお気持を変えていただくよう、それとなく申しておいたことだから」と訳す。
【思ふ方異なめりしかばさりとも】−中君の心中の思い。薫の目当ては自分ではないらしい、大君のほうだから安心だ、の意。
【何やかやと御消息のみ聞こえ通ひて】−『集成』は「大君は、直接対面しない様子」と注す。
【宮をば御馬にて暗き紛れにおはしまさせたまひて】−匂宮を暗くなってから馬で来るように導いた。
【ここもとに】−以下「導きたまひてむや」まで、薫の詞。「ここもと」は大君をさす。
【思し放つさま】−大君が薫を避けたことをさす。
【ひたや籠もり】−『集成』は「何のご挨拶もなくてはすまされぬ思いですので」と注す。
【ありしさまには】−『完訳』は「先夜のように。中の君のもとにも導いてほしいが、その前に大君に了解を得たい、とする気持」と注す。
【いづ方にも同じことにこそは】−弁の心中の思い。薫が大君と結ばれるにせよ中君と結ばれるにせよ、宮家にとっては同じことだと思う。中君のもとに匂宮を手引しようとする薫の魂胆に、弁は気づいていない。

 [第三段 薫、中の君を匂宮にと企む]
【さればよ思ひ移りにけり】−大君の心中。薫は中君に心が移ったと思う。
【かの入りたまふべき道にはあらぬ廂の障子をいとよくさして対面したまへり】−中君の部屋へ通じる障子だけを残して他は厳重に施錠。『完訳』は「後で薫が中の君の部屋に自由に入れるようにしておいて、自らは廂の襖越しに薫と対面する」と注す。
【一言聞こえさすべきが】−以下「いといぶせし」まで、薫の詞。
【人聞くばかりののしらむは】−襖障子を隔てての対面なので、大きな声を出さねばならない。
【いとよく聞こえぬべし】−大君の詞。
【今はと移ろひなむを】−以下「夜も更かさじ」まで、大君の心中。
【ただならじと】−『完訳』は「薫はいよいよ妹に心移るので、挨拶なしには不都合と思って言うのだろう」と注す。大君も薫の魂胆を知らない。
【人憎くいらへで夜も更かさじ】−『集成』は「無愛想に返事もしないで、夜を更かすようなことはすまい。こころよく応対して、早く中の君のもとへ行かせようという算段」と注す。
【かばかりも】−襖のもとまで出てきた。
【いとうたてもあるわざかな何に聞き入れつらむ】−大君の心中の思い。後悔の念。
【こしらへて出だしてむ】−大君の心中の思い。薫を中君のほうに行かせようとする。
【異人と思ひわきたまふまじきさまに】−妹を自分同様に、の意。
【いとあはれなり】−『集成』は「薫の気持と地の文を重ねた書き方」と注す。語り手の評言。
【宮は教へきこえつるままに】−匂宮は薫が教えたとおりに。
【一夜の戸口に】−先夜、薫が忍び込んだ戸口。
【さきざきも馴れにける道のしるべをかしと思しつつ】−『集成』は「物馴れた弁の様子に、匂宮は、度々薫を大君のもとに案内したことを想像する」と注す。
【こしらへ入れてむ】−大君の思い。既に匂宮が入っていったのを知らずに薫を言いなだめて中君の部屋に入れようと思う。
【をかしくもいとほしくもおぼえて】−薫は何も知らない大君をおかしくもお気の毒にも思う。
【宮の慕ひたまひつれば】−以下「なりはべりぬべきかな」まで、薫の詞。
【このさかしだつめる人や】−利口ぶった女房。弁をさす。
【語らはれ】−「れ」受身の助動詞。頼み込まれて。
【中空に人笑へにもなりはべりぬべきかな】−大君には嫌われ、中君は匂宮に取られて、中途半端で世間の物笑いになってしまいそうだ、の意。
【かくよろづに】−以下「思しあなづるにこそは」まで、大君の詞。今まで薫を信頼していたことを後悔。

 [第四段 薫、大君の寝所に迫る]
【今は言ふかひなし】−以下「思しなむや」まで、薫の詞。
【やむごとなき方に思しよるめるを】−高貴な方をお考えのようだが。暗に匂宮をさす。厭味な言い方。前にもあった。
【かの御心ざしは異にはべりけるを】−匂宮のお目当ては別の方、中君にあったという。
【かなはぬ身こそ】−薫自身をいう。大君との恋が叶わぬ。
【なほいかがはせむに思し弱りね】−やはりどうすることもできないのだからお諦めなさい、の意。
【まことにもの清く推し量りきこゆる人も】−『完訳』は「あなたと私の間に実事がなかったとは、誰も思うまい、の意」と注す。
【しるべと誘ひたまへる人の御心にも】−私を案内人に誘った方、匂宮の御心中。
【思しなむや】−反語表現。匂宮もそうお思いであるまい。
【こしらへむと思ひしづめて】−『集成』は「とにかくなだめすかそうとして」と訳す。
【こののたまふ筋】−以下「許したまへ」まで、大君の詞。
【知らぬ涙のみ霧りふたがる心地して】−『弄花抄』は「行先を知らぬ涙の悲しきはただ目の前に落つるなりけり」(後撰集、離別羇旅、一三三四、源済)を指摘。
【作り出でたるもののたとひ】−『完訳』は「男にだまされた愚かな女の話の例。昔物語には多かったらしい」と注す。
【推し量りたまはむ】−主語は匂宮。『集成』は「あなたらしくないと、感心されないでしょう」と注す。
【心より外にながらへば】−仮定構文。『集成』は「心ならずも生き永らえていましたら。今宵の出来事のあまりの悲しさに死にそうですが、の含意」と注す。
【許したまへ】−手をお放しください、の意。
【さすがにことわりをいとよくのたまふが】−『集成』は「それどもやはり物の道理をことわけておっしゃる大君の態度が、気恥ずかしくいじらしく思えて。「気はづかし」は相手の立派さに気後れすること」と注す。
【あが君】−以下「おぼえぬ」まで、薫の詞。
【かくまでかたくなしくなりはべれ】−『集成』は「大君に拒まれるまでいることをいう」と注す。
【いとど世に跡とむべくなむおぼえぬ】−『集成』は「いよいよこの世に生きてゆく気はなくなりました。大君の「心よりほかにながらへば--」に応じる」。『完訳』は「生きてゆく望みを失った意。大君の「心より外にながらえば」に応じた。現世離脱が薫の本願」と注す。
【さらば】−以下「うち捨てさせたまひそ」まで、薫の詞。
【聞こえさせむ】−改まった丁重な謙譲表現で言う。
【許したてまつりたまへれば】−大君のお袖を放してお上げになると。
【さすがに入りも果てたまはぬを】−『完訳』は「一方では、薫の哀願に憐憫の情が起り、冷たく突き放せない」と注す。
【かばかりの】−以下「ゆめゆめ」まで、薫の詞。
【ゆめゆめ】−けっしてこれ以上無体な行動には出ません、という気持ちの表明。
【夜半のあらしに山鳥の心地して】−『河海抄』は「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」(拾遺集恋三、七七八、人麿)を指摘。『花鳥余情』は「逢ふことは遠山鳥のめもあはずて今夜あかしつるかな」(出典未詳)を指摘。「夜半の嵐」は歌語。

 [第五段 薫、再び実事なく夜を明かす]
【例の、明け行くけはひに】−『完訳』は「「例の」と、実事なき逢瀬が、習慣的に繰り返される気持」と注す。
【いぎたなくて出でたまふべきけしきもなきよと】−『完訳』は「薫の心中。思いを遂げえなかった薫は、中の君と結ばれて眠りほうけている匂宮が腹立たしい」と注す。
【心やましく声づくりたまふもげにあやしきわざなり】−『全集』は「語り手の薫に対するからかい」。『集成』は「草子地」。『完訳』は「自らの案内なのに、匂宮の成功に不機嫌とは妙。語り手の評」と注す。
【しるべせし我やかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道】−薫の詠歌。『花鳥余情』は「明けぐれの空にぞ我はまよひぬる思ふ心のゆかぬまにまに」(拾遺集恋二、七三六、源順)を指摘。
【かかる例世にありけむや】−歌に添えた詞。大君の「昔物語などに--」に応じた言い方。
【かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道に惑はば】−大君の返歌。「くれ」「まどふ」の語句を用いて返す。「かたがた」は自分と妹中君をさす。
【いかにこよなく】−以下「わりなうこそ」まで、薫の詞。
【昨夜の方より出でたまふなり】−主語は匂宮。「なり」伝聞推定の助動詞。語り手の臨場感ある表現。
【艶なる御心げさうには】−『集成』は「はなやかな折のお心用意とて」。『完訳』は「色めかしい逢瀬にのぞむお心用意から」と訳す。
【さりとも悪しざまなる御心あらむやは】−老女房たちの思い。反語表現。薫は悪いようにはなさるまい。
【道のほども帰るさはいとはるけく思されて】−『源氏釈』は「帰るさの道やは変はる変はらねど解くるに惑ふ今朝の淡雪」(後拾遺集恋二、六七一、藤原道信)を指摘。
【夜をや隔てむ】−『源氏釈』は「若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎からなくに」(古今六帖五、一夜隔てたる)を指摘。
【思ひ悩みたまふなめり】−語り手の匂宮の心中推測。
【廊に御車寄せて降りたまふ】−中門の渡廊に車を寄せて降りる。
【皆笑ひたまひて】−匂宮と薫をさす。
【おろかならぬ宮仕への御心ざしとなむ思ひたまふる】−薫の詞。『集成』は「中の君に対する匂宮の熱意をひやかす」と注す。
【いと妬くて愁へもきこえたまはず】−接続助詞「て」順接、原因理由を表す。『集成』は「いかにもしゃくなので、愚痴もお聞かせ申さない」。『完訳』は「まったくいまいましく思うので、愚痴を申し上げるお気持にもならない」と訳す。

 [第六段 匂宮、中の君へ後朝の文を書く]
【いつしかと】−『集成』は「お帰り早々に」と注す。
【御文】−後朝の文。
【さまざまに】−以下「出だしたまはざりけるよ」まで、中君の心中の思い。『集成』は「昨夜の件を、大君も薫と心を合せてのことと思う」と注す。
【知らざりしさまをも】−主語は大君。『完訳』は「大君は、自分の知らなかった事情も弁明できず。もともと中の君と薫を予告なしに逢わせよう思っていたので、やましさが残る」と注す。
【いかにはべりしことにか】−女房の詞。
【頼もし人のおはすれば】−女房たちが頼りとする人、大君。
【御文もひき解きて見せたてまつりたまへど】−主語は大君。匂宮からの後朝の文を開いて見せてあげる。母親代わりの心遣い。
【いと久しくなりぬ】−使者の詞。返事に手間どる、の意。
【世の常に思ひやすらむ露深き道の笹原分けて来つるも】−匂宮から中君への贈歌。『完訳』は「霧ふかき--」に恋の苦衷を訴える。後朝の歌の常套的表現」と注す。
【おほかたにつけて見たまひしは】−主語は大君。過去の助動詞「し」、かつて妹の中君に対して贈られてきた手紙も一般のお付き合いとして御覧になっていた時は、の意。
【我さかし人にて聞こえむも】−こうした後朝の文への返書の作法を教えるのは、母親や乳母の役。
【紫苑色の細長一襲】−大君方から婚儀の労を果たした使者への禄。大君は中君と匂宮の正式な結婚として扱う。
【例たてまつれたまふ上童なり】−この殿上童は「椎本」巻にも登場。
【ことさらに人にけしき漏らさじと思しければ】−匂宮の心中の思い。内密に考えていた。正式な結婚とは思っていなかった。
【昨夜のさかしがりし老い人のしわざなりけり】−匂宮の心中の思い。大君のしわざとは知らない。
【ものしくなむ聞こしめしける】−匂宮の反応。

 [第七段 匂宮と中の君、結婚第二夜]
【その夜もかのしるべ誘ひたまへど】−次の夜。結婚第二夜に当たる。匂宮は薫を誘う。
【冷泉院に】−以下「ことはべれば」まで、薫の詞。
【とまりたまひぬ】−主語は薫。
【いかがはせむ】−以下「おろかにやは」まで、大君の心中。反語表現。
【待ちきこえたまひけり】−主語は大君。
【はるかなる御中道を】−匂宮と中君の京と宇治との間の道を。「中道」は歌語。
【かつはあやしき】−『集成』は「思えば不思議なこと。草子地。大君の心中の思いを重ねて書く」。『完訳』は「大君の心に即した語り手の評」と注す。
【つくろはれたてまつりたまふままに】−中君は大君から身繕いをして差し上げられなさるままに。「れ」受身の助動詞。
【濃き御衣の】−濃い紅色のお召し物の袖。
【世の中に久しくもと】−以下「罪もぞ得たまふ」まで、大君の中君への詞。『完訳』は「わが身の短命を予感していう」と注す。
【ただ御ことをのみなむ】−あなたのお身の上のことだけが。匂宮との結婚に関すること。
【言ひ知らすめれば】−『集成』は「「めり」は婉曲表現。弁などの説得をいう」と注す。
【はかばかしくもあらぬ心一つを立てて】−『集成』は「ろくに頼りにもならぬ私一人が我を張って」と訳す。
【かくてのみやは見たてまつらむ】−反語表現。こうしてあなたを独身のままにお置き申してよいものか、決してよくはない。そこで、薫の結婚を考えたのだが。
【今かく思ひもあへず恥づかしきことどもに】−急に慮外にも匂宮と結ばれてしまったことをさす。
【知らざりしさまをも】−主語は私大君。
【罪もぞ得たまふ】−『完訳』は「無実の者を恨んで、来世に苦果を招く罪を作っては大変」と注す。
【さすがに】−『完訳』は「以下、中の君の心中」と注す。
【思しおきてじを】−打消の助動詞「じ」打消推量の意。お考えであったのではあるまいから、の意。
【さる心もなく】−『集成』は「匂宮の心に写った昨夜の中の君の姿」。『完訳』は「以下、匂宮の心中。中の君が男を迎える心用意もなく、ただ茫然としていたのさえ。先夜の彼女が、無垢な魅力の人として刻印」と注す。
【まいてすこし世の常になよびたまへるは】−『集成』は「まして今夜は少し女らしくなまめいた風情でいられるのは」。『完訳』は「先夜にもまして、世の若妻らしくなまめかしい風情なのは」と訳す。
【御心ざしもまさるに】−匂宮の愛情。以下、地の文の視点から叙述。
【言ひ知らずかしづくものの姫君も】−『集成』は「言いようもなく大事にされているご大家のお姫様でも」。『完訳』は「どんなに大切にされているどこぞの姫君でも」と訳す。
【人のたたずまひをも見馴れたまへるは】−男性の行動を見慣れていらっしゃる方は、の意。中君は男の兄弟はなく、父八宮も勤行生活という一般とは変わった生活者であった。
【家にあがめきこゆる人こそなけれ】−以下、中君についていう。逆接の挿入句。『集成』は「大勢の女房にかしずかれて、直接他人に接する機械のない姫君というわけではないが」と注す。
【思ひかけぬありさまの】−先夜の匂宮との出来事をさす。
【さるはこの君しもぞ--まさりたまへる】−中君は大君よりもまさっていた、という文脈。

 [第八段 匂宮と中の君、結婚第三夜]
【三日にあたる夜餅なむ参る】−女房の詞。新婚三日目の夜の祝儀の餅を食べる風習をいう。
【ことさらにさるべき祝ひのことにこそ】−大君の心中の思い。
【大人になりて】−『集成』は「親代りになって」。『完訳』は「年配者ぶって。未婚の身でこれを指図するのに気がひける」と注す。
【人の見るらむこと】−女房たちがどう思うか。
【いとをかしげなり】−『紹巴抄』は「双地にや」と指摘。語り手の評。
【このかみ心にや--ぞおはしける】−連語「にや」(断定の助動詞+疑問の係助詞)。係助詞「ぞ」強調の意。過去の助動詞「ける」詠嘆の意。このあたりの文章は語り手の感情移入をともなった叙述。
【中納言殿より】−薫。「殿」は主人というニュアンス。
【昨夜参らむと】−以下「やすらはれはべり」まで、薫から大君への文。
【宮仕への労もしるしなげなる世に】−『完訳』は「大君が自分に応じてくれぬ恨みをこめて言う」と注す。「世」は薫と大君の仲。
【今宵は雑役もやと思うたまふれど】−今夜は匂宮と中君の新婚三日目の夜の儀式のお世話すべきだが、の意。
【宿直所のはしたなげにはべりし乱り心地】−先夜の襖越しで大君と対面して夜を明かしたことをいう。
【陸奥紙におひつぎ書きたまひて】−恋文には使用しない陸奥紙にきちんと上下を揃えて書いて。恋文は薄様の鳥の子紙にちらし書きにする。
【人びとの料に】−薫からの伝言。『集成』は「直接姫君たちに贈るという失礼を避けたもの」と注す。
【宮の御方にさぶらひけるに従ひて】−女三の宮の御方のもとにあったありあわせの品々。
【え取り集めたまはざりけるにやあらむ】−語り手の想像を交えた挿入句。
【小夜衣着て馴れきとは言はずともかことばかりはかけずしもあらじ】−薫から大君への贈歌。「馴れ」「懸け」は「衣」の縁語。『集成』は「大君に近づき、顔まで見たことがあるので、いくらそっけなくなさっても駄目です、とおどす」と注す。
【こなたかなたゆかしげなき御ことを】−大君と中君二人とも薫に姿を見られてしまって、奥ゆかしいところがなくなってしまったこと。
【御使かたへは逃げ隠れにけり】−『集成』は「お使いのうち何人かは、逃げて姿を隠してしまった。「かたへ」は、一部分。禄(労をねぎらって与える物)などにあずからぬよう、気を遣ったのである」。『完訳』は「薫が、禄などを心配させぬよう使者に早く帰るよう命じたか」と注す。
【隔てなき心ばかりは通ふとも馴れし袖とはかけじとぞ思ふ】−大君の返歌。薫の「かけ」の語句を用いて返す。
【心あわたたしく思ひ乱れたまへる名残に】−『孟津抄』は「草子評判也」と指摘。
【思しけるままと】−『弄花抄』は「紫式部か書たる也」と指摘。
【待ち見たまふ人は】−薫をいう。

 

第四章 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る

 [第一段 明石中宮、匂宮の外出を諌める]
【宮は】−匂宮。
【その夜】−結婚第三夜目。
【中宮】−匂宮の母明石の中宮。
【なほ、かく独りおはしまして】−以下「思しのたまふ」まで、中宮の詞。
【何事ももの好ましく立てたる御心なつかひたまひそ】−『集成』は「将来の立場を考えて、色好みの面に自重を求める気持がろう。なお、趣味に偏らぬことを貴族の理想とした」と注す。『完訳』は「万事ニ淫スルコト莫レ(中略)、用意平均、好悪ニ由ルコト莫レ」(寛平御遺誡)を指摘。
【上も】−主上も。詞の中での中宮が帝を呼ぶ呼称。私的な呼称。
【里住みがちにおはしますを】−主語は匂宮。六条院に居がち。
【御文書きてたてまつれたまへる】−『集成』は「宇治へのお便り。今夜は行けない嘆きを書き送る」と注す。
【中納言の君参りたまへり】−薫。
【そなたの心寄せ】−匂宮の心中の思い。薫は宇治の姉妹への味方。
【いかがすべき】−以下「心も乱れてなむ」まで、匂宮の詞。
【よく御けしきを見たてまつらむ】−薫の心中の思い。匂宮の本心愛情を確かめたい。
【日ごろ経て】−以下「顔の色違ひつはべりる」まで、薫の詞。
【参りたまへるを】−主語は匂宮。
【思しきこえさせたまはむ】−明石中宮が匂宮を。
【人知れずわづらはしき宮仕へのしるしに】−匂宮を宇治に案内したことをさす。
【いと聞きにくくぞ】−以下「わざなりけれ」まで、匂宮の詞。
【なかなかなるわざなりけれ】−『集成』は「かえってない方がましというものだ」。『完訳』は「かえって困りものなのですよ」と訳す。
【同じ御騒がれにこそは】−以下「障り所なからむ」まで、薫の詞。
【木幡の山に馬はいかがはべるべき】−『源氏釈』は「山科の木幡の里に馬はあれどかちよりぞ来る君を思へば」(拾遺集雑恋、一二四三、人麿)を指摘。
【いとどものの聞こえや障り所なからむ】−好色な評判の上に馬で出掛けてはますます軽率の誹りを招くでしょう、の意。
【御供にはなかなか仕うまつらじ御後見を】−薫の詞。後始末を引き受けましょう、の意。

 [第二段 薫、明石中宮に対面]
【宮は出でたまひぬなり】−以下「わりなけれ」まで、明石中宮の詞。「なり」伝聞推定の助動詞。
【諌めきこえぬが言ふかひなきと】−主語は私中宮が匂宮を。
【あまた宮たちのかくおとなび整ひたまへど】−明石中宮腹の宮たち。東宮(一の宮)、二の宮、三の宮(匂宮)、五の宮、女一の宮たちがいる。
【大宮】−明石中宮をいう。四十三歳である。
【女一の宮も】−以下「聞きたてまつらむ」まで、薫の心中の思い。「べかめる」は薫の推量。
【好いたる人の】−以下「えこそ思ひ絶えね」まで、薫の心中の思い。
【わが心のやうにひがひがしき心のたぐひ】−『集成』は「身近に大君や中の君に会いながら、手を出さなかったことを言う」と注す。
【やはまた世にあんべかめる】−反語表現。「あん」は「ある」の撥音便化。
【動きそめぬるあたりは】−大君をさす。
【さらにさらに乱れそめじ】−薫の心中を語り手が叙述。
【見えしらがふ人もあり】−薫の気を引いてみせる女房がいる。
【おほかた恥づかしげに】−明石中宮方の雰囲気。
【上べこそ--もてしづめたれ】−主語は女房たち。係結び、逆接用法。
【心々なる世の中なりければ】−『異本紫明抄』は「世の人の心々に有りければ思ふはつらし憂きは頼まず」(古今六帖五、相思はぬ)を指摘。
【立ちてもゐてもただ常なきありさまを思ひありきたまふ】−『集成』は「日頃のちょっとしたことにも、ただ世間の無常をしきりに思っていらっしゃる。「立ちてもゐても」は歌語。さまざまな女にも、無常を観ずる薫の本性」と注す。

 [第三段 女房たちと大君の思い]
【かしこには】−宇治をさす。
【夜更くるまでおはしまさで】−主語は匂宮。
【さればよと】−大君の心配。やはり一時の慰みであったのだと。
【いかがおろかにおぼえたまはむ】−主語は大君。反語表現。語り手の感情移入の表現。
【正身も】−中君。
【思ひ知りたまふことあるべし】−『休聞抄』は「双也」と指摘。『完訳』は「匂宮の厚志が分るようだと、語り手が推測」と注す。
【いみじくをかしげに盛りと見えて】−以下、匂宮の目を通しての叙述。
【ましてたぐひあらじはや】−匂宮の心中の思い。反語表現。
【かくあたらしき御ありさまを】−以下「御宿世を」まで、老女房の詞。
【見たてまつりたまはましかばいかに口惜しからまし】−反実仮想の構文。匂宮と結婚してよかった、という気持ち。
【姫宮】−大君をさす。
【ひがひがしくもてなしたまふを】−大君が薫に靡こうとしないのをいう。
【盛り過ぎたるさまどもに】−『完訳』は「以下、大君の感懐。厚顔無恥の老女房を見る眼から、やがてわが身を凝視する眼へと移る」と注す。
【ありつかずとりつくろひたる姿どもの】−薫から贈られた衣装を着飾っているが、似合わない様子。
【我もやうやう盛り過ぎぬる身ぞかし】−以下「心のなしにあらむ」まで、大君の心中の思い。
【我悪しとやは思へる】−反語表現。老女房たちも自分自身醜いとは思っていまい。
【恥づかしげならむ人に】−以下「ありさまを」まで、大君の思い。薫と結婚することをさす。
【はかなげなる身のありさまを】−『集成』は「長生きできそうにない私の身体具合だものと」。『完訳』は「いかにも頼りどころのないこの身の上を」「生活環境への不安と体の衰弱への不安とを重ねていう」と注す。
【世の中を】−『集成』は「薫とのことを」。『完訳』は「世の無常を」「直接には薫との仲をさす」と注す。

 [第四段 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る]
【宮は】−匂宮。
【なほ心やすかるまじきこと】−匂宮が宇治に通って来ることをさす。
【大宮】−明石中宮。
【思ひながら】−以下「近く渡したてまつらむ」まで、匂宮の詞。
【身を捨ててなむ】−係助詞「なむ」の下に「参りつる」などの語句が省略。
【え惑ひありかじ】−宮中を抜け出して宇治に出向くこと。
【絶え間あるべく】−以下「ほどしるべきにや」まで、中君の心中の思い。好色の評判高い匂宮の物言いかと思う。
【もろともに誘ひ出でて】−『完訳』は「一緒に夜明けの外景を眺めるのは、逢瀬の後の、親密な仲を語る典型的場面」と注す。
【所からのあはれ】−山里らしい風情。
【例の柴積む舟のかすかに行き交ふ跡の白波】−『完訳』は「以下宇治の典型的風景」と注す。『源氏釈』は「世の中を何に譬へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」(拾遺集哀傷、一三二七、沙弥満誓)を指摘。
【目馴れずもある住まひのさまかな】−匂宮の感想。
【色なる御心】−『集成』は「多情なご性分とて」。『完訳』は「多感な宮のお心には」と訳す。
【限りなくいつき据ゑたらむ姫宮も】−以下「見まほしき」あたりまで、匂宮の心中の思い。以下、地の文に流れる。
【わが方ざまのいといつくしきぞかし】−姉の女一の宮が立派に思われる。
【宇治橋のいともの古りて見えわたさるるなど】−『花鳥余情』は「千早振る宇治の橋守汝れをしぞあはれとは思ふ年の経ぬれば」(古今集雑上、九〇四、読人しらず)を指摘。
【かかる所にいかで年を経たまふらむ】−匂宮の思い。中君が今まで宇治の山里に過ごしてきたことをいう。
【恥づかしと聞きたまふ】−主語は中君。
【思ひ寄らざりしこととは思ひながら】−『集成』は「以下、中の君の心中に添って述べる」。『完訳』は「中の君の心中。昔からなじんできた薫より気骨が折れない、とする」と注す。
【かれは思ふ方異にて】−以下「心細からむ」まで、中君の心中の思い。薫は私ではなく姉の大君を愛している。
【見えにくく恥づかしげなりしに】−『集成』は「近づきにくく気詰まりだったのに」。『完訳』は「お付合いしにくく気づまりであったが」と注す。
【よそに思ひきこえしはましてこよなくはるかに】−匂宮のことを噂に聞いていたときは薫以上にはるかな存在に思っていたが、の意。
【一行書き出でたまふ御返り事だに】−主語は中君。かつて匂宮に書いた返事をさす。
【我ながらうたて】−中君の心中の思い。『完訳』は「自分ながら、心の変りようを。夜離れの心細さを懸念するような、恋する女に変ったことを自覚」と注す。

 [第五段 匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる]
【京におはしまさむほどはしたなからぬほどに】−匂宮の心中を地の文で語る。
【中絶えむものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさむ】−匂宮から中君への贈歌。「橋姫」に中君を譬える。『花鳥余情』は「忘らるる身を宇治橋の中絶えて人も通はぬ年ぞ経にける」(古今集恋五、八二五、読人しらず)「さむしろに衣かたしき今宵もやわ【絶えせじのわが頼みにや宇治橋の遥けきなかを待ちわたるべき】−中君の返歌。「絶え」「橋」の語句を受け、「や--濡らさむ」を「や--待ちわたるべき」と返す。贈答歌。
【朝けの御姿】−歌語。
【されたる御心かな】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。『全集』は「語り手の諧謔的なほめことば」。『集成』は「(中の君も)隅に置けないお方だこと。男女の間の情にすでに目覚めていることをいう。草子地」と注す。
【中納言殿は】−以下「いとことに」まで、女房の詞。
【思ひなしの】−皇族と思うせいか。
【帰らせたまふほどに】−「ほど」名詞、時間の意。格助詞「に」動作の原因・事の因って起こることを示す。『集成』は「お帰りあそばしたことだから」。『完訳』は「お帰りになるが、それからというものの」と訳す。
【明くる日ごとに】−『完訳』は「毎日毎日、日に幾度となく書く」と注す。
【おろかにはあらぬにや】−大君の匂宮の気持ちを推測する思い。地の文から叙述。
【いと心尽くしに見じと】−以下「心苦しくもあるかな」まで、大君の思い。
【姫宮】−大君。
【みづからだになほかかること思ひ加へじ】−大君の心中の思い。薫との結婚を改めて断念する気持ち。
【待ち遠にぞ思すらむかし】−薫の心中の思い。宇治の姫君たちは匂宮の来訪を。

 [第六段 九月十日、薫と匂宮、宇治へ行く]
【九月十日のほどなれば野山のけしきも】−宇治では晩秋の寂寥感の深まるころ。
【時雨めきてかきくらし】−時雨は晩秋から初冬にかけての景物。
【いかにせむと御心一つを出で立ちかねたまふ】−『集成』は「伊勢の海に釣する海士の浮けなれや心一つを定めかねつる」(古今集恋一、五〇九、読人しらず)を指摘。
【折推し量りて参りたまへり】−主語は薫。
【ふるの山里いかならむ】−薫の詞。匂宮を宇治に誘う。『源氏釈』は「いそのかみふるの山里いかならむ遠方の里人霞み隔てて」(出典未詳)。『河海抄』は「初時雨ふるの山里いかならむ住む人さへや袖の濡るらむ」(新千載集冬、五九九、読人しらず)を指摘。
【まいて眺めたまふらむ心のうちいとど推し量られたまふ】−主語は匂宮。自分以上に物思いしているだろう中君の心中を思いやる。
【ただこのことの心苦しきを語らひきこえたまふ】−主語は匂宮。『完訳』は「中の君への思いを率直に訴える。気がねのない匂宮らしい性分」と注す。
【山賤どもはいかが心惑ひもせざらむ】−反語表現。「山賤」は宇治山荘に仕える人々をいう。語り手の感情移入表現。
【京にさるべき所々に行き散りたる】−『完訳』は「八の宮家の古参の女房の娘や姪といった人たちで、今はこの邸を出て京の諸所に仕えている者たち」と注す。
【あなづりきこえける心浅き人びと】−姫宮たちを。女房の娘や姪たち。
【姫宮も、折うれしく思ひきこえたまふに】−大君は、時雨の中をわざわざ来訪してくれたことをうれしく思う。
【さかしら人の添ひたまへるぞ】−薫が一緒なのを。
【恥づかしくもありぬべく】−『完訳』は「気のおける立派さ。大君の薫に抱く好感の一面」と注す。
【げに人はかくはおはせざりけり】−大君の薫を見て匂宮と比較した感想。
【ありがたしと思ひ知らる】−大君の感想。薫を稀な方だと思う。「る」自発の助動詞。

 [第七段 薫、大君に対面、実事なく朝を迎える]
【この君は主人方に】−薫は主人顔に振る舞おうとする。
【まだ客人居のかりそめなる方に出だし放ちたまへれば】−大君は薫をまだ主人扱いせずに、客人扱いに遠ざけて待遇する。
【戯れにくくもあるかな。かくてのみや】−『岷江入楚』は「有りぬやと試みがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今集雑体、一〇二五、読人しらず)を指摘。
【人の御上にても】−妹の中君の身の上。
【いとどかかる方を】−『集成』は「いよいよ結婚といった男女の関係を」。『完訳』は「大君は、中の君の様子から、結婚生活一般を厭わしく考えはじめる。一面では喜びをも感じている中の君との隔りに注意」と注す。
【なほひたぶるに】−以下「やみにしがな」まで、大君の心中。薫との結婚を思いとどまる決意。
【あはれと思ふ人の御心も】−薫をさす。『集成』は「うれしいと思うこの方のお気持にしても」。『完訳』は「今はいとしいと思うお方のお気持にしても」と訳す。
【心違はでやみにしがな】−『完訳』は「精神的な共感が理想視される」と注す。
【問ひきこえたまへば】−薫が大君に。
【かすめつつさればよとおぼしくのたまへば】−大君が薫の想像していたようにおっしゃるので。
【思したる御さまけしきを見ありくやうなど】−匂宮の様子や薫がそれをさぐっていることなどを。
【語りきこえたまふ】−薫が大君に。
【なほかくもの思ひ加ふるほど】−以下「聞こえむ」まで、大君の詞。『集成』は「思いがけぬ中の君の結婚に加えて匂宮の夜離れと、心労が加わっている」と注す。
【思したれば】−『集成』は「大君が」。『完訳』は、主語を薫として訳す。
【思さるるやうこそはあらめ】−以下「世にあらじ」まで、薫の心中。
【心のどかなる人は】−薫。語り手の批評を含む呼称。
【ただいとおぼつかなく】−以下「聞こえむ」まで、薫の詞。
【ありしやうにて聞こえむ】−かつて一周忌前の訪問の折に、屏風を押し開いて中に入って大君に逢ったことをさす。
【常よりも】−以下「いかなるにか」まで、大君の詞。
【わが面影に恥づるころなれば】−『源氏釈』は「夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なに我が面影に恥づる身なれば」(古今集恋四、六八一、伊勢)を指摘。
【かかる御心に】−以下「身にか」まで、薫の詞。
【例の遠山鳥にて明けぬ】−『源氏釈』は「雲居にて遠山鳥のはつかにもありとし聞かば恋ひつつもをらむ」(古今六帖二、山鳥)。『異本紫明抄』は「逢ふことは遠山鳥の目も逢はず逢はずて今宵明かしつるかな」(出典未詳)を指摘。
【宮はまだ旅寝なるらむとも思さで】−匂宮は薫がまだ客人扱いであることを知らずに。『集成』は「大君に迎え入れられていないとは想像もできない」と注す。
【中納言の主人方に】−以下「うらやましけれ」まで、匂宮の詞。『完訳』は「匂宮は、薫と大君がまだ他人の関係とは思いもよらない」と注す。
【女君あやしと聞きたまふ】−中君。『集成』は「薫と大君とはまだ他人と思っている」と注す。

 [第八段 匂宮、中の君を重んじる]
【またいかならむ人笑へにや】−姫君たちの心配。夜離れが続くことや捨てられて世間の物笑いになることを心配する。
【げに心尽くしに苦しげなるわざかなと見ゆ】−『紹巴抄』は「双地」と指摘。「げに」「かな」等の語句は語り手の大君への同情や共感の気持ち。
【京にも隠ろへて渡りたまふべき所もさすがになし】−「わたり」の主語は中君。『完訳』は「彼女が隠し妻でしかない点に注意」と注す。
【左の大殿】−夕霧。
【思しよらぬに】−主語は匂宮。
【思ひきこえたまふべかめり】−語り手の推量。
【許しなくそしりきこえたまひて】−主語は夕霧。
【内裏わたりにも】−匂宮の父帝は母明石中宮に対して。
【おぼえなくて出だし据ゑたまはむも】−『集成』は「中の君のような意外な人を大っぴらに夫人としてお迎えになるのも」と訳す。
【なべてに思す人の際は宮仕への筋にてなかなか心やすげなり】−『集成』は「並々にお思いの女だったら、宮仕えさせるといったことで、かえって扱いやすい。中宮などに仕えさせておく方法がある」。『完訳』は「表向きは女房という形。いわゆる召人。気安く逢えて、しかも世間から非難も受けない形である」と注す。
【もし世の中移りて】−以下「こそなさめ」まで、匂宮の心中。中君を立后させよう、の意。
【帝后の思しおきつるままにも】−帝と中宮は匂宮を将来の東宮にと考えている。
【心にかかりたまへるままに】−『集成』は「〔中君が〕お気に召しているあまりに」。『完訳』は「お心にかけていらっしゃるのだから」。副詞「ままに」、--に従って、--につれて、の意。
【中納言は三条の宮造り果てて】−昨年の春焼亡くした三条宮邸を新築。
【さるべきさまにて渡したてまつらむと思す】−夫人として世間に認められるようにして迎えよう、の意。
【げにただ人は心やすかりけり】−語り手の匂宮に比較して薫の行動に同意納得する気持ち。
【かたみに思ひ悩みたまふべかめるも】−匂宮と中君がお互いに。推量の助動詞「べかめり」は薫の推量。
【忍びてかく】−以下「あらせたてまつらばや」まで、薫の心中。
【しばしの御騒がれはいとほしくとも】−中君が明石中宮から一時とやかく言われるのは気の毒だが、の意。
【更衣など】−冬の衣替え。下文により十月一日とわかる。以下「扱ふらむ」まで、薫の心中。
【誰れかは扱ふらむ】−反語表現。自分薫以外にはいない、の意。
【まづさるべき用なむ】−薫の詞。母女三の宮に申し上げた内容。
【たてまつれたまふ】−宇治の姉妹に。
【のたまひつつ】−相談して、の意。

 

第五章 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り

 [第一段 十月朔日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り]
【十月朔日ころ】−神無月の上旬頃。初冬の季節。
【網代もをかしきほどならむ】−薫が匂宮を宇治へ誘う詞。『花鳥余情』は「宇治山の紅葉を見ずは長月の行く日をも知らずぞあらまし」(後撰集秋下、四四〇、千兼が女)を指摘。
【宰相中将】−「竹河」巻(第一章三段)に登場した蔵人少将、現在宰相(参議)兼中将。
【論なく】−以下「表すやうもぞはべる」まで、薫の詞。宇治の姫君たちへの指図。
【さきの春も、花見に尋ね参り来しこれかれ】−昨年の春、匂宮の初瀬詣での帰途に宇治の山荘に立ち寄った人々。「椎本」巻(第一章一段)に語られている。
【御簾掛け替へここかしこかき払ひ】−以下、匂宮一行を迎える準備。
【紅葉の朽葉すこしはるけ遣水の水草払はせなどぞしたまふ】−「やり」は「はるけやり」と「遣水」の懸詞的表現。
【たてまつれたまへり】−薫が差し上げた、の意。
【かつはゆかしげなけれど】−薫から何から何まで援助されたのでは奥ゆかしさもない、という。『完訳』は「一方では、あまりに手もとを見すかされような気もなさるけれども」と訳す。
【いかがはせむこれもさるべきにこそは】−大君の心中。前世からの宿縁と諦める。
【正身の御ありさまは】−匂宮の姿をいう。
【見たまふにも】−主語は姫君たち。
【げに七夕ばかりにても】−以下「待ち出でめ」まで、姫君たちの心中。『花鳥余情』は「年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我にまさりて思ふらめやも」(万葉集巻十五)「彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ」(伊勢物語)を指摘。『完訳』は「天の川紅葉を橋にわたせばや七夕つめの秋をしも待つ」(古今集秋上、一七五、読人しらず)を指摘。
【文作らせたまふべき】−漢詩文。
【博士なども】−文章博士。
【御舟さし寄せて】−宇治の宮邸の対岸、夕霧の別荘側に。
【海仙楽】−黄鐘調の舟楽。
【宮は近江の海の心地して】−『源氏釈』は「いかなれば近江の海のかかりてふ人を見る目の絶えて生ひねば」(出典未詳)を指摘。淡水では「みるめ」(海草)が生えない。「見る目」の懸詞。中君に逢えない嘆き。
【遠方人の恨みいかにと】−『花鳥余情』は「七夕の天の戸わたる今宵さへ遠方のつれなかるらむ」(後撰集秋上、二三八、読人しらず)を指摘。中君が恨めしく思っているだろうことを、匂宮は思いやる。
【人の迷ひ】−騷ぎ、乱れの意。
【宰相の御兄の衛門督】−夕霧の長男。
【かうやうの御ありきは】−親王の微行。
【聞こしめしおどろきて】−主語は明石中宮。
【殿上人あまた具して】−主語は衛門督。

 [第二段 一行、和歌を唱和する]
【今日はかくてと思すに】−今日は、このまま宇治の泊まろうと思っていたところに、の意。
【宮の大夫】−中宮大夫。
【かしこには】−中君。
【をかしやかなることもなく】−『集成』は「恋文らしい風流めいたことも書かず」。『完訳』は「艶書らしくきどる余裕もなく、真剣な弁解につとめる」と注す。
【人目しげく騒がしからむに】−中君の判断。返事を書かない理由。
【数ならぬありさまにては】−以下「かひなきわざかな」まで、中君の心中の思い。
【よそにて隔たる月日は】−以下、中君の心中にそった叙述。
【さりとも】−いくら何でも後には逢えよう、の意。
【近きほどに】−前文の「よそにて」と呼応する構文。
【宮はまして】−匂宮は中君以上に。
【網代の氷魚も心寄せたてまつりて】−擬人法。網代の氷魚が匂宮に心寄せて、という。『河海抄』は「紅葉葉の流れてとまる網代には白波も又寄らぬ日ぞなき」(古今六帖三、網代)を指摘、花鳥余情「いかでなほ網代の氷魚に言問はむ何によりてか我をとはぬと」(拾遺集雑秋、一一三四、修理)を指摘。
【人に従ひつつ心ゆく御ありきに】−『集成』は「皆に調子を合せて(表面は)楽しそうなご遊覧だが」。『完訳』は「人それぞれに満ち足りた行楽であるのに」「匂宮の、表面は調子を合せて楽しそうな遊覧ぶりだが」と注す。
【みづからの御心地は胸のみつとふたがりて空をのみ眺め】−『評釈』は「大空は恋しき人の形見かはもの思ふごとに眺めらるらむ」(古今集恋四、七四三、酒井人真)を指摘。
【なかなか頼めきこえけるを憂はしきわざかな】−薫の心中の思い。匂宮の来訪を告げておいたのに、それが取り止めになってしまったので。
【後れてここに眺めたまふらむ心細さを言ふ】−父宮に先立たれた姫君たちの心寂しさを話題にする。昨年の春の花の季節には、八宮はまだ在世中であった。その秋に逝去。
【ほの聞きたるもあるべし】−推量の助動詞「べし」は語り手の推量。湖月抄「草子地」と指摘。
【いとをかしげに】−以下「遊びならはしたまひければ」まで、人々の詞。姫君たちの噂をする。
【箏の琴上手にて】−箏の琴は中君、大君は琵琶を得意とした。
【いつぞやも花の盛りに一目見し木のもとさへや秋は寂しき】−宰相中将の詠歌。「木のもと」に「子(姫君たち)」を響かせる。
【主人方と思ひて言へば】−宰相中将が薫のこの姫君たちの主人側と思って読み掛けてくるので、の意。
【桜こそ思ひ知らすれ咲き匂ふ花も紅葉も常ならぬ世を】−薫の唱和歌。この世の無常を詠む。「花」「寂し」からの連想。
【いづこより秋は行きけむ山里の紅葉の蔭は過ぎ憂きものを】−衛門督の唱和歌。転じて、「紅葉」の美しさから、この場を去りがたい気持ちを詠む。
【見し人もなき山里の岩垣に心長くも這へる葛かな】−中宮大夫の唱和歌。『河海抄』は「奥山のいはがき紅葉散りぬべし照る日の光見る時なくて」(古今集秋下、二八二、藤原関雄)。『花鳥余情』は「見し人も忘れのみゆくふる里に心長くも来たる春かな」(後拾遺集雑三、一〇三四、藤原義懐)を指摘。
【親王の若くおはしける世のことなど思ひ出づるなめり】−連語「なめり」語り手の主観的推量。
【秋はてて寂しさまさる木のもとを吹きな過ぐしそ峰の松風】−匂宮の唱和歌。「木」に「子」を懸ける。
【げに深く】−以下「心苦しさ」まで、事情を知っている人々の思い。『細流抄』は「げに深く思すなりけり」を「草子地也」と解す。
【えおはしまし寄らず】−中君のもとに立ち寄ることができない。
【かうやうの酔ひの紛れにましてはかばかしきことあらむやは】−以下「見苦しくなむ」まで、語り手の省筆の弁。『林逸抄』は「双紙の詞」と指摘。『集成』は「省筆をことわり、先にあげた五首の歌について言い訳する草子地」と注す。

 [第三段 大君と中の君の思い]
【かしこには】−河の対岸。宇治の姫君たち。
【心まうけしつる人びとも】−女房たち。
【姫宮は、まして】−大君。女房たち以上に。
【なほ音に聞く月草の色なる御心なりけり】−以下「人笑へにをこがましきこと」まで、大君の心中。「御心」は匂宮の心。『源氏釈』は「いで人は言のみぞよき月草の移し心は色ことにして」(古今集恋四、七一一、読人しらず)を指摘。「月草」は移ろいやすい心を譬える。
【何ごとも筋ことなる際になりぬれば】−『完訳』は「皇族のような高貴な身分。大君は貴人を、下世話に語られる男とは別に考えていたが、自分の現実認識の浅さを知り、愕然とする」と注す。
【故宮も】−亡き父八宮。
【かやうに気近きほどまでは思し寄らざりしものを】−八宮は中君に一通りの返書を書くことは勧めていたが、結婚することまでは考えていなかった。
【見たてまつるにつけてさへ身の憂さを思ひ添ふるがあぢきなくもあるかな】−「さへ--添ふる」という、もともと我が身の薄幸を感じ取っていた上にさらに妹君の結婚の不幸までが加わってさらい辛い思いをする。
【正身は】−中君。
【さりとも】−以下「ものしたまふらめ」まで、中君の心中に添った叙述。「思し変らじと」の格助詞「と」で、いったん地の文になり再び「おぼつかなさも」から心中文。
【ほど経にけるが】−匂宮の訪れが間遠になったことをいう。
【なかなかにてうち過ぎたまひぬるを】−なまじ近くまで来ながら素通りされたこと。
【忍びがたき御けしきなるを】−中君の様子。
【人なみなみに】−以下「もてなしたまふまじきを」まで、大君の心中。世の姫君並みに、の意。
【もてなしたまふまじきを】−「を」間投助詞、詠嘆の意。接続助詞「を」の逆接のニュンスも響いて反実仮想的余韻を残す。

 [第四段 大君の思い]
【我も世にながらへば】−以下「いかで亡くなりなむ」まで、大君の心中。自分も生き永らえたら中君と同様のつらい思いをすることだろう、と思う。結婚を躊躇する気持ち。
【人の心を見むとなりけり】−「人」はわたし大君をさす。過去の助動詞「けり」詠嘆の意。今初めて気がついたというニュアンス。『完訳』は「薫はこちらの気を引いて反応を試すつもりだったのだと忖度」と注す。
【ある人の】−ここに仕えている者が。
【こりずまに】−歌語。性懲りもなく。
【かかる筋のことをのみ】−縁談話ばかり。
【つひにもてなされぬべかめり】−しまいには結婚させられてしまいそうだ、の意。
【これこそは、返す返す、さる心して世を過ぐせ】−父宮の遺言。間接話法で引用。結婚に関しては慎重に用心しなさい、の意。『集成』は「これこそは、繰り返し繰り返し、父宮がその積もりで用心して生きてゆくように」と訳す。
【諌めなりけり】−過去の助動詞「けり」詠嘆の意。今初めて気がついたというニュアンス。
【さもこそは、憂き身どもにて、さるべき人にも後れたてまつらめ】−『集成』は「こんな不幸な運命に生れついた二人ゆえ、頼みとする父母にも先立たれ申すようなことになるのだろうが」。『完訳』は「姉妹とも早くに両親を死別する不幸な宿命の身だから、どうせ結婚しても夫に先立たれよう」と訳す。
【罪などいと深からぬさきに】−『完訳』は「愛執など仏教上の罪をさす。思い屈するあまり死を意識する」と注す。
【物もつゆばかり参らずただ亡からむ後のあらましごとを】−大君の死への助走が始まる。
【心細くて】−死に向かっての孤独な心情、心細さが湧出。以下にも「心細し」の語句が頻出してくる。
【我にさへ後れたまひて】−主語は中君。両親にさきだたれ、さらに私姉にまで先立たれる。以下「心憂からむ」まで、大君の心中。
【限りなき人にものしたまふとも】−匂宮を念頭においていう。
【いふかひもなく】−以下「身どもなりけり」まで、大君の心中。
【身どもなりけり】−自分たち姉妹をさしていう。

 [第五段 匂宮の禁足、薫の後悔]
【例のやうに忍びて】−匂宮の思い。
【出で立ちたまひけるを】−出立なさろうとしたが。出立していない。
【かかる御忍び】−以下「そしり申すなり」まで、衛門督の詞。『集成』は「「もらし申し--」とあるので、衛門の督は取次ぎの女房にそれとなく言ったのであろう」と注す。
【そしり申すなり】−「なり」伝聞推定の助動詞。
【おほかた心にまかせたまへる御里住みの悪しきなり】−帝の詞。
【おしたちて参らせたまふべく】−『完訳』は「無理にも縁づけよう。将来の立坊を考え、軽率な微行など慎ませるための策」と注す。
【わがあまり異様なるぞや】−以下「咎むべき人もなしかし」まで、薫の心中。『集成』は「以下、六の君との結婚の結果、予想される中の君の悲境を思って、初めから自分のものにしておけばよかったと後悔する薫の心」と注す。
【親王の】−故宇治八宮をさす。
【宮もあやにくにとりもちて責めたまひしかば】−『完訳』は「匂宮もあいにくに身を入れて中の君への仲介に私をせきたてるし、一方、自分の心を寄せる大君がまた、中の君を自分に譲ろうとするのも不本意なので、匂宮を中の君に導いた。「あやにく」「あいなく」とあり、不本意な事態への苦肉の対処と、自らを合理化」と注す。
【いづれもわがものにて見たてまつらむに】−大君も中君も。「見たてまつる」は結婚する意。推量の助動詞「む」仮定の意。
【取り返すものならねど】−『源氏釈』は「とり返す物にもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ」(出典未詳)を指摘。
【宮はまして】−匂宮は薫以上に。
【御心につきて】−以下「いとなむ口惜しき」まで、中宮の詞。
【ここに参らせて】−『集成』は「私の所に宮仕えさせて、普通におだやかにお扱いなさい。女房として情けをかけて、忍び歩きなどはなさるな」。『完訳』は「私のもとに宮仕えさせて。忍び歩きの相手としてではなく召人の扱いとせよの戒め」と注す。「例ざまに」は召人、すなわち愛人関係をさす。
【筋ことに思ひきこえたまへるに】−主語は帝。匂宮を将来東宮にとのお考え。

 [第六段 時雨降る日、匂宮宇治の中の君を思う]
【時雨いたくして】−先の宇治遊覧は「十月朔日ころ」とあった。
【女一の宮の御方に参りたまひつれば】−主語は匂宮。同腹の姉。
【御几帳ばかり隔てて】−同腹の姉女一宮と弟匂宮の間に。
【またこの御ありさまに】−以下「劣りきこゆまじきぞかし」まで、匂宮の心中。敬語表現が混在し地の文と融合した叙述。
【世にありなむや】−反語表現。
【冷泉院の姫宮】−冷泉院の女一宮。弘徽殿女御腹。
【思しわたるに】−「思す」という敬語表現が混じる。
【かの山里人は】−宇治中君。
【女絵ども】−女性の愛玩する絵。男女の恋物語を主題にした大和絵。
【心々に世のありさま描きたる】−『完訳』は「さまざまな恋をする男女の姿を」と注す。
【かしこへ】−宇治の中君のもとへ。
【在五が物語を描きて】−在五の物語を絵にして。『伊勢物語』第四十九段の内容。
【人の結ばむと言ひたるを】−「うら若み寝よげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ」という『伊勢物語』四十九段中の男の歌。
【いかが思すらむ】−挿入句。語り手の匂宮の心中を忖度した表現。
【いにしへの人も】−以下「もてなさせたまふこそ」まで、匂宮の詞。
【さるべきほどは】−姉弟の間柄では、の意。
【もてなさせたまふこそ】−「こそ」の下に「つらけれ」などの語句が省略されている。
【いかなる絵にか】−女一宮の心中。
【おし巻き寄せて】−匂宮が絵を手もとに巻き寄せて。絵巻の形態。
【こぼれ出でたるかたそばばかり】−几帳の端からこぼれ出ているわずかばかりの髪を。
【飽かずめでたく】−以下「思ひきこえましかば」まで、匂宮の心中。初めの方は地の文的、次第に心中文となる。反実仮想の構文。
【すこしももの隔てたる人】−少しでも血の繋がりの遠い人、の意。
【若草のね見むものとは思はねどむずぼほれたる心地こそすれ】−匂宮から実の姉女一宮への贈歌。「若草」「根(寝)見む」は『伊勢物語』の作中歌を踏まえた表現。『完訳』は「姉弟だから共寝をとは思わぬが、悩ましく晴れやらぬ心地だと訴える。好色心躍如たる歌」と注す。
【ことしもこそあれうたてあやし】−女一宮の心中。
【ものものたまはず】−返歌をなさらない。
【ことわりにて--憎く思さる】−匂宮の思い。『源氏釈』は「初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな」(伊勢物語)を指摘。
【うらなくものをと言ひたる姫君もされて】−『伊勢物語』の姫君をさす。
【この二所をば】−女一宮と匂宮。
【御心の移ろひやすきは】−匂宮の好色心をいう。花鳥余情「世の中の人の心は花ぞめの移ろひやすき色にぞありける」(古今集恋五、七九五、読人しらず)。
【めづらしき人びとに】−『集成』は「新参の女房たちに」。『完訳』は「そうした中のこれはと目に立つ女房と」と注す。
【かのわたりを】−宇治中君をさす。

 

第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護

 [第一段 薫、大君の病気を知る]
【待ちきこえたまふ所は】−匂宮を。宇治の姫君たちをさす。
【なほかくなめり】−数日間の途絶えから、匂宮はやはり不誠実な人だと絶望する気持。
【悩ましげにしたまふと聞きて】−大君の状態。前に食事も通らないとあったことをさす。
【ことつけて】−病気にかこつけて。
【おどろきながら】−以下「御あたり近く」まで、薫の詞。
【苦しがりたまへど】−主語は大君。
【けにくくはあらで】−そっけなくはなく。
【宮の御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど】−匂宮が不本意ながら立ち寄ることができなかった事情などを。
【のどかに思せ】−以下「恨みきこえたまひそ」まで、薫の詞。
【ここにはともかくも】−以下「いとほしかりける」まで、大君の詞。「ここには」は妹の中君をさす。
【亡き人の御諌め】−故父八宮の遺言。
【世の中はとてもかくても】−以下「となむ思ひはべる」まで、薫の詞。「世の中」は夫婦仲をいう。『異本紫明抄』「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」(新古今集雑下、一八五一、蝉丸)を指摘。
【御心どもには】−大君と中君の御心中。
【人の御上をさへ扱ふもかつはあやしくおぼゆ】−『完訳』は「自分の恋もかなわぬのに、匂宮の世話までやくのも、一面では妙な感じ。自嘲ぎみの感慨である」と注す。
【いと苦しげにしたまひければ】−主語は大君。
【疎き人の御けはひの】−薫をさす。
【なほ例のあなたに】−女房の詞。西廂の客間に勧める。
【ましてかくわづらひたまふほどの】−以下「仕うまつる」まで、薫の詞。
【思ひのままに参り来て】−『集成』は「何もかも投げ出してやって参りましたのに」。『完訳』は「ただ心配のあまりお訪ねしてしまったのに」と訳す。
【誰れかは--仕うまつる】−反語表現。私薫しかいない、意。
【いと見苦しくことさらにも厭はしき身を】−大君の心中。薫の指図を聞きながら思う。
【思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば】−『完訳』は「せっかくのご親切に対して察しもつかぬようにお断りをおっしゃるのも不都合なことだし」と注す。
【さすがにながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり】−『集成』は「それでもやはり、長生きせよと願っていられる(薫の)気持もうれしく思われる。「さすがに」は、「ことさらにもいとはしき身を、と聞きたまへど」に応じる」。『完訳』は「薫の言動に、大君は一面ではやはり、誠意を認めて感動する」と注す。

 [第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る]
【すこしもよろしく】−以下「聞こえさせむ」まで、薫の詞。
【日ごろ経ればにや】−以下「こなたに」まで、大君の詞。
【いとあはれに】−以下、薫の気持ちに即した叙述。
【ありしよりはなつかしき御けしきなるも】−『完訳』は「病床近くに招き入れるといった、今までにない親しい扱いに、薫は胸騷ぎがする」と注す。
【苦しくて】−以下「ためらはむほど」まで、大君の詞。
【かかる御住まひは】−以下「移ろはしたてまつむ」まで、薫の詞。
【所さりたまふにことよせて】−薫は転地療法にかこつけて、大君を都の適当な場所に移そうとする。
【阿闍梨にも】−故八宮の師である宇治山の阿闍梨。
【この君の御供なる人の】−薫の供人。「人の」の「の」は格助詞、同格の意。
【おのがじしの物語に】−薫の供人とその恋人の世間話。
【かの宮の御忍びありき】−以下「おぼろけならぬことと人申す」まで、供人の匂宮についての噂話。
【女方は】−夕霧の六君。
【ありぬべかなり】−連語「ぬべし」の連体形。確信に満ちた推量のニュアンス。「なり」伝聞推定の助動詞。
【宮はしぶしぶに思して】−匂宮。六君との結婚に気が進まない。
【あらざめり】−推量の助動詞「めり」。供人の主観的推量のニュアンス。
【わが殿こそ】−薫をさす。係助詞「こそ」は「もて悩まれたまへ」にかかる。
【渡りたまふのみなむ】−係助詞「なむ」は結びの流れ。
【さこそ言ひつれ】−薫の供人の恋人の詞。供人の話を間接話法で周囲の女房にかたる。
【人びとの中にて】−女房たちの中で。
【語るを聞きたまふに】−主語は大君。
【今は限りにこそあなれ】−以下「深きなりけり」まで、大君の心中。匂宮と六君の結婚話を聞いて絶望を感じる。
【中納言などの思はむところを思して】−薫の思惑。
【いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり】−精も根も尽き果てた様子。『完訳』は「薄情な匂宮への恨めしさ。それより、妹の親代りへとしての責任を痛感。しかしなすすべもなく無力」と注す。
【思ふらむところの苦しければ】−主語は女房たち。
【もの思ふ時のわざと聞きしうたた寝の御さまの】−『源氏釈』は「たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふときのわざにぞありける」(拾遺集恋四、八九七、読人しらず)を指摘する。
【親の諌めし言の葉も】−前の引歌「たらちねの」歌の言葉による。故父八宮の遺言をさす。
【罪深かなる底には】−以下「見えたまはぬよ」まで、大君の心中。「なる」伝聞推定の助動詞。罪深い人の行くところ、すなわち地獄をさす。
【よも沈みたまはじ】−主語は故父八宮。
【迎へたまひてよ】−私を。『完訳』は「亡父に抱きとめられたい思い。死への道が刻々と近づく趣である」と注す。
【もの思ふ身ども】−複数を表す接尾語「ども」、大君と中君の姉妹をさす。
【見えたまはぬよ】−主語は故八宮。

 [第三段 中の君、昼寝の夢から覚める]
【夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて】−初冬の山里の荒寥たる風景。大君の心象風景。
【思ひ続けられて】−主語は大君。
【添ひ臥したまへるさま】−几帳の陰に添って臥しているさま。
【白き御衣に】−清浄なさま。病中の体。
【見知らむ人に見せまほし】−語り手の評語。暗に薫をさしていう。
【昼寝の君】−中君。
【故宮の夢に見えたまへる】−以下「こそほのめきたまひつれ」まで、中君の詞。
【このわたりにこそ】−『集成』は「手で指し示す体」と注す。
【亡せたまひて後】−以下「見たてまつらね」まで、大君の詞。
【このころ明け暮れ】−以下「身どもにて」まで、大君の心中。
【罪深げなる身どもにて】−女は罪障が深く極楽往生も難しいとする仏教思想。
【人の国にありけむ香の煙ぞ】−『源氏釈』は「白氏文集」李夫人の反魂香の故事を指摘する。

 [第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く]
【折はすこしもの思ひ慰みぬべし】−『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の推測」と注す。
【御方は】−中君。匂宮の夫人という意味での呼称。
【なほ、心うつくしく】−以下「頼まれはべる」まで、大君の詞。
【かくてはかなくもなりはべりなば】−主語は大君。自分の死後を想像していう。
【これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや】−匂宮以上にひどい男が現れるのではないか、と危惧する。
【この人の】−匂宮。
【さやうなるあるまじき心】−前出の「これより名残なき方にもてなしきこゆる」を受ける。
【頼まれはべる】−「れ」自発の助動詞。『完訳』は「保護者の役割程度を宮に期待」と注す。
【後らさむと】−以下「いみじくはべれ」まで、中君の詞。
【限りあれば】−以下「命にかは」まで、大君の詞。
【片時もとまらじと】−打消推量の助動詞「じ」意志の打ち消し。生き残っていまい、の意。
【明日知らぬ世のさすがに嘆かしきも】−『源氏釈』は「明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ」(古今集哀傷、八三八、紀貫之)を指摘。
【誰がため惜しき命にかは】−『源氏釈』は「岩くぐる山井の水を結びあげて誰がため惜しき命とかは知る」(伊勢集)を指摘。
【見たまふ】−匂宮からの文を。
【眺むるは同じ雲居をいかなればおぼつかなさを添ふる時雨ぞ】−匂宮から中君への贈歌。
【かく袖ひつるなど】−『源氏釈』は「いにしへも今も昔も行く末もか袖ひづるたぐひあらじな」(出典未詳)を指摘。『花鳥余情』は「神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき」(出典未詳)を指摘。『湖月抄』は「地」と草子地であることを指摘。語り手の推測を交えた表現。
【人にめでられむと】−女たちからちやほやされようと。
【若き人の心寄せたてまつりたまはむ】−中君が匂宮に。間接的な言い回し。
【さばかり所狭きまで契りおきたまひしを】−接続助詞「を」について、『集成』は「あんなにご大層なまでにお約束なさっていたのに、いくら何でも、このまま終るはずはない」と逆接の意。『完訳』は「あれほど十分過ぎるほどにお約束をしておかれたのだから、今さしあたってどうあろうとまさかこのままになってしまうこともなかろうと」と順接の原因理由の意に解す。『完訳』は「以下、宮への信頼感が起るとする。大君との相異に注意」と注す。
【今宵参りなむ】−使者の詞。中君の返事を催促。
【霰降る深山の里は朝夕に眺むる空もかきくらしつつ】−中君の返歌。「眺むる」の語句を用いて返す。『花鳥余情』は「霰降る深山の里の侘しきは来てたはやすく訪ふ人ぞなき」(後撰集冬、四六八、読人しらず)を指摘。『細流抄』は「深山にはあられ降るらし外山なるまさきの葛色づきにけり」(古今集、一〇七七、大歌所御歌)を指摘。
【かく言ふは神無月の晦日なりけり】−語り手の説明的叙述。
【障り多みなるほどに】−『源氏釈』は「港入りの葦分け小舟障り多み我が思ふ人に逢はぬころかな」(拾遺集恋三、八五三、柿本人麿)を指摘。
【五節などとく出で来たる年にて】−『集成』は「十一月の中の丑、寅、卯、辰の日に行われる儀式。普通、月に三度ある丑の日が二丑の時は、上の丑の日から行われる。今年はそれに当るのであろう」と注す。
【あさましく待ち遠なり】−宇治では。語り手の感情移入による叙述。
【はかなく人を見たまふにつけても】−主語は匂宮。
【なほさるのどやかなる】−以下「もてなしたまへ」まで、明石中宮の匂宮への詞。
【重々しくもてなしたまへ】−『集成』は「女房として召し使うように、と忠告する」と注す。
【しばしさ思うたまふるやう】−匂宮の返事。「さ」は自分で考えている内容をさす。
【まことにつらき目はいかでか見せむ】−匂宮の心中の思い。中君をそのようなつらい目には遇わせられない。反語表現。
【思す御心を知りたまはねば】−文は切れずに匂宮の心中から中君へ一続きで流れていく表現。

 [第五段 薫、大君を見舞う]
【見しほどよりは】−以下「さりとも」まで、薫の心中の思い。
【をさをさ参りたまはず】−匂宮のもとに。『集成』は「薫の立腹のさま」と注す。
【いかにいかに】−大君の病状を見舞う文の要旨。
【修法はおこたり果てたまふまで】−薫の采配の要旨。
【よろしくなりにけりとて】−大君自身の発言。
【そこはかと痛きところもなく】−以下「思ひたまへ入りはべり」まで、弁の詞。『完訳』は「死病の徴候か。紫の上の病状とも類似」と注す。
【この宮の御こと出で来にしのち】−匂宮と六君との結婚話が出てきて後。
【よに心憂くはべりける身の命の長さにて】−弁自身のことをいう。長生きしたことによってつらい目を多く見るという。
【心憂くなどか】−以下「おぼつかなさ」まで、薫の詞。
【ありし方に入りたまふ】−先日通された大君の病室の前の廂の間。
【かく重くなりたまふまで】−以下「かひなきこと」まで、薫の詞。
【思ふにかひなきこと】−『完訳』は「心配のしがいもない。適切な処置もなく、の非難でもある」と注す。
【験ありと聞こゆる人の限り】−効験あると言われている人々すべて。
【御修法読経】−以下「始めさせたまはむ」まで、薫の心中の思いを地の文で叙述。
【殿人】−薫の家来、京の邸に仕えている者たち。

 [第六段 薫、大君を看護する]
【例のあなたに】−弁の詞であろう。いつもの客間に、の意。
【近くてだに見たてまつらむ】−薫の詞。『集成』は「せめて近くにいて看取ってさし上げたい」と訳す。
【中の宮苦しと思したれど】−中君は大君の枕元にいる様子。
【この御仲を】−薫と大君の仲。
【なほもてはなれたまはぬなりけり】−女房たちの思い。
【読ませたまふ】−「せ」使役の助動詞。薫が僧侶に。
【灯はこなたの南の間にともして内は暗きに】−母屋の南側に僧侶の関があり、その東面に薫はいる。その北側に大君の病床がある様子。
【見たてまつりたまへば】−薫が大君を。
【などか御声をだに聞かせたまはぬ】−薫の詞。
【心地には】−以下「こそはべりつれ」まで、大君の詞。
【おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと口惜しくこそはべりつれ】−『完訳』は「死を目前に、薫との不都合な関係も生じないと思うと、大君は胸奥に秘めた薫への好意をはじめて率直に告白。薫は感動のあまり嗚咽」と注す。
【かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること】−薫の詞。今まで訪問しなかったことを後悔。
【御ぐしなどすこし熱くぞおはしける】−薫は大君の額に手を当てる。熱がある様子。
【何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ】−薫の詞。『花鳥余情』は「水ごもりの神に問ひても聞きてしが恋ひつつ逢はぬ何の罪ぞと」(古今六帖四、片恋)を指摘。
【むなしく見なしていかなる心地せむ】−薫の心中の思い。
【日ごろ見たてまつりたまひつらむ】−以下「さぶらふべし」まで、薫の詞。中君に向かって言う。
【宿直人】−自分自身をいう。
【さるやうこそは】−中君の心中の思い。『完訳」は「秘密の話もあろうか、の気持」と注す。
【かかるべき契りこそはありけめ】−大君の心中の思い。身近に看病してもらうことを、前世からの宿縁であったのかと、思う。
【かの片つ方の人に】−匂宮をさす。
【むなしくなりなむ後の】−以下「思ひ隈なからし」まで、大君の心中の思い。『集成』は「死期に臨んで、せめていい思い出を残したいと思う」。『完訳』は「世俗的な結婚を拒否しながらも、大君は薫に真情を告白し、彼の胸奥に美しき印象を残したいとする。反俗的な愛の希求というべきか」と注す。
【夜もすがら人をそそのかして】−主語は薫。女房たちに指図して。
【いみじのわざや】−以下「かけとどむべき」まで、薫の心中の思い。

 [第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る]
【暁方のゐ替はりたる声の】−後夜から晨朝への交替。このとき、重唱となる。
【阿闍梨も夜居にさぶらひて】−徹夜で加持をすること。
【いかが今宵はおはしましつらむ】−阿闍梨の詞。
【故宮の御ことなど】−故八宮についての夢語り。
【いかなる所に】−以下「つかせはべる」まで、阿闍梨の詞。
【涼しき方に】−極楽浄土をさす。
【俗の御かたちにて】−在俗のままの姿。極楽往生をしていないさま。中君の夢の中にも極楽往生できなかったさまが語られていた。
【世の中を深う厭ひ離れしかば】−以下「すすむるわざせよ」まで、夢の中の八宮の詞。
【いささかうち思ひしことに乱れてなむ】−「なむ」は「悔しき」に係る。『集成』は「姫君たちの身の上を心にかけてのこと、ととれる言葉」。『完訳』は「姫君たちの身を案じて。大事な臨終の際にその妄想が浮んで、往生の一念が乱れたという趣。生前の懸念が的中」と注す。
【仕うまつるべきこと】−追善供養。
【堪へたるにしたがひて】−私でできる範囲内で、の意。
【なにがしの念仏なむ】−阿彌陀の念仏。それをぼかして言ったもの。
【思ひたまへ得たることはべりて】−『完訳』は「亡き宮の成仏のために考えついた」と注す。
【常不軽をなむ】−法華経の「常不軽菩薩品」。
【君も】−薫。
【かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを苦しき御心地にもいとど消え入りぬばかりおぼえたまふ】−『完訳』は「大君の心中。父宮の往生の障害にまでなった自分たちの罪深さ」と注す。前半は大君の心中に即した叙述(心中の間接的叙述)、後半は地の文による叙述(語り手による客観的叙述)。
【いかでかの】−以下「同じ所にも」まで、大君の心中、直接的叙述。
【そのわたりの里々】−宇治近辺の里。
【中門のもとに】−八宮邸の中門。
【いと尊くつく】−額ずく、意。礼拝する。
【切におぼつかなくて】−大君の容体が気がかりで、の意。
【不軽の声はいかが】−以下「こそはべりけれ」まで、薫の詞。
【重々しき道には行はぬことなれど】−常不軽の行は朝廷などでは行われないもの、とされている。
【霜さゆる汀の千鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな】−薫の中君への贈歌。
【言葉のやうに聞こえたまふ】−話しかけるように。和歌は節をつけて詠じた。
【つれなき人の御けはひにも通ひて】−匂宮の感じに似て。
【思ひよそへらるれど】−主語は中君。匂宮が思い出される。
【暁の霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る】−中君の返歌。「霜」「千鳥」の言葉を用いて返す。
【似つかはしからぬ御代りなれど】−弁の代役をさしていう。前の「御けはひに通ひて」と対照的表現。
【かやうのはかなしごとも】−以下「いかなる心地せむ」まで、薫の心中の思い。
【つつましげなるものから】−大君の態度を想起。

 [第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う]
【宮の夢に見えたまひけむさま】−故八宮が阿闍梨の夢の中に現れたという様子を。格助詞「の」は主格。
【思しあはするに】−主語は薫。
【かう心苦しき御ありさまどもを】−以下「見たまふらむ」まで、薫の心中の思い。
【天翔りても】−『集成』は「死者の霊が成仏せぬ時、宙をさまようとされた」と注す。
【いかに見たまふらむ】−主語は八宮。
【おはしましし御寺にも】−主語は八宮。
【公にも私にも、御暇のよし申したまひて】−「公」は朝廷への欠勤届け。「私」は薫の私的な主人家筋への暇乞い。例えば、匂宮邸や夕霧邸へ。
【ものの罪めきたる御病にもあらざりければ】−何かの祟による病気というのでない。原因が不明。
【みづからも平らかに】−大君自身も。
【念じたまはばこそあらめ】−「こそ」「あらめ」は係結びの法則、逆接用法。
【なほかかるついでに】−以下「わざなれ」まで、大君の心中。
【かうおろかならず見ゆめる心ばへの見劣りして】−『完訳』は「今は並大抵とは思われぬ気持が、結婚後はそれほどでもなかったのだと、双方で互いに思うようでは。結婚そのものが夫にも妻にも幻滅をもたらすとして、絶望的」と注す。
【形をも変へてむ】−出家して尼姿となる。
【とあるにても】−以下「思ふことしてむ」まで、大君の心中。生きるにせよ死ぬにせよ。出家を遂げたい。
【心地のいよいよ頼もしげなく】−以下「阿闍梨にのたまへ」まで、大君の詞。
【いとあるまじき御ことなり】−以下「思ひきこえたまはむ」まで、女房の詞。
【頼もし人にも】−薫をさす。
【口惜しう思す】−主語は大君。
【かく籠もりゐたまひつれば】−主語は薫。宇治に。
【豊明は今日ぞかし】−薫の心中。豊明節会、十一月上の辰の日。
【風いたう吹きて雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ】−薫の荒寥たる心象風景。
【都にはいとかうしもあらじかし】−薫の心中に即した叙述。
【疎くてやみぬべきにや】−薫の心中の思い。
【ただしばしにても】−以下「かたらはばや」まで、薫の心中の思い。
【思ひつることどもも語らはばや】−『完訳』は「薫は結婚したかったことを。「つる」の完了形に注意。死が目前」と注す。
【かき曇り日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな】−薫の独詠歌。『完訳』は「「光もなくて--」の景に、薫の絶望的な心象風景をかたどる歌」と注す。

 [第九段 薫、大君に寄り添う]
【かくておはするを】−薫が付き添っていらっしゃるのを。
【例の近き方にゐたまへるに】−主語は中君。
【いと近う寄りて】−主語は薫。
【いかが思さるる】−以下「いみじうつらからむ」まで、薫の詞。
【後らかしたまはば】−「後らかす」は「後らす」よりも使役的ニュアンスが強く出る。私をしてあとに残して逝かれたら、という自分に引きつけた物の言い方。
【ものおぼえずなりにたるさまなれど】−大君のさま。『完訳』は「病状が悪化し、意識が混濁」と注す。
【顔はいとよく隠したまへり】−『完訳』は「衰弱の顔を見られまいとする。薫に美しき印象を残して死にたいという願望」と注す。
【よろしき隙あらば】−以下「わざにこそ」まで、大君の詞。
【いよいよせきとどめがたくて】−主語は薫。
【声も惜しまれず】−「れ」自発の助動詞。『集成』は「嗚咽の声も抑えきれない」。『完訳』は「涙はもとより声も惜しまず泣かずにはいられない」と注す。
【いかなる契りにて】−以下「ふしにもせむ」まで、薫の心中の思い。
【別れたてまつるべきにか】−自分の宿縁に対する疑問を投げ掛ける。
【憂きさまを】−大君の容貌に醜いさまを、の意。
【腕などもいと細うなりて】−薫の目や手を握った感触を通しての叙述。
【衾を押しやりて】−夜具も重く感じられるさま。
【身もなき雛を臥せたらむ心地して】−大君の痩せ細ったさま。
【うちやられたる枕より落ちたる際の】−「うちやられたる」は連体中止法。いったん余韻をもって中止し、そしてそれが、というニュアンスで下文に続く。
【いかになりたまひなむとするぞと】−薫の心中の思い。「と」は地の文。
【あるべきものにもあらざめりと見るが】−薫の心中の思い。前の心中の思いと並列の構文。
【心とけず恥づかしげに】−『完訳』は「薫に気を許そうともせず、近寄りにくいほど気高い様子」と注す。
【魂も静まらむ方なし】−語り手の評言。薫は物思いのあまりに魂が遊離してしまいそうだ、の意。

 

第七章 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆

 [第一段 大君、もの隠れゆくように死す]
【つひにうち捨てたまひなば】−以下「思ひきこゆる」まで、薫の詞。
【命もし限りありて】−薫の寿命。
【深き山にさすらへなむとす】−出家遁世したい、という。
【いらへさせたてまつらむとて】−薫の大変に丁重な態度。
【かの御ことをかけたまへば】−中君のことをさす。
【かくはかなかりけるものを】−以下「おぼえはべる」まで、大君の詞。『完訳』は「自分の短命が予感されたのに、情け知らずの強情者と思われるのも不本意、の意。薫の求愛を拒んできた理由として言う」と注す。
【思ひ隈なきやうに】−自分大君が情を解さない女のように、の意。
【このとまりたまはむ人を】−中君をいう。
【同じこと思ひきこえたまへとほのめかしきこえしに】−かつて薫と中君とを結婚させようとした事件をさしていう。
【違へたまはざらましかば、うしろやすからましと】−反実仮想の構文。
【とまりぬべうおぼえはべる】−『完訳』は「執着が残り成仏できぬ気持。亡き八の宮の迷妄も念頭にあろう」と注す。
【かくいみじう】−以下「思ひきこえたまひそ」まで、薫の詞。
【異ざまにこの世を思ひかかづらふ方のはべらざりつれば】−あなた大君以外に執着することがなかった、の意。
【御おもむけに従ひきこえずなりにし】−『集成』は「詠嘆の気持から、連体止めになる」と注す。
【今なむ悔しく心苦しうもおぼゆる】−『完訳』は「中の君を匂宮に導いた自らの措置を、今にして悔む気持」と注す。
【うしろめたくな思ひきこえたまひそ】−中君のことをさす。現世への執着を断つように言う。
【いと苦しげにしたまへば】−主語は大君。挿入句。
【召し入れさせ--加持参らせさせたまふ】−「させ」使役の助動詞。薫が阿闍梨をして。
【我も仏を念ぜさせたまふこと限りなし】−「させたまふ」最高敬語。語り手の評言。
【世の中をことさらに厭ひ離れね】−以下「いみじきわざかな」あたりまで、薫の心中に即した叙述。地の文と心中文が交錯。『完訳』は「俗世を厭い離れよと、格別勧める仏などが、こんな悲しい目に遭遇させるのか。源氏の晩年の述懐にも類似」と指摘。薫や源氏の仏を恨む気持ちには、底流に紫式部の仏教への不信感があろうか。
【見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは】−大君の死。薫の目を通して叙述される。
【もの隠れゆく】−「物ゝかれゆく」御池肖三 河内本と別本の横山本は「かくれ」(隠)とある。『集成』『完訳』は「ものの枯れゆく」と校訂。
【引きとどむべき方なく足摺りもしつべく】−『異本紫明抄』は「白玉か何ぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」(伊勢物語)を指摘。
【思ひ惑ひたまふさまもことわりなり】−『評釈』は「作者の言葉である」と注す。
【あるにもあらず見えたまふを】−中君の有様。正気を失ったさま。
【今はいとゆゆしきこと】−女房の詞。死の穢れから離れるように促す。

 [第二段 大君の火葬と薫の忌籠もり]
【さりともいとかかることあらじ夢か】−薫の心中に即した叙述。
【大殿油を近うかかげて】−『完訳』は「灯芯をかきあげて明るくし、大君の死顔に見入る。紫の上死去の場面に類似」と指摘。
【隠したまふ顔もただ寝たまへるやうにて】−前に「顔隠したまへる御袖を少し引き直して」(第七章一段)とあった。今、薫が大君の顔から袖を除けて見入っているさま。
【かくながら、虫の骸のやうにても】−以下「見るわざならましかば」まで、薫の心中。『異本紫明抄』は「空蝉は殻を見つつも慰めつ深草の山煙だに立て」(古今集哀傷、八三一、僧都勝延)を指摘。
【今はの事どもするに】−主語は女房たち。死後の処置。
【御髪をかきやるに】−主語は女房たち。大君の髪を。
【ありがたう何ごとにて】−以下「見つけさせたまへ」まで、薫の心中。反語表現。思い諦めることができない。
【まことに世の中を思ひ捨て果つるしるべならば恐ろしげに憂きことの悲しさも冷めぬべきふしをだに見つけさせたまへ】−「恐ろしげに憂きことの」の格助詞「の」は同格の意。大君の死顔に彼女を厭い諦める醜さを表してほしい。
【ひたぶるに煙にだになし果ててむ】−薫の心中の思い。
【とかく例の作法どもするぞあさましかりける】−語り手の評言。
【空を歩むやうにただよひつつ】−薫の足腰のさま。茫然自失の体。
【限りのありさまさへ】−以下「あへなし」まで、火葬の煙を見ての薫の感想。
【御忌に籠もれる人数多くて】−『集成』は「期間は三十日。薫がいるので人数が多いのである」と注す。
【心細さはすこし紛れぬべけれど】−主語は女房たち。
【人の見思はむことも恥づかしき身の心憂さを】−『集成』は「匂宮に捨てられたと思って、大君がそれを苦に亡くなられたからである」と注す。
【宮よりも御弔らひいとしげく】−匂宮から中君への弔問。
【いと憂き人の御ゆかりなり】−語り手の評言。匂宮との何ともつらい宿縁であると評す。
【三条の宮の】−薫の母女三の宮。
【この君の御ことの心苦しさとに】−中君のお身の上のいたわしさ。
【かののたまひしやうにて】−以下「通はましものを」まで、薫の心中。『完訳』は「大君の思惑どおり大君の形見としてでも中の君と結ばれるべきだった、とする。「形見」の語に注意。薫には、大君あってこその中の君である」と注す。
【かうもの思はせたてまつるよりは】−大君の死によって、中君に悲しませるよりは、の意。
【尽きせぬ慰めにも見たてまつり通はましものを】−『集成』は「尽きぬ悲しみの慰めとしてでも(中の君と)連れ添うのだった。「見通ふ」は親しくする、情を通ずるというほどの意」。『完訳』は「姫宮を失ってしまった尽きぬ悲しみを慰めるためにも夫婦としてお世話申すことにすればよかったものを」と注す。
【籠もりおはするを】−薫は中陰の間、宇治に閉じ籠もる。

 [第三段 七日毎の法事と薫の悲嘆]
【七日七日の事どもいと尊くせさせたまひつつ】−薫が七日ごとの法要を主催する。「させ」は使役の助動詞。
【限りあれば】−『完訳』は「薫と大君は近親者でも夫婦でもないので薫は喪服を着られない」と注す。
【くれなゐに落つる涙もかひなきは形見の色を染めぬなりけり】−薫の独詠歌。
【聴し色の氷解けぬかと見ゆるを】−『完訳』は「ここは薄紅色。直衣の色目。それが涙で凍りついたように光る」と注す。
【いとなまめかしくきよげなり】−語り手の評言。
【言ふかひなき御ことをば】−以下「背かせたまへるよ」まで、女房たちの詞。「言ふかひなき御こと」は大君の死をさす。
【今はとよそに思ひきこえむこそ】−薫を縁のない人として拝し上げるのは、の意。
【かたがたに背かせたまへるよ】−大君は死去し中君は匂宮と結婚して、どちらとも薫と結ばれなかった。
【この御方には】−中君をさす。
【昔の御形見に】−以下「思し隔つな」まで、薫の詞。
【よろづのこと憂き身なりけり】−中君の心中の思い。
【この君はけざやかなるかたに】−以下「劣りたまへりける」まで、薫の心中の思い。中君を大君と対比する。
【なつかしく匂ひある心ざまぞ劣りたまへりける】−『完訳』は「親しみ深くうるおいのある人柄という点では、大君より劣る」と注す。

 [第四段 雪の降る日、薫、大君を思う]
【世の人のすさまじきことに言ふなる師走の月夜の】−『集成』は「『河海抄』に「清少納言枕草子、すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月夜と云々」とあるが現存本には見えない」。『完訳』は「十二月の月夜は殺風景なものとされた。朝顔巻」と注す。
【簾巻き上げて見たまへば向かひの寺の鐘の声枕をそばたてて今日も暮れぬと】−『源氏釈』は「山寺の入相の鐘の声ごとに今日もくれぬと聞くぞ悲しき」(拾遺集哀傷、一三二九、読人しらず)、「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴く香炉峯の雪は簾を撥げて看る」(白氏文集巻十六、律詩・和漢朗詠集、山家)を指摘。
【おくれじと空ゆく月を慕ふかなつひに住むべきこの世ならねば】−薫の故大君を慕う独詠歌、第二首目。「澄む」に「住む」を掛ける。「澄む」は「月」の縁語。
【四方の山の鏡と見ゆる汀の氷】−『完訳』は「雪の積った周囲の山々の姿が映って、鏡と見まがう岸辺の氷が。凄絶な薫の心象風景である」と指摘。
【京の家の限りなくと】−以下「あらぬはや」まで、薫の目と心中にそった叙述。「京の家」は京の貴顕の邸宅。
【わづかに生き出でて】−以下「聞こえまし」まで、薫の心中。反実仮想の構文。
【恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山にや跡を消なまし】−薫の故大君を慕う独詠歌、第三首目。『完訳』は「『竹取物語』の帝が、かぐや姫昇天後、ひとり長寿を保つ孤独の苦しみを思い、不死の薬を焼かせたのと、同じ発想であろう。薫の、大君に抱く絶望的な愛執に注意」と指摘。
【半ばなる偈教へむ鬼もがな、ことつけて身も投げむ】−薫の心中の思い。『大般涅槃経』第十四他の雪山童子の話を引く。
【と思すぞ心ぎたなき聖心なりける】−『紹巴抄』は「双」と指摘。『集成』は「未練がましい道心ではある。草子地。雪山童子は求法のためだが、薫は恋ゆえだからである」と注す。
【御心地の重くならせたまひしことも】−以下「悩みそめしなり」まで、弁の詞。
【ただこの宮の御ことを】−匂宮の態度をさす。「かの」ではなく「この」という。
【かの御方には】−中君をさす。
【かく思ふと】−大君が心配していると。
【上べには】−下文の「--下の御心の」と呼応する構文。
【故宮の御戒めにさへ違ひぬることと】−亡き父宮の訓戒。結婚は考えるな遺言されたこと。

 [第五段 匂宮、雪の中、宇治へ弔問]
【わが心からあぢきなきことを思はせたてまつりけむこと】−薫の心中の思い。大君に対する反省と後悔。
【取り返さまほしく】−『全書』は「取り返す物にもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ」(出典未詳)を指摘。
【念誦を】−心に仏を念じ、口に仏の名号や経文を唱えること。
【まだ夜深きほどの雪のけはひいと寒げなるに】−格助詞「の」時間を表すとともに同格的ニュアンスも。接続助詞「に」順接の意とともに格助詞「に」の時間を表すニュアンスも。
【何人かは】−以下「雪を分くべき」まで、大徳たちの心中。
【さななりと聞きたまひて】−主語は薫。匂宮の来訪と察知する。
【心もとなく思しわびて】−主語は匂宮。
【日ごろのつらさも紛れぬべきほどなれど】−『完訳』は「以下、中の君の心中に即す」と注す。
【思し嘆きたるさまの恥づかしかりしを】−『集成』は「姉君のお嘆きになっていたご様子に、顔向けならぬ思いがしたものだが。自分が匂宮に捨てられたために、大君を苦しませたと思うからである」と注す。接続助詞「を」弱い逆接の意。
【やがて見直されたまはずなりにしも】−『完訳』は「大君の生前、ついに匂宮の誠意の証されなかったことを嘆く」と注す。
【今より後の御心改まらむは】−匂宮の心をさす。冷淡薄情な気持ちが改まること。
【物越にてぞ】−几帳などを隔てて。係助詞「ぞ」は「聞きゐたまへる」に係る。
【日ごろのおこたり】−主語は匂宮。以下「のたまふを」まで、挿入句。
【これも】−中君をさす。
【いとあるかなきかにて後れたまふまじきにや】−匂宮が物を隔てて感じ取った中君の様子。
【うしろめたういみじ】−匂宮の心中の思い。
【物越ならで】−匂宮の詞。
【今すこしものおぼゆるほどまではべらば】−中君の詞。
【御ありさまに違ひて】−以下「苦しう思すらむ」まで、薫の詞。『集成』は「こちらのお嘆きもよそに、薄情とも思えるお扱いぶりが。二カ月にわたって通って来ないことを言う」。『完訳』は「こちらの心痛に察しのない、薄情な匂宮のなさりようが」と注す。
【昔も今も】−大君の生前も死後の今も、の意。
【月ごろの罪は】−一月余りの夜離れの罪。
【かやうなることまだ見知らぬ御心にて】−匂宮は妻から薄情を厳しく責め立てられた経験をもたない、と薫はいう。
【賢しがりたまへば】−『完訳』は「匂宮のことまで口出しするとは、おせっかいな、の気持」と注す。
【あさましく】−以下「忘れたまひけること」まで、匂宮の詞。
【嘆き暮らしたまへり】−物を隔てたままの状態で一日が暮れた。

 [第六段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]
【人やりならず嘆き臥したまへるも】−主語は匂宮。
【千々の社をひきかけて】−『異本紫明抄』は「誓ひつることのあまたになりぬれば千々の社も耳馴れぬらむ」(出典未詳)を指摘。
【いかでかく口馴れたまひけむ】−中君の心中。
【来し方を思ひ出づるもはかなきを行く末かけてなに頼むらむ】−中君の匂宮への贈歌。
【なかなかいぶせう心もとなし】−『集成』は「(こんな歌を聞いては)かえって胸のやる方なく気が気でない。匂宮の気持に即して書く」と注す。
【行く末を短きものと思ひなば目の前にだに背かざらなむ】−匂宮の返歌。「行く末」の語句を用いて、「なに頼むらむ」を「背かざらなむ」と切り返して返す。
【何事も】−以下「な思しないそ」まで、匂宮の返歌に続けた詞。
【いとかう見るほどなき世を】−『集成』は「何ごとも、このように瞬く間に変る世の中ですから。大君の死を念頭において言う」と注す。
【心地も悩ましくなむ】−中君の詞。
【人の見るらむも】−以下、匂宮に即した叙述。
【恨みむも】−中君が私匂宮を。
【あまりに人憎くも】−匂宮の心中。中君をあまりに冷淡過ぎる態度だと思う。
【ましていかに思ひつらむ】−自分匂宮以上に相手の中君は、の意。
【主人方に住み馴れて】−薫の態度。主人顔をして住みついている様。
【あはれにもをかしうも御覧ず】−『完訳』は「宮はしんみりした気持になられるが、また一方おもしろくもお感じになる」と注す。
【いといたう痩せ青みてほれぼれしきまでものを思ひたれば】−主語は薫。匂宮の目を通しての叙述。
【心苦しと見たまひて】−主語は匂宮。薫への同情の気持ち。
【ありしさまなど】−以下「聞こえめ」まで、薫の心中。
【いと心弱く】−以下、薫の心中に即した叙述。
【見苦しくはあらでいよいよものきよげになまめいたるを】−『完訳』は「憔悴がかえって美貌を際だてる趣」と注す。
【女ならばかならず心移りなむ】−匂宮が薫を見ての心中。
【おのがけしからぬ御心ならひに】−語り手の匂宮の人間性を批評しての表現。
【いかで人の】−以下「移ろはしてむ」まで、匂宮の心中の思い。
【恨みをも】−六の君の父夕霧右大臣などの非難。
【かくつれなきものから】−打ち解けない中君の態度。
【内裏わたりにも聞こし召していと悪しかるべきに】−匂宮の心中・危惧に即した叙述。
【帰らせたまひぬ】−「せたまふ」最高敬語。匂宮の中君との身分の相違を際立たせた表現。
【つれなきは苦しきものを】−『源氏釈』は「いかで我つれなき人に身を変へて苦しき物と思ひ知らせむ」(出典未詳)を指摘。
【思し知らせまほしくて】−主語は中君。

 [第七段 歳暮に薫、宇治から帰京]
【うち眺めつつ明かし暮らしたまふ心地】−主語は薫。場所は宇治。
【宮よりも】−京の匂宮から宇治へ。
【かくてのみやは】−薫の心中の思い。初め直接話法的叙述、後自然に地の文に移る。『集成』は「薫の心中の思い。以下、自然に地の文に移る筆致」と注す。
【聞こえたまへば】−『集成』は「ご心配申し上げなさるので」。『完訳』は「苦情を申してこられるので」と訳す。
【いみじかりし折の】−大君逝去の折をさす。
【時々折ふし】−以下「見たてまつりさしつること」まで、女房たちの詞。
【聞こえ交はしたまひし年ごろよりも】−大君生前の薫との交際をさす。
【はかなきことにもまめなる方にも】−和歌や音楽などの風流事や実生活上の用向きの事をさす。
【なほかう参り来ることも】−以下「たばかり出でたる」まで、匂宮の手紙の要旨。
【后の宮聞こし召しつけて】−『集成』は「以下、匂宮がこう言ってきた、そのいきさつを説明する」と注す。
【中納言もかく】−以下「思さるらめ」まで、明石中宮の心中。『集成』は「薫の様子から、その大君の妹とあれば、匂宮の執心も無理なかろう、と母親らしく推察する」と注す。
【二条院の西の対に】−以下「通ひたまふべく」まで、明石中宮の匂宮へ言って詞の要旨。間接話法で地の文に叙述。
【女一の宮の御方にことよせて思しなるにや】−匂宮の推測。「御方にことよせて」とは、女房としての意。『集成』は「明石の中宮は、前にこのような趣旨のことを意見しているが、匂宮にとっては、かりそめにも女房扱いは、不本意なことである」と注す。
【さななり】−中君が京に迎えられることになったことをさす。
【三条宮も造り果てて】−薫はそこに大君を迎えるつもりでいた。
【渡いたてまつらむことを】−以下「見るべかりけるを」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「中の君を大君の代りに。しかし、取り返しのつかない喪失感」と注す。
【ひき返し心細し】−『集成』は「昔のことを思い返して、(何もかも失った思いで)心細い気がする」と注す。
【宮の思し寄るめりし筋は】−以下、薫の心中の思いに即した叙述。中君と薫の関係を疑る意。推量の助動詞「めり」の主観的推量の主体は薫。
【おほかたの御後見】−『集成』は「そのほかの(夫婦としてではない)大抵のお世話」と注す。
【思すとや】−『一葉抄』は「例の記者語也」と指摘。『全集』は「語り手の伝聞の体裁で言いさし、物語りの一応の決着を語りおさめる」と注す。

源氏物語の世界ヘ
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