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渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)

  

薄雲


 [底本]
財団法人古代学協会・古代学研究所編 角田文衛・室伏信助監修『大島本 源氏物語』第四巻 一九九六年 角川書店

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第一巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第五巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第二巻 一九九四年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第四巻 一九八五年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第三巻 一九七八年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第二巻 一九七二年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第四巻 一九六五年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第二巻 一九五九年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第二巻 一九四九年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 明石の物語 母子の雪の別れ

  1. 明石、姫君の養女問題に苦慮する---冬になりゆくままに、川づらの住まひ
  2. 尼君、姫君を養女に出すことを勧める---尼君、思ひやり深き人にて
  3. 明石と乳母、和歌を唱和---雪、霰がちに、心細さまさりて
  4. 明石の母子の雪の別れ---この雪すこし解けて渡りたまへり
  5. 姫君、二条院へ到着---暗うおはし着きて、御車寄するより
  6. 歳末の大堰の明石---大堰には、尽きせず恋しきにも
第二章 源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活
  1. 東の院の花散里---年も返りぬ。うららかなる空に
  2. 源氏、大堰山荘訪問を思いつく---山里のつれづれをも絶えず思しやれば
  3. 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る---かしこには、いとのどやかに
第三章 藤壷の物語 藤壷女院の崩御
  1. 太政大臣薨去と天変地異---そのころ、太政大臣亡せたまひぬ
  2. 藤壷入道宮の病臥---入道后の宮、春のはじめより悩みわたらせたまひて
  3. 藤壷入道宮の崩御---大臣は、朝廷方ざまにても、かくやむごとなき
  4. 源氏、藤壷を哀悼---かしこき御身のほどと聞こゆるなかにも
第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし
  1. 夜居僧都、帝に密奏---御わざなども過ぎて、事ども静まりて
  2. 冷泉帝、出生の秘密を知る---主上、「何事ならむ。この世に恨み残るべく
  3. 帝、譲位の考えを漏らす---その日、式部卿の親王亡せたまひぬるよし
  4. 帝、源氏への譲位を思う---主上は、王命婦に詳しきことは
  5. 源氏、帝の意向を峻絶---秋の司召に、太政大臣になりたまふべきこと
第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画
  1. 斎宮女御、二条院に里下がり---斎宮の女御は、思ししもしるき御後見にて
  2. 源氏、女御と往時を語る---御几帳ばかりを隔てて、みづから
  3. 女御に春秋の好みを問う---「はかばかしき方の望みはさるものにて
  4. 源氏、紫の君と語らう---対に渡りたまひて、とみにも入りたまはず
  5. 源氏、大堰の明石を訪う---「山里の人も、いかに」など、絶えず思しやれど

 

第一章 明石の物語 母子の雪の別れ

 [第一段 明石、姫君の養女問題に苦慮する]
【冬になりゆくままに】−明石の祖母、母、孫娘の三人が秋に上京して季節は冬へと移っていく。女たちの心細さが冬の季節とともに深まっていく。
【川づら】−かは(は補入)つら大三−かつら横池耕書-かはつら御肖書。河内本は一本(宮)を除いて他は「かはつら」。別本もすべて「かはつら」。『集成』は大島本の補入に従って「川づら」。『完訳』は「桂」と校訂。その「校訂付記」に、青表紙本では他に穂久邇文庫本・伝後柏原院等筆本・吉田幸一氏本が「かつら」とある由である。しかし、地理的に「大堰」は「桂」ではない。「松風」巻でも「桂」と「大堰」を語り分けている。
【なほかくては】−以下「思ひたちね」まで、源氏の詞。二条東院へ移転するよう勧告。
【つらき所多く】−以下「いかに言ひてか」まで、明石の君の心中。「宿変へて待つにも見えずなりぬればつらき所の多くもあるかな」(後撰集恋三、七〇五、読人しらず)と「恨みての後さへ人のつらからばいかに言ひてか音をも泣かまし」(拾遺集恋五、九八五、読人しらず)を引歌とする。不安な気持ちを古歌に託して重層化する。
【残りなき心地すべきを】−『集成』は「身も蓋もない思いがされるだろうから」。『完訳』は「それこそすべておしまいという気持になるだろうから」と訳す。
【さらばこの若君を】−以下「しなさむと思ふ」まで、源氏の詞。姫君の引き取り、二条院で袴着の儀を催すことを申し出る。
【思ふ心あればかたじけなし】−将来、入内させ立后させようという考え。「かたじけなし」が使われるゆえん。
【さ思すらむと思ひわたることなれば】−明石の君は源氏は姫君を紫の君の養女として引き取ることを予測していた。
【改めてやむごとなき方に】−以下「思されむ」まで、明石の詞。『集成』は「姫君が紫の上のお子として大切に扱われなさっても」と訳す。
【前斎宮】−『集成』は「ぜんさいぐう」。『完訳』は「さきのさいぐう」と読む。横山本「さきの斎宮」。耕雲本「せんさい宮」とある。前斎宮、二十二歳。
【憎みがたげなめるほど】−明石の姫君、三歳。
【げにいにしへは】−以下「すぐれたまへるにこそは」まで、明石の心中。紫の君の宿縁と人柄のすばらしさを思う。
【ほの聞こえし御心】−『集成』は「ほのかにお噂を耳にした浮気なご性分」と訳す。
【数ならぬ人の】−以下「譲りきこえまし」まで、明石の君の心中。姫君を紫の君に譲ることを決心。
【さすがに立ち出でて】−『集成』は「それを押して人並みなお扱いを受けたら」。『完訳』は「おめおめ顔出ししたら」と訳す。

 [第二段 尼君、姫君を養女に出すことを勧める]
【尼君思ひやり深き人にて】−「思ひやり」は思慮の意。
【あぢきなし】−以下「ありさまをも聞きたまへ」まで、尼君の詞。
【故大納言】−源氏の母桐壷更衣の父、按察使大納言をさす。
【親王たち大臣の御腹といへど】−母親が親王方や大臣の娘と言っても。明石の君の場合は播磨国司の娘。
【なほさし向かひたる劣りの所には】−『集成』は「また、たとえ親王や大臣の姫君のお子といっても、身分は低くてもやはり現に北の方である人が生んだお子たちに比べては」。『完訳』は「また親王様や大臣の姫君の御腹といっても、やはりその母君が北の方でないのだったら、身分はよし劣っていても北の方の腹に生れた方より」と訳す。すなわち、母親が単に親王や大臣の娘というだけでは、だめ。身分は劣ってもやはり北の方の娘のほうが上という考え方である。紫の君は式部卿宮の妾の娘、明石は身分は低いが国司の本妻の娘といえる。
【深山隠れ】−「深山隠れ」歌語。「かたちこそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ」(古今集雑上、八七五、兼芸法師)。
【さかしき人の心の占どもにももの問はせなどするにも】−源氏辞去後。明石、姫君を手放すことを決意。「心の占」歌語。「かく恋ひむものとは我も思ひにき心の占ぞまさしかりける」(古今集恋四、七〇〇、読人しらず)。
【御袴着のことはいかやうにか】−源氏の手紙文。主旨。
【よろづのこと】−以下「人笑へにや」まで、明石の返事。姫君を引き渡すことを言う。
【君の御ためによかるべきことをこそは】−明石の心中。姫君にとって最善の方法を選択。
【乳母をも】−明石の君と乳母の離別前の語らいの場面。以下「おぼゆべきこと」まで、明石の心中。姫君を手放し、乳母とも別れねばならない悲しい気持ち。
【さるべきにや】−以下「はべるべきかな」まで、乳母の詞。こうなるのも前世からのご縁かと考える。
【年ごろの御心ばへ】−乳母になって三年になる。
【おぼえたまふべきを】−『集成』は「「おぼえたまふ」の「たまふ」は、明石の上に対する敬語。直訳すれば、(自分に)思われなさる」と注す。
【師走にもなりぬ】−源氏、三十一歳の十二月。巻頭の「冬になりゆくままに」から歳末の十二月へと推移。

 [第三段 明石と乳母、和歌を唱和]
【雪霰がちに心細さまさりて】−十二月の雪や霰の降る日、明石の君、姫君を愛撫。『完訳』は「以下、別離の迫る明石の君の心を、厳冬十二月の凍つく情景を通して語る」。源氏物語の季節と物語の主題との連関性。
【あやしくさまざまにもの思ふべかりける身かな】−明石の心中。
【この君を】−姫君をさす。
【雪かきくらし降りつもる朝】−雪の朝の場面。明石、乳母と歌を唱和。
【端近なる出で居などもせぬを汀の氷など見やりて】−明石の君、端近に出て庭の池の水際の氷を眺めやる姿態。『完訳』は「「白き衣」とともに、寒冷の色彩による映像」と注す。
【限りなき人と聞こゆともかうこそはおはすらめ】−女房の心中。明石の君の貴夫人に劣らぬすばらしさを礼讃。
【かやうならむ日ましていかにおぼつかなからむ】−明石の心中。姫君を手放した後の寂寥感を思う。
【らうたげに】−『集成』は「いたいたしげに」。『完訳』は「いかにもいたわしく」と訳す。
【雪深み深山の道は晴れずともなほ文かよへ跡絶えずして】−明石の君から乳母への歌。「文」と「踏み」の掛詞。「雪」と「晴」、「踏み」と「跡」は縁語。手紙を通わすよう願望。
【雪間なき吉野の山を訪ねても心のかよふ跡絶えめやは】−乳母から明石の君への唱和歌。「雪」「通ふ」「跡」を引用し、「深山」は「吉野の山」、「文通へ」は「心の通ふ」、「跡絶えずして」は「跡絶えめやは」と言い換えて、明石君の気持ちに応える。

 [第四段 明石の母子の雪の別れ]
【この雪すこし解けて】−雪が少し解けたころに、源氏が姫君を迎えに大堰山荘を訪問する。
【さならむとおぼゆることにより】−姫君引き取りをさす。雪が止み、路上の雪が解ければ、源氏はきっと姫君を引き取りに来るだろうという予想。
【人やりならずおぼゆ】−『集成』は「姫君と別れなくてはならぬのは、誰のせいでもない、自分のせいだとくやまれる」。『完訳』は「これも自らまねいたものだと思わずにはいられない」。自分の身分の低いことに起因すると考える。
【わが心にこそあらめ】−以下「あぢきな」まで、明石の心中。後悔の念。
【前にゐたまへるを見たまふに】−「前」は明石の君の前。「見たまふ」の主語は源氏。
【おろかには思ひがたかりける人の宿世かな】−源氏の心中。姫君を見て、明石の君との宿縁の深さを思う。
【尼削ぎのほどにて】−あまそき(そき補入)のほとにて大御−あまのほとにて横池耕−あまのほとに三 『集成』は「尼削ぎのほどにて」。『完訳』「尼のほどにて」と整訂。
【心の闇】−引歌、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)。
【うち返しのたまひ明かす】−『集成』は「繰り返し安心するようにおっしゃって夜を明かされる。「のたまひ明かす」を、説明すると解するのは誤り」と注す。『完訳』は「繰り返し夜一夜得心いくようにお言い聞かせになる」と訳す。
【何かかく】−以下「もてなしたまはば」まで、明石の返事。姫君のことを依頼する。
【あはれなり】−語り手の評。『完訳』は「人の胸をうつ痛ましさである」と訳す。
【姫君は何心もなく】−母親の心痛と姫君の無邪気さを対比、連続して語るが、場面は翌日に移る。
【御車に乗らむことを急ぎたまふ】−「む」推量の助動詞、意志を表す。姫君の車に無心に乗りたがって気持ちを語る。
【母君みづから抱きて出でたまへり】−母君自ら姫君を抱くのは特別。普段は乳母などが抱く。「出でたまへり」と敬語表現がある。母子別れの場面の圧巻。
【乗りたまへ】−姫君の詞であるが、前に「片言の」とあるから、語り手が言い換えた間接話法でもあろうか。
【末遠き二葉の松に引き別れいつか木高きかげを見るべき】−明石の君の歌。「二葉の松」は姫君を譬喩。「松」と「引き」は子の日にちなむ縁語。将来立派に成長することを祈念する。
【さりやあな苦し】−源氏の心中。明石の君に同情。
【生ひそめし根も深ければ武隈の松に小松の千代をならべむ】−源氏の返歌。「武隈の松」は明石の君を、「小松」は姫君を喩える。「いつか--見るべき」という明石の君の問いに対して、「武隈の松」に「小松の千代」を「並べむ」と応える。『集成』は「母子の深い宿縁もあることなのだから、いずれあなたと姫君は末長く暮すことになるでしょう」。『完訳』は「小松の生いはじめた根ざしも深いのだから、武隈の相生の松の間に並べて先々を見届けよう」「生れてきた因縁も深いのだから、やがて私たち二人で、この姫君と末長くいっしょに暮すことになるでしょう」と訳す。
【御送りに参らす】−主語は明石の君。「す」使役の助動詞。自らは送りに行かない。
【道すがら】−場面、大堰から二条院への道中に移る。牛車の中の源氏。
【いかに罪や得らむ】−源氏の心中。明石の心中を推察し、自責の念に駆られる。

 [第五段 姫君、二条院へ到着]
【暗うおはし着きて】−二条院へ到着。場面、二条院の寝殿か。「暗く」なって到着。とすると、その出立は午後になってからか。
【はしたなくてや交じらはむ】−乳母、少将の女房の心中。
【西表をことにしつらはせたまひて】−『集成』は「寝殿の西側であろう」。『完訳』は「西の対の西向きの座敷」と注す。西の対ならば南北に縦長。ここは東西に仕切っているから寝殿であろう。
【山里のつれづれましていかに】−源氏の心中。明石の君を思う。「まして」は姫君がいたころとの比較。
【明け暮れ思すさまにかしづきつつ見たまふは】−『完訳』は「紫の上が明けても暮れても申し分なく君の思いどおりに大事に育てていらっしゃるのをごらんになって」と訳す。
【ものあひたる心地したまふらむ】−語り手の想像。
【いかにぞや】−以下「出でおはせで」まで、源氏の心中。姫君を引き取って育てている満足な気持から反転して、紫に子の生まれないことを残念に思う。
【上に】−紫の上をいう。「蓬生」巻に「二条の上」「対の上」とあるが、並びの巻を除いては、初めての「上」の呼称。姫君を引き取って、養女として以後、「上」という呼称で待遇される。以下の巻でも「上」と呼称される。
【いみじううつくしきもの得たり】−紫の上の心中。
【やむごとなき人の乳ある添へて参りたまふ】−源氏は先の乳母の他に、もう一人、高貴な身分で乳の出る乳母を加えた。

 [第六段 歳末の大堰の明石]
【大堰には尽きせず恋しきにも】−歳暮、大堰山荘の明石の君と尼君の心境。
【身のおこたり】−『集成』は「姫君を手放した自分のふがいなさ」。『完訳』は「姫君を手放してしまった自分の迂闊さ」と訳す。わが身の運命のつたなさ、の意。
【何ごとをかなかなか訪らひきこえたまはむ】−語り手と明石の気持ちが一体化したところの表現。敬語「たまふ」がなければ、心中文となる。
【贈りきこえたまひける】−正月用の装束。明石に敬語がついている。
【待ち遠ならむ】−以下「いとどさればよ」まで、源氏の心中。明石の心中を思う。歳暮、源氏、大堰山荘を訪問を語る。しかしその描写なし。
【怨じきこえたまはず】−紫の上が明石の君を。「きこえ」という謙譲語が、次の「罪ゆるしきこえたまへり」にも使用されている。明石の君の地位・待遇の向上が窺われる。

 

第二章  源氏の女君たちの物語 新春の女君たちの生活

 [第一段 東の院の花散里]
【年も返りぬ】−源氏三十二歳、紫の上二十四歳、明石の君二十三歳、姫君四歳となる。
【うららかなる空に思ふことなき御ありさまはいとどめでたく磨き改めたる御よそひに参り集ひたまふめる人の】−以下「ころほひなりかし」まで、正月の二条院の様子。『完訳』は「新春の、至福の雰囲気。聖代の印象である」と注す。「初音」巻頭の新築なった六条院の正月の様子と表現が類似。
【七日、御よろこびなどしたまふ】−『集成』は「五日あるいは六日に、五位以上に位階が授けられる叙位の議があり、七日に位記が渡される。そのお礼言上である」と注す。
【次々の人も】−それより段々と身分の低い人。
【東の院の対の御方も】−以下「めやすき御ありさまなり」まで、二条東院の花散里の様子を語る。
【近きしるしはこよなくて】−裏に、遠くに住む明石の君が対比される。
【かばかりの宿世なりける身にこそあらめ】−花散里の心中。諦観する気持ち。

 [第二段 源氏、大堰山荘訪問を思いつく]
【山里のつれづれをも】−源氏、夕方、大堰山荘を訪問。
【ただならず見たてまつり送りたまふ】−紫の上の嫉妬の気持ち。
【明日帰り来む】−催馬楽「桜人」の文句。「桜人その舟止め島つ田を十町作れる見て帰り来むやそよや明日帰り来むそよや言をこそ明日とも言はめ遠方に妻ざる夫は明日もさね来じやそよやさ明日もさね来じやそよや」
【舟とむる遠方人のなくはこそ明日帰り来む夫と待ち見め】−紫の上の贈歌。催馬楽「桜人」の歌詞によって詠む。明日帰って来ると言っても、きっと帰って来ないでしょう、の意。
【行きて見て明日もさね来むなかなかに遠方人は心置くとも】−源氏の返歌。これも催馬楽「桜人」の歌詞によって返す。いや、きっと帰ってくるよ、の意。
【何事とも聞き分かでされありきたまふ人】−源氏、出かけて後、紫の上と明石の姫君。姫君の無邪気な様子。
【いかに思ひおこすらむわれにていみじう恋しかりぬべきさまを】−紫の上の心中。明石の君の立場に立って心中を思いやる。
【われにて】−『完訳』は「直接話法から間接話法に移る文脈」と注す。
【などか同じくはいでや】−女房のささやき。『集成』は「どうして、同じことなら(こちら様のお子としてお生れにならなかったのでしょう)。ままならぬものですね」。『完訳』は「紫の上に子が生れないのか」「思いどおりにいかぬ世の中よ」と訳す。

 [第三段 源氏、大堰山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る]
【かしこにはいとのどやかに】−大堰山荘。源氏と明石の君の対面。
【ただ世の常の】−以下「さてもあるべきを」まで、源氏の心中。『集成』は「ただ普通の受領の娘というだけでほかにすぐれた所もないならば」。『完訳』は「通常の受領の娘と思われる程度で格別目だたないのならば」と訳す。
【さるたぐひなくやはと】−『完訳』は「高貴な人が受領の娘を娶る例」と注す。
【なくやはと】−反語表現。ないことはない、ある。
【夢のわたりの浮橋かとのみ】−「世の中は夢の渡りの浮橋かうち渡りつつものをこそ思へ」(奥入所引、出典未詳)を引歌とする。
【いかでかうのみひき具しけむ】−源氏の感想。
【ここは、かかる所なれど】−源氏の大堰での生活と、源氏と明石の君の関係を語る。
【いとまほには乱れたまはねど】−『集成』は「心底から明石の上に夢中といった態度はお見せにならないが」。『完訳』は「まったく一途にこの女君に溺れるということではないにしても」と訳す。
【おぼえことには見ゆめれ】−『集成』は「草子地」と注す。語り手の批評、感想。
【近きほどに交じらひては】−以下「心地すれ」まで、明石の君の心中。
【と思ふべし】−『集成』は「語り手の立場から明石の気持を忖度する筆致」と注す。

 

第三章 藤壷の物語 藤壷女院の崩御

 [第一段 太政大臣薨去と天変地異]
【そのころ太政大臣亡せたまひぬ】−源氏の岳父、太政大臣。「澪標」巻に六十三歳とあったから、六十六歳で死去。『完訳』は「同年齢で死去の関白太政大臣藤原頼忠が想定されるか」と注す。
【帝は、御年よりはこよなう大人大人しう】−冷泉帝十四歳。
【誰れに譲りてかは】−以下「かなはむ」まで、源氏の心中を間接的に叙述。源氏の出家願望は、「葵」巻の妻葵の上を失い、引き続いて「賢木」巻で父桐壷帝を失ったころに始まり、「絵合」巻に嵯峨野御堂の建立、「松風」巻の月に二度の参詣というように深まり、日常化しつつある。「かは」は反語。それも不可能だの意。
【その年おほかた世の中騒がしくて】−『完訳』は「永祚元年(九八九)の史実によるとする説もある。前掲頼忠の死も同年」と注す。
【天つ空にも例に違へる月日星の光見え雲のたたずまひあり】−世人の詞。月食、日食、彗星、雲の様子等の、凶兆。
【内の大臣のみなむ御心のうちにわづらはしく思し知らるることありける】−『集成』は「源氏の内大臣だけが、ひそかに困ったことだとお気づきになるところがあった。自分が帝の実の父親でありながら臣下として仕えていることが、凶兆の原因であることを悟る」。『完訳』は「源氏の冷泉帝が自分と藤壷の秘密の子であることへの恐懼であろう。「のみ」の限定にも注意」と注す。

 [第二段 藤壷入道宮の病臥]
【院に別れたてまつらせたまひしほどは】−主語は帝。
【いといはけなくて】−「賢木」巻の桐壷院崩御の折、帝は五歳であった。
【今年はかならず】−以下「過ぎはべりぬること」まで、藤壷の詞。死を覚悟。
【三十七にぞおはしましける】−女の重い厄年。『完訳』は「当時は、十三・二十五・三十七歳など、生年の十二支がめぐってくる年が厄年とされた」と注す。
【慎ませたまふべき】−以下「せさせたまはざりけること」まで、帝の心中。『完訳』は「帝の心中。ただし会話的な丁寧語「はべり」が混じる」と注す。
【御慎みなどをも常よりことにせさせたまはざりけること】−『完訳』は「精進・潔斎・祈祷など。前の「功徳の事」と照応。前者が死を前提とする仏事であるのに対し、これは寿命を延ばすための仏事」と注す。藤壷は延命を願わない。
【おどろきてよろづのことせさせたまふ】−主語は帝。藤壷の容態や特に延命の加持祈祷などしないことに気づいて。
【高き宿世】−以下「人にまさりける身」まで、藤壷の心中。『完訳』は「栄華も憂愁も人にぬきんでたする点で、源氏晩年の述懐と酷似」と注す。
【飽かず思ふこと】−『集成』は「源氏に愛情は抱きながらも拒まねばならなかったことをいう」と注す。

 [第三段 藤壷入道宮の崩御]
【人知れぬあはれ】−『集成』は「藤壷への人知れぬ哀惜の思い」。『完訳』は「藤壷へのひそかな恋」と注す。
【月ごろ悩ませたまへる御心地に】−以下「ならせたまひにたること」まで、女房たちの詞。
【院の御遺言にかなひて】−以下「口惜しく」まで、藤壷の詞。
【などかうしも心弱きさまに】−源氏の心中。感情を抑える自制心。
【はかばかしからぬ】−以下「心地しなむはべる」まで、源氏の詞。
【燈火などの消え入るやうにて果てたまひぬれば】−『新大系』「釈迦の入滅に喩えた表現か。「無漏。(むろ)の妙法を説きて、無量の衆生を度(すく)ひ、後、当(まさ)に涅槃に入ること、煙尽きて灯の滅ゆるが如し」(法華経・安楽行品)」と注す。

 [第四段 源氏、藤壷を哀悼]
【年官年爵御封の物のさるべき限りして】−『完訳』は「当然お受けになってしかるべき年官や年爵、また御封などの給与の中から差し支えない範囲で」と訳す。
【今年ばかりは】−源氏の口ずさみ。「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(古今集哀傷、八三二、上野岑雄)を踏まえる。
【入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる】−源氏の独詠歌。東三条院詮子崩御の折の自作歌「雲の上も物思ふ春は墨染に霞む空さへあはれなるかな」(紫式部集)を踏まえる。
【人聞かぬ所なればかひなし】−語り手の言辞。『集成』は「誰も聞いている人のいない念誦堂でのこととて、この源氏の悲しみのお歌を知って唱和する人もなく、かいのないことだ。草子地」と注す。

 

第四章 冷泉帝の物語 出生の秘密と譲位ほのめかし

 [第一段 夜居僧都、帝に密奏]
【御わざなども過ぎて】−四十九日忌までの七日ごとの法事。
【宮の御事】−藤壷の病気平癒の祈祷。
【今は夜居など】−以下「心ざしに添へて」まで、僧都の返事。応諾。
【古き心ざしを添へて】−『集成』は「昔からご奉仕してまいりました志も取り添えまして(お勤めいたしましょう)」。『完訳』は「昔から代々のご恩顧にお報いする気持をこめて」と訳す。
【いと奏しがたく】−以下「思し召さむ」まで、僧都の詞。
【かへりては罪にもやまかり当たらむと】−『集成』は「かえって罪科に当りもいたしましょうかと」。『完訳』は「お話し申してはかえって仏罰をもこうむることになろうかと」と訳す。
【知ろし召さぬに罪重くて】−『集成』は「ご存じでいらせられぬと」「拙僧の罪も重くて。帝が、源氏が実の父であることをご存じなく、源氏に対して父としての礼を尽しておられぬために天変も起っている。真相を知る自分が、帝にそのことをお知らせしない罪は重い、という」。『完訳』は「僧都が告げないので帝が真実を知らぬための、僧都の罪。一説には、真実を知らぬ帝自身の罪」と注す。
【天眼恐ろしく】−『新大系』は「「天眼」は、遠近や昼夜などの区別なく物事を見通す力。青表紙他本多く「天の眼(まなこ)」は「天眼」の和語。このあたり、帝の出生の秘密に関する」と注す。
【何の益かははべらむ】−反語表現。何の益がございましょうか、まった無益なことになりましょう、の意。
【心ぎたなし】−『集成』は「未練がましい」。『完訳』は「不正直な」と訳す。

 [第二段 冷泉帝、出生の秘密を知る]
【何事ならむ】−以下「うたてあるものを」まで、帝の心中。
【いはけなかりし時より】−以下「つらく思ひぬる」まで、帝の詞。
【あなかしこ】−以下「その承りしさま」まで、僧都の詞。
【さらに】−「隠しとどむることなく」に係る。
【すべてかへりてよからぬ事にや漏り出ではべらむ】−『集成』は「(このまにしておきますと)かえってお為にならぬこととして世間に取り沙汰される恐れもございましょう」。『完訳』は「このまま内密にしておきますと、世間に取り沙汰されて、すべてかえってよからぬ結果となりはしないでしょうか」と訳す。
【仏天の告げあるによりて】−『集成』は「仏と天部の諸神(仏法の守護神)」。『完訳』は「「仏天」は仏の尊称。一説には仏と天。この「仏天の告げ」は「天変のさとし」とは別途の啓示」と注す。
【御祈り仕うまつらせたまふゆゑなむはべりし】−『完訳』は「秘事露顕を防ぎ、源氏の思慕を抑えさせるための祈祷であろう」と注す。
【詳しくは法師の心にえ悟りはべらず】−男女関係の問題であることをほのめかす。
【その承りしさま】−『完訳』は「以下、僧都の詳述を略す筆法」と注す。
【あさましうめづらかにて恐ろしうも悲しうもさまざまに御心乱れたり】−『集成』は「思いもかけぬ驚くべきことで。実の父が源氏であることをはじめてご承知になった気持」と注す。
【進み奏しつるを便なく思し召すにや】−僧都の心中。
【心に知らで過ぎなましかば】−以下「たぐひやあらむ」まで、帝の詞。
【さらになにがしと王命婦とより他の人】−以下「心より出しはべりぬること」まで、僧都の詞。「さらに」は「はべらず」に係る。
【さるによりなむいと恐ろしうはべる】−『集成』は「それだからこそ、大層恐ろしく存じられます。誰も知る者のない秘密だからこそ仏天の照覧が恐ろしい、の意」。『完訳』は「真相を知らせなかったら、天変が続き帝に天譴が下るだろう、それが恐ろしい」と注す。
【よろづのこと親の御世より始まるにこそはべるなれ】−「こそ」「なれ」伝聞推定の助動詞。万事親の因果が子に出現するという仏教思想。
【明け果てぬればまかでぬ】−夜が明けて僧都退出。
【主上は、夢のやうに】−僧都退出後の帝、苦悩煩悶する。翌日の物語。
【故院の御ためも】−以下「かたじけなかりける事」まで、帝の心中。
【出でさせたまはねば】−夜の御殿から。
【おほかた】−以下「ころなればなめり」まで、源氏の心中。

 [第三段 帝、譲位の考えを漏らす]
【その日式部卿の親王亡せたまひぬるよし奏するに】−桐壷帝の弟宮、桃園式部卿宮、朝顔斎院の父宮。
【世は尽きぬるにやあらむ】−以下「過ぐさまほしくなむ」まで、帝の詞。譲位したい希望を述べる。
【世間のことも思ひ憚りつれ】−『新大系』「「世間の事」は、自分が帝位にあることをいう。「心やすきさま」は、譲位後の安寧な生活をさす」と注す。「こそ」「つれ」已然形、係結び。逆接用法。
【いとあるまじき御ことなり】−以下「思し嘆くべきことにもはべらず」まで、源氏の詞。強く諌止する。
【片端まねぶもいとかたはらいたしや】−『集成』は「その一端をお話しするのも、とても気のひけることです。政道に関することへの言及を女として憚る草子地」と注す。
【いかでこのことをかすめ聞こえばや】−冷泉帝の心中。出生の秘密を知ったことを源氏に。
【はしたなくも思しぬべきこと】−主語は源氏。

 [第四段 帝、源氏への譲位を思う]
【今さらに】−以下「問ひ聞かむ」まで、帝の心中。
【かの人】−王命婦をさす。
【唐土には現はれても忍びても】−以下「さもや譲りきこえまし」まで、帝の心中。『集成』は「公然のこととしても秘密のことでも」。『完訳』は「表沙汰になったのにしても、内密のものにしても」と訳す。
【いかでか伝へ知るやうのあらむ】−反語表現。『集成』は「どうして後世の人が知り得るわけがあろう」。『完訳』は「どうして後世に知るすべがあろう」と訳す。
【あまたの例ありけり】−一世の源氏で皇位に即いた例として、光仁天皇、桓武天皇、光孝天皇、宇多天皇。親王になった例として、是忠親王、是貞親王、兼明親王、盛明親王がある。
【人柄のかしこきにことよせてさもや譲りきこえまし】−源氏に譲位することを思う。

 [第五段 源氏、帝の意向を峻絶]
【秋の司召に】−季節は秋に推移。秋の司召は京官を任命。
【故院の御心ざし】−以下「思ひたまふる」まで、源氏の詞。
【とりわきて思し召しながら】−桐壷院が源氏を。
【何か】−「昇りはべらむ」に係る。反語表現。
【いと口惜しうなむ思しける】−帝の心中。間接的表現。
【しばしと思すところありて】−真に政界で実力が発揮できる官職は内大臣である。太政大臣は名目的になる。養女の斎宮女御の立后はまだである(「少女」巻)。
【ただ御位添ひて牛車聴されて】−太政大臣の位階、従一位に昇り、牛車で建礼門までの出入りが許される。
【世の中の御後見】−以下「静かなるさまに」まで、源氏の心中。
【故宮の御ためにも】−以下「漏らし奏しけむ」まで、源氏の心中。『集成』は「亡き藤壷の宮にとってもお気の毒のことであり。帝が秘密を知られたことを察しての、源氏の心中」。『完訳』「藤壷があの世で秘密露顕を知って成仏できないだろうと」と注す。
【命婦は御匣殿の替はりたる所に移りて曹司たまはりて】−源氏、王命婦に質す。王命婦、御匣殿別当が転出した後任に就任して曹司を賜って出仕している。『完訳』は「出家の身の彼女がその後任になるのは不審」と注す。
【このことを】−以下「ことやありし」まで、源氏の詞。
【漏らし奏したまふ】−主語は藤壷。藤壷が帝に。
【案内したまへど】−『集成』は「事情をお尋ねになるが」。『完訳』は「探りをお入れになるけれど」と訳す。
【さらにかけても】−以下「嘆きたりし」まで、王命婦の返事。否定する。
【罪得ること】−『集成』は「帝がご存知なければ、源氏に子としての礼を尽せないことになるからである」。『完訳』は「しかし一方では、秘密を打ち明けねば帝が仏罰を受けようかと」と注す。

 

第五章 光る源氏の物語 春秋優劣論と六条院造営の計画

 [第一段 斎宮女御、二条院に里下がり]
【斎宮の女御は思ししもしるき御後見にて】−斎宮女御は帝の後見役を果たし、御寵愛も厚い。斎宮女御は二十三歳、帝十四歳で、九歳年長。
【もてかしづききこえたまへり】−源氏が斎宮女御を。
【秋のころ二条院にまかでたまへり】−斎宮、二条院に退出し、源氏と対面する。
【むげの親ざまに】−『集成』は「女御入内の時、源氏は朱雀院に遠慮して、表立って親代りという態度はとらなかった」。『完訳』は「源氏はもともと好色心を抱いていたが、彼女が入内した今では。「むげ」はおもしろからぬ気持」。『新大系』は「すっかり親になりきった態度で」と注す。
【秋の雨いと静かに降りて】−秋の雨の降る日、源氏、斎宮女御に対面。
【いにしへのことども】−六条御息所の思い出。野の宮の秋の訪問と離別、晩秋の死去など、秋にまつわる思い出。
【こまやかなる鈍色の御直衣姿にて】−源氏の喪服姿。深い服喪の気持を表明。
【世の中の騒がしきなどことつけたまひてやがて御精進なれば数珠ひき隠して】−『集成』は「ひそかに藤壷の冥福を祈る気持からである」と注す。

 [第二段 源氏、女御と往時を語る]
【前栽どもこそ】−以下「あはれにこそ」まで、源氏の詞。
【紐解きはべりにけれ】−「百草の花の紐解く秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ」(古今集秋上、二四六、読人しらず)を踏まえる。
【いとものすさまじき年なるを】−『集成』は「まことに何の興もない諒暗の年ですのに」と訳す。
【かくればとにや】−『集成』は「いにしへの昔のことをいとどしくかくれば袖ぞ露けかりける」(河海抄所引、出典未詳)。『完訳』は「わが思ふ人は草葉の露なれやかくれば袖のまづそほつらむ」(拾遺集恋二、七六一、読人しらず)を指摘。
【見たてまつらぬこそ口惜しけれ】−源氏の心中、間接的に語る。
【胸のうちつぶるるぞうたてあるや】−『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の評。源氏への非難を先取りし、読者をひきつける手法」と注す。
【過ぎにし方】−以下「思ひたまへらるれ」まで、源氏の詞。
【さるまじきことどもの心苦しきが】−『集成』は「いろいろかんばしからぬ色恋沙汰で相手の女に悪かったと思われることが」。『完訳』は「理不尽な恋ゆえにお気の毒なことになってしまったことが」と訳す。
【かうまでも仕うまつり御覧ぜらるるを】−源氏が斎宮女御をお世話し、また斎宮女御からお付き合いいただける、意。
【燃えし煙のむすぼほれたまひけむは】−藤原定家は「むすぼほれ燃えし煙もいかがせむ君だにこめよ長き契りを」(奥入所引、出典未詳)を指摘する。
【今一つは】−藤壷に関する件。
【中ごろ身のなきに】−以下「かひなくはべらむ」まで、源氏の詞。
【東の院にものする人】−花散里をさす。
【あはれとだにのたまはせずは】−『完訳』は「相手との魂の交感を切実に願望。「だに」の語気に注意」「せめて、かわいそうとだけでもおっしゃってくださいませんのなら」と注す。
【さりやあな心憂】−源氏の詞。『集成』は「やはりそうなのですね。なんと情けない。自分の意を汲んでくれないことに対する怨み言」と注す。
【今はいかでのどやかに】−以下「数まへさせたまへ」まで、源氏の詞。源氏一門の将来と特に明石姫君の入内の世話を依頼。
【この世の思ひ出にしつべきふしのはべらぬこそ】−『集成』は「実の娘の入内といった晴れがましい経験がない、ということであろう」。『完訳』は「明石の姫君の入内を思っての発言。一説に、斎宮の女御との恋」。『新大系』は「暗に、女御との恋をさすか」と注す。
【かならず】−大島本「かならす」。「数まへさせたまへ」に係る。青表紙本諸本には「かすならぬ」とある。
【幼き人】−明石の姫君をさす。四歳。
【この門広げさせたまひて】−源氏一門の繁栄。冷泉帝との間に皇子が生まれることを望む。
【数まへさせたまへ】−明石の姫君の将来を依頼。

 [第三段 女御に春秋の好みを問う]
【はかばかしき方の望みは】−以下「いづ方にか御心寄せはべるべからむ」まで、源氏の詞。話題転じて、春秋優劣論。
【春の花の林秋の野の盛りを】−春の花の木と秋の野の草花とを比較。春秋優劣論。
【春の花の錦に如くものなし】−「晋の石季倫金谷に居り春花林に満ちて五十里の錦障を作る」(源氏釈所引、出典未詳)。「春に逢うて遊楽せざる、恐らくは是れ無心の人」(河海抄所引、出典未詳)。前者は『蒙求』「季倫錦障」と、後者は『白氏文集』巻第六十三「春遊」と関連するか。
【秋のあはれを取り立てて思へる】−「春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる」(拾遺集雑下、五一一、読人しらず)を踏まえる。
【見たまふに】−青表紙本諸本にも異同なし。「見たまふるに」とあるべきところ。「たまふ」は下二段活用の謙譲の補助動詞が適切な表現。
【花鳥の色をも音をも】−「花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり」(後撰集夏、二一二、藤原雅正)を踏まえる。
【ましていかが】−以下「思ひたまへられぬべけれ」まで、斎宮女御の返事。秋に心引かれると答える。
【いつとなきなかにあやしと聞きし夕べ】−「いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり」(古今集恋一、五四六、読人しらず)を踏まえる。
【はかなう消えたまひにし露のよすがにも思ひたまへられぬべけれ】−「消えたまひにし」は、自分の母御息所に対する敬語表現。「られ」自発の助動詞。
【君もさはあはれを交はせ人知れずわが身にしむる秋の夕風】−源氏の歌。『新大系』は「恋情をこめて親交を求める歌」と注す。
【心得ずと思したる御けしきなり】−『完訳』は「おっしゃることが合点がゆかぬといった御面持をしていらっしゃる」と訳す。
【このついでにえ籠めたまはで恨みきこえたまふことどもあるべし】−『集成』は「草子地。かねて省筆の筆法である」。『完訳』は「語り手の推測。彼女への恋情を訴えたにちがいないとする」と注す。
【いとうたて】−斎宮女御の心中。間接的に語る。
【あさましうも】−以下「つらからむ」まで、源氏の詞。
【かくこそあらざなれ】−『集成』は「自嘲気味の言葉」と注す。「なれ」伝聞推定の助動詞。
【うちしめりたる御匂ひ】−源氏のお召物の匂い。
【この御茵の移り香】−以下「ゆゆしう」まで、女房たちの詞。源氏を賞賛する。
【柳の枝に咲かせたる】−「梅が香を桜の花に匂はせて柳が枝に咲かせてしがな」(後拾遺集春上、八二、中原致時)を踏まえる。

 [第四段 源氏、紫の君と語らう]
【対に渡りたまひて】−二条院西の対。紫の上がいる対の屋。
【かうあながちなることに】−以下「ありけるよ」まで、源氏の心中。好色心を反省。
【これはいと似げなきことなり】−以下「許したまひけむ」まで、源氏の心中。斎宮女御への自制心と藤壷との恋は若く思慮浅かったがゆえの過ちで、仏神も許してくれよう、と考える。
【いにしへの好きは】−『集成』は「昔の好色沙汰。藤壷との密通」。『新大系』は「藤壷への恋慕をさす」と注す。
【と思しさますも】−源氏の心中文の間に語り手の文章が介在した形。
【なほこの道は】−以下「まさりけるかな」まで、再び源氏の心中。
【いとすくよかに】−主語は源氏。
【女御の秋に心を寄せたまへりしも】−以下「心苦しけれ」まで、源氏の詞。紫の上に春の曙が好きですねという。
【語らひきこえたまふ】−作庭の相談をもちかける意。

 [第五段 源氏、大堰の明石を訪う]
【山里の人もいかになど】−源氏、大堰山荘の明石の君を気づかう。
【世の中をあぢきなく】−以下「おほけなし」まで、源氏の心中。
【などかさしも思ふべき】−反語表現。どうしてそんなにも思うことがあろう、悲観する必要はない。
【おほけなし】−『集成』は「身のほどを知らぬ」。『完訳』は「それは身の程をわきまえぬ思いあがりというもの」と注す。
【見たてまつるに】−明石の君が源氏を。
【つらかりける御契りのさすがに浅からぬを思ふに】−『集成』は「ままならぬ源氏との仲ではあるが、さすがに姫君まで生した浅からぬ因縁を思うと」と注す。「ける」過去の助動詞。源氏との過去をふりかえった感慨。
【いと木繁き中より篝火どもの影の遣水の螢に見えまがふもをかし】−大堰川の鵜飼の篝火が螢の光に見える。螢の歌語的世界。源氏の抑制された恋情を象形。景情一致の場面。
【かかる住まひに】−以下「おぼえまし」まで、源氏の詞。「ましかば--まし」反実仮想の構文。
【漁りせし影忘られぬ篝火は身の浮舟や慕ひ来にけむ】−明石の君の歌。「漁り」「篝火」「浮舟」は縁語。「浮き」「憂き」の掛詞。
【思ひこそまがへられはべれ】−歌に添えた詞。『集成』は「まるであの頃のような思いがいたされます」と訳す。
【浅からぬしたの思ひを知らねばやなほ篝火の影は騒げる】−源氏の返歌。「篝火の影となる身のわびしきは流れて下に燃ゆるなりけり」(古今集恋一、五三〇、読人しらず)を踏まえる。「思ひ」に「火」を掛ける。
【誰れ憂きもの】−歌に添えた詞。「うたかたを思へば悲し世の中を誰憂きものと知らせそめけむ」(古今六帖、三、うたかた)の第四句の言葉。
【恨みたまへる】−連体形中止法。余情余韻を残す。
【例よりは日ごろ経たまふにやすこし思ひ紛れけむとぞ】−『集成』は「人の話を伝え聞いて書き留めたという体の草子地」。『新大系』は「伝聞形式によって巻末を結ぶ」と注す。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入