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渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)

  

若菜上


 [底本]
東海大学蔵 桃園文庫影印叢書『源氏物語(明融本)』1 一九九〇年 東海大学

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第二巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第九巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九九五年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第六巻 一九八六年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第五巻 一九八〇年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第四巻 一九七四年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第七巻 一九六六年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九六一年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第四巻 一九五二年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び

  1. 朱雀院、女三の宮の将来を案じる---朱雀院の帝、ありし御幸ののち、そのころほひより
  2. 東宮、父朱雀院を見舞う---春宮は、「かかる御悩みに添へて、世を背かせ
  3. 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う---六条院よりも、御訪らひしばしばあり
  4. 夕霧、源氏の言葉を言上す---中納言の君、「過ぎはべりにけむ方は、ともかくも
  5. 朱雀院の夕霧評---女房などは、覗きて見きこえて
  6. 女三の宮の乳母、源氏を推薦---姫宮のいとうつくしげにて、若く何心なき
第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾
  1. 乳母と兄左中弁との相談---この御後見どもの中に、重々しき御乳母の兄
  2. 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上---乳母、またことのついでに
  3. 朱雀院、内親王の結婚を苦慮---「しか思ひたどるによりなむ。皇女たちの
  4. 朱雀院、婿候補者を批評---「今すこしものをも思ひ知りたまふほどまで
  5. 婿候補者たちの動静---太政大臣も、「この衛門督の、今までひとりのみありて
  6. 夕霧の心中---権中納言も、かかることどもを聞きたまふに
  7. 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす---春宮にも、かかることども聞こし召して
  8. 源氏、承諾の意向を示す---この宮の御こと、かく思しわづらふさまは
第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家
  1. 歳末、女三の宮の裳着催す---年も暮れぬ。朱雀院には、御心地なほ
  2. 秋好中宮、櫛を贈る---中宮よりも、御装束、櫛の筥、心ことに調ぜさせ
  3. 朱雀院、出家す---御心地いと苦しきを念じつつ、思し起こして
  4. 源氏、朱雀院を見舞う---六条院も、すこし御心地よろしくと聞きたてまつらせ
  5. 朱雀院と源氏、親しく語り合う---院も、もの心細く思さるるに、え心強からず
  6. 内親王の結婚の必要性を説く---御心のうちにも、さすがにゆかしき御ありさまなれば
  7. 源氏、結婚を承諾---「さやうに思ひ寄る事はべれど、それも難きことに
  8. 朱雀院の饗宴---夜に入りぬれば、主人の院方も、客人の上達部たちも
第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける
  1. 源氏、結婚承諾を煩悶す---六条院は、なま心苦しう、さまざま思し乱る
  2. 源氏、紫の上に打ち明ける---またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに
  3. 紫の上の心中---心のうちにも、「かく空より出で来にたるやうなることにて
第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う
  1. 玉鬘、源氏に若菜を献ず---年も返りぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に移ろひ
  2. 源氏、玉鬘と対面---人びと参りなどしたまひて、御座に出でたまふとて
  3. 源氏、玉鬘と和歌を唱和---尚侍の君も、いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて
  4. 管弦の遊び催す---朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより
  5. 暁に玉鬘帰る---暁に、尚侍君帰りたまふ。御贈り物などありけり
第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
  1. 女三の宮、六条院に降嫁---かくて、如月の十余日に、朱雀院の姫宮、六条院へ渡りたまふ
  2. 結婚の儀盛大に催さる---三日がほど、かの院よりも、主人の院方よりも
  3. 源氏、結婚を後悔---三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを
  4. 紫の上、眠れぬ夜を過ごす---年ごろ、さもやあらむと思ひしことどもも
  5. 六条院の女たち、紫の上に同情---かう人のただならず言ひ思ひたるも
  6. 源氏、夢に紫の上を見る---わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れ
  7. 源氏、女三の宮と和歌を贈答---今朝は、例のやうに大殿籠もり起きさせたまひて
  8. 源氏、昼に宮の方に出向く---今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心ことに
  9. 朱雀院、紫の上に手紙を贈る---院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ
第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋
  1. 源氏、朧月夜に今なお執心---今はとて、女御、更衣たちなど、おのがじし別れ
  2. 和泉前司に手引きを依頼---かの人の兄なる和泉の前の守を召し寄せて
  3. 紫の上に虚偽を言って出かける---「いにしへ、わりなかりし世にだに、心交はし
  4. 源氏、朧月夜を訪問---その日は、寝殿へも渡りたまはで、御文書き交はしたまふ
  5. 朧月夜と一夜を過ごす---夜いたく更けゆく。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々など
  6. 源氏、和歌を詠み交して出る---朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声も
  7. 源氏、自邸に帰る---いみじく忍び入りたまへる御寝くたれのさまを
第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感
  1. 明石姫君、懐妊して退出---桐壷の御方は、うちはへえまかでたまはず
  2. 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る---対の上、こなたに渡りて対面したまふついでに
  3. 紫の上の手習い歌---対には、かく出で立ちなどしたまふものから
  4. 紫の上、女三の宮と対面---春宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば
  5. 世間の噂、静まる---さて後は、常に御文通ひなどして、をかしき遊びわざなど
第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う
  1. 紫の上、薬師仏供養---神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて
  2. 精進落としの宴---二十三日を御としみの日にて、この院は
  3. 舞楽を演奏す---未の時ばかりに楽人参る。「万歳楽」、「皇じやう」など
  4. 宴の後の寂寥---夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども
  5. 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷---師走の二十日余りのほどに、中宮まかでさせたまひて
  6. 中宮主催の饗宴---宮のおはします町の寝殿に、御しつらひなどして
  7. 勅命による夕霧の饗宴---内裏には、思し初めてしことどもを、むげにやはとて
  8. 舞楽を演奏す---例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、けしきばかり舞ひて
  9. 饗宴の後の感懐---大将の、ただ一所おはするを、さうざうしく
第十章 明石の物語 男御子誕生
  1. 明石女御、産期近づく---年返りぬ。桐壷の御方近づきたまひぬるにより
  2. 大尼君、孫の女御に昔を語る---かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞありけむかし
  3. 明石御方、母尼君をたしなめる---いとものあはれに眺めておはするに、御方参りたまひて
  4. 明石女三代の和歌唱和---御加持果ててまかでぬるに、御くだものなど
  5. 三月十日過ぎに男御子誕生---弥生の十余日のほどに、平らかに生まれたまひぬ
  6. 産養の儀盛大に催される---六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ
  7. 紫の上と明石御方の仲---御方の御心おきての、らうらうじく気高く
第十一章 明石の物語 入道の手紙
  1. 明石入道、手紙を贈る---かの明石にも、かかる御こと伝へ聞きて
  2. 入道の手紙---「この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひはべり
  3. 手紙の追伸---「命終らむ月日も、さらにな知ろしめしそ
  4. 使者の話---尼君、この文を見て、かの使ひの大徳に問へば
  5. 明石御方、手紙を見る---御方は、南の御殿におはするを、「かかる御消息
  6. 尼君と御方の感懐---尼君、久しくためらひて、「君の御徳には
  7. 御方、部屋に戻る---「昨日も、大殿の君の、あなたにありと見置き
第十二章 明石の物語 一族の宿世
  1. 東宮からのお召しの催促---宮より、とく参りたまふべきよしのみあれば
  2. 明石女御、手紙を見る---対の上などの渡りたまひぬる夕つ方
  3. 源氏、女御の部屋に来る---院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子より
  4. 源氏、手紙を見る---ありつる箱も、惑ひ隠さむもさま悪しければ
  5. 源氏の感想---「年の積もりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知り
  6. 源氏、紫の上の恩を説く---「これは、また具してたてまつるべきものはべり
  7. 明石御方、卑下す---「そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを
  8. 明石御方、宿世を思う---「さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな
第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る
  1. 夕霧の女三の宮への思い---大将の君は、この姫宮の御ことを、思ひ及ばぬに
  2. 夕霧、女三の宮を他の女性と比較---かやうのことを、大将の君も、「げにこそ、ありがたき
  3. 柏木、女三の宮に執心---衛門督の君も、院に常に参り、親しくさぶらひ
  4. 柏木ら東町に集い遊ぶ---弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に
  5. 南町で蹴鞠を催す---やうやう暮れかかるに、「風吹かず、かしこき日なり」と興じて
  6. 女三の宮たちも見物す---いと労ある心ばへども見えて、数多くなりゆくに
  7. 唐猫、御簾を引き開ける---御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く
  8. 柏木、女三の宮を垣間見る---几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて
  9. 夕霧、事態を憂慮す---大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむも
第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
  1. 蹴鞠の後の酒宴---大殿御覧じおこせて、「上達部の座、いと軽々しや
  2. 源氏の昔語り---院は、昔物語し出でたまひて、「太政大臣の
  3. 柏木と夕霧、同車して帰る---大将の君一つ車にて、道のほど物語したまふ
  4. 柏木、小侍従に手紙を送る---督の君は、なほ大殿の東の対に、独り住みにて
  5. 女三の宮、柏木の手紙を見る---御前に人しげからぬほどなれば、かの文を

 

第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び

 [第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる]
【朱雀院の帝ありし御幸ののちそのころほひより例ならず悩みわたらせたまふ】−朱雀院、十月二十日過ぎの六条院行幸(藤裏葉、第三章五段)の後、病状が続く。「せ」「たまふ」最高敬語。
【年ごろ行なひの本意】−以下「心地なむする」まで、朱雀院の詞。途中に語り手の敬意が混入した表現が混じる。『集成』は「朱雀院の言葉と見られるが、途中、敬語をまじえた地の文と重なり混ざった書き方」と注す。
【憚りきこえさせたまひて】−「きこえさせ」(「きこゆ」よりさらに一段深い謙譲表現)「たまひ」語り手の敬意の混入。
【先帝の源氏にぞおはしましける】−「先帝」は「桐壷」巻に「先帝の四の宮」云々と見えた帝。藤壷の異腹の「源氏」にあたる。「ぞ--ける」係結び。
【世の中を恨みたるやうにて亡せたまひにし】−『集成』は「身の上を恨むような有様でお亡くなりになった」と注す。
【十三四ばかり】−年齢十三四という設定は、既に分別ある年ごろである。
【今はと背き捨て】−以下「ものしたまはむとすらむ」まで、朱雀院の心中。
【頼む蔭】−歌語。「わび人のわきて立ち寄る木の本は頼む蔭なく紅葉散りけり」(古今集秋下、二九二、僧正遍昭)、「おきつなみ--秋の紅葉と 人々は おのが散り散り 別れなば 頼む蔭なく なりはてて--」(伊勢集、四六二)など。
【西山なる御寺造り果てて】−仁和寺が想定されている。

 [第二段 東宮、父朱雀院を見舞う]
【御年のほどよりはいとよく大人びさせたまひて】−明融臨模本は補入。大島本はナシ。河内本や別本(保・阿)には有る。目移りによる脱文で、浄書の際の誤写であろう。『集成』は「明融本、大島本なし(明融本は別筆補入)。もと河内本の本文であろう」と注す。東宮十三歳。
【この世に恨み残ることもはべらず】−以下「うしろめたく悲しくはべる」まで、朱雀院の詞。最初「この世に恨み残る事もはべらず」と言いながら、最後は「いとうしろめたく悲しくはべる」と矛盾したことを漏らす。
【さらぬ別れにも】−「老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな」(古今集雑上、九〇〇、在原業平母)「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため」(古今集雑上、九〇一、在原業平)。
【ほだしなりぬべかりける】−「あはれてふことこそうたて世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ」(古今集雑下、九三九、小野小町)「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)。
【思ふやうならむ御世には】−『集成』は「天下を思いどおりに治められるようになったら(ご即位なさったら)」と注す。
【女御にも】−東宮の母女御をさす。
【されど女御の】−『細流抄』が「草子地のいへる也」と指摘。『集成』も「以下、朱雀院の危懼の年を代弁して説明する草子地」と注す。
【女御の】−女三の宮の母女御藤壷をさす。
【年暮れゆくままに】−源氏三十九歳の年の暮れ。

 [第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う]
【中納言の君参りたまへるを御簾の内に召し入れて】−夕霧、院の御所に朱雀院を見舞う。
【故院の上の】−以下「ものしたまふべきよしもよほし申したまへ」まで、朱雀院の夕霧への詞。
【心おかれたてまつることも】−「れ」受身の助動詞、「たてまつる」謙譲の補助動詞。私(朱雀院)が源氏からお恨まれ申されることが、の意。
【いにしへだに多かりける】−「だに」副助詞、でさえの意。『完訳』は「聖賢の世の昔でさえ多いのだから、まして人心荒廃の現代では」と訳す。
【春宮などにも心を寄せきこえたまふ。今はた、またなく親しかるべき仲となり、睦び交はしたまへるも】−東宮は朱雀院の皇子。源氏の娘明石の姫君が入内している。
【子の道の闇にたち交じり】−「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)。
【なかなかよそのことに聞こえ放ちたるさまにてはべる】−『集成』は「かえってひとごとのようにお任せ申した有様でいます」。『完訳』は「かえって他人事のように聞き捨てにふるまっております」と訳す。
【この秋の行幸の後】−源氏三十九歳十月の六条院行幸をさす。十月は陰暦では冬になるが、太陽暦では立冬前日までが秋である。当時は太陰暦と太陽暦との二元的暦法に立つ季節感である。
【おぼえたまふ】−朱雀院の会話文中に語り手の敬意が混入。

 [第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す]
【中納言の君】−夕霧。
【過ぎはべりにけむ方は】−以下「折々嘆き申したまふ」まで、夕霧の詞。途中に源氏の詞を引く。
【年まかり入りはべりて】−『集成』は「「まかる」は、ここは、他の動詞の上にそえて謙譲表現とする言い方。男性用語である。以下、「あひだ」「大小のこと」も男性用語」と注す。
【いにしへのうれはしきことありてなむ】−源氏の詞を引用。
【うちかすめ申さるる折ははべらずなむ】−『集成』は「一言でも漏らされることはございません」。『完訳』は「ほのめかし申される折に出会ったことがございません」と訳す。
【かく朝廷の】−以下「月日を過ぐすこと」まで、源氏の詞を引用。
【仕うまつりさして】−源氏が太政大臣から准太上天皇になったことをいう。
【故院の御遺言のごとも】−故桐壷院の遺言、「賢木」巻(第二章一段)に見える。冷泉帝を後見するようにとの内容。
【御位におはしましし世には】−主語は朱雀院。源氏、二十一歳から二十八歳まで、朱雀帝在位八年間。「葵」から「澪標」まで。
【さすがに何となく所狭き身の】−隠退の身とはいえ、准太上天皇ゆえの窮屈な身の上であることをいう。
【二十にもまだわづかなるほどなれど】−夕霧、十八歳。
【いとよくととのひ過ぐして】−『集成』は「年齢よりはずっと立派に大人びて」。『完訳』は「まったく十二分にととのって」。
【人知れず思し寄りけり】−『完訳』は「「けり」の注意。夕霧への女三の宮の降嫁を良縁と今気づく。その院の処遇を「もてわづらふ」院である」と注す。
【太政大臣のわたりに】−以下「思ふことこそあれ」まで、朱雀院の詞。夕霧が太政大臣家に婿入りしたことをいう。
【年ごろ心得ぬさまに】−「少女」から「藤裏葉」まで、六年間結婚が許されなかったことをさす。
【さすがにねたく思ふことこそあれ】−『完訳』は「謎をかけた物言い。縁談を暗示し、夕霧の反応を見ようとする」と注す。
【この姫宮を】−以下「思しのたまはする」まで、世間の噂。間接話法的。
【さやうの筋にや】−夕霧の心中。女三の宮の縁談の件をさす。
【ふと心得顔にも何かはいらへきこえさせむ】−『集成』は「夕霧の心中の思いが自然草子地と重なった書き方」と注す。
【はかばかしくも】−以下「さぶらひがたくのみなむ」まで、夕霧の返事。謙遜とあいまいな表現でにごす。

 [第五段 朱雀院の夕霧評]
【いとありがたく】−以下「あなめでた」まで、女房たちの詞。夕霧を賞賛。
【いでさりとも】−以下「ものしたまひしか」まで、女房の詞。源氏を礼讃。
【まことにかれは】−以下「いと異なめり」まで、朱雀院の詞。源氏を礼讃。
【うるはしだちてはかばかしき方に見れば】−『集成』は「威儀を正して、公事に携わっているところを見ると」。『完訳』は「表だった公事にたずさわっているところをみると」と訳す。
【何ごとにも前の世推し量られて】−何事につけても、前世の善根が推量される。

 [第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦]
【見はやしたてまつり】−以下「預けきこえばや」まで、朱雀院の詞。
【聞こえたまふ】−『集成』は「おもらしになる」。『完訳』は「お申しあげになる」。「聞こゆ」は謙譲の意を含んだ本動詞。朱雀院が女三の宮に向かって申し上げる、というニュアンス。
【大人しき御乳母ども召し出でて】−朱雀院が女三の宮の縁談について、年輩の乳母たちを召し出して相談。
【六条の大殿の式部卿親王の女】−以下「人にこそあめるを」まで、朱雀院の詞。
【やむごとなき限りものせらるるに】−冷泉帝後宮には、秋好中宮(源氏養女)、弘徽殿女御(太政大臣女)、王女御(式部卿宮女)、左大臣女御(「真木柱」巻)等がひしめいている。
【さやうの交じらひ、いとなかなかならむ】−『集成』は「後宮におつとめするのはかえってつらかろう」。『完訳』は「そのようなお勤めは、じっさいかえってせぬがましというものだろう」と訳す。
【人にこそあめるを】−「める」推量の助動詞、主観的推量。「を」詠嘆の間投助詞。接続助詞とみることも可能。その場合、「--心みるべかりけれ」の理由を述べる文末として、順接の原因理由を表す用法と見るのが適切であろう。「こそ」係助詞の結びは「めれ」であるが、下に助詞が接続して、結びが流れている形。『集成』は「将来有望な人と思えるのだが」。『完訳』は「じつに有能でいかにも頼りになりそうな人だから」と訳す。
【中納言は】−以下「聞こえたまふなれ」まで、乳母の詞。
【年ごろも】−「少女」巻から「藤裏葉」巻までの六年間。
【人をゆかしく思したる心は】−『集成』は「新しい女君をお求めのお気持は」。『完訳』は「好色心を動かされるお気持は」と訳す。女性に対して関心を寄せ心動かす性格。
【やむごとなき御願ひ深くて】−『集成』は「高い御身分の方を正妻に迎えたいというご希望が深くて」。『完訳』は「尊い素姓のお方を得たいとのお望みが強くて」と訳す。最も高貴な身分や血筋ということは内親王ということになる。
【いでその旧りせぬあだけこそはいとうしろめたけれ】−朱雀院の詞。
【げにあまたの中に】−『湖月抄』は「朱雀の御心中を草子地に云也」と指摘。『集成』は「以下「ゆづりおききこえまし」まで、朱雀院の心中」と注す。「げに」は乳母の詞に同意する気持ち。「なども思し召すべし」は語り手の推量。
【まことに少しも】−以下「いとことわりぞや」まで、朱雀院の詞。
【さばかり心ゆくありさまにてこそ過ぐさまほしけれ】−六条院(源氏)のように満ち足りた暮しをして過ごしたいものだ、の意。
【睦び寄りなまし】−「まし」反実仮想の助動詞。『完訳』は「きっと言い寄って睦まじい中になっていたことだろう」と訳す。
【御心のうちに】−以下「思し出でらるべし」まで、語り手の文章。『細流抄』は「草子地也」と指摘。

 

第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾

 [第一段 乳母と兄左中弁との相談]
【この御後見どもの中に】−女三の宮の乳母。内親王には三人の乳母がつく。
【かの院の親しき人にて】−『完訳』は「六条院の院司か」と注す。
【この宮にも】−女三の宮をさす。
【上なむしかしか】−以下「塵も据ゑたてまつらじ」まで、乳母の詞。「上」は朱雀院をさす。「しかじか」は間接話法が混入。
【いかさまにかはわづらはしからむ】−『集成』は「〔責任上私は〕どんなに迷惑なことでしょう」。『完訳』は「どんなにか厄介なことでしょう」と訳す。
【御覧ずる世に】−主語は朱雀院。
【塵も据ゑたてまつらじ】−「塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹と我が寝る常夏の花」(古今集夏、一六七、凡河内躬恒)の言葉による。
【いかなるべき御ことにかあらむ】−以下「御あはひならむ」まで、左中弁の詞。
【いみじき人と聞こゆとも立ち並びておしたちたまふことはえあらじとこそは推し量らるれど】−『集成』は「どんなにご寵愛の深い方(紫の上)と申しても、(女三の宮に)張り合って押してこられるようなことは、できないだろうと思われますが」。『完訳』は「いくらたいそうなお方と申しあげたところで、こちらの姫宮と肩を並べて威勢をお張りになるようなことはとてもなされますまい、とは察せられますものの」と訳す。
【いかがと憚らるること】−『集成』は「紫の上の寵愛が並々ならぬことをいう」。『完訳』は「前言を翻し、源氏の紫の上厚遇から、姫宮降嫁への賛意を躊躇」と注す。
【この世の栄え末の世に過ぎて身に心もとなきことはなきを女の筋にてなむ人のもどきをも負ひわが心にも飽かぬこともある】−『集成』は「以下、源氏の述懐を伝える趣」「女性関係では、人からも非難され。六条の御息所や朧月夜の尚侍のことが想起される」「また自分としても意に満たぬこともある。源氏の心中としては、藤壷とのことをはじめとして、女性問題で不如意であったことを言うものと見られる」。『完訳』は「源氏の述懐」「「人のもどき」は六条御息所や朧月夜などによろうが、「飽かぬこと」は藤壷ゆえらしい。ここでの「この世の栄え」と「飽かぬこと」の両面の指摘は、後に繰り返される、繁栄と憂愁の人生とみる述懐と通底」と注す。
【げに、おのれらが見たてまつるにも、さなむおはします】−『完訳』は「弁は、源氏の述懐の真意とは異なって、果せぬ好色心と判断」と注す。
【限りあるただ人どもにて】−皇族の人ではなくて臣下の人たち、という意。
【具したるやはおはすめる】−「やは」反語。「める」推量の助動詞、弁の主観的推量のニュアンス。『集成』は「准太上天皇の身分にふさわしい正夫人のいないことをいう。源氏の述懐を、左中弁なりに解釈したのである。世間の常識として当然のことである」と注す。
【いかにたぐひたる御あはひならむ】−『河海抄』は「窈窕たる淑女は君子の好逑」(詩経、国風)を指摘。
【語らふを】−『集成』は「うち割って話すのを」。『完訳』は「内情をうち割って話してくれるので」と訳す。

 [第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上]
【乳母、またことのついでに】−女三の宮の乳母、左中弁の言葉を朱雀院に奏上。場面変わるが、文章は一続き。
【しかしかなむなにがしの朝臣に】−以下「わざになむはべるべき」まで、乳母の詞。冒頭、間接話法が混じる。「しかしか」は、語り手が要約した表現。「なにがしの朝臣」は、実際は実名を言ったのを省略した表現。
【かの院にはかならず】−以下「伝へきこえむ」まで、弁の詞を引用。ただし、そっくり同じ表現は、乳母と弁との会話の中にはない。
【いかなるべきことにかははべらむ】−『集成』は「どんなものでございましょうか」。『完訳』は「どういたすのがよろしゅうございましょう」と訳す。
【ものしたまふなれど】−「なれ」伝聞推定の助動詞。
【皆ほがらかに、あるべかしくて、世の中を御心と過ぐしたまひつべきもおはしますべかめるを】−『集成』は「どなたもはっきり自分のお考えを持ち、立派にお振舞いになって、この世の中をご自分のお考え通りにお過しになれる方もおいでのようですが」。『完訳』は「みなわだかまりなくうまく立派に処置して、夫婦仲をご自分で分別してお過しになれる方もいらっしゃるようでございますが」と訳す。

 [第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮]
【しか思ひたどるによりなむ】−以下「いとうきことなり」まで、朱雀院の詞。『集成』は、読点で下文に続ける。『完訳』は、句点で文を切り「決断しがたい、を補い読む」。
【皇女たちの世づきたるありさまはうたてあはあはしきやうにもあり】−皇族の立場からみると、皇女が世俗の結婚するというのは、軽薄で見苦しく見える、という。皇女を神聖な巫女とみる信仰が底流にあるものであろう。
【さるべき人に立ちおくれて】−親などに先立たれることをさす。
【心を立てて世の中に過ぐさむことも】−『集成』は「自分の意志通り、世の中を生きてゆくといったことも。内親王が独身を通すこという」。『完訳』「自分の意志どおりに。独身を押し通すことを暗にいう」と注す。
【昔は人の心たひらかにて】−以下の「今の世には好き好きしく乱りがはしきことも」との対句構文。
【世に許さるまじきほどのことをば】−世間に認められないような身分違いの結婚などは。
【思ひ及ばぬものとならひたりけむ】−『集成』は「考えてもいけないことと思いこんでいたようだが」。『完訳』は「そんな気を起こさぬ習わしだったろうが」と訳す。
【昨日まで高き親の家にあがめられかしづかれし人の女の今日は直々しく下れる際の好き者どもに名を立ち欺かれて亡き親の面を伏せ影を恥づかしむるたぐひ多く聞こゆる】−無常迅速の世のさまをいう。対句じたての名文は『方丈記』の冒頭を思わせる。
【かくても悪しからざりけり】−『集成』は「「かく」は「心づからの忍びわざし出たる」ことをさす」。『完訳』は「自分勝手な結婚をしても」と注す。
【直々しきただ人の仲らひにてだにあはつけく】−「だに」副助詞。平凡な臣下の者でさえ、まして皇族の内親王は、というニュアンスの文脈。
【宿世のほど定められむなむ】−「られ」受身の助動詞。『集成』は「低い身分に定まってしまうのは」と訳す。
【あやしくものはかなき心ざまにやと】−主語は、女三の宮。一般論から話題転じて、女三の宮についていう。

 [第四段 朱雀院、婿候補者を批評]
【今すこしものをも思ひ知りたまふほどまで】−以下「限りぞあるや」まで、朱雀院の詞。
【六条の大殿はげにさりともものの心得てうしろやすき方は】−源氏を「ものの心得て」と期待する。
【方々にあまたものせらるべき人びとを知るべきにもあらずかし】−六条院のご夫人方を考慮に入れる必要はあるまい、と考える。内親王としての身分血筋の高さからである。
【とてもかくても人の心からなり】−『完訳』は「院は宮にその能力のないことを知りながら、その難点を無視する」と注す。
【誰ればかりかはあらむ】−「かは」係助詞、反語。「む」連体形。誰がいようか、誰もいない。
【大納言の朝臣の家司望むなる】−系図不詳の人。『完訳』は「親王・摂関以下三位以上の家務を執る者。女三の宮との結婚への願望を婉曲に言った表現」と注す。「なる」伝聞推定の助動詞。
【さすがにいかにぞや】−『完訳』は「身分不相応と躊躇される気持」と注す。
【昔も、かうやうなる選びには】−『河海抄』は、嵯峨天皇の潔姫の太政大臣良房へ、醍醐天皇の康子内親王の右大臣師輔への降嫁を指摘。
【ただひとへに、またなく待ちゐむ方ばかりを】−『集成』は「言外に、多くの妻妾を持とうとも、源氏がいいという気持がある」と注す。
【右衛門督の下にわぶなるよし】−「なる」伝聞推定の助動詞。柏木、右衛門督として登場。
【尚侍のものせられし】−「ものす」は言うの意。朧月夜尚侍、柏木の母方の叔母。右大臣家四の君の妹六の君。
【位など今すこしものめかしきほどに】−柏木、現在、参議兼右衛門督、正四位下相当官。上達部(三位)以上が一人前だという。
【まだ年いと若くて】−現在、柏木二十三、四歳。
【才などもこともなく】−漢学の才能などが申し分なく備わっている。
【限りぞあるや】−『完訳』は「その線以下というものだ」「当座の身分の低さをいう」と注す。

 [第五段 婿候補者たちの動静]
【太政大臣も】−太政大臣、柏木の父。
【この衛門督の】−以下「うれしからむ」まで、太政大臣の詞。
【召し寄せられたらむ時】−『集成』は「〔婿として〕親しくお召し頂けたら」。『完訳』は「もしお近づきを許されることになったら」と訳す。
【左大将の北の方を聞こえ外したまひて】−鬚黒大将の北の方、すなわち玉鬘。
【いかがは御心の動かざらむ】−語り手の推測、挿入句。
【藤大納言は】−前に「大納言の朝臣の家司望むなる」とあった人。朱雀院の院庁の長官。
【顧みさせたまふべく】−「させ」尊敬の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。主語は朱雀院。最高敬語。
【賜はりたまふなるべし】−主語は藤大納言。「なる」断定の助動詞「べし」推量の助動詞、語り手の断定と推量。

 [第六段 夕霧の心中]
【権中納言も】−夕霧。
【人伝てにもあらず】−以下の文章は、地の文と夕霧の心中とが渾然一体化した表現。
【おもむけさせたまへりし】−「させ」尊敬の助動詞、「たまへ」尊敬の補助動詞、「り」完了の助動詞、「し」過去の助動詞。主語は朱雀院、最高敬語。『集成』は「意中をお漏らしになった」。『完訳』は「こちらの気持をそそるようにして仰せられた」と訳す。
【漏らし、聞こし召さることもあらば】−『完訳』は「自分の意中をほのめかしておいて、それが院の耳に入ったら」と訳す。「漏らし」の主体は夕霧、「聞こしめす」の主体は朱雀院。
【女君の】−以下「苦しくこそはあらめ」まで、再び夕霧の心中。
【年ごろつらきにも】−『完訳』は「以下、夕霧の心中」と注す。
【にはかに物をや思はせきこえむ】−『異本紫明抄』は「かねてよりつらさを我にならはさでにはかに物を思はするかな」(出典未詳)を引歌として指摘。「や」係助詞「む」推量の助動詞、連体形。反語表現。
【なのめならずやむごとなき方】−女三の宮をさす。
【左右に】−女三の宮と雲居雁をさす。

 [第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす]
【春宮にもかかることども】−東宮、十三歳。
【さし当たりたるただ今のことよりも】−以下「親ざまに譲りきこえさせたまはめ」まで、東宮から朱雀院への消息文。
【ことなるをよく思し召しめぐらすべきことなり】−明融臨模本は片仮名で補入。大島本と御物本は「事なり」とある。一方で横山本、陽明文庫本、池田本、国冬本等他の青表紙本や河内本、別本の保坂本、阿里莫本にもこの句がある。
【人柄よろしとてもただ人は限りあるを】−皇族と臣下の区別は歴然。臣下では限界があるという。
【げにさることなりいとよく思しのたまはせたり】−朱雀院の心中。

 [第八段 源氏、承諾の意向を示す]
【心苦しきことにもあなるかな】−以下「世の定めなさなりや」まで、源氏の詞。
【ここにはまたいくばく立ちおくれたてまつるべし】−朱雀院、四十二歳。源氏、三十九歳。
【残りとまる限りあらば】−『集成』は「生き残る寿命があったならば」。『完訳』は「この世に残りとどまることに決っているのだったら」と訳す。
【とのたまひて】−源氏が弁に。会話文と会話文との途中にはさみ込む。
【ましてひとつに頼まれたてまつるべき筋に】−以下「憚らせたまふにやあらむ」まで、源氏の詞。「ひとつに頼まれ」云々は女三の宮の婿になることをさす。
【思ふ人定まりにて】−雲居雁をさす。
【憚らせたまふにやあらむ】−主語は朱雀院。「せ」「たまふ」最高敬語。
【かくのたまへば】−主語は源氏。
【いとほしく口惜しくも思ひて】−『集成』は「困ったことだ、残念だと思って」。『完訳』は「院に対してお気の毒にも、また残念にも思って」と訳す。
【いとかなしくしたてまつりたまふ皇女なめれば】−以下「よもおはせじを」まで、源氏の心中。
【あながちにかく来し方行く先のたどりも深きなめりかしな】−『集成』は「むやみに、そんなふうに先例を調べ、将来の例になる点も深くお考えになるのだな」。『完訳』は「たってこんなにも来し方行く末の例になるようなことまであれこれ深くお考えまわしになるのであろうな」と訳す。
【入道宮】−藤壷。
【この皇女の御母女御こそはかの宮の御はらからにものしたまひけめ】−女三の宮の母、朱雀院の藤壷の女御は先帝の四の宮藤壷入道の宮の異母妹。その母は更衣。『完訳』は「女三の宮は藤壷の姪だからというあたり、源氏の心は微妙に変化して、彼女への関心を強める」と注す。
【いづ方につけても】−『完訳』は「父院からも母女御からも」と注す。
【いぶかしくは思ひきこえたまふべし】−「べし」推量の助動詞、語り手の強い推量のニュアンス。

 

第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家

 [第一段 歳末、女三の宮の裳着催す]
【年も暮れぬ】−源氏三十九歳の歳末。
【ことことしくおはする人にて】−太政大臣の性格、物事をおおげさに考える性格。
【今二所の大臣たち】−左大臣と右大臣、共に系図不詳の人。左大臣は「梅枝」(第二章二段)に登場。
【あながちにためらひ助けつつ参りたまふ】−『集成』は「何とか手当てをし、気を張って参上なさる。病苦を押して参るのである」。『完訳』は「無理に繰り合せ都合をつけてはまいられた」と注す。
【多く奉らせたまへり】−「せ」尊敬の助動詞、「たまへ」尊敬の補助動詞。帝、東宮に対する最高敬語表現。実際は人をしてであるが、その主体者が帝や東宮だからである。
【尊者の大臣】−当儀式において腰結の役を勤めた太政大臣をさす。
【かの院よりぞ】−六条院、源氏をさす。
【奉らせたまひける】−「せ」尊敬の助動詞、「たまひ」尊敬の補助動詞。源氏に対する最高敬語表現。

 [第二段 秋好中宮、櫛を贈る]
【中宮よりも】−冷泉帝の秋好中宮。
【奉れさせたまふ】−「たてまつれ」下二段連用形、「させ」尊敬の助動詞、「たまふ」尊敬の補助動詞。中宮に対する最高敬語表現。
【さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける】−秋好中宮から朱雀院への贈歌。「さしながら」はそのままの意と「髪に挿しながら」の両意を掛けた表現。二人の共有する過去を回想し、また、姫宮の成長を讃えて、遠い昔の事となってしまったことを懐かしむ。親愛の情をのべた歌。
【さしつぎに見るものにもが万世を黄楊の小櫛の神さぶるまで】−朱雀院から秋好中宮への返歌。「さし」「櫛」「神さび」の語句を受けて返す。唱和の歌。「さしつぎに」はあなたの幸運に引き続いてわが姫君の幸運を、の意。「もが」終助詞、希望の意。「つげ」は「黄楊」と「告げ」の掛詞。「万世」「神さぶる」いずれも姫君の幸福を願う気持ち。

 [第三段 朱雀院、出家す]
【御心地いと苦しきを念じつつ】−朱雀院の出家。女三の宮の裳着の儀式を無事済ませて、三日後、天台の座主を召して出家する。
【子を思ふ道は】−以下「あるかな」まで、朱雀院の詞。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を踏まえる。『完訳』は「子を思う親の執心でさえ、朧月夜へのそれに比べると限りがある。その愛執は昔から深い」と注す。
【山の座主よりはじめて御忌むことの阿闍梨三人】−『完訳』は「戒を授ける師主、作法を教える教授師、戒場で作法を行う羯磨師の三人」と注す。
【かからで静やかなる所にやがて籠もるべく思しまうけける本意違ひて思し召さるるも】−『集成』は「こんなふうな出家でなく、静かなお山にすぐに引き篭ってしまうお心積りだったのが、不本意なことになったとお思いになるのだが、それも」。『完訳』は「このような騷ぎもない閑かな所にそのままこもろうとのお心づもりでいらっしゃった、その御本意に反するようにもお感じになるが、それというのも」と訳す。
【思しのたまはす】−『完訳』は「お思いになり、またそうも仰せられる」と訳す。

 [第四段 源氏、朱雀院を見舞う]
【六条院もすこし御心地よろしくと】−源氏、朱雀院を見舞い、女三の宮の降嫁を承諾する。
【聞きたてまつらせたまひて】−「たてまつら」謙譲の補助動詞、朱雀院に対する敬意。「せ」尊敬の助動詞「たまふ」尊敬の補助動詞、最高敬語は太上天皇である源氏に対する敬意。
【例のことことしからぬ御車にたてまつりて】−『完訳』は「太上天皇の御幸には檳榔毛の車を用いるのを常としたという」と注す。
【上達部などさるべき限り車にてぞ仕うまつりたまへる】−『完訳』は「供奉の公卿。馬で供奉するのが常であるという」と注す。
【故院におくれたてまつりしころほひより】−以下「わざにこそはべりけれ」まで、源氏の詞。
【この方の本意深く】−自分の出家の念願をさす。
【さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざにこそはべりけれ】−『集成』は「絆となる人々の見捨てがたいことをいう。女三の宮の身の上を案じる朱雀院の心中を汲んだ発言」。『完訳』は「ここでの堪えがたさは、捨てがたい絆の存在。姫宮を思う院の心中を察した表現」と注す。

 [第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う]
【今日か明日かとおぼえはべりつつ】−以下「安からずなむ」まで、朱雀院の詞。
【今まで勤めなき怠りをだに安からずなむ】−「勤め」は仏道修行。『集成』は「仏道に励まなかった怠慢も気にかかります」。『完訳』は「今までお勤めを忘れた懈怠を思うだけでも、安からぬ気持なのです」と訳す。
【女皇女たちを】−以下「見わづらひはべる」まで、朱雀院の詞。女三の宮の件を切り出す。
【まほにはあらぬ御けしき】−はっきりすべてはおっしゃらぬ御様子。

 [第六段 内親王の結婚の必要性を説く]
【御心のうちにもさすがにゆかしき御ありさまなれば思し過ぐしがたくて】−源氏は女三の宮が藤壷の姪に当たる人なので聞き過ごすことができない。
【げにただ人よりも】−以下「定めおかせたまふべきになむはべなる」まで、源氏の詞。
【口惜しげなるわざになむはべりける】−『集成』は「いかにも残念なことでございます」。『完訳』は「よそ目にも不都合というものでございます」と訳す。
【このことと聞こえ置かせたまはむことは】−主語は朱雀院。「このこと」は朱雀院が東宮に遺言しておかれる事をさす。
【一事として 疎かに軽め申したまふべきにはべらねば】−主語は東宮。朱雀院の遺言を一つとして疎かになさるまい、の意。
【さるべき筋に契りを交はし】−しかるべき夫婦の契りを交わすこと、結婚の意。
【よろしきに思し選びて】−適当な人物をお選びあそばして。
【さるべき御預かり】−しかるべきお世話役、御婿君の意。

 [第七段 源氏、結婚を承諾]
【さやうに思ひ寄る事はべれど】−以下「ねたくおぼえはべる」まで、朱雀院の詞。
【さるさまのことを】−内親王の結婚をさす。
【かたはらいたき譲りなれど】−以下、女三の宮を源氏に降嫁させるべく話を切り出す。内親王の降嫁を「譲り」と表現する。
【分きて育み生ほして、さるべきよすがをも、御心に思し定めて預けたまへ、と聞こえまほしきを】−『集成』は「特にお目をかけて下さって、適当な婿も、あなたのお考えどおりにお決め下さって、(その人に)お預け下さいと、お願いしたいところですが」「はじめから単刀直入に、源氏を婿に、とは言い出せない、幅を持たせた話術」。『完訳』は「特別にお目にかけてくださって、しかるべき縁づき先もあなたのお考えで決めて、そちらにお預けくださるようお願い申したいのですが--」「適当な婿も、あなたのお考えどおりに決めてくださいと申したいところだが。源氏を婿にとは言わないが、本心はそこにある」と訳し注す。
【中納言の朝臣】−以下「心苦しくはべるべき」まで、源氏の詞。
【かたじけなくとも深き心にて後見きこえさせはべらむに】−源氏が女三の宮の後見を切り出した表現。「後見きこえさせはべらむ」の主語は源氏。
【おはします御蔭に変りては】−朱雀院の御在俗中の庇護をさす。
【受け引き申したまひつ】−源氏、女三の宮降嫁の件を承諾。

 [第八段 朱雀院の饗宴]
【夜に入りぬれば】−朱雀院の饗応、精進料理。
【客人の上達部たちも】−源氏に供奉してきた上達部たち。
【あはれなる筋のことどもあれどうるさければ書かず】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「語り手の女房の言葉の体」。『完訳』は「語り手の省筆の弁」と注す。
【夜更けて帰りたまふ】−源氏、夜が更けてから朱雀院から六条院へ帰邸。
【別当大納言】−朱雀院の別当。かつて女三の宮の降嫁を望んだ一人。

 

第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける


 [第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す]
【六条院はなま心苦しうさまざま思し乱る】−源氏、女三の宮の後見を承諾し、かえって思い悩む。
【さしもあらじ】−以下「思し遂げずなりにしを」まで、紫の上の心中。
【何心もなくておはするに】−紫の上の様子。
【この事をいかに思さむ】−以下「いかに思ひ疑ひたまはん」まで、源氏の心中。
【深さこそまさらめ】−係助詞「こそ」--「め」已然形、読点。逆接用法。

 [第二段 源氏、紫の上に打ち明ける]
【またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに】−朱雀院を見舞い、女三の宮の後見を承諾して帰った翌日。連日の雪。その雪模様は源氏の心象風景でもある。源氏、紫の上に打ち明ける。
【院の頼もしげなく】−以下「のどかにて過ぐしたまはば」まで、源氏の詞。
【しかしか】−『ロドリゲス大文典』によれば「しかしか」清音である。
【ことことしくぞ人は言ひなさむかし】−『完訳』は「源氏が正妻を迎えるなどと、大げさに世間では取り沙汰しよう」と訳す。『日葡辞書』によれば「ことことし」清音である。
【今はさやうのことも初ひ初ひしく】−結婚をさす。
【人伝てにけしきばませたまひしには】−左中弁を通じての打診をさす。言葉ではいったん断ったとはいえ、左中弁が「内々に思し立ちにたるさまなど詳しく聞こゆれば」源氏は「さすがにうち笑みつつ」という態度を現し、関心を見せていた。
【心深きさまなることどもをのたまひ続けしには】−『集成』は「あわれ深い親心のお嘆きをあれこれ縷々と申されましたのには」。『完訳』は「お心に深くお決めあそばしていることをいろいろとお打ち明けになったのには」と訳す。
【はかなき御すさびごとをだにめざましきものに思して心やすからぬ御心ざまなれば】−紫の上の性情。源氏の目を通して語った表現。嫉妬深い女性として語られる。「めざましきものに」について、『集成』は「もってのほかのこと」。『完訳』は「目にかどをお立てになって」と訳す。
【あはれなる御譲りにこそはあなれ】−以下「思し数まへてむや」まで、紫の上の詞。
【心やすくてもはべなむを】−接続助詞「を」は、弱い逆接。
【あまりかううちとけ】−以下「あいなきもの怨みしたまふな」まで、源氏の詞。
【われも人も】−紫の上自身も女三の宮も。
【いよいよあはれになむ】−「あはれ」について、『集成』は「一層ありがたいことです」。『完訳』は「いっそううれしい気持なのです」と訳す。

 [第三段 紫の上の心中]
【かく空より出で来にたるやうなることにて】−以下「思ひ合はせたまはむ」まで、紫の上の心中。
【逃れたまひがたきを】−主語は源氏。
【わが心に憚りたまひ】−源氏の心をいう。
【おのがどちの心より起これる懸想にもあらず】−『集成』は「紫の上は、藤壷思慕に発する、源氏の女三の宮への好奇心に気づくはずもないのである」と注す。
【式部卿宮の大北の方】−紫の上の継母。
【あぢきなき大将の御ことにてさへ】−鬚黒大将と玉鬘の結婚及び、北の方との離婚騒動をさす(「真木柱」巻)。
【いかにいちじるく思ひ合はせたまはむ】−『集成』は「どんなにちゃんと報いがあったとお思いになることだろう」。『完訳』は「どんなにかそれみたことかとお思いになることだろう」と訳す。
【おいらかなる人の御心といへどいかでかはかばかりの隈はなからむ】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の言辞」と注す。「いかでかは--む」反語表現。
【過ぐしける世の】−過ごしてきた夫婦仲、結婚生活。
【下には思ひ続けたまへどいとおいらかにのみもてなしたまへり】−紫の上、内心と表面を別々に振る舞う。

 

第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う


 [第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず]
【年も返りぬ】−源氏四十歳となる。紫の上三十二、女三の宮十四、五歳。
【内裏にも御心ばへありて聞こえたまひけるほどに】−冷泉帝も女三の宮の入内を希望していた、という。初めて語られる。
【さるは】−『集成』は「(それはそれとして)実は。前の叙述の内容を受けて、別の事情を提示説明する」と注す。
【正月二十三日子の日なるに】−『河海抄』は、延長二年正月二十五日甲子、宇多法皇が醍醐天皇の四十賀のために、若菜を献じた例を引く。正月の子日に小松を引いたり若菜を摘んで食べたりして、長寿を祈念した。
【左大将殿の北の方】−鬚黒左大将の北の方、すなわち玉鬘。『完訳』は「鬚黒の北の方に収まり、もはや源氏とは無関係とする呼称」と注す。
【南の御殿の西の放出に】−六条院南の御殿の寝殿の西面の母屋と廂間を一続きにした所。
【うるはしく倚子などは立てず】−椅子を用いるのは中国式、また天皇が用いる。
【御地敷四十枚】−御地敷、茣蓙の一種。四十賀にちなむ数を用意する。
【きよらにせさせたまへり】−「させ」使役の助動詞、「たまへ」尊敬の補助動詞、「り」完了の助動詞、存続。主語は玉鬘。
【御衣筥四つ据ゑて】−四つも四十賀にちなむ数。
【うちうちきよらを尽くしたまへり】−『集成』は「目立たぬところに善美を尽していらっしゃる」。『完訳』は「内々で善美を尽してご調製になられた」と訳す。
【同じき金をも】−『集成』は「金銀も」。『完訳』は「同じ金具でも」と訳す。
【尚侍の君もののみやび深くかどめきたまへる人にて】−玉鬘の人柄。風雅の趣味が深く才気がある人。

 [第二段 源氏、玉鬘と対面]
【御座に出でたまふとて尚侍の君に御対面あり】−女性は祝賀の宴席に出られないので、その前に、源氏は玉鬘に会う。
【御心のうちには、いにしへ思し出づることもさまざまなりけむかし】−『孟津抄』は「草子地也」と指摘。『完訳』は「以下、語り手が源氏の未練の心を推測し、変らぬ風貌をも叙述」と注す。
【年月隔てて見たてまつりたまふは】−主語は玉鬘。源氏三十七歳の冬十月頃に結婚して二年余り、源氏とは三年目の対面。
【なほけざやかなる隔てもなくて】−『集成』は「昔通り、堅苦しい隔てもない有様で」。『完訳』「やはり際だって他人行儀というふうでもなく」。御簾や御几帳越しまた女房を介してというのではなく、直接会うことをいう。
【幼き君もいとうつくしくて】−結婚の翌年に誕生、数え年三歳になる。
【うち続きても御覧ぜられじ】−年子で、もう一人生まれている。
【直衣姿どもにて】−童直衣姿。
【過ぐる齢も】−以下「忘れてもはべるべきを」まで、源氏の詞。
【かかる末々のもよほしになむ】−玉鬘は源氏の実子ではないが、養女となったので、「末々(孫)」が生まれて、という。
【なまはしたなきまで思ひ知らるる折もはべりける】−『集成』は「何やらきまりが悪いほど自分の年を痛感させられることもあるものでした」。『完訳』は「こうして孫たちができると、それに促されるように自分の年齢がなにやらきまりわるいくらい痛感させられるときもあったのですね」。「ける」過去の助動詞、連体形、「なむ」の係結び、詠嘆の意。
【中納言のいつしかとまうけたなるを】−夕霧が雲居雁と結婚したのは、昨年の四月。『完訳』は「子があるとするのは、やや不自然」と注す。約十月間ある。またその間に閏月を想定すれば、不自然なこともないが、藤典侍(五節の舞姫、惟光の娘)との間の子であろうか。
【子の日】−『集成』は「ねのび」と訓じる。『日葡辞書』に「ネノビ」とある。
【忘れてもはべるべきを】−『完訳』は「忘れてもいられたでしょうに」。「べき」推量の助動詞、可能の意。「を」接続助詞、逆接の意。

 [第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和]
【いとよくねびまさりものものしきけさへ添ひて見るかひあるさましたまへり】−『完訳』は「まことに美しく女ざかりとなり、重々しい風采までそなわってきて、見るにはりあいのある有様でいらっしゃる」と訳す。
【若葉さす野辺の小松を引き連れてもとの岩根を祈る今日かな】−玉鬘が源氏を祝う歌。「小松」は玉鬘の子ども、「元の岩根」は源氏をそれぞれさす。「小松」「引き」「岩根」は縁語。みずみずしく生い先豊かな「小松」の成長力と永遠不滅の「岩根」にあやっかって、源氏のますますの健康と長寿を祈る意。
【小松原末の齢に引かれてや野辺の若菜も年を摘むべき】−源氏の返歌。「若葉」「野辺」「小松」「引く」の語句を受けて「小松原」「引かれて」「野辺」「若菜」の語句を用いる。「摘む」「積む」の掛詞。「小松」「摘む」の縁語。小松の生命力にあやかって、私も長寿を保てようと祝う歌。
【式部卿宮は参りにくく】−玉鬘主催の源氏四十賀に、紫の上の父式部卿宮は参列しにくく思う。鬚黒大将の北の方であった娘が、鬚黒と玉鬘の結婚によって、離縁されたといういきさつがある。
【御消息ありけるに】−『完訳』は「源氏からのお誘い」と注す。
【かく親しき御仲らひにて】−源氏と式部卿宮との間には、源氏の須磨明石流離の前後には一時疎遠になっていたが、その後、源氏は式部卿宮の五十賀を祝う(「少女」巻)など、その関係は縒りがもどったらしい。
【大将のしたり顔にて】−『完訳』は「以下「雑役したまふ」まで、宮の心中に即した叙述」と注す。
【御孫の君たちはいづ方につけても】−源氏の孫の君たち。すなわち鬚黒の前の北の方の子供たち、玉鬘は継母、紫の上は叔母に当たる。
【取り続きたまへり】−『完訳』は「以下、正式の賀宴の作法。夕霧ら、しかるべき人々が順次献上する」と注す。

 [第四段 管弦の遊び催す]
【楽人】−『集成』は「雅楽寮、楽所、六衛府の官人などで音楽をよくする者をいう」と注す。
【世の中にこの御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ】−太政大臣の詞。
【さるものの上手の】−太政大臣が和琴の名手であることは、「少女」「常夏」に語られている。
【げにいとおもしろくをさをさ劣るまじく弾く】−柏木も和琴の名手であったことは「梅枝」に語られている。
【何ごとも上手の嗣といひながら】−以下「え継がぬわざぞかし」まで、人々の感想。
【調べに従ひて跡ある手ども定まれる唐土の伝へどもは】−『集成』は「それぞれの調子に従って楽譜が整っている弾き方や、きまった型のある中国伝来の曲なら」。『完訳』は「それぞれの調子に従って一定の型が決っている奏法や、楽譜の決っている唐伝来の曲などは」と訳す。
【これは】−柏木をさす。
【いとかうしもは聞こえざりしを】−親王たちの感想。
【宜陽殿の御物にて】−宮中の殿舎の一つ。累代の楽器や書籍を保管した殿。
【故院の末つ方一品宮の好みたまふことにて】−桐壷院の晩年、その内親王、女一の宮、母は弘徽殿大后。初めて見える記事。
【大臣の申し賜はりたまへる】−太政大臣が女一の宮に願い出て頂戴なさった、の意。北の方が弘徽殿大后の妹四の宮という縁からであろう。
【御伝へ伝へ】−皇室に代々第一の御物であったのが桐壷院の女一の宮に伝えられ、それがさらに太政大臣に伝わったということをいう。
【御けしきとりたまひて】−主語は蛍兵部卿宮。
【もののあはれにえ過ぐしたまはで】−主語は源氏。
【唱歌の人びと御階に召して】−楽器の譜を歌う殿上人を寝殿の南正面の階段の前に召しての意。
【返り声になる】−『集成』は「音楽の調子が、呂旋法より律旋法に変ること。正式な感じから、くだけた感じになる」と注す。
【青柳遊びたまふほど】−催馬楽「青柳」律の曲。「青柳を 片糸によりて や おけや 鴬の おけや 鴬の 縫ふといふ笠は おけや 梅の花笠や」。
【げにねぐらの鴬】−「青柳」の歌詞を受けて、「げに」という。
【私事のさまにしなしたまひて禄などいと警策にまうけられたりけり】−准太上天皇という身分では規定があるので、私的な内輪の祝賀とすることによって、かえって見事な禄などを準備したという。

 [第五段 暁に玉鬘帰る]
【暁に尚侍君帰りたまふ】−時刻は、夜明け方となる。玉鬘帰途につく。
【御贈り物などありけり】−源氏方から玉鬘への返礼の御贈り物。
【かう世を捨つるやうにて】−以下「いと口惜しくなむ」まで、源氏の詞。
【かく古めかしき身の所狭さに】−『集成』は「こんな老人で動きにくくて」。『完訳』は「こんな年寄の身の窮屈さから」と訳す。
【ありがたくこまかなりし御心ばへを】−源氏の愛情をいう。
【おろかならず思ひきこえたまひけり】−『集成』は「並々ならずありがたくお思い申された」。『完訳』は「ひとかたならずお慕い申しあげていらっしゃるのであった」と訳す。

 

第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁


 [第一段 女三の宮、六条院に降嫁]
【かくて如月の十余日に】−二月十余日に朱雀院の女三の宮が六条院に降嫁。
【御帳立てて】−御帳台を設けて。
【そなたの一二の対渡殿かけて】−六条院の南の御殿には西の対が二棟あり、寝殿に近いほうから第一、第二の対と呼んだ。その対と渡殿にかけて、女三の宮に付き従って来た女房の局を設けた。
【渡りたまふ儀式】−お輿入れの格式、作法。
【御車寄せたる所に院渡りたまひて】−女三の宮の御車は六条院の南の御殿の寝殿南面の階段に着けられる。源氏はそこまで迎えに出る。
【例には違ひたることどもなり】−通常の宮中の入内の儀式作法とは違うという意。
【ただ人におはすればよろづのこと限りありて】−源氏は准太上天皇となったとはいえ、皇族には復帰しておらず、臣下の身分のままであった。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『全集』は「准太上天皇という源氏の位は、史実にはない虚構であり、読者が奇異に感じるおそれがある。物語に現実感を与えるために、語り手に批評させた」と注す。
【内裏参りにも似ず、 婿の大君といはむにもこと違ひて】−入内の儀式とも違うしまた普通の結婚すなわち婿が女の家に通うのとも違う。「婿の大君」は、催馬楽「我家」の「我家は 帷帳も 垂れたるを 大君来ませ 婿にせむ 御肴に 何よけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ」を連想させる表現。

 [第二段 結婚の儀盛大に催さる]
【三日がほど】−結婚の三日間の儀礼。
【対の上も】−紫の上。『集成』は「東の対に住むところから出た呼称」。『完訳』は「必ずしも正妻を表す呼称ではない」と注す。
【げにかかるにつけて】−「げに」は以前に源氏が言ったことを受ける。『集成』は「紫の上の心中。以下自然に地の文になる」。『完訳』は「以下、紫の上の心」と注す。心中文と地の文が融合した文章。
【人に】−女三の宮をさす。
【あるまじけれど】−「まじ」打消推量の助動詞。紫の上が推量。
【並ぶ人なくならひたまひて】−紫の上の今までをいう。尊敬の補助動詞「たまふ」が混入するところに、心中文と地の文が融合した表現といえる。「て」接続助詞、逆接。
【はなやかに生ひ先遠くあなづりにくきけはひにて】−女三の宮をいう。
【なまはしたなく思さるれど】−このあたりまで、心中文と地の文が融合。
【いとらうたげなる御ありさまを】−『集成』は「本当に何の下心もないご様子なのを」。『完訳』は「いかにもいじらしいご様子なのを」と訳す。
【かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折】−紫の上のことをいうのだが、「紫のゆかり」という表現に注意しなければならない。今度の女三の宮も「紫のゆかり」として関心を抱いたのである。すなわち「藤壷」ということが、依然と源氏の心底に行動原理としてあるのである。
【よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり】−源氏の心中。『完訳』は「幼稚な宮ゆえ紫の上と対抗すまいと安心する一方で、期待を裏切られる気持」と注す。
【いとあまりものの栄なき御さまかな】−源氏の心中。女三の宮に失望。

 [第三段 源氏、結婚を後悔]
【三日がほどは夜離れなく渡りたまふを】−結婚三日間。源氏は東の対の屋から女三の宮を迎えた寝殿へ通う。
【年ごろさもならひたまはぬ心地に】−紫の上の心地。
【御衣どもなどいよいよ薫きしめさせたまふものから】−「真木柱」巻の鬚黒大将の北の方が夫が雪もよいの夜に玉鬘のもとに通って行こうとするのを送り出す場面と類似する。
【などてよろづのことありとも】−以下「え思しかけずなりぬめりしを」まで、源氏の心中。「などて--みるべきぞ」反語表現。
【あだあだしく、心弱くなりおきにけるわがおこたりに】−源氏の反省。好色心とその気弱さになっている気の緩みとする。「おき(置)」と「き(来)」の相違は重要。後者は頽齢による変化となる。前者は源氏の性格の意になる。
【中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを】−「え思しかけずなりぬ」の主語は朱雀院。「めり」推量の助動詞、源氏の主観的推量。「し」過去の助動詞、連体形。「を」接続助詞、逆接。その下に、自分が婿になってしまった、という意が含まれている。『集成』は「夕霧を(朱雀院は)婿にとはお考えにならなかったようなのにと」。『完訳』は「中納言を婿にとはお考えになれずじまいだったらしいものを」と訳す。
【今宵ばかりは】−以下「院に聞こし召さむことよ」まで、源氏から紫の上への詞。
【これより後のとだえあらむこそ】−紫の上との夫婦関係をいう。
【またさりとて】−女三の宮との夫婦仲を疎略に扱うことをいう。
【すこしほほ笑みて】−主語は紫の上。
【みづからの御心ながらだに】−以下「いづこにとまるべきにか」まで、紫の上の詞。突き放した物の言い方。
【恥づかしうさへおぼえたまひて】−主語は源氏。
【硯を引き寄せたまひて】−主語は紫の上。
【目に近く移れば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな】−紫の上の独詠歌。源氏に裏切られ夫婦仲に絶望した意。
【古言など書き交ぜたまふを】−『集成』は「古歌などをまぜてお書きになるのを。自分の心を託す古歌を思いつくままに書く、いわゆる手習である」。『完訳』は「自作歌と同内容の伝承古歌。ありふれた古歌ながら、源氏をして合点させる。この場合の真実のこもる歌として再評価される」と注す。古歌が紫の上の心情に客観的正当性と真実性を賦与する。
【命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ仲の契りを】−源氏の返歌。夫婦仲の意の「世の中」を受けて、「定めなき世」という世間一般の世の中の意で切り返し、夫婦仲は変わらないという。
【いとかたはらいたきわざかな】−紫の上の詞。
【いとただにはあらずかし】−語り手の感情移入表現。

 [第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす]
【さもやあらむ】−『集成』は「自分を上廻る地位の正夫人が迎えられるのでないかと思ったこと」。以下、紫の上の心中に即した地の文。
【さらばかくにこそは】−朝顔の姫君との事件が落着したことを受ける。
【なのめならぬこと】−『集成』は「外聞の悪いこと」。『完訳』は「不都合なこと」と訳す。
【思はずなる世なりや】−以下「出で来なむかし」まで、女房たちの詞。
【過ぐしたまへばこそ】−「こそ」--「なだらかにもあれ」係結び、逆接用法。
【おしたちてかばかりなるありさまに】−『集成』は「(女三の宮方の)誰憚らぬこうしたやり方に。女三の宮の婚儀のさまを、紫の上づきの女房の視点で言う」と注す。
【消たれてもえ過ぐしたまふまじ】−主語は紫の上。
【つゆも見知らぬやうに】−紫の上の態度。
【いとけはひをかしく】−『集成』は「いかにも優雅な風情で」。『完訳』は「まことにご機嫌よく」と訳す。

 [第五段 六条院の女たち、紫の上に同情]
【かくこれかれあまたものしたまふめれど】−以下「心おかれたてまつらじとなむ思ふ」まで、紫の上の詞。源氏の夫人方をさしていう。
【御心にかなひて】−源氏の心に叶って。紫の上からの推測。
【この宮のかく渡りたまへるこそ、めやすけれ】−『集成』は「准太上天皇にふさわしい身分の北の方であることをいう」と注す。「こそ」係助詞は、「めやすけれ」に係り、強調のニュアンスを表す。
【あいなく隔てあるさまに】−『完訳』は「口さがない女房たちの陰口に釘をさす」と注す。
【ひとしきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただならず耳たつことも、おのづから出で来るわざなれ】−同程度の身分や劣った身分に対しては、つい張り合って黙っていられないこともあるものだ、とする当時の貴族社会の人情をいう。
【かたじけなく心苦しき御ことなめれば】−皇女であるにもかかわらず、後見人がいない事情をいう。
【あまりなる御思ひやりかな】−中務や中将の君の詞。間接話法。かつての源氏の召人だった、すなわちお手つきの女房たち。源氏が須磨明石へと流離した際に、紫の上付きの女房となった人たち。
【など言ふべし】−『休聞抄』は「双」と指摘。「べし」推量の助動詞。語り手の強い推量のニュアンス。
【年ごろは】−源氏が須磨へ流離して以後。
【心寄せきこえたるなめり】−「な」伝聞推定の助動詞。「めり」推量の助動詞。『紹巴抄』は「双注」と指摘。語り手の主観的推量。
【いかに思すらむもとより思ひ離れたる人びとはなかなか心安きを】−花散里や明石御方からのお見舞い。間接話法。『集成』は「こういう場合は、見舞うのが当時の妻妾間の礼儀であった」。『蜻蛉日記』の作者から時姫へのお見舞いが想起される。『完訳』の「このあたりの同情には、紫の上の不幸を喜ぶ気持さえあろう」と注すのは、花散里や明石御方の人柄からして、いかがなものか。
【かくおしはかる人こそ、なかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさのみは思ひ悩まむ】−紫の上の心中。『完訳』は「「世の中」は夫婦仲の意にとどまらず世間一般。人間世界の無常の自覚から、男女間の愛憎を超えようとする。彼女の新しい境地」と注す。
【などてかさのみは思ひ悩まむ】−「などて」--「悩まむ」反語表現。『集成』は「なぜそう執着することがあろう」。『完訳』は「どうしてあの方たちのようにくよくよしてばかりいられよう」と訳す。
【御衾参りぬれど】−主語は女房。
【げにかたはらさびしき夜な夜な経にけるも】−『完訳』は「御方々の慰めの言葉どおりに」。女三の宮に通う新婚三日間の夜がれをいう。
【今はとかけ離れたまひても】−以下「あらまし世かは」まで、紫の上の心中。
【同じ世のうちに】−この世をいう。
【聞きたてまつらましかばと】−無事でいると、という内容が含まれる。「ましかば」は仮想表現。
【あたらしく悲しかりしありさまぞかし】−源氏の身についていう。
【命堪へずなりなましかばいふかひあらまし世かは】−「命堪へず」すなわち、死んでしまったらの意。「ましかば--まし」反実仮想構文。「かは」係助詞、反語の意。実際は死ななかったので、かいのある二人の仲であった、の意。
【風うち吹きたる夜のけはひ冷ひかにて】−紫の上の心象風景、また心中の象徴表現。
【寝入られたまふぬを】−「れ」可能の助動詞。寝つくことがおできになれないの意。
【あやしとや聞かむ】−「や」係助詞、疑問。「む」推量の助動詞、連体形。『完訳』は「様子が変だと思われはせぬかと」と注す。
【夜深き鶏の声の聞こえたるも】−夜明けにはまだ間のある暗いうち、一番鶏が鳴きだす。紫の上が眠らずに朝を迎えたことを語る。

 [第六段 源氏、夢に紫の上を見る]
【わざとつらしとにはあらねどかやうに思ひ乱れたまふけにや】−『湖月抄』は「草子地よりいふ也」と指摘。語り手の推測。挿入句。場面は、寝殿の女三の宮の閨、源氏のいる場面に移る。
【かの御夢に見えたまひければ】−源氏の夢の中に紫の上が現れた。『完訳』は「紫の上の迷乱する魂が、その意志を超えて、現れ出たかとする」と注す。
【鶏の音待ち出でたまへれば】−『集成』は「心待ちしていた鶏の鳴くのをお聞きになったので。さきほどの「夜深き鶏の声」を源氏も聞き、鶏の音にかこつけて、まだ暗いのに帰る」と注す。
【闇はあやなし】−「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」(古今集春上、四一、凡河内躬恒)。『完訳』は「深夜のうちに帰るのはひどい、の寓意」と注す。
【けぢめ見えわかれぬほど】−白い砂と雪との見分けがつかないの意。
【なほ残れる雪と】−「子城の陰なる処には猶残れる雪あり衙鼓の前には未だ塵有らず」(白氏文集巻十六、*楼暁望 *=广+臾)
【人びとも空寝をしつつ】−『集成』は「源氏を懲らしめようというつもり」。『完訳』は「女房たちの、源氏への意地悪」と注す。
【こよなく久しかりつるに】−以下「さるは罪もなしや」まで、源氏の詞。
【懼ぢきこゆる心の】−源氏が紫の上に対して。
【御衣ひきやりなどしたまふに】−主語は源氏。「御衣」について、『集成』は「お召し物」。『完訳』は「御夜着」と訳す。
【うらもなくなつかしきものからうちとけてはたあらぬ御用意など】−『集成』は「すねたりもなさらずやさしいものの、仲直りしようとはなさらぬお心配りなど」。『完訳』は「何のお恨みもなくやさしくしていらっしゃるものの、といってすっかり許しておしまいになるのでもないお心づかいなど」と訳す。
【いと恥づかしげにをかし】−『集成』は「とても気がひけるほどで風情がある」。『完訳』は「まったく殿にとっては顔向けもならぬくらいゆかしいお方である」と訳す。
【限りなき人と聞こゆれど難かめる世を】−源氏の心中。紫の上の人柄を賞賛。
【思し比べらる】−紫の上と女三の宮を。「らる」自発の助動詞。
【今朝の雪に心地あやまりて】−以下「心安き方にためらひはべる」まで、源氏から女三の身への手紙文。
【さ聞こえさせはべりぬ】−女三の宮の乳母の返事。
【とばかり言葉に聞こえたり】−乳母が源氏に。「ばかり」副助詞。限定の意とその強調のニュアンス。「言葉」は口頭での意。本来、宮自筆の手紙があってしかるべきという含み。
【異なることなの御返りや】−源氏の感想。以下、源氏の感想を交えて語っていく。
【院に聞こし召さむことも】−以下「つくろはむ」まで、源氏の心中。
【さは思ひしことぞかしあな苦し】−源氏の心中。
【思ひやりなき御心かな】−紫の上の心中。『集成』は「紫の上が引き止めているのではないかと、誤解される立場にあることを察してほしいと思う」。『完訳』は「自分が源氏を引き止めていると誤解されるのを恐れる」と注す。

 [第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答]
【今朝は例のやうに大殿籠もり起きさせたまひて】−結婚後五日目の朝。昨日は気分の悪いことを理由に女三の宮のもとに出かけず、紫の上方に一日過ごしたその翌朝。「例のように」と語られている。
【ことに恥づかしげもなき御さまなれど】−『完訳』は「気の張らない、姫宮の幼稚さ」と注す。
【白き紙に】−季節や天候の白梅や雪による趣向。
【中道を隔つるほどはなけれども心乱るる今朝のあは雪】−源氏から女三の宮への贈歌。「乱るる」は「心乱るる」と「乱るるあは雪」に掛かる。「かつ消えて空に乱るる淡雪はもの思ふ人の心なりけり」(後撰集冬、四七九、藤原蔭基)を踏まえる。
【西の渡殿よりたてまつらせよ】−源氏の詞。西の渡殿の女房の局から差し上げるようにとの伝言。
【友待つ雪のほのかに残れる上に】−「白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる」(家持集、二八四)を踏まえた表現。
【袖こそ匂へと】−源氏は「折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやここに鴬の鳴く」(古今集春上、三二、読人しらず)の歌を想起して、梅の枝を鴬から隠すしぐさをする。
【夢にもかかる人の親にて重き位と見えたまはず】−源氏の若々しさを強調、暗に、女三の宮との結婚も相応しいことを匂わす。
【御返りすこしほど経る心地すれば】−返事が遅いのは好ましいことではない。女三の宮の欠点。
【花といはばかくこそ匂はまほしけれな】−以下「心分くる方なくやあらまし」まで、源氏の詞。紫の上の機嫌をとる。
【これもあまた】−以下「並べて見ばや」まで、源氏の詞。
【花の盛りに並べて見ばや】−『完訳』は「桜の盛りに、桜と白梅を。暗に女三の宮と紫の上を並べたら好一対になろう、の意。このあたり、紫の上が応じない源氏の独り相撲」と注す。
【しばし見せたてまつらであらばや】−以下「人のほどかたじけなし」まで、源氏の心中。女三の宮の返事に、驚愕失望。
【見せたてまつらであらばや】−紫の上に。
【しりめに見おこせて】−主語は紫の上。
【はかなくてうはの空にぞ消えぬべき風にただよふ春のあは雪】−女三の宮の返歌。「あは雪」の語句を受けて、それを我が身に喩えて返す。『集成』は「乳母たちの代作であろう」と注す。
【御手げにいと若く幼げなり】−紫の上の視点から語った表現。「げに」は前に「御手のいと若きを」とあったのと呼応。紫の上の感想。
【さばかりのほどになりぬる人はいとかくはおはせぬものを】−紫の上の感想。
【異人の上ならば】−皇女である女三の宮以外の他の女性。
【さこそあれ】−源氏の詞。『集成』は「こんなに下手だ」。『完訳』は「この程度なのですよ」と訳す。
【心安くを思ひなしたまへ】−源氏の詞。

 [第八段 源氏、昼に宮の方に出向く]
【今日は宮の御方に昼渡りたまふ】−同じく新婚五日目の昼、源氏、女三の宮方に出かける。
【まして】−既に拝見していた女房と比較して、それ以上に。
【いでやこの御ありさま】−以下「めざましきことはありなむかし」まで、老乳母の心中。源氏の立派さに対し、女三の宮の未熟さを熟知するので、将来の夫婦関係に、紫の上よりも寵愛が劣ることになるのではないかと、懸念する。
【こそめでたけれ】−「こそ」係助詞、「めでたけれ」已然形、逆接用法。
【うち混ぜて思ふもありける】−『完訳』は「喜びのなかに不安をまじえて心配する者もいるのだった」と訳す。
【御しつらひなどのことことしく】−以下、女三の宮の高貴な身分と幼稚な人柄が対比的に語られている。
【院の帝は】−以下「皇女と聞きしを」まで、源氏の心中。『完訳』は「朱雀院の女三の宮への教育について批判的」と指摘する。
【ををしくすくよかなる方の御才などこそ】−漢学をさす。係助詞「こそ」は「思ひためれ」已然形に掛かる、逆接用法。
【をかしき筋】−趣味の方面。音楽や和歌などをさす。
【憎からず見たてまつりたまふ】−『集成』は「それもかわいいとお思いになる」。『完訳』は「憎めないお方とお思い申しあげなさる」と訳す。
【聞こえたまふままに】−主語は源氏。
【え見放たず見えたまふ】−女三の宮の、父朱雀院に対してもまた源氏に対しても同じような思いを抱かせる人柄をいう。
【昔の心ならましかば】−『集成』は「以下「いとあらまほしきほどなりかし」まで、源氏の心中の思い」と注す。
【とあるもかかるも】−『完訳』は、以下「いとあらまほしきほどなりかし」まで、源氏の心中とする。「帚木」巻の女性論と同主旨。
【よその思ひはいとあらまほしきほどなりかし】−『集成』は「身分の点で、外見から見れば正室としてふさわしい、と思い直す」。『完訳』は「女三の宮も、外からみれば、妻として申し分ない、の意。皇女ゆえの理想性をいう」と注す。
【差し並び目離れず見たてまつりたまへる年ごろよりも対の上の御ありさまぞ】−『完訳』は「反転して、紫の上について思う。女宮降嫁以前と以後に区別し、後者の彼女に感動を抱き直す」と注す。
【われながらも生ほしたてけり】−前の朱雀の女三の宮の教育を批判したことと対応する。
【などかくおぼゆらむ】−源氏の紫の上を思う気持ち。
【ゆゆしきまでなむ】−後に、紫の上がこの事件が心労となって亡くなる伏線。

 [第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る]
【院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ】−朱雀院、二月のうちに御寺に入山。
【わづらはしくいかに聞くところやなど】−『集成』は「以下「もてなしたまふべく」まで、朱雀院の消息の大意をいう」と注す。「聞く」の主語は朱雀院。
【憚りたまふことなくて】−主語は源氏。
【幼き人の】−以下「おこがましくや」まで、朱雀院から紫の上への消息。女三の宮の後見を依頼する内容。
【尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ】−紫の上と女三の宮は先帝の孫、紫の上の父式部卿宮と女三の宮の母藤壷女御は異母兄妹の関係。すなわち、従姉妹同士であることをいう。
【背きにしこの世に残る心こそ入る山路のほだしなりけれ】−朱雀院から紫の上への贈歌。女三の宮が気ががりであるという感懐を詠む。「この世」に「子」を懸ける。「世の憂き目見えぬ山路に入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部良名)を踏まえる。
【闇をえはるけで】−「人の小谷野心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)による。
【あはれなる御消息をかしこまり聞こえたまへ】−源氏の詞。『完訳』は「おいたわしいお手紙ではありませんか。謹んでお引き受け申しあげる旨をご返事なされ」と訳す。
【背く世のうしろめたくはさりがたきほだしをしひてかけな離れそ】−紫の上の返歌。「背きにし世」「ほだしなりけれ」を受けて「背く世」「ほだしをしひてかけな離れそ」と切り返して返歌する。『完訳』は「贈答歌の、相手を切り返す返歌の作法によりながら、朱雀院の出家に対して批判的な気持もまじる」と注す。
【などやうにぞあめりし】−『林逸抄』は「双紙詞也」と指摘。『評釈』は「物語りのすべてが、作られたものではなくて、事実を紫の上づきの女房が語り伝えたのであるという体裁をとっているため、このような言い方をしたのである」と注す。
【何ごともいと恥づかしげなめるあたりに】−以下、朱雀院の心中だが、その引用句がなく、地の文と融合したような表現。

 

第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋


 [第一段 源氏、朧月夜に今なお執心]
【今はとて】−朱雀院出家後、朧月夜尚侍、二条宮に移り住む。
【尚侍の君は、故后の宮のおはしましし二条の宮にぞ住みたまふ】−朧月夜尚侍は、姉の故弘徽殿大后の住んでいた二条宮邸に住む。
【かかるきほひには、慕ふやうに心あわたたしく】−朱雀院の詞。
【仏の御ことなどいそがせたまふ】−「せ」使役の助動詞。朱雀院が朧月夜尚侍に出家の準備をおさせになるの意。
【六条の大殿はあはれに飽かずのみ思して】−源氏、朧月夜尚侍に文を遣わす。
【いかならむ折に対面あらむ】−以下、「聞こえまほしく」まで、源氏の心中。だが、その引用句がなく、地の文と融合したような表現。
【かうのどやかになりたまひて】−『集成』は「このようにお暇ある身になられて。朱雀院の出家により、独り身になったことをいう」。『完訳』は「こうして平穏に落ち着いてお暮しになる身となられ」「院出家後の朧月夜の独身生活。以下、彼女の自由な暮しぶりを想像する源氏は、再会をと念ずる」と注す。
【世の中を思ひしづまりたまふらむころほひの御ありさま】−『集成』は「世の中の移り変りを静かに考えていられるであろうこの頃の様子が」。『完訳』は「浮世の情けにお気持を乱されることなさそうなこのごろのご様子が」と訳す。
【昔の中納言の君のもとにも】−朧月夜尚侍付きの女房。「賢木」「須磨」に登場。

 [第二段 和泉前司に手引きを依頼]
【かの人の兄なる和泉の前の守を召し寄せて】−中納言の君の兄の前和泉守。女房及びその兄弟が登場して活躍するあたり、源氏物語第二部の特徴。またこのあたり、柏木が小侍従をくどき落とす手口と類似。
【人伝てならで】−以下「うしろやすくなむ」まで、源氏の詞。「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君に語らむ」(後撰集恋五、九六一、藤原敦忠)を踏まえる。
【今はさやうのありきも所狭き身のほどに】−准太上天皇という地位。
【かたみにうしろやすくなむ】−『完訳』は「互いに安心。裏に無事遂行してくれれば、あなたの国司就任を斡旋しよう、の意が含まれるか」と注す。
【いでや世の中を】−以下「恥づかしかるべけれ」まで、朧月夜尚侍の心中。
【あはれに悲しき御ことをさし置きて】−朱雀院の出家をさす。
【心の問はむこそいと恥づかしかるべけれ】−「無き名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかが答へむ」(後撰集恋三、七二五、読人しらず)を踏まえる。

 [第三段 紫の上に虚偽を言って出かける]
【いにしへわりなかりし世にだに】−以下「取り返したまふべきにや」まで、源氏の心中。
【わりなかりし世にだに】−『集成』は「無理な逢瀬に苦労した時でさえ」と訳す。
【立ちにしわが名今さらに取り返したまふべきにや】−「むら鳥の立ちにし我が名今さらに事なしぶともしるしあらめや」(古今集恋三、六七四、読人しらず)。「取り返したまふべきにや」の主語は朧月夜尚侍。「にや」反語表現。
【この信太の森を】−「和泉なる信太の森の葛の葉の千枝に分かれて物をこそ思へ」(古今六帖二、一〇四九)。「信太の森」は和泉の国の歌枕。和泉前司を道案内にの意。
【女君には】−紫の上をいう。
【東の院にものする】−以下「人にもかくとも知らせじ」まで、源氏の詞。嘘言である。
【例はさしも見えたまはぬあたりをあやし】−紫の上の心中。「あたり」は常陸宮姫君すなわち末摘花をさす。
【思ひ合はせたまふこともあれど】−紫の上、源氏と朧月夜の文通を聞き知っている。
【姫宮の御事の後は何事もいと過ぎぬる方のやうにはあらずすこし隔つる心添ひて】−紫の上の変化。夫婦に仲に亀裂が入った。源氏はそれに無頓着。

 [第四段 源氏、朧月夜を訪問]
【その日は寝殿へも渡りたまはで】−源氏、朧月夜訪問、再会。
【あやしくいかやうに聞こえたるにか】−朧月夜尚侍の心中。「聞こえ」の主語は和泉守。
【をかしやかにて】−以下「いと便なうはべらむ」まで、女房の詞。『集成』は「色めいたおあしらいでお帰し申すのは」。『完訳』は「もったいをつけてお帰し申しあげるのでは」と訳す。
【ただここもとに】−以下「残らずなりにけるを」まで、源氏の詞。
【あるまじき心などは】−『集成』は「不埒な考えなどは」。『完訳』は「不都合な心などは」と訳す。
【さればよなほ気近さは】−源氏の心中。『完訳』は「朧月夜のため息まじりの挙措が、源氏には媚態とも映る」「朧月夜の靡きやすさを昔に変らぬと、情をそそられる一方では、冷静に非難もする」と注す。
【かたみにおぼろけならぬ御みじろきなれば】−『完訳』は「よく知り合った同士が、その身動きの気配から相手の姿態を想像し、互いに情をそそられる」と注す。
【東の対なりけり】−昔、藤の花の宴が行われた所。「花宴」(第一章五段)。
【いと若やかなる心地もするかな】−以下「いみじうつらくこそ」まで、源氏の詞。
【年月の積もりをも紛れなく数へらるる心ならひに】−『完訳』は「逢わずに過した年月を正確に数えうる。自らの恋の証をいう」と注す。

 [第五段 朧月夜と一夜を過ごす]
【玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々など】−「春の池の玉藻に遊ぶ鳰鳥の足のいとなき恋もするかな」(後撰集春中、七二、宮道高風)を踏まえる。庭の鴛鴦の声が源氏の恋情をいっそうそそる。
【さも移りゆく世かな】−源氏の心中。右大臣家の推移。右大臣、弘徽殿大后在世中の権勢を誇っていた時代と比較した感想。
【平中がまねならねど】−平中の空泣き。「末摘花」(第二章一段)にも出る。
【年月をなかに隔てて逢坂のさも塞きがたく落つる涙か】−源氏から朧月夜への贈歌。「逢坂」と「逢ふ」、「関」と「塞」の掛詞。「逢坂」と「関」は縁語。
【女】−朧月夜の君。恋の場面における呼称。
【涙のみ塞きとめがたきに清水にてゆき逢ふ道ははやく絶えにき】−朧月夜から源氏への返歌。「塞き」「がたし」「逢ふ」の語句を受け、「涙」を「清水」に、「隔つ」を「絶ゆ」とずらして「道は早く絶えにき」と返す。「逢ふ道」と「近江路」の掛詞。「関」「清水」は「逢坂」の縁語。『完訳』は「源氏の歌を切り返しながらも同じ歌語を多用して共感をも表現」と注す。
【誰れにより】−以下「世の騒ぎぞは」まで、朧月夜の心中。係助詞「は」反語の意。みな自分のせいで起こったことだ、の意。
【げに今一たびの】−以下「すべかりけり」まで、朧月夜の心中。
【昔おぼえたる御対面に】−源氏と朧月夜の逢瀬。昔の同場面を回想。
【なほらうらうじく若うなつかしくて】−『集成』は「昔に変らず洗練された物腰で、若々しく愛敬があって」。『完訳』は「今もやはり行き届いて隙もなく、若々しく、やさしさがこもっていて」と訳す。
【世のつつましさをもあはれをも】−世間への遠慮と源氏への思慕。

 [第六段 源氏、和歌を詠み交して出る]
【朝ぼらけのただならぬ空に】−『完訳』は「後朝の別れの時としては、やや遅い」と注す。
【百千鳥の声もいとうららかなり】−「百千鳥」は歌語。「百千鳥さへずる春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく」(古今集春上、二八、読人しらず)。
【昔、藤の宴したまひし、このころのことなりけりかし】−源氏の心中。源氏、現在四十歳、藤の花の宴は源氏二十歳の時(「花宴」)、二十年前の出来事。
【立ち返りたまひて】−源氏は先に簀子に出ていて、後に中納言の君が妻戸を押し開けて送りに出てきた。そこへ立ち戻っての意。「夕顔」(第三章一段)の源氏が六条御息所邸からの帰り際に中将のおもとが送りに出る場面に類似。
【この藤よいかに染めけむ色にか】−以下「立ち離るべき」まで、源氏の詞。朧月夜のもとを立ち去りがたい気持ちを述べる。
【山際よりさし出づる日の】−この「山際」は築山のわき。『完訳』は「以下、中納言の目と心にそいながら、源氏の華麗な姿態を描く」と注す。
【めづらしくほど経ても見たてまつるは】−中納言の君とは十五、六年ぶりに対面。
【さる方にても】−以下「御名さへ響きてやみにしよ」まで、中納言の君の心中。「さる方」は源氏との結婚を仮想。
【御宮仕へにも限りありて際ことに離れたまふこともなかりしを】−朱雀帝の後宮で尚侍としての宮仕えに終わり、立后することがなかったことをいう。
【名残多く残りぬらむ御物語】−以下、語り手の想像を交えた表現。推量の助動詞「らむ」視界外推量、副詞「げに」同意、希望の助動詞「まほし」、「わざなめるを」をの推量の助動詞「めり」主観的推量、等のニュアンスはいずれも語り手の同意。『一葉抄』は「双紙の地也」と指摘。『集成』は「尽きぬ思いがたくさん残っているに違いないお二人の語らいの締めくくりとしては、本当にもっとあとを続けさせたいものだが」。『完訳』は「名残も尽きなかったにちがいないお二人の語らいの最後まで、いかにも残りを続けさせてあげたいものではあるけれども」と訳す。
【心あわたたしくて】−この語句を受ける語がないのだが、連用中止で余意を残し、文の途中で主語が入れ替わっていると解せば、読点でよい。
【廊の戸に御車さし寄せたる人びとも】−中門廊の妻戸口。
【忍びて声づくりきこゆ】−源氏の注意を喚起するための咳払い。
【沈みしも忘れぬものをこりずまに身も投げつべき宿の藤波】−源氏から朧月夜への贈歌。「こりずま」と「須磨」、「藤」と「淵」の掛詞。朧月夜を藤の花に喩える。『集成』は「こりずまにまたも無き名は立ちぬべし人憎からぬ世にし住まへば」(古今集恋三、六三一、読人しらず)「恋しさに身を投げつべし慰むることに従ふ心ならねば」(興風集)を指摘。『完訳』は「あなたゆえに流離の逆境に沈んだのに、性懲りもなくまた、淵ならざるこの邸の藤に身を投げたい。朧月夜への執着」と注す。
【心苦しう見たてまつる】−主語は中納言の君。
【花の蔭はなほなつかしくて】−「今日のみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花の蔭かは」(古今集春下、一三四、躬恒)。「花の蔭」は源氏を喩える。
【身を投げむ淵もまことの淵ならでかけじやさらにこりずまの波】−朧月夜の返歌。「身を投ぐ」「こりずま」「藤」「波」の語句を受けて、「真の淵ならでかけじやさらに」と切り返す。「淵」と「藤」の掛詞、「藤」と「波」は縁語。『完訳』は「本当の淵でもない藤波の淵に袖を濡らすまい、と切り返す一方で、源氏の歌の語を多用して共感をもかたどる」と注す。
【御振る舞ひを心ながらも】−主語は源氏。
【関守の固からぬたゆみに】−「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」(古今集恋三、六三二、在原業平・伊勢物語、五段)。
【そのかみも、人よりこよなく】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。語り手の評言。
【いかでかはあはれも少なからむ】−「いかでか」「少なからむ」反語表現。どうして思いの浅いことがあろうか、けっして浅くはない、の意。

 [第七段 源氏、自邸に帰る]
【いみじく忍び入りたまへる御寝くたれの】−源氏、六条院に帰邸、紫の上のもとに戻る。
【さばかりならむ】−紫の上の心中。たぶん、女の所へ行っていたのだろう、という推測。
【心苦しく】−源氏が紫の上を見た気持ち。
【などかくしも見放ちたまへらむ】−源氏の心中。『完訳』は「どうしてこうまで自分のことを見限っておしまいなのだろう」と訳す。
【ありしよりけに】−「忘るらむと思ふ心の疑ひにありしよりけにものぞ悲しき」(伊勢物語、五十六段)。
【物越しにはつかなりつる対面なむ】−以下「今一たびも」まで、源氏の詞。「なむ」の下に、逢いたいの意をこめる。
【語らひきこえたまふ】−『集成』は「うち割ってお話し申される」と訳す。
【今めかしくも】−以下「中空なる身のため苦しく」まで、紫の上の返事。
【昔を今に改め加へたまふほど】−『完訳』は「昔の恋の縒りをお戻しになり、新たにお加えになるというのも」「新しく正妻を迎え、さらに過往の人との恋を再燃させること」と注す。「いにしへのしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」(伊勢物語、三十二段)。
【らうたげに見ゆるに】−『集成』は「かわいらしく思われるので」。『完訳』は「おいたわしく思われるので」と訳す。
【かう心安からぬ御けしきこそ】−以下「御心なれ」まで、源氏の詞。
【え残したまはずなりぬめり】−推量の助動詞「めり」主観的推量は語り手の推測。
【こしらへきこえつつおはします】−紫の上をお慰め申していらっしゃる、の意。
【安からず聞こえける】−『集成』は「(源氏のおわたりがないのを)不平がましくお噂申し上げた」と訳す。
【おいらかにうつくしきもて遊びぐさに思ひきこえたまへり】−『完訳』は「今はただおっとりして、かわいらしいお遊び相手のようにお思い申し上げていらっしゃる」と訳す。

 

第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感


 [第一段 明石姫君、懐妊して退出]
【桐壷の御方は】−明石女御。源氏の母、桐壺更衣と同じ殿舎を局とした。ただし、東宮は淑景舎(桐壺)の隣の梨壷にいたので、最も近い殿舎である。
【うちはへえまかでたまはず】−昨年の夏四月に入内。以来、ずっと里下がりできないでいた。
【夏ごろ、悩ましくしたまふを】−夏ころ、明石女御、懐妊の兆候が現れる。季節と物語の類同的発想。
【めづらしきさまの御心地にぞありける】−懐妊のことをいう。
【まだいとあえかなる御ほどに】−明石の女御、数え年十二歳。
【誰れも誰れも思すらむかし】−東宮や源氏などをさす。
【姫宮のおはします御殿の東面に御方はしつらひたり】−六条院の春の御殿の寝殿の西面には女三の宮が住み、東面に明石女御の部屋が用意されている。

 [第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る]
【対の上こなたに渡りて】−紫の上、寝殿の東面に来ている明石女御に対面する折に、西面の女三の宮にも対面し挨拶することを、源氏に申し出る。
【姫宮にも中の戸開けて】−以下「心安くなむあるべき」まで、紫の上の詞。「中の戸」は寝殿を東西に仕切る襖障子。「野分」巻には「内の御障子」とあった。
【聞こえ馴れなば】−『集成』は「お親しくして頂けましたら」。『完訳』は「お近づき願えましたら」と訳す。
【思ふやうなるべき御語らひにこそは】−以下「教へなしたまへかし」まで、源氏の返事。紫の上の申し出を結構なことだと許し、女三の宮の後見、教育を依頼する。
【たぐひあらじと見えたまへり】−語り手がその場に居て見ていたような臨場感ある表現。
【夕方かの対に】−以下「つきなからずなむ」まで、源氏の女三の宮に対する詞。
【恥づかしうこそはあらめ何ごとをか聞こえむ】−女三の宮の詞。自分の気持ちと何を話したらよいか、源氏に尋ねる。『集成』は「気の張ることでしょうね。どんなことをお話し申しましょう」。『完訳』は「さぞきまりのわるうございましょう。どんなことを申しあげたものでしょう」と訳す。
【人のいらへは】−以下「なもてなしたまひそ」まで、源氏の返事。
【御仲うるはしくて過ぐしたまへ】−源氏の心中。『集成』は「お二人が仲良く、義理をわきまえてお暮しなさるように」。『完訳』は「「うるはし」は妻妾間のきちんとした秩序」「お二人が仲よくお暮しになってほしい」また「以下、語り手の説明的な文章」と注す。
【あまりに何心もなき御ありさまを】−以下、源氏の心中を間接的に地の文に織り込んで語る。

 [第三段 紫の上の手習い歌]
【我より上の人やはあるべき。身のほどなるものはかなきさまを、見えおきたてまつりたる ばかりこそあらめ】−紫の上の心中。『集成』は「六条の院における源氏の寵愛第一の人としての自負」。『完訳』は「紫の上の自ら宮に挨拶に出向く屈辱感が、かえって源氏最愛の女という自負心を強める」「家同士の正式な結婚の手続きを踏んでいないための負い目など、あえて捨象しようとする」と注す。
【見えおきたてまつりたるばかりこそあらめ】−『集成』は「知られ申していただけのことなのだ」。『完訳』は「お世話いただいたということだけのことなのに」と訳す。
【おのづから古言も、もの思はしき筋にのみ】−『完訳』は「自ら憂愁の身と意識すまいとしながらも、古歌の表現におのずとそれを意識させられる」と注す。
【さらばわが身には思ふことありけり】−紫の上の心中。手習いによって我が身と心のありようが認識させられる。
【うつくしうもおはするかな】−源氏の感想。女三の宮、十四、五歳。明石女御、十二歳。
【御目うつしには】−明石女御、女三の宮を見た目で紫の上を見ると、の意。
【ありがたきことなりかし】−『湖月抄』は「草子地也」と指摘。『全集』は「語り手が読者に共感を求める語り方」と注す。
【あるべき限り気高う】−以下「常に目馴れぬさましたまへる」まで、源氏の目を通して紫の上の美質を語る。
【めでたき盛りに見えたまふ】−紫の上、三十二歳。
【去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへる】−「去年」「今年」、「昨日」「今日」、「まさる」「めづらし」という対句表現。「常に目馴れぬさましたまへる」という紫の上の身と心の美質のありよう。
【いかでかくしもありけむ】−源氏の紫の上に対する感想。
【身に近く秋や来ぬらむ見るままに青葉の山も移ろひにけり】−紫の上の手習い歌、独詠歌。「白露はうつしなりけり水鳥の青葉の山の色づくみれば」(古今六帖二、山、九二一、三原王)「紅葉する秋は来にけり水鳥の青葉の山の色づく見れば」(古今六帖三、水鳥、一四六八)。「秋」に「飽き」を懸ける。わたしは飽られたのでようか、の意。
【水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれ】−源氏の返歌。「秋萩の下葉色づく今よりやひとりある人の寝ねかてにする」(古今集秋上、二二〇、読人しらず)「白露は上より置くをいかなれば萩の下葉のまづもみづらむ」(拾遺集雑下、五一三、参議伊衡)。「水鳥の青羽」は源氏、「萩」は紫の上を喩える。「下葉」と内心の意を懸ける。引歌の「水鳥の青葉」を踏まえて冒頭に詠み込む。わたしは少しも変わっていないのに、あなたの方こそ変です、の意。
【書き添へつつすさびたまふ】−『集成』は「手習に興じなさる」。『完訳』は「手習に思いを委ねておいでになる」と訳す。
【ありがたくあはれに思さる】−主語は源氏。「る」自発の助動詞。
【かの忍び所にいとわりなくて出でたまひにけり】−朧月夜のもとへ行く。
【いとあるまじきことといみじく思し返すにもかなはざりけり】−このあたり自制心では抑えきれない源氏の好色心、朧月夜への執心が語られている。『集成』は「いかにも不届きなことと、何度も反省なさるのだがどうすることもできないのであった」。『完訳』は「まことに不都合なふるまいと、きびしくご自制になるものの、それをどうすることもできないのであった」と訳す。

 [第四段 紫の上、女三の宮と対面]
【春宮の御方は実の母君よりもこの御方をば】−明石の姫君は実の母親よりも養母の紫の上を慕っているという。
【いと幼げにのみ見えたまへば】−明石女御と比較した目で見る。
【昔の御筋をも尋ねきこえたまふ】−祖先の血縁関係を話題にする。同祖父の先帝から出た従姉妹同士であること言い、親密感を抱かせる。
【同じかざしを尋ねきこゆれば】−以下「うれしかるべき」まで、紫の上の詞。「わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしこそはせめ」(後撰集恋四、八〇九、伊勢)。
【今よりは疎からずあなたなどにもものしたまひて】−東の対の方にいらっしゃって、の意。中納言の乳母に対する勧誘の詞。
【頼もしき御蔭どもに】−以下「頼みきこえさせたまひし」まで、中納言の乳母の返事。
【背きたまひにし】−朱雀院の出家をさいう。なお、中納言の乳母の言葉遣は、院に対して最高敬語ではなく、普通の敬語表現である。
【ただかくなむ御心隔てきこえたまはず】−主語は紫の上。以下の「はぐくみたてまつらせたまふべくぞ」も同じ。
【頼みきこえさせたまひし】−朱雀院が紫の上に。「きこえさす」は紫の上を敬った最高敬語。
【いとかたじけなかりし】−以下「口惜しかりける」まで、紫の上の詞。謙遜の意を表す。
【げにいと若く心よげなる人かな】−女三の宮の心中。「げに」は源氏の前の言葉に納得する気持ち。

 [第五段 世間の噂、静まる]
【対の上いかに思すらむ】−以下「劣りなむかし」まで、人々の噂。

 

第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う


 [第一段 紫の上、薬師仏供養]
【神無月に対の上院の御賀に】−神無月に紫の上が源氏の四十賀を祝って嵯峨野の御堂で薬師仏供養を催す。
【紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて見物なるに】−下文の「霜枯れわたれる野原のままに馬車の行きちがふ音しげく響きたり」とともに、神無月の嵯峨野の風景描写。
【かたへは、きほひ集りたまふなるべし】−「なる」「べし」の断定の助動詞と推量の助動詞は、語り手の言辞。
【御方々】−六条院の御方々。

 [第二段 精進落としの宴]
【二十三日を御としみの日にて】−十月二十三日を精進落しの日としての意。
【机十二立てて】−十二か月分という意味。
【泉水潭など】−『集成』は「泉水・壇」の漢字を宛て「庭園に設けた泉であろう。泉水の周囲を石などで固めたもの。唐絵であろう」。『完訳』は「山水・潭」の漢字を宛て「「山水」は庭園の泉。「潭」は石などで固めた泉水の周囲の意か」と注す。

 [第三段 舞楽を演奏す]
【万歳楽皇じやうなど舞ひて】−「万歳楽」は唐楽(左舞)の曲名。平調。四人舞。即位礼などの祝宴に舞う。「皇じやう」も唐楽(左舞)の曲名。平調。
【高麗の乱声して】−高麗楽(右舞)が始まる前に演奏される笛と太鼓による「乱声」。
【落蹲舞ひ出でたる】−高麗楽(右舞)の曲名。高麗壱越調。
【権中納言衛門督】−夕霧と柏木。
【入綾をほのかに舞ひて】−舞が終って退場する前に、改めて正面に向いて、再び舞い納める。
【いにしへの朱雀院の行幸に青海波のいみじかりし夕べ】−「紅葉賀」に語られている。「藤裏葉」でも回想されている。
【権中納言衛門督】−以下「進みてさへこそ」まで、人々の噂だが、地の文と融合している。
【なほさるべきにて】−以下「御仲らひなりけり」まで、人々の噂。

 [第四段 宴の後の寂寥]
【千歳をかねて遊ぶ鶴の毛衣に】−催馬楽「席田(むしろだ)の 席田の 伊津貫川に や 住む鶴の 住む鶴の や 住む鶴の 千歳をかねてぞ 遊びあへる 千歳をかねてぞ 遊びあへる」(席田)の文句による表現。
【故入道の宮おはせましかば】−以下「見えたてまつりけむ」まで、源氏の心中。藤壷は三十七歳で薨去。「ましかば--まし」の反実仮想の構文。
【何ごとにつけてかは心ざしも見えたてまつりけむ】−『集成』は、疑問文で「一体何によってお尽ししたいと思う気持も分って頂けたことだろう」。『完訳』は、反語文で「この自分の深い気持を何一つごらんいただいたことがあったであろうか、まったくそうした機会もなかった」と訳す。
【世の中のわづらひならむことさらにせさせたまふまじくなむ】−源氏の詞。帝の行幸を辞退。

 [第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷]
【師走の二十日余りのほど】−十二月二十日過ぎ、中宮が源氏の四十賀を催す。
【奈良の京の七大寺に】−東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺。
【何ごとにつけてか】−反語表現。この機会を逃したら他にない。
【父宮母御息所のおはせまし御ための】−父故前坊と母六条御息所。「まし」反実仮想の助動詞。『完訳』は「父宮と母御息所がもしご存命であったならこうもしてさしあげたであろう報恩の」と訳す。
【四十の賀といふことは】−以下「数へさせたまへ」まで、源氏の四十の賀を盛大に祝うことを辞退する詞。
【残りの齢久しき例なむ少なかりけるを】−『河海抄』は仁明天皇四十一、村上天皇四十二、東三条院四十にて崩御の例を挙げる。
【まことに後に足らむことを数へさせたまへ】−『集成』は「将来、本当に五十、六十になった時お祝い下さい」。『完訳』は「本当にこの後、余生を全うすることができたようなときに祝ってくださいまし」と訳す。

 [第六段 中宮主催の饗宴]
【さきざきにこと変はらず】−玉鬘や紫の上が主催した四十の賀と比較しての意。
【古き世の一の物と名ある限りは】−『集成』は「以下、草子地」。『完訳』は「語り手の評」と注す。
【御賀になむあめる】−推量の助動詞「めり」主観的推量は、語り手の言辞。下文にも「続けためれど」とある。
【昔物語にも】−『宇津保物語』など。『細流抄』は「草子地也」と指摘。
【こちたき御仲らひのことどもは】−『集成』は「こちらは(源氏の御賀の場合は)とても大変で、ご立派な方々のご贈答の数々は」。『完訳』は「この仰々しいご交際のことは」と訳す。
【えぞ数へあへはべらぬや】−「はべり」丁寧の補助動詞、語り手の文章中に使用。

 [第七段 勅命による夕霧の饗宴]
【内裏には】−冷泉帝、夕霧に命じて源氏の四十賀を祝う。
【右大将病して辞したまひけるを】−系図不詳の人。病気により職を退いたのでの意。
【にはかになさせたまひつ】−急に夕霧を右大将の後任にご任命あそばした。
【いとかくにはかに】−以下「心地しはべる」まで、源氏の詞。感謝の気持ちを述べる。
【隠ろへたるやうにしなしたまへれど】−『集成』は「目立たぬ所をお選びなさったのだけれども」。『完訳』は「内輪の御賀のようになさったのだったが」と訳す。
【所々の饗なども】−『集成』は「六条の院の、院庁の諸役所への饗応」。『完訳』は「花散里の居所以外でも饗応」と注す。
【内蔵寮穀倉院より仕うまつらせたまへり】−「内蔵寮」は宮中の宝物や献上品を収蔵管理する役所。「穀倉院」は畿内諸国から徴収した米餞を収納する役所。勅命による賀宴ゆえにこれらの物品を用いる。
【頭中将宣旨うけたまはりて】−朝廷の饗宴の場合と同様に頭中将が勅命によって行った。この頭中将は、系図不詳の人。述語は省略されている。
【いときよらにものものしく太りて、この大臣ぞ、今盛りの宿徳とは見えたまへる】−太政大臣の風采。『集成』は「美々しく堂々と太っていられて」「重々しく威厳のある人」。『完訳』は「まことに美々しく堂々とふとっていて、この大臣こそ今が盛りの威厳望を誇るお方とお見受けされる」と訳す。
【おろかならむやは】−語り手の驚嘆の辞。
【御馬四十疋】−帝から御下賜された馬。

 [第八段 舞楽を演奏す]
【けしきばかり舞ひて】−『完訳』は「ご祝儀としてほんの形ばかりに舞い」と訳す。
【いと二なし】−『完訳』は「まったく太刀打ちできるお方はいらっしゃらない」と訳す。
【年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや】−『集成』は「長年、太政大臣の和琴を何度も聞いてこられたことを思って聞かれるせいか」と訳す。
【今はたかかる御仲らひに】−昔は従兄弟どうし、今は子供たち夕霧と雲居雁の舅どうしという関係。
【御贈り物に】−源氏から太政大臣への贈り物。
【御車に追ひてたてまつれたまふ】−『集成』は「贈り物の通例の作法である」と注す。
【御心と削ぎたまひて】−源氏の御意向から簡略になさっての意。
【一院】−朱雀院。『完訳』は「准太上天皇の源氏(新院)と区別するための呼称」と注す。
【なほかかる折にはめでたくなむおぼえける】−『集成』は「草子地」と注す。

 [第九段 饗宴の後の感懐]
【かの母北の方の】−葵の上をさす。
【行く末見えたるなむさまざまなりける】−『全集』は「語り手の感慨」と指摘。『集成』は「それぞれのお子たちの身の上なのだ。車争いに恨みをのんだ御息所の娘は中宮になり、夕霧はただの臣下である」と注す。
【その日の御装束どもなどこなたの上なむしたまひける】−当日の源氏の装束を花散里が準備。
【三条の北の方】−雲居雁をいう。「北の方」という呼称。
【いそぎたまふめりし】−推量の助動詞「めり」主観的推量、過去の助動詞「き」体験的過去等のニュアンスは、語り手の言辞。
【こなたには】−花散里方をいう。
【何事につけてかは】−以下「まじらひたまはまし」まで、花散里の心中と地の文が融合した叙述。語り手の花散里に対する敬語「たまふ」が混入する。助動詞「まし」反実仮想。

 

第十章 明石の物語 男御子誕生


 [第一段 明石女御、産期近づく]
【年返りぬ】−源氏四十一歳、紫の上三十三歳、女三の宮十五六歳、明石女御十三歳、柏木二十五六歳、夕霧二十歳。
【桐壷の御方近づきたまひぬるにより】−明石女御の出産が迫る。
【正月朔日より】−正月の上旬、初めころからの意。
【御修法不断にせさせたまふ】−『集成』は「真言密教の祈祷。安産祈願のためである」と注す。
【ゆゆしきことを見たまへてしかば】−葵の上が夕霧を出産して亡くなった例をさす。
【まだいとあえかなる御ほどに】−明石女御、十三歳。
【御心ども騒ぐべし】−『集成』は「草子地」と注す。
【所を変へてつつしみたまふべく】−陰陽師の詞を間接話法で語る。明石女御のいる場所を変えての意。
【かの明石の御町の中の対に】−六条院内の明石御方の町の中の対。第二番目の対。
【こなたはただおほきなる対二つ廊どもなむめぐりてありけるに】−明石の町は、普通の寝殿を中央に左右対の屋を配置する造りとは違って、大きな対の屋が二棟あり、それを渡廊で囲んでいる造りである。
【母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば】−『完訳』は「この出産で、わが運勢も証されるとする。女御の出産が無事か否か、また男子か女子か。明石一門が皇統と繋って繁栄するか否か」と注す。

 [第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る]
【かの大尼君も今はこよなきほけ人にてぞありけむかし】−『集成』は「今はすっかり老い呆けた人になってしまっていたことだろう。草子地」、句点で文を切る。『完訳』は「あの大尼君も、今はもうすっかり老いほうけた人になっていたのだろうか」「語り手の推測。大堰転居のころは思慮深い人だった。今は六十歳半ばの老耄の人」、読点で下文に掛けて読む。
【この御ありさまを見たてまつるは夢の心地して】−孫の明石姫君と別れて十年ぶりの再会である。「薄雲」巻に明石姫君三歳で二条院に引き取られた。
【年ごろ】−『完訳』は「長い間」「明石の君が女御に付き添うのは前年四月の女御入内以降。「年ごろ」はやや不審」と注す。昨年今年と二年にわたるので、「年ごろ」というのだろう。
【あやしくむつかしき人かな】−明石女御の感想。
【今はとて】−以下「いみじくかなしきこと」まで、尼君の詞。『集成』は「このあたりから、地の文より自然に会話の体に移っていく」と注す。
【げにあはれなりける昔のことを】−以下「過ぎぬべかりけり」まで、明石女御の心中。「げに」は尼君の言葉に納得する気持ち。『完訳』は「なるほどそういうことだったのかと、なんともいたわしく思われる当時のことを」と訳す。
【わが身はげにうけばりて】−以下「言ひ出づるやうもやありつらむかし」まで、明石女御の心中。
【いとあまりおほどきたまへるけにこそはあやしくおぼおぼしかりけることなりや】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「(それも)女御が、あまりおっとりしていらっしゃるせいだろう。変に頼りない話ですこと。草子地」。『完訳』は「おっとりしすぎておられるせいだろう、妙に頼りない話ではある。語り手の評言で、読者の非難を先取りし、逆に女御を擁護」と注す。

 [第三段 明石御方、母尼君をたしなめる]
【日中の御加持に】−『完訳』は「以下「さぶらひたまふ」まで挿入句。女御と尼君の直接対面する場面を説明したもの」。
【あな見苦しや】−以下「いと盛り過ぎたまへりや」まで、明石御方の詞。
【医師などやうのさまして】−医師は貴人の御帳台の中にまで入れる。尼君が女御の側にいることを揶揄。
【いと盛り過ぎたまへりや】−『集成』は「ほんに盛りを過ぎていらっしゃる。老耄をやわらかくたしなめて言う」と注す。
【さるはいとさ言ふばかりにもあらずかし】−『休聞抄』は「双也」と指摘。『全集』は「草子地。滑稽な人物描写に続いて、逆に一言弁護に似たことばをはさむことは、この物語に他にも見える」と注す。
【古代のひが言どもや】−以下「夢の心地こそしはべれ」まで、明石御方の詞。
【うちほほ笑みて】−苦笑して、の意。
【わが子ともおぼえたまはずかたじけなきに】−自分が産んだ子ともお見えにならぬほどで。気高いさま。
【いとほしきことどもを】−以下「心劣りしたまふらむ」まで、明石御方の心中。立后の暁に素姓を明かそうと思っていた。
【今はかばかりと御位を極めたまはむ世に】−立后をさしていう。
【口惜しく思し捨つべきにはあらねど】−『集成』は「(実情をお知りになったからといって)むざむざと自信をおなくしになるほどのことでないが」と訳す。

 [第四段 明石女三代の和歌唱和]
【こればかりをだに】−明石御方の詞。果物をすすめる。
【見たてまつるままに】−『集成』は「拝するともうそれだけで」。『完訳』は「お思い申しあげるにつけても」と訳す。
【あなかたはらいた】−明石御方の心中。
【老の波かひある浦に立ち出でてしほたるる海人を誰れかとがめむ】−尼君の和歌。「貝」と「効」、「尼」と「海人」の掛詞。「波」「貝」「浦」「潮垂る」は「海人」の縁語。
【昔の世にも】−以下「罪許されてなむはべりけり」まで、和歌に続けた尼君の詞。『完訳』は「おきなさび人なとがめそかり衣今日ばかりぞと鶴も鳴くなる(伊勢物語百十四段)によるか」と注す。
【御硯なる紙に】−女御の硯箱の中にある紙にの意。敬語「御」があるので、女御の所有という意。「硯」は「硯箱」、「なる」は存在の意。
【しほたるる海人を波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を】−女御の歌。「しほたるる」「海人」「波」の語句を受けて、「訪ねて見ばや」と唱和する。
【世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇ははるけしもせじ】−明石御方の歌。父明石入道を思いやる。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ路に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を踏まえる。
【別れけむ暁の】−過去推量の助動詞「けむ」伝聞のニュアンス、主語が明石女御ゆえである。

 [第五段 三月十日過ぎに男御子誕生]
【弥生の十余日のほどに平らかに生まれたまひぬ】−明石女御、三月十日過ぎに無事男御子を出産。
【こなたは隠れの方にて】−六条院の明石の町。『完訳』は「人目につかぬ裏側の御殿で」と訳す。
【げにかひある浦と尼君のためには見えたれど】−「げに」は語り手の納得する気持ちの表出。「かひ(貝・効)ある浦」は尼君の和歌中の言葉。
【儀式なきやうなれば】−『集成』は「(こんな所では)威儀も整わないようなので。表立たず、手狭だから」と注す。
【渡りたまひなむとす】−元の御殿の東南の町の寝殿へ。
【対の上も渡りたまへり】−紫の上も産屋にいらっしゃっていた、の意。
【まことの祖母君はただ任せたてまつりて御湯殿の扱ひなどを】−明石御方はお湯殿の世話をする。産湯をつかわせる儀式。朝夕七日間行う。
【春宮の宣旨なる典侍ぞ仕うまつる】−『完訳』は「産湯を使わせる主役は東宮の宣旨(女房。立太子の宣旨の取次による命名)。その介添である「迎湯」をつとめるのが明石の君。女房格に卑下する点に注意」と注す。
【すこしかたほならば】−以下「ものしたまひける人かな」まで、典侍の心中。
【いとほしからましを】−「まし」反実仮想の助動詞。「を」接続助詞、逆接の意。
【このほどの儀式なども】−以下、語り手の言辞。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「省筆をことわる草子地」。『完訳』は「語り手の、産養の盛大さを読者の想像にゆだねようとする言辞」と注す。

 [第六段 帝の七夜の産養]
【七日の夜内裏よりも御産養のことあり】−七夜の日、帝主催の産養の儀式が行われる。
【御代はりにや】−「にや」連語、語り手の推測の言辞を挿入。
【うちうちのなまめかしくこまかなるみやびにまねび伝ふべき節は目も止まらずなりにけり】−『一葉抄』は「記者詞なり」と指摘。『集成』は「お内輪同士の優雅で繊細な風雅の趣の、詳しくお伝えすべき点は、目も引かれずに終ってしまった。贈り物や歌のやりとりである。語り手の言葉をそのまま伝える草子地」。『完訳』は「以下、語り手の、目もとまらぬうちに終ったとする省筆の弁」と注す。
【大将のあまたまうけたなるを】−以下「えたてまつりたる」まで源氏の詞。夕霧が雲居雁と結婚したのは二年前の「藤裏葉」巻である。したがって、ここには藤典侍との間に産まれた子も含まれていよう。
【ことわりなりや】−語り手の言辞。

 [第七段 紫の上と明石御方の仲]
【さばかり許しなく思したりしかど】−紫の上が明石御方に対して嫉妬心を抱いた場面は、「澪標」「松風」「薄雲」「玉鬘」等に見られる。
【命もえ堪ふまじかめる】−『集成』は「せつない思いに、命も堪えられぬ様子である。今にも死にそうだと、滑稽化していう」。『完訳』は「命をちぢめかねぬばかりである」と訳す。「ぞ」--「める」係結びの構文。推量の助動詞「めり」主観的推量のニュアンスは語り手の推測。

 

第十一章 明石の物語 入道の手紙


 [第一段 明石入道、手紙を贈る]
【かの明石にも】−明石入道、女御に男御子誕生を聞き、入山を決意。
【今なむこの世の境を心やすく行き離るべき】−入道の詞。『完訳』は「思い残すこともなく、いつ死んでも悪道に堕ちるまい、の心境」と注す。
【あしこに籠もりなむ後また人には見え知らるべきにもあらず】−入道の心中。
【ただすこしのおぼつかなきこと残りければ】−後文に詳述される。
【今はさりとも】−入道の心中。もう大丈夫、安心だ、の意。
【これより下したまふ人ばかりにつけて】−『集成』は「こちら(京の方)から遣わされる使者にことづけるぐらいで」。『完訳』は「源氏が明石に派遣した使者」と注す。

 [第二段 入道の手紙]
【この年ごろは】−以下「夢語りする」まで、入道から御方への手紙文。
【何かはかくながら身を変へたるやうに思うたまへなしつつ】−『集成』は「何の何の生きながら別世界に生れ変ったように考えることにいたしましては」。『完訳』は「何の、そうもしておれまい、このままあの世に生れ変ったような気になっておりまして」と訳す。
【蓮の上の露の願ひ】−極楽往生の願いをいう。
【その年の二月のその夜の夢に】−『集成』は「実際には何年何月何日の夜と書いてあるのを省略した書き方」と注す。
【みづから須弥の山を】−以下「西の方をさして漕ぎゆく」まで、入道が見た夢の内容。「須弥山」は仏教の世界観で中心となる山。この世の中心を暗示。
【右の手に捧げたり】−『完訳』は「明石の君の誕生の予兆。女は右をつかさどる」と注す。
【山の左右より月日の光さやかにさし出でて世を照らす】−「日」は帝を、「月」は皇后を暗示。明石の君よりそれらの誕生を暗示する。
【山をば広き海に浮かべおきて】−東宮が即位して四海を治めることを暗示。
【小さき舟に乗りて西の方をさして漕ぎゆく】−入道自身のこと、極楽往生を暗示。
【何ごとにつけてか】−以下「待ち出でむ」まで、入道の心中。
【俗の方の書を】−仏典以外の書物、主に儒教の経典などをさす。
【内教の心を】−仏典、仏教の主旨。
【力及ばぬ身に】−『完訳』は「娘養育のための経済力の不足」と注す。
【かかる道に赴きはべりにし】−播磨国司となって下向したことをいう。
【この国のことに沈みはべりて、老の波にさらに立ち返らじと】−「沈む」「浪」「立ち返る」は縁語表現。
【その返り申し平らかに思ひのごと時にあひたまふ】−『集成』は「今やそのお礼参りも無事にできるように、望みどおり時節にお会いです」と訳す。
【この一つの思ひ】−『集成』は「夢にあった第一の願い。若君が国母になること。以下、その願いも叶ったと断定的にいう」と注す。
【はるかに西の方十万億の国隔てたる九品の上の望み疑ひなく】−阿彌陀経「是ヨリ西方、十万億ノ仏土を過ギテ、世界アリ、名ヅケテ極楽トイフ」。「九品の上の望み」は九階等の最高の上品上生の極楽往生をいう。
【光出でむ暁近くなりにけり今ぞ見し世の夢語りする】−入道の辞世歌。『完訳』は「「月日の光--」に照応し、若宮の即位、女御の立后も近づいたとする。弥勒出生の暁の光も思い合せた表現、とする説もある」と注す。
【とて、月日書きたり】−手紙の日付。

 [第三段 手紙の追伸]
【命終らむ月日も】−以下「疾くあひ見むとを思せ」まで、入道の追伸。
【何かやつれたまふ】−反語表現。喪服など着なくてよい、の意。
【わが身は変化のものと思しなして】−『集成』は「ただ自分を変化の身とお考えになって。「変化」は神仏が人の姿をかりて仮にこの世に姿を現したもの。人の子(明石の入道の娘)だと思わずに、の意」と注す。
【ことごとにも書かず】−『集成』は「別に改めても」。『完訳』は「そう詳しくも書かず」と訳す。
【この月の十四日になむ】−以下「対面はありなむ」まで、入道から尼君への手紙。『完訳』は「後に「三日」とあり、手紙の書かれたのは十二日。三月十余日の若宮誕生の報に接した入道は、即座に入山を決意し実行した」と注す。
【熊狼にも施しはべりなむ】−「身を捨てて山に入りにし我なれば熊のくらはむこともおぼえず」(拾遺集物名、三八二、読人知らず)。
【なほ思ひしやうなる御世を待ち出でたまへ】−『集成』は「続いて望みどおりの〔皇子の〕御代をお見届け下さい」。『完訳』は「やはり望みどおりの御世になるのをお見届けくだされ」と訳す。
【明らかなる所にて】−悟りの世界。極楽浄土をさす。

 [第四段 使者の話]
【この御文書きたまひて】−以下「人びとなむ多くはべる」まで、大徳の詞。
【残りはべりけり】−まだ悲しみが残っていた、の意。
【薪尽きける夜の惑ひ】−「法華経」序品の釈迦入滅のさまをいう。

 [第五段 明石御方、手紙を見る]
【御方は南の御殿におはするを】−明石御方、入道の手紙を見る。
【重々しく身をもてなして】−主語は御方。今は若宮の祖母としての重々しさをもって振る舞う。
【いといみじく悲しげなるけしきにてゐたまへり】−尼君の態度をいう。
【あひ見で過ぎ果てぬるにこそは】−明石御方の心中。父入道に再び会えないことになってしまった気持ち。
【さらばひが心にて】−以下「ものしたまふなりけり」まで、明石御方の心中。父の気持ちと行動を理解する。
【中ごろ思ひただよはれしことは】−『完訳』は「明石の君が源氏と別れて明石にいた時、また大堰で過した時」と注す。

 [第六段 尼君と御方の感懐]
【君の御徳には】−以下「かくて別れぬらむ」まで、尼君の詞。
【あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ】−光源氏の述懐と同じ発想の述懐をする。
【数ならぬ方にても】−夫入道についていう。
【同じ蓮に住むべき後の世の頼み】−『集成』は「極楽の往生人は、蓮華の上に半座をあけて、この世での有縁の人を待つという」と注す。
【にはかにかくおぼえぬ御こと出で来て】−源氏との結婚をさす。
【かひある御ことを見たてまつり】−明石女御に若宮が誕生したことをさす。
【おぼつかなく悲しきことのうち添ひて絶えぬを】−『集成』は「入道の身を案じて悲しい思いがつきまとって絶えませんでしたのに」。『完訳』は「入道のことが気がかりで悲しい思いがこの身に添うておりましたのに」と訳す。
【世に経し時だに】−『集成』は「宮仕えをしていた時でも」。『完訳』は「まだ俗人でいらっしゃったころでさえ」と訳す。
【かく耳に近きほどながら】−『完訳』は「たやすく音信を交すことのできる所に住みながら」と訳す。
【人にすぐれむ行く先のこともおぼえずや】−以下「かひなくなむ」まで、明石御方の詞。『完訳』は「人よりすぐれた将来の幸運などどうでもよい。若宮の即位、女御の立后も二の次だとする」と注す。
【数ならぬ身には何ごともけざやかにかひあるべきにもあらぬものから】−『集成』は「陰の身で、女御の母、皇子の祖母の扱いはされないことをいう」。『完訳』は「表だって女御の母、皇子の祖母と振舞わない」と注す。
【あはれなるありさまにおぼつかなくてやみなむのみこそ口惜しけれ】−父入道に対する肉親の情。
【世の中も定めなきに】−『集成』は「人の命ははかないものですから」。『完訳』は「世の中は定めがたいこととて」と訳す。

 [第七段 御方、部屋に戻る]
【昨日も大殿の君の】−以下「身をももてなしにくかるべき」まで、明石御方の詞。
【あなたにありと】−主語は明石御方。
【見置きたまひてしを、にはかにはひ隠れたらむも】−『完訳』は「人目を忍んでの尼君との面会」と注す。
【暁に帰り渡りたまひぬ】−明石御方、夜の暗いうちに春の御殿に帰った。
【若宮は】−以下「見たてまつるべき」まで、尼君の詞。『完訳』は「以下、帰参以前に遡り、あらためて二人の対話を語る」と注す。
【今見たてまつりたまひてむ】−以下「思すことにかあらむ」まで、明石御方の詞。
【世の中思ふやうならば】−若宮の立坊をいう。
【いでやさればこそ】−以下「宿世にこそはべれ」まで、尼君の詞。
【この文箱は持たせて参う上りたまひぬ】−「せ」使役の助動詞。明石御方が女房に文箱を持たせて、女御のもとに参上なさった、の意。

 

第十二章 明石の物語 一族の宿世


 [第一段 東宮からのお召しの催促]
【宮よりとく参りたまふべきよしのみあれば】−東宮から女御と若宮に参内の要請あり。
【かく思したる】−以下「思さるらむ」まで、紫の上の詞。
【めづらしきことさへ添ひて】−若宮の誕生をさす。
【御息所は】−明石女御をいう。御子を出産したので、こう呼称する。
【かくためらひがたくおはするほどつくろひたまひてこそは】−明石女御の詞。『集成』は「こんなにまだおやつれになったままなのですから」。『完訳』は「このように、まだ元どおりになっていらっしゃらないのですから」と訳す。
【かやうに面痩せて】−以下「あはれなるべきわざなり」まで、源氏の詞。

 [第二段 明石女御、手紙を見る]
【対の上などの渡りたまひぬる夕つ方】−紫の上が東の対の屋に帰った夕方の意。
【思ふさまに】−以下「思ひなりにてはべり」まで、明石御方の詞。
【御心と思し数まへざらむこなた】−『集成』は「ご自分でいろいろとご判断のおできになる前に」と訳す。
【ともかくもはかなくなりはべりなば】−主語は明石御方。『集成』は「何にせよ」。『完訳』は「もしものことで」と訳す。
【今はのとぢめを御覧ぜらるべき身にもはべらねば】−明石御方は身分が低いので、娘の女御に見取ってもらえるかどうか分からない、という意。
【かばかりと見たてまつりおきつれば】−『集成』は「あなたの将来も、こうとお見届けしましたので。男御子の誕生で、もう安心という気持」という気持ち。
【対の上の御心おろかに思ひきこえさせたまふな】−『集成』は「以下、明石の上も遺言めいて語る」と注す。
【身にはこよなくまさりて】−「身」は自分をさす。私など以上に。
【世の常に思うたまへわたり】−紫の上を世間並の継母ぐらいに思っていという意。
【常にうちとけぬさましたまひて】−『集成』は「いつも礼儀正しい態度でいらして」と訳す。

 [第三段 源氏、女御の部屋に来る]
【院は姫宮の御方におはしけるを】−源氏、寝殿の西面の女三の宮のもとから中の襖障子を開けて東面の明石女御のもとに来る。
【若宮は】−以下「恋しきわざなりけり」まで、源氏の詞。
【対に渡しきこえたまひつ】−明石御方の返事。
【いとあやしや】−以下「見たてまつりたまはめ」まで、源氏の詞。
【人やりならず衣も皆濡らして】−かってに好き好んで若宮のおしっこで衣裳をすっかり濡らしているという意。
【いとうたて】−以下「聞こえさせたまひそ」まで、明石御方の詞。「女に--だに--まして--男は」という構文。女は他人に見られてはならないものだが、紫の上は母の養母だからかまわない、まして、男御子はなおさら差し支えないという意。
【御仲どもにまかせて】−以下「言ひ落としたまふめりかし」まで、源氏の詞。軽い冗談を交えて話す。
【見放ちきこゆべきななりな】−「べき」推量の助動詞、適当の意。「な」断定の助動詞(「なり」の連体形、撥音便無表記)。「なり」伝聞推定の助動詞、終止形。「な」詠嘆の終助詞。
【さかしらなどのたまふこそ】−明石御方の「なさかしらがりきこえさせたまひそ」という語句を受けて返す。
【母屋の柱に寄りかかりて】−主語は明石御方。

 [第四段 源氏、手紙を見る]
【なぞの箱】−以下「心地こそすれ」まで、源氏の詞。冗談を言ってからかう。
【あなうたてや】−以下「時々出で来れ」まで、明石御方の返事。『完訳』は「女三の宮との結婚を暗に皮肉りながら、源氏の冗談を切り返す。前に、紫の上も、源氏の若返りと皮肉った」と注す。
【御けしきども】−明石御方と女御の態度。接尾語「ども」複数を表す。
【あやしとうち傾きたまへるさまなれば】−主語は源氏。
【かの明石の岩屋より】−以下「何かは開けさせたまはむ」まで、明石御方の詞。手紙の真相を語る。
【御心にも知らせたてまつるべき折あらば】−源氏をさす。
【げにあはれなるべきありさまぞかし】−源氏の心中。「げに」は前の明石御方と女御がしんみりしていたことをさす。
【いかに行なひまして】−以下「いと会はまほしくこそ」まで、源氏の詞。
【ここらの年ごろ勤むる罪もこよなからむかし】−『集成』は「多年勤めてきた修業によって消滅した罪障も数知れぬことであろう」。『完訳』は「この多くの年月に積み重ねた功徳はこのうえもなく尊いものであろう」と訳す。
【賢しき方々】−主として僧侶をさす。
【賢き方こそあれ】−係助詞「こそ」「あれ」已然形、逆接用法。
【下の心は皆あらぬ世に通ひ住みにたるとこそ見えしか】−『集成』は「本心は、この世ならぬ世界(極楽浄土)に、自在に行き来して暮していると思われた」。『完訳』は「心の奥ではすっかり極楽浄土に通い住んでいる、と見えました」と訳す。
【今はかのはべりし所をも捨てて】−以下「聞きはべる」まで、明石御方の返事。
【かのはべりし所をも捨てて】−明石入道の邸宅。
【鳥の音聞こえぬ山に】−「飛ぶ鳥の声も聞えぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)の文句を踏まえる。
【さらばその遺言ななりな】−以下「こそ添ふべけれ」まで、源氏の詞。
【ななりな】−「な」断定の助動詞(連体形、撥音便化の無表記)「なり」伝聞推定の助動詞、終止形、「な」終助詞、詠嘆。

 [第五段 源氏の感想]
【年の積もりに】−以下「あはれならむ」まで、源氏の詞。
【この夢語りも思し合はすることもや】−明石御方の心中。
【いとあやしき梵字とかいふやうなる】−以下「はべるものなりけれ」まで、明石御方の詞。入道の手紙の筆跡を「梵字」のようなと謙遜していう。
【なほこそあはれは残りはべるものなりけれ】−『集成』は「やはりまだ思いは残るものなのでございました」。『完訳』は「やはりせつない思いはあとあとまで尾をひくものでございました」と訳す。
【寄りたまひて】−主語は源氏。
【いとかしこく】−以下「しるしにこそはあらめ」まで、源氏の詞。
【人の】−格助詞「の」同格の意。
【かの先祖の大臣は】−明石入道の先祖は大臣であるというが、源氏の母桐壷更衣はその弟の按察大納言、同祖でもある。「若紫」「明石」参照。
【ものの違ひめありて】−以下「かく末はなきなり」まで、世人の噂を引用。『河海抄』は藤原実頼の例を指摘する。
【この夢のわたりに】−「世の中は夢のわたりの浮橋かうち渡しつつ物をこそ思へ」(河海抄所引、出典未詳)
【あやしくひがひがしく】−以下「心に起こしけむ」まで、源氏の心中。
【また我ながらもさるまじき振る舞ひを仮にてもするかな】−『集成』は「また自分としても、入道が身分にあるまじき振舞を、かりそめにもすることだと思ったことは。入道が自分を婿にと望んだこと」。『完訳』は「かりそめにも紫の上を裏切って明石の君と結ばれたことをいう。一説には、入道が身分違いの結婚をさせたこと」「またわたし自身も、一時のかりそめにしろ不都合なふるまいをするものよ」と注す。
【この君の生まれたまひし時に】−明石姫君の誕生。「澪標」参照。
【目の前に見えぬあなたのことは】−『集成』は「遠い過去の因縁は」。『完訳』は「過去の因縁。一説に、将来」「目に見えぬこれから先のことは」と注す。
【かかる頼みありて】−夢のお告げを期待して。
【この人一人のためにこそありけれ】−『集成』は「入道一人の祈願成就のためだったのだ」。『完訳』は「この人ひとりがお生れになるためだったのです」と訳す。

 [第六段 源氏、紫の上の恩を説く]
【これはまた具してたてまつるべきもの】−以下「はべらむ」まで、源氏の詞。入道の願文に一緒にして奉らねばならない自分の願文がある、の意。
【今はかく】−以下「口惜しくや」まで、源氏の詞。
【さるべき仲えさらぬ睦びよりも】−『集成』は「もともと親しかるべき夫婦の仲や、切っても切れない親子兄弟の親しみよりも」と訳す。
【横さまの人】−他人の意。
【さぶらひ馴れたまふを】−主語は明石御方。
【見る見るも初めの心ざし変はらず】−主語は紫の上。
【さも思ひ寄らず】−継母が内心悪意を抱いていると思わずの意。
【おぼろけの昔の世のあだならぬ人は】−『完訳』は「昔の、並々ならず実のある人は」「昔からの尋常ならぬ敵同士というのでなければ」と注す。
【多くはあらねど】−『完訳』は「わたしにはたくさんの経験があるというわけではないけれど」と訳す。
【ゆゑよしといひ】−『集成』は「たしなみといい教養といい」。『完訳』は「その性分といい才覚といい」と訳す。
【この対をのみ】−紫の上をさす。
【よしとてまたあまりひたたけて頼もしげなきもいと口惜しや】−『集成』は「(しかし)いくら人柄がよいといっても、またあまり締りがなく頼りないのも、残念なものです」。『完訳』は「いくら身分がよいといっても、またあまりしまりがなく頼りになりそうでないのも、まったく困ったものですよ」と訳す。暗に女三の宮のことをいう。
【かたへの人は思ひやられぬかし】−『一葉抄』は「草子の詞也」と指摘。語り手の言辞。「れ」可能の助動詞、連用形。「ぬ」完了の助動詞、強調。「かし」終助詞、念押しのニュアンス。明石御方には女三の宮のことがきっと思いやられたことだろうの意。『全集』は「語り手のことばであるが、ここにゆくりなくも女三の宮に言及されていることは、これまで長々と語られてきた明石一族の因縁の物語が、女三の宮の降嫁にはじまる現在の六条院物語の中に相対化されたことになる」と注す。

 [第七段 明石御方、卑下す]
【そこにこそ】−以下「ものしたまへ」まで、源氏の詞。
【のたまはせねど】−以下「もて隠されたてまつりつつのみこそ」まで、明石の詞。「のたまはせねど」の主語は源氏。
【いとありがたき御けしきを】−主語は紫の上。
【めざましきものに】−明石御方自身をさしていう。
【その御ためには】−以下「心やすくなむ」まで、源氏の詞。
【譲りきこえらるるなめり】−「きこえ」謙譲の補助動詞、受手の明石御方に対する敬意。「らるる」尊敬の助動詞、仕手の紫の上に対する敬意。「な」断定の助動詞、連体形、撥音便化の無表記、「めり」推量の助動詞、主観的推量のニュアンス、源氏の断定と推量。
【それもまたとりもちて掲焉に】−主語は明石御方。
【さりやよくこそ卑下しにけれ】−明石御方の心中。

 [第八段 明石御方、宿世を思う]
【さもいとやむごとなき】−以下「心苦しく」まで、明石御方の詞。
【同じ筋にはおはすれど】−女三の宮と紫の上が同じ皇族、従姉妹どうしの間柄であることをいう。
【今一際は】−女三の宮が内親王で、紫の上が女王であることをいう。
【やむごとなき】−以下「おぼつかなき」まで、明石御方の心中。後半は地の文に融合。
【福地の園に種まきて】−仏典に基づく故事。『異本紫明抄』『河海抄』等が指摘するが、出典不明。

 

第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る


 [第一段 夕霧の女三の宮への思い]
【大将の君は】−夕霧、女三の宮を批判する。
【こなたには】−女三の宮方に。
【上の儀式は】−源氏の女三の宮に対する表面上の待遇態度。
【をさをさけざやかに】−『完訳』は「「見えず」までは夕霧の観察。以下、語り手の女房たちへの観察に転ずる。女房のありようから、その女主人の人柄も推測される」と注す。
【院は】−源氏をさす。
【目につかず見たまふ】−『集成』は「感心しないと」。『完訳』は「目障りとお思いになる」と訳す。
【かかる方をもまかせてさこそはあらまほしからめ】−源氏の心中、間接的表現。

 [第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較]
【げにこそありがたき】−以下「もてなし添へたまへること」まで、夕霧の心中。
【見し面影も忘れがたくのみ】−「野分」巻に野分の吹いた朝、紫の上を垣間見たことが語られている。五年前のことである。
【わが御北の方も】−以下「人目の飾りばかりにこそ」まで、夕霧の心中と地の文が融合。初めに「わが御北の方」「思す」という敬語表現がまじる。途中から地の文になり、再び最後は心中文になる。
【御ほどに】−「に」格助詞、文意は逆接に続く。
【取り分きたる御けしきしもあらず】−源氏の女三の宮に対する寵愛。
【見たてまつる折ありなむや】−夕霧の心中。女三の宮柏木密通の主題へと物語が動き出す。

 [第三段 柏木、女三の宮に執心]
【衛門督の君も】−柏木は依然として女三の宮に執着。
【聞こえ寄り】−『完訳』は「自分も意中を申し出ていて」と訳す。
【めざましとは思しのたまはせず】−朱雀院の詞、要旨。『集成』は「出過ぎた者とはお思いにならず仰せにもならなかったと聞いたのに」。『完訳』は「別にお気に召さぬことと仰せになったわけではないと聞いていたのに」と訳す。
【かくことざまに】−柏木の意に反して、女三の宮が六条院に降嫁したことをいう。
【はかなかりける】−『完訳』は「語り手の評。柏木の処しがたい絶望的な執着を印象づける」と注す。
【対の上の御けはひにはなほ圧されたまひてなむ】−世人の噂。「なむ」係助詞。下に「ある」また「はべる」などの語句が省略されている。
【まねび伝ふるを】−『集成』は「聞いたことをそっくりそのまま伝えること」と訳す。
【かたじけなくとも】−以下「あたらざらめ」まで、柏木の心中。
【たてまつらざらまし】−「まし」反実仮想の助動詞。自分であったらそうはさせなかっただろうに。
【御乳主を】−『集成』は「女三の宮の乳姉妹」。『完訳』は「養君と同時期に生れた乳母子」と注す。
【世の中定めなきを】−以下「赴きたまはば」まで、柏木の心中。源氏の出家後を待ち望む。源氏が朱雀院の出家後に朧月夜尚侍に言い寄ったのと同じ構図でもある。
【たゆみなく思ひありきけり】−『集成』は「怠りなく機会をうかがっていらっしゃった」。『完訳』は「あれこれ油断なく思いつめているのであった」。

 [第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ]
【弥生ばかりの空うららかなる日】−六条院の南の町で蹴鞠の遊びが催される。
【静かなる】−以下「暮らすべき」まで、源氏の詞。
【今朝大将のものしつるは】−以下「出でやしぬる」まで、源氏の詞。
【問はせたまふ】−「せ」使役の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。源氏が人をして尋ねさせなさる、の意。
【大将の君は】−以下「遊ばして見たまふ」まで、報告の要旨。「し」使役の助動詞。夕霧が大勢の人々に蹴鞠をさせての意。
【乱りがはしきことの】−『集成』は「無作法な遊戯だが」。『完訳』は「どうもあれは騒がしいものの」と訳す。
【鞠持たせたまへりや誰々かものしつる】−源氏の詞。「せ」使役の助動詞。「たまへ」尊敬の補助動詞。
【これかれはべりつ】−夕霧の返事。実際は実名を言ったのだが、省略された書き方。
【こなたへまかでむや】−源氏の詞。ここ東南の町へ来ませんか、の意。
【寝殿の東面桐壺は若宮具したてまつりて参りたまひにしころなれば】−東南の町の寝殿の東側は明石女御の部屋であるが、現在、若宮を伴って東宮に帰参している。西側は女三の宮の部屋。
【隠ろへたりけり】−『集成』は「目立たぬ所だった」。『完訳』は「ひっそりとしていたのであるが」と訳す。
【かかりのほど】−蹴鞠をするために砂を敷いた場所。
【頭弁兵衛佐大夫の君など】−柏木の弟たち。

 [第五段 南町で蹴鞠を催す]
【風吹かずかしこき日なり】−風が吹かず、蹴鞠に絶好の日だ、の意。
【弁官もえをさめあへざめるを】−以下「このことのさまよ」まで、源氏の詞。
【などか乱れたまはざらむ】−『完訳「もっと羽目をはずしたらどうです」と訳す。「などか--む」反語表現。
【かばかりの齢にては】−源氏自身の若いころを思い出して言う。下に「おぼえし」という自己体験をいう過去の助動詞がある。
【色々紐ときわたる花の木ども】−『集成』は「「紐とく」は花の開くことを、女性に見立てていう歌語」と忠す。
【わづかなる萌黄の蔭に】−『完訳』は「わずかに若芽のふいている柳の木のもとで」と訳す。

 [第六段 女三の宮たちも見物す]
【数多くなりゆくに】−『集成』は「回数が増えてゆくにつれ」。『完訳』は「鞠が地に落ちて一度と数える」と注す。
【花乱りがはしく散るめりや桜は避きてこそ】−柏木の詞。「吹く風よ心しあらばこの春の桜は避きて散らさざらなむ」(源氏釈所引、出典未詳)。「春風は花のあたりをよきて吹け心づからや移ろうと見む」(古今集春下、八五、藤原好風)を踏まえる。
【例のことにをさまらぬけはひどもして】−『集成』は「いつものように、格別慎み深くするでもない女房たちがいる様子で」。『完訳』は「例によって、とくに慎み深くすることもない女房たちのいる気配があれこれと感じられて」と訳す。

 [第七段 唐猫、御簾を引き開ける]
【御几帳どもしどけなく引きやりつつ】−御簾に添えて立てられている御几帳をだらしなくずらしている。女三の宮が覗かれる伏線。
【人気近く世づきてぞ見ゆるに】−『集成』は「すぐ端近に女房がおり、世間ずれしているように思われるところに。男にすぐ返事でもしそうに思われる」。『完訳』は「すぐ間近に控えている人の気配が奥ゆかしさもなく世なれた感じであるが」と注す。
【かしかましき】−「姦 カシカマシ」(名義抄)「カシカマシイ」(日葡辞書)、「古く「かしかまし」と第三音節は清音で、「かしがまし」となったのは近世以後のこと」(小学館古語大辞典)。
【引き開け】−明融臨模本には「け」に朱点で濁点符号が付いている。「引き上げ」と解したものである。

 [第八段 柏木、女三の宮を垣間見る]
【袿姿にて】−女主人の服装。女房装束の表着・唐衣・裳を着けた姿とは一目で区別される。
【立ちたまへる人あり】−異例の姿。女性は普通は座っているものである。『完訳』は「貴婦人は座っているのが普通。蹴鞠見物に立ち上る不謹慎な挙措」と注す。
【階より西の二の間の東の側なれば】−『集成』は「そこは中央御階の間から西へ二つめの柱間の東の端なので」と注す。「東の端」は向かって右側の御簾なので、と同じ。
【見入れらる】−「らる」可能の助動詞。見通すことができる。
【紅梅にやあらむ】−以下、柏木と語り手の目が一体化した視点からの描写。
【桜の織物の細長なるべし】−『完訳』は「上に着ておられるのは桜襲の織物の細長のようである」と訳す。
【七、八寸ばかりぞ余りたまへる】−身長よりも七、九寸長いさま。普通の髪の長さ。
【いと飽かず口惜し】−『完訳』は「柏木の心情の直叙に注意」と注す。
【花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを】−主語は若公達。普通は桜の花の散るのを惜しみ、このまま咲き止めておきたいというところだが、蹴鞠の鞠が枝に触れてひとしお美しく散るのでろう。蹴鞠に夢中になって、ゆったり惜しんでもいられぬという意。
【見るとて】−主語は女房たち。
【ふともえ見つけぬなるべし】−「なるべし」は語り手の言辞。
【若くうつくしの人や】−柏木が女三の宮を見た感想。第一印象。

 [第九段 夕霧、事態を憂慮す]
【さるはわが心地にも】−『集成』「実のところ、夕霧自身も」と訳す。
【綱ゆるしつれば心にもあらずうち嘆かる】−夕霧のほっとした気持ち。『集成』は「(中の女房が)猫の綱を放したので(御簾が下りて)思わず溜息をおつきになる」。『完訳』は「猫の綱を解いてしまったので、思わずついため息をもらさずにはいられない」と訳す。
【まして】−柏木は夕霧以上に、の意。
【誰ればかりにかはあらむ】−以下「あらざりつる」まで、柏木の心中。「かはあらむ」反語表現。『完訳』は「女三の宮以外の誰でもない。「あらざりつる」あたりまで、柏木の心を直叙。以下は間接話法」と注す。
【あらざりつる】−柏木の心中語であるが、連体形の余情表現とかつ下文の「御けはひ」に係っていく表現。
【まさに目とどめじや】−夕霧の心中。反語表現。『集成』は「きっと見ていたにちがいない」。『完訳』は「衛門督がどうしてあのお姿を見逃すわけがあろう」と訳す。
【なつかしく思ひよそへらるるぞ好き好きしきや】−『首書或抄』は「草子地也」と指摘。『完訳』は「語り手の評。柏木の異様なまでの執着を評す」と注す。

 

第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴


 [第一段 蹴鞠の後の酒宴]
【上達部の座いと軽々しやこなたにこそ】−源氏の詞。上達部は夕霧や柏木をさす。
【対の南面に】−東の対の南面の間。
【椿餅梨柑子やうのものども】−椿餅、梨、柑子というが、春三月に梨の実があるとは思われない。梨を使った加工食品であろうか。
【心知りに】−事情を知っているので、の意。
【あやしかりつる御簾の透影思ひ出づることやあらむ】−夕霧の心中。『集成』は「(柏木が)妙なことから垣間見た、御簾の隙間の女三の宮のお姿を思い浮べているのであろうかと」と訳す。
【いと端近なりつる】−以下あるまじかめるものを」まで、夕霧の心中。
【かつは軽々しと思ふらむかし】−主語は柏木。柏木の心中を忖度。
【こなたの】−紫の上をさす。
【かかればこそ】−以下「ありけれ」まで、夕霧の心中。
【うちうちの御心ざし】−源氏のご寵愛。
【なほ内外の用意】−以下「うしろめたきやうなりや」まで、夕霧の心中。同様の主旨を言っている「帚木」巻の女性論が思い合わされる。
【宰相の君は】−柏木。宰相兼右衛門督である。初めて語られる。
【よろづの罪をもをさをさたどられず】−『完訳』は「宮にどんな欠点があろうと、ほとんど顧みるゆとりもなく」と訳す。
【わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにや】−柏木の心中。
【飽かずのみおぼゆ】−『完訳』は「どこまでも宮に心を奪われている」と注す。

 [第二段 源氏の昔語り]
【太政大臣のよろづの】−以下「かしこうこそ見えつれ」まで源氏の詞。源氏と太政大臣の間で、何事にも彼に勝ってきたが、蹴鞠だけは及ばなかったという。
【かしこうこそ見えつれ】−『集成』は「〔今日のあなたは〕上手だった」。『完訳』は「わたしには及びもつかぬくらい上手なものだと見えました」と訳す。
【うちほほ笑みて】−主語は柏木。照れ笑いの意。
【はかばかしき方には】−以下「はべりぬべけれ」まで、柏木の返答。謙遜する。「はかばかしき方」は公務政治向きの事柄をさす。
【家の風の】−「久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな」(拾遺集雑上、四七三、菅原道真の母)を引歌とする。
【いかでか】−以下「興はあらめ」まで、源氏の詞。「いかでか」は反語。否定になる。どうしてそんなことがあろうか、そうではないの意。
【見たてまつるにも】−主語は柏木。
【かかる人に】−以下「なびかし聞こゆべき」まで、柏木の心中。源氏に対するコンプレックス。
【ならひて】−『集成』は「ならひて」「こんな立派な方(源氏)を見馴れていて」。『完訳』は「並びて」「源氏ほどの人に連れ添う宮は」と訳す。
【あはれと見ゆるしたまふばかり】−『集成』は「せめてかわいそうにと大目に見て下さるほどにでも」。『完訳』は「せめてこの自分をいじらしい者よとそのまま認めてくださる程度にでも」と訳す。

 [第三段 柏木と夕霧、同車して帰る]
【大将の君一つ車にて道のほど物語したまふ】−柏木は夕霧と同車して女三の宮への同情を語る。六条院から夕霧の三条邸、柏木の二条邸へ帰る途中。
【なほこのころの】−以下「参りたまへ」(まで、柏木と夕霧の詞。『集成』は全体を夕霧の詞とみる。『完訳』は「なほこのごろの」から「紛らはすべきなりけり」までを柏木の詞。「今日の」以下「参りたまへ」までの後半を夕霧の詞と解す。
【小弓持たせて】−「せ」使役の助動詞。随身供人に小弓を持たせての意。
【院にはなほ】−以下「心苦しけれ」まで、柏木の詞。女三の宮への同情。
【かの御おぼえ】−源氏の紫の上に対する寵愛。
【さしもあらで】−『集成』は「(六条の院では)それほどでもなくて」。『完訳』は「殿のお気持はそれほどでもないものですから」と訳す。
【あいなく言へば】−『全集』は「ずけずけと堰を切ったように繰り出される柏木の言葉について、これを不穏当とする語り手の気持をこめる」と注す。
【たいだいしきこと】−以下「思ひきこえたまへるものを」まで、夕霧の反論。
【けぢめばかりにこそあべかめれ】−『完訳』は「そこに宮とちがうところがおありなのでしょう」と訳す。
【いであなかまたまへ】−以下「ありがたきわざなりや」まで、柏木の反論。
【さるは世におしなべたらぬ人の御おぼえを】−『集成』は「実際は、一通りではない女三の宮のご声望ですのに」。『完訳』は「それにしても、並一通りではなく父院がお目をかけあそばしたお方ですのに」と訳す。
【いかなれば花に木づたふ鴬の桜をわきてねぐらとはせぬ】−柏木の歌。花を六条院の女君に、鴬を源氏に、桜を女に喩え、源氏が女三の宮を大事にしないことを非難する。
【春の鳥の桜一つにとまらぬ心よ】−以下「おぼゆるぞかし」まで、歌に続けた柏木の詞。『集成』は「春の鳥ならば、美しい桜だけにとまればよいものを」。『完訳』は「春の鳥の、桜ひとつに心をとどめぬとは移り気な心よ」と訳す。
【いであなあぢきなのもの扱ひやさればよ】−夕霧の感想。夕霧、柏木の女三の宮に対する恋情を確信する。
【深山木にねぐら定むるはこ鳥もいかでか花の色に飽くべき】−夕霧の返歌。「花」「ねくら」の語句を受け、「鴬」は「はこ鳥」として返す。深山木を紫の上に、はこ鳥を源氏に、花を女三の宮に喩える。春の美しい花に飽きたりはしない、と反論。
【わりなきことひたおもむきにのみやは】−歌に続けた夕霧の詞。「やは」反語表現。そう一方的に決めつけてよいものか、そうではない、の意。
【ことに言はせずなりぬ】−「せ」使役の助動詞。夕霧が柏木にそれ以上言わせなかった、の意。

 [第四段 柏木、小侍従に手紙を送る]
【督の君はなほ大殿の東の対に独り住みにて】−柏木は大殿邸の東の対にまだ正妻を迎えず独り身で住んでいる。
【思ふ心ありて】−『完訳』は「結婚への高い理想。女三の宮のような高貴な女君との結婚を望み独身を貫く。「わが身かばかり」「心おごり」ともあり、彼の宮への執着は、権勢志向に発していた」と注す。
【わが身かばかりにて】−以下「かなはざらむ」まで、柏木の心中。「などか」--「む」反語表現。
【いかならむ折に】−以下「つくるやうもあれ」まで、柏木の心中。
【ともかくもかき紛れたる際の人こそ】−『集成』は「何をしても人目につかない身分の者なら」。『完訳』は「もしも相手が何をしようにも人目に立たぬ身分であったら」と訳す。
【人こそ】−係助詞「こそ」は「やうもあれ」に係る。逆接用法。
【深き窓のうちに】−以下「知らせたてまつるべき」まで、柏木の心中。「養はれて深窓に在れば人未だ識らず」(白氏文集・長恨歌)を踏まえた表現。
【例の】−「例の」とあるので、初めてでない。今までにも度々あったことを暗示する書き方。
【一日風に誘はれて御垣の原を】−以下「眺め暮らしはべる」まで、柏木の手紙文。「御垣の原」は吉野の地名、歌枕だが、六条院をさす。
【いかに見落としたまひけむ】−柏木の謙った表現。
【あやなく今日は眺め暮らしはべる】−「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ(古今集恋一、四七六、在原業平)を踏まえた表現。
【よそに見て折らぬ嘆きはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ】−柏木から女三の宮への贈歌。「嘆き」に「投げ木」を響かせ、「木」の縁語として「折る」「繁る」「花」の語句を引き出す。「花」は女三の宮の美しさをいう。

 [第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る]
【この人のかくのみ】−以下「知りがたくてなむ」まで、小侍従の詞。
【見たまへあまる心もや添ひはべらむと】−主語は小侍従自身。「たまへ」謙譲の補助動詞。小侍従が柏木を手引きしかねない気持ちがおこりはしないかと、という意。
【いとうたてあることをも言ふかな】−女三の宮の詞。
【文広げたるを御覧ず】−「文広げたる」の主語は小侍従。「御覧ず」の主語は女三の宮。
【見もせぬと言ひたるところを】−女三の宮、柏木の手紙の文句から「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ」の和歌を引いたものであることを察する。
【あさましかりし御簾のつまを】−『集成』は「思いもかけなかったあの御簾の隙間のことだと」。『完訳』は「あの思いがけなかった御簾の端の一件に」と訳す。
【大将に見えたまふな】−以下「やうもありなむ」まで、源氏の女三の宮に対する戒めの詞。源氏が女三の宮に面と向かって「いはけなき御ありさまなれば」と言ったとしたら、かなりきつい辛辣な物言いである。
【大将のさることの】−以下「あはめたまはむ」まで、女三の宮の心中。
【いかにあはめたまはむ】−『集成』は「どんなにお叱りになるだろう」。『完訳』は「殿はこの私をどんあに疎ましくお思いになるだろう」と訳す。
【人の見たてまつりけむことをば思さでまづ憚りきこえたまふ心のうちぞ幼かりける】−『細流抄』は「草子地也」と指摘。語り手の女三の宮批評の文章。
【憚りきこえたまふ】−『集成』は「〔源氏を〕こわがり申される」。『完訳』は「殿に気がねをなさる」と訳す。
【常よりも御さしらへなければ】−主語は女三の宮。女三の宮から柏木の手紙に対するお言葉がないこと。
【しひて聞こゆべきことにもあらねば】−小侍従が女三の宮の返事を催促すべきことでもない、の意。
【一日はつれなし顔を】−以下「あなかけかけし」まで、小侍従の返書。小侍従は柏木が女三の宮を垣間見たことを知らない。
【めざましうと許しきこえざりしを】−『集成』は「(宮様に対して)失礼なこととお許し申しませんでしたのに」。『完訳』は「これまでのご希望も、宮に失礼なことだからとお許し申しあげなかったのに」と訳す。
【いまさらに色にな出でそ山桜およばぬ枝に心かけきと】−小侍従の返歌。山桜に女三の宮を喩える。
【かひなきことを】−歌に添えた言葉。

源氏物語の世界ヘ
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