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渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)

  

若菜下


 [底本]
東海大学蔵 桃園文庫影印叢書『源氏物語(明融本)』2 一九九〇年 東海大学

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第二巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第十巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九九五年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第六巻 一九八六年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第五巻 一九八〇年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第四巻 一九七四年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第七巻 一九六六年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九六一年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第四巻 一九五二年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後

  1. 六条院の競射---ことわりとは思へども、「うれたくも言へるかな
  2. 柏木、女三の宮の猫を預る---女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛らはし試みる
  3. 柏木、真木柱姫君には無関心---左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも
  4. 真木柱、兵部卿宮と結婚---兵部卿宮、なほ一所のみおはして、御心につきて
  5. 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活---宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひ
第二章 光る源氏の物語 住吉参詣
  1. 冷泉帝の退位---はかなくて、年月もかさなりて、内裏の帝
  2. 六条院の女方の動静---姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひ
  3. 源氏、住吉に参詣---住吉の御願、かつがつ果たしたまはむとて
  4. 住吉参詣の一行---上達部も、大臣二所をおきたてまつりては
  5. 住吉社頭の東遊び---十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変はりて
  6. 源氏、往時を回想---大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし
  7. 終夜、神楽を奏す---夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月
  8. 明石一族の幸い---ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末も
第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画
  1. 女三の宮と紫の上---入道の帝は、御行なひをいみじくしたまひて
  2. 花散里と玉鬘---夏の御方は、かくとりどりなる御孫扱ひを
  3. 朱雀院の五十賀の計画---朱雀院の、「今はむげに世近くなりぬる心地して
  4. 女三の宮に琴を伝授---宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひけるを
  5. 明石女御、懐妊して里下り---女御の君にも、対の上にも、琴は習はし
  6. 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定---院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふ
第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽
  1. 六条院の女楽---正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに
  2. 孫君たちと夕霧を召す---廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた
  3. 夕霧、箏を調絃す---大将、いといたく心懸想して、御前の
  4. 女四人による合奏---御琴どもの調べども調ひ果てて、掻き合はせ
  5. 女四人を花に喩える---月心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたに懸けて
  6. 夕霧の感想---これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを
第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論
  1. 音楽の春秋論---夜更けゆくけはひ、冷やかなり。臥待の月
  2. 琴の論---「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば
  3. 源氏、葛城を謡う---女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこえて
  4. 女楽終了、禄を賜う---この君達の、いとうつくしく吹き立てて、切に心入れたるを
  5. 夕霧、わが妻を比較して思う---大将殿は、君達を御車に乗せて、月の澄めるに
第六章 紫の上の物語 出家願望と発病
  1. 源氏、紫の上と語る---院は、対へ渡りたまひぬ。上は、止まりたまひて
  2. 紫の上、三十七歳の厄年---かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく
  3. 源氏、半生を語る---「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて
  4. 源氏、関わった女方を語る---「多くはあらねど、人のありさまの、とりどりに
  5. 紫の上、発病す---対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居したまひて
  6. 朱雀院の五十賀、延期される---女御の御方より御消息あるに、
  7. 紫の上、二条院に転地療養---同じさまにて、二月も過ぎぬ
  8. 明石女御、看護のため里下り---女御の君も渡りたまひて、もろともに
第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語
  1. 柏木、女二の宮と結婚---まことや、衛門督は、中納言になりにきかし
  2. 柏木、小侍従を語らう---かくて、院も離れおはしますほど、人目少なく
  3. 小侍従、手引きを承諾---「いで、あな、聞きにく。あまりこちたくものを
  4. 小侍従、柏木を導き入れる---いかに、いかにと、日々に責められ極じて
  5. 柏木、女三の宮をかき抱く---宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを、
  6. 柏木、猫の夢を見る---よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて
  7. きぬぎぬの別れ---明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり
  8. 柏木と女三の宮の罪の恐れ---女宮の御もとにも参うでたまはで、大殿へ
  9. 柏木と女二の宮の夫婦仲---督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて
第八章 紫の上の物語 死と蘇生
  1. 紫の上、絶命す---大殿の君は、まれまれ渡りたまひて
  2. 六条御息所の死霊出現---いみじく調ぜられて、「人は皆去りね。院一所の御耳に
  3. 紫の上、死去の噂流れる---かく亡せたまひにけりといふこと、世の中に
  4. 紫の上、蘇生後に五戒を受く---かく生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して
  5. 紫の上、小康を得る---五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきに
第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見
  1. 女三の宮懐妊す---姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより
  2. 源氏、紫の上と和歌を唱和す---池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに
  3. 源氏、女三の宮を見舞う---宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしう
  4. 源氏、女三の宮と和歌を唱和す---夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて
  5. 源氏、柏木の手紙を発見---まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて
  6. 小侍従、女三の宮を責める---出でたまひぬれば、人びとすこしあかれぬるに
  7. 源氏、手紙を読み返す---大殿は、この文のなほあやしく思さるれば
  8. 源氏、妻の密通を思う---「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき
第十章 光る源氏の物語 密通露見後
  1. 紫の上、女三の宮を気づかう---つれなしづくりたまへど、もの思し乱るるさまの
  2. 柏木と女三の宮、密通露見におののく---姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも
  3. 源氏、女三の宮の幼さを非難---「良きやうとても、あまりひたおもむきに
  4. 源氏、玉鬘の賢さを思う---「右の大臣の北の方の、取り立てたる後見もなく
  5. 朧月夜、出家す---二条の尚侍の君をば、なほ絶えず、思ひ出できこえ
  6. 源氏、朧月夜と朝顔を語る---二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに
第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引
  1. 女二の宮、院の五十の賀を祝う---かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とありしを
  2. 朱雀院、女三の宮へ手紙---御山にも聞こし召して、らうたく恋しと
  3. 源氏、女三の宮を諭す---「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、いたくは
  4. 朱雀院の御賀、十二月に延引---参りたまはむことは、この月かくて過ぎぬ
  5. 源氏、柏木を六条院に召す---十二月になりにけり。十余日と定めて、舞ども習らし
  6. 源氏、柏木と対面す---まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり
  7. 柏木と御賀について打ち合わせる---「月ごろ、かたがたに思し悩む御こと
第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる
  1. 御賀の試楽の当日---今日は、かかる試みの日なれど、御方々物見たまはむに
  2. 源氏、柏木に皮肉を言う---主人の院、「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそ
  3. 柏木、女二の宮邸を出る---ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして
  4. 柏木の病、さらに重くなる---大殿に待ち受けきこえたまひて、よろづに騷ぎたまふ

 

第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後

 [第一段 六条院の競射]
【ことわりとは思へども】−主語は柏木。小侍従の返事をさす。「若菜上」巻末の小侍従の手紙の文面を直接受けた語り出し。『集成』は「「思へども」と敬語を使わないのは、「思ふ」とともに、柏木に密着した書き方」と注す。
【うれたくも言へるかな】−以下「世ありなむや」まで、柏木の心中。
【かかる人伝てならで】−「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君に語らむ」(後撰集恋五、九六一、藤原敦忠)。
【のたまひ聞こゆる】−「のたまひ」の主語は女三の宮、「聞こゆる」の主語は柏木。
【なまゆがむ心や添ひにたらむ】−疑問の係助詞「や」、推量の助動詞「む」は、語り手の言辞。
【晦日の日は】−三月晦日。六条院の競射。
【そのあたりの花の色をも見てや慰む】−柏木の心中。
【殿上の賭弓】−「賭弓」そのものは正月十八日に弓場殿で帝出御のもとに競射が催される。「殿上の賭弓」はそれに準じて殿上人が行う競射。二月三月に催されることが多い。
【三月はた御忌月なれば】−冷泉帝の母后藤壺の忌月。
【かかるまとゐあるべしと】−「まとゐ」は「円居」と「的射」の掛詞的表現。
【左右の大将さる御仲らひにて】−左大将鬚黒と右大将夕霧である。
【小弓とのたまひしかど】−「若菜上」(第十三章四段)の源氏の言葉に見える。
【歩弓】−「歩弓」は「馬弓(騎射)」の対語。十七日の射礼、十八日の賭弓なども歩射である。
【前後の心こまどりに方分きて】−左方の先に射る者、右方の後に射る者と、奇数偶数の二組に分けること。
【今日にとぢむる霞のけしきも】−今日が三月晦日で春の終わりの日であることをいう。惜春の情景。
【花の蔭いとど立つことやすからで】−「今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは」(古今集春下、一三四、躬恒)。
【艶なる賭物ども】−以下「こそ挑ませめ」まで、源氏の詞。
【柳の葉を百度当てつべき舎人どもの】−『史記』周本紀の楚の養由基の故事。
【心知れる御目には】−夕霧をさす。
【なほいとけしき異なりわづらはしきこと出で来べき世にやあらむ】−夕霧の心中。『集成』は「やっかいなことがもちあがる二人の仲なのだろうか」。『完訳』は「面倒なことがもちあがってくるのではなかろうか」と訳す。
【さる仲らひ】−従兄弟同士という意。
【もの思はしくうち紛るることあらむを】−推量の助動詞「む」仮定の意。『集成』は「思い悩んでそれに屈託するようなことがあるのを」。『完訳』は「物思いがちに心を奪われるようなことがあろうものなら」と訳す。
【みづからも】−柏木をさす。
【かかる心はあるべきものか】−以下「おほけなきこと」まで、柏木の心中。
【かのありし猫をだに】−以下「慰めにもなつけむ」まで、柏木の心中。

 [第二段 柏木、女三の宮の猫を預る]
【女御の御方に参りて】−柏木、妹の弘徽殿女御のもとに参上。弘徽殿女御の慎み深い態度、女三の宮の軽率さが比較される。
【いと奥深く心恥づかしき御もてなしにて】−弘徽殿女御の態度。女三の宮と対照的。
【かかる御仲らひにだに】−兄妹の関係をいう。
【ゆくりかにあやしくはありしわざぞかし】−柏木の心中。女三の宮を垣間見たことを想起する。
【浅くも思ひなされず】−女三の宮の振る舞いを。
【春宮に参りたまひて】−柏木、東宮のもとに参上し、女三の宮の猫を預かる。
【論なう通ひたまへるところあらむかし】−柏木の心中。東宮と女三の宮が兄妹ゆえに似ているだろうと注意深く見る。
【あてになまめかしくおはします】−東宮の器量。上文に「匂ひやかになどはあらぬ御容貌」。輝くほどの美しさではないが、東宮という心なしか、上品で優雅でいらっしゃる。参考、源氏の器量、「匂ひやかにきよら」(若菜上)とある。
【六条の院の姫宮の御方に】−以下「見たまふべし」まで、柏木の詞。
【唐猫の】−からねこの−以下「ものになむはべる」まで、柏木の詞。
【聞こし召しおきて】−主語は東宮。以下、後日の話になる。
【桐壺の御方】−明石女御をさす。
【聞こえさせたまひければ】−『集成』は「その猫をご所望になったので」と訳す。
【参らせたまへり】−女三の宮方から東宮に猫を差し上げなさった、の意。
【げにいとうつくしげなる猫なりけり】−東宮方の人々の詞。「げに」は柏木の言葉に納得する気持ちの表出。
【人びと興ずるを】−『完訳』は「人々がおもしろがっているところへ」と訳す。
【尋ねむと思したりきと御けしきを見おきて】−『集成』は「あの猫を手に入れたいとお思いだったと、(その時の)東宮のお顔色を見て取った上で」。『完訳』は「東宮があの猫をもらい受けようとおぼしめしだった、と察していたので」と訳す。このあたり、時間が前後して語られている。
【御琴など教へきこえ】−柏木は東宮に弦楽器を教授している。太政大臣家は特に和琴の名手である。
【御猫ども】−以下「この見し人は」まで、柏木の詞。猫を「見し人」と喩えて言っている。『集成』は「女三の宮の身代わりというほどの気持が「人」と言わせている」と注す。
【げにをかしきさましたりけり】−以下「劣らずかし」まで、東宮の詞。猫の様子。
【これはさるわきまへ心も】−以下「魂はべらむかし」まで、柏木の詞。「これは」は猫一般をさす。
【まさるどもさぶらふめるを】−以下「預からむ」まで、柏木の詞。「まさるども」はこの猫より勝れている猫ども、の意。
【これを尋ね取りて】−柏木、猫を手に入れて女三の宮を偲ぶ。
【ねうねう】−猫の鳴き声。擬音語。柏木は「寝よう、寝よう」の意に解す。
【うたてもすすむかなとほほ笑まる】−『集成』は「いやに積極的だなと、苦笑が浮ぶ」。『完訳』は「いやに心のはやるやつよ、と苦笑せずにはいられない」と訳す。
【恋ひわぶる人のかたみと手ならせばなれよ何とて鳴く音なるらむ】−柏木の独詠歌。
【これも昔の契りにや】−歌の後の独り言。「これ」は猫との縁をさす。
【あやしくにはかなる猫の】−以下「御心かな」まで、御達の詞。

 [第三段 柏木、真木柱姫君には無関心]
【左大将殿の北の方は】−玉鬘の近況、旧に変わらず夕霧と親しく交際。
【心ばへのかどかどしく気近くおはする君にて】−玉鬘についていう。
【疎々しく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに】−『集成』は「よそよそしくてとても近づきがたく取り澄ましていられるのが心外なので」と訳す。
【男君今はまして】−鬚黒大将、娘の真木柱の姫君のことを恋しく思う。
【並びなくもてかしづききこえたまふ】−鬚黒は玉鬘を。
【かの真木柱の姫君を】−「真木柱の姫君」の呼称は、巻名にもとづくものか。当時、十二、三歳であったから、現在十六、七歳になっている。
【祖父宮など】−式部卿宮。
【この君をだに人笑へならぬさまにて見む】−式部卿宮の詞。「見む」は立派な婿を迎えてやりたい、の意。
【内裏にもこの宮の御心寄せいとこよなくて】−式部卿宮は冷泉帝の母藤壺の兄すなわち伯父にあたり、その娘が王女御として入内もしているという関係。
【心苦しきものに思ひきこえたまへり】−冷泉帝が式部卿宮を。『集成』は「心にかけて大切なお方とお思い申し上げていられる」。『完訳』は「お気づかい申しておいであそばす」と訳す。
【この院大殿にさしつぎたてまつりては】−式部卿宮は、源氏、太政大臣家に次ぐ、第三の権勢家。「澪標」巻以来変わらない地位を確保。鬚黒左大将より上格。
【さる世の重鎮となりたまふべき下形なれば】−『集成』は「東宮の伯父として、国家の柱石ともおなりになるはずの有力者でいられるから」と訳す。
【などてかはかなくはあらむ】−「などてかは--む」反語表現。語り手の言辞。
【聞こえ出づる人びと】−真木柱の姫君に求婚する人々。
【思しも定めず】−主語は式部卿宮。真木柱の姫君の親権者は祖父式部卿宮。
【さもけしきばまば】−真木柱の姫君への求婚の意向。
【猫には思ひ落としたてまつるにや】−『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『集成』は「以下、前の話題とここの話題とをつないでの諧謔気味の草子地」。『完訳』は「語り手の皮肉めいた評言」と注す。
【もて消ちたまへるを】−『集成』は「廃人同様のありさまでいられるのを」。『完訳』は「世間と没交渉になっている意」「世間のことは意にも介しておられないのを」と注す。
【口惜しきものに思して】−主語は真木柱の姫君。
【今めきたる御心ざまにぞものしたまひける】−主語は真木柱の姫君。継母を慕うあたりが今風といわれるゆえん。

 [第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚]
【兵部卿宮なほ一所のみおはして】−蛍兵部卿宮は北の方を亡くして以後、独身生活。
【御心につきて思しけることどもは皆違ひて】−玉鬘や女三の宮を望んだことをさす。
【さてのみやはあまえて過ぐすべき】−蛍兵部卿宮の心中。「あまえて」について、『集成』は「こんなふうにのんびり構えてばかりもいられない」。『完訳』は「こんなふうにいい気になってばかりもいられまい」と訳す。
【何かは】−以下「品なきわざなり」まで、式部卿宮の詞。娘の結婚相手の第一は帝、次いで親王だ、という考え。実際、宮の中の君は王女御として入内。大君は臣下の鬚黒大将の北の方となったが、離縁となった。
【ただ人のすくよかになほなほしきをのみ】−鬚黒の性格が思い合わされる表現。
【いと二なくかしづききこえたまふ】−式部卿宮家が蛍兵部卿宮を婿として。
【さまざまもの嘆かしき】−以下「心苦しき」まで、式部卿宮の詞。
【物懲りしぬべけれど】−式部卿宮の大君は鬚黒と離縁、中の君は入内はしたものの立后が叶わなかった。
【わがことに従はず】−鬚黒の意見に式部卿宮が従わない、の意。

 [第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活]
【昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を見む】−蛍兵部卿宮の心中。故北の方は、右大臣の三の君、太政大臣の北の方(四の君)や六の君(朧月夜尚侍)の姉。「花宴」に「帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそよしと聞きしか」(第一章二段)とあるのが初出。「胡蝶」に「年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、この三年ばかり独り住みにてわびたまへば」(第一章三段)とあった。「面影の人」を求めるのはこの物語の通貫したテーマ。
【悪しくはあらねどさま変はりてぞものしたまひける】−蛍兵部卿宮の感想。『集成』は「きれいな人ではあるが、全然感じの違うお方だった」。『完訳』は「ご器量がわるいというわけではないのだけれど、まるで感じがちがっていらっしゃる」と訳す。
【口惜しくやありけむ】−語り手の挿入句。蛍兵部卿宮の心中を忖度。
【いと心づきなきわざかな】−式部卿宮の心中。蛍宮の態度に立腹。
【口惜しく憂き世と、思ひ果てたまふ】−『集成』は「ままならぬ、情けないこの世だと、すっかり悲観しておしまいになる」「自分も髭黒との結婚に破れ、娘もまた、という気持」。『完訳』は「残念な情けない縁組であったと、すっかり気落ちしていらっしゃる」「母君は女の幸不幸は母親次第と考えて娘を引き取っただけに落胆が大きい」と注す。
【さればよ。いたく色めきたまへる親王を】−鬚黒大将の心中。蛍宮の好色風流好みの性格に対する批判。
【はじめよりわが御心に許したまはざりしことなればにや】−語り手の挿入句。鬚黒大将の心中を忖度。
【近く聞きたまふには】−継母としての立場から身近に聞くの意。
【さやうなる世の中を】−以下「思し見たまはまし」まで、玉鬘の心中。「ましかば--まし」反実仮想の構文。蛍宮と結婚しなくてよかったという感想。「こなたかなた」は源氏と太政大臣をさす。
【そのかみも気近く見聞こえむとは】−以下「聞き落としたまひけむ」まで、玉鬘の心中。
【かかるあたりにて聞きたまはむことも心づかひせらるべく】−玉鬘の心中。夫婦の語らいの中で、蛍宮が継娘の真木柱から玉鬘の噂を聞く、の意。
【これよりもさるべきことは】−玉鬘方をさす。継母としての配慮。
【大北の方といふさがな者ぞ】−式部卿宮の北の方。『集成』は「かつて継娘に当る紫の上の不幸を小気味よがったり(須磨)、玉鬘と髭黒の結婚について源氏をあしざまにののしったりした(真木柱)。そこにも「この大北の方ぞ、さがな者なりける」(真木柱)とあり、札付きといった扱い」と注す。この物語では、かつての右大臣の娘弘徽殿の大后とこの式部卿の北の方がつねに悪役といった感じ。
【親王たちは】−以下「思ふべけれ」まで、大北の方の詞。『集成』は「親王には政治的な権力がなく、婿取りしても世俗的な家の繁栄は望めないので、こうした愚痴にもなる」と注す。
【いと聞きならはぬことかな】−以下「なかりしものを」まで、蛍兵部卿宮の心中。末尾は地の文に続く。
【昔を恋ひきこえたまひつつ】−亡くなった北の方をさす。

 

第二章 光る源氏の物語 住吉参詣

 [第一段 冷泉帝の退位]
【はかなくて年月もかさなりて内裏の帝御位に即かせたまひて十八年にならせたまひぬ】−その後四年を経て、冷泉帝は譲位する。冷泉帝は十一歳で即位(澪標)。したがって現在二十八歳。源氏は四十六歳。つまり、源氏四十二歳から四十五歳までの四年間の空白がある。
【嗣の君とならせたまふべき御子】−以下「過ぎまほしくなむ」まで、冷泉帝の詞。次の帝となるべき男皇子もいない寂しさを嘆く。
【世の中はかなくおぼゆるを】−『完訳』は「この寿命もいつまで続くのか頼りなく思われてならないので」と訳す。
【飽かず盛りの御世をかく逃れたまふこと】−世の中の人の詞。冷泉帝の御譲位を惜しむ。
【春宮もおとなびさせたまひにたれば】−東宮は二十歳。朱雀院の皇子、母承香殿女御で左大将鬚黒の妹。三歳で立坊(澪標)、十三歳で元服(梅枝)、源氏の娘明石女御が入内(藤裏葉)、第一皇子誕生(若菜上)。
【世の中の政事などことに変はるけぢめもなかりけり】−冷泉帝から今上帝へ御世替わりがあったが、格別政治や政界の人事に大きな異動がなかったことをいう。
【太政大臣致仕の表たてまつりて】−太政大臣が致仕し、鬚黒が右大臣となる。
【世の中の常なきにより】−以下「何か惜しからむ」まで、太政大臣の詞。
【女御の君はかかる御世をも待ちつけたまはで亡せたまひにければ】−東宮の母承香殿女御はこれまでに死去。はじめてここに語られる。
【限りある御位を得たまへれど】−皇太后の位を追贈されたことをいう。
【六条の女御の御腹の一の宮坊にゐたまひぬ】−明石女御の第一皇子が皇太子となる。今年六歳。
【いよいよあらまほしき御仲らひなり】−鬚黒右大臣と夕霧大納言の関係をいう。
【冷泉院の、御嗣おはしまさぬを、飽かず御心のうちに思す】−源氏は、冷泉院に御継嗣のいないことを心中に残念に思う。
【冷泉院】−初めての呼称。退位後、冷泉院を院の御所としたことがわかる。またこの帝の呼称にもなる。
【同じ筋なれど】−冷泉院と東宮をさす。
【過ぐしたまへるばかりに罪は隠れて末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世】−接続助詞「て」逆接の意。『完訳』は「世間に知られずにすんだが、そのかわり帝のお血筋を」と訳す。
【口惜しくさうざうしく思せど】−源氏の心中。間接的叙述。
【春宮の女御は御子たちあまた数添ひたまひて】−明石女御は帝の寵愛が厚く御子たちも大勢いる。「春宮の女御」は東宮の母女御の意。帝の女御は複数いる。東宮の母女御は一人。そのほうが重々しい呼称。
【源氏のうち続き后にゐたまふべきことを】−藤壺(先帝の四宮)、秋好(故前坊の姫、源氏の養女)をさす。「源氏」は皇族の意で使われている。
【冷泉院の后は】−秋好中宮。
【ゆゑなくてあながちにかくしおきたまへる】−秋好中宮は、立后がかなり強引で無理になったものだ、と思っている。
【院の帝】−冷泉院の日常。上皇を「院の帝」と呼称する。

 [第二段 六条院の女方の動静]
【姫宮の御ことは、帝、御心とどめて】−女三の宮をさす。
【年月経るままに御仲いとうるはしく睦びきこえ交はしたまひて】−女三の宮降嫁後、五年を経ている。「麗はしく睦び交はす」とは外見的な振る舞いをいうのであろう。『集成』は「源氏とのお間柄はまことにしっくりと仲むつまじくいらして」。『完訳』は「院の殿と対の上とのご夫婦仲はまったく毛筋ほどの乱れもなく、お互いに仲睦まじくお過しになって」と訳す。
【いささか飽かぬことなく隔ても見えたまはぬものから】−紫の上の源氏から心の乖離が語られる。
【今はかうおほぞうの住まひならで】−以下「思し許してよ」まで、紫の上の詞。出家の希望を述べる。『完訳』は「このような通り一遍の暮しでなく」「ありふれた物思いがちな愛人なみの生活」と注す。
【この世はかばかりと見果てつる心地する齢にもなりにけり】−紫の上、三十六歳。後文の翌年の記事に「今年は三十七にぞなりたまふ」(第六章二段)とある。
【まめやかに聞こえたまふ折々あるを】−紫の上は出家の希望を真剣に度々源氏に願っている。
【あるまじくつらき御ことなり】−以下「ともかくも思しなれ」まで、源氏の詞。紫の上の出家の希望を阻止する。出家後の紫の身の上が心配、自分の出家後に出家するのがよい、という。
【とまりてさうざうしくおぼえたまひ】−主語は紫の上。源氏が出家した場合を想定した発言。
【ある世に変はらむ御ありさまの】−『集成』は「今までとは打って変ったお暮しが」。『完訳』は「わたしといっしょの時と比べてどんなに変ったお身の上になろうかと」と訳す。
【御方は隠れがの】−明石御方をさす。

 [第三段 源氏、住吉に参詣]
【住吉の御願かつがつ果たしたまはむとて】−源氏、住吉詣でを思い立つ。
【長き世の祈りを加へたる願ども】−『集成』は「明石の上の将来を祈願した上に、その度に遠い行く末まで(姫君や東宮のこと)祈って立てた数多くの願は」。『完訳』は「子々孫々の繁栄をという祈りの添えてある願文は」と訳す。
【いかでさる山伏の】−以下「思ひよりけむ」まで、源氏の感想。
【さるべきにて】−以下「行なひ人にやありけむ」まで、源氏の感想。
【昔の世の行なひ人】−『集成』は「遠い昔のすぐれた修行僧」。『完訳』は「前の世の行者」と訳す。
【浦伝ひの】−「浦伝ひ」は歌語。源氏の和歌にも詠まれる(明石)。
【皆果たし尽くしたまへれども】−「澪標」巻の住吉詣での段に語られている。
【具しきこえさせたまひて詣でさせたまふ】−「きこえさせ」謙譲の補助動詞。紫の上に対する敬意。「きこゆ」より一段と深い敬意。「たまひ」尊敬の補助動詞。源氏の動作に対する敬意。「させ」尊敬の助動詞、「たまふ」尊敬の補助動詞、最高敬語。
【限りありければ】−いくら簡略にするといっても院としての格式があるので、という意。

 [第四段 住吉参詣の一行]
【舞人は衛府の次将ども】−六衛府(左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府)の次官たち。東遊の舞人は十人である。
【陪従も石清水賀茂の臨時の祭などに召す人びとの】−石清水の臨時の祭(三月中または下の午の日)、賀茂の臨時の祭(十一月下の酉の日)に東遊を奏する楽人(陪従)は、いずれも十二人(四位、五位、六位から各四人ずつ出る)。
【加はりたる二人】−加陪従といい、臨時に加えた楽人。
【小舎人童】−「小舎人 コドネリ」(禁中方名目抄)。近衛の中将・少将が召し連れる少年。
【尼君をば】−以下「詣でさせむ」まで、源氏の詞。
【人めかしくて】−『集成』は「家族の一人として」。『完訳』は「女御の祖母君らしく立派に仕立てて」と訳す。
【このたびはかくおほかたの】−以下「世の中を待ち出でたらば」まで、明石御方の詞。
【思ふやうならむ世の中を】−東宮の即位をいう。
【匂ひたまふ御身ども】−紫の上、明石の女御、明石の君をさす。

 [第五段 住吉社頭の東遊び]
【十月中の十日なれば神の斎垣にはふ葛も色変はりて松の下紅葉など音にのみ秋を聞かぬ顔なり】−源氏一行、十月二十日に住吉参詣する。
【神の斎垣に】−明融臨模本に合点と付箋「ちはやふる神のいかきにはふくすも秋にはあへすもみちしにけり」(古今集秋下、二六二、紀貫之)とある。
【松の下紅葉】−『集成』は「松の下葉の紅葉。「下紅葉」は歌語」と注す。『完訳』は「下紅葉するをば知らで松の木の上の緑を頼みけるかな」(拾遺集恋三、八四四、読人しらず)を指摘。
【音にのみ秋を聞かぬ顔】−明融臨模本は合点と付箋「もみちせぬときはの山は吹風のをとにや秋をきゝわたるらん」(古今集秋下、二五一、紀淑望)とある。『集成』は「音だけでなく、色にも秋を知らぬ顔である、の意」。『完訳』は「風の音にだけそれを聞くとは限らない秋の風情である」と注す。
【ことことしき高麗唐土の楽よりも東遊の耳馴れたるはなつかしくおもしろく】−仰々しい高麗や唐土の楽より日本の東遊のほうが耳馴れて「なつかしくおもしろ」いという。「桐壺」巻の楊貴妃と桐壺更衣の容貌を比較した文章が想起される。
【山藍に摺れる竹の節は】−東遊の舞人の衣裳。山藍で摺った竹の葉も紋様の衣裳を着る。
【匂ひもなく黒き袍に】−四位以上の黒の袍。平安中期の服飾の色を反映する。
【蘇芳襲の葡萄染の袖を】−『完訳』は「蘇芳襲や葡萄染の袖を」と訳す。
【蘇芳襲の】−『集成』は「蘇芳襲」と校訂。河内本と別本が「の」ナシ。

 [第六段 源氏、往時を回想]
【大殿】−源氏をいう。
【思し出でられ】−「られ」自発の助動詞。下文にも「思さるるに」と自発の助動詞が使用されている。
【うち乱れ語りたまふべき人も】−『集成』は「遠慮なく」。『完訳』は「打ち解けてお話し合いになれそうな人も」。推量の助動詞「べし」可能・適当の両意。
【二の車に】−第二番目の車の意。明石御方と尼君が乗っている車。
【誰れかまた心を知りて住吉の神代を経たる松にこと問ふ】−源氏の贈歌。「神代を経る」は遠い昔の意。「松」は尼君をさす。
【女御の君のおはせしありさまなど】−『集成』は「姫君が明石でお暮しだった様子」。『完訳』は「女御の君が御腹に宿っておられた様子などを」と訳す。
【思ひ出づるも】−主語は尼君。
【世を背きたまひし人も恋しく】−明石入道をさす。主語は尼君。入道が深い山に入ってから五年の歳月がたつ。
【言忌して】−『集成』は「言葉を選んで」。『完訳』は「言葉を慎んで」と訳す。
【住の江をいけるかひある渚とは年経る尼も今日や知るらむ】−尼君の返歌。「貝」と「効」、「尼」と「海人」の掛詞。
【昔こそまづ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても】−尼君の独詠歌。

 [第七段 終夜、神楽を奏す]
【二十日の月はるかに澄みて】−十月二十日の月。月の出は午後十時ころ。
【そぞろ寒くおもしろさも】−『完訳』は「寒気をおぼえるすばらしさなので」と訳す。
【御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだ慣らひたまはねば】−当時の高貴な女性がめったに外出しないこと、また都以外の地にも行かないことをいう。「御門」は「みかど」と読む。
【住の江の松に夜深く置く霜は神の掛けたる木綿鬘かも】−紫の上の和歌。住吉の神の神慮をうたう。「住の江」は歌語。「霜」を「木綿鬘」に見立てる。
【篁の朝臣の比良の山さへと言ひける】−小野篁(八〇二〜八五二)。漢詩と和歌両面にすぐれた平安前期の文人。「ひもろぎは神の心にうけつらし比良の山さへゆふかづらせり」(河海抄所引、出典未詳)。なお『河海抄』は「文時卿歌也」と注記する。『花鳥余情』は「名違へか」ともいう。作者紫式部の記憶違いかまた別伝があったか。
【祭の心うけたまふしるしにや】−紫の上の心中。『完訳』は「この霜景色も神が奉納の志をお受けになった証であろうかと」と訳す。
【神人の手に取りもたる榊葉に木綿かけ添ふる深き夜の霜】−明石女御の紫の上の和歌への唱和歌。「神」「木綿」「霜」を詠み込む。
【中務の君】−紫の上づきの女房。もと左大臣家の葵の上の女房だが、源氏の召人でもあった(帚木・末摘花)。主人葵の上の死後、源氏の女房となり二条院に移り、須磨退去にあたり紫の上の女房となる(須磨)。
【祝子が木綿うちまがひ置く霜はげにいちじるき神のしるしか】−中務君の紫の上の和歌への唱和歌。「木綿」「霜」「神」を詠み込む。
【次々数知らず多かりけるを何せむにかは聞きおかむ】−以下「うるさくてなむ」まで、語り手の言辞。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「省筆をことわる草子地。一行中の女房の語る言葉をそのまま伝える体」。『完訳』は「語り手の、数多く詠まれた和歌を省筆する弁」と注す。
【松の千歳より離れて今めかしきことなければ】−『集成』は「「松の千歳」といった決り文句以外に目新しい趣向の歌もないので」と注す。

 [第八段 明石一族の幸い]
【ほのぼのと明けゆくに】−翌朝を迎える霜の白さ鮮明。
【本末もたどたどしきまで】−神楽を歌う本方と末方とが混乱するほどまでの意。
【万歳万歳】−神楽「千歳法」の歌詞の一部。
【榊葉を取り返しつつ】−『完訳』は「神楽は舞人が榊葉を持ち去ると終るが、終りそうで終らない」と注す。
【思ひやるぞいとどしきや】−『湖月抄』は「地」(草子地の意)と指摘。語り手の詠嘆と讃辞。
【千夜を一夜になさまほしき夜の】−明融臨模本、合点と付箋「秋の夜のちよを一夜になせりともこと葉のこりて鳥やなきなん」(伊勢物語)がある。『源氏釈』が初指摘(ただし、第一句「あきのよの」、第五句「とりやなきてん」)。『岷江入楚』は「私不用之」と注す。
【松原にはるばると立て続けたる御車どもの】−翌朝の明るくなってからの松原の景色。
【袍の色々けぢめおきて】−袍衣の色。令制では、一位深紫、二位・三位浅紫、四位深緋、五位浅緋、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹。ただし、一条天皇のころから、四位以上は黒袍。前に「匂ひもなく黒き袍に」(第二章五段)とあった。この住吉詣でには四位以上は黒袍で供奉していた。
【をかしき懸盤取り続きて、もの参りわたすをぞ】−五位以下の者が食膳を準備している様子。
【浅香の折敷に青鈍の表折りて】−尼君は出家者なので、浅香の折敷に青鈍色の絹を折り畳んで敷いた上に精進料理が特別に用意された。
【言ひ続くるもうるさくむつかしきことどもなれば】−『一葉抄』は「作者語也」と指摘。『集成』は「以上、省筆をことわる草子地」と注す。語り手の省筆と盛大さをいう言辞。
【かかる御ありさまをも】−『集成』は「尼君や明石の上の心中を察して書いたもの」。『完訳』は「「見苦しくや」まで、明石の君の心情に即して入道を語る」と注す。
【難きことなりかし】−『一葉抄』は「記者語也」と指摘。『全集』は「このあたり、地の文ながら、「--飽かざりける」「難きことなりかし」「まじらはしくも見苦しくや」と、異なる視点から入道を捉えなおしている点に注意」と注す。明石の君と語り手が一体化した表現。
【世の中の人これを例にて心高くなりぬべきころなめり】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。語り手の主観的推量。
【近江の君は双六打つ時の言葉にも明石の尼君明石の尼君とぞ賽は乞ひける】−近江君は双六が好き。「常夏」巻にもその場面が語られていた。

 

第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画

 [第一段 女三の宮と紫の上]
【入道の帝は】−朱雀院をさす。
【春秋の行幸】−今上帝の父朱雀院への朝覲行幸をさす。
【この院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、うちうちの御心寄せあるべく奏せさせたまふ】−朱雀院は源氏を「おほかたの御後見」と考え、帝に「うちうちの御心寄せあるべく」依頼している。
【二品になりたまひて御封などまさる】−女三の宮、二品になる。「禄令」によれば、親王は、一品は八百戸、二品は六百戸、三品は四百戸、四品は三百戸で、内親王はその半分とされる。すなわち、女三の宮の二品内親王は三百戸の御封。
【かく年月に添へて】−紫の上の寂寥、女三の宮のはなやかさと対比されて語られる。『完訳』は「紫の上の心中に即す。直接、間接話法が混じる」と注す。
【かたがたにまさりたまふ御おぼえに】−主語は女三の宮。『集成』は「何かにつけて盛んになられる〔女三の宮の〕ご声望に」。『完訳』は「六条院の他の御方々より盛んになられる女宮のご声望であるにつけても」と訳す。
【わが身はただ】−以下「心と背きにしがな」まで、紫の上の心中。
【さかしきやうにや思さむ】−紫の上の心中。源氏の気持ちを忖度。
【内裏の帝さへ】−副助詞「さへ」添加の意。『完訳』は「朱雀院はもちろん帝までが」と注す。
【おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて】−主語は源氏。「れ」受身の助動詞。帝に女三の宮を疎略に扱っていると聞かれる、それが帝に申し訳ない、の意。
【渡りたまふことやうやう等しきやうになりゆく】−源氏の女三の宮のもとに通うことが紫の上の場合と同等になる。
【さるべきことことわりとは思ひながら】−紫の上は、やがて源氏の愛情も女三の宮のほうに傾斜していくことを予測していた。
【さればよ】−かねて懸念していたとおり。
【春宮の御さしつぎの女一の宮を】−養女の明石女御が産んだ春宮のすぐ下の妹。孫娘として愛育する。
【その御扱ひになむつれづれなる御夜がれのほども慰めたまひける】−紫の上も源氏の「夜離れ」を経験するようになる。愛孫の世話に所在なさを紛らわす。『蜻蛉日記』の作者が晩年養女を迎えて所在なさを紛らしたのに類似。
【いづれも分かず】−明石女御が産んだ御子。春宮、三の宮(匂宮)、女一の宮を差別せず。

 [第二段 花散里と玉鬘]
【夏の御方は】−夏の御方すなわち花散里も養子夕霧大将の典侍腹の孫を引き取って世話をする。
【少なき御嗣と思ししかど、末に広ごりて】−源氏の子の少ないこと。しかし、その子の孫は数多くできたことをいう。
【こなたかなたいと多く】−夕霧方と明石姫君方とをさす。
【今はただこれをうつくしみ扱ひたまひてぞつれづれも慰めたまひける】−主語は源氏。源氏も晩年の所在なさを「御孫扱ひ」で過す。
【右の大殿の参り仕うまつりたまふこといにしへよりも】−鬚黒右大臣兼左大将。今上帝の外戚。
【北の方もおとなび果てて】−玉鬘は鬚黒の北の方、二児の母親としてすっかり落ち着いた年齢と地位にある。現在三十二歳。
【昔のかけかけしき筋思ひ離れたまふにや】−語り手の挿入句。源氏の心中を忖度。
【姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします】−六条院の源氏、紫の上、花散里らの「御孫扱ひ」、そこに出入りする玉鬘のすっかり落ち着いた年齢。そうした中で、女三の宮のみが変わらず若く幼いままでいる。二十一、二歳になっている。柏木との密通事件の伏線。
【いと心苦しく幼からむ御女のやうに思ひはぐくみたてまつりたまふ】−『集成』は「大層心にかけて」「〔源氏は〕大事にお世話申し上げていられる」。『完訳』は「まことにいじらしくお思いになり、まるで幼い御娘でもあるかのように、たいせつにお世話申しあげていらっしゃる」と訳す。

 [第三段 朱雀院の五十の賀の計画]
【今はむげに世近くなりぬる心地して】−以下「渡りたまふべく」まで、朱雀院から女三の宮への手紙。ただし、文末の引用句がなく、地の文に流れる。
【残りもこそすれ】−懸念の語法。恨みが残ったら大変だ。
【げにさるべきことなり】−以下「心苦しきこと」まで、源氏の詞。「げに」は朱雀院の手紙を受ける。
【ついでなくすさまじきさまにてやは】−以下「御覧ぜさせたまふべき」まで、源氏の心中。「やは」係助詞、反語表現。
【このたび足りたまはむ年若菜など調じてや】−源氏の心中。「足りたまはむ年」とは、朱雀院が来年ちょうど五十歳に達する年という意。
【人の御心しつらひども入りつつ】−六条院のご夫人方の意見をさす。
【まだ小さき七つより上のは】−夕霧は自分の七歳以上の子を童殿上させる。
【心ことなるべきを定めて】−『集成』は「目立ちそうな者たちを」。『完訳』は「格別な芸を見せてくれそうなのを選定して」と訳す。

 [第四段 女三の宮に琴を伝授]
【院にもひき別れ】−「ひき別れ」には琴の縁で「弾き」を響かす。
【参りたまはむついでに】−以下「弾き取りたまひつらむ」まで、朱雀院の詞。
【さりとも琴ばかりは】−女三の宮、源氏に嫁して六年。『集成』は「琴の名手である源氏に嫁してもう七年にもなるのだから、といった気持がある」。『完訳』は「女宮の琴の巧拙に、源氏の情愛の厚薄を判断しようとする」と注す。
【しりうごとに聞こえたまひけるを】−『完訳』は「朱雀院の言辞には、言辞の情愛の薄さが思われている」と注す。
【げにさりとも】−以下「参り来て聞かばや」まで、帝の詞。「げに」について、『集成』は「これも、源氏の膝下にあるのだからという気持」。『完訳』は「院の「さりとも--」を肯定的に受けとめ、今は名手源氏の指導を得て上達していよう、とする」と注す。
【院の御前にて】−朱雀院の御前をさす。
【年ごろさりぬべきついでごとには】−以下「いとはしたなかるべきことにも」まで、源氏の心中。適当な機会に源氏が女三の宮に琴の琴を教えたということがここに初めて語られている。
【まだ聞こし召しどころあるもの深き手には及ばぬを】−『集成』は「院のお耳にご満足がゆくほどの深味のある曲はとても弾けないのに」。『完訳』は「まだ父院がお喜びあそばすほどの味わい深い技量にはほど遠いのだから」と訳す。
【調べことなる手】−『集成』は「珍しい旋律の曲」。『完訳』は「特別に調べの変った曲」と注す。
【おもしろき大曲どもの】−『完訳』は「帖を曲の単位として、一帖だけのものを小曲、数帖を中曲、十数帖を大曲と称すという」と注す。
【空の寒さぬるさをととのへ出でて】−琴(七絃琴)の音色に気候の温暖を調節させる霊妙な力があるという思想。『花鳥余情』所引「琴書」に見える。
【昼はいと人しげく】−以下「心もしめたてまつるべき」まで、源氏の詞。

 [第五段 明石女御、懐妊して里下り]
【女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつりたまはざりければ】−この物語では、琴(きん)の琴は皇族の楽器と規定している。和琴は藤原氏が名手となっている。また琵琶は皇族圏の人々、源典侍、明石君、宇治大君等が名手、となっている。
【御子二所おはするをまたもけしきばみたまひて五月ばかりにぞなりたまへれば】−明石女御、妊娠五月になる。『集成』は「すでに女御の手許を離れている東宮と女一の宮は除いた、二の宮と三の宮であろう。前に「御子たちあまた数添ひたまひて」(若菜下)とあった」。『完訳』は「一皇子一皇女がいる」と注す。
【神事などにことづけておはしますなりけり】−『集成』は「十一月から十二月の初旬にかけて神事が多い」と注す。『拾芥抄』に「凡そ宮女の懐妊せる者は、散斎の前に、退出すべし。月の事有る者は、祭日の前に、宿廬に退下すべし、殿に上るを得ず。其の三月・九月は、潔斎の前に、預り宮外に退出すべし」(触穢部)とある。明石女御は妊娠五月。散斎(祭に先立ち七日間の身体上の潔斎をすること)の前に、退出した。
【十一日】−十二月十一日に宮中では神今食の神事がある。明石女御の退出はそれに先立つ七日前の、十二月初めに宮中退出となろう。
【などて我に伝へたまはざりけむ】−明石女御の心中。源氏は女三の宮に琴の琴を教えたのに、どうして自分には伝授してくれないのか。
【冬の夜の月は人に違ひてめでたまふ御心なれば】−源氏の性向。冬の夜の月を賞美する心は、「朝顔」巻(第三章二段)に語られていた。
【おもしろき夜の雪の光に、折に合ひたる手ども弾きたまひつつ】−冬の夜の雪景色を背景にした管弦の遊び。
【対などにはいそがしく】−紫の上は六条院全体をとりしきる立場にある。衣配りなど正月の準備に余念がない。
【春のうららかならむ夕べなどにいかでこの御琴の音聞かむ】−紫の上の詞。
【年返りぬ】−源氏四十七歳。源氏の夫人方、紫の上三十七歳、女三の宮二十一、二歳、明石御方三十八歳。源氏の子、夕霧大納言兼右大将二十六歳、明石女御十九歳。その他の人々、皇族方、一の院(朱雀院)五十歳、新院(冷泉院)二十九歳、今上帝二十一歳、東宮七歳。一般臣下、柏木中納言兼衛門督三十一、二歳、鬚黒右大臣兼左大将四十二、三歳。

 [第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定]
【院の御賀まづ朝廷よりせさせたまふことども】−朱雀院の御五十賀は子にあたる今上帝がまず初めに祝う。
【二月十余日と定めたまひて】−源氏から兄朱雀院への御五十祝賀は二月十余日と定めるが、次々といろいろな支障が生じて遅れていく。
【この対に常にゆかしくする】−以下「をさをさあらじ」まで、源氏の詞。『完訳』は「「この対」は紫の上。女宮のもとにいながら身近な呼び方をする」と注す。
【かの人びとの箏、琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ】−箏は明石女御、琵琶を明石御方、紫の上には和琴、そして女三の宮が琴の琴で女楽を演奏する。
【世にあるものの師といふ限り】−以下、源氏の音楽学習の体験と自信のほどを披瀝する。
【琴はた、まして、さらにまねぶ人なくなりにたりとか】−紫式部の時代には、琴の琴(七絃琴)の奏法は絶えてしまっていた。
【この御琴の音ばかりだに伝へたる人、をさをさあらじ】−この世にあなたしかいない、という。
【かくゆるしたまふほどになりにける】−女三の宮の心中。『完訳』は「ご自分の技量もこれほどお認めくださるまで上達したのか」と訳す。
【なほいといみじく片なりにきびはなる心地して】−『集成』は「まだ、とても幼げで。十分に女らしくなっていないさま」。『完訳』は「相変わらず成熟したところがなく幼げな感じで」と訳す。人として大人になっていない意。
【院にも】−以下「見えたてまつりたまへ」まで、源氏の詞。
【年経ぬるを】−女三の宮は十四、五歳で六条院に降嫁したから、父朱雀院とは七年ぶりの対面になる。
【げにかかる御後見なくては】−以下「隠れなからまし」まで、女三の宮付きの女房の感想。

 

第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽

 [第一段 六条院の女楽]
【正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛りになりゆく】−正月二十日ほどの季節描写。六条院春の御殿の庭先の様子。「をかしき空」「風温し」「梅(白梅)の盛り」花の木の蕾」「霞みわたる」、新年正月二十日ころとしては標準的季節描写。
【月たたば御いそぎ近く】−以下「試みたまへ」まで、源氏の紫の上への詞。来月になったら、朱雀院五十賀の準備でなにかと忙しくなるから、その前にという配慮。
【寝殿に渡したてまつりたまふ】−紫の上を女三の宮のいる寝殿へ。紫の上に対する丁重な敬語表現。
【選りとどめさせたまひて】−「させ」使役の助動詞。下の「さぶらはせたまふ」の「せ」も同じく使役の助動詞。
【赤色に桜の汗衫薄色の織物の衵浮紋の表の袴紅の擣ちたるさま】−紫の上方の童女の衣裳。『完訳』は「赤色の表着に桜襲の汗衫、薄紫色の織物の衵、浮模様の表袴、それは紅の艶出しをしたもので」と訳す。
【女御の御方にも】−明石女御方の描写に移る。
【童は、青色に蘇芳の汗衫、唐綾の表の袴、衵は山吹なる唐の綺を、同じさまに調へたり】−『完訳』は「女童は、青色の表着に蘇芳襲の汗衫、唐の綾織の表袴、衵は山吹色の唐の綺を、同じようにおそろいで着ている」と訳す。
【青丹に柳の汗衫、葡萄染の衵など】−『完訳』は「青丹の表着に、柳襲の汗衫、葡萄染の衵など」と訳す。

 [第二段 孫君たちと夕霧を召す]
【箏の御琴は】−以下「頼み強からず」まで、源氏の詞。
【笑ひたまひて】−苦笑に近い笑い。
【大将こなたに】−源氏の詞。
【女御は】−以下「乱るるところもや」まで、源氏の心中。初め地の文と融合した叙述、やがて心中文として明確化。
【和琴こそ】−係助詞「こそ」は「たどりぬべけれ」に係る。
【春の琴の音は皆掻き合はするものなるを】−『集成』は「春の琴(絃楽器)の音色は、総じて合奏して聞くものと決っているものだが、の意に解されるが、古来不審とされている。河内本「さるものと琴の音は」」と注す。
【なまいとほしく思す】−『集成』は「何となく気がかりに」。『完訳』は「いささか心苦しくお思いになる」と訳す。

 [第三段 夕霧、箏を調絃す]
【あざやかなる御直衣香にしみたる御衣ども袖いたくたきしめて引きつくろひて】−夕霧の化粧した姿。すっきりした御直衣に香をたきしめる。特に袖に深く香をたきしめる。身動きのたびにもっとも香が発しやすい所だからである。
【ゆゑあるたそかれ時の空に花は去年の古雪思ひ出でられて枝もたわむばかり咲き乱れたり】−正月二十日ころ、夕暮時に、白梅が雪かと見間違えられるほに満開に咲いている様子。
【鴬誘ふ】−明融臨模本、合点と付箋「花のかを風のたよりにたくへてそ鴬さそふしるへにはやる」(古今集春上、一三、紀友則)。『源氏釈』に初指摘、諸注指摘する。
【軽々しきやうなれど】−以下「人の入るべきやうはなきを」まで、源氏の詞。
【用意多くめやすくて】−『集成』は「いかにもたしなみ深く、非の打ち所のない所作で」。『完訳』は「心づかいも行き届いていかにも好ましく」と訳す。
【壱越調の声に発の緒を立てて】−「壱越調」は雅楽の六調子の一つ。「発の緒」は箏の琴の調絃で、調子の基準音にする絃。
【なほ掻き合はせばかりは手一つすさまじからでこそ】−源氏の詞。『集成』は「興を殺がなぬように。お愛想までに、掻き合せくらいは一曲弾いてみなさい、というほどの意」と注す。
【さらに今日の御遊びの】−以下「おぼえずはべりける」まで、夕霧の詞。言葉では遠慮しながら、態度はもったいぶった様子。
【けしきばみたまふ】−『集成』は「勿体ぶったご挨拶をなさる」と訳す。
【さもあることなれど】−以下「名こそ惜しけれ」まで、源氏の詞。夕霧をからかう。
【笑ひたまふ】−冗談の後の笑い。
【宿直姿ども】−宮中で宿直するときに直衣を着るので、いま夜でもあるので、こう表現したもの。

 [第四段 女四人による合奏]
【御琴どもの調べども調ひ果てて】−以下、女楽が始まる。
【神さびたる手づかひ澄み果てておもしろく聞こゆ】−明石御方の琵琶。住吉の神の縁で「神さびたる」と表現。『集成』は「由緒ある古風な撥さばきが、澄みきった音色で」。『完訳』は「年功を積んだ神々しいまでの弾きようが、音色も澄みとおるようなみごとさでおもしろく聞こえる」と訳す。
【なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返したる音の、めづらしく今めきて】−紫の上の和琴。「なつかし」「今めかし」は紫の上の人柄を特徴づける語句。
【大和琴にもかかる手ありけり】−源氏の感想。紫の上の和琴に感嘆。
【ものの隙々に心もとなく漏り出づる物の音がらにてうつくしげになまめかしくのみ聞こゆ】−明石女御の箏の琴。「うつくしげ」「なまめかし」」は女御の可憐な人柄を表す語句。『完訳』は「他の楽器の合間合間に、おぼつかなく聞こえてくる性質の音色なので」と訳す。
【琴はなほ若き方なれど習ひたまふ盛りなればたどたどしからず】−女三の宮の琴の琴。その音色に人柄が反映されてない。あるとすれば、「若し」の未熟という人柄。未熟な技量だが、練習中なので、あぶなげなかった。
【優になりにける御琴の音かな】−夕霧の感想。
【唱歌したまふ】−旋律を譜で歌うこと。
【昔よりもいみじくおもしろくすこしふつつかにものものしきけ添ひて聞こゆ】−源氏の声、昔以上に美しくかつ堂々とした感じも加わって聞こえる。
【大将も声いとすぐれたまへる人にて】−夕霧も声のすぐれた人。他に柏木の弟紅梅大納言が上手と言われている(賢木)。

 [第五段 女四人を花に喩える]
【月心もとなきころなれば】−後に「臥待の月」とある。
【小さくうつくしげにてただ御衣のみある心地す】−女三の宮の小柄を強調した表現。
【匂ひやかなる方は後れてただいとあてやかにをかしく】−女三の宮は美しさよりも気品高貴さが特徴。『集成』は「つややかな美しさといった点は劣るが、気品があって美しく」。『完訳』は「つやつやした美しさという点は劣るが、ただまことに気品があって美しく」と訳す。
【二月の中の十日ばかりの青柳のわづかに枝垂りはじめたらむ心地して鴬の羽風にも乱れぬべくあえかに見えたまふ】−女三の宮を植物に喩える。『紫式部日記』に小少将の君を描写したのと類似の文章がある。『河海抄』は「白雪の花繁くして空しく地を撲つ緑糸の条弱くして鴬に勝へず」(白氏文集、巻第六十四、楊柳枝詞八首の第三首)と「鴬の羽風になびく青柳の乱れてものを思ふころかな」(具平親王集)を指摘。
【柳の糸のさましたり】−女三の宮の髪の様子。「青柳」の縁で「柳の糸」という。歌語。
【これこそは限りなき人の御ありさまなめれ】−語り手の視点。女三の宮についていう。
【同じやうなる御なまめき姿の今すこし匂ひ加はりて】−明石女御は「なまめき姿」という点では女三の宮と同じだが、女三の宮のもってない「匂ひ」がこちらにはすこしある、という。
【よく咲きこぼれたる藤の花の夏にかかりてかたはらに並ぶ花なき朝ぼらけの心地ぞしたまへる】−明石女御を藤の花に喩える。「野分」巻にも明石女御を藤の花に喩えた描写がある。
【いとふくらかなるほどに】−明石女御、妊娠五月となっている。
【ささやかになよびかかりたまへるに御脇息は例のほどなればおよびたる心地して】−明石女御の姿態。小柄な点では女三の宮と同じ。女三の宮は着物の中に埋まっているという感じで描写、明石女御は脇息に背伸びして寄り掛かっているという描写。
【ことさらに小さく作らばや】−語り手の感想、挿入。
【いとあはれげにおはしける】−『集成』は「とても可憐にお見えになるのだった」。『完訳』は「いかにも痛々しいご様子であった」と訳す。
【紅梅の御衣に御髪のかかりはらはらときよらにて火影の御姿世になくうつくしげなるに】−明石女御の衣裳。紅梅襲。
【紫の上は葡萄染にやあらむ】−語り手の挿入句。上の「なるに」の接続助詞「に」で続ける。『完訳』は「「灯影の御姿」の無類の美貌が共通するとして、紫の上に転ずる」と注す。
【あたりに匂ひ満ちたる心地して】−女三の宮や明石女御にはない紫の上の美質。『集成』は「あたり一面照り映えるほどの美しさで」。『完訳』は「あたり一面につややかな美しさがあふれているような風情」と注す。
【花といはば桜に喩へてもなほものよりすぐれたるけはひことにものしたまふ】−紫の上を桜に喩える。「野分」巻では樺桜に喩えられた。『完訳』は「他に比べようのない桜に喩えてもなお不足。最高の賛辞」と注す。
【かかる御あたりに明石はけ圧さるべきをいとさしもあらず】−語り手の主観を交えた挿入句。明石御方についての描写。
【もてなしなどけしきばみ恥づかしく】−『集成』は「身ごなしなどしゃれていて風格があり」。『完訳』は「物腰など気がきいていて、こちらが恥じ入りたいくらいだし」と訳す。
【柳の織物の細長萌黄にやあらむ小袿着て羅の裳のはかなげなる引きかけて】−明石御方の衣裳。柳襲。薄い織物の裳を付ける。『完訳』は「裳の着用は女房の格。それをさりげなく着て「ことさら卑下」するのが、彼女の一貫した処世態度」と注す。「にやあらむ」は語り手の推測、挿入句。
【五月待つ花橘】−「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集夏、一三九、読人しらず)による表現。

 [第六段 夕霧の感想]
【うちとけぬ御けはひどもを】−『集成』は「たしなみ深い婦人たちのご様子を」。『完訳』は「とりつくろっていらっしゃるご様子を」と訳す。
【宮をば今すこしの宿世】−以下「のたまはせけるを」まで、夕霧の心中。
【及ばましかば】−「ましかば」--「見たてまつらまし」反実仮想の構文。
【すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに】−夕霧の見た女三の宮。『集成』は「組しやすいようにお見えになる女三の宮のご様子に」。『完訳』は「多少気のおけない性分の方とお見受けされるご様子だから」と訳す。
【あなづりきこゆとはなけれどいとしも心は動かざりけり】−夕霧の女三宮に対する態度、関心。語り手が評す。
【この御方をば何ごとも】−夕霧の紫の上に対する態度、関心。
【いかでかただおほかたに心寄せあるさまをも見たてまつらむ】−夕霧の心中。紫の上に対する気持ち。
【おほかたに】−『集成』は「家族の一員として」。『完訳』は「ほんの一通りの意味で」と訳す。

 

第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論

 [第一段 音楽の春秋論]
【夜更けゆくけはひ】−夜更けて、源氏、夕霧と音楽論をかわす。
【臥待の月はつかにさし出でたる】−十九日の月。
【心もとなしや】−以下「心地すかし」まで、源氏の詞。春秋優劣論。秋の音楽がまさるという。
【秋の夜の】−以下「ことにはべりけれ」まで、夕霧の詞。春がまさるという。
【なほことさらに作り合はせたるやうなる空のけしき花の露も】−秋の情緒のわざとらしさやことさららしさに対して否定的。
【春の空のたどたどしき霞の間よりおぼろなる月影に】−『完訳』は「忘れがたい紫の上の印象「春の曙の霞の間より--」(野分)に酷似。彼女への思慕を秘めて、春の夢幻的な情趣を高く評価」と注す。「秋の夜の隈なき月影」よりも「春の空のたどたどしき霞の間より朧なる月影を賞美する。「末摘花」巻の源氏、常陸宮邸訪問の場面参照。
【澄みのぼり果てずなむ】−『集成』は「笛の音なども、秋は、しゃれた感じに高く澄みきって聞えるということがございません」。『完訳』は「秋は笛の音なども、澄みのぼるというところまではまいりません」。
【女は春をあはれぶと】−明融臨模本、合点あり。巻末の奥入に「伊行/毛詩云/女ハ感陽気春思男々感陰気秋思」(毛詩、国風、七月、鄭箋)とある。しかし、『源氏釈』には指摘なし。
【なつかしく物のととのほることは春の夕暮こそことにはべりけれ】−夕霧の春がまさるとする結論。「なつかし」「ととのふ」という情趣を推奨。
【いなこの定めよ】−以下「さもありかし」まで、源氏の詞。『集成』は「夕霧が今夕の催しにかこつけて春をよしとするのに対して、やや留保をつける口調」と注す。
【律をば次のものにしたるは】−『集成』は「呂は中国から伝来した雅楽の旋法、律は日本固有の俗楽の旋法に基づくものなので、呂の方を重く見たのである。『河海抄』は「呂は春のしらべ、律は秋のしらべといふ歟」という」。『完訳』は「春を推称する夕霧に納得。律は秋の、呂は春の調べ。日本古来の催馬楽などでは呂を重視」と注す。
【いかにただ今】−以下「いかにぞ」まで、源氏の詞。当代の名手の評判。
【年ごろかく埋れて過ぐすに】−源氏が准太上天皇の待遇を受けたのは八年前の秋。その前後から六条院に引き籠もりがちの生活になっている。
【人の才はかなくとりすることども】−『集成』は「婦人たちの才芸はもとより、さしたることもない取りはからいも」と訳す。
【所なる】−「なる」断定の助動詞、連体形中止。余意余情を残す表現。
【それをなむ】−以下「はべりつれ」まで、夕霧の詞。
【和琴はかの大臣ばかりこそ】−係助詞「こそ」は「ものしたまへ」已然形に係る逆接用法。
【いとかしこく整ひてこそ】−紫の上の和琴についていう。
【いとさことことしき際には】−以下「取りなさるるかな」まで源氏の詞。紫の上を自分の弟子として謙辞。
【げにけしうはあらぬ】−以下「優りにたるをや」まで、源氏の詞。『集成』は「諧謔の語」と注す。
【さいへど物のけはひ異なるべし】−『集成』は「やはり(わたしの側にいるお蔭で)どことなく違うところがあるはずだ」と訳す。
【せめて我かしこにかこちなしたまへば】−『集成』は「強引に何もかも自分の手柄のように自慢なさるので」。『完訳』は「しいてご自分のお仕込みででもあるかのように仰せになるので」と訳す。
【我かしこ】−『集成』は「われがしこ」と濁音に読む。

 [第二段 琴の論]
【よろづのこと】−以下「いとあはれになむ」まで、源氏の詞。琴の琴論。
【おぼえつつ】−副助詞「つつ」、動作・思考の繰り返し。思われ思われしてくるもので、のニュアンス。
【たどり深き人】−奥義を極めた人の意。
【ありぬべきを】−「ぬべし」連語。接続助詞「を」逆接の機能。「ぬ」完了の助動詞、確述の意と推量の助動詞「べし」当然の意。確かにそうあってもよいのだが。
【天地をなびかし】−琴の琴の効用を説く。帝王の楽器である理由が分かる。以下の文体は対句じたての四六駢儷文に倣った表現。『花鳥余情』は「楽書云、琴は天地を動かし、鬼神を感ぜしむ」(原漢文)と「琴書」を指摘。また『詩経』にも「天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし」とある。『古今和歌集』序には「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」と和歌の効用を説く。
【この国に弾き伝ふる初めつ方】−以下『宇津保物語』「俊蔭」巻を念頭においた叙述。
【かく限りなきものにて】−『集成』は「この上もない楽器なので」。『完訳』は「このように琴は際限もなく霊力をそなえた楽器であるだけに」と訳す。
【片端にかはあらむ】−反語表現に近い語気。『集成』は「その昔の一端も伝わっていようか」。『完訳』は「どこにその昔の秘法の一端でも伝わっているというのだろう」と訳す。
【思ひかなはぬたぐひ】−『集成』は「立身が叶わなかったといった者」。『完訳』は「不如意な身の上となった例」と訳す。
【などかなのめにてなほこの道を通はし知るばかりの端をば知りおかざらむ】−『集成』は「(しかし)どうして、それほどまでせずとも、やはり、なにとかこの琴の奏法に通暁するに足りる一端だけでも、心得ておかずにいられようか」。『完訳』は「とはいえ、一通りでも、やはらこの道をわきまえる糸口ぐらいは、どうして心得ておかずにいられましょう」と訳す。
【多かるを】−接続助詞「を」順接。前の「いはむや」と呼応する文脈。『集成』は「多いのだが」。『完訳』は「たくさんあるものですから」と訳す。
【心に入りし盛りには】−以下、源氏がいかに広く七絃琴の楽譜を調査して奏法を習得したかの経験談。
【当たるべくもあらじをや】−『集成』は「かないそうもないことだろうね」。『完訳』は「追いつきそうにもありませんね」と訳す。
【この御子たちの御中に】−以下「見えたまふを」まで、源氏の詞。「この」は明石女御をさす。
【三の宮】−明融臨模本には「三」の右傍らに「二」という一筆が見える。河内本は「三宮」、別本は「二宮」。『集成』は「三の宮」と校訂し、「明融本、河内本に「三の宮」。後の匂宮である。これが原形であろう。青表紙本に「二の宮」とするものが多いが、拠りがたい」。『完訳』は「二の宮」と校訂し、「後の式部卿宮。「三の宮」(後の匂宮)とする伝本もある」と注す。

 [第三段 源氏、葛城を謡う]
【葛城遊びたまふ】−明融臨模本、合点あり。催馬楽、呂「葛城」「葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の 西なるや 榎の葉井に 白玉沈くや 真白玉沈くや おおしとど おしとど しかしては 国ぞ栄えむや 我家らぞ 富せむや おおしとど としとんど おおしとんど としとんど」。子孫繁栄を寿ぐ歌謡。
【月やうやうさし上るままに】−臥待ちの月、十九日の月である。
【花の色香ももてはやされて】−梅の花。「御前の梅も盛りに」(第四章一段)とあった。
【この御手づかひは】−紫の上の手さばきをさす。
【琴は五個の調べ】−『新大系』は「琴は胡笳の調べ」と整定。『河海抄』は「掻手片垂水宇瓶蒼海波雁鳴調」を指摘。奏者は女三の宮。
【五六の発刺】−『集成』は「青表紙本は「五六のはち」とあるが、河内本の中に「五六のはら」とするものがあり、それが正しいであろう。「はらとは溌剌とかく。七徽の七分あたりにて六の絃を按へて、五六を右手の人中名の三指にて内へ一声に弾ずるを撥と云ふ。外へ弾ずるを剌と云。つめて云へば発剌(はら)なり」(『玉堂雑記』)」と注して、「五六のはら」と校訂。『完訳』は「五六の撥」のまま。
【いとおもしろく澄まして弾きたまふ】−主語は女三の宮。

 [第四段 女楽終了、禄を賜う]
【この君達の】−鬚黒の三男や夕霧の長男をさす。
【ねぶたくなりにたらむに】−以下「心なきわざなりや」まで、源氏の詞。
【心なきわざなりや】−『集成』は「気のつかぬことをしたものだ」。『完訳』は「どうもわたしはいい気になっていたのだね」と訳す。
【笙の笛吹く君に】−鬚黒の三男。
【横笛の君には】−夕霧の長男。
【こなたより】−紫の上方からの意。
【宮の御方より】−女三の宮からの意。
【あやしや物の師をこそまづはものめかしたまはめ愁はしきことなり】−源氏の詞。冗談にいう。
【ものめかしたまはめ】−『集成』は「お引き立てになって頂きたいものだ」。『完訳』は「大事に扱っていただきたいものです」と訳す。
【うち笑ひたまひて取りたまふ】−主語は源氏。
【御子の持ちたまへる笛を取りて】−横笛である。
【いづれもいづれも皆御手を離れぬものの伝へ伝へいと二なくのみあるにてぞ】−夕霧やその子も含めて源氏の奏法を受け継いですばらしいことをいう。『完訳』は「以下、源氏の心中に即す叙述。女君たちの巧技が自分の伝授によると再確認し、わが優れた才能を思う。前の対話での、伝授されがたいとする慨嘆ともひびきあう」と注す。
【思し知られける】−「られ」自発の助動詞。思わずにはいられない、というニュアンス。

 [第五段 夕霧、わが妻を比較して思う]
【道すがら箏の琴の変はりていみじかりつる音も】−夕霧、紫の上の箏の琴の音色を忘れ難く思い出す。
【わが北の方は】−雲居雁。
【別れたてまつりたまひにしかば】−『完訳』は「大宮の御もとからお離れ申しあげなさったので」。父内大臣によって雲居雁は大宮の三条宮邸から自邸の方に引き取られた。
【ゆるるかにも弾き取りたまはで】−『集成』は「ゆっくり伝授をお受けになることもなくて」。『完訳』は「十分に稽古をお積みにならなかったものだから」と訳す。
【男君】−『完訳』は「前の「大将」とは異なり、家庭内の夫婦関係を強調した呼称」と注す。

 

第六章 紫の上の物語 出家願望と発病

 [第一段 源氏、紫の上と語る]
【対へ渡りたまひぬ】−源氏は東の対へ帰った。
【宮の御琴の音は】−以下「いかが聞きたまひし」まで、源氏の詞。
【初めつ方】−以下「きこえたまはむには」まで、紫の上の詞。
【いかでかは、かく異事なく教へきこえたまはむには】−「いかでかは」反語表現。『集成』は「どうしてご上達なさらないことがありましょう、こんなにかかりきりでお教え申し上げなさったのですから」。『完訳』は「それもそのはずでございましょう、ほかに何もなさらずこうしてかかりきりで教えておあげになるのですから」と訳す。
【さかし】−以下「思ひ起こしてなむ」まで、源氏の詞。
【手を取る取るおぼつかなからぬ物の師なりかし】−『集成』は「手を取らんばかりの教授ぶりで、なかなかしっかりした師匠だというべきでしょう」。『完訳』は「いちいち手を取るようにして、わたしは頼りがいのある師匠というものです」と訳す。
【昔世づかぬほどを】−以下「うれしくこそありしか」まで、源氏の詞。
【面目ありて】−自分にとって面目であったという意。

 [第二段 紫の上、三十七歳の厄年]
【宮たちの御扱ひ】−明石女御腹の御子の世話。
【取りもちてしたまふさま】−『集成』は「自分から買って出てなさる様子も」。『完訳』は「とりしきっていらっしゃるが」と訳す。
【例もあなるをと】−「なる」伝聞推定の助動詞。
【ゆゆしきまで思ひきこえたまふ】−源氏の心中を地の文で叙述。不安・不吉を心中に呼び込み、実際それが以後の物語展開に実現していくという表現構造。
【たぐひあらじとのみ】−『集成』は「二人とないお方だと心底から」と訳す。副助詞「のみ」強調のニュアンス。
【今年は三十七にぞなりたまふ】−女の重厄の年。藤壺も三十七で崩御。『集成』は「源氏十八歳の若紫の巻で、紫の上は「十ばかりにやあらむと見えて」とあった。源氏は今四十七歳。多少の齟齬があると見るよりも大体符合するとすべきであろう。厄年にしたのは作者の意図である」。『完訳』は「源氏との年齢差を八歳と見るかぎり、紫の上の年齢は三十九歳のはず。作者の意識的過誤か」と注す。
【さるべき御祈りなど】−以下「かしこかりし人を」まで、源氏の詞。
【大きなることども】−大がかりな仏事。厄除けの祈祷。
【おのづからせさせてむ】−「させ」使役の助動詞。「て」完了の助動詞、確述。「む」推量の助動詞、意志。『集成』は「当然私の方でさせよう」。『完訳』は「たまにはわたしにさせてください」と訳す。
【故僧都のものしたまはず】−北山の僧都。紫の上の祖母の兄。

 [第三段 源氏、半生を語る]
【みづからは幼くより】−以下「さりともとなむ思ふ」まで、源氏の詞。生涯を述懐し、紫の上への愛情を語る。
【たぐひ少なくなむありける】−以上、現世において無類の栄耀栄華を極めたことをいう。
【されどまた】−反転して、以下に無類の憂愁を体験したともいう。
【まづは思ふ人にさまざま後れ】−源氏は三歳の時には母桐壺更衣に、六歳の時には祖母に、二十三歳で父桐壺院に先立たれた。
【残りとまれる齢の末にも飽かず悲しと思ふこと多く】−『集成』は「具体的には明らかではないが、次の言葉から、藤壺や六条の御息所など、悔恨にみちた青春時代を回想しての感慨と思われる」。『完訳』は「現実世界への不満。その具体内容が次の「あぢきなく--」に語られるが、冷泉帝の皇統の断絶した無念さもひびいていよう」と注す。
【あぢきなくさるまじきことにつけても】−『集成』は「我ながら不本意な感心しないことにかかわったにつけても」。『完訳』は「道にはずれた大それたことにかかわったにつけても」「藤壺への恋情ゆえの物思い」と注す。
【それに代へてや思ひしほどよりは】−『完訳』は「憂愁ゆえに存命しうる。絵合にも見られる考え方」と注す。
【かの一節の別れ】−源氏の須磨明石への流離をさす。
【人に争ふ思ひの絶えぬもやすげなきを】−『集成』は「人と帝寵をきそう気持が絶えないのも楽なことではありませんが」。『完訳』は「主上のお情けを他人と争い合う気持の絶えないのも不安なものですから」と訳す。
【親の窓のうちながら過ぐしたまへるやうなる】−「窓の内」は「長恨歌」の「養在深窓人未識」にもとづく表現。接尾語「ながら」は、さながら、同然の意。
【さりともとなむ思ふ】−『集成』は「それでも、そのことはよくわきまえておいでのことと私は安心しています」。『完訳』は「いくらなんでも分ってくださると思いますが」と訳す。
【のたまふやうに】−以下「祈りなりける」まで、紫の上の詞。
【さはみづからの祈りなりける】−『集成』は「それでは、それが私のためのお祈祷になって今まで生き永らえているのかもしれません」「源氏が「それにかへてや、思ひしほどよりは、今までもながらふるならむとなむ、思ひ知らる」と言ったのにすがった形で、女三の宮降嫁後の苦衷を訴える」と注す。『完訳』は「それが自分自身のための祈りのようになっているのでした」と訳す。
【まめやかには】−以下「御許しあらば」まで、紫の上の詞。出家を再度願う。
【さきざきも聞こゆること】−「今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行なひをも、となむ思ふ」(第三章二段))の出家の意志をさす。
【それはしもあるまじきことになむ】−以下「心のほどを見果てたまへ」まで、源氏の詞。紫の上の出家の再度の願いを拒絶、制止する。
【とのみ聞こえたまふを】−副助詞「のみ」限定と強調のニュアンス。と同じことばかり、というニュアンス。
【例のことと心やましくて】−『集成』「(出家の願いを聞き届けて下さらない)いつもの口実だと、つらく思って」。『完訳』は「上は、いつもと同じおっしゃりようだと、まったくやりばのないお気持になられて」と訳す。

 [第四段 源氏、関わった女方を語る]
【多くはあらねど】−以下「悔しきことも多くなむ」まで、源氏の詞。源氏の女性観。過去の女性について語る。
【大将の母君を】−葵の上をさす。源氏の詞中での呼称。以下、葵の上評。
【幼かりしほどに見そめて】−源氏は十二歳で元服、その日の夜に葵の上と結婚。
【いとほしく悔しくもあれ】−「こそ」の係結び、已然形。『集成』は句点で「お気の毒にも残念にも思われます」。『完訳』は読点で逆接用法の「おいたわしく悔やまれもするのですけれど」と訳す。
【うるはしく重りかにて】−『完訳』は「深窓の麗人という印象である」と注す。「麗し」という語句は、きちんとしすぎていてよそよそしく好感がもたれない、というニュアンス。女三の宮降嫁後の紫の上の態度に「うるはし」という表現が使われているのは、注意すべき。
【すこしさかしとやいふべかりけむ】−『集成』は「どちらかというと頭のよすぎる人だったであろうと」。『完訳』は「少し立派すぎたとでもいうべきだったでしょうか」と訳す。
【中宮の御母御息所なむ】−六条御息所。源氏の詞中での呼称。以下、六条御息所評。
【怨ぜられしこそいと苦しかりしか】−「られ」受身の助動詞。源氏が御息所から怨まれたのはつらいことであった、の意。
【身のあはあはしくなりぬる嘆きを】−『集成』は「ご身分にふさわしからぬ身の上になられた嘆きを」。『完訳』は「ご身分を傷つけてしまったことが嘆かわしいと」と訳す。
【さるべき御契りとはいひながら】−后という高い地位になるご宿縁とはいっても。
【内裏の御方の御後見は】−以下「ところこそあれ」まで、源氏の詞。源氏の詞中での明石御方の呼称。以下明石御方評。
【異人は見ねば知らぬを】−以下「思ひてなむ」まで、紫の上の詞。
【まほならねど】−『集成』は「はっきりとではありませんが」。『完訳』は「あらたまってではありませんが」と訳す。
【さばかりめざましと】−以下「真心なるあまりぞかし」まで、地の文と源氏の心中が融合した表現。
【君こそはさすがに】−以下「こそものしたまへ」まで、源氏の詞。
【よく二筋に心づかひはしたまひけれ】−『完訳』は「状況に応じて心の使い分けをする聰明さをいう」と注す。
【いとけしきこそものしたまへ】−『集成』は「とても余人に代えがたい感心なお人柄です」と訳し、「「けしきあり」はひとかどの風情があるというほどの意」と注す。『完訳』は「まことにご機嫌ななめなところをお見せにはなりますけれど」と訳し、「嫉妬なさるところもあるが、と戯れた」と注す。
【宮にいとよく】−以下「喜び聞こえむ」まで、源氏の詞。
【今は暇許してうち休ませたまへかし】−以下「たまひにたり」まで、源氏の詞。女三の宮が源氏に暇を許して琴の教授を休ませる、の意。「せ」使役の助動詞。
【物の師は心ゆかせてこそ】−『集成』は「師匠というものは、(ご褒美を下さって)喜ばせないといけないものです」。『完訳』は「師匠を楽にさせてこそ弟子というものです」と訳す。

 [第五段 紫の上、発病す]
【人びとに物語など読ませて聞きたまふ】−当時の物語の観賞法を窺わせる。女房が物語を読みあげて姫君が耳で聞くというかたち。国宝『源氏物語絵巻』「東屋」第一段の図、参照。
【かく世のたとひに言ひ集めたる昔語りどもにも】−「あぢきなくもあるかな」まで、紫の上の心中。「昔語り」の性格について、『集成』は「こうして世間によくある話としていろいろ物語っているたくさんの昔話でも」。『完訳』は「このように世間にありがちな話としていろいろと書いてある昔の数々の物語にも」と訳す。いずれにしても短編物語集的性格であろう。
【つひに寄る方ありてこそあめれ】−【寄る方ありてこそ】−明融臨模本、合点。付箋「よるかたもありといふなり(る)ありそ海にたつ白なみのおなし所に」(出典未詳)。前田家本『源氏釈』は「よるかたもありといふなるありそ海のたつ白浪もおなし心よ」(出典未詳)を指摘。定家自筆本『奥入』は「よる方もありといふなるありそうみの(に)たつしらなみのおなし所に」(出典未詳)と、第四五句に異同ある和歌を指摘。『異本紫明抄』『紫明抄』『河海抄』は『奥入』所引系の和歌、『休聞抄』『孟津抄』は『源氏釈』所引系の和歌を指摘する。現行の注釈書では『河海抄』指摘の「大幣と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありといふものを」(伊勢物語四十七段)を指摘する。
【こそあめれ】−係結び、逆接用法。
【あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな】−以下、紫の上の述懐。『集成』は「ずっと源氏の正式な北の方としてではなく過してきたこと。それゆえ、今は北の方として女三の宮がいる」と注す。
【げにのたまひつるやうに】−源氏の言葉「そのかた人にすぐれたりける宿世とは思し知るや」(第六章三段)を受ける。
【人より異なる宿世もありける身ながら】−『完訳』は「ここでも栄華と憂愁の半生とするが、宿命観が濃厚」と注す。
【御消息聞こえさせむ】−女房の詞。源氏に知らせよう、の意。
【いと便ないこと】−紫の上、制止の詞。今女三の宮と一緒にいるところに知らせを遣るのは不都合である、というニュアンスで断る。

 [第六段 朱雀院の五十賀、延期される]
【かく悩ましくてなむ】−紫の上方の女房の詞。
【そなたより聞こえたまへるに】−明石女御方から源氏のもとへ、の意。
【いかなる御心地ぞ】−源氏の詞。
【御粥などこなたに】−朝粥、源氏の朝食をいう。
【はかなき御くだものを】−紫の上への軽い食事。『集成』は「果物、木の実、菓子などの軽い食事。ここは果物であろう」。『完訳』「お菓子」と注す。
【思し騒ぎて】−主語は源氏。
【御賀の響きも静まりぬ】−最初正月に予定、次いで二月十余日に延期、それも中止になりそうとなる。

 [第七段 紫の上、二条院に転地療養]
【同じさまにて二月も過ぎぬ】−紫の上の病状、回復に向かうことなく二月が過ぎる。朱雀院の御賀も再び延期となる。
【院の内ゆすり満ちて思ひ嘆く人多かり】−六条院の人々の様子をいう。
【この人亡せたまはば】−以下「御本意遂げたまひてむ」まで、夕霧の心中。
【取り分きて】−『完訳』は「大将ご自身もとくにお命じになって」と訳す。
【聞こゆることをさも心憂く】−紫の上の詞。かねて申し上げている出家の願いを聞き届けてくれず、辛いという意。
【とのみ恨みきこえたまへど】−副助詞「のみ」限定と強調のニュアンスを添える。紫の上は出家を遂げられない恨みだけを言う。
【限りありて別れ果てたまはむよりも】−『完訳』は「以下、源氏の心中に即した地の文」と注す。
【目の前にわが心とやつし捨てたまはむ御ありさまを見ては】−出家することは夫婦関係を絶つこと。いわゆる家庭内離婚の形になる。夫が先に出家した例として、明石入道夫妻の関係。妻が先に出家した例として、光源氏女三の宮の夫婦関係。その意味が違ってくる。男にとっては棄てられた関係になる。
【昔よりみづからぞ】−以下「捨てたまはむとや思す」まで、源氏の詞。
【とのみ惜しみきこえたまふに】−副助詞「のみ」限定と強調のニュアンスを添える。棄てられる側に立った源氏のエゴが剥き出し。
【思し惑ひつつ】−接続助詞「つつ」は、同じ動作の繰り返し。
【女どちおはして】−尊敬語「おはす」があるので六条院の女君たちをさす。接続助詞「て」弱い逆接用法。
【人ひとりの御けはひなりけり】−「人ひとり」は紫の上をさす。『集成』は「(六条の院のはなやかさも)紫の上お一人がいられたせいであったのだと見える」と訳す。

 [第八段 明石女御、看護のため里下り]
【ただにもおはしまさで】−以下「参りたまひね」まで、紫の上の詞。「ただにもおはしまさで」の主語は明石姫君。身重の身体を案じる。接続助詞「で」原因理由の意で続くニュアンス。
【若宮のいとうつくしうておはしますを】−諸説ある。『集成』は「「三の宮」であろう」。『完訳』は「二の宮か。または紫の上の養育する女一の宮か」。『新大系』は「紫上の養育する女一宮か、源氏が音楽の才能を期待した二宮(あるいは三宮)か」と注す。
【おとなびたまはむを】−以下「忘れたまひなむかし」まで、紫の上の詞。
【ゆゆしくかくな思しそ】−以下「多かりける」まで、源氏の詞。
【かくな思しそ】−副詞「な」--終助詞「そ」禁止の構文。
【おきて広きうつはものには】−『河海抄』は「小にして焉(これ)を取れば小さく福(さいはひ)を得。大にして焉を取れば大いに福を得」(孝経、至徳要道篇の注)と指摘する。
【この御心ばせのありがたく】−紫の上の性質をさす。
【罪軽きさまを申し明らめさせたまふ】−前世での罪障が軽いことを、詳しく神や仏に言明申し上げて悪病を取り除いてもらうという趣旨。
【思し惑へる御けはひを】−源氏の態度をさす。
【月日を経たまへば】−『集成』は「月日を経たまへば」、已然形+接続助詞「ば」、順接の確定条件。『完訳』『新大系』は「月日を経たまふは」、連体形+係助詞「は」、間に「の」が省略された形。強調のニュアンスを添える。

 

第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語

 [第一段 柏木、女二の宮と結婚]
【まことや】−話題を転じて、以前に途中のままになっていた物語を語り起こす発語。『完訳』は「話題を呼び返す語り口」と注す。
【この宮の御姉の二の宮】−女三の宮の姉宮、女二の宮。落葉宮と呼ばれる人。
【下臈の更衣】−一条御息所をさす。
【もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ】−挿入句。係助詞「こそ」--「深かりけれ」已然形、読点。逆接用法。
【慰めがたき姨捨にて】−『源氏釈』と明融臨模本、付箋「わか心なくさめかねつさらしなやをはすて山にてる月をみて」(古今集雑上、八七八、読人しらず)を指摘。
【その乳母の姉ぞかの督の君の御乳母なりければ】−女三の宮の乳母と柏木の乳母は姉妹。女三の宮の乳母子は柏木の乳母の姪。
【いときよらになむおはします】−『集成』は「はじめは乳母が柏木に向って語る直接話法のような書き方で、すぐ間接話法に転じる」。『完訳』は「「--おはします」は、次の「帝の--たまふ」と並列。美貌とともに、帝最愛の姫宮である点に注意。その恋慕は彼の権勢志向に始まる」と注す。

 [第二段 柏木、小侍従を語らう]
【かくて院も離れおはしますほど】−紫の上が病気療養のため二条院におり、源氏もそちらにいっているという意。
【昔より】−以下「おぼゆるわざなりけれ」まで、柏木の詞。
【聞こし召させて】−「聞く」の「聞こし召す」最高敬語。主語は女三の宮。
【頼もしきに】−接続助詞「に」逆接。
【院の上だに】−朱雀院をいう。柏木の会話中での呼称。「すこし悔い思したる」に係る。
【かくあまたにかけかけしく】−『集成』は「以下、ある人の朱雀院への報告」と注す。源氏の態度についていう。
【人に圧されたまふやう】−女三の宮のことをいう。
【過ぐしたまふなり】−「たまふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なり」。
【人の奏しける】−朱雀院への奏上。
【同じくはただ人の】−以下「定むべかりけれ」まで、朱雀院の詞引用。
【女二の宮の】−以下「ものしたまふなること」まで、朱雀院の詞引用。「たまふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なり」の連体形。
【げに同じ御筋とは尋ねきこえしかど】−同じお血筋の姉妹だが違う人だという。母方の身分の違い(下臈の更衣腹)に基づくのである。
【それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ】−『完訳』は「女二の宮と女三の宮では、実際には姉妹とも思われぬ、の気持」と注す。
【いであなおほけな】−以下「御心ならむ」まで、小侍従の詞。
【さこそはありけれ】−以下「あらましかば」まで、柏木の詞。
【宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさま】−『集成』は「女三の宮との結婚を、恐れ多いことながら若輩の私がお望み申し上げた次第は。「及ぶ」は、手を届かせる。柏木としては、背伸びして望んだというほどの気持がある」と注す。
【院にも内裏にも】−朱雀院と今上帝。
【などてかはさてもさぶらはざらまし】−朱雀院の詞を間接的引用。反語表現。
【御いたはりあらましかば】−朱雀院の柏木への恩顧。反実仮想の構文。
【いと難き御ことなりや】−以下「深くなりたまへれ」まで、小侍従の詞。
【かの院の言出でてねむごろに聞こえたまふに】−源氏が言葉に出して熱心に求婚したと、小侍従はいう。
【御身のおぼえとや思されし】−係助詞「や」--過去の助動詞「し」連体形、疑問の意だが、裏に反語的意をこめる。
【御衣の色も深くなりたまへれ】−中納言は従三位相当官。袍の色は浅紫。
【今はよし】−以下「思ひ離れてはべり」まで、柏木の詞。
【これより】−以下「参りつらむ」まで、小侍従の詞。反語表現。

 [第三段 小侍従、手引きを承諾]
【いであな聞きにく】−以下「なのたまひそよ」まで、柏木の詞。
【世はいと定めなきものを】−「世」は男女の縁。男と女の縁というのは定めない、という思想。
【あるやうありてものしたまふたぐひなくやは】−反語表現。『集成』は「わけがあって男と情けをかわされるようなお方がないわけでもあるまい」と訳す。
【ひとしからぬ際の御方々に】−六条院の夫人方。
【世の中はいと常なき】−明融臨模本、朱合点、付箋「恋しなはたか名はたゝし世中のつねなき物といひはなすとも」(古今集恋二、六〇三、深養父)。『源氏釈」が初指摘(第二句「誰が名か惜しき」)。『岷江入楚」は「私此引うたに及ばず」と注す。
【人に落とされたまへる】−以下「御落としめ言になむ」まで、小侍従の詞。
【改めたまふべきにやははべらむ】−反語表現。
【まことは】−以下「罪あるわざかは」まで、柏木の詞。
【数にもあらずあやしきなれ姿を】−柏木の謙辞。『源氏釈』は「これを見よ人もすさめぬ恋すとて音を泣く虫のなれる姿を」(後撰集恋三、七九四、源重光朝臣)を指摘(第二句「人もとがめぬ」)。『岷江入楚』は「君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を」(住吉物語)を指摘。「なれ姿」は歌語的表現。
【御身のやつれ】−『集成』は「「やつれ」は、身を落すというほどの意」。『完訳』は「宮の御身の疵になるまいの意」と注す。
【神仏】−仏神(大・横・池) 「柏木」にも明融臨模本と大島本とでは語順を逆にする例がある。
【誓言をしつつ】−副助詞「つつ」同じ動作も繰り返し。
【しばしこそいとあるまじきことに言ひ返しけれ】−挿入句。係結び「こそ」--「けれ」逆接用法。
【もしさりぬべき】−以下「見つけはべらむ」まで、小侍従の詞。柏木の願いを聞きいれ、手引することを約束する。

 [第四段 小侍従、柏木を導き入れる]
【極じて】−明融臨模本は「功」と傍書。『集成』『新大系』は「極じて」。『完訳』は「困じて」と宛てる。
【消息しおこせたり】−主語は小侍従。
【気近く】−『集成』は「このあたり、柏木の気持を、その心事に即して書いているので、敬語がない」。『完訳』は「柏木の心情に即した文脈ながら、語り手が、恋ゆえの想外の事態の出来を想像」と注す。
【聞こえ知らせては】−「は」について、『集成』は係助詞「は」、「自分の気持もお話し申し上げたら」。『完訳』は接続助詞「ば」仮定条件の意、「この意中をもお打ち明け申し上げたならば」と訳す。
【四月十余日ばかりのことなり御禊明日とて】−賀茂祭(四月中酉の日)の前の御禊、吉日を選んで行う。
【斎院にたてまつりたまふ女房十二人】−女三の宮方から賀茂祭の奉仕のために女房を十二人差し出した。後文から上臈の女房と推量される。
【ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など】−祭の奉仕には関係ない中臈の女房や若い女房そして童女ら、祭見物する側の人たち。
【按察使の君も、時々通ふ源中将、責めて呼び出ださせければ】−女三の宮の側近の女房に通ってくる源中将。源中将は系図不詳の人だが、若い中将といえば、出世コースにある人。
【下りたる間に】−局に下がっている間に。
【さまでもあるべきことなりやは】−『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『集成』は「小侍従の軽率さを批判する草子地」「そんな所にまで引き入れてよいものだろうか」。『完訳』は「小侍従への語り手の評言」「じっさいそんなことまですべきだったのだろうか」と注す。

 [第五段 柏木、女三の宮をかき抱く]
【うちかしこまりたるけしき見せて】−柏木の態度。
【床の下に抱き下ろしたてまつるに】−御帳台の浜床の下に。『河海抄』によれば、浜床の高さは三尺という。また『類聚雑要抄』には一尺あるいは九寸の例が見えるという。
【せめて見上げたまへれば】−『集成』は「見上げ」。『完訳』は「見開け」と宛てる。
【あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや】−語り手の挿入句。『完訳』は「宮の、柏木への反応に即した叙述。「聞こゆる」の主語は柏木」と注す。
【数ならねど】−以下「心もさらにはべるまじ」まで、柏木の詞。
【思うたまへられずなむ】−「たまへ」謙譲の補助動詞、未然形。「られ」自発の助動詞、未然形。「ず」打消の助動詞、終止形。「なむ」係助詞、下に「ある」などの語句が省略されて、強調と余意のニュアンス。--と存ぜずにはいられない、の意。
【止みはべなましかば】−反実仮想の構文。「過ぎぬべかりけるを」に係る。
【なかなか漏らしきこえさせて】−主語は柏木。女三の宮への求婚を願い申し上げたことをいう。「きこえさす」は「きこゆ」よりも一段と敬意の深い謙譲語。
【院にも聞こし召されにしを】−朱雀院も承知していたことをいう。「聞こし召す」は「聞く」の最高敬語。
【のたまはせざりけるに】−「のたまはす」は「言ふ」の最高敬語。
【身の数ならぬひときはに】−身分が源氏より劣っていたことをいう。
【動かしはべりにし心なむ】−『集成』は「無念に思うようになりました気持が」。『完訳』は「その口惜しさを静めることのできません一念が」と訳す。
【いとことわりなれど】−以下「たまはりてまかでなむ」まで、柏木の詞。女三の宮を安心させ脅し懇願する。
【心もこそつきはべれ】−「もこそ」係助詞の連語。--しては大変だ、という懸念の構文。

 [第六段 柏木、猫の夢を見る]
【なつかしくらうたげにやはやはとのみ見えたまふ御けはひ】−女三の宮の感じ。「なつかし」「らうたげなり」は桐壺更衣にも「なつかしうらうたげなりしを思し出づるにも」(桐壺)とあった。「やはやは」が女三の宮の特徴。
【いづちもいづちも】−「跡絶えて止みなばや」まで、柏木の思念。『伊勢物語』六段、『大和物語』百五十四段、百五十五段に男が女を盗み出すという同じ発想の物語がある。『更級日記』にも、そのような話への憧れが書かれている。
【ただいささかまどろむともなき夢に】−情交の最中の夢。『集成』は「この前後、宮との間に密通のことがあったことを暗示する」。『完訳』は「情交の象徴的表現」と注す。
【この手馴らしし猫の】−以下、夢の中の描写。柏木が夢の中で不思議に思いながら見た夢という描写。『細流抄』は「懐妊の事也」。『岷江入楚』は「獣を夢みるは懐胎の相なり」と指摘する。当時の俗信。
【何しに奉りつらむと思ふほどに】−夢の中の自分の行動をどうしてそういうことをするのだろうと、不審不思議に思いながらその夢を見ている。
【いかに見えつるならむ】−夢から覚めて後の柏木の反省。
【思しおぼほるるを】−「を」接続助詞。『集成』は「悲しみに沈んでいられるのに」。『完訳』は「正気もなくいらっしゃるが」と訳す。
【なほかく】−以下「おぼえはべる」まで、柏木の詞。引用句なし。
【げにさはたありけむよ】−女三の宮の心中。
【契り心憂き御身なりけり】−『一葉抄』は「双紙の詞也」と指摘。『全集』は「柏木のいう「のがれぬ御宿世」関係づけて、女三の宮のありようを評した草子地」。『集成』は「女三の宮の気持を、地の文で代弁した筆致」と注す。
【院にも今はいかでかは見えたてまつらむ】−女三の宮の心中。反語表現。
【人の御涙をさへ拭ふ袖は】−副助詞「さへ」添加の意。自分の涙を拭う上に宮の涙までを拭う袖は、の意。

 [第七段 きぬぎぬの別れ]
【なかなかなり】−語り手の評言。『集成』は「柏木の気持を述べたもの」。『完訳』は「前の語り手の想像「なかなか思ひ乱ることもまさるべきことまでは思ひもよらず」どおり、逆の事態に陥った」と注す。
【いかがはしはべるべき】−以下「御声を聞かせたまへ」まで、柏木の詞。宮の「あはれ」の一言を所望。
【ありがたきを】−接続助詞「を」弱い順接の意。間投助詞「を」の詠嘆のニュアンスも添う。
【果て果ては】−以下「かかるやうはあらじ」まで、柏木の詞。末摘花の無口が想起される。
【さらば不用なめり】−以下「捨てはべりなまし」まで、柏木の詞。明融臨模本「不用」の傍書がある。『集成』は「あなたの気持を得ることはできないのですね、という気持」と注す。
【身をいたづらに】−明融臨模本、朱合点あり。『河海抄』は「夏虫の身をいたづらになすことも一つ思ひによりてなりけり」(古今集恋一、五四四、読人しらず)を引く。しかし『岷江入楚』が「不及此歌」と批判して、現行の注釈書では引歌として指摘されない。
【それに代へつるにても捨てはべりなまし】−反実仮想の構文。『集成』は「その代りということで命を捨てても何の惜しいこともありません」。『完訳』は「そのお情けとひきかえに命を捨ててしまうこともできましょうに」と訳す。
【かき抱きて出づるに】−柏木が女三の宮を抱いて御帳台の浜床の下から端の方へ出る。
【果てはいかにしつるぞ】−宮の心中。
【隅の間の屏風をひき広げて】−寝殿の西側の西南の隅の柱と柱の間に屏風を広げる。人目を避けるため。
【戸を押し開けたれば】−寝殿の西南の隅の妻戸。外の光で宮の顔をみるため。
【まだ明けぐれのほどなるべし】−語り手の挿入句。
【かういとつらき御心に】−以下「あはれとだにのたまはせよ」まで、柏木の詞。
【いとめづらかなり】−女三の宮の心中。『集成』は「何ということを言う人かと」。『完訳』は「なんと無体なことをと」と訳す。
【あはれなる夢語りも】−以下「思し合はすることもはべりなむ」まで、柏木の詞。猫の夢をさす。
【今思し合はすることもはべりなむ】−懐妊の事実となって知られよう、という意。「な」完了の助動詞、確述。「む」推量の助動詞、推量。きっと--するだろう、という気持ちを込めたニュアンス。
【秋の空よりも心尽くしなり】−「木の間より漏り来る月の影見れば心尽くしの秋は来にけり」(古今集秋上、一八四、読人しらず)を踏まえる。『集成』は「柏木の心事を述べたもの」と注す。
【起きてゆく空も知られぬ明けぐれにいづくの露のかかる袖なり】−柏木の贈歌。「起き」と「置き」の掛詞。「置く」と「露」は縁語。「露」は涙を象徴。「空も知られぬ」と「いづくの露」が響き合う。
【明けぐれの空に憂き身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく】−女三の宮の返歌。「あけぐれ」「空」の語句を受け、また「露」「置く」の語句を「夢」「消え」と返す。『完訳』は「「夢」は柏木のいう夢ともひびくが、源氏・藤壺の密会の贈答歌(若紫)にも発想が類似」と注す。

 [第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ]
【女宮の御もとにも参うでたまはで大殿へぞ忍びておはしぬる】−柏木の正室女二の宮邸へは行かず、父の大殿邸にこっそりと帰る。
【さてもいみじき】−以下「まばゆくなりぬれ」まで、柏木の心中。罪におののく。
【世にあらむことこそまばゆくなりぬれ】−『集成』は「胸を張ってこの世に生きてゆくこともできなくなってしまった」。『完訳』は「まともな顔をしてこの世に生きてはいられなくなった」と訳す。
【女の御ためは】−以下、柏木に即した叙述。途中から徐々に間接的叙述から直接的叙述、柏木の心中文的表現になり再び間接的叙述に戻る。
【帝の御妻をも取り過ちて】−このあたりから柏木の心中文的様相をおびてくる。
【かばかりおぼえむことゆゑは】−「おぼゆ」の内容について、『集成』は「これほど不埒なと思われることのためなら」。『完訳』は「今の自分のように苦しい思いを味わわせられるのだったら」と訳す。
【おぼゆまじ】−主体は柏木。打消推量の助動詞「まじ」意志の打消は、柏木自身のもの。
【恥づかしくおぼゆ】−柏木の心中を地の文に韜晦させた表現。
【いと口惜しき身なりけり】−女三の宮の心中。
【とみづから思し知るべし】−語り手の挿入句。宮の心中を推測。
【悩ましげになむ】−源氏のもとに伝えられた使者の詞。
【いみじく御心を尽くしたまふ御事】−紫の上の看病をさす。
【渡りたまへり】−二条院から六条院へ。
【かの御心地のさま】−紫の上の病状をさす。
【今はのとぢめにもこそあれ】−以下「見直したまひてむ」まで、源氏の詞。「もこそあれ」係結び。懸念の意。
【いとほしく心苦しく思されて】−「れ」自発の助動詞。下文の「おぼさる」の「る」も同じ。『集成』は「申しわけなくつらく」。『完訳』は「宮はおいたわしくも申し訳なくもお思いになって」と訳す。

 [第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲]
【督の君はまして】−柏木。「まして」は女三の宮に比較してそれ以上にの意。
【わが方に離れゐて】−自分の部屋をさす。柏木は宮の居間とは別に自分用の部屋があり、そこにばかりいることをいう。
【悔しくぞ摘み犯しける葵草神の許せるかざしならぬに】−柏木の独詠歌。柏木、女三の宮との密通を罪と自覚する。「摘み犯す」と「罪犯す」。「葵」と「逢ふ日」の掛詞。『集成』は「あのお方に無理無体にお逢いするという大それたあやまちを犯して、くやまれることだ、神様が大目に見て下さる--世間に許される--挿頭(葵草)ではないのに」と訳す。
【女宮も】−柏木の正室女二の宮をさす。
【恥づかしくめざましきにもの思はしくぞ思されける】−妻として夫に疎んじられ、また皇女として誇りを傷つけられた思い。
【さすがにあてに】−『完訳』は「「さすがに--なほ--」と感情の起伏に注意」と注す。
【同じくは】−以下「宿世よ」まで、柏木の心中。
【もろかづら落葉を何に拾ひけむ名は睦ましきかざしなれども】−柏木の独詠歌。「もろかづら」は葵と桂の挿頭、「かざし」は姉妹、女三の宮と二の宮の姉妹をいう。
【書きすさびゐたるいとなめげなるしりう言なりかし】−『一葉抄』は「双紙詞」と指摘。『集成』は「女二の宮をずいぶん馬鹿にした陰口というものだ。皇女に対して斟酌を加える意味合いもある草子地」。『完訳』は「柏木の蔑視を、語り手が評す」と注す。

 

第八章 紫の上の物語 死と蘇生

 [第一段 紫の上、絶命す]
【絶え入りたまひぬ】−紫の上の絶命を伝える使者の詞。
【日ごろは、いささか隙見え】−以下「かくおはします」まで、女房の詞。
【さるべき限りこそまかでね】−係助詞「こそ」--打消助動詞「ね」已然形、逆接用法。読点で下文に続く。
【さりとももののけの】−以下「な騒ぎそ」まで、源氏の詞。
【限りある御命にて】−以下「止めたてまつりたまへ」まで、僧侶の詞。
【不動尊の御本の誓ひ】−『河海抄』は『大般若経』の「定業亦能転」の『不動義軌』を引いて「又正報尽者、能延六月住」を注す。「その日数」とは六ケ月をさす。
【ただ今一度】−以下「悔しく悲しきを」まで、源氏の心中。または独り言。
【見たてまつる心地ども】−女房たちの心地。
【ただ推し量るべし】−『完訳』は「語り手の言辞」と注す。
【仏も見たてまつりたまふにや】−「にや」は語り手の判断推測の言辞。『完訳』は「以下の物の怪出現の理由を語り手が推測」と注す。
【思し騒がる】−「る」自発の助動詞。冷静ではいらっしゃれない。

 [第二段 六条御息所の死霊出現]
【人は皆去りね】−以下「思ひつるものを」まで、物の怪の詞。
【同じくは思し知らせむと思ひつれど】−源氏に。「思し知らせむ」という敬語表現。『集成』は「どうせ取り憑いたのなら、思い知らせてさし上げようと思いましたが」「紫の上を絶息させたこと」。『完訳』は「どうせなら殿にこの私のつらさをお知りいただこうと思ったのだけれど」と訳す。
【命も堪ふまじく身を砕き】−源氏の紫の上を看病する態度。
【今こそかくいみじき身を受けたれ】−成仏できずに魔界にさまよっていることをいう。
【いにしへの心の残りて】−生前の心。『集成』は「昔の愛執の思いが残っているので」。『完訳』は「人間の世を生きた昔の心が残っていればこそ」「人間界にあった時の心。源氏への愛執をさす。それが残っているので、成仏できない」と注す。
【昔見たまひしもののけ】−「葵」巻の六条御息所の生霊出現をさす。
【まことにその人か】−以下「いささかにても信ずべき」まで、源氏の詞。「その人」は六条御息所をいう。
【たぶれたる】−『和名抄』に「狂、太布流。俗云、毛乃久流比」。『名義抄』に「誑、タブロカス」とある。
【わが身こそあらぬさまなれそれながらそらおぼれする君は君なり】−六条御息所の死霊の歌。
【いとつらしいとつらし】−死霊の詞。『完訳』は「「つらし」は相手を恨む意。現身の御息所にはなかった発想。情念のむき出しになった物の怪のゆえんか」と注す。
【疎ましく、心憂けば】−『集成』は「いやらしく情けないので」。『完訳』は「無気味にも厭わしいので」と訳す。
【中宮の御事にても】−以下「ことになむありける」まで、六条御息所の死霊の詞。
【みづからつらしと思ひきこえし心の執なむ止まるものなりける】−わが子の身の上よりも愛人としての源氏のほうに愛執の念がのこった、という。女として母であることよりも妻であることに執着した。
【人より落として思し捨てしよりも】−正妻の葵の上より低く扱われたことをいう。
【思ふどちの御物語のついでに】−女楽の後に源氏が紫の上に六条御息所のことを語ったことをさす。
【心善からず憎かりしありさまを】−御息所自身の性格や振る舞いをいう。
【かく所狭きなり】−『集成』は「こんな大変なことになったのです」「魔界に身を堕した悪霊なので、ほんのちょっとした心のゆらぎでも、紫の上の大病の原因になった、と言う」と注す。
【この人を深く憎しと思ひきこゆることはなけれど】−紫の上をさす。御息所は紫の上に対しては恨み心はもたないという。
【守り強くいと御あたり遠き心地して】−源氏をさす。源氏の神仏の加護が厚く物の怪として近寄りがたいことをいう。
【いと悔しきことになむありける】−斎宮となって仏道から離れた生活をしていたことを悔やまれることだ、という。当時の仏教思想の篤さを暗示する。

 [第三段 紫の上、死去の噂流れる]
【今日の帰さ見に】−賀茂祭の翌日の上賀茂の神館に一泊した斎王の紫野に帰る行列を見るために、の意。
【いといみじき】−以下「雨はそほ降るなりけり」まで、上達部の詞。
【そほ降る】−『万葉集』に「曾保零」。『日葡辞書補遺』に「ソヲフル」とある。しかし『易林本節用集』には「微降雨ソボフルアメ添雨ソボフルアメ」とある。古くは第二音節は清音であったらしいといわれる。
【かく足らひぬる人は】−以下「御おぼえを」まで、上達部の詞。前に「いとかく具しぬる人は世に久しからぬ例もあるを」(第六章二段)「取り集め足らひたることはまことにたぐひあらじ」(同)とあった。盈虚思想である。「絵合」巻末の源氏の嵯峨野の御堂建立もそうした思想に基づく造営であった。
【何を桜に】−明融臨模本、合点と付箋「まてといふにちらてしとまる物ならはなにを桜に思まさまし」(古今集春下、七〇、読人しらず)がある。『源氏釈』が初指摘。
【今こそ、二品の宮は、もとの御おぼえ現はれたまはめ】−紫の上が亡くなって、これで正妻としての本来のご身分に相応しい寵愛を得るであろう、という意。
【昨日暮らしがたかりしを】−昨日の賀茂祭の行列には苦しくて見物する気にもなれなかったことをいう。
【かく言ひあへるを聞くにも】−紫の上絶命の噂を。主語は柏木。
【何か憂き世に】−明融臨模本、合点と付箋「のこりなくちるそめてたきさくら花有てよのなかはてのうけれは」(古今集春下、七一、読人しらず)とある。『源氏釈』が初指摘。ただし初句「なごりなく」とある。文句が合わない。現行の注釈書では「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世に何か久しかるべき」(伊勢物語)を指摘。
【いかにいかに】−以下「参りつる」まで、柏木の詞。
【いと重くなりて】−以下「心苦しきことにこそ」まで、夕霧の詞。紫の上の病状について説明する。
【衛門督わがあやしき心ならひにや】−語り手が柏木の心中を推測した挿入句。『集成』は「自分のまともでない恋心からであろうか」「源氏を裏切って及ばぬ恋に身をやつす自分の心事からおしはかって、夕霧も継母の紫の上に恋情を抱いているのかと疑う」。『完訳』は「衛門督は、自分のけしからぬ気持に照らして人の心をも推し量るのか」「柏木はわが体験を根拠に、夕霧の異様な悲嘆ぶりに、彼も継母の紫の上に懸想心を抱いているかと直感する」と注す。
【この君の】−以下「心しめたまへるかな」まで、柏木の心中。
【重き病者の】−以下「聞こゆべき」まで、源氏の詞。
【心のうちぞ腹ぎたなかりける】−『岷江入楚』は「草子地なり」と指摘。『集成』は「その心中は、立派とは癒えないものだ」「なにも知らない源氏に対して、露顕を恐れる柏木の心中を批判した趣の草子地」。『完訳』は「心中うしろめたいからなのであった」「柏木のうしろめたい秘め事への、語り手の評言」と注す。

 [第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く]
【うつし人にてだにむくつけかりし人の】−以下、源氏の六条御息所についての述懐。
【世変はり妖しきもののさまになりたまへらむを】−『集成』は「魔道に堕ちて恐ろしい姿になっていられるであろうことを」。『完訳』は「生を変えて恐ろしい異形の姿になっていらっしゃるのを」と訳す。
【言ひもてゆけば女の身は皆同じ罪深きもとゐぞかし】−源氏の心中思惟。
【世の中】−特に男女関係をさす。
【御髪下ろしてむ】−紫の上の願い。完了の助動詞「て」未然形、確述の意、推量の助動詞「む」意志の意、強い意志を表す。
【忌むことの力もや】−源氏の思念。
【五戒】−殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒の戒律。在家の信者の守るべき戒律。
【いかなるわざをして】−以下「とどめたてまつらむ」まで、源氏の心中。

 [第五段 紫の上、小康を得る]
【五月などはまして】−五月雨の時期である。病人にはますますつらい季節である。
【日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ】−『法華経』二十八品を毎日一部(一品)ずつを写経させて、六条御息所の成仏のため供養させること。
【さらにこのもののけ去り果てず】−副詞「さらに」は打消の助動詞「ず」にかかる。『完訳』は「すっかり離れ去るというのでもない」と訳す。
【なきやうなる御心地にも】−紫の上の思慮。以下、重い病状にありながら源氏を案じる紫の上のけなげな態度が語られる。
【かかる御けしき】−源氏のやつれた表情。
【世の中に亡くなりなむも】−以下「思ひ隈なかるべければ」まで、紫の上の思念。引用句はなく、地の文に続く。
【空しく見なされたてまつらむが】−「れ」受身の助動詞。源氏から見られる、の意。『集成』は「はかなくなった自分の姿をお目にかけるのは」。『完訳』は「むなしく命の果てる姿をお目にかけてしまうことになっては」と訳す。
【六月になりてぞ時々御頭もたげたまひける】−六月は最も暑くつらい時期。その時に枕から頭を上げたとは、逆接的にけなげな姿を彷彿させるものである。

 

第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見

 [第一段 女三の宮懐妊す]
【立ちぬる月より物きこし召さで】−『集成』は「月が改まってこのかた」「柏木に逢ったのは四月であるから五月になってから」と注す。悪阻の症状が現れる。
【かの人は】−柏木をさす。
【夢のやうに見たてまつりけれど】−『完訳』は「夢路を通うような思いで宮にお逢い申していたのであったが」「密会は一度ならず繰り返された」と注す。
【院をいみじく懼ぢきこえたまへる御心に】−主語は女三の宮。「院」は源氏の六条院。異常な夫婦関係である。
【ありさまも人のほども】−以下、女三の宮の心情に即した叙述。
【あはれなる御宿世にぞありける】−軽蔑し愛情もないままに、その人の子を妊娠してしまった女三の宮の境涯をいう。『完訳』は「不運だったとする語り手の評」と注す。
【見たてまつりとがめて】−宮の懐妊に気がついて、の意。
【かく悩みたまふ】−宮が懐妊のため苦しんでいるということ。
【女君は】−紫の上をいう。
【色は真青に白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御肌つきなど、世になくらうたげなり】−紫の上の病気のための青白さはかえって可憐でかわいらしい美と映る。『集成』は「この上なく痛々しい美しさに見える」。『完訳』は「世にまたとないくらい可憐なご様子である」と訳す。

 [第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す]
【かれ見たまへ】−以下「涼しげなるかな」まで、源氏の詞。
【かくて見たてまつるこそ】−以下「ありしはや」まで、源氏の詞。
【消え止まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを】−紫の上の詠歌。「消え」と「露」と「かかる」は縁語。「玉」と「露」も縁語。「たまさかに」に「玉」の音を響かす。「かかる」は「かくある」の縮と掛詞。わが命のはかなさを露の消え残る間に喩えて詠む。
【契り置かむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心隔つな】−源氏の返歌。紫の上の「蓮」「玉」「露」の語句を用いる。「消え止まる」の語句を「契り置かむ」と切り返す。この世のみならず来世までの永遠の愛を誓う。
【目に近きに心を惑はしつる】−紫の上の病気をさす。
【かかる雲間にさへやは絶え籠もらむ】−源氏の心中。「雲間」は天候状態と紫の上の小康状態を譬喩的にさす。

 [第三段 源氏、女三の宮を見舞う]
【物など聞こえたまふ】−主語は源氏。
【日ごろの積もりを】−以下「つらしと思しける」まで、源氏の心中。
【例のさまならぬ御心地になむ】−女房の詞。妊娠のことをいう。
【あやしくほど経てめづらしき御ことにも】−源氏の詞。「あるかな」などの語句を言いさした形。「めづらしき御事」は妊娠をさす。無感動の発言。「とばかりのたまひて」という、無表情の振る舞い。
【年ごろ経ぬる人びとだに】−以下「御ことにもや」まで、源氏の心中。女三の宮が源氏に降嫁して七年たつ。「人びと」は、源氏の妻たちをさす。
【さることなきを】−妊娠をさす。
【不定なる御事にもや】−「もや」連語、係助詞「も」+係助詞「や」疑問の意。危ぶむ気持ちを表す。下に「ある」連体形を省略した形。女三の宮の懐妊に期待や関心もない。
【いかにいかに】−源氏の心中。紫の上を気づかう。
【いつの間に】−以下「世をも見るかな」まで、女房の詞。
【いでややすからぬ世をも見るかな】−女三の宮方を心配する言葉。『集成』は「「なんと、姫様のお身の上が心配なこと」。『完訳』は「いやもう、こちらとの御仲もそう油断してはいらせませぬ」と訳す。
【若君】−女三の宮をいう。『完訳』は「宮の、幼稚さをこめた呼称」と注す。
【対にあからさまに渡りたまへるほどに】−主語は源氏。東の対へ。
【むつかしきもの見するこそ】−以下「いとど悪しきに」まで、女三の宮の詞。柏木からの手紙を見たいとは思わない、という。
【なほただ】−以下「はべるぞや」まで、小侍従の詞。
【いとど胸つぶるるに】−主語は女三の宮。

 [第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す]
【ここには】−以下「見直したまひてむ」まで、源氏の詞。女三の宮への暇乞いの挨拶。
【まだいとただよはしげなりしを】−紫の上の容態をいう。
【例はなまいはけなき戯れ言なども】−主語は女三の宮。
【ただ世の恨めしき御けしきと心得たまふ】−主語は源氏。「世」は源氏との夫婦仲をいう。『集成』は「(事情を知らぬ源氏は)ただ、夫にいつも側にいてもらえないのを恨めしく思っていられるのだと、お思いになる」と訳す。
【ひぐらしのはなやかに鳴くに】−『完訳』は「秋の景物。夕暮時に鳴く。ここは夏の終りの夕べである」と注す。
【さらば道たどたどしからぬほどに】−源氏の詞。「夕闇は道たどたどし月待ちて帰れわが背子その間にも見む」(古今六帖一、三七一、夕闇)をの語句を引いた言葉。
【月待ちてとも言ふなるものを】−女三の宮の詞。源氏の言葉中の引歌の文句を踏まえて応える。「なる」伝聞推定の助動詞。明融臨模本、合点、付箋「夕くれはみちたとたとし月待てかへれわかせこそのまにもみむ」とある。
【憎からずかし】−『集成』は「いかにも愛くるしい」「無下にことわりもならぬ源氏の気持を、草子地が代弁する」と注す。
【その間にもとや思す】−源氏の心中。女三の宮の気持を忖度する。
【夕露に袖濡らせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起きて行くらむ】−女三の宮から源氏への贈歌。「露」は涙の象徴。「起きて」は「露」との縁語「置きて」を響かす。『集成』は「夕方は尋ねて来て下さるはずの時ですのに、の余意があろう」。『完訳』は「蜩が鳴き露が置く夕べは男が女を尋ね来る時。それなのに立ち去るのだとして、源氏を恨む歌」と注す。係助詞「や」--「行くらむ」連体形は、反語の意を含んだ疑問、恨み言の余意余情がある。
【あな苦しや】−源氏の心中。
【待つ里もいかが聞くらむ方がたに心騒がすひぐらしの声】−源氏から女三の宮への返歌。「ひぐらし」の語句を受けて返す。「来めやとは思ふものからひぐらしの鳴く夕暮は立ち待たれつつ」(古今集恋五、七七二、読人しらず)を踏まえる。

 [第五段 源氏、柏木の手紙を発見]
【昨夜のかはほりを落としてこれは風ぬるくこそありけれ】−源氏の独言。「かはほり」は夏扇。「これ」は桧扇をさす。
【浅緑の薄様なる文の押し巻きたる】−柏木から女三の宮への恋文。浅緑色の薄様の紙を巻紙につくろう。
【ことさらめきたる書きざまなり】−『集成』は「気取った」。『完訳』は「わざとらしく意味ありげな書きぶりである」と訳す。
【紛るべき方なくその人の手なりけり】−源氏の心中。「その人」は柏木をさす。
【見たまふ文にこそは】−主語は源氏。女房たちの心中を叙述。
【いでさりとも】−以下「隠いたまひてむ」まで、小侍従の心中。
【さることはありなむや】−反語表現。
【あないはけな】−以下「見つけたらましかば」まで、源氏の心中。
【さればよ】−以下「とは見るかし」まで、源氏の心中。

 [第六段 小侍従、女三の宮を責める]
【出でたまひぬれば】−主語は源氏。源氏が帰った後の場面。
【昨日の物は】−以下「似てはべりつれ」まで、小侍従の詞。
【いとほしきものからいふかひなの御さまや】−小侍従の心中を間接的に叙述する。気の毒に思う一方で、あきれた思いをする。
【いづくにかは】−以下「思うたまへし」まで、小侍従の詞。
【いさとよ】−以下「忘れにけり」まで、女三の宮の詞。「いさとよ」について、『集成』は「自信なげに応ずる言葉」と注す。
【いづくのかはあらむ】−反語表現。語り手の口吻がまじった表現。
【あないみじ】−以下「いとほしくはべるべきこと」まで、小侍従の詞。
【ほどだに経ず】−『完訳』は「あっけない露顕の気持」と注す。
【すべていはけなき御ありさまにて】−小侍従、女三の宮の性格をなじる、非難の言葉。
【人にも見えさせたまひければ】−六年前に六条院での蹴鞠の折に柏木に姿を見られたことをいう。
【心やすく若くおはすれば馴れきこえたるなめり】−『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『集成』は「小侍従は女三の宮と乳母子という親しい間柄でもある。以下、草子地」と注す。
【かく悩ましくせさせたまふを】−以下「心を入れたまへること」まで、女房の詞。源氏への非難。
【今はおこたり果てたまひにたる御扱ひに】−紫の上の看病をさす。

 [第七段 源氏、手紙を読み返す]
【さぶらふ人びとの中に】−以下「書きたるか」まで、源氏の心中。
【言葉づかひきらきらとまがふべくもあらぬことどもあり】−『完訳』は「その言葉づかいは美しくととのったあやがあって、当の本人としか考えられぬふしぶしがある」と訳す。
【年を経て】−以下「難きわざなりけり」まで、柏木の手紙を見た源氏の感想。係助詞「や」反語表現。はっきり書くべきでない、という。
【あたら人の】−柏木をさす。あれほどにすぐれた人が、という評価と失望。
【落ち散ることもこそと】−連語「もこそ」懸念の気持ち。
【思ひしかば昔】−過去の助動詞「しか」自己の体験。以下、自分の過去の体験を振り返る。
【かの人の心をさへ】−柏木をさす。副助詞「さへ」添加は女三の宮に加えてのニュアンス。

 [第八段 源氏、妻の密通を思う]
【さてもこの人をば】−以下「見たてまつらむよ」まで、源氏の心中。今後の女三の宮の処遇について悩む。
【めづらしきさまの御心地もかかることの紛れにてなりけり】−源氏は、女三の宮の懐妊も柏木との過ちによって起こったことなのだ、と理解する。
【なほざりのすさびと】−以下「たぐひあらじ」まで、源氏の心中。
【おほけなき人の心にもありけるかな】−源氏の柏木に対する非難の思い。
【帝の御妻をも過つたぐひ昔もありけれど】−『河海抄』は在原業平と五条后や二条后の例、花山院女御と藤原実資や藤原道信、源頼定と三条院麗景殿女御や一条院承香殿女御との例を指摘。光源氏自身、桐壺帝の藤壺女御と過ちを犯している。
【宮仕へといひて我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどにおのづからさるべき方につけても心を交はしそめ】−女性が入内することも男性が官僚として仕えることも共に「宮仕え」といった。帝との結婚も「宮仕え」なのであった。「同じ君に馴れ仕うまつるほどに」という状況は、桐壺帝の下での源氏と藤壺女御との関係によく似ている。
【さるべき方につけても】−異性間の愛情問題をさす。
【おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さても交じらふやうもあらむに】−『集成』は「重大な、はっきりした不始末が人目につかない間は、そのまま宮仕えを続けるというこもあろうから」。『完訳』は「格別の不始末であることがはっきり人目につかない間は、そのまま宮仕えを続けていくことにもなろうから」と訳す。
【かくばかりまたなきさまに】−以下、自分の女三の宮の扱いについていう。
【うちうちの心ざし引く方よりも】−紫の上をさす。その人よりも。
【思ひはぐくまむ人をおきて】−自分光源氏をさす。
【帝と聞こゆれど】−以下「おぼえぬものを」まで、源氏の心中。
【ただ素直に公ざまの心ばへばかりにて宮仕へのほどもものすさまじきに】−後宮の女御更衣たちの宮仕えの心境について忖度する。
【ねぎ言になびき】−「ねぎごとをさのみ聞きけむ社こそ果てはなげきの森となるらめ」(古今集俳諧歌、一〇五五、讃岐)。
【寄る方ありや】−『集成』は「まだ許せるところがある」。『完訳』は「同情の余地があるというもの」と訳す。人情の自然な発露から出た行為というものは尊重する。
【故院の上もかく御心には】−以下「あるまじき過ちなりけれ」まで、源氏の心中。自分と藤壺との過ちを思い出し、帝の心境を忖度し、我が行為を深く反省する。
【恋の山路】−明明融臨模本、合点あり、付箋に「いかはかり恋の山路のしけゝれはいりといりぬる人まとふらん」(古今六帖四、一九七四)とある。

 

第十章 光る源氏の物語 密通露見後

 [第一段 紫の上、女三の宮を気づかう]
【人やりならず】−以下「思ひやりきこえたまふにや」まで、紫の上の心中。源氏が「心くるしう思ひやる」対象は女三の宮。
【心地はよろしく】−以下「いとほしけれ」まで、紫の上の詞。
【とく渡りたまひにしこそ】−源氏が六条院から二条院へ戻ってきたこと。
【さかし例ならず】−以下「いとほしきぞや」まで、源氏の詞。
【こなたかなた思さむことの、いとほしきぞや】−朱雀院と今上帝をさす。
【内裏の聞こし召さむよりも】−以下「いと苦しくなむ」まで、紫の上の詞。
【我は思し咎めずとも】−「我」は女三の宮をさす。
【げにあながちに】−以下「心地ぞしける」まで、源氏の詞。
【思ひめぐらさるるを】−主語は紫の上。思慮深く行き届いた心づかいをいう。
【これはただ】−「これは」、私はの意。一人称代名詞。
【ほほ笑みてのたまひ紛らはす】−苦笑して問題の本質には触れない。『集成』は「苦笑して本心には触れずにおしまいになる」。『完訳』は「苦笑して言い紛らわしていらっしゃる」「密通への複雑な思念を隠す気持」と注す。
【もろともに】−以下「心のどかにを」まで、源氏の詞。「帰りてを」の「を」は、間投助詞、詠嘆の気持。
【ここにはしばし】−以下「慰みなむほどにを」まで、紫の上の詞。

 [第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく]
【わが御おこたりうち混ぜてかくなりぬる】−女三の宮の心中。
【院も聞こし召しつけていかに思し召さむ】−女三の宮の心中。父の朱雀院に知られたらどう思うだろうと心配する。
【世の中つつましくなむ】−係助詞「なむ」で下文を省略。強調と余意余情。『集成』は「世間に顔向けできない思いでいられる」。『完訳』は「身の置き所もない心地でいらっしゃる」と訳す。
【かの人も】−柏木をさす。
【いつのほどに】−以下「漏り出づるやうもや」まで、柏木の心中。
【ましてさばかり】−以下「見たまひてけむ」あたりまで、柏木の心中。ただし引用句はなく、地の文に融合。
【見たまひてけむ】−完了の助動詞「つ」連用形、確述。過去推量の助動詞「けむ」。御覧になってしまったのだろう、の意。
【恥づかしくかたじけなくかたはらいたきに】−柏木の心中と地の文が融合した叙述。『完訳』は「心中叙述が、心情語を重畳させた地の文に転換」と注す。
【朝夕涼みもなきころ】−明融臨模本、合点と付箋「夏のひのあさゆふすゝみある物をなとにか恋のひまなかるらん」(出典未詳)とある。『源氏釈』に初指摘。
【年ごろまめごとにも】−以下「ことのいみじさ」まで、柏木の心中。
【人よりはこまかに思しとどめたる御けしきの】−源氏が柏木を厚遇。
【いかでかは目をも見合はせたてまつらむ】−反語表現。
【かの御心にも】−源氏をさす。
【さして重き罪には当たるべきならねど身のいたづらになりぬる心地すれば】−姦通罪に相当するが、柏木はそのこと以上に身の破滅、源氏から睨まれ疎んぜられることを恐れる。
【さればよと、かつはわが心も、いとつらくおぼゆ】−『集成』は「やはり思わぬことではなかったと」「この前後、地の文に柏木への敬語を欠き、その真理に密着した筆致」と注す。
【いでや、しづやかに】−以下「見えきかし」まで、柏木の心中。女三の宮の人柄や嗜みを冷静に回顧する。
【しひてこのことを】−以下「たてまつらまほしきにやあらむ」まで、語り手の言辞。『一葉抄』は「双紙の詞也」と指摘。『集成』は「以下、草子地。手の平をかえしたような宮の欠点のあげつらいを、軽く揶揄するような筆致」。『完訳』は「柏木は恋の情念を払うべく、強いて宮の欠点をあげつらうのだとする、語り手の揶揄的な評言」と注す。

 [第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難]
【良きやうとても】−以下「いみじきことにもあるかな」まで、柏木の心中。宮の境遇への同情。
【かく思ひ放ちたまふにつけては】−主語は源氏。源氏が女三の宮を。
【あやにくに憂きに紛れぬ恋しさの苦しく思さるれば】−源氏の「あやにく」な性癖。「紛れ」「ぬ」打消の助動詞。『集成』は「あいにくなことに、情けない思いだけではごまかされない、宮恋しさの思いが、せつないまでにこみ上げるので」。『完訳』は「あいにくなことに、厭わしく思う気持だけからはとりつくろえぬ恋しさをどうすることもならず」と訳す。
【胸いたくいとほしく思さる】−源氏の女三の宮に対する気持ち。
【ありしに変らず、なかなか労しくやむごとなくもてなしきこゆるさまを】−源氏の女三の宮に対する態度やもてなしは以前以上の丁重さが加わる。
【気近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよなく御心隔たりて】−その反面、二人だけとなると気持ちの隔たりが消しがたい。気持ちと行動が別々な源氏の矛盾した行動。「あやにく」な性格の具体的現れ。
【この御心のうちしもぞ苦しかりける】−語り手の批評。『休聞抄』は『双也」と指摘。『完訳』は「宮もお心の中にはいっそうつらくお感じになるのであった」「宮の心。表向きの世話だけで物思いがちな源氏に、隔意を痛感」と注す。耳から文章を聞いて、どちらに主点が置かれて語られているかによって「御心」が決定しよう。
【みづからいとわりなく思したるさまも心幼し】−語り手の女三の宮批評。
【いとかくおはするけぞかし】−以下「頼もしげなきわざなり」まで、源氏の心中。
【女御のあまりやはらかにおびれたまへるこそ】−以下「し出づるなりけり」まで、源氏の心中。転じて明石の女御を心配する。
【女はかうはるけどころなくなよびたるを】−女の弱点。

 [第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う]
【右の大臣の北の方の】−以下「もてなしてしわざなり」まで、源氏の心中。転じて玉鬘のことを思い出す。
【憎き心】−けしからぬ好色心。
【なだらかにつれなくもてなして過ぐし】−源氏をうまく拒み続けた玉鬘の態度。
【ことさらに許されたるありさまにしなして】−『集成』は「わざわざ、源氏や実の父内大臣に許されての結婚というように事を運んで」と訳す。
【わが心と罪あるにはなさずなりにしなど】−玉鬘は鬚黒大将との結婚をいっさい自分の方には落度がなかったようにした身の処し方を立派であったと、改めて感心する。
【心もてありしこととも】−自分の方から望んでおこなったの意。結婚における女性の態度は主体的よりも受動的な身の処し方をよしとした。
【すこし軽々しき思ひ加はりなまし】−反実仮想の構文。玉鬘には軽々しいという非難がいっさいなかった。

 [第五段 朧月夜、出家す]
【つひに御本意のことしたまひてけり】−朧月夜尚侍が出家したという話。
【海人の世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩垂れしも誰れならなくに】−源氏から朧月夜尚侍への贈歌。出家を聞いて贈る。「尼」に「海人」を掛ける。
【さまざまなる世の】−以下「あはれになむ」まで、和歌に続けた源氏の文。
【この御妨げにかかづらひて】−源氏が朧月夜尚侍の出家を引き止めること。
【かたがたに思し出でらる】−『集成』は「つらかったことといい、また深いかかわりといい、それぞれ昔のことが思い出される」と訳す。
【常なき世とは】−以下「いかがは」まで、朧月夜尚侍の源氏への返書。
【海人舟にいかがは思ひおくれけむ明石の浦にいさりせし君】−朧月夜尚侍の源氏への返歌。「海人の世」「須磨の浦」の語句を受けて「海人舟」「明石の浦」と返す。「あま」に「尼」と「海人」を掛ける。「いさり」は漁りの意だが、裏に明石君との結婚をこめるか。『完訳』は「流離の真意は明石の君との邂逅にあったと切り返す」と注す。
【回向にはあまねきかどにてもいかがは】−『集成』は「「あまねきかど」は「普門」をそのまま和らげたもの。「是の観世音菩薩の自在の業、普門示現の神通力を聞かむ者は、当に知るべし、是の人は功徳少なからじ」(『法華経』観世音菩薩普門品第二十五)」と注す。

 [第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る]
【いといたくこそ】−以下「助けられぬるを」まで、源氏の詞。
【よそながらの睦び交はしつべき人は斎院とこの君とこそは】−『集成』は「さっぱりとした親しい付合いをすることのできる人は」。『完訳』は「離れていても親しくお付合いのできる人としては」と訳す。
【かくみな背き果てて斎院はたいみじうつとめて】−朝顔斎院の出家はここに初めて語られる。
【たまひにたなり】−「に」完了の助動詞。「た(る)」完了の助動詞、存続の意。「なり」伝聞推定の助動詞。
【かの人の御なずらひに】−朝顔斎院をさす。
【若宮を心して】−明石女御所生の女一の宮をさす。
【かく暇なき交らひをしたまへば】−帝の寵愛が厚く、里下がりもままならぬ状況をさす。
【点つかるまじくて】−欠点や後ろ指をさされるようなことなく。
【とざままうざまの後見まうくるただ人は】−『完訳』は「それぞれに相応の夫をもつ普通の女であれば」と訳す。
【はかばかしきさまの】−以下「いかならむ」まで、紫の上の詞。
【いかならむ】−『集成』は「どうなりますことやら。いつまでお世話できるか心もとないと、余命をあやぶむ」と注す。
【尚侍の君に】−以下「心ばへ見せてを」まで、源氏の詞。
【それせさせたまへ】−源氏、紫の上に朧月夜尚侍の袈裟を作ることを依頼する。
【六条の東の君にものしつけむ】−花散里に申し付けよう。花散里が裁縫にたけた女性であることは「少女」巻に語られている。
【作物所の人召して】−蔵人所に属し、宮中の調度類や細工物を作製する役所。その人たちに作製を私的に依頼する。

 

第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引

 [第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う]
【かくて山の帝の御賀も延びて】−朱雀院の五十賀。「山の帝」の呼称は初見。源氏主催の御賀は、最初、二月二十余日の予定だったが、紫の上の発病によって延期になっていた。『集成』は、女三の宮主催の御賀という。源氏主催といっても、女三の宮の夫としての主催である。
【八月は大将の御忌月にて】−夕霧大将の母葵の上は八月に逝去。賀宴には近衛府の楽人が演奏するので、その長官である夕霧が取り仕切るのは不都合だという。
【九月は院の大后の崩れたまひにし月なれば】−弘徽殿大后の御忌月。
【姫宮いたく悩みたまへば】−女三の宮、妊娠七月になる。
【衛門督の御預かりの宮なむ】−朱雀院の女二の宮、通称、落葉宮。「御預かりの宮」という呼称表現が注目される。『集成』は「衛門督が、正室としてお世話申し上げている女二の宮」。『完訳』は「衛門督がお迎えしている女二の宮が」と訳す。
【その月には参りたまひける】−十月に、朱雀院の御所に御賀に参上した、という意。
【思し嘆くけにやあらむ】−係助詞「や」疑問、推量の助動詞「む」。語り手の推測の気持ちをを介在させた挿入句。
【月多く重なりたまふままに】−懐妊の月数をさす。
【院は心憂しと思ひきこえたまふ方こそあれ】−係助詞「こそ」「あれ」已然形、係結び、逆接で下文に続く。
【御祈りなど今年は紛れ多くて過ぐしたまふ】−紫の上、女三の宮の病気平癒のための御祈祷。何かととりこみ事が多い、という意。

 [第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙]
【御山にも聞こし召して】−朱雀院が女三の宮懐妊の事をお聞きになって、の意。
【をさをさなきやうに人の奏しければ】−源氏は紫の上の病気もほぼ平癒したにもかかわらず、六条院にはほとんどもどらず、二条院にとどまったままでいる。
【いかなるにかと御胸つぶれて】−朱雀院の心中。懐妊してめでたいというのに、夫婦別居しているとは、いかなる事情があってか、という気持ちだろう。
【世の中も今さらに恨めしく思して】−「世の中」は夫婦の仲。係助詞「も」強調のニュアンスを添える。「今さらに」とは出家した身でという気持ち。
【対の方のわづらひけるころは】−以下「聞こゆかし」まで、朱雀院の心中。途中に語り手の朱雀院に対する敬意が混入する。『集成』は「以下、朱雀院の心中」「「聞こしめしてだに」は、語り手の敬意の表れたものと見る」と注す。
【そののち直りがたく】−『完訳』は、以下を朱雀院の心中とする。
【そのころほひ便なきことや出で来たりけむ】−「そのころほひ」は妊娠のきっかけをさそう。
【みづから知りたまふことならねど】−宮御自身関知しないことでも、の意。
【いかなることかありけむ】−『集成』は「どんな失態があったのだろう」。『完訳』は「何かがあったのだろうか」と訳す。
【こまやかなること思し捨ててし世なれど】−「こまやかなること」について、『集成』は「肉親の情愛などは」、『完訳』は「俗世のわずらわしいことは」と訳す。
【そのこととなくて】−以下「おくれたるわざになむ」まで、朱雀院から女三の宮への手紙。
【あはれなりける】−『集成』は「気がかりなことです」。『完訳』は「悲しいことです」。『新大系』はさびしいことであった」と訳す。
【思ひやらるるはいかが】−『完訳』は「現世への未練が残るのはどうしたことか。自分自身の心を疑う」と注す。
【恨めしげなるけしきなどおぼろけにて見知り顔にほのめかすいと品おくれたるわざになむ】−皇女の身の処し方についての教訓。「帚木」巻の夫婦処世術と比較。『集成』は「いい加減なことで、心得顔にちらつかすのは、はしたないことです」と訳す。
【かかるうちうちのあさましきをば】−以下「思すらむことを」まで、源氏の心中。「うちうちのあさましきこと」は女三の宮の不始末をさす。そうした自分の娘の不始末は朱雀院は知らないで、の意。
【わがおこたりに本意なくのみ聞き思すらむことを】−源氏の愛情の薄い原因ばかりに思っていることだろう、の意。「を」終助詞、詠嘆。
【この御返りをば、いかが聞こえたまふ】−以下「誰が聞こえたるにかあらむ」まで、源氏の詞。
【まろこそいと苦しけれ】−『完訳』は「私こそ、じつにつらい。不義ゆえの不快さをこめていう」と注す。
【思はずに思ひきこゆることありとも】−柏木との不義ををさす。
【とのたまふに恥ぢらひて背きたまへる】−柏木との過失を暗に言われて恥じる。源氏のいじわるな態度である。
【いたく面痩せてもの思ひ屈したまへるいとどあてにをかし】−深刻な局面も唯美的関心に移り、この場面は切り上げられる。

 [第三段 源氏、女三の宮を諭す]
【いと幼き御心ばへを】−以下「罪いと恐ろしからむ」まで、源氏の詞。この冒頭の「幼し」「うしろめたがる」などの発言は女三の宮の幼さを面と向かってののしっているにも等しいきつい表現。
【よろづになむ】−言いさした形。下に、心配でならない、また同様な過ちを犯すかもしれないのが気がかりだ、という意をこめる、余意・含みのある表現。
【ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ】−源氏の薄情に見える態度の原因をいう。以下、柏木との密通が原因であることを暗にいう。
【いたり少なくただ人の聞こえなす方にのみ】−女三の宮には思慮分別がないと、面と向かっていう。罵倒するに等しい発言。
【ただおろかに浅きとのみ思し】−源氏の態度をさしていう。
【今はこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴れてのみ見なしたまふらむも】−源氏の老齢をさしていう。『集成』は「以下、自分の薄情を怨んで、若い柏木と通じたと、暗に怨んで言う」。『完訳』は「自らを老醜と自嘲し、以下に、柏木と通じた宮を暗に非難」と注す。
【かたがたに口惜しくもうれたくもおぼゆるを】−「ただ愚かに浅き」と「こよなくさだ過ぎたる」とをさしていう。
【院のおはしまさむほどはなほ心収めて】−主語は女三の宮。しかし、この部分だけでは、源氏にもとれる。朱雀院が生きていらっしゃるうちは、自分は我慢して、となるが、かなりきつい表現。後文にいって女三の宮が主語と判明。どちらともとれるような両義性のある表現をしたものか。
【たどり薄かるべき女方にだに皆思ひ後れつつ】−光源氏の女性蔑視の思想は当時の社会一般の風潮か。
【今はと捨てたまひけむ】−主語は朱雀院。
【ひき続き争ひきこゆるやうにて】−朱雀院の出家に引き続いて、先を争うようにして、の意。
【同じさまに見捨てたてまつらむことの】−出家して女三の宮を捨てる意。
【あへなく思されむに】−主語は朱雀院。
【つつみてなむ】−主語は源氏。係助詞「なむ」の下に、出家しないでいるの意が含まれる。
【みづからの世だにのどけくはと見おきつべし】−自分が生きている間だけは無事でいればと考えておいけばよいだろう、その先のことまでは考えない、の意。
【院の御世の残り久しくもおはせじ】−朱雀院の御寿命もそう長くはないだろう、の意。
【この世はいとやすしことにもあらず】−『集成』は「この現世については、何の気にかけることもありません。どうということもないのです」「現世だけのことなら、問題はない、の意」。『完訳』は「この世は、じっさいどうというものでもない、別段のこともないのです」と訳す。世間虚仮、この世は仮の世であるとする現世観。
【まほにそのこととは明かしたまはねど】−『完訳』は「密通事件。しかしそれを暗に語り、宮を責めていることになる」と注す。
【涙のみ落ちつつ我にもあらず】−主語は女三の宮。
【我もうち泣きたまひて】−源氏、自嘲の涙。
【人の上にても】−以下「御心添ふらむ」まで、源氏の詞。『集成』は「若い柏木に対するねたみの気持が言わせる言葉」。『完訳』は「自分に無関係な他人事でも、いらいらした思いで聞いていた老人のおせっかい、それを自分が言うようになったとは。いやな老人と自嘲する物言いの底に、若い柏木や宮への嫉妬と憎悪がくすぶる」と注す。光源氏の老醜。紫式部の老いに対する思想感懐。
【御心添ふらむ】−女三の宮の心をさす。源氏を嫌な老人と思う心が増すことであろう、の意。
【かのこまかなりし返事はいとかくしもつつまず通はしたまふらむかし】−源氏の心中、間接的叙述。源氏の嫉妬と憎悪の気持ち。
【いと憎ければよろづのあはれも冷めぬべけれど】−源氏の憎悪の心中が語り手によって浮き彫りにされて語られている。

 [第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引]
【この月かくて過ぎぬ】−十月が過ぎた。
【二の宮の御勢ひ殊にて】−女二の宮の落葉宮の参賀が舅の太政大臣のきもいりで盛大に催されたことをさす。
【古めかしき御身ざまにて】−『集成』は「子を身篭られたお身体で」と訳す。『完訳』「懐妊八か月の様態をいうか」と注す。
【憚りある心地しけり】−『集成』は「源氏の気持を敬語抜きで直接書いたもの」と注す。
【霜月はみづからの忌月なり】−以下「つくろひたまへ」まで、源氏の詞。桐壺院の崩御の月。「賢木」巻に語られている。
【いとらうたしとさすがに見たてまつりたまふ】−源氏は女三の宮に対して、嫉妬と憎悪の気持ちもあるが一方で憐愍の情もないではない、という意。
【何ざまのことにもゆゑあるべきをりふしには】−源氏は柏木を何につけ風雅な趣の催し事には必ず相談相手にしてきた。今後の朱雀院の五十賀宴などは当然相談されると世間の人も思っている。
【見むにつけてもいとどほれぼれしきかた恥づかしく】−『集成』は「いよいよ自分の間抜けさ加減を相手の目にさらすようで、気がひけるし」「女三の宮とのことを知っていながら、源氏としては素知らぬふりをしなくてはならぬからである」。『完訳』は「宮の前への対話で繰り返された老醜の自嘲と照応。ここは妻を奪われた老人のぶざまさをいう」と注す。
【例ならず悩みわたりて】−主語は柏木。
【院にはた】−六条院では六条院で、やはり紫の上、女三の宮と病人続出続きで、の意。
【あるやうあることなるべし】−以下「忍ばぬにやありけむ」まで、夕霧の心中。六年前の蹴鞠の日の柏木が女三の宮を垣間見て、以来執心していたことを思う。
【わがけしきとりしことには】−「わが」は夕霧をいう。自分(夕霧)が気づいたこと、六年前の蹴鞠の日のこと。挿入句。

 [第五段 源氏、柏木を六条院に召す]
【このたびの御子はまた男にて】−『集成』は「前に見えた「三の宮」に次ぐ方である」。『完訳』は「女楽のころ懐妊五か月。第三皇子(後の匂宮)か、その兄の二の宮か」。『新大系』は「「二の宮」の次の皇子」と注す。
【うれしく思されける】−主語は紫の上。大病を克服して生き延び、孫を見ることができた喜び。
【右大臣殿の北の方も渡りたまへり】−玉鬘。右大臣鬚黒の北の方の地位におさまっている。
【かの御方は御前の物は見たまはず】−花散里は春の御殿においての源氏御前の試楽は見ない、の意。
【心苦しく思して】−源氏の、柏木への憐愍の情。
【などか返さひ申されける】−以下「助け参りたまへ」まで、致仕太政大臣の詞。柏木に六条院に参るよう勧める。
【苦しと思ふ思ふ参りぬ】−尊敬語なしの直接的表現。不気味な事件の展開を暗示。

 [第六段 源氏、柏木と対面す]
【例の気近き御簾の内に入れたまひて母屋の御簾下ろしておはします】−前者の「御簾」は簀子と廂の間とを仕切る御簾、後者の「御簾」は廂の間と母屋を仕切る御簾である。柏木は廂の間、源氏は母屋の御簾の中にいる。光の関係で、柏木の表情は源氏から見えるが、母屋の中の源氏の表情は柏木から見えない。
【げにいといたく痩せ痩せに青みて】−以下、源氏の目に映った柏木の姿。源氏の目と地の文とが融合した叙述。
【いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを】−『集成』は「いかにもたしなみありげに、もの静かに振舞うところが、人にすぐれて目立つのだが」。『完訳』は「じっさいたしなみも深そうに落ち着いているところが余人とちがうのであるが」と訳す。
【などかは皇女たちの御かたはらに】−以下「いと罪許しがたけれ」まで、源氏の心中。『集成』は「柏木は現に女二の宮を正室としているが、源氏の念頭には女三の宮のことがある」と注す。
【ただことのさまの】−密通事件をさす。
【いと罪許しがたけれ】−『集成』は「柏木が自分の恩顧を忘れて正室を犯し、女三の宮も源氏の配慮を考慮しない点を、許しがたく思う」。『完訳』は「宮も柏木も自分(源氏)を無視した。その無分別を「罪」とする」と注す。
【そのこととなくて】−以下「恨みも捨ててける」まで、源氏の詞。
【法事仕うまつりたまふべくありしを】−出家者である朱雀院の五十賀が仏事で催されるので「法事」という。
【いといと恥づかしきに】−主語は柏木。

 [第七段 柏木と御賀について打ち合わせる]
【月ごろかたがた】−以下「まさりてはべるべき」まで、柏木の返事。
【院の御齢足りたまふ年なり】−朱雀院のお年齢がちょうど五十にお達しになる年である、の意。
【申されしを】−「申す」は「言ふ」の謙譲語。「れ」尊敬の助動詞。「し」過去の助動詞、連体形。父の致仕大臣が自分(柏木)に申されたという敬語表現。
【冠を掛け車を惜しまず捨ててし身にて】−明融臨模本、合点あり、『奥入』に「掛冠」と「懸車」の故事を『蒙求』から引用する。以下「御覧ぜられよ」まで、致仕大臣の言葉を引用。
【下臈なりとも】−柏木をさす。
【申さるることの】−前の「申されし」と同じ語法。『集成』は「相手の源氏に斟酌しての言葉遣い」と注す。
【今はいよいよいとかすかなるさまに思し澄まして】−朱雀院の出家生活をいう。
【静かなる御物語の深き御願ひ】−朱雀院と女三の宮との親子の親密な語らいを願っている院の希望をいう。
【いかめしく聞きし御賀の事を】−女二の宮主催、致仕大臣後援の朱雀院五十賀をさす。
【ただかくなむ】−以下「いと口惜しきものなり」まで、源氏の詞。
【さればよと】−やはりこれでよかった、の意。
【さこそ思し捨てたるやうなれ】−柏木の詞を受ける。朱雀院の出家生活をさしていう。
【いとなつかしくのたまひつくるを】−『完訳』は「源氏の親しい言葉づかいが、かえって無気味さを感じさせる」と注す。
【東の御殿にて】−六条院丑寅の町。花散里の御殿。
【尽くしたまへるに】−接続助詞「に」添加の意。『完訳』は「夕霧が念入りに整えていたうえに、柏木が細かな趣向を加える」と注す。
【げにこの道はいと深き人にぞものしたまふめる】−『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。語り手の納得の言辞。副詞「げに」。推量の助動詞「めり」主観的推量のニュアンス。

 

第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる

 [第一段 御賀の試楽の当日]
【かの御賀の日は赤き白橡に葡萄染の下襲を着るべし】−御賀の当日の衣裳と試楽の日の衣裳とを異にする。
【春のとなり近く】−明融臨模本、合点と付箋に「冬なから春のとなりのちかけれは中かきよりそ花はちりく(け)る」(古今集誹諧歌、一〇二一、清原深養父)とある。
【梅のけしき見るかひありて】−「匂はねどほほゑむ梅の花をこそ我もをかしと折りてながめむ」(好忠集、二六)。
【式部卿宮右大臣ばかりさぶらひたまひて】−紫の上の父宮と鬚黒右大臣。いずれも源氏の身内。
【御饗応など気近きほどに仕うまつりなしたり】−『完訳』は「ご馳走などはそう仰々しくはなくお出ししてある」と訳す。
【兵部卿宮の孫王の君たち二人は】−蛍兵部卿宮の子二人。「孫王」は帝の孫の意。
【兵衛督といひし今は源中納言】−式部卿宮の御子の兵衛督、真木柱姫君と兄妹。「藤袴」「梅枝」に登場。臣籍降下して源氏となっている。
【いとうつくしき御孫の君たちの】−源氏は孫たちの瑞々しく可愛らしい舞姿に自らの老いが自覚されていく。
【いづれをもいとらうたしと思す】−源氏の感想。
【老いたまへる上達部たちは皆涙落としたまふ】−右大臣以下の老人の上達部たち。
【式部卿宮も御孫を】−孫の源中納言を思う。この中の最年長者か。
【御鼻の色づくまでしほたれたまふ】−『完訳』は「老いの涙を戯画化。次の源氏の酔泣きに効果的に続けていく」と注す。

 [第二段 源氏、柏木に皮肉を言う]
【過ぐる齢に添へて】−以下「え逃れぬわざなり」まで、源氏の詞。『完訳』は「自分を老醜の人とする。これまで女三の宮を前に繰り返し言われてきた。この自嘲の言葉が相手への痛烈な皮肉に転ずる」と注す。
【衛門督心とどめてほほ笑まるる】−『完訳』は「柏木が嘲笑するはずのないのを知りながら、自分の老いを蔑視しているとして、皮肉る」と注す。
【いと心恥づかしや】−『集成』は「全く気のひけることです」。『完訳』は「なんともきまりがわるいことですよ」と訳す。
【さかさまに行かぬ年月よ】−「さかさまに年もゆかなむとりもあへず過ぐる齢やともに返ると」(古今集雑上、八九六、読人しらず)。
【空酔ひをしつつかくのたまふ】−源氏の態度。『完訳』は「酔いを装って本心を吐露する」と注す。
【けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば】−源氏が柏木に。『完訳』は「柏木の酔ったふりを許さない。源氏の鋭くきびしい凝視は持続」と注す。
【なべての人に似ずをかし】−柏木の態度を優雅な振る舞いとしてこの場を語り収める。
【例のいとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを】−以下「ありけるかな」まで、柏木の心中。
【つつましとものを思ひつるに】−『集成』は「何か頭の上がらぬ臆した思いだったので」。『完訳』は「何か気が咎めていたために」と訳す。
【みづから思ひ知らる】−「る」自発の助動詞。『集成』は「敬語抜きで、柏木の思いに密着した書き方」と注す。
【よそよそにていとおぼつかなしとて】−別々に住んでいたのでは気掛かりでならない、の意。太政大臣の長男である柏木は妻の落葉宮邸に住む。婿入り婚の生活をしている。
【殿に渡したてまつりたまふを】−柏木を実家に引き取って看護しようとする。
【またいと心苦し】−夫婦の仲を引き裂かれる思い。

 [第三段 柏木、女二の宮邸を出る]
【ことなくて過ぐす月日は】−以下「かたじけなきをいみじ」まで、柏木の心中に即した叙述。『集成』は「何事もなく過して来た今までは、のんきに当てにならない先のことを当てにして」「いつかは女二の宮と愛情を交わす仲になるだろうと思って、の意」と注す。
【今はと別れたてまつるべき門出にやと】−「かりそめの行きかひ路とぞ思ひ来し今は限りの門出なりけり」(古今集哀傷、八六二、在原滋春)。
【いみじと思ふ】−敬語抜きの表現。心中文と地の文が融合し、柏木の心中に密着した表現となっている。
【母御息所も】−女二の宮の母一条御息所。
【世のこととして】−以下「かくて試みたまへ」まで、母御息所の詞。夫婦仲を割いてまで子息を迎え取ろうという大臣夫妻の処置を非難し、柏木にここで養生するよう依頼する。
【心尽くしなるべきことを】−娘の女二の宮が心配でたまらないだろうからと言う。
【ことわりや】−以下「思ひたまへらるる」まで、柏木の詞。
【数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに】−『集成』は「臣下として朱雀院の皇女を頂戴したからには、それ相応の義務がある、という意」と注す。
【また母北の方うしろめたく思して】−自己中心的な母親像。右大臣家四の君としての敵役的性格。
【などかまづ見えむとは】−以下「おぼつかなきこと」まで、母北の方の催促の詞。
【またいとことわりなり】−母親が子の身の上を案じるというのも、もっともなことである、という意。
【人より先なりけるけぢめにや】−以下「思ひはべりけること」まで、柏木の詞。
【罪深くいぶせかるべし】−『完訳』は「親に先立つ最悪の不孝。しかも親の立ち会わぬ子の臨終はいっそう罪深い。柏木は死ぬために親もとに帰ろうとしている」と注す。
【今はと頼みなく聞かせたまはば】−柏木の臨終をさす。
【あやしくたゆくおろかなる本性にて】−柏木、みずからの性格を反省。『集成』は「どうしたわけか、気がつかない、なおざりな性分で」。『完訳』は「なぜか意気地もなく思慮も足りない私の性分でして」「密通事件への自戒もこもる」と注す。
【おろかに思さるること】−妻の女二の宮に対する疎略な待遇、謙遜した言葉。
【泣く泣く渡りたまひぬ】−柏木、父太政大臣邸に移る。

 [第四段 柏木の病、さらに重くなる]
【よろづに騷ぎたまふ】−加持祈祷などのための大騒ぎ。
【参らざりけるに】−接続助詞「に」順接、原因理由を表す。
【ただやうやうものに引き入るるやうに見えたまふ】−『集成』は「次第に何かに引き入れられるように、弱っていかれる」。『完訳』は「ただ、だんだんと何かに引き込まれていくようにお見えになるばかりである」「冥界に引き込まれていくような感じ。しだいに衰弱していく」と注す。
【御心のみ惑ふ】−副助詞「のみ」強調のニュアンスを添える。『集成』は「いよいよ深まるご両親の悲しみは、気も狂わんばかりである」と訳す。
【父大臣にも聞こえたまふ】−係助詞「も」同類の意。柏木はもちろん父大臣にも、の意。
【大将はましていとよき御仲なれば】−副詞「まして」は、源氏と柏木との関係以上に、のニュアンス。
【ものしたまひつつ】−副助詞「つつ」は、同じ動作の繰り返し。たびたびお見舞いに伺っては、のニュアンス。
【御賀は二十五日になりにけり】−前に「十二月になりにけり十余日と定めて」(第十一章五段)とあった。「なりにけり」には、その予定がさらに延びてしまったというニュアンスがこめられている。
【かかる時のやむごとなき上達部の】−『集成』は「当世の下にも置かれぬ」。『完訳』は「こういうときにぜひご列席にならねばならない大事な上達部が」と訳す。
【次々に滞りつることだにあるを】−副助詞「だに」打消や反語の表現をともなった文脈の中で、例外的・逆接的な事態であることを強調するニュアンス。『集成』は「御賀が次々延引になったことだけでも不都合なことであるのに」。『完訳』は「これまで次々と延引を重ねたことだけでも申し訳のないことなのに」と訳す。
【いかでかは思し止まらむ】−語り手が、源氏の心中を忖度した表現。
【いとほしく思ひきこえさせたまふ】−主語は源氏。
【例の五十寺の御誦経】−五十賀にちなむ五十寺での御誦経。
【摩訶毘盧遮那の】−『集成』は「こうした中断の形で擱筆したとするのが古来の通説であるが、この帖の終りの一葉が何らかの事情で失われた可能性もあろう。次の柏木の巻の末尾にも同じような状況がある」と注す。

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