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渋谷栄一注釈(ver.1-1-2)

  

梅枝


 [底本]
財団法人古代学協会・古代学研究所編 角田文衛・室伏信助監修『大島本 源氏物語』第五巻 一九九六年 角川書店

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第二巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第八巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九九五年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第五巻 一九八五年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第四巻 一九七九年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第三巻 一九七二年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第六巻 一九六六年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第三巻 一九六一年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第三巻 一九五〇年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 光る源氏の物語 薫物合せ

  1. 六条院の薫物合せの準備---御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて
  2. 二月十日、薫物合せ---二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに
  3. 御方々の薫物---このついでに、御方々の合はせたまふども
  4. 薫物合せ後の饗宴---月さし出でぬれば、大御酒など参りて
第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着
  1. 明石の姫君の裳着---かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ
  2. 明石の姫君の入内準備---春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける
  3. 源氏の仮名論議---「よろづのこと、昔には劣りざまに
  4. 草子執筆の依頼---墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に
  5. 兵部卿宮、草子を持参---「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば
  6. 他の人々持参の草子---左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ
  7. 古万葉集と古今和歌集---今日はまた、手のことどものたまひ暮らし
第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語
  1. 内大臣家の近況---内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて
  2. 源氏、夕霧に結婚の教訓---大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と
  3. 夕霧と雲居の雁の仲---かやうなる御諌めにつきて、戯れにても

 

第一章 光る源氏の物語 薫物合せ

 [第一段 六条院の薫物合せの準備]
【御裳着のこと思しいそぐ御心おきて世の常ならず】−明石姫君の裳着。明石姫君、十一歳。裳着の儀式は女性の成人式。
【春宮も同じ二月に御かうぶりのことあるべければ】−朱雀院の皇子、十三歳。元服は男性の成人式。明石姫君と東宮が共に成人式を挙げ結婚の準備に入る。
【やがて御参りもうち続くべきにや】−「御参り」は入内をいう。「べき」(推量の助動詞)「に」(断定の助動詞)「や」(係助詞、疑問の意)は語り手の推測を表す。
【正月の晦日なれば】−時節は春正月の下旬。正月の年中行事なども終わってのんびりとしたころ。
【大弐の奉れる香ども】−太宰大弍は系図不詳の人。源氏に献上した香。中国舶来の品である。
【御覧ずるに】−主語は源氏。
【なほいにしへのには劣りてやあらむ】−源氏の感想。今のものより昔のものがよかったとする尚古思想が窺える。
【錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ】−源氏の感想。「なつかし」は、手放したくない、慕わしいの意。昔が思い出されるの意は後世。しかし文脈上「古きものこそなつかしう」とあるから、一種の懐古趣味。
【故院の御世の初めつ方】−桐壷院をさす。
【このたびの綾羅などは】−大弍が献上した品物をいう。
【二種づつ合はせさせたまへ】−源氏の言葉。使者に言わせた内容。「させ」「給へ」二重敬語。会話文中の用法。
【聞こえさせたまへり】−「聞こえ」(「言う」の謙譲語)「させ」(使役の助動詞)「給へ」(尊敬の補助動詞)「り」(完了の助動詞)。使者をして御夫人方に申し上げさせなさったの意。
【内にも外にも】−「内」は六条院、「外」は二条院、二条東院などをさす。
【かしかまし】−「姦 カシカマシ」(名義抄)。近世以後「かしがまし」と濁音化する。
【承和の御いましめの二つの方を】−承和の御戒め。仁明天皇が男子には伝えぬようにと戒めた二種の調合法。「黒方」と「侍従」である。『河海抄』所引「合香秘方」に「此両種方不伝男耳。承和仰事也」とある。
【いかでか御耳には伝へたまひけむ】−語り手の疑問、挿入句。
【上は東の中の放出に】−紫の上をいう。「上」という呼称。
【御しつらひことに深う】−『完訳』は「秘法保持のため格別に慎重」と注す。
【しなさせたまひて】−「させ」使役の助動詞。女房らをして準備させなさって。
【八条の式部卿の御方を】−仁明天皇の第七皇子本康親王。「御方」は黒方と侍従をさす。
【かたみに挑み合はせたまふほど】−源氏と紫の上。
【匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし】−源氏の言葉。
【人の御親げなき御あらそひ心なり】−語り手の評言。『一葉抄』が「草子詞也」と指摘。「人」は明石の姫君をさす。
【調度】−『色葉字類抄』には「調」「度」ともに濁点を付す。『集成』「でうど」のルビを付ける。
【所々の心を尽くしたまへらむ】−あちらこちらで一生懸命に薫物を調合していらっしゃるであろう。「らむ」は推量の助動詞、視界外推量の意。源氏の所から推量するニュアンス。

 [第二段 二月十日、薫物合せ]
【二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに】−二月十日、六条院に蛍兵部卿宮参上し、薫物合せを試みる。
【兵部卿宮渡りたまへり】−源氏の弟宮蛍兵部卿宮。趣味人、風流人である。
【御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ】−明石の姫君の裳着の儀式が間近に迫ったことへの挨拶に参上。
【花をめでつつ】−「花」は紅梅をさす。
【前斎院】−朝顔斎院をさす。
【散り過ぎたる梅の枝につけたる御文】−『異本紫明抄』は「春過ぎて散りはてにける梅の花ただ香ばかりぞ枝に残れる」(拾遺集雑春、一〇六三、如覚法師)を指摘する。その歌の詞書に「比叡の山に住みはべりけるころ、人の薫物を乞ひてはべりければ、はべりけるまゝに、少しを、梅の花のわづかに散り残りてはべる枝につけてつかはしける」とある。その趣向を踏まえる。『集成』は「散り過ぎたる」と解し、『完訳』は「散りすきたる」と解す。
【聞こしめすこともあれば】−源氏が朝顔姫君に執心であったということ。「朝顔」巻に語られている。
【いかなる御消息のすすみ参れるにか】−蛍兵部卿宮の詞。
【いと馴れ馴れしき】−以下「たまへるなめり」まで、源氏の返事。薫物合せの依頼をさす。「いと馴れ馴れしきこと」(大層無遠慮なこと)と謙辞する。「を」接続助詞、順接の意。「な」(断定の助動詞)「めり」(推量の助動詞)。
【瑠璃の坏二つ据ゑて】−紺瑠璃と白瑠璃の坏、二脚。前者に黒方、後者に梅花香が入れてある。
【梅を選りて】−古来二説あり、『集成』は「選りて」と解し、『完訳』は「彫りて」と解す。
【艶あるもののさまかな】−蛍兵部卿宮の詞。感嘆の気持ち。
【花の香は散りにし枝にとまらねどうつらむ袖に浅くしまめや】−「散りにし枝」は自分(朝顔)を譬え、「うつらむ袖」は明石姫君を喩える。「浅くしま」「め」(推量の助動詞)「や」(係助詞)、反語表現。浅く薫りましょうか、いや深く薫ることでしょうの意。『集成』は「自分を卑下し、姫君の若さを讃えた歌」という。
【ほのかなるを】−薄墨でうっすらと書いてある筆跡。
【宰相中将】−夕霧。
【御使尋ねとどめさせたまひていたう酔はしたまふ】−主語は夕霧。「させ」使役の助動詞。
【御返りもその色の紙にて】−源氏の返事。紅梅襲と同じ色の紙。
【御前の花を折らせてつけさせたまふ】−紅梅の花。「せ」使役の助動詞。
【うちのこと】−以下「隠したまふ」まで、蛍兵部卿宮の心中。「うちのこと」は手紙の中身の意。好奇心と嫉妬心。
【何ごとか】−以下「苦しけれ」まで、源氏の詞。
【花の枝にいとど心をしむるかな人のとがめむ香をばつつめど】−源氏の返歌。「花の枝」は朝顔を譬える。ますます魅力を感じるという意。「梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみぬる」(古今集春上、三五、読人しらず)「梅の花香を吹きかくる春風に心をそめば人やとがめむ」(後撰集春上、三一、読人しらず)
【とやありつらむ】−語り手の推測。『集成』は「と書いてあったのだろうか。そっと兵部卿の宮に見せた様子を窺わせる書き方。草子地」と注す。『完訳』は「語り手の推測。宮もこの返歌を見ていないことになる」と注す。
【まめやかには好き好きしきやうなれど】−以下「かたじけなくてなむ」まで、源氏の詞。『集成』は「(薫物合せなどを方々に依頼するのは)物好きのようですが」の意に解し、『完訳』は「薫物合せへの熱中は物好きに過ぎるようだが、の意」と解す。
【またもなかめる人の上にて】−明石姫君をさす。
【思ひたまへなしてなむ】−「たまへ」(謙譲の補助動詞)、主語は源氏。
【いと醜ければ】−娘の明石姫君の器量をさしていう。源氏の謙辞。
【中宮まかでさせたてまつりて】−秋好中宮。「させ」(使役の助動詞)「たてまつり」(謙譲の補助動詞)。『完訳』は「姫君を格上げすべく、秋好中宮を裳着の腰結役とする魂胆」と注す。
【思ひたまふる】−「たまふる」(謙譲の補助動詞、連体中止法)は、言いさした形で含みのあるニュアンス。
【何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ】−『完訳』は「姫君の裳着、入内に関して」と注する。「世の常」以上のことを源氏は考えていると示唆する。
【あえものもげにかならず思し寄るべきことなりけり】−蛍兵部卿宮の詞。「あえもの」は、あやかりもの、の意。「げに」は源氏の真意を理解して発した言葉。おっしゃる通り将来の中宮の位にということなのですね、の意。

 [第三段 御方々の薫物]
【この夕暮れのしめりにこころみむ】−源氏の詞を使者に言わせたもの。
【これ分かせたまへ。 誰れにか見せむ】−源氏の詞。「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(古今集春上、三八、紀友則)
【知る人にもあらずや】−蛍兵部卿宮の返事。「君ならで」歌の文句を引用して答える。
【かのわが御二種のは】−「承和の御いましめの二つの方」の「黒方」と「侍従」の香。
【右近の陣の御溝水のほとりになずらへて】−『河海抄』に「承和御時、右近陣の御溝の辺の地にうづまる。後代相伝して其所をたがへず云々」とある。承和の御時になぞらえた趣向。
【惟光の宰相の子の兵衛尉】−惟光は宰相(参議)に昇進。その子も兵衛尉の任官。初出。
【いと苦しき判者にも当たりてはべるかないと煙たしや】−蛍兵部卿宮の素晴しさに辟易した詞。
【同じうこそは】−以下「いと多かり」まで、語り手の推量や判断を交えた叙述。『評釈』は「兵部卿の宮が心に思ったのか、語り手の批評か、作者の言葉か。いずれとも決しがたいところが物語らしい」という。
【さいへども】−前斎院が和歌で謙遜していたことをさす。
【すぐれてなまめかしうなつかしき香なり】−蛍宮の源氏の「侍従」の判定。斎院の黒方は地の文に折り込んで語る。
【三種ある中に】−黒方、侍従、梅香をさす。「黒方」は冬の香、「心にくくしづやかなる匂い」。「侍従」は秋の香、「なまめかしくなつかしき香」。「梅花」は春の香、「はなやかに今めかし」とある。
【このころの風にたぐへむにはさらにこれにまさる匂ひあらじ】−蛍宮の梅香に対する批評。梅香方は春の香である。「風にたぐへむ」は「花の香を風のたよりにたぐへてぞ鴬誘ふしるべにはやる」(古今集春上、一三、紀友則)を踏まえる。
【夏の御方には】−花散里をいう。
【煙をさへ思ひ消え】−「薫物」の縁で「煙」「消え」という。
【荷葉を一種】−夏の香。「しめやかなる香」「あはれになつかし」とある。
【冬の御方にも】−明石御方をいう。
【時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなし】−『完訳』は「黒方が冬、侍従が秋、梅花が春、荷葉が夏などと季節が一定。その型どおりの調合では他に圧倒されよう、そこで一趣向を案出」と注す。
【消たれむは】−「は」(係助詞)際立たせるニュアンスが加わる。「消つ」は「薫物」の縁でいう。
【前の朱雀院のをうつさせたまひて公忠朝臣のことに選び仕うまつれりし百歩の方など】−「させ」(尊敬の助動詞)「たまひ」(尊敬の補助動詞)、最高敬語。『集成』は「前の朱雀院のご調合法を(朱雀院が)お学びあそばして、公忠の朝臣が特に工夫を凝らして献上した百歩の方」と解す。「百歩の方」は薫衣香の調合法の一つ。「なまめかしき」とある。
【世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたり】−地の文が蛍の宮の詞に移っている。
【心ぎたなき判者なめり】−源氏の詞。『完訳』は「当りさわりのない批評と冗談にけなす」と注す。

 [第四段 薫物合せ後の饗宴]
【月さし出でぬれば】−十日の月。夕刻やや早めに出る。
【霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり】−二月十日の六条院の風情。
【人の御心地いと艶あり】−語り手の評言。
【蔵人所の方にも】−六条院の蔵人所。摂関家にも置かれた。
【内の大殿の頭中将、弁少将なども】−内大臣の太郎君柏木と二郎君、後の紅梅大納言。
【折にあひたる調子】−『集成』は「春だから双調であろう」と注す。
【梅が枝出だしたるほど】−催馬楽「梅が枝」呂。「梅が枝に 来居る鴬 や 春かけて はれ 春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ あはれ そこよしや 雪は降りつつ」
【童にて韻塞ぎの折高砂謡ひし君なり】−「賢木」巻(第六章三段)に見える。
【鴬の声にやいとどあくがれむ心しめつる花のあたりに】−蛍宮の和歌。「鴬」は催馬楽「梅が枝」の語句を受け、「しめつる」は薫物の縁で用いたもの。
【千代も経ぬべし】−「いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千代も経ぬべし」(古今集春下、九六、素性法師)
【色も香もうつるばかりにこの春は花咲く宿をかれずもあらなむ】−源氏の唱和歌。「なむ」終助詞、他者に対するあつらえの気持ちを表す。
【鴬のねぐらの枝もなびくまでなほ吹きとほせ夜半の笛竹】−柏木の唱和歌。夕霧の横笛を誉める。
【心ありて風の避くめる花の木にとりあへぬまで吹きや寄るべき】−夕霧の唱和歌。「取りあへぬ」の音に「鳥」(鴬)を響かす。「吹き」に風が吹くと笛を吹くの意を掛ける。「や」(係助詞)「べき」(推量の助動詞)反語表現。
【情けなく】−和歌に添えた言葉。『集成』は「(それでは花が散るではありませんか)思いやりのないことだ、おっしゃると」の意に解す。
【霞だに月と花とを隔てずはねぐらの鳥もほころびなまし】−弁少将の唱和歌。「ほころぶ」は「花」の縁語。
【御車にたてまつらせたまふ】−「せ」(使役の助動詞)「給ふ」(尊敬の補助動詞)。源氏が人をして宮のお車までお届させなさる意。
【花の香をえならぬ袖にうつしもてことあやまりと妹やとがめむ】−蛍宮のお礼の歌。「花の香」は梅花香をさす。「妹」は妻をいう。
【いと屈したりや】−源氏の詞。『集成』は「(奥方を怖れて)ひどく気弱ですね」の意に解す。『新大系』は「大変な恐妻家ですね。ただし兵部卿宮には現在、北の方はいない」と注す。
【御車かくるほどに】−お車の轅を牛に付ける時に、の意。
【めづらしと故里人も待ちぞ見む花の錦を着て帰る君】−源氏の返歌。「故里人」は家にいる妻をさす。『完訳』は「宮邸にいる人の意」と解す。「錦を着て帰る」は『史記』項羽本紀の「富貴にして故郷に帰らざるは、繍を着て夜行くが如し」による。
【またなきことと思さるらむ】−源氏の歌に添えた詞。『集成』は「夫人のない兵部卿の宮を、めったに外泊しない恐妻家に見立ててからかう」と注す。
【いといたうからがりたまふ】−『完訳』は「宮は六条院を讃美したつもりだが、源氏の大仰な表現に屈伏」と解す。

 

第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着

 [第一段 明石の姫君の裳着]
【かくて西の御殿に】−六条院の秋の町の寝殿。
【戌の時に渡りたまふ】−午後七時から九時までの頃。主語は明石姫君。
【やがてこなたに参れり】−御髪上の内侍たちが中宮に従って六条院西の御殿に参上していた、の意。
【上もこのついでに中宮に御対面あり】−「上」は紫の上をいう。明石姫君の養母という立場。「このついで」とはその姫君の御裳着の儀式の折の意。初対面。
【子の時に御裳たてまつる】−中宮が腰結役を務める。
【思し捨つまじきを頼みにて】−以下「忍びたまふる」まで、源氏の詞。「思し捨つ」の主語は中宮、目的語は明石姫君。
【なめげなる姿を】−娘の童女姿を親として失礼な姿と謙っていう。
【後の世のためしにやと】−『集成』は「中宮の行啓を仰いで、腰結役をお願いするのは、前例がない名誉という」と注す。
【いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを】−以下「心おかれぬべく」まで、中宮の返事。
【のたまひ消つほどの御けはひ】−『集成』は「何でもないことのようにおっしゃるご様子が」。『完訳』は「こともなげに仰せになる」と解す。
【母君のかかる折だにえ見たてまつらぬを】−明石御方が娘の姫君を裳着の儀式に。
【参う上らせやせまし】−源氏の心。儀式に参列させようかしら、の意。
【かかる所の儀式は】−以下「こまかに書かず」まで、語り手の省筆の弁。『評釈』は「作者の言葉。「書く」という言葉を用いるのは珍しい。普通は「語る」「言ふ」である。この所は私の物語音読論の立場からすると困る例と見られようが、これは我々に語ってくれる女房に資料を提供してくれる女房がいて、それが現実に前の「御方々の女房、おし合せたる、数しらず見えたり」の中にいて、後々の例になるようにと思ってこの儀式のことを書き記した。それにこのように「こまかに書かず」という断わり書があった。それを物語り手が我々にそのまま語ってくれると解したい」と注す。『集成』は「物語筆記者が省筆をことわる草子地」と注す。

 [第二段 明石の姫君の入内準備]
【春宮の御元服は二十余日のほどになむありける】−東宮の御元服も同じ二月の二十日過ぎに行われた。「けり」過去の助動詞。儀式の終わった後から語るという語り口。
【心ざし思すなれど】−「なれ」伝聞推定の助動詞。
【左の大臣なども】−系図不詳の人。「行幸」「真木柱」に登場。
【思しとどまるなるを】−「なる」伝聞推定の助動詞。
【いとたいだいしきことなり】−以下「世に映えあらじ」まで、源氏の詞。
【宮仕への筋はあまたあるなかにすこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ】−宮仕えというものは大勢の妃方の中でわずかの優劣を競うのが本当だという考え。作者紫式部の後宮に対する考え方である。
【御参り延びぬ】−『集成』は「ほかの人々に譲る気持。余裕のある態度」と注す。
【左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と 聞こゆ】−「真木柱」巻の冷泉帝の後宮に「中宮、弘徽殿の女御、この宮の女御、左の大殿の女御などさぶらひたまふ」(第四章一段)とあるから、冷泉帝の左大臣の女御の妹三の君であろう。麗景殿女御。後の「宿木」巻に藤壷女御と呼称される。『集成』は「元服の副臥(春宮、皇子などの元服の夜、選ばれて添い寝する姫)である。権勢のある公卿の娘が選ばれ、皇妃の中では重い地位を占める」と注す。なお花散里が三の君でその姉が桐壷帝の麗景殿女御とあったという設定同じである。
【この御方は昔の御宿直所淑景舎を改めしつらひて】−明石の姫君は源氏の昔の宿直所、淑景舎を修繕して局とする。東宮は梨壷にいるので、桐壺はその北隣の殿舎である。
【宮にも心もとながらせたまへば】−春宮も明石姫君の入内を待ち遠しく思っている。
【四月にと定めさせたまふ】−「させ」「たまふ」(最高敬語)、主語は春宮。明石姫君の入内を四月にと春宮が御決定あそばすという意。

 [第三段 源氏の仮名論議]
【よろづのこと】−以下「かどや後れたらむ」まで、源氏の詞。当代の女性の仮名論。尚古思想。仮名だけは現代の方が優れているという。
【古き跡は定まれるやうにはあれど広き心ゆたかならず一筋に通ひてなむありける】−昔の書は一定の書法があるが、窮屈で一様で、個性的な豊さがないと批判。
【外よりてこそ】−『集成』は「近頃になってから」、『完訳』は「後の時代になってはじめて」の意に解す。文字は「外によりて」と当てる。
【女手】−『集成』は「「女手」は、一般に「男手」(漢字)に対する語で、女の書く文字、すなわち平仮名のこととされるが、後文によると、仮名の一体とすべきもののようである」と注す。
【中宮の母御息所の】−六条御息所の筆跡について、「際ことにおぼえしはや」と感想を述べる。
【さてあるまじき御名も立てきこえしぞかし】−源氏は、御息所の筆跡の見事さに引かれて恋するようになったと、紫の上を前にしていう。
【さしもあらざりけり】−源氏の自己弁護。それほど冷淡ではなかったのだ、という。
【宮の御手は】−秋好中宮の筆跡について、「こまかにをかしげなれど、才や遅れたらむ」と批評。
【故入道宮の御手は】−以下「ここにとこそは書きたまはめ」まで、源氏の詞。藤壷の筆跡について、「いと気色深くなまめいたる筋はありしかど弱き所つきてにほひぞ少なかりし」と批評。
【院の尚侍こそ】−朧月夜の筆跡について、「今の世の上手にはおはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる」と批評。
【かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ】−朧月夜君と朝顔姫君と紫の上は上手に書く人だ、の意。
【この数にはまばゆくや】−紫の上の謙遜の詞。
【いたうな過ぐしたまひそ】−以下「しどけなき文字こそ混じるめれ」まで、源氏の詞。紫の上の筆跡について、「にこやかなるかたの御なつかしさはことなるものを」と批評。
【真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ】−漢字と仮名文字を用いる男性への一般論。「ほどに」を、『集成』は「すればするだけ」の意に、『完訳』は「するわりには」の意に解す。
【兵部卿宮左衛門督などにものせむ】−以下「え書き並べじや」まで、源氏の詞。「兵部卿宮」は蛍宮、「左衛門督」はここだけに登場する系図不明の人。

 [第四段 草子執筆の依頼]
【このもの好みする若き人びと試みむ】−源氏の詞。
【葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け】−源氏の詞。
【例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ】−源氏、寝殿で草子を書く。「例の」は薫物合せの時と同様にの意。
【花ざかり過ぎて、 浅緑なる空うららかなるに】−「花」は桜の花。晩春の景色。
【草のもただのも女手もいみじう書き尽くし】−「草」は草仮名。しかし、「ただ」と「女手」の相違がはっきりしない。『集成』は「「女手」は、一般に「男手」(漢字)に対する語で、女の書く文字、すなわち平仮名のこととされるが、後文(この箇所)によると、仮名の一体とすべきもののようである」という。『完訳』は「「ただ」は普通の仮名、平仮名か。「女て」も平仮名とすると、「ただ」との違いが不明。「ただ」と「女て」を同格とみるべきか」と注す。
【飽く世なくめでたし】−その場を見聞した語り手の感想。『評釈』は「作者はその姿を「あく世なくめでたし」と賞賛する」という。
【見知らむ人はげにめでぬべき御ありさまなり】−その場を見聞した語り手の感想。『評釈』は「作者はその姿を「見しらむ人は、げにめでぬべき御有様なり」と賞賛した」という。

 [第五段 兵部卿宮、草子を持参]
【兵部卿宮渡りたまふ】−女房の詞。
【つれづれに籠もり】−以下「渡らせたまへる」まで、源氏の詞。歓迎の挨拶言葉。
【かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり】−蛍宮が来訪した事情を説明した文。『細流抄』は「草子地」と指摘。「せ」(使役の助動詞)、供人に持たせての意。
【やがて御覧ずれば】−人々の仮名を批評する。源氏の目(批評眼)を通して語る。
【すぐれてしもあらぬ御手を】−蛍宮の筆跡についての批評。
【ただかたかどに】−『集成』は「未熟ながら才気にまかせて」の意に解し、『完訳』は「それが一つの才能だが、の意。具体的には、次の「いといたう--けしき」(じつにすっきりと、あかぬけた感じ、の意)」と注す。
【いといたう筆澄みたるけしきありて】−蛍宮の筆跡についての批評。
【歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて】−『完訳』は「技巧をこらして、変った好みの古歌。風流人らしい撰歌である」という。
【文字少なに】−「文字」について『集成』は「仮名だけで書かず、漢字まじりにしたので、字数が少なくなっているのであろう」と字数の意に解し、『完訳』は「ほとんど全部仮名で」と漢字の意に解す。
【かうまでは】−以下「投げ捨てつべしや」まで、源氏のお世辞の詞。
【かかる御中に】−以下「思うたまふる」まで、蛍宮の冗談をまじえた返答。自負も窺える。
【唐の紙のいとすくみたるに草書きたまへる】−中国舶来の紙、ぱりっとした紙に草仮名で書いた。「いとすぐれてめでたし」と批評する。
【高麗の紙の肌こまかに和うなつかしきが色などははなやかならでなまめきたるにおほどかなる女手のうるはしう心とどめて書きたまへる】−高麗舶来の紙、紙質がきめこまやかで柔らかく温かい感じのする紙で、色も落ち着いた優雅な感じのする紙に女手で書いた。「たとふべきかたなし」と批評する。
【しどろもどろに】−「よしとてもよき名も立たず刈萱のいざ乱れなむしどろもどろに」(紫明抄所引、出典未詳)「まめなれどよき名も立たず刈萱のいざ乱れなむしどろもどろに」(古今六帖六、かるかや、三七八五)

 [第六段 他の人々持参の草子]
【はかなうをかしき】−『集成』は「整った正式の書体に対して下絵に合せて乱れ書いたものについての感じ」という。
【こなたかなた】−『集成』は「〔流れや葦が〕あちらこちらと」と解し、『完訳』は「葦と文字があちこち入り交じり」と解す。
【目も及ばずこれは暇いりぬべきものかな】−蛍宮の讃辞。『集成』は「手間のかかりそうなものですね」の意に解し、『完訳』は「観賞に時間がかかるの意。一説に葦手書きするのに、とする」と注す。

 [第七段 古万葉集と古今和歌集]
【古万葉集】−『万葉集』をさす。『万葉集』の古称。
【尽きせぬものかな】−以下「こそありけれ」まで、源氏の詞。
【女子などを持てはべらましにだにをさをさ見はやすまじきには伝ふまじきをまして朽ちぬべき】−蛍宮の詞。「まし」(推量の助動詞、反実仮想)、「だに」は打消や反語の表現を伴って、述語の表す動作・状態に対して、例外的、逆接的な事物、事態であることを示す。〜でさえ、〜さえもの意。女の子を仮にもっていましたにしても、その時でさえも、見る目を持たない者には、伝えないでしょうが、まして、女の子がいないのだから、このまま持っているのは、埋もれさせてしまうことだから、の意。
【またこのころはただ仮名の定めをしたまひて】−源氏、姫君のための書画類を調える。
【かの須磨の日記は末にも伝へ知らせむと思せど今すこし世をも思し知りなむにと思し返して】−源氏の心中を叙述。

 

第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語

 [第一段 内大臣家の近況]
【姫君の御ありさま盛りにととのひて】−雲居雁、二十歳。
【心弱く進み寄らむも】−以下「なびきなましかば」まで、内大臣の心中。「なりし」の「し」(過去の助動詞)、過去を振り返ったニュアンス。「な」(完了の助動詞)「ましか」(反実仮想の助動詞)「ば」(係助詞、仮定)。
【戯れにくき折】−「ありぬやとこころみがてらあひ見ねばたはぶれにくきまでぞ恋しき」(古今集俳諧歌、一〇二五、読人しらず)
【浅緑聞こえごちし】−浅緑の袍は六位の装束。

 [第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓]
【大臣は】−源氏をさす。
【あやしう浮きたるさまかな】−源氏の心中。結婚の決まらない夕霧の身の上を心配。
【かのわたりのこと】−以下「思ひ定められよ」まで、源氏の夕霧への詞。「かのわたり」は雲居雁をさす。「右大臣」「中務宮」はここだけの登場人物。「気色ばみいはせ給ふ」は娘を夕霧に縁づけたい意向をいう。「られ」は尊敬の助動詞。比較的軽い敬語。
【かやうのことは】−以下「ぞ深うあるべき」まで、源氏の夕霧への諭しの詞。
【かしこき御教へに】−故桐壷院の諭をさす。
【いはけなくより宮の内に生ひ出でて】−以下、源氏の幼少時代の回想。
【思ひしづむべきくさはひ】−妻子などをさす。
【人の名をも立て】−相手の浮名を立てること。

 [第三段 夕霧と雲居の雁の仲]
【恥づかしう憂き身と思し沈めど】−『集成』は「顔向けできぬ思いで、情けない身の上と悲観していらっしゃるが。親不孝を恥じる気持」と注す。『完訳』は「自分のせいで父を嘆かせる思うと恥ずかしい。深窓の姫君らしい素直な性格」と注す。
【上はつれなくおほどかにて】−「葦根はふうきは上こそつれなけれ下はえならず思ふ心を(拾遺集恋四、八九三、読人しらず)
【御文は思ひあまりたまふ折々】−夕霧から雲居雁への手紙。
【誰がまことをかと】−「いつはりと思ふものから今さらに誰がまことをか我は頼まむ(古今集恋四、七一三、読人しらず)
【世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり】−語り手の批評。『新釈』は「記者の批評を挿入したものである」と注す。
【中務宮なむ】−以下「思し交したなる」まで、女房の内大臣への注進。
【大臣はひき返し御胸ふたがるべし】−語り手の内大臣の心中を推測。『完訳』は「雲居雁入内を断念したのに続いて夕霧との結婚をも危ぶむ気持」と注す。
【さることをこそ聞きしか】−以下「人笑へならましこと」まで、内大臣の詞。雲居雁を前にしていう。
【情けなき人の御心にもありけるかな】−夕霧をさす。
【大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて】−源氏の大臣が夕霧と雲居雁との結婚に口添えなさったのに(「行幸」第二章二段にみえる)、強情にも内大臣がそれに従わなかったからといって、の意。
【引き違へたまふなるべし】−夕霧と中務宮の姫君とを結婚させようとなさるのだろう、の意。
【心弱くなびきても】−『完訳』は「源氏におもねる不面目。内大臣はこれまでも「人笑へ」を頻発。権門特有の家の恥の意識である」と注す。
【いかにせましなほや進み出でてけしきをとらまし】−内大臣の心中。
【あやしく心おくれても進み出でつる涙かないかに思しつらむ】−雲居雁の心中。
【さすがにぞ見たまふ】−『集成』は「夕霧が怨めしいが、それでもやはりお手紙を御覧になる」と注す。
【つれなさは憂き世の常になりゆくを忘れぬ人や人にことなる】−夕霧から雲居雁への贈歌。
【けしきばかりもかすめぬつれなさよ】−夕霧の和歌を見た雲居雁の心。「けしき」は夕霧と中務宮の姫君との縁談をさす。
【限りとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく心なるらむ】−雲居雁の返歌。「世」「忘れ」の語句を用いて返す。「世になびく」に縁談のことを言い含む。
【あやし】−夕霧が雲居雁の和歌を見た心。『集成』は「夕霧は、変なことが書いてあると、手紙を下にも置かず、じっと持ったまま不審そうに見ていらっしゃる。ほかの縁談に心を移すことなど、夢にも考えられないので、雲居の雁の歌の意味がすぐに分らないのである」と注す。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入