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 3若菜上(明融臨模本)3 
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 7渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)7 
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若菜上

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 11光る源氏の准太上天皇時代三十九歳暮から四十一歳三月までの物語
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 13第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び
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  • 朱雀院、女三の宮の将来を案じる---朱雀院の帝、先日の行幸の後、そのころから
  • 15 
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  • 東宮、父朱雀院を見舞う---東宮は、「このような御病気に加えて、御出家あそばす
  • 16 
     17
  • 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う---六条院からも、お見舞いが頻繁にある
  • 17 
     18
  • 夕霧、源氏の言葉を言上す---中納言の君は、「過ぎ去りました昔の事は、何とも
  • 18 
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  • 朱雀院の夕霧評---女房などは、覗き見申して
  • 19 
     20
  • 女三の宮の乳母、源氏を推薦---姫宮がとてもかわいらしげで、幼く無邪気な
  • 20 
     2121 
     22第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾
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    23 
     24
  • 乳母と兄左中弁との相談---姫宮のご後見たちの中で、重々しい御乳母の兄
  • 24 
     25
  • 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上---乳母が、また別の機会に
  • 25 
     26
  • 朱雀院、内親王の結婚を苦慮---「そのように考えるからなのだ。皇女たちが
  • 26 
     27
  • 朱雀院、婿候補者を批評---「もう少し分別がおできになるまで
  • 27 
     28
  • 婿候補者たちの動静---太政大臣も、「この右衛門督が、今まで独身でいて
  • 28 
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  • 夕霧の心中---権中納言も、このような事柄をお聞きになって
  • 29 
     30
  • 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす---東宮におかれても、このような事をお耳にあそばして
  • 30 
     31
  • 源氏、承諾の意向を示す---この姫宮の御事、このようにお悩みの様子は
  • 31 
     3232 
     33第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家
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     35
  • 歳末、女三の宮の裳着催す---年も暮れた。朱雀院におかれては、御気分もやはり
  • 35 
     36
  • 秋好中宮、櫛を贈る---中宮からも、御装束、櫛の箱を、特別にお作らせに
  • 36 
     37
  • 朱雀院、出家す---御気分のたいそう苦しいのを我慢なさりながら、元気をお出しになって
  • 37 
     38
  • 源氏、朱雀院を見舞う---六条院も、少し御気分がよろしいとお耳に入れあそばして
  • 38 
     39
  • 朱雀院と源氏、親しく語り合う---院も、何となく心細くお思いになられて、我慢おできになれず
  • 39 
     40
  • 内親王の結婚の必要性を説く---お心の中でも、何と言っても関心のある御事なので
  • 40 
     41
  • 源氏、結婚を承諾---「そのように考えたこともありますが、それも難しいこと
  • 41 
     42
  • 朱雀院の饗宴---夜に入ったので、主人の院方も、お客の上達部たちも
  • 42 
     4343 
     44第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける
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    45 
     46
  • 源氏、結婚承諾を煩悶す---六条院は、何となく気が重くて、あれこれと思い悩みなさる
  • 46 
     47
  • 源氏、紫の上に打ち明ける---翌日、雪がちょっと降って、空模様も物思いを催し
  • 47 
     48
  • 紫の上の心中---心の中でも、「このように空から降って来たようなことなので
  • 48 
     4949 
     50第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う
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    51 
     52
  • 玉鬘、源氏に若菜を献ず---年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が、六条院にお移りになる
  • 52 
     53
  • 源氏、玉鬘と対面---人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり
  • 53 
     54
  • 源氏、玉鬘と和歌を唱和---尚侍の君も、すっかり立派に成熟して、貫祿まで加わって
  • 54 
     55
  • 管弦の遊び催す---朱雀院の御病気が、まだすっかり良くならないことによって
  • 55 
     56
  • 暁に玉鬘帰る---明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった
  • 56 
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     58第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
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     60
  • 女三の宮、六条院に降嫁---こうして、二月の十日過ぎに、朱雀院の姫宮、六条院へお輿入れになる
  • 60 
     61
  • 結婚の儀盛大に催さる---三日の間は、あちらの院からも、主人である院からも
  • 61 
     62
  • 源氏、結婚を後悔---三日間は、毎晩お通いになるのを
  • 62 
     63
  • 紫の上、眠れぬ夜を過ごす---長い間には、もしかしたらと思っていたいろいろな事も
  • 63 
     64
  • 六条院の女たち、紫の上に同情---このように女房たちが容易ならぬことを言ったり思ったりしているのも
  • 64 
     65
  • 源氏、夢に紫の上を見る---特別に恨めしいというのではないが、このように思い乱れ
  • 65 
     66
  • 源氏、女三の宮と和歌を贈答---今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになって
  • 66 
     67
  • 源氏、昼に宮の方に出向く---今日は、宮の御方に昼お渡りになる。特別
  • 67 
     68
  • 朱雀院、紫の上に手紙を贈る---院の帝は、その月のうちにお寺にお移りになった
  • 68 
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     70第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋
    70 
     71
    71 
     72
  • 源氏、朧月夜に今なお執心---いよいよこれまでと、女御、更衣たちなど、それぞれお別れ
  • 72 
     73
  • 和泉前司に手引きを依頼---その人の兄に当たる和泉前司を招き寄せて
  • 73 
     74
  • 紫の上に虚偽を言って出かける---「昔、逢瀬も難しかった時でさえ、お心をお通わし
  • 74 
     75
  • 源氏、朧月夜を訪問---その日は、寝殿へもお渡りにならず、お手紙だけを書き交わしなさる
  • 75 
     76
  • 朧月夜と一夜を過ごす---夜はたいそう更けて行く。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々などが
  • 76 
     77
  • 源氏、和歌を詠み交して出る---朝ぼらけの美しい空に、百千鳥の声が
  • 77 
     78
  • 源氏、自邸に帰る---たいそう人目を忍んで入って来られたその寝乱れ髪の様子を
  • 78 
     7979 
     80第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感
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    81 
     82
  • 明石姫君、懐妊して退出---桐壷の御方は、ずっと長いこと退出なさっていない
  • 82 
     83
  • 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る---対の上が、こちらにおいでになって、お会いなさるついでに
  • 83 
     84
  • 紫の上の手習い歌---対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きなさるものの
  • 84 
     85
  • 紫の上、女三の宮と対面---東宮の御方は、実の母君よりも、この御方を
  • 85 
     86
  • 世間の噂、静まる---それから後は、いつもお手紙のやりとりなどをなさって、おもしろい遊び事が
  • 86 
     8787 
     88第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う
    88 
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     90
  • 紫の上、薬師仏供養---神無月に、対の上は、院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で
  • 90 
     91
  • 精進落としの宴---二十三日を御精進落しの日として、こちらの院は
  • 91 
     92
  • 舞楽を演奏す---未の刻ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇じょう」などを
  • 92 
     93
  • 宴の後の寂寥---夜に入って、楽人たちが退出する。北の対の政所の別当連中は
  • 93 
     94
  • 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷---十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして
  • 94 
     95
  • 中宮主催の饗宴---宮のいらっしゃる町の寝殿に、御準備などをして
  • 95 
     96
  • 勅命による夕霧の饗宴---帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、やすやすとは中止できまいと
  • 96 
     97
  • 舞楽を演奏す---例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞、形ばかり舞って
  • 97 
     98
  • 饗宴の後の感懐---大将が、ただ一人りいらっしゃるのを、物足りなく
  • 98 
     9999 
     100第十章 明石の物語 男御子誕生
    100 
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    101 
     102
  • 明石女御、産期近づく---年が改まった。桐壷の御方の御出産が近づきなさったことによって
  • 102 
     103
  • 大尼君、孫の女御に昔を語る---あの大尼君も、今ではすっかりもうろくした人になったのであろう
  • 103 
     104
  • 明石御方、母尼君をたしなめる---たいそう物思いに沈んでいらっしゃるところに、御方がお上がりになって
  • 104 
     105
  • 明石女三代の和歌唱和---御加持が終わって退出したので、果物など
  • 105 
     106
  • 三月十日過ぎに男御子誕生---三月の十何日のころに、無事にお生まれになった
  • 106 
     107
  • 産養の儀盛大に催される---六日目という日に、いつもの御殿にお移りになった
  • 107 
     108
  • 紫の上と明石御方の仲---御方のお心構えが、気が利いていて気品があって
  • 108 
     109109 
     110第十一章 明石の物語 入道の手紙
    110 
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    111 
     112
  • 明石入道、手紙を贈る---あの明石でも、このようなお話を伝え聞いて
  • 112 
     113
  • 入道の手紙---「ここ数年というものは、同じこの世に生きておりましたが
  • 113 
     114
  • 手紙の追伸---「寿命の尽きる月日を、決してお心にかけてなさいますな
  • 114 
     115
  • 使者の話---尼君、この手紙を見て、その使いの大徳に尋ねると
  • 115 
     116
  • 明石御方、手紙を見る---明石御方は、南の御殿にいらっしゃったが、「このようなお手紙が
  • 116 
     117
  • 尼君と御方の感懐---尼君は、長い間涙を抑えて、「あなたのお蔭で
  • 117 
     118
  • 御方、部屋に戻る---「昨日も、大殿の君が、あちらにいると御覧になって
  • 118 
     119119 
     120第十二章 明石の物語 一族の宿世
    120 
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    121 
     122
  • 東宮からのお召しの催促---東宮から、早く参内なさるようにとのお召しが始終あるので
  • 122 
     123
  • 明石女御、手紙を見る---対の上などがお帰りになった夕方
  • 123 
     124
  • 源氏、女御の部屋に来る---院は、姫宮の御方にいらっしゃったが、中の御障子から
  • 124 
     125
  • 源氏、手紙を見る---さきほどの文箱も、慌てて隠すのも体裁が悪いので
  • 125 
     126
  • 源氏の感想---「年を取って、世の中の様子を、あれこれと分かって
  • 126 
     127
  • 源氏、紫の上の恩を説く---「この願文には、また一緒に差し上げねばならない物があります
  • 127 
     128
  • 明石御方、卑下す---「あなたこそは、少し物の道理が分かっていらっしゃるようだから
  • 128 
     129
  • 明石御方、宿世を思う---「ああして、たいそう大事になさるお気持ちが深まるばかりのようだこと
  • 129 
     130130 
     131第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る
    131 
     132
    132 
     133
  • 夕霧の女三の宮への思い---大将の君は、この姫宮の御事を、考えなかったわけでもないので
  • 133 
     134
  • 夕霧、女三の宮を他の女性と比較---このようなことを、大将の君も、「なるほど、立派な方は
  • 134 
     135
  • 柏木、女三の宮に執心---衛門督の君も、朱雀院に常に参上し、常日頃親しく伺候して
  • 135 
     136
  • 柏木ら東町に集い遊ぶ---三月ころの空がうららかに晴れた日、六条の院に
  • 136 
     137
  • 南町で蹴鞠を催す---だんだん日が暮れかかって行き、「風が吹かず、絶好の日だ」と興じて
  • 137 
     138
  • 女三の宮たちも見物す---たいそう稽古を積んだ技の数々が見えて、回が進んで行くにつれて
  • 138 
     139
  • 唐猫、御簾を引き開ける---御几帳類をだらしなく方寄せ方寄せして、女房がすぐ側にいて
  • 139 
     140
  • 柏木、女三の宮を垣間見る---几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で
  • 140 
     141
  • 夕霧、事態を憂慮す---大将は、たいそうはらはらしていたが、近寄るのも
  • 141 
     142142 
     143第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴
    143 
     144
    144 
     145
  • 蹴鞠の後の酒宴---大殿がこちらを御覧になって、「上達部の座席には、あまりに軽々しいな
  • 145 
     146
  • 源氏の昔語り---院は、昔話を始めなさって、「太政大臣が
  • 146 
     147
  • 柏木と夕霧、同車して帰る---大将の君と同車して、途中お話なさる
  • 147 
     148
  • 柏木、小侍従に手紙を送る---督の君は、やはり太政大臣邸の東の対に、独身で
  • 148 
     149
  • 女三の宮、柏木の手紙を見る---御前には女房たちがあまりいない時なので、この手紙を
  • 149 
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     151

    151 
     152 

    第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び

    152 
     153 [第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる]
    153 
     154 朱雀院の帝、先日の行幸の後、そのころから、御不例でずっと御病気でおいであそばす。もともと御病気がちでいらせられるが、今回は何となく心細くお思いあさばされて、
    154 
     155 「長年出家の願望は強いが、后の宮がご存命であった間は、いろいろと御遠慮申し上げなさって、今まで決意しないでいたが、やはりその方面に心が向くのだろうか、長くは生きていられないような気がする」
    155 
     156 などと仰せられて、しかるべきお心づもりをいろいろ御準備あそばす。
    156 
     157 御子たちは、東宮を別に申して、女宮たちがお四方いらっしゃった。その中でも、藤壷と申し上げた方は、先帝の源氏でいらっしゃった。
    157 
     158 まだ東宮と申し上げた時代に入内なさって、高い地位にもおつきになるはずであった方が、これと言ったご後見役もいらっしゃらず、母方も名門の家柄でなく、微力の更衣腹でいらっしゃったので、ご交際ぶりも頼りなさそうで、大后が尚侍の君をお入れ申し上げなさって、側に競争相手がいないほど重くお扱い申し上げなさったりしたので、圧倒されて、帝も御心中に、お気の毒にはお思い申し上げあそばしながら、御譲位あそばしたので、入内した甲斐もなく残念で、世の中を恨むような有様でお亡くなりになった。
    158 
     159 その腹の女三の宮を、大勢の御子たちの中で、特別にかわいがって大事になさっておいでになる。
    159 
     160 その当時、お年、十三、四歳ほどでいらっしゃる。
    160 
     161 「今を限りと世を捨てて、山籠もりした後に残って、誰を頼りとして行かれるのだろうか」
    161 
     162 と、ただこの御方のことだけが気がかりにお嘆きになる。
    162 
     163 西山にある御寺を完成させて、お移りあそばすための御準備をあそばすにつけても、またこの宮の御裳着の儀式を御準備あそばす。
    163 
     164 院の中に秘蔵していらっしゃる御宝物、御調度類は言うまでもなく、ちょっとしたお遊び道具類まで、少しでも由緒ある物は全て、ただこの御方にお譲り申し上げなさって、それに次ぐ品々を、他の御子たちには、御分配なさったのであった。
    164 
     165

    165 
     166 [第二段 東宮、父朱雀院を見舞う]
    166 
     167 東宮は、「このような御病気に加えて、御出家あそばすお心づもりだ」とお聞きあそばして、お越しあそばした。母女御、ご一緒申されておいでになった。格別のご寵愛というほどでもなかったが、東宮がこうしていらっしゃるご運勢が、この上なく素晴らしいので、久しぶりのお話、親しくお話し合いになったのであった。
    167 
     168 東宮にも、いろいろなこと、国をお治めになる時の御注意など、お教え申し上げなさる。お年のわりにはとてもよくご成人あそばされていて、ご後見役たちも、あちらこちらと、重々しい立派なお間柄でいらっしゃるので、たいそう安心だとお思い申し上げていらっしゃる。
    168 
     169 「この世に不満の残ることはございません。女宮たちが大勢後に残るその行く末を思いやると、それがいざ別れとなる時にきっと障りとなることでしょう。これまで、他人事として見たり聞いたりしてきたことが、女は思いがけず、軽々しく、世間から批判される運命であるのが、たいそう残念で悲しいことだ。
    169 
     170 どなたをも、御即位なさった御代には、何かにつけて、お心にかけてお世話なさって下さい。その中で、後見人のいる方は、そちらに任せてよいと思います。
    170 
     171 三の宮は、幼いお年頃で、ただわたし一人をずっと頼りとしてきたので、出家した後の世に、寄るべもなく心細い生活をするだろうことを、とてもまことに気がかりで悲しく思っております」
    171 
     172 と、お目を拭いながら、お聞かせ申し上げあそばす。
    172 
     173 女御にも、やさしくして下さるようお頼み申し上げあそばす。けれども、母女御が、他の人よりは優れて御寵愛が厚かったために、皆が競争なさい合ったころ、お妃方の御仲も、あまりよろしくできなかったので、その影響で、「なるほど、今では特に憎いなどとは思わなくても、本当に心にかけてお世話しようとまではお思いでなかろう」と推量されるのである。
    173 
     174 朝な夕なに、この方の御事を御心配なさる。年が暮れてゆくにつれて、御病気がほんとうに重くおなりあそばして、御簾の外にもお出ましにならない。御物の怪で、時々お悩みになったことはあったが、とてもこのようにいつまでもお悪いことはあり続けなかったが、「今度は、やはり、最期だ」とお思いでいらっしゃった。
    174 
     175 お位をお退きあそばしたが、やはりその当時にお頼り申し上げていらした方々は、今でもおやさしくご立派なお人柄を、心の慰め所にして参上しお仕えなさっている方々は、みな心の底からお悲しみ申し上げなさる。
    175 
     176

    176 
     177 [第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う]
    177 
     178 六条院からも、お見舞いが頻繁にある。ご自身も参上なさる由、お聞きあそばして、院はとてもたいそうお喜び申し上げあそばす。
    178 
     179 中納言の君が参上なさったのを、御簾の中に招き入れて、お話を親密になさる。
    179 
     180 「故院の帝が、御臨終の際に、多くの御遺言があった中で、この院の御事と今上の帝の御事を、特別に仰せになったが、皇位に即くと、何かと自由にならないもので、心の中の好意は、変わらないものの、ちょっとした事の行き違いから、お恨まれ申されることもあっただろうと思うが、長年何かにつけて、その時の恨みが残っていらっしゃるご様子をお見せにならない。
    180 
     181 賢人と言っても、自分自身の事となると、話は違って、心が動揺し、必ずその報復をし、道を踏みはずす例は、昔でさえ多くあったのだ。
    181 
     182 どのような時にか、お恨みの心が漏れ出ることだろうかと、世間の人々もその気で疑っていたが、とうとう辛抱なさって、東宮などにもご好意をお寄せ申されていらっしゃる。今では、またとなく親しい姻戚関係になって交際していらっしゃるのも、この上なく有り難く心の中では思いながら、生来の愚かさに加えて、子を思う親心で目がくらみ、見苦しいことではないかと思って、かえってよそ事のようにお任せ申している有様でございます。
    182 
     183 帝の御事は、あの御遺言通りに致しましたので、このような末世の名君として、これまでの不面目を挽回して下さる。願い通りで、まことに嬉しく思います。
    183 
     184 この秋の行幸の後は、昔のことがあれこれと思い出されて、懐かしくお会いしたく存じます。お目にかかって申し上げたいことどもがございます。必ずご自身お訪ね下さるよう、お勧め申し上げて下さい」
    184 
     185 などと、涙ぐみながら仰せになる。
    185 
     186

    186 
     187 [第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す]
    187 
     188 中納言の君は、
    188 
     189 「過ぎ去りました昔の事は、何とも分りかねがたく存じます。成人いたしまして、朝廷にもお仕え致す間に、世間の事をあれこれと経験してまいりますうちに、大小の公事につけても、私的な打ち解けた話し合いの中でも、『昔の辛い思いをしたことがあって』などと、ほのめかされることはございませんでした。
    189 
     190 『このように朝廷の御後見を中途でご辞退申して、静かな暮らしをしようと、すっかり籠居して後は、どのような事をも、関係ないようにして、故院の御遺言通りにもお仕え申すことができず、御在位時代には、年齢も器量も不十分で、すぐれた上位の方々が多くて、わたしの思いを十分に尽くして御覧いただくこともありませんでした。今は、このように御退位なさって、静かにお暮らしになっていらっしゃるこの折に、思いのまま心おきなく、参上してお話を承りたいが、そうは言っても何やら大層な身分のために、ついつい月日を過ごしたていること』
    190 
     191 と、時々お嘆き申していらっしゃいます」
    191 
     192 などと、奏上なさる。
    192 
     193 二十歳にもまだわずか足りない年齢であるが、まことに立派に年齢以上に成人して、器量も今を盛りに輝くばかりで、たいそう美しいので、お目に止めてじっと御覧あそばしながら、この御心中を悩ましていらっしゃる姫宮の御後見に、この人はどうかしらなどと、人知れずお考えよりになるのであった。
    193 
     194 「太政大臣の邸に、今は落ちつかれたそうですね。長年わけの分からない話のように聞いたのは、気の毒に思ったが、ほっとしたものの、やはり残念に思うことがあります」
    194 
     195 と仰せになる御様子を、「何を仰せになろうとするのかしら」と、不思議に思って考えてみると、「こちらの姫宮をこのように御心配なさって、適当な人がいたら、頼んで、気楽に俗世を離れたい、とお思いになって仰せになるのだろう」と、自然と漏れ聞きなさる伝もあったので、「そのようなことではないか」とは思ったが、すぐさま分かったような顔をして、どうしてお答え申し上げられよう。ただ、
    195 
     196 「頼りにもならないわたしには、妻もなかなか得がたくございます」
    196 
     197 とだけお答え申し上げるにとどまった。
    197 
     198

    198 
     199 [第五段 朱雀院の夕霧評]
    199 
     200 女房などは、覗き見申して、
    200 
     201 「本当に立派にお見えになる容貌や、態度ですこと」
    201 
     202 「ああ、素晴らしい」
    202 
     203 などと、集まってお噂申し上げているのを、年輩の女房は、
    203 
     204 「さあ、どうかしら、そうは言っても、あの院がこれぐらいお年でいらっしゃった時のご様子には、とてもお比べ申し上げることはおできになれません。実に眩しいほどお美しくいらっしゃいました」
    204 
     205 などと、言い合うのをお耳にあそばして、
    205 
     206 「本当に、あの方は特別の人であった。今はまた、あの当時以上に立派になって、光り輝くとはこれを言うべきなのかと見える輝きが、一段と加わっている。威儀を正して、公事に携わっているところを見ると、堂々として鮮やかで、目も眩ゆい気がするが、また一方に、うちくつろいで、冗談を言ってふざけるところは、その方面では、またとないほど愛嬌があって、親しみやすく愛らしいこと、この上ないのは、めったにいない人だ。何事につけても前世の果報が思いやられて、類稀な人柄だ。
    206 
     207 宮中で成長して、帝王がこの上なくおかわいがりなさり、あれほど大事にし、わが身以上に大切になさったが、いい気になって増長することもなく、謙虚にして、二十歳までは、中納言にもならずじまいだった。一つ越してか、宰相で大将を兼官なさったろう。
    207 
     208 それに比べて、こちらはこの上なく昇進しているのは、親から子へと次第に声望が高まっていくのであろう。本当に公事に関する才能、心構えなどは、こちらも決して父親に劣らず、たとい間違っても、年々老成してきたという評判は、たいそう格別なようだ」
    208 
     209 などと、お誉めあそばす。
    209 
     210

    210 
     211 [第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦]
    211 
     212 姫宮がとてもかわいらしげで、幼く無邪気なご様子であるのを拝見なさるにつけても、
    212 
     213 「はなやかにお世話して上げ、また一方では、至らないところは、見知らない体でそっと教えて上げるような人で、安心な方にお預け申したいものだ」
    213 
     214 などとお申し上げになる。
    214 
     215 年かさの御乳母たちを御前に召し出して、御裳着の時の事などを仰せになる折に、
    215 
     216 「六条の大殿が、式部卿の親王の娘を育て上げたというように、この姫宮を引き取って育ててくれる人がいないものか。臣下の中ではいそうにない。主上には中宮がいらっしゃる。それに次ぐ女御たちにしても、たいそう高貴な家柄の方ばかりが揃っていられるから、しっかりした御後見役がいなくて、そのような宮廷生活は、かえってしないほうがましだろう。
    216 
     217 この権中納言の朝臣が独身でいた時に、こっそり打診してみるべきであった。若いけれど、たいそう有能で、将来有望な人と思えるから」
    217 
     218 と仰せになる。
    218 
     219 「中納言は、もともとたいそう生真面目な方で、長年、あの方に心を懸けて、他の女性には心を移そうともしなかったのでございますから、その願いが叶ってからは、ますますお心の動くはずがございますまい。
    219 
     220 あの院こそは、かえって、依然としてどのようなことにつけても、女性にご関心の心は、引き続きお持ちのようでいらっしゃると聞いております。その中でも、高貴な女性を得たいとのお望みが深くて、前斎院などをも、今でも忘れることができずに、お便りを差し上げていらっしゃると聞いております」
    220 
     221 と申し上げる。
    221 
     222 「いや、その変わらない好色心が、たいそう心配だ」
    222 
     223 とは仰せになるが、
    223 
     224 「なるほど、大勢の婦人方の中に混じって、不愉快な思いをすることがあったとしても、やはり親代わりと決めたことにして、そのようにお譲り申そうか」
    224 
     225 などとも、お考えになるのだろう。
    225 
     226 「ほんとうに、少しでも結婚させようと思うような女の子を持っていたら、同じことなら、あの院の側に、添わせたいものだ。長くもない人生では、あのように満ち足りた気持ちで、過ごしたいものだ。
    226 
     227 わたしが女だったら、同じ姉弟ではあっても、きっと睦まじい仲になっていただろう。若かった時など、そのように思った。ましてや、女がだまされたりするようなのは、まことに、もっともなことだ」
    227 
     228 と仰せになって、御心中に、尚侍の君の御事も、自然とお思い出しになっているのであろう。
    228 
     229

    229 
     230 

    第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾

    230 
     231 [第一段 乳母と兄左中弁との相談]
    231 
     232 姫宮のご後見たちの中で、重々しい御乳母の兄、左中弁でいる者で、あちらの院の近臣として、長年仕えている者がいたのであった。こちらの宮にも特別の気持ちを持って仕えているので、参上した折に会って、話をした機会に、
    232 
     233 「院の上が、これこれしかじかの御意向があってお洩らしになったが、あちらの院に、機会があったらそれとなくお耳にお入れ申し上げてください。内親王たちは、独身でいらっしゃるのが通例ですが、いろいろなことにつけてご好意をお寄せ申し、どのような事柄につけても、ご後見なさる方がいることは頼もしいことです。
    233 
     234 院の上をお置き申しては、また心底からご心配申し上げなさる方もいないので、自分たちは、お仕え申しているが、どれほどのお役に立てましょうか。わたしの一存のままにもならず、自然と思いの他の事もおありになり、浮いた噂が立つような時には、どんなにか厄介なことでしょう。御存命中には、どのような形にせよ、姫宮のお身の上が決まったならば、お仕えしやすいことでしょう。
    234 
     235 高貴なご身分と申しても、女は、本当に運命が不安定でいらっしゃいますから、いろいろと心配な上に、このような多くの皇女たちの中で、特別大切にお扱い申されるにつけても、人の妬みもあるでしょうし、何とか少しの瑕もおつけ申すまい」
    235 
     236 と相談をもちかけると、弁は、
    236 
     237 「どのような御事なのでしょうか。院は、不思議なまでお心の変わらない方で、いったんご寵愛なさった女性は、お気に入った方も、またさほど深くなかった方をも、それぞれにつけてお引き取りになっては、大勢お集め申していらっしゃるが、大切にお思いなさる方は、限りがあって、お一方のようなので、そちらに片寄って、寂しい暮らしをしていらっしゃる方々が多いようですが、御宿縁があって、もし、そのようにあそばされるようなことがありましたら、どんなに大切な方と申しても、張り合って押して来られるようなことは、とてもできますまいと想像されますが、やはり、どのようなものかと案じられることがあるように存じられます。
    237 
     238 とはいえ、『この世での栄誉は、末世には過ぎて、身の上に不足はないが、女性関係では、人の非難を受け、自分自身の意に満たないところもある』と、いつも内々の閑談にお気持ちを漏らされるそうです。
    238 
     239 なるほど、わたくしどもが拝見致しても、そのようでいらっしゃいます。それぞれの御縁で、お世話なさっている方は、みな素姓の分からぬような卑しい身分ではいらっしゃいませんが、たかだか知れた臣下の身分ばかりで、院のご様子に並び得る声望のある方はいらっしゃるだろうか。
    239 
     240 それに、同じ事なら、御意向通りに御降嫁あそばしたら、どんなにお似合いのご夫婦となることでしょう」
    240 
     241 と内情を話したのを、
    241 
     242

    242 
     243 [第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上]
    243 
     244 乳母が、また別の機会に、
    244 
     245 「これこれしかじかの事を、某朝臣にそれとなく話しましたところ、『あちらの院では、きっとご承諾申し上げなさるでしょう。長年のご宿願が叶うとお思いになるはずのことですし、こちらの院の御許可が本当にあるのでしたらお伝え申し上げましょう』と申しておりましたが、どのように致しましょうか。
    245 
     246 身分身分に応じて、夫人それぞれの待遇をお考えになっては、めったにないお心づかいでいらっしゃるようですが、臣下の者でも、自分以外に寵愛を受ける女が横にいることは、誰でも不満に思うことでございますから、心外なことでございましょうかしら。ご後見を希望なさる方は、大勢いらっしゃるようです。
    246 
     247 よくお考えあそばしてお決めになるのがようございましょう。この上ない身分の人と申しても、今の世の中では、みなわだかまりなく、立派に処理して、夫婦仲を考え通りにお過ごしになられる方もいらっしゃるようですが、姫宮は、驚くほど気がかりで、頼りなくお見えでいらっしゃるし、伺候している女房たちは、お仕え申すにも限界がございましょう。
    247 
     248 大抵ご主人のご意向にお従い申して、賢明な下々の者もそのお考え通りに従うのが、心丈夫なことでしょう。特別のご後見がいらっしゃらないのは、やはり心細いことでございましょう」
    248 
     249 と申し上げる。
    249 
     250

    250 
     251 [第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮]
    251 
     252 「そのように考えるからなのだ。皇女たちが結婚している様子は、見苦しく軽薄なようでもあり、また高貴な身分といっても、女は男との結婚によって、悔やまれることも、しゃくに障る思いも、自然と生じるもののようだと、一方では不憫に思い悩むが、また一方で、頼りとする人に先立たれて、頼る人々に別れた後、自分の意志通りに世の中を生きて行くことも、昔は、人の心も穏やかで、世間から許されない身分違いのことは、考えもしないことであったろうが、今の世では、好色で淫らなことも、縁者を頼って聞こえてくるようだ。
    252 
     253 昨日まで高貴な親の家で大切にされて育てられていた姫が、今日は平凡な身分の低い好色者たちに浮名を立てられだまされて、亡き親の面目をつぶし、死後の名を辱めるような例が多く聞こえる。詮じつめれば、どちらも同じ事である。
    253 
     254 身分身分に応じて、宿世などということは、知りがたいことなので、万事が不安である。総じて、良くも悪くも、しかるべき人が指図しておいたようにして世の中を過ごして行くのは、それぞれの宿世であって、晩年に衰えることがあっても、自分自身の間違いにはならない。
    254 
     255 後になって、この上ない幸福がきて、見苦しからぬことになった時には、それでもかまわなかったと見えるが、やはり、その当座いきなり耳にした時には、親にも内緒だし、しかるべき保護者も許さないのに、自分勝手の秘事をしでかしたのは、女の身の上にはこれ以上ない欠点だと思われることだ。
    255 
     256 平凡な臣下の者同士でさえ、軽薄で良くないことである。本人の意志と無関係に事が運ばれて良いはずのものでもないが、自分の意に反しては結婚せず、運命の程が決めらるのは、たいそう軽率で、日常の態度、様子が想像されることよ。
    256 
     257 妙に頼りない性質ではないかと見えるようなご様子だから、お前たちの考えのままに、お取り計らい申し上げるというのは、そのようなことが世間に漏れ出るようなことは、まことに情けないことだ」
    257 
     258 などと、お残し申されて御出家あそばされる後のことを、不安にお思い申し上げていらっしゃるので、ますます厄介なことと思い合っていた。
    258 
     259

    259 
     260 [第四段 朱雀院、婿候補者を批評]
    260 
     261 「もう少し分別がおできになるまで世話してあげようとは、長年辛抱してきたが、深い出家の本懐も遂げずになってしまいそうな気がするので、つい気が急かされるものだ。
    261 
     262 あの六条の大殿は、なるほど、そうはいっても万事心得ていて、安心な点ではこの上ないが、あちこちに大勢いらっしゃるご夫人たちを考慮する必要もあるまい。何といっても、当人の心次第である。ゆったりと落ち着いていて、広く世の模範であり、信頼できる点では並ぶ者がなくおいでになる方である。この人以外で適当な人は誰がいようか。
    262 
     263 兵部卿宮、性質は好ましい。同じ皇族で、他人扱いして軽んじるべきではないが、あまりにひどく弱々しく風流めいていて、重々しいところが足りなくて、少し軽薄な感じが過ぎていよう。やはり、そのような人はたいそう頼りなさそうな気がする。
    263 
     264 また、大納言の朝臣が家司を望んでいるというのは、そうした点では、忠実に勤めるにちがいないだろうが、それでもどんなものか。その程度の世間一般の身分の者では、やはりとんでもない不釣合であろう。
    264 
     265 昔も、このような婿選びでは、万事につけ人より格別優れた評判のある者に、落ち着いたものだ。ただ一途に、他の女には目もくれず大事にしてくれる点だけを、立派なことだと考えるのは、実に物足りなく残念なことだ。
    265 
     266 右衛門督が内々希望していると、尚侍が話していたが、その人だけは、位などがもう少し一人前になったら、何の不釣合なことがあろう、と思いつくところだが、まだ年齢が若くて、あまりに軽い地位である。
    266 
     267 高貴な女性をという願いが強くて、独身で過ごしながら、たいそう沈着に理想を高く持している態度が、誰よりも抜群で、漢学なども難なく備わり、最後は世の重鎮となるはずの人なので、将来を期待できるが、やはり婿にと決めてしまうには、不十分ではないか」
    267 
     268 と、いろいろとお考え悩んでいらっしゃった。
    268 
     269 これほどにはお考えでない姉宮たちには、一向にお心をお悩ませ申し上げる人もいない。不思議と、内々に仰せになる内証事が、自然と広がって、気を揉む人々が多いのであった。
    269 
     270

    270 
     271 [第五段 婿候補者たちの動静]
    271 
     272 太政大臣も、
    272 
     273 「この右衛門督が、今まで独身でいて、内親王でなければ妻としないと思っているのを、このような御詮議が問題になっているという機会に、そのようにお願い申し上げて、召し寄せられたならば、どんなにか自分にとっても名誉なことで、嬉しいだろう」
    273 
     274 と、お思いになりおっしゃりもなさって、尚侍の君には、その姉の北の方を通じて、お伝え申し上げるのであった。あらん限りの言葉を尽くして奏上させて、御内意をお伺いになる。
    274 
     275 兵部卿宮は、左大将の北の方を貰い受け損ねなさって、お聞きになっているだろうところもあって、欠点があってはと、選り好みしていらっしゃったが、どうしてお心が動かないことがあろうか。この上なくやきもきしていらっしゃった。
    275 
     276 藤大納言は、長年院の別当として、親しくお仕え続けてきたが、御入山あそばして後、頼る所もなくきっと心細いだろうから、この宮の御後見を口実にして、お心にかけていただくよう、御内意を熱心に伺っていらっしゃるのであろう。
    276 
     277

    277 
     278 [第六段 夕霧の心中]
    278 
     279 権中納言も、このような事柄をお聞きになって、
    279 
     280 「人伝でもなく直接に、あれほど意中をお漏らしあそばした御様子を拝見したのだから、自然と何かの機会を待って、自分の意向をほのめかし、お耳にあそばすことがあったら、けっして外れることはあるまい」
    280 
     281 と、心をときめかしたにちがいなかろうが、
    281 
     282 「女君が、今はもう大丈夫と心から頼りにしていらっしゃるのを、長年、辛い仕打ちを口実に浮気しようと思えば出来た時でさえ、他の女への心変わりもなく過ごしてきたのに、無分別にも、今になって昔に戻って、急に心配をおかけできようか。並々ならぬ高貴なお方に関係したならば、どのようなことも思うようにならず、左右に気を使っては、自分も苦しいことだろう」
    282 
     283 などと、本来好色でない性格なので、心を抑えながら外には出さないが、やはり他人に決定してしまうのも、どんなことかと思わずにはいられず、聞き耳を立てるのであった。
    283 
     284

    284 
     285 [第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす]
    285 
     286 東宮におかれても、このような事をお耳にあそばして、
    286 
     287 「差し当たっての現在のことよりも、後の世の例となるべきのことですから、よくよくお考えあそばさなければならないことです。人柄がまあまあ良いといっても、臣下では限界があるので、やはり、そのようにお考えになられるならば、あの六条院にこそ、親代わりとしてお譲り申し上げあそばしませ」
    287 
     288 と、特別のお手紙というのではないが、御内意があったのを、お待ち受けお聞きあそばしても、
    288 
     289 「なるほど、おっしゃる通りだ。たいそうよく考えておっしゃったことだ」
    289 
     290 と、ますます御決心をお固めあそばして、まずは、あの弁を使者として、とりあえず事情をお伝え申し上げさせあそばすのであった。
    290 
     291

    291 
     292 [第八段 源氏、承諾の意向を示す]
    292 
     293 この姫宮の御事、このようにお悩みの様子は、以前からもみなお聞きになっていらっしゃったので、
    293 
     294 「お気の毒なことですね。そうはいっても、院の御寿命が短いといっても、わたしとてまた、どれほど生き残り申せると思ってか、姫の御後見のことをお引き受け申すことができようか。なるほど、年の順を間違わずに、もう暫くの間長生きできたら、大体の関係からいって、どの内親王たちをも、他人扱い申すはずもないが、またこのように特別に御心配の旨をお伺いしてしまったような方を、特別に御後見致そうと思うが、それさえも無常な世の中の定めなさということだ」
    294 
     295 とおっしゃって
    295 
     296 「それにもまして、一途に頼みにして戴くような者として、お親しみ申すことは、とてもかえって、引き続いて世を去るような時がおいたわしくて、自分自身にとっても容易ならぬ障りとなるにちがいなかろう。
    296 
     297 中納言などは、年も若く身分も軽々しいようだが、将来性があって、人柄も、最後は朝廷のご後見をするにちがいない見込みのようなので、そちらにお考えなさって、どうして申し分ないことがあろう。
    297 
     298 しかし、とてもたいそう生真面目で、思う人を妻にしたようなので、それに御遠慮あそばすのだろうか」
    298 
     299 などとおっしゃって、ご自身は思ってもいないというふうなので、弁は、並々な御決定でないことを、このようにおっしゃるので、お気の毒にも、残念にも思って、内々に御決意になった様子など、詳しく申し上げると、断ったとはいえ、やはりにっこりなさりながら、
    299 
     300 「とても大切にかわいがっていらっしゃる内親王のようなので、ひとえに過去や将来のことを深く考えたのだろうな。ただ、帝に差し上げなさるがよいであろう。れっきとした前からの人々がいらっしゃるということは、理由のないことである。そのことに支障の生じることではない。必ず、後から入内するからといって、後の人が疎略にされるものでない。
    300 
     301 故院の御時に、弘徽殿大后が、東宮の最初の女御として、威勢をふるっていらっしゃったが、はるか後に入内なさった入道宮に、暫くの間は圧倒されなさったのだ。
    301 
     302 この内親王の御母女御は、あの宮の御姉妹でいらっしゃったはず。器量も、その次には、おきれいな方だと言われなさった方であったから、どちらから見ても、この姫宮は並大抵の方ではいらっしゃるまいが」
    302 
     303 などと、興味深くお思い申し上げていらっしゃるのであろう。
    303 
     304

    304 
     305 

    第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家

    305 
     306 [第一段 歳末、女三の宮の裳着催す]
    306 
     307 年も暮れた。朱雀院におかれては、御気分もやはり快方に向かう御様子もないので、何かと気忙しく御決心なさって、御裳着の儀式は、その御準備なさる様子、過去にも将来にも例のないと思われるほど、盛大に大騷ぎである。
    307 
     308 お部屋の飾り付けは、柏殿の西表に、御帳台、御几帳をはじめとして、この国の綾や錦はお加えあそばさず、唐国の皇后の装飾を想像して、端麗で豪華に、光眩しいほどに御準備あそばした。
    308 
     309 御腰結の役には、太政大臣を前もってお願い申し上げていらっしゃったので、物事を大げさになさる方なので、参上しにくくお思いであったが、院のお言葉に昔から背きなさらないので、参上なさる。
    309 
     310 もう二方の大臣たち、その他の上達部などは、やむをえない支障がある者も、無理に何とかし都合をつけて参上なさる。親王たち八人、殿上人は言うまでもなく、内裏、東宮の人々も残らず参集して、盛大な御儀式の騷ぎである。
    310 
     311 院の御催事も、今回が最後であろうと、帝、東宮をおはじめ申して、お気の毒にお思いあそばされて、蔵人所、納殿の舶来品を、数多く献上させなさった。
    311 
     312 六条院からも、御祝儀がたいそう盛大にある。数々の贈り物や、人々の禄、尊者の大臣の御引出者など、あちらの院からご献上あそばしたものであった。
    312 
     313

    313 
     314 [第二段 秋好中宮、櫛を贈る]
    314 
     315 中宮からも、御装束、櫛の箱を、特別にお作らせになって、あの昔の御髪上の道具、趣のあるように手を加えて、それでいて元の感じも失わず、それと分かるようにして、その日の夕方、献上させなさった。中宮の権亮で、院の殿上にも伺候している人を御使者として、姫宮の御方に献上させるべく仰せになったが、このような歌が中にあったのである。
    315 
     316 「挿したまま昔から今に至りましたので
    316 
     317  玉の小櫛は古くなってしまいました」
    317 
     318 院が、御覧になって、しみじみとお思い出されることがあるのであった。あやかり物として悪くはないとお譲り申し上げなさるだが、なるほど、名誉な櫛なので、お返事も、昔の感情はさておいて、
    318 
     319 「あなたに引き続いて姫宮の幸福を見たいものです
    319 
     320  千秋万歳を告げる黄楊の小櫛が古くなるまで」
    320 
     321 とお祝い申し上げなさった。
    321 
     322

    322 
     323 [第三段 朱雀院、出家す]
    323 
     324 御気分のたいそう苦しいのを我慢なさりながら、元気をお出しになって、この御儀式がすっかり終わったので、三日過ぎて、とうとう御髪をお下ろしになる。普通の身分の者でさえ、今は最後と姿が変わるのは悲しいことなので、まして、お気の毒な御様子に、御妃方もお悲しみに暮れる。
    324 
     325 尚侍の君は、ぴったりとお側を離れずにいらして、ひどく思いつめていらっしゃるのを、慰めかねなさって、
    325 
     326 「子を思う道には限度があるなあ。このように悲しんでいらっしゃる別れが堪え難いことよ」
    326 
     327 といって、御決心が鈍ってしまいそうだが、無理に御脇息に寄りかかりなさって、山の座主をはじめとして、御授戒の阿闍梨三人が伺候して、法服などをお召しになるとき、この世をお別れなさる御儀式、堪らなく悲しい。
    327 
     328 今日は、人の世を悟りきった僧たちなどでさえ、涙を堪えかねるのだから、まして女宮たち、女御、更衣、おおぜいの男女たち、身分の上下の者たち、皆どよめいて泣き悲しむので、何とも心が落ち着かず、こうしたふうにでなく、静かな所に、そのまま籠もろうとお心づもりなさっていた本意と違って思われなさるのも、「ただもう、この幼い姫宮に引かれて」と仰せられる。
    328 
     329 帝をおはじめ申して、お見舞いの多いこと、いまさら言うまでもない。
    329 
     330

    330 
     331 [第四段 源氏、朱雀院を見舞う]
    331 
     332 六条院も、少し御気分がよろしいとお耳に入れあそばして、参上なさる。御下賜の御封など、みな同じように、退位された帝と同じく決まっていらっしゃったが、ほんとうの太上天皇の儀式には威勢をお張りにならない。世間の人々のお扱いや尊敬申し上げる様子などは、格別であるが、わざと簡略になさって、例によって、仰々しくないお車にお乗りになって、上達部などのしかるべき方だけが、お車でお供なさっていた。
    332 
     333 院におかれては、たいそうお待ちかねしてお喜び申し上げあそばして、苦しい御気分をしいて我慢なさって御対面なさる。格式ばらずに、ただ常の御座所に新たにお席を設けて、お入れ申し上げなさる。
    333 
     334 お変わりになった御様子を拝見なさると、過去も未来も真暗になって、悲しく涙を止めがたく思わずにはいらっしゃれないので、すぐには気持ちをお静めになれない。
    334 
     335 「故院に先立たれ申したころから、世の中が無常に存じられずにはいられませんでしたので、この方面への決心も深くなっていましたが、心弱くてぐずぐずしてばかりいまして、とうとうこのように拝見致すまで、遅れ申してしまいました心の怠慢を、恥ずかしく存ぜずにはいられませんなあ。
    335 
     336 わたくし自身のこととしては、たいしたことでもあるまいと決心致しました時々もありましたが、どうしても堪えられないことが多くございましたよ」
    336 
     337 と、心を静められないお思いでいらっしゃった。
    337 
     338

    338 
     339 [第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う]
    339 
     340 院も、何となく心細くお思いになられて、我慢おできになれず、涙をお流しになりながら、昔、今のお話、たいそう弱々そうにお話しあそばされて、
    340 
     341 「今日か明日かと思われながら、それでも年月を経てしまったが、つい油断して、心からの念願の一端も遂げずに終わってしまいそうなことだ、と思い立ったのです。
    341 
     342 こう出家しても余生がなければ、勤行の意志も果たせそうにありませんが、まずは一時なりとも、命を延ばしておいて、せめて念仏だけでもと思っています。何もできない身の上ですが、今まで生きながらえているのは、ただこの意志に引き留められていたと、存じられないわけではありませんが、今まで仏道に励まなかった怠慢だけでも、気にかかってなりません」
    342 
     343 とおっしゃって、考えていたことなどを、詳しく仰せになる機会に、
    343 
     344 「内親王たちを、大勢残して行きますのが気の毒です。その中でも、他に頼んでおく人のない姫を、格別に気がかりで、どうしたものかと苦にしております」
    344 
     345 とおっしゃって、はっきりとは仰せにならない御様子を、お気の毒と拝し上げなさる。
    345 
     346

    346 
     347 [第六段 内親王の結婚の必要性を説く]
    347 
     348 お心の中でも、何と言っても関心のある御事なので、お聞き過ごし難く思って、
    348 
     349 「仰せのとおり、尋常の臣下の者以上に、こういうご身分の方には、内々のご後見役がいないのは、いかにも残念なことでございますね。東宮がこうしてご立派にいらっしゃいますので、まことに末世には過ぎた畏れ多い儲けの君として、天下の頼り所として仰ぎ見申し上げておりますよ。
    349 
     350 まして、これこれのことは是非にと仰せおきなさることは、一事としていい加減に軽んじ申し上げなさるはずのことはございませんので、全然将来のことをお悩みになることはございませんが、なるほど、物事には限りがあるので、即位なさり、世の中の政治もお心のままにお執りなるとは言っても、姫宮の御ためには、どれほどのはっきりとしたお力添えができるものでもございません。
    350 
     351 総じて、内親王の御ためには、いろいろとほんとうのご後見に当たる者は、やはりしかるべき夫婦の契りを交わし、当然の役目として、お世話申し上げる御保護者のいますのが、安心なことでございましょうが、やはり、どうしても将来にご不安が残りそうでしたら、適当な人物をお選びになって、内々に、しかるべきお引き受け手をお決めおきあそばすのがよいことでしょう」
    351 
     352 と、奏上なさる。
    352 
     353

    353 
     354 [第七段 源氏、結婚を承諾]
    354 
     355 「そのように考えたこともありますが、それも難しいことなのです。昔の例を聞きましても、在位中の帝の内親王でさえ、人を選んで、そのような婿選びをなさった例は多かったのです。
    355 
     356 ましてこのように、これが最後とこの世を離れる時になって、仰々しく思い悩むこともないのですが、また一方、世を捨てた中にも、捨て去り難いことがあって、いろいろと思い悩んでいましたうちに、病気は重くなってゆく。再び取り戻すことのできない月日も過ぎて行くので、気が急いてなりません。
    356 
     357 恐縮なお譲りごとなのですが、この幼い内親王、一人、特別にお目にかけ育てくださって、適当な婿をも、あなたのお考え通りにお決めくださって、その人にお預けくださいと申し上げたいところですが。
    357 
     358 権中納言などが独身でいた時に、こちらから申し出るべきであった。太政大臣に先を越されて、残念に思っています」
    358 
     359 と申し上げなさる。
    359 
     360 「中納言の朝臣は、誠実という点では、たいそうよくお仕え致しましょうが、何事もまだ経験が浅くて、分別が足りのうございましょう。
    360 
     361 恐れ多いことですが、真心をこめてご後見させていただきましたら、御在俗中と違ってはお思いなされないでしょうが、ただ老い先が短くて、途中でお仕えできなくなることがございはしまいかと、懸念される点だけが、お気の毒でございます」
    361 
     362 と言って、お引き受け申し上げなさった。
    362 
     363

    363 
     364 [第八段 朱雀院の饗宴]
    364 
     365 夜に入ったので、主人の院方も、お客の上達部たちも、皆御前において、御饗応の事があり、精進料理で、格式ばらずに、風情ある感じにおさせになっていた。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、在俗の時とは違って差し上げるのを、人々は、涙をお拭いになる。しみじみとした和歌が詠まれたが、煩わしいので書かない。
    365 
     366 夜が更けてお帰りになる。禄の品々を、次々と御下賜される。別当の大納言もお送りに供奉申し上げなさる。主の院は、今日の雪にますますお風邪まで召されて、御気分が悪く苦しくいらっしゃるが、この姫宮の御身の上を、御依頼し決定なさったので、御安心なさったのであった。
    366 
     367

    367 
     368 

    第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける


    368 
     369 [第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す]
    369 
     370 六条院は、何となく気が重くて、あれこれと思い悩みなさる。
    370 
     371 紫の上も、このようなご決定があったと、以前からちらっとお聞きになっていたが、
    371 
     372 「決してそのようなことはあるまい。前斎院を熱心に言い寄っていらっしゃるようだったが、ことさら思いを遂げようとはなさらなかったのだから」
    372 
     373 などとお思いになって、「そのようなことがあったのですか」ともお尋ね申し上げなさらず、平気な顔でいらっしゃるので、おいたわしくて、
    373 
     374 「このことをどのようにお思いだろう。自分の心は少しも変わるはずもなく、そのことがあった場合には、かえってますます愛情が深くなることだろうが、それがお分りいただけない間は、どんなにお思い疑いなさるだろう」
    374 
     375 などと、気がかりにお思いになる。
    375 
     376 長の年月を経たこのごろでは、ましてお互いに心を隔て置き申し上げることもなく、しっくりしたご夫婦仲なので、一時でも心に隔てを残しているようなことがあるのも気が重いのだが、その晩はそのまま寝んで、夜を明かしなさった。
    376 
     377

    377 
     378 [第二段 源氏、紫の上に打ち明ける]
    378 
     379 翌日、雪がちょっと降って、空模様も物思いを催し、過去のこと将来のことをお話し合いなさる。
    379 
     380 「院がお弱りになりなさったが、お見舞いに参上して、ひどく胸を打たれることがありました。女三の宮の御身の上の事を、実に放っておきがたく思し召されて、これこれしかじかのことを仰せになったので、お気の毒で、お断り申し上げることができなくなってしまったのを、大げさに人は言いなすだろう。
    380 
     381 今は、そのようなことも気恥ずかしく、関心も持てなくなってきたので、人を通してそれとなく仰せになった時には、何とか逃げ申したが、対面した時に、あわれ深い親心をおっしゃり続けたのには、すげなくご辞退申し上げることができませんでした。
    381 
     382 深い山住み生活にお移りになるころには、こちらにお迎え申し上げることになろう。おもしろくなくお思いでしょうか。たとえどんなことがあっても、あなたにとって、今までと変わることは決してありませんから、気にかけないでくださいよ。
    382 
     383 あちらの方にとってこそ、お気の毒でしょう。その方も見苦しからずお世話しよう。皆が皆、穏やかにお過ごしくださったなら」
    383 
     384 などと申し上げなさる。
    384 
     385 ちょっとしたお浮気でさえ、目障りなとお思いなさって、心穏やかでないご性分なので、「どうお思いかしら」とお思いになると、まったく平静で、
    385 
     386 「ほんとうにお気の毒なご依頼ですこと。わたしには、どのような快からぬ心をお抱き申しましょうか。目障りな、こうしていてなどと、咎められないようでしたら、安心してここにいさせていただきましょうが、あちらの御母女御の御縁からいっても、仲好くしていただけるでしょうから」
    386 
     387 と、謙遜なさるのを、
    387 
     388 「あまり、こんなに、快くお許しくださるのも、どうしてかと、不安に思われます。ほんとうは、せめてそのように大目に見てくださって、自分もあちらの方も事情を分かりあって、穏やかに暮らしてくださるなら、一層ありがたいことです。
    388 
     389 根も葉もない噂などをする人の話は、信じなさるな。総じて、世間の人の口というものは、誰が言い出したということもなく、自然と他人の夫婦仲などを、事実とは違えて、意外な話が出て来るもののようですが、自分一人の心におさめて、成り行きに従うのが良い。早まって騷ぎ出して、つまらない嫉妬をなさるな」
    389 
     390 と、たいそう良くお教え申し上げなさる。
    390 
     391

    391 
     392 [第三段 紫の上の心中]
    392 
     393 心の中でも、
    393 
     394 「このように空から降って来たようなことなので、ご辞退できなかったのだから、恨み言は申し上げまい。ご自身気が咎めなさり、他人の諌めに従いなさるような、当人同士の心から出た恋でない。せき止めるすべもないものだから、馬鹿らしくうち沈んでいる様子、世間の人に漏れ見せまい。
    394 
     395 式部卿宮の大北の方が、常に呪わしそうな言葉をおっしゃっては、どうにもならない大将の御身の上の事についてまで、変に恨んだり妬んだりなさるというが、このように聞いて、どんなにかそれ見たことかと思うことだろう」
    395 
     396 などと、おっとりしたご性分とはいえ、どうしてこの程度の邪推をなさらないことがあろうか。今はもう大丈夫とばかり、わが身の上を気位を高く持って、気兼ねなく過ごして来た夫婦仲が、物笑いになろうことを、心の中では思い続けなさるが、表面はとても穏やかにばかり振る舞っていらっしゃった。
    396 
     397

    397 
     398 

    第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う


    398 
     399 [第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず]
    399 
     400 年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が、六条院にお移りになる御準備をなさる。ご求婚申し上げなさっていた方々は、たいそう残念にお嘆きになる。帝におかせられてもお気持ちがあって、お申し入れしていらっしゃるうちに、このような御決定をお耳にあそばして、お諦めになったのであった。
    400 
     401 それはそれとして実は、今年四十歳におなりになったので、その御賀のこと、朝廷でもお聞き流しなさらず、世を挙げての行事として、早くから評判であったが、いろいろと煩わしいことが多い厳めしい儀式は、昔からお嫌いなご性分であるから、皆ご辞退申し上げなさる。
    401 
     402 正月二十三日は、子の日なので、左大将殿の北の方が、若菜を献上なさる。前もってその様子も外に現しなさらず、とてもたいそう密かにご準備なさっていたので、急な事で、ご意見してご辞退申し上げることもできない。内々にではあるが、あれほどのご威勢なので、ご訪問の作法など、たいそう騷ぎが格別である。
    402 
     403 南の御殿の西の放出に御座席を設ける。屏風、壁代をはじめ、新しくすっかり取り替えられている。儀式ばって椅子などは立てず、御地敷四十枚、御褥、脇息など、総じてその道具類は、たいそう美しく整えさせていらっしゃった。
    403 
     404 螺鈿の御厨子二具に、御衣箱四つを置いて、夏冬の御装束。香壷、薬の箱、御硯、ゆする坏、掻上の箱などのような物を、目立たない所に善美を尽くしていらっしゃった。御插頭の台としては、沈や、紫檀で作り、珍しい紋様を凝らし、同じ金属製品でも、色を使いこなしているのは、趣があり、現代風で。
    404 
     405 尚侍の君は、風雅の心が深く、才気のある方なので、目新しい形に整えなさっていたが、儀式全般のこととしては、格別に仰々しくないようにしてある。
    405 
     406

    406 
     407 [第二段 源氏、玉鬘と対面]
    407 
     408 人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり、尚侍の君とご対面がある。お心の中では、昔を思い出しなさることがさまざまとあったことであろう。
    408 
     409 実に若々しく美しくて、このように御四十の賀などということは、数え違いではないかと、つい思われる様子で、優美で子を持つ親らしくなくいらっしゃるのを、珍しくて、歳月を経て拝見なさるのは、とても恥ずかしい思いがするが、やはり際立った隔てもなく、お話を交わしなさる。
    409 
     410 幼い君も、とてもかわいらしくいらっしゃる。尚侍の君は、続いて二人もお目にかけたくないとおっしゃったが、大将が、せめてこのような機会に御覧に入れようと言って、二人同じように、振り分け髪で、無邪気な童直衣姿でいらっしゃる。
    410 
     411 「年を取ると、自分自身では特に気にもならず、ただ昔のままの若々しい様子で、変わることもないのだが、このような孫たちができたことで、きまりの悪いまでに年を取ったことを思い知られる時もあるのですね。
    411 
     412 中納言が早々と子をなしたというのに、仰々しく分け隔てして、まだ見せませんよ。誰より先に、私の年を数えて祝ってくださった今日の子の日は、やはりつらく思われます。しばらくは老いを忘れてもいられたでしょうに」
    412 
     413 と申し上げなさる。
    413 
     414

    414 
     415 [第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和]
    415 
     416 尚侍の君も、すっかり立派に成熟して、貫祿まで加わって、素晴らしいご様子でいらっしゃった。
    416 
     417 「若葉が芽ぐむ野辺の小松を引き連れて
    417 
     418  育てて下さった元の岩根を祝う今日の子の日ですこと」
    418 
     419 と、強いて母親らしく申し上げなさる。沈の折敷を四つ用意して、御若菜を御祝儀ばかりに献上なさった。御杯をお取りになって、
    419 
     420 「小松原の将来のある齢にあやかって
    420 
     421  野辺の若菜も長生きするでしょう」
    421 
     422 などと詠み交わしなさっているうちに、上達部が大勢南の廂の間にお着きになる。
    422 
     423 式部卿宮は、参上しにくくお思いであったが、ご招待があったのに、このように親しい間柄で、わけがあるみたいに取られるのも具合が悪いので、日が高くなってからお渡りになった。
    423 
     424 大将が得意顔で、このようなお間柄ゆえ、すべて取り仕切っていらっしゃるのも、いかにも癪に障ることのようであるが、御孫の君たちは、どちらからも縁続きゆえに、骨身を惜しまず、雑用をなさっている。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をおはじめ申して、相当な方々ばかりが、次々に受け取って献上なさっていた。お杯が下されて、若菜の御羹をお召し上がりになる。御前には、沈の懸盤四つ、御坏類も好ましく現代風に作られていた。
    424 
     425

    425 
     426 [第四段 管弦の遊び催す]
    426 
     427 朱雀院の御病気が、まだすっかり良くならないことによって、楽人などはお召しにならない。管楽器などは、太政大臣が、そちらの方面はお整えになって、
    427 
     428 「世の中に、この御賀より他に立派で善美を尽くすような催しはまたとあるまい」
    428 
     429 とおっしゃって、優れた楽器ばかりを、以前からご準備なさっていたので、内輪の方々で音楽のお遊びが催される。
    429 
     430 それぞれ演奏する楽器の中で、和琴は、あの太政大臣が第一にご秘蔵なさっていた御琴である。このような名人が、日頃入念に弾き馴らしていらっしゃる音色、またとないほどなので、他の人は弾きにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを催促なさると、なるほど実に見事に、少しも父親に負けないほどに弾く。
    430 
     431 「どのようなことも、名人の後嗣と言っても、これほどにはとても継ぐことはできないものだ」と、奥ゆかしく感心なことに人々はお思いになる。それぞれの調子に従って、楽譜の整っている弾き方や、決まった型のある中国伝来の曲目は、かえって習い方もはっきりしているが、気分にまかせて、ただ掻き合わせるすが掻きに、すべての楽器の音色が一つになっていくのは、見事に素晴らしく、不思議なまでに響き合う。
    431 
     432 父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低い調子で調べ、余韻を多く響かせて掻き鳴らしなさる。こちらは、たいそう明るく高い調子で、親しみのある朗らかなので、「とてもこんなにまでとは知らなかった」と、親王たちはびっくりなさる。
    432 
     433 琴は、兵部卿宮がお弾きになる。この御琴は、宜陽殿の御物で、代々に第一の評判のあった御琴を、故院の晩年に、一品宮がお嗜みがおありであったので、御下賜なさったのを、この御賀の善美を尽しなさろうとして、大臣が願い出て賜ったという次々の伝来をお思いになると、実にしみじみと、昔のことが恋しくお思い出さずにはいらっしゃれない。
    433 
     434 親王も、酔い泣きを抑えることがおできになれない。ご心中をお察しになって、琴は御前にお譲り申し上げあそばす。感興にじっとしていらっしゃれずに、珍しい曲目を一曲だけお弾きなさると、儀式ばった仰々しさはないけれども、この上なく素晴らしい夜のお遊びである。
    434 
     435 唱歌の人々を御階に召して、美しい声ばかりで歌わせて、返り声に転じて行く。夜が更けて行くにつれて、楽器の調子など、親しみやすく変わって、「青柳」を演奏なさるころに、なるほど、ねぐらの鴬が目を覚ますに違いないほど、大変に素晴らしい。私的な催しの形式になさって、禄など、たいそう見事な物を用意なさっていた。
    435 
     436

    436 
     437 [第五段 暁に玉鬘帰る]
    437 
     438 明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった。
    438 
     439 「このように世を捨てたようにして毎日を送っていると、年月のたつのも気づかぬありさまだが、このように齢を数えて祝ってくださるにつけて、心細い気がする。
    439 
     440 時々は、前より年とったかどうか見比べにいらっしゃって下さいよ。このように老人の身の窮屈さから、思うままにお会いできないのも、まことに残念だ」
    440 
     441 などと申し上げなさって、しんみりとまた情趣深く、思い出しなさることがないでもないから、かえってちらっと顔を見せただけで、このように急いでお帰りになるのを、たいそう堪らなく残念に思わずにはいらっしゃれなかった。
    441 
     442 尚侍の君も、実の親は親子の宿縁とお思い申し上げなさるだけで、世にも珍しく親切であったお気持ちの程を、年月とともに、このようにお身の上が落ち着きなさったにつけても、並々ならずありがたく感謝申し上げなさるのであった。
    442 
     443

    443 
     444 

    第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁


    444 
     445 [第一段 女三の宮、六条院に降嫁]
    445 
     446 こうして、二月の十日過ぎに、朱雀院の姫宮、六条院へお輿入れになる。こちらの院におかれても、ご準備は並々でない。若菜を召し上がった西の放出に御帳台を設けて、そちらの西の第一、第二の対、渡殿にかけて、女房の局々に至るまで、念入りに整え飾らせなさっていた。宮中に入内なさる姫君の儀式に似せて、あちらの院からも御調度類が運ばれて来る。お移りになる儀式の盛大さは、今さら言うまでもない。
    446 
     447 御供奉に、上達部などが大勢お供なさる。あの家司をお望みになった大納言も、面白らかず思いながらも供奉なさっている。お車を寄せた所に、院がお出になって、お下ろし申し上げなさるなども、例には無いことである。
    447 
     448 臣下でいらっしゃるので、何もかも制限があって、入内の儀式とも違うし、婿の大君と言うのとも事情が違って、珍しいご夫婦の関係である。
    448 
     449

    449 
     450 [第二段 結婚の儀盛大に催さる]
    450 
     451 三日の間は、あちらの院からも、主人である院からも、盛大でまたとないほどの優雅な催しをお尽くしになる。
    451 
     452 対の上も何かにつけて、平静ではいらっしゃれないお身の回りである。なるほど、このようなことになったからと言って、すっかりあちらに負けて影が薄くなってしまうこともあるまいけれど、また一方でこれまで揺ぎない地位にいらしたのに、華やかでお年も若く、侮りがたい勢いでお輿入れになったので、何となく居心地が悪くお思いになるが、何気ないふうにばかり装って、お輿入れの時も、ご一緒に細々とした事までお世話なさって、まことにかいがいしいご様子を、ますます得がたい人だとお思い申し上げなさる。
    452 
     453 姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。
    453 
     454 あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、
    454 
    c2-1455-456 「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、《改行》
    まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどもあるまい」<BR>
    455 「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどもあるまい」<BR>
     457 とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。
    456 
     458

    457 
     459 [第三段 源氏、結婚を後悔]
    458 
     460 三日間は、毎晩お通いになるのを、今までにこのようなことは経験がおありでないので、堪えはするが、やはり胸が痛む。お召し物などを、いっそう念入りに香を薫きしめさせなさりながら、物思いに沈んでいらっしゃる様子は、たいそういじらしく美しい。
    459 
     461 「どうして、どんな事情があるにもせよ、他に妻を迎える必要があったのだろうか。浮気っぽく、気弱になっていた自分の失態から、このような事も出てきたのだ。若いけれど、中納言をお考えに入れずじまいだったようなのに」
    460 
     462 と、自分ながら情けなくお思い続けられて、つい涙ぐんで、
    461 
     463 「今夜だけは、無理もないこととお許しくださいな。これから後に来ない夜があったら、我ながら愛想が尽きるだろう。だが、とは言っても、あちらの院には何とお聞きになろうやら」
    462 
     464 と言って、思い悩んでいらっしゃるご心中、苦しそうである。少しほほ笑んで、
    463 
     465 「ご自身のお考えでさえ、お決めになれないようですのに、ましてわたしは無理からぬことやら何やら、どちらに決められましょう」
    464 
     466 と、取りつく島もないように話を逸らされるので、恥ずかしいまでに思われなさって、頬杖をおつきになって、寄り臥していらっしゃると、硯を引き寄せて、
    465 
     467 「眼のあたりに変われば変わる二人の仲でしたのに
    466 
     468  行く末長くとあてにしていましたとは」
    467 
     469 古歌などを書き交えていらっしゃるのを、取って御覧になって、何でもない歌であるが、いかにもと、道理に思って、
    468 
     470 「命は尽きることがあってもしかたのないことだが
    469 
     471  無常なこの世とは違う変わらない二人の仲なのだ」
    470 
     472 すぐにはお出かけになれないのを、
    471 
     473 「まこと不都合なことです」
    472 
     474 と、お促し申し上げなさると、柔らかで優美なお召し物に、たいそうよい匂いをさせてお出かけになるのを、お見送りなさるのも、まことに平気ではいられないだろう。
    473 
     475

    474 
     476 [第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす]
    475 
     477 長い間には、もしかしたらと思っていたいろいろな事も、今は終わりとすっかりお絶ちになって、ではこれで大丈夫と、安心なさるようになった今頃になって、とどのつまり、このような世間に外聞の悪い事が出て来るとは。安心できる二人の仲ではなかったのだから、これから先も不安にお思いになるのであった。
    476 
     478 あのようにさりげなく装ってはいらっしゃるが、伺候している女房たちも、
    477 
     479 「思いがけない事になりましたわね。大勢いらっしゃるようですが、どの方も、皆こちらのご威勢には一歩譲って遠慮なさって来たからこそ、何事もなく平穏でしたのに、誰憚らないこのようなやり方に、負けておしまいになったままではお過ごしになれまい」
    478 
     480 「でも、それはそれとして、ちょっとした事でも、穏やかならぬことがいろいろと起こったら、きっと面倒な事が持ち上がって来ましょうよ」
    479 
     481 などと、朋輩同士話し合って嘆いているふうなのを、少しも知らないふうに、まことに感じも優雅にお話などをなさりながら、夜が更けるまで起きていらっしゃる。
    480 
     482

    481 
     483 [第五段 六条院の女たち、紫の上に同情]
    482 
     484 このように女房たちが容易ならぬことを言ったり思ったりしているのも、聞きにくいことだとお思いになって、
    483 
     485 「このように、だれかれと大勢いらっしゃるようですが、お気持ちにかなった、華やかな高い身分ではないと、目馴れて物足りなくお思いになっていたところに、この宮がこのようにお輿入れなさったことは、本当に結構なことです。
    484 
     486 まだ、子供心が抜けないのでしょうか、わたしもお親しくさせていただきたいのですが、困ったことにこちらに隔て心があるかのように皆が考えようとするのかしら。同じ程度の人とか、劣っていると思う人に対しては、黙って聞き流すわけに行かないことも、ついつい起こるものですが、恐れ多く、お気の毒な御事情がおありらしいので、何とか親しくさせていただきたいと思っています」
    485 
     487 などとおっしゃると、中務、中将の君などといった女房たちは、目くばせしながら、
    486 
     488 「あまりなお心づかいですこと」
    487 
     489 などと、きっと言っているであろう。昔は、普通の女房よりは親しく使っていらした女房たちであるが、ここ何年かはこちらの御方にお仕えして、皆お味方申しているようである。
    488 
     490 他の御方々からも、
    489 
     491 「どのようなお気持ちでしょう。初めから諦めているわたしたちには、かえって平気ですが」
    490 
     492 などと、こちらの気を引きながら、お慰め申される方もあるが、
    491 
     493 「このように推量する人こそ、かえって厄介なこと。世の中もまことに無常なものなのに、どうしてそんなにばかり思い悩んでいよう」
    492 
     494 などとお思いになる。
    493 
     495 あまり遅くまで起きているのも、いつにないことと、皆が変に思うだろうと気が咎めて、お入りになったので、御衾をお掛けしたが、なるほど独り寝の寂しい夜々を過ごしてきたのも、やはり、穏やかならぬ気持ちがするが、あの須磨のお別れの時などをお思い出しになると、
    494 
     496 「もう最後だと、お離れになっても、ただ同じこの世に無事でいらっしゃるとお聞き申すのであったらと、自分の身の上までのことはさておいて、惜しみ悲しく思ったことだわ。あのまま、あの騷ぎの中に、自分も殿も死んでしまったならば、お話にもならない二人の仲であったろうに」
    495 
     497 とお思い直される。
    496 
     498 風が吹いている夜の様子が冷やかに感じられて、急には寝つかれなされないのを、近くに伺候している女房たち、変に思いはせぬかと、身動き一つなさらないのも、やはりまことにつらそうである。夜深いころの鶏の声が聞こえるのも、しみじみと哀れを感じさせる。
    497 
     499

    498 
     500 [第六段 源氏、夢に紫の上を見る]
    499 
     501 特別に恨めしいというのではないが、このように思い乱れなさったためであろうか、あちらの御夢に現れなさったので、ふと目をお覚ましになって、どうしたのかと胸騷ぎがなさるので、鶏の声をお待ちになっていたので、まだ夜の深いのも気づかないふりをして、急いでお帰りになる。とても子供子供したご様子なので、乳母たちが近くに伺候していた。
    500 
     502 妻戸を押し開けてお出になるのを、お見送り申し上げる。明け方の暗い空に、雪の光が見えてぼんやりとしている。後に残っている御匂いに、
    501 
     503 「闇はあやなし」
    502 
     504 とつい独り言が出る。
    503 
     505 雪は所々に消え残っているのが、真白な庭と、すぐには見分けがつかぬほどなので、
    504 
     506 「今も残っている雪」
    505 
     507 とひっそりとお口ずさみなさりながら、御格子をお叩きなさるのも、長い間こうしたことがなかったのが常となって、女房たちも空寝をしては、ややお待たせ申してから、引き上げた。
    506 
     508 「ずいぶん長かったので、身もすっかり冷えてしまったよ。お恐がり申す気持ちが並々でないからでしょう。とは言っても、別に私には罪はないのだがね」
    507 
     509 と言って、御衾を引きのけなどなさると、少し涙に濡れた御単衣の袖を引き隠して、素直でやさしいものの、仲直りしようとはなさらないお気持ちなど、とてもこちらが恥ずかしくなるくらい立派である。
    508 
     510 「この上ない身分の人と申しても、これほどの人はいまい」
    509 
     511 と、ついお比べにならずにはいられない。
    510 
     512 いろいろと昔のことをお思い出しになりながら、なかなか機嫌を直してくださらないのをお恨み申し上げなさって、その日はお過ごしになったので、お渡りになれず、寝殿にはお手紙を差し上げなさる。
    511 
     513 「今朝の雪で気分を悪くして、とても苦しゅうございますので、気楽な所で休んでおります」
    512 
     514 とある。御乳母は、
    513 
     515 「さように申し上げました」
    514 
    c1+1516 とだけ、口上で申し上げた。「そっけないお返事だ」とお思いになる。「院がお耳にあそばすこともおいたわしい、しばらくの間は人前を取り繕う」とお思いになるが、そうもできないので、「それは思ったとおりだった。ああ困ったことだ」と、ご自身お思い続けなさる。<BR>515-516 とだけ、口上で申し上げた。<BR>《改行》
     
    「そっけないお返事だ」とお思いになる。「院がお耳にあそばすこともおいたわしい、しばらくの間は人前を取り繕う」とお思いになるが、そうもできないので、「それは思ったとおりだった。ああ困ったことだ」と、ご自身お思い続けなさる。<BR>
     517 女君も、「お察しのないお方だ」と、迷惑がりなさる。
    517 
     518

    518 
     519 [第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答]
    519 
     520 今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになって、宮の御方にお手紙を差し上げなさる。特別に気の張らないご様子であるが、お筆などを選んで、白い紙に、
    520 
     521 「わたしたちの仲を邪魔するほどではありませんが
    521 
     522 降り乱れる今朝の淡雪にわたしの心も乱れています」
    522 
     523 梅の枝にお付けなさった。人を呼び寄せて、
    523 
     524 「西の渡殿から差し上げなさい」
    524 
     525 とおっしゃる。そのまま外を見出して、端近くにいらっしゃる。白い御衣類を何枚もお召しになって、花を玩びなさりながら、「友待つ雪」がほのかに残っている上に、雪の降りかかる空をながめていらっしゃった。鴬が初々しい声で、軒近い紅梅の梢で鳴いているのを、
    525 
     526 「袖が匂う」
    526 
     527 と花を手で隠して、御簾を押し上げて眺めていらっしゃる様子は、少しも、このような人の親で重い地位のお方とはお見えでなく、若々しく優美なご様子である。
    527 
     528 お返事が、少し暇どる感じなので、お入りになって、女君に花をお見せ申し上げなさる。
    528 
     529 「花と言ったら、このように匂いがあってよいものだな。桜に移したら、少しも他の花を見る気はしないだろうね」
    529 
     530 などとおっしゃる。
    530 
     531 「この花も、多くの花に目移りしないうちに咲くから、人目を引くのであろうか。桜の花の盛りに比べてみたいものだ」
    531 
     532 などとおっしゃっているところに、お返事がある。紅の薄様に、はっきりと包まれているので、どきりとして、ご筆跡のまことに幼稚なのを、
    532 
     533 「しばらくの間はお見せしないでおきたいものだ。隠すというのではないが、軽々しく人に見せたら、身分柄恐れ多いことだ」
    533 
     534 とお思いになると、お隠しになるというのもきっと気を悪くするだろうから、片端を広げていらっしゃるのを、横目で御覧になりながら、物に寄り臥していらっしゃった。
    534 
     535 「頼りなくて中空に消えてしまいそうです
    535 
     536  風に漂う春の淡雪のように」
    536 
     537 ご筆跡は、なるほどまことに未熟で幼稚である。「これほどの年になった人は、とてもこんなではいらっしゃらないものを」と、目につくが、見ないふりをなさって、お止めになった。
    537 
     538 他人のことならば、「こんなに下手な」などとは、こっそり申し上げなさるにちがいないのだが、気の毒で、ただ、
    538 
     539 「ご安心して、お思いなさい」
    539 
     540 とだけ申し上げなさる。
    540 
     541

    541 
     542 [第八段 源氏、昼に宮の方に出向く]
    542 
     543 今日は、宮の御方に昼お渡りになる。特別念入りにお化粧なさっているご様子、今初めて拝見する女房などは、宮以上に素晴らしいとお思い申し上げることであろう。御乳母などの年とった女房たちは、
    543 
     544 「さあ、どうでしょう。このお一方はご立派ですが、癪にさわるようなことがきっと起こることでしょう」
    544 
     545 と、嬉しいなかにも心配する者もいるのだった。
    545 
     546 女宮は、たいそうかわいらしげに子供っぽい様子で、お部屋飾りなどが仰々しく。堂々と整然としているが、ご自身は無心に、頼りないご様子で、まったくお召し物に埋まって、身体もないかのように、か弱くいらっしゃる。特に恥ずかしがりもなさらず、まるで子供が人見知りしないような感じがして、気の張らないかわいい感じでいらっしゃった。
    546 
     547 「院の帝は、男らしく理屈っぽい方面のご学問などは、しっかりしていらっしゃらないと、世間の人は思っていたようだが、趣味の方面では、優美で風雅なことでは、人一倍勝れていらっしゃったのに、どうして、このようにおっとりとお育てになったのだろう。とはいえ、たいそうお心にとめていらっしゃった内親王と聞いたのだが」
    547 
     548 と思うと、何やら残念な気がするが、それもかわいいと拝見なさる。
    548 
     549 ただ申し上げるままに、柔らかくお従いになって、お返事なども、お心に浮かんだことは、何の考えもなくお口に出されて、とても見捨てられないご様子にお見えになる。
    549 
     550 若いころの考えであったなら、嫌になってがっかりしたろうが、今では、世の中を人それぞれだと穏やかに考えて、
    550 
     551 「あれやこれやといろいろな女がいるが、飛び抜けて立派な女はいないものだなあ。それぞれいろいろな特色があるものだが、はたから見れば、まったく申し分のない方なのだ」
    551 
     552 とお思いになると、二人一緒にいつも離れずお暮らし申して来られた年月からも、対の上のご様子がやはり立派で、「自分ながらもよく教育したものだ」とお思いになる。一晩の間、朝の間も、恋しく気にかかって、いっそうのご愛情が増すので、「どうしてこんなに思われるのだろう」と、不吉な予感までなさる。
    552 
     553

    553 
     554 [第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る]
    554 
     555 院の帝は、その月のうちにお寺にお移りになった。こちらの院に、情のこもったお手紙を何度も差し上げなさる。姫宮の御事は言うまでもない。
    555 
     556 気を遣って、どのように思うかなどと、遠慮なさることもなく、どうなりと、ただお心次第にお世話くださいますように、度々お申し上げなさるのであった。けれども、身にしみて後ろ髪引かれる思いで、幼くていらっしゃるのを御心配申し上げなさるのでもあった。
    556 
     557 紫の上にも、お手紙が特別にあった。
    557 
     558 「幼い人が、何のわきまえもない有様でそちらへ参っておりますが、罪もないものと大目に見ていただき、お世話ください。お心にかけてくださるはずの縁もあろうかと存じます。
    558 
     559  捨て去ったこの世に残る子を思う心が
    559 
     560  山に入るわたしの妨げなのです
    560 
     561 親心の闇を晴らすことができずに申し上げるのも、愚かなことですが」
    561 
     562 とある。殿も御覧になって、
    562 
     563 「お気の毒なお手紙よ。謹んでお承りした旨を差し上げなさい」
    563 
     564 とおっしゃって、お使いにも、女房を通じて、杯をさし出させなさって、何杯もお勧めになる。「お返事はどのように」などと、申し上げにくくお思いになったが、仰々しく風流めかすべき時のことでないので、ただ心のままを書いて、
    564 
     565 「お捨て去りになったこの世が御心配ならば
    565 
     566  離れがたいお方を無理に離れたりなさいますな」
    566 
     567 などというようにあったらしい。
    567 
     568 女の装束に、細長を添えてお与えになる。ご筆跡などがとても立派なのを、院が御覧になって、万事気後れするほど立派なような所で、幼稚にお見えになるだろうこと、まことにお気の毒に、お思いになっていた。
    568 
     569

    569 
     570 

    第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋


    570 
     571 [第一段 源氏、朧月夜に今なお執心]
    571 
     572 いよいよこれまでと、女御、更衣たちなど、それぞれお別れなさるのも、しみじみと悲しいことが多かった。
    572 
     573 尚侍の君は、故后の宮がいらっしゃった二条宮にお住まいになる。姫宮の御事をおいては、この方の御事を気がかりに、院の帝もお思いになっていたのであった。尼になってしまおうとお思いであったが、
    573 
     574 「そのように競って出家したのでは、後を追うようで気ぜわしいから」
    574 
     575 と、お止めになって、だんだんと仏道の御事などをご準備おさせになる。
    575 
     576 六条の大殿は、いとしく飽かぬ思いのままに別れてしまったお方の事なので、長年忘れがたく、
    576 
     577 「どのような時に会えるだろう。もう一度お会いして、その当時の事もお話申し上げたい」
    577 
     578 と、ばかりお思い続けていらっしゃったが、お互いに世間の噂も遠慮なさらねばならないご身分であるし、お気の毒に思った当時の騷動なども、お思い出さずにはいらっしゃれないので、何事も心に秘めてお過ごしになったが、このようにのんびりとしたお身になられて、世の中を静かに御覧になっていらっしゃるこのごろのご様子を、ますますお会いしたく、気になってならないので、あってはならないこととはお思いになりながら、通例のお見舞いにかこつけて、心をこめた書きぶりで始終お便りを差し上げなさる。
    578 
     579 若い者どうしの色恋めいた間柄でもないので、お返事も時に応じてやりとりなさっていらっしゃる。若いころよりも格段に何もかもそなわって、すっかり円熟していらっしゃるご様子を御覧になるにつけても、やはり堪えがたくて、昔の中納言の君の許にも、切ない気持ちをいつもおっしゃる。
    579 
     580

    580 
     581 [第二段 和泉前司に手引きを依頼]
    581 
     582 その人の兄に当たる和泉前司を招き寄せて、若々しく、昔に返って相談なさる。
    582 
     583 「人を介してではなく、直接物越しに申し上げねばならないことがある。しかるべく申し上げご承知いただいた上で、たいそうこっそりと参上したい。
    583 
     584 今は、そのような忍び歩きも、窮屈な身分で、並々ならず秘密のことなので、そなたも他の人にはお漏らしなさるまいと思うゆえ、お互いに安心だ」
    584 
     585 とおっしゃる。尚侍の君は、
    585 
     586 「さてどうしたものだろう。世間の事が分かって来たにつけても、昔から薄情なお心を、幾度も味わわされて来た長の年月の果てに、しみじみと悲しい御事をさしおいて、どのような昔話をお話し申し上げられようか。
    586 
     587 なるほど、他人は漏れ聞かないようにしたところで、良心に聞かれたら恥ずかしい気がするに違いない」
    587 
     588 と嘆息をなさりながら、やはり、会うことはできない旨だけを申し上げる。
    588 
     589

    589 
     590 [第三段 紫の上に虚偽を言って出かける]
    590 
     591 「昔、逢瀬も難しかった時でさえ、お心をお通わしなさらないでもなかったものを。なるほど、ご出家なさったお方に対しては後ろ暗い気はするが、昔なかった事でもないのだから、今になって綺麗に潔白ぶっても、立ってしまった自分の浮名は、今さらお取り消しになることができるものでもあるまい」
    591 
     592 と、お思い起こして、この信太の森の和泉前司を道案内にしてお出かけになる。女君には、
    592 
     593 「東の院にいらっしゃる常陸の君が、このところ久しく患っていましたのに、何かと忙しさに取り紛れて、お見舞いもしなかったので、お気の毒に思っております。昼間など、人目に立って出かけるのも不都合なので、夜の間にこっそりと、思っております。誰にもそうとは知らせまい」
    593 
     594 と申し上げなさって、とてもたいそう改まった気持ちでいらっしゃるのを、いつもはそれほどまでにはお思いでない方を、妙だ、と御覧になって、お思い当たりなさることもあるが、姫宮の御事の後は、どのような事も、まったく昔のようにではなく、少し隔て心がついて、見知らないようにしていらっしゃる。
    594 
     595

    595 
     596 [第四段 源氏、朧月夜を訪問]
    596 
     597 その日は、寝殿へもお渡りにならず、お手紙だけを書き交わしなさる。薫物などを念入りになさって一日中お過ごしになる。
    597 
     598 宵が過ぎるのを待って、親しい者ばかり、四、五人ほどで、網代車の、昔を思い出させる粗末なふうで、お出かけになる。和泉守を遣わして、ご挨拶を申し上げなさる。このようにいらっしゃった旨、小声で申し上げると、驚きなさって、
    598 
     599 「変だこと。どのようにお返事申し上げたのだろうか」
    599 
     600 とご機嫌が悪いが、
    600 
     601 「気を持たせるようにしてお帰し申すのは、たいそう不都合でございましょう」
    601 
     602 と言って、無理に工夫をめぐらして、お入れ申し上げる。お見舞いの言葉などを申し上げなさって、
    602 
     603 「ただここまでお出ください、几帳越しにでも。まったく昔のけしからぬ心などは、無くなったのですから」
    603 
     604 と、切々と訴え申し上げなさるので、ひどく溜息をつきながらいざり出ていらっしゃった。
    604 
     605 「案の定だ。やはり、すぐに靡くところは」
    605 
     606 と、一方ではお思いになる。お互いに、知らないではない相手の身動きなので、感慨も浅からぬものがある。東の対だったのだ。辰巳の方の廂の間にお座りいただいて、御障子の端だけは固くとめてあるので、
    606 
     607 「とても若い者のような心地がしますね。あれからの年月の数をも、間違いなく数えられるほど思い続けているのに、このように知らないふりをなさるのは、たいそう辛いことです」
    607 
     608 とお恨み申し上げなさる。
    608 
     609

    609 
     610 [第五段 朧月夜と一夜を過ごす]
    610 
     611 夜はたいそう更けて行く。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々などが、しみじみと聞こえて、ひっそりと人の少ない宮邸の中の様子を、「こうも変わってしまう世の中だな」とお思い続けると、平中の真似ではないが、ほんとうに涙が出てしまう。昔に変わって、落ち着いて申し上げなさる一方で、「この隔てをこのままでいられようか」と、引き動かしなさる。
    611 
     612 「長の年月を隔ててやっとお逢いできたのに
    612 
     613  このような関があっては堰き止めがたく涙が落ちます」
    613 
     614 女、
    614 
     615 「涙だけは関の清水のように堰き止めがたくあふれても
    615 
     616  お逢いする道はとっくに絶え果てました」
    616 
     617 などとまったくお受け付けにならないが、昔をお思い出しなさると、
    617 
     618 「誰のせいで、あのような大変なことが起こり世の騷ぎもあったのか、この自分のせいではなかったか」とお思い出しなさると、「なるほど、もう一度会ってもいい事だ」
    618 
     619 と、気弱におなりになるのも、もともと重々しい所がおありでなかった方で、この何年かは、あれこれと愛情の問題も分かるようになり、過去を悔やまれて、公事につけ私事につけ、数えきれないほど物思いが重なって、とてもたいそう自重してお過ごしなさって来たのだが、昔が思い出されるご対面に、その当時の事もそう遠くない心地がして、いつまでも気強い態度をおとりになれない。
    619 
     620 昔に変わらず、洗練されて、若々しく魅力的で、並々でない世間への遠慮も思慕も、思い乱れて、溜息がちでいらっしゃるご様子など、今初めて逢った以上に新鮮で心が動いて、夜が明けて行くのもまことに残念に思われて、お帰りになる気もしない。
    620 
     621

    621 
     622 [第六段 源氏、和歌を詠み交して出る]
    622 
     623 朝ぼらけの美しい空に、百千鳥の声がとてもうららかに囀っている。花はみな散り終わって、その後に霞のかかった梢が浅緑の木立に、「昔、藤の宴をなさったのは、今頃の季節であったな」とお思い出される、あれからずいぶん歳月の過ぎ去った事も、その当時の事も、次から次へとしみじみと思い出される。
    623 
     624 中納言の君、お見送り申し上げるために、妻戸を押し開けたが、立ち戻りなさって、
    624 
     625 「この藤の花よ。どうしてこのように美しく染め出して咲いているのか。やはり、何とも言えない風情のある色あいだな。どうして、この花蔭を離れることができようか」
    625 
     626 と、どうしても帰りにくそうにためらっていらっしゃった。
    626 
     627 築山の端からさし昇ってくる朝日の明るい光に映えて、目も眩むように美しいお姿が、年とともにこの上なくご立派におなりになったご様子などを、久し振りに拝見するのは、いよいよ世の常の人とは思われない気がするので、
    627 
     628 「ご一緒になって、どうしてお暮らしにならなかったのだろうか。御宮仕えにも限度があって、特別のご身分になられることもなかったのに。故宮が、万事にお心を尽くしなさって、けしからぬ世の騷ぎが起こって、軽々しいお噂まで立って、それきりになってしまったことだわ」
    628 
     629 などと思い出される。尽きない思いが多く残っているだろうお話の終わりは、なるほど後を続けたいものであろうが、御身を、お心のままにおできになれず、大勢の人目に触れることもたいそう恐ろしく遠慮もされるので、だんだん日が上って行くので、気がせかれて、廊の戸に御車をつけ寄せた供人たちも、そっと催促申し上げる。
    629 
     630 人を呼んで、あの咲きかかっている藤の花、一枝折らさせなさった。
    630 
     631 「須磨に沈んで暮らしていたことを忘れないが
    631 
     632  また懲りもせずにこの家の藤の花に、淵に身を投げてしまいたい」
    632 
    c2-1633-634 とてもひどく思い悩んでいらっしゃって、物に寄り掛かっていらっしゃるのを、お気の毒に拝し上げる。《改行》
    女君も、今さらにとても遠慮されて、いろいろと思い乱れていらっしゃるが、藤の花は、やはり慕わしくて、<BR>
    633 とてもひどく思い悩んでいらっしゃって、物に寄り掛かっていらっしゃるのを、お気の毒に拝し上げる。女君も、今さらにとても遠慮されて、いろいろと思い乱れていらっしゃるが、藤の花は、やはり慕わしくて、<BR>
     635 「身を投げようとおっしゃる淵も本当の淵ではないのですから
    634 
     636  性懲りもなくそんな偽りの波に誘われたりしません」
    635 
     637 とても若々しいお振る舞いを、ご自分ながらも良くないこととお思いになりながら、関守が固くないのに気を許してか、たいそうよく後の逢瀬を約束してお帰りになる。
    636 
     638 その昔も、誰にも勝ってご執心でいらっしゃったご愛情であるが、わずかの契りで終わってしまったお二人の仲なので、どうして愛情の浅いことがあろうか。
    637 
     639

    638 
     640 [第七段 源氏、自邸に帰る]
    639 
     641 たいそう人目を忍んで入って来られたその寝乱れ髪の様子を待ち受けて、女君、そんなことだろうと、お悟りになっていたが、気づかないふりをしていらっしゃる。なまじやきもちを焼いたりなどなさるよりも、お気の毒で、「どうして、このように見放していられるのだろうか」と思わずにはいらっしゃれないので、以前よりもいっそう強い愛情を、永遠に変わらないことをお誓い申し上げなさる。
    640 
     642 尚侍の君の御事も、他に漏らしてよいことではないが、昔のこともご存知でいらっしゃるので、ありのままではないが、
    641 
     643 「物越しに、ほんのちょっとお会いしましたので、物足りない気が致しています。何とか人に見咎められないように秘密にして、もう一度だけでも」
    642 
     644 と、打ち明けて申し上げなさる。軽く笑って、
    643 
     645 「ずいぶん若返ったご様子ですこと。昔の恋を今さらむし返しなさるので、どっちつかずのよるべのないわたしには辛くて」
    644 
     646 とおっしゃって、そうはいうものの涙ぐんでいらっしゃる目もとが、とてもおいたわしく見えるので、
    645 
     647 「このようにご機嫌の悪いご様子が辛いことです。いっそ素直に抓るなりなさって、叱ってください。他人行儀に思うこともおっしゃらないふうには、今までお仕向けしてこなかったのに、心外なお気持ちになってしまわれたお心ですね」
    646 
     648 とおっしゃって、いろいろとご機嫌をお取りになるうちに、何もかも残らず白状なさってしまったようである。
    647 
     649 宮の御方にも、すぐにはお行きになることができずに、あれこれとおなだめ申してお過ごしになる。姫宮は、何ともお思いにならないが、ご後見人たちはご不満申し上げてるのであった。うるさいお方と思われなさるようなことであったら、あちらもこちら以上にお気の毒なはずだが、おっとりとしてかわいらしいお相手のようにお思い申し上げていらっしゃった。
    648 
     650

    649 
     651 

    第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感


    650 
     652 [第一段 明石姫君、懐妊して退出]
    651 
     653 桐壷の御方は、ずっと長いこと退出なさっていない。御暇が出そうにもないので、今までお気楽に過ごして来られたお若い年頃の方ゆえ、とても辛くばかり思っていらっしゃった。
    652 
     654 夏のころ、ご気分がすぐれなくいらっしゃったのを、すぐにもお許し申し上げなさらないので、とても困ったこことお思いになる。ご懐妊のご様子だったのである。まだとても若すぎるご様子なので、たいそう恐ろしいことと、どなたもどなたもお思いのようである。やっとのことでご退出なさった。
    653 
     655 姫宮がいらっしゃる寝殿の東側に、お部屋は設営してある。明石の御方、今は女御の御方に付き添って、参内し退出なさるのも、申し分ないご運勢である。
    654 
     656

    655 
     657 [第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る]
    656 
     658 対の上が、こちらにおいでになって、お会いなさるついでに、
    657 
     659 「姫宮にも、中の戸を開けてご挨拶申し上げましょう。前々からそのように思っていましたが、機会がなくては遠慮されますが、このような機会にご挨拶申し上げ、お近づきになれましたら、気が楽になるでしょう」
    658 
     660 と、大殿に申し上げると、ほほ笑んで、
    659 
     661 「それは望みどおりのお付き合いというものだ。とても子供子供していらっしゃるようだから、心配のないようにお教え上げてください」
    660 
     662 と、お許し申し上げなさる。姫宮よりも、明石の君が気の張る様子で控えているだろうことをお思いになると、御髪を洗い身づくろいしていらっしゃる、世にまたとあるまいとお見えになった。
    661 
     663 大殿は、宮の御方においでになって、
    662 
     664 「夕方、あちらの対にいます人が、淑景舎の御方にお目にかかろう出て参ります。その機会に、お近づき申し上げたいように申しておりますようなので、お許しになって会ってください。気立てなどはとてもよい方です。まだ若々しくて、お遊び相手として不似合いでなく思われます」
    663 
     665 などと、申し上げなさる。
    664 
     666 「さぞきまりの悪いことでしょうね。何をお話し申し上げたらよいのでしょう」
    665 
     667 と、おっとりとおっしゃる。
    666 
     668 「お返事は、あちらの言うことに応じて考えつかれるのがよいでしょう。他人行儀なおあしらいはなさいますな」
    667 
     669 と、こまごまとお教え申し上げなさる。「二人が仲好くきちんとお暮らしになって欲しい」とお思いになる。
    668 
     670 あまりに無邪気なご様子を見られてしまっても、きまり悪く面白くないが、あのようにおっしゃるお気持ちを、「止めだてするのも感心しない」と、お思いになるのであった。
    669 
     671

    670 
     672 [第三段 紫の上の手習い歌]
    671 
     673 対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きなさるものの、
    672 
     674 「自分より上の人があるだろうか。わが身の頼りない身の上を、見出され申しただけのことなのだわ」
    673 
     675 などと、つい思い続けずにはいらっしゃれなくて、物思いに沈んでいらっしゃる。手習いなどをするにも、自然と古歌も、物思いの歌だけが筆先に出てくるので、「それでは、わたしには思い悩むことがあったのだわ」と、自分ながら気づかされる。
    674 
     676 院、お渡りになって、宮、女御の君などのご様子などを、「かわいらしくていらっしゃるものだ」と、それぞれを拝見なさったそのお目で御覧になると、長年連れ添っていらした人が、世間並の器量であったなら、とてもこうも驚くはずもないのに、「やはり、二人といない方だ」と御覧になる。世間にありそうもないお美しさである。
    675 
     677 どこからどこまでも、気品高く立派に整っていらっしゃる上に、はなやかに現代風で、照り映えるような美しさと優雅さとを、何もかも兼ね備え、素晴らしい女盛りにお見えになる。去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃるのを、「どうしてこんなにも美しく生まれつかれたのか」とお思いになる。
    676 
     678 気を許してお書きになった御手習いを、硯の下にさし隠しなさっていたが、見つけなさって、繰り返して御覧になる。筆跡などの、特別に上手とも見えないが、行き届いてかわいらしい感じにお書きになっていた。
    677 
     679 「身近に秋が来たのかしら、見ているうちに
    678 
     680  青葉の山のあなたも心の色が変わってきたことです」
    679 
     681 とある所に、目をお止めになって、
    680 
     682 「水鳥の青い羽のわたしの心の色は変わらないのに
    681 
     683  萩の下葉のあなたの様子は変わっています」
    682 
     684 などと書き加えながら手習いに心をやりなさる。何かにつけて、おいたわしいご様子が、自然に漏れて見えるのを、何でもないふうに隠していらっしゃるのも、またと得がたい殊勝な方だと思わずにはいらっしゃれない。
    683 
     685 今夜は、どちらの方にも行かなくてよさそうなので、あの忍び所に、実にどうしようもなくて、お出かけになるのであった。「とんでもないけしからぬ事」と、ひどく自制なさるのだが、どうすることもできないのであった。
    684 
     686

    685 
     687 [第四段 紫の上、女三の宮と対面]
    686 
     688 東宮の御方は、実の母君よりも、この御方を親しいお方と思ってお頼り申し上げていらっしゃった。たいそうかわいらしげに一段と大人らしくおなりになったのを、実の子のように、いとしいとお思い申し上げなさる。
    687 
     689 お話などを、とてもうちとけてお互いに話し合われてから、中の戸を開けて、宮にもお会いになった。
    688 
     690 ただもう子供っぽくばかりお見えになるので、気安く感じられて、年輩者らしく母親のような態度で、親たちのお血筋をお話し申し上げなさる。中納言の乳母という人を召し出して、
    689 
     691 「同じ血筋の繋がりをお尋ね申し上げてゆくと、恐れ多いことですが、切っても切れない御縁とは拝し上げながら、その機会もなく失礼致しておりましたが、今からはお心おきなく、あちらの方にもおいでくださって、行き届かない点がありましたら、ご注意くださるなどしていただけましたら、嬉しゅうございましょう」
    690 
     692 などとおっしゃると、
    691 
     693 「頼みとなさっていた方々に、それぞれお別れ申されて、心細そうでいらっしゃいますので、このようなお言葉を戴きますと、この上なくありがたく存じられます。御出家あそばされた院の上の御意向も、ただこのように他人扱いなさらずに、まだ子供っぽいご様子を、お育て申し上げて戴きたくございましたようでした。内々の話にも、そのようにお頼み申していらっしゃいました」
    692 
     694 などと申し上げる。
    693 
     695 「まことに恐れ多いお手紙を頂戴してから後は、是非にお力になりたいとばかり存じておりましたが、何事につけても、人数に入らない我が身が残念に思われます」
    694 
     696 と、穏やかに大人びた様子で、宮にも、お気に入りなさるように、絵などのこと、お人形遊びの楽しいことを、若々しく申し上げなさるので、「なるほど、ほんとうに若々しく気立てのよい方だわ」と、子供心にうちとけなさった。
    695 
     697

    696 
     698 [第五段 世間の噂、静まる]
    697 
     699 それから後は、いつもお手紙のやりとりなどをなさって、おもしろい遊び事がある折につけても、別け隔てせずお便りをやりとりなさる。世の中の人も、おせっかいなことに、これほどの地位になった方々のことは、とかく噂したがるものなので、初めのうちは、
    698 
     700 「対の上は、どのようにお思いだろう。ご寵愛は、とても今までのようにはおありであるまい。少しは落ちるだろう」
    699 
     701 などと言っていたが、以前よりも深い愛情、こうなってから一段と勝った様子なので、それにつけても、また事ありげに言う人々もいたが、このように仲睦まじいまでに交際なさっているので、噂も変わって、無難におさまっていたのである。
    700 
     702

    701 
     703 

    第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う


    702 
     704 [第一段 紫の上、薬師仏供養]
    703 
     705 神無月に、対の上は、院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で、薬師仏をご供養申し上げなさる。盛大になることは、切にご禁じ申されていたので、目立たないようにとお考えになっていた。
    704 
     706 仏像、経箱、帙簀の整っていること、真の極楽のように思われる。最勝王経、金剛般若経、寿命経など、たいそう盛大なお祈りである。上達部がたいへん大勢参上なさった。
    705 
     707 御堂の様子、素晴らしく何とも言いようがなく、紅葉の蔭を分けて行く野辺の辺りから始まって、見頃の景色なので、半ばはそれで競ってお集まりになったのであろう。
    706 
     708 一面に霜枯れしている野原のまにまに、馬や牛車が行き違う音がしきりに響いていた。御誦経を、我も我もと御方々がご立派におさせになる。
    707 
     709

    708 
     710 [第二段 精進落としの宴]
    709 
     711 二十三日を御精進落しの日として、こちらの院は、このように隙間もなく大勢集っていらっしゃるので、ご自分の私的邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせになる。ご装束をはじめとして、一般の事柄もすべてこちらでばかりなさる。他の御方々も適当な事を分担しいしい、進んでお仕えなさる。
    710 
     712 東西の対は、女房たちの局にしていたのを片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの饗応の席を、盛大に設けさせなさっている。
    711 
     713 寝殿の放出を例のように飾って、螺鈿の椅子を立ててある。
    712 
     714 御殿の西の間に、ご衣装の机を十二立てて、夏冬のご衣装、御夜具など、しきたりによって、紫の綾の覆いの数々が整然と掛けられていて、中の様子ははっきりしない。
    713 
     715 御前に置物の机を二脚、唐の地の裾濃の覆いをしてある。挿頭の台は沈の花足、黄金の鳥が、銀の枝に止まっている工夫など、淑景舎のご担当で、明石の御方がお作らせになったものだが、趣味深くて格別である。
    714 
     716 背後の御屏風の四帖は、式部卿宮がお作らせになったものであった。たいそう善美を尽くして、おきまりの四季の絵であるが、目新しい山水、潭など、見なれず興味深い。北の壁に沿って、置物の御厨子、二具立てて、御調度類はしきたりどおりである。
    715 
     717 南の廂の間に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、ましてそれ以下の人々で参上なさらない人はいない。舞台の左右に、楽人の平張りを作り、東西に屯食を八十具、禄の唐櫃を四十ずつ続けて立ててある。
    716 
     718

    717 
     719 [第三段 舞楽を演奏す]
    718 
     720 未の刻ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇じょう」などを舞って、日が暮れるころ、高麗楽の乱声をして、「落蹲」が舞い出たところは、やはり常には見ない舞の様子なので、舞い終わるころに、権中納言や、衛門督が庭に下りて、「入綾」を少し舞って、紅葉の蔭に入ったその後の気持ちは、いつまでも面白いとご一同お思いである。
    719 
     721 昔の朱雀院の行幸に、「青海波」が見事であった夕べ、お思い出しになる方々は、権中納言と、衛門督とが、また負けず跡をお継ぎになっていらっしゃるのが、代々の世評や様子、器量、態度なども少しも負けず、官位は少し昇進さえしていらっしゃるなどと、年齢まで数えて、「やはり、前世の因縁で、昔からこのように代々並び合うご両家の間柄なのだ」と、素晴らしく思う。
    720 
     722 主人の院も、しみじみと涙ぐんで、自然と思い出される事柄が多かった。
    721 
     723

    722 
     724 [第四段 宴の後の寂寥]
    723 
     725 夜に入って、楽人たちが退出する。北の対の政所の別当連中は、下男どもを引き連れて、禄の唐櫃の側に立って、一つずつ取り出して、順々に与えなさる。白い衣類をそれぞれが肩に懸けて、築山の側から池の堤を通り過ぎて行くのを横から眺めると、千歳の寿をもって遊ぶ鶴の白い毛衣に見間違えるほどである。
    724 
     726 管弦の御遊びが始まって、これもまた素晴らしい。御琴類は、東宮から御準備あそばしたものであった。朱雀院からお譲りのあった琵琶、琴。帝から頂戴なさった箏の御琴など、すべて昔を思い出させる音色で、久しぶりに合奏なさると、どの演奏の時にも、昔のご様子や、宮中あたりのことなどが自然とお思い出される。
    725 
     727 「亡き入道の宮が生きていらっしゃったら、このような御賀など、自分が進んでお仕え申したであろうに。何をすることによって、わたしの気持ちを分かって戴けただろうか」
    726 
     728 と、ただただ恨めしく残念にばかりお思い申し上げなさる。
    727 
     729 帝におかせられても、亡き母宮のおいであそばさないことを、何事につけても張り合いがなく物足りなくお思いなされるので、せめてこの院の御賀の事だけでも、きまったとおりの礼儀を十分に尽くしてさし上げることができないのを、何かにつけ常に物足りないお気持ちでいらっしゃるので、今年はこの四十の御賀にかこつけて、行幸などもあるようにお考えでいらっしゃったが、
    728 
     730 「世の中の迷惑になるようなことは、絶対になさらぬように」
    729 
     731 とご辞退申し上げなさること、再々になったので、残念ながらお思い止まりなさった。
    730 
     732

    731 
     733 [第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷]
    732 
     734 十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして、今年の残りの御祈祷に、奈良の京の七大寺に、御誦経のため、布を四千反、この平安京の四十寺に、絹を四百疋分けてお納めあそばす。
    733 
     735 ありがたいお世話をご存知でありながら、どのような機会にか、深い感謝の気持ちを表して御覧に入れようとお思いなさって、父宮と、母御息所とがご存命ならばきっとして差し上げただろう感謝の気持ちも添えてお思いになったのだが、このように無理に、帝に対してもご辞退申し上げていらっしゃっるので、ご計画の多くを中止なさった。
    734 
     736 「四十の賀ということは、先例を聞きましても、残りの寿命が長い例が少なかったが、今回は、やはり、世間の騷ぎになることをお止めあそばして、ほんとうに後に寿命を保った時に祝ってください」
    735 
     737 とあったが、公的催しとなって、やはりたいそう盛大になったのであった。
    736 
     738

    737 
     739 [第六段 中宮主催の饗宴]
    738 
     740 宮のいらっしゃる町の寝殿に、御準備などをして、前のと特に変わらず、上達部の禄など、大饗に準じて、親王たちには特に女装束、非参議の四位、廷臣たちなどの、普通の殿上人には、白い細長を一襲と、腰差などまで、次々とお与えになる。
    739 
     741 装束はこの上なく善美を尽くして、有名な帯や、御佩刀など、故前坊のお形見として御相続なさっているのも、また感慨に堪えないことである。古来第一の宝物として有名な物は、すべて集まって参るような御賀のようである。昔物語にも、引出物を与えることを、たいしたこととして一つ一つ数え上げているようであるが、これはとても煩わしいので、ご立派な方々のご贈答の数々は、とても数え上げることができない。
    740 
     742

    741 
     743 [第七段 勅命による夕霧の饗宴]
    742 
     744 帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、やすやすとは中止できまいとお思いになって、中納言に御依頼あそばした。そのころの右大将が、病気になって職をお退きになったので、この中納言に、御賀に際して喜びを加えてやろうとお思いあそばして、急に右大将におさせあそばした。
    743 
     745 院もお礼申し上げなさるものの、
    744 
     746 「とても、このような、急に身に余る昇進は、早すぎる気が致します」
    745 
     747 とご謙遜申し上げなさる。
    746 
     748 丑寅の町に、ご準備を整えなさって、目立たないようになさったが、今日は、やはり儀式の様子も格別で、あちらこちらでの饗応なども、内蔵寮や、穀倉院から、ご奉仕させなさっていた。
    747 
     749 屯食などは、公式的な作り方で、頭中将が宣旨を承って、親王たち五人、左右の大臣、大納言が二人、中納言が三人、参議が五人で、殿上人は、例によって、内裏のも、東宮のも、院のも、残る人は少ない。
    748 
     750 お座席、ご調度類などは、太政大臣が詳細に勅旨を承って、ご準備なさっていた。今日は、勅命があって、いらっしゃっていた。院も、たいそう恐縮申されて、お座席にご着席になった。
    749 
     751 母屋のお座席に向かい合って、大臣のお座席がある。たいそう美々しく堂々と太って、この大臣は、今が盛りの威厳があるようにお見えである。
    750 
     752 主人の院は、今もなお若々しい源氏の君とお見えである。御屏風四帖に、帝が御自身でお書きあそばした唐の綾の薄毯の地に、下絵の様子など、尋常一様であるはずがない。美しい春秋の作り絵などよりも、この御屏風のお筆の跡の輝く様子は、目も眩む思いがし、御宸筆と思うせいでいっそう素晴らしかったのであった。
    751 
     753 置物の御厨子、絃楽器、管楽器など、蔵人所から頂戴なさった。右大将のご威勢も、たいそう堂々たる者におなりになったので、それも加わって、今日の儀式はまことに格別である。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人が、上の者から順々に馬を引き並べるうちに、日がすっかり暮れた。
    752 
     754

    753 
     755 [第八段 舞楽を演奏す]
    754 
     756 例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞、形ばかり舞って、太政大臣がおいでになっているので、珍しく湧き立った管弦の御遊に、参会者一同、熱中して演奏していらっしゃった。琵琶は、例によって兵部卿宮、どのような事でも世にも稀な名人でいらっしゃって、二人といない出来である。院の御前に琴の御琴。太政大臣、和琴をお弾きになる。
    755 
     757 長年幾度となくお聞きになってきたお耳のせいか、まことに優美にしみじみと感慨深くお感じになって、ご自身の琴の秘術も少しもお隠しにならず、素晴らしい音色を奏でる。
    756 
     758 昔のお話なども出てきて、今は今で、このような親しいお間柄で、どちらからいっても、仲よくお付き合いなさるはずの親しいご交際などを、気持ちよくお話し申されて、お杯を幾度もお傾けになって、音楽の感興も増す一方で、酔いの余りの感涙を抑えかねていらっしゃる。
    757 
     759 御贈り物として見事な和琴を一つ、お好きでいらっしゃる高麗笛を加えて。紫檀の箱一具に、唐の手本とわが国の草仮名の手本などを入れて。お車まで追いかけて差し上げなさる。御馬を受け取って、右馬寮の官人たちが、高麗の楽を演奏して、大声を上げる。六衛府の官人の禄など、大将がお与えになる。
    758 
     760 ご意向から簡素になさって、仰々しいことは、今回はご中止なさったが、帝、東宮、一の院、后の宮、次から次へと御縁者の堂々たることは、筆舌に尽くしがたいことなので、やはりこのような晴れの賀宴の折には、素晴らしく思われるのであった。
    759 
     761

    760 
     762 [第九段 饗宴の後の感懐]
    761 
     763 大将が、ただ一人りいらっしゃるのを、物足りなく張り合いのない感じがしたが、大勢の人々に抜きん出て、評判も格別で、人柄も並ぶ者がないように優れていらっしゃるにつけても、あの母北の方が、伊勢の御息所との確執が深く、互いに争いなさったご運命の結果が現れたのが、それぞれの違いだったのである。
    762 
     764 その当日のご装束類は、こちらの御方がご用意なさったのであった。禄などの一通りのことは、三条の北の方がご準備なさったようであった。何かの折節につけたお催し事、内輪の善美事をも、こちらはただ他所事とばかり聞き過していらっしゃるので、どのような事をして、このような堂々たる方々のお仲間入りなされようかと、お思いであったのだが、大将の君のご縁で、まことに立派に重んじられていらっしゃった。
    763 
     765

    764 
     766 

    第十章 明石の物語 男御子誕生


    765 
     767 [第一段 明石女御、産期近づく]
    766 
     768 年が改まった。桐壷の御方の御出産が近づきなさったことによって、正月上旬から、御修法を不断におさせになる。多くの寺々、神社神社の御祈祷は、これまた数えきれないほどである。大殿の君は、不吉なことをご経験なさったことがあるので、このような時のことは、たいそう恐ろしいものと心底から思っていらっしゃるので、対の上などがそのようなことがおありでなかったのは、残念に物足りなく思うものの、一方では嬉しく思わずにはいらっしゃれないので、まだとてもお小さいお年頃なので、どんなことにおなりかと、前々からご心配であったが、二月ごろから、妙にご容態が変わってお苦しみなさるので、どなたもご心痛のようである。
    767 
     769 陰陽師たちも、お住まいを変えてお大事になさるのがよいと申したので、他のかけ離れた所は気がかりであると思って、あの明石の御町の中の対にお移し申し上げなさる。こちらは、ただ大きい対の屋が二棟だけあって、幾つもの渡廊などが周囲を廻っていたが、御修法の壇を隙間なく塗り固めて、たいそう霊験ある修験者たちが集まって、大声を上げて祈願する。
    768 
     770 母君は、この時に自分の御運もはっきりするだろうことなので、たいそう気が気でない思いでいらっしゃる。
    769 
     771

    770 
     772 [第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る]
    771 
     773 あの大尼君も、今ではすっかりもうろくした人になったのであろう。このご様子を拝見するのは、夢のような心地がして、早速お側に上がり、親しくお付き添い申す。
    772 
     774 今まで、この母君はこのようにお付き添いなさっていたが、昔のことなどは、まともにお聞かせ申し上げなかったが、この尼君、喜びを抑えることができず、参上しては、たいそう涙っぽく、大昔のことどもを震え声を出しては度々お話し申し上げる。
    773 
     775 初めのころは、妙にうるさい人だと、じっと顔を見つめていらっしゃったが、このような人がいるという程度には、うすうす聞いていらっしゃったので、やさしくお相手なさっていた。
    774 
     776 お生まれになったころのこと、大殿の君があの浦にいらっしゃった様子、
    775 
     777 「もうお別れとばかり都へ上京なさった時、皆が皆、気が動転して、これが最後と、これだけの御縁であったのだと嘆いていましたが、若君がお生まれになってお助けくださった御運が、ほんとうに身にしみて感じられますこと」
    776 
     778 とぼろぼろと涙をこぼして泣くので、
    777 
     779 「なるほど、大変であった当時のことを、このように聞かせてくださらなかったら、知らずに過ごしてしまったにちがいないことだわ」
    778 
     780 とお思いになって、涙をお漏らしになる。心の中では、
    779 
     781 「わが身は、なるほど大きな顔をして栄華をきわめるような身分ではなかったのに、対の上のご養育のお蔭で立派になって、世間の人の思惑なども、悪くはなかったのだわ。傍輩の女御更衣たちをまったく問題にもせず、すっかり思い上がっていたものだわ。世間の人は、蔭で噂することもあったであろうよ」
    780 
     782 などと、すっかりお分りになった。
    781 
     783 母君を、もともとこのように少し身分が低い家柄とは知っていたが、お生まれになったときの状況などを、あのような都から遠く離れた田舎だなどとはご存知なかったのである。実にあまりにおっとりし過ぎていらっしゃるせいであろう。変に頼りないお話であったこと。
    782 
     784 あの入道が、今では仙人のように、とてもこの世ではないような暮らしぶりでいるとの話をお聞きになるにつけても、お気の毒ななどと、あれやこれやとお心をお痛めになった。
    783 
     785

    784 
     786 [第三段 明石御方、母尼君をたしなめる]
    785 
     787 たいそう物思いに沈んでいらっしゃるところに、御方がお上がりになって、日中の御加持に、あちらこちらから参まって来て、大声を立てて祈祷していたが、御前に特に女房たちも伺候していず、尼君、得意顔にたいそう身近にお付きしていらっしゃる。
    786 
     788 「まあ、見苦しいこと。短い御几帳をお側に置いてこそ、お付きなさいませ。風などが強くて、自然と隙間もできましょうに。医師のようにして。ほんとうに盛りを過ぎていらっしゃること」
    787 
     789 などと、はらはらしていらっしゃった。十分気を付けて振る舞っていると、思っているらしいけれども、老いぼれて耳もよく聞こえなかったので、「ああ」と、首をかしげていた。
    788 
     790 実際、そう言うほどの年齢でもない。六十五、六歳ぐらいである。尼姿、たいそうこざっぱりと、気品がある様子で、目がきらきらと涙で泣きはらした様子が、妙に昔を思い出しているようなので、胸がどきりとして、
    789 
     791 「古めかしいわけのわからないお話でも、ございましたのでしょう。よく、この世にはありそうもない記憶違いのことを交えては、妙な昔話もあれこれとお話し申し上げたことでしょうよ。夢のような心地がします」
    790 
     792 と、ちょっと苦笑して拝見なさると、たいそう優雅でお美しくて、いつもよりひどく落ち着いていらして、物思いに沈んでいるようにお見えになる。自分が生んだ子ともお見えにならないほど、恐れ多い方なので、
    791 
     793 「お気の毒なことを申し上げなさったので、お悩みになっていらっしゃるのだろうか。もうこれ以上ない最高のお地位におつきになった時に、お話し申し上げようと思っていたのに、残念にも自信をおなくしになる程のことではないが、さぞやお気の毒にがっかりしていられることだろう」
    792 
     794 とご心配なさる。
    793 
     795

    794 
     796 [第四段 明石女三代の和歌唱和]
    795 
     797 御加持が終わって退出したので、果物など近くにさし上げ、「せめてこれだけでもお召し上がりください」と、たいそうおいたわしく思い申し上げなさる。
    796 
     798 尼君は、とても立派でかわいらしいと拝見するにつけても、涙を止めることができない。顔は笑って、口もとなどはみっともなく広がっているが、目のあたりは涙に濡れて、泣き顔していた。
    797 
     799 「まあ、みっともない」
    798 
     800 と、目くばせするが、かまいつけない。
    799 
     801 「長生きした甲斐があると嬉し涙に泣いているからと言って
    800 
     802  誰が出家した老人のわたしを咎めたりしましょうか
    801 
     803 昔の時代にも、このような老人は、大目に見てもらえるものでございます」
    802 
     804 と申し上げる。御硯箱にある紙に、
    803 
     805 「泣いていらっしゃる尼君に道案内しいただいて
    804 
     806  訪ねてみたいものです、生まれ故郷の浜辺を」
    805 
     807 御方も我慢なされずに、つい泣いておしまいになった。
    806 
     808 「出家して明石の浦に住んでいる父入道も
    807 
     809  子を思う心の闇は晴れることもないでしょう」
    808 
     810 などと申し上げて、涙をお隠しになる。別れたという暁のことを、少しも覚えていらっしゃらないのを、「残念なことだった」とお思いになる。
    809 
     811

    810 
     812 [第五段 三月十日過ぎに男御子誕生]
    811 
     813 三月の十何日のころに、無事にお生まれになった。前々は仰々しく大騒ぎしていたのだが、ひどくお苦しみになることもなくて、男の御子でさえいらっしゃったので、際限もなく望みどおりだったので、大殿もご安心なさった。
    812 
     814 こちらは裏側に当たっていて、端近な所であるが、盛大な御産養などがひき続き、騷ぎの仰々しい様子は、なるほど「価値ある浦」と、尼君のためには見えたが、威儀も整わないようなので、お移りになることになる。
    813 
     815 対の上もいらっしゃった。白い御装束をお着けになって、まるで親のようにして、若宮をしっかりと抱いていらっしゃる様子、たいそう素晴らしい。ご自身ではこのようなことはご経験もないし、他人のことでも御覧になったことがないので、とても珍しくかわいいとお思い申し上げていらっしゃった。まだお扱いにくそうでいらっしゃる時なのを、しじゅうお抱きになっていらっしゃるので、実の祖母君は、ただお任せ申して、お湯殿のお世話などをなさる。
    814 
     816 東宮の宣旨である典侍がお湯殿に奉仕する。御迎湯の役を、ご自身がなさるのも大変に胸をうつことで、内々の事情も少しは知っているので、815 
     817 「少しでも欠点があれば、お気の毒であったろうに、驚くほど気品があり、なるほど、このような前世からの約束事があったお方なのだわ」
    816 
     818 と拝見する。この時の儀式の様子などを、そっくりそのまま語り伝えるのも、まったく今さららしく思われるよ。
    817 
     819

    818 
     820 [第六段 帝の七夜の産養]
    819 
     821 六日目という日に、いつもの御殿にお移りになった。七日の夜に、内裏からも御産養がある。
    820 
     822 朱雀院が、このように御出家あそばされいるお代わりであろうか、蔵人所から、頭弁が、宣旨を承って、例のないほど立派にご奉仕した。禄の衣装など、また中宮の御方からも、公事のきまり以上に、盛大におさせあそばす。次々の親王方、大臣の家々、その当時のもっぱらの仕事にして、われもわれもと、善美を尽くしてご奉仕なさる。
    821 
     823 大殿の君も、この時の儀式はいつものように簡略になさらずに、世に例のないほど大仰な騷ぎで、内輪の優美で繊細な優雅さの、そのままお伝えしなければならない点は、目も止まらずに終わってしまったのであった。大殿の君も、若宮をすぐにお抱き申し上げなさって、
    822 
     824 「大将が大勢子供を儲けているそうだが、今まで見せないのが恨めしいが、このようにかわいらしい子をお授かり申したことよ」
    823 
     825 と、おかわいがり申し上げなさるのは、無理もないことであるよ。
    824 
     826 日に日に、物を引き伸ばすようご成長なさっていく。御乳母など、気心の知れないのは急いでお召しにならず、伺候している者の中から、家柄、嗜みのある人ばかりを選んで、お仕えさせなさる。
    825 
     827

    826 
     828 [第七段 紫の上と明石御方の仲]
    827 
     829 御方のお心構えが、気が利いていて気品があって、おっとりしているものの、しかるべき時には謙遜して、小憎らしくわがもの顔に振る舞ったりしないことなどを、誉めない人はいない。
    828 
     830 対の上は、改まった形というのではないが、時々お会いなさって、あれほど許せないと思っていらっしゃったが、今では、若宮のお蔭で、たいそう仲好く、大切な方と思うようにおなりになっていた。子供をおかわいがりになるご性格で、天児などを、ご自身でお作りになり忙しそうにしていらっしゃるのも、たいそう若々しい。毎日このお世話で日を暮していらっしゃる。
    829 
     831 あの年寄の尼君は、若君をゆっくりと拝見できないことを、残念に思っているのであった。なまじ拝見したために、またお目にかかりたく思って、死ぬほど切ない思いをしているようである。
    830 
     832

    831 
     833 

    第十一章 明石の物語 入道の手紙


    832 
     834 [第一段 明石入道、手紙を贈る]
    833 
     835 あの明石でも、このようなお話を伝え聞いて、そうした出家心にも、たいそう嬉しく思われたので、
    834 
     836 「今は、この世から心安らかな気持ちで離れて行くことができよう」
    835 
     837 と弟子たちに言って、この家を寺にして、周辺の田などといったものは、みなその寺の所領にすることにして、この国の奥の郡で、人も行かないような深い山があるのを、かねてより所有していたのを、あそこに籠もった後は、再び人に見られることもあるまいと考えて、ほんの少し気がかりなことが残っていたので、今までとどまっていたが、今はもう大丈夫と、仏神をお頼み申して移ったのであった。
    836 
     838 最近の数年間は、都に特別の事でなくては、使いを差し上げることもしなかった。都からお下しになる使者ぐらいには言づけて、ほんの一行の便りなりと、尼君はしかるべき折のお返事をするのであった。俗世を離れる最後に、手紙を書いて、御方に差し上げなさった。
    837 
     839

    838 
     840 [第二段 入道の手紙]
    839 
     841 「ここ数年というものは、同じこの世に生きておりましたが、何のかのと、生きながら別世界に生まれ変わったように考えることに致しまして、格別変わった事がない限りは、お手紙を差し上げたり戴いたりしないでおります。
    840 
     842 仮名の手紙を拝見するのは、時間がかかって、念仏も怠けるようで、無益と考えて、お手紙を差し上げませんでしたが、人伝てに承りますと、若君は東宮に御入内なさって、男宮がご誕生なさったとのこと、心からお喜び申し上げております。
    841 
     843 そのわけは、わたし自身このような取るに足りない山伏の身で、今さらこの世での栄達を願うのではございません。過ぎ去った昔の何年かの間、未練がましく、六時の勤めにも、ただあなたの御事を心にかけ続けて、自分の極楽往生の願いはさしおいて願ってきました。
    842 
     844 あなたがお生まれになろうとした、その年の二月の某日の夜の夢に見たことは、
    843 
     845 『自分は須弥山を右手に捧げ持っていた。その山の左右から、月の光と日の光とが明るくさし出して世の中を照らす。自分自身は山の下の蔭に隠れて、その光に当たらない。山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って、西の方角を指して漕いで行く』
    844 
     846 と見ました。
    845 
     847 夢から覚めて、その朝から物の数でもないわが身にも期待する所が出て来ましたが、どのようなことにつけてか、そのような大変な幸運を待ち受けることができようかと、心中に思っておりましたが、そのころからあなたが孕まれなさって以来今まで、仏典以外の書物を見ましても、また仏典の真意を求めました中にも、夢を信じるべきことが多くございましたので、賎しい身ながらも、恐れ多く大切にお育て申し上げましたが、力の及ばない身に思案にあまって、このような田舎に下ったでした。
    846 
     848 するとまた、この国で沈淪しまして、老の身で都に二度と帰るまいと諦めをつけて、この浦に何年もおりましたその間も、あなたに期待をおかけ申していましたので、自分一人で数多くの願を立てました。そのお礼参りが、無事にできるような願いどおりの運勢に巡り合われたのです。
    847 
     849 若君が、国母とおなりになって、願いが叶いなさったあかつきには、住吉の御社をはじめとして、お礼参りをなさい。まったく何を疑うことがありましょうか。
    848 
     850 この一つの願いが、近い将来に叶うことになったので、遥か西方の、十万億土を隔てた極楽の九品の蓮台の上の往生の願いも確実になりましたので、今はただ阿彌陀の来迎を待っておりますだけで、その夕べまで、水も草も清らかな山の奥で勤行しましょうと思って、入山致しました。
    849 
     851  日の出近い暁となったことよ
    850 
     852  今初めて昔見た夢の話をするのです」
    851 
     853 とあって、月日が書いてある。
    852 
     854

    853 
     855 [第三段 手紙の追伸]
    854 
     856 「寿命の尽きる月日を、決してお心にかけてなさいますな。昔から皆が染めておいた喪服なども、お召しなさるな。ただ自分は神仏の権化とお思いになって、この老僧のためには冥福をお祈り下さい。現世の楽しみを味わうにつけても、来世をお忘れなさるな。
    855 
     857 願っております極楽にさえ行きつけましたら、きっと再びお会いすることがございましょう。この世以外の世界に行き着いて、早く会おうとお考え下さい」
    856 
     858 そして、あの社に立てた多くの願文類を、大きな沈の文箱に、しっかり封をして差し上げなさっていた。
    857 
     859 尼君には、別に改めて書いてなく、ただ、
    858 
     860 「今月の十四日に、草の庵を出て、深い山に入ります。役にも立たない身は、熊や狼に施しましょう。あなたは、やはり望みどおりの御代になるのをお見届け下さい。極楽浄土で、再びお会いすることがありましょう」
    859 
     861 とだけある。
    860 
     862

    861 
     863 [第四段 使者の話]
    862 
     864 尼君、この手紙を見て、その使いの大徳に尋ねると、
    863 
     865 「このお手紙をお書きになって、三日目という日に、あの人跡絶えた山奥にお移りになりました。拙僧らも、そのお見送りに、麓までは参りましたが、皆お帰しになって、僧一人と、童二人をお供にお連れなさいました。今は最後とご出家なさった時に、悲しみの極みと存じましたが、さらに悲しいことが残っておりました。
    864 
     866 長年勤行の合間合間に寄りかかりながら、掻き鳴らしていらした琴の御琴、琵琶を取り寄せなさって、少しお弾きなさっては、仏にお別れ申されて、御堂に施入なさいました。その他の物も、大抵は寄進なさって、その残りを、御弟子たち六十何人の、親しい者たちだけのお仕えしてきた者に、身分に応じて全て処分なさって、その上で残っているのを、都の方々の分としてお送り申し上げたのです。
    865 
     867 今は最後と引き籠もり、あの遥かな山の雲霞の中にお入りになってしまわれたので、空っぽのお跡に残されて悲しく思う人々は多くございます」
    866 
     868 などと、この大徳も、子供の時に都から下った人で、老僧となって残っているのだが、まことにしみじみと心細く思っていた。仏の御弟子の偉い聖僧でさえ、霊鷲山を十分に信じていながら、それでもやはり釈迦入滅の時の悲しみは深いものであったが、まして尼君の悲しいと思っていらっしゃることは際限がない。
    867 
     869

    868 
     870 [第五段 明石御方、手紙を見る]
    869 
     871 明石御方は、南の御殿にいらっしゃったが、「このようなお手紙がありました」と、伝えて来たので、人目に立たないようにしてお越しになった。重々しく振る舞って、さしたる用件がなければ、行き来しあいなさることは難しいのだが、「悲しいことがある」と聞いて、気がかりなので、こっそりといらっしゃったところ、とてもたいそう悲しそうな様子で座っていらっしゃった。
    870 
     872 灯火を近くに引き寄せて、この手紙を御覧になると、なるほど涙を堰き止めることができなかった。他人ならば、何とも感じないことが、まず、昔から今までのことを思い出して、恋しいとお思い続けていなさるお心には、「二度と会えずに終わってしまうのだ」と、思って御覧になると、ひどく何とも言いようがない。
    871 
     873 涙をお止めになることもできない。この夢物語を一方では将来頼もしく思われ、
    872 
     874 「それでは、偏屈な考えで、わたしをあんなにもとんでもない身にして不安にさまよわせなさると、一時は気持ちが迷ったこともあるが、それは、このような当てにならない夢に望みをかけて、高い理想を持っていらしたのだ」
    873 
     875 と、やっとお分りになる。
    874 
     876

    875 
     877 [第六段 尼君と御方の感懐]
    876 
     878 尼君は、長い間涙を抑えて、
    877 
     879 「あなたのお蔭で、嬉しく光栄なことも、身に余るほどに又とない運勢だと思っております。でも、悲しく胸の晴れない思いも、人一倍多くございました。
    878 
     880 物の数にも入らない身分ながらも、住み馴れた都を捨てて、あの国に沈淪していたのでさえ、普通の人と違った運命であると思っておりましたが、生きている間に別れ別れになり、離れて住まなければならない夫婦の縁とは思っておりませんで、同じ蓮の花の上に住むことができることに望みを託して歳月を送って来て、急にあのような思いもかけない御事が出てきて、捨てた都に帰って来ましたが、その甲斐あった御事を拝見して喜ぶものの、もう一方には、気がかりで悲しいことが付きまとって離れないのを、とうとうこのように再び会うことなく離れたまま、一生の別れとなってしまったのが残念に思われます。
    879 
     881 在俗の時でさえ、普通の人と違った性質のため、世をすねているようでしたが、まだ若かった私たちは頼りにし合って、それぞれまたとなく深く約束し合っていたので、お互いに本当に心から頼りにしていましたのに。どのようなわけで、このような便りの通じる近い所でありながら、こうして別れてしまったのでしょう」
    880 
     882 と言い続けて、たいそう悲しげに泣き顔をしていらっしゃる。御方もひどく泣いて、
    881 
     883 「人より優れた将来のことなど、嬉しくありません。物の数にも入らない身には、どのようなことにつけても、晴れがましく生きがいのあるはずもないとはいうものの、悲しい行き別れの恰好で、生死の様子も分からずに終わってしまったことだけが残念です。
    882 
     884 すべてのこと、そうした因縁がおありだった方のためと思われますが、そうして山奥に入ってしまわれたなら、人の命ははかないものですから、そのままお亡くなりになったら、何にもなりません」
    883 
     885 と言って、一晩中、しみじみとしたお話をし合って夜を明かしなさる。
    884 
     886

    885 
     887 [第七段 御方、部屋に戻る]
    886 
     888 「昨日も、大殿の君が、あちらにいると御覧になっていらっしゃったが、急に人目を避けて隠れたようなのも、軽率に見えましょう。わが身一つは、何も遠慮することはないのです。このように若宮にお付きなさっている姫君のためにお気の毒で、思いのままに身を振る舞いにくいのです」
    887 
     889 と言って、暗いうちにお帰りになった。
    888 
     890 「若宮はどうしていらっしゃいますか。何とかしてお目にかかれないのでしょうか」
    889 
     891 と言ってまたも泣いた。
    890 
     892 「すぐにお目にかかれましょう。女御の君も、とても懐かしくお思い出しになっては、お口にあそばすようです。院も、話のついでに、もし世の中が思うとおりに行ったならば、縁起でもないことを言うようだが、尼君がその時まで生き永らえていらして欲しいと、おっしゃっているようでした。どのようにお考えになってのことなのでしょうか」
    891 
     893 とおっしゃると、再び笑い顔になって、
    892 
     894 「さあ、それだからこそ、喜びも悲しみもまたと例のない運命なのです」
    893 
     895 と言って喜ぶ。この文箱を持たせて女御の方の許に参上なさった。
    894 
     896

    895 
     897 

    第十二章 明石の物語 一族の宿世


    896 
     898 [第一段 東宮からのお召しの催促]
    897 
     899 東宮から、早く参内なさるようにとのお召しが始終あるので、
    898 
     900 「そのようにお思いあそばすのも、無理のないことです。おめでたいことまで加わって、どんなにか待ち遠しがっていらっしゃることでしょう」
    899 
     901 と、紫の上もおっしゃって、若宮をこっそりと参上させようとご準備なさる。
    900 
     902 御息所は、なかなかお暇が出ないのにお懲りになって、このような機会に、暫くお里にいたいと思っていらっしゃった。年端も行かないお身体で、あのような恐ろしいご出産をなさったので、少しお顔がお痩せになって、たいそう優美なご様子をしていらっしゃった。
    901 
     903 「このような、まだおやつれになっていらっしゃるのですから、もう少し静養なさってからでは」
    902 
     904 などと、御方などはお気の毒にお思い申し上げなさるが、大殿は、
    903 
     905 「このように面痩せしてお目通りなさるのも、かえって魅力が増すものですよ」
    904 
     906 などとおっしゃる。
    905 
     907

    906 
     908 [第二段 明石女御、手紙を見る]
    907 
     909 対の上などがお帰りになった夕方、ひっそりした時に、御方は、御前に参上なさって、あの文箱のことをお聞かせ申し上げなさる。
    908 
     910 「望み通りにおなりあそばすまでは、隠して置くべきことでございますが、この世は無常ですので、気がかりに思いまして。何事もご自分のお考えで一つ一つご判断のおできになります前に、何にせよ、わたしが亡くなるようなことがございましたら、必ずしも臨終の際に、お見取りいただける身分ではございませんので、やはり、しっかりしているうちに、ちょっとした事柄でも、お耳に入れて置いたほうがよい、と存じまして。
    909 
     911 分りにくい変な筆跡ですが、これも御覧くださいませ。この御願文は、身近な御厨子などにお置きあそばして、きっとしかるべき機会に御覧になって、この中の事柄をお果たしください。
    910 
     912 気心の知れない人には、お話しあそばしてはなりません。将来も確かだと拝察致しましたので、自分自身も出家しましょうと思うようになってまいりましたので、何かにつけゆっくり構えるわけにも行きません。
    911 
     913 対の上のお心、いい加減にはお思い申されますな。実にめったにないほどでいらっしゃる、深いご親切のほどを拝見しますと、わたしよりはこの上なく、長生きして戴きたいと存じております。もともと、お側にお付き申し上げるのも、遠慮される身分でございますので、最初からお譲り申し上げていたのでしたが、とてもこうまでも、してくださるまいと、長い間、やはり世間並に考えていたのでございました。
    912 
     914 が今では、過去も将来も、安心できる気持ちになりました」
    913 
     915 などと、とても数多く申し上げなさる。涙ぐんで聞いていらっしゃる。このように親しくしてもよい御前でも、いつも礼儀正しい態度をなさって、無闇に遠慮している様子である。この手紙の文句、たいそう固苦しく無愛想な感じであるが、陸奥国紙で年数が経っているので、黄ばんで厚くなった五、六枚に、そうは言っても香をたいそう深く染み込ませたのにお書きになっていた。
    914 
     916 たいそう感動なさって、御額髪がだんだん涙に濡れて行く、御横顔、上品で優美である。
    915 
     917

    916 
     918 [第三段 源氏、女御の部屋に来る]
    917 
     919 院は、姫宮の御方にいらっしゃったが、中の御障子から不意にお越しになったので、手紙を引き隠すことができず、御几帳を少し引き寄せて、ご自身はやはり隠れなさった。
    918 
     920 「若宮は、お目覚めでいらっしゃいますか。ちょっとの間も恋しいものですよ」
    919 
     921 と申し上げなさると、御息所はお答えも申し上げなさらないので、御方が、
    920 
     922 「対の上にお渡し申し上げなさいました」
    921 
     923 と申し上げなさる。
    922 
     924 「実に不都合な。あちらではこの宮を独り占め申されて、懐から少しも放さずお世話なさっては、好き好んで着物もすっかり濡らして、しきりに脱ぎ替えているようです。かるがると、どうしてお渡し申しなさるのか。こちらに来てお世話申し上げなさればよいものを」
    923 
     925 とおっしゃると、
    924 
     926 「まあ、いやな。思いやりのないお言葉ですこと。女宮でいらっしゃっても、あちらでお育て申し上げなさるのがよいことでございましょう。まして男宮は、どれほど尊いご身分と申し上げても、ご自由と存じ上げておりますのに。ご冗談にも、そのような分け隔てをするようなことを、変に知ったふうに申されなさいますな」
    925 
     927 とお答え申し上げなさる。ほほ笑んで、
    926 
     928 「お二人にお任せして、お構い申さないのがよいというのですね。分け隔てをして、このごろは、誰も彼もが除け者にして、でしゃばりだなどとおっしゃるのは、考えが足りないことです。第一、そのようにこそこそ隠れて、冷たくこき下ろしなさるようだ」
    927 
     929 と言って、御几帳を引きのけなさると、母屋の柱に寄り掛かって、たいそう綺麗に、気が引けるほど立派な様子をしていらっしゃる。
    928 
     930

    929 
     931 [第四段 源氏、手紙を見る]
    930 
     932 さきほどの文箱も、慌てて隠すのも体裁が悪いので、そのままにしておかれたのを、
    931 
     933 「何の箱ですか。深い子細があるのでしょう。懸想人が長歌を詠んで大事に封じ込めてあるような気がしますね」
    932 
     934 とおっしゃるので、
    933 
     935 「まあ、いやですわ。今風に若返りなさったようなお癖で、合点のゆかないようなご冗談が、時々出て来ますこと」
    934 
     936 と言って、ほほ笑んでいらっしゃるが、しみじみとしたご様子がはっきりと感じられるので、妙だと首を傾けていらっしゃる様子なので、厄介に思って、
    935 
     937 「あの明石の岩屋から、内々で致しましたご祈祷の巻数、また、まだ願解きをしていないのがございましたのを、殿にもお知らせ申し上げるべき適当な機会があったら、御覧になって戴いたほうがよいのではないかと送って来たのでございますが、只今は、その時でもございませんので、何のお開けあそばすこともございますまい」
    936 
     938 と申し上げなさると、「なるほど、泣くのも無理はない」とお思いになって、
    937 
     939 「どんなに修業を積んでお暮らしになったことだろう。長生きをして、長年の勤行の功徳の積み重ねによって消滅した罪障も、数知れぬことだろう。世の中で、教養があり、賢明であるという方々を、それと見ても、現世の名利に執着した煩悩が深いのだろうか、学問は優れていても、実に限度があって及ばないな。
    938 
     940 実に悟りは深く、それでいて、風情のあった人だな。聖僧のように、現世から離れている顔つきでもないのに、本心は、すっかり極楽浄土に行き来しているように、見えました。
    939 
     941 まして、今では気にかかる係累もなく、解脱しきっているだろう。気楽に動ける身ならば、こっそりと行って、ぜひにも会いたいものだが」
    940 
     942 とおっしゃる。
    941 
     943 「今は、あの住んでいた所も捨てて、鳥の音も聞こえない奥山にと聞いております」
    942 
     944 と申し上げると、
    943 
     945 「それでは、その遺言なのですね。お手紙はやりとりなさっていますか。尼君、どんなにお思いだろうか。親子の仲よりも、また夫婦の仲は、格別に悲しみも深かろう」
    944 
     946 とおっしゃって、涙ぐみなさっていた。
    945 
     947

    946 
     948 [第五段 源氏の感想]
    947 
     949 「年を取って、世の中の様子を、あれこれと分かってくるにつれて、妙に恋しく思い出されるご様子の方なので、深い契りの夫婦では、どんなにか感慨も深いことであろう」
    948 
     950 などとおっしゃっている機会に、「あの夢物語もお思い当たりなさることがあるかも知れない」と思って、
    949 
     951 「たいそう変な梵字とか言うような筆跡ではございますが、お目に止まるようなこともございましょうかと存じまして。これが最後と思って別れたのでしたが、やはり、愛着は残るものでございました」
    950 
     952 と言って、見苦しからぬ体でお泣きになる。側に寄りなさって、
    951 
     953 「実にしっかりしていて、まだまだ耄碌していませんな。筆跡なども、総じて何につけても、ことさら有職と言ってもよい方で、ただ世渡りの心得だけが上手でなかったな。
    952 
     954 あの先祖の大臣は、たいそう賢明で世にも稀な忠誠を尽くして、朝廷にお仕え申していらっしゃった間に、何かの行き違いがあって、その報いでそのような子孫が絶えたのだと、人々が噂したようだが、女子の系統であるが、このように決して子孫がいないというわけでないのも、長年の勤行の甲斐があってなのだろう」
    953 
     955 などと、涙をお拭いになりながら、あの夢物語のあたりにお目を止めなさる。
    954 
     956 「変に偏屈者で、無闇に大それた望みを持っていると人も非難し、また自分ながらも、よろしからぬ結婚をかりそめにもしたことよ、と思ったのは、この姫君がお生まれになった時に、前世からの宿縁だと深く理解したが、目の前に見えない遠い先のことは、どういうものかよく分からぬとずっと思い続けていたのだが、それでは、このような期待があって、無理やり婿に望んだのだったな。
    955 
     957 無実の罪によって、酷い目に遭い、流浪したのも、この人一人の祈願成就のためであったのだな。どのような祈願を思い立ったのだろうか」
    956 
     958 と知りたいので、心の中で拝んでお取りになった。
    957 
     959

    958 
     960 [第六段 源氏、紫の上の恩を説く]
    959 
     961 「この願文には、また一緒に差し上げねばならない物があります。そのうちお話しましょう」
    960 
     962 と、女御には申し上げなさる。その折に、
    961 
     963 「今は、このように、昔のことをだいぶお分りになったのだが、あちらのご好意を、いい加減にはお思いなさいますな。もともと親しいはずの夫婦仲や、切っても切れない親兄弟の親しみよりも、血の繋がらない他人がかりそめの情けをかけ、一言の好意でも寄せてくれるのは、並大抵のことではありません。
    962 
     964 まして、ここに始終お付きしていらっしゃるのを見ながら、最初の気持ちも変わらず、深くご好意をお寄せ申しているのですから。
    963 
     965 昔の世の例にも、いかにも表面だけはかわいがっているようだがと、賢そうに推量するのも、利口なようだが、やはり間違っても、自分にとって内心悪意を抱いているような継母を、そうとは思わず、素直に慕っていったならば、思い返してかわいがり、どうしてこんなかわいい子にはと、罰が当たることだと、改心することもきっとあるでしょう。
    964 
     966 並々ならぬ昔からの仇敵でない人は、いろいろ行き違いがあっても、お互いに欠点のない場合には、自然と仲好くなる例はたくさんあるようです。それほどでもないことに、とげとげしく難癖をつけ、かわいげなく、人を疎んじる心のある人は、とてもうちとけにくく、考えの至らない者と言うべきでしょう。
    965 
     967 多くはありませんが、人の心の、あれこれとある様子を見ると、嗜み教養といい、それぞれにしっかりした程度の心得は持っているようです。皆それぞれ長所があって、取柄がないでもないが、かと言って、特別に、わが妻にと思って、真剣に選ぼうとすれば、なかなか見当たらないものです。
    966 
     968 ただ本当に素直で良い人は、この対の上だけで、この人を穏やかな人と言うべきだ、と思います。身分の高い人と言っても、またあまりに締まりがなくて頼りなさそうなのも、まことに残念なことですよ」
    967 
     969 とだけおっしゃったが、もうお一方のことがきっと想像されたことだろう。
    968 
     970

    969 
     971 [第七段 明石御方、卑下す]
    970 
     972 「あなたこそは、少し物の道理が分かっていらっしゃるようだから、ほんとうに結構なことで、仲好くし合って、この姫君のご後見を、心を合わせてなさって下さい」
    971 
     973 などと、声をひそめておっしゃる。
    972 
     974 「仰せはなくとも、まことに有り難いご好意を拝見しておりまして、朝夕の口癖に感謝申し上げております。目障りな者だとお許しがなかったら、こんなにまでお見知りおき下さるはずもございませんのに、身の置き所もない程に人並みにお言葉をかけて下さるので、かえって面映ゆいくらいです。
    973 
     975 人数にも入らないわたしが、それでも生き永らえていますのは、世間の評判もいかがと、まことに苦しく、遠慮される思いが致しますが、お咎めもない様子に、いつもお庇いいただいているのでございます」
    974 
     976 と申し上げなさると、
    975 
     977 「あなたのためには、特にご好意があるのではないでしょう。ただ、この姫君のご様子を始終付き添ってお世話申し上げられないのが心配で、お任せ申されるのでしょう。それもまた、一人で取り仕切って、特に目立つようにお振る舞いにならないので、何事も穏やかで体裁よく運ぶので、まことに嬉しく思っています。
    976 
     978 ちょとしたことにつけても、物の道理の分からずひねくれた者は、人と交際するにつけて、相手まで迷惑を被ることがあるものです。そのような直さなければならない所が、どちらにもなくいらっしゃるようなので、安心です」
    977 
     979 とおっしゃるにつけても、
    978 
     980 「やっぱりだわ。よくここまで謙遜して来たこと」
    979 
     981 などと思い続けなさる。対の屋へお渡りになった。
    980 
     982

    981 
     983 [第八段 明石御方、宿世を思う]
    982 
     984 「ああして、たいそう大事になさるお気持ちが深まるばかりのようだこと。なるほどほんとに、人並み勝れて、こんなに何もかも揃っていらっしゃる様子で、無理もないとお見えになるのが立派ですわ。
    983 
     985 宮の御方は、表向きのお扱いだけはご立派で、お渡りになるのも、そう十分でないらしいのは、恐れ多いことのようですわ。同じお血筋でいらっしゃるが、もう一段御身分が高いことだけにお気の毒で」
    984 
     986 と陰口を申し上げなさるにつけても、自分の運命は、まことに大したものだと、思われなさるのであった。
    985 
     987 「高貴な方でさえ、思い通りにならないらしいご夫婦仲なのに、ましてお仲間入りできるような身分でもないのだから、何もかも今は、恨めしく思うことはない。ただ、あの世を捨てて籠もった深山生活を思いやるだけが悲しく心配だわ」
    986 
     988 尼君も、ただ、「福地の園に種を蒔いて」といったような一言を頼みにして、後世の事を考え考え物思いに耽っていらっしゃった。
    987 
     989

    988 
     990 

    第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る


    989 
     991 [第一段 夕霧の女三の宮への思い]
    990 
     992 大将の君は、この姫宮の御事を、考えなかったわけでもないので、身近においであそばしますのを、とても平気ではいられず、普通のお世話にかこつけて、こちらには何か御用がある時にはいつも参上して、自然と雰囲気や、様子を見聞きなさると、とても若くおっとりしていらっしゃるばかりで、表向きの格式だけは堂々として、世の前例にもなりそうなくらい大事に申し上げなさっているが、実際はそう大して際立って奥ゆかしくは思われない。
    991 
     993 女房なども、しっかりした年輩の者たちは少なく、若くて美人で、ただもう華やかに振る舞って、気取っている者がとても多く、数えきれないほど多く集まり集まって、何の苦労もないお住まいとはいえ、どのような事でも騒がず落ち着いている女房は、心の中がはっきりと見えないものであるから、わが身に人知れない悩みを持っていても、また真実楽しげに、万事思い通りに行っているらしい人たちの中にいると、はたの人に引かれて、同じ気分や態度に調子を合わせるものであるから、ただ一日中、子供じみた遊びや戯れ事に熱中している童女の様子など、院は、まことに感心しないと御覧になることもあるが、一律に世間の事を断じたりなさらないご性格なので、このような事も勝手にさせて、そのようなこともしたいのだろうと、大目に御覧になって、叱って改めさせることはなさらない。
    992 
     994 ご本人のお振る舞いだけは、十分よくお教え申し上げなさるので、少しは取り繕っていらっしゃった。
    993 
     995

    994 
     996 [第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較]
    995 
     997 このようなことを、大将の君も、
    996 
     998 「なるほど、立派な方はなかなかいないものだな。紫の上のお心がけ、態度は、長年たったけれども、何かと噂に出て見えたり聞こえたりするところはなく、もの静かな点を第一として、何と言っても、心やさしく、人をないがしろにせず、自分自身も気品高く、奥ゆかしくしていらっしゃることよ」
    997 
     999 と、垣間見した面影を忘れ難くばかり思い出されるのであった。
    998 
     1000 「自分の北の方も、かわいいとお思いになることは強いのであるが、取り上げるほどの、人に勝れた才覚などは、お持ちでない方だ。安心していられる人と、もう今は安心だと見慣れているために、気が緩んで、やはりこのように、いろいろな方がお集まりになっていらっしゃる様子が、それぞれにご立派でいらっしゃるのを、内心密かに関心を捨て切れないでいるところに、ましてこの宮は、ご身分を考えるにつけても、この上なく格別のお生まれなのに、特別のご寵愛でもなく、世間体を飾っているだけのことだ」
    999 
     1001 とお見受けする。特に大それた考えではないが、「拝見する機会があるだろうか」と、関心をお寄せになっていらっしゃった。
    1000 
     1002

    1001 
     1003 [第三段 柏木、女三の宮に執心]
    1002 
     1004 衛門督の君も、朱雀院に常に参上し、常日頃親しく伺候していらっしゃった方なので、この宮を父帝が大切になさっていらっしゃったご意向など、詳細に拝見していて、いろいろなご縁談があったころから申し出で、院におかせられても、「出過ぎた者とはお思いでなく、おっしゃりもしなかった」と聞いていたが、このようにご降嫁になったのは、大変に残念で、胸の痛む心地がするので、やはり諦めることができない。
    1003 
     1005 そのころから親しくなっていた女房の口から、ご様子なども伝え聞きくのを慰めにしているのは、はかないことであった。
    1004 
     1006 「対の上のご寵愛には、やはり圧倒されていらっしゃる」と、世間の人が噂しているのを聞いては、
    1005 
     1007 「恐れ多いことだが、そのような辛い思いはおさせ申さなかったろうに。いかにも、そのような高いご身分の相手には、相応しくないだろうが」
    1006 
     1008 と、いつもこの小侍従という御乳母子を責めたてて、
    1007 
     1009 「世の中は無常なものだから、大殿の君が、もともと抱いていらしたご出家をお遂げなさったら」
    1008 
     1010 と、怠りなく思い続けていらっしゃるのであった。
    1009 
     1011

    1010 
     1012 [第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ]
    1011 
     1013 三月ころの空がうららかに晴れた日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督などが参上なさった。大殿がお出ましになって、お話などなさる。
    1012 
     1014 「静かな生活は、このごろ大変に退屈で気の紛れることがないね。公私とも平穏無事だ。何をして今日一日を暮らせばよかろう」
    1013 
     1015 などとおっしゃって、
    1014 
     1016 「今朝、大将が来ていたが、どこに行ったか。何とももの寂しいから、いつものように、小弓を射させて見物すればよかった。愛好者らしい若い人たちが見えていたが、惜しいことに帰ってしまったかな」
    1015 
     1017 と、お尋ねさせなさる。
    1016 
     1018 「大将の君は、丑寅の町で、人々と大勢して、蹴鞠をさせて御覧になっていらっしゃる」
    1017 
     1019 とお聞きになって、
    1018 
     1020 「無作法な遊びだが、それでも派手で気の利いた遊びだ。どれ、こちらで」
    1019 
     1021 といって、お手紙があったので、参上なさった。若い公達らしい人々が多くいたのであった。
    1020 
     1022 「鞠をお持たせになったか。誰々が来たか」
    1021 
     1023 とお尋ねになる。
    1022 
     1024 「誰それがおります」
    1023 
     1025 「こちらへ来ませんか」
    1024 
     1026 とおっしゃって、寝殿の東面は、桐壷の女御は若宮をお連れ申し上げていらっしゃっている折なので、こちらはひっそりしていた。遣水などの合流する所が広々としていて、趣のある場所を探しに出て行く。太政大臣の公達の、頭弁、兵衛佐、大夫の君などの、年輩者も、また若い者も、それぞれに、他の人より立派な方ばかりでいらっしゃる。
    1025 
     1027

    1026 
     1028 [第五段 南町で蹴鞠を催す]
    1027 
     1029 だんだん日が暮れかかって行き、「風が吹かず、絶好の日だ」と興じて、弁君も我慢できずに仲間に入ったので、大殿が、
    1028 
     1030 「弁官までが落ち着いていられないようだから、上達部であっても、若い近衛府司たちは、どうして飛び出して行かないのか。それくらいの年では、不思議にも見ているのは、残念に思われたことだ。とはいえ、とても騒々しいな。この遊びの有様はな」
    1029 
     1031 などとおっしゃると、大将も督君も、みなお下りになって、何ともいえない美しい桜の花の蔭で、あちこち動きなさる夕映えの姿、たいそう美しい。決して体裁よくなく、騒々しく落ち着きのない遊びのようだが、場所柄により人柄によるものであった。
    1030 
     1032 趣のある庭の木立がたいそう霞に包まれたところに、何本もの色とりどりに蕾の開いて行く花の木が、わずかに芽のふいた木の蔭で、このようにつまらない遊びだが、上手下手の違いがあるのを競い合っては、自分も負けまいと思っている顔つきの中で、衛門督がほんのお付き合いの顔で参加なさった蹴り方に、並ぶ人がいなかった。
    1031 
     1033 器量もたいそう美しく優雅な物腰の人が、心づかいを十分して、それでいて活発なのは見事である。
    1032 
     1034 御階の柱間に面した桜の木蔭に移って、人々が、花のことも忘れて熱中しているのを、大殿も兵部卿宮も隅の高欄に出て御覧になる。
    1033 
     1035

    1034 
     1036 [第六段 女三の宮たちも見物す]
    1035 
     1037 たいそう稽古を積んだ技の数々が見えて、回が進んで行くにつれて、身分の高い人も無礼講となって、冠の額際が少し弛んで来た。大将の君も、ご身分の高さを考えれば、いつにない羽目の外しようだと思われるが、見た目には、人よりことに若く美しくて、桜の直衣の少し柔らかくなっているのを召して、指貫の裾の方が、少し膨らんで、心もち引き上げていらっしゃった。
    1036 
     1038 軽率には見えず、さっぱりとした寛いだ姿に、花びらが雪のように降りかかるので、ちょっと見上げて、撓んだ枝を少し折って、御階の中段辺りにお座りになった。督の君も続いて、
    1037 
     1039 「花びらが、しきりに散るようですね。桜は避けて吹いてくれればよいに」
    1038 
     1040 などとおっしゃりながら、宮の御前の方角を横目に見やると、いつものように、格別慎みのない女房たちがいる様子で、色とりどりの袖口がこぼれ出ている御簾の端々から、透影などが、春に供える幣袋かと思われて見える。
    1039 
     1041

    1040 
     1042 [第七段 唐猫、御簾を引き開ける]
    1041 
     1043 御几帳類をだらしなく方寄せ方寄せして、女房がすぐ側にいて世間ずれしているように思われるところに、唐猫でとても小さくてかわいらしいのを、ちょっと大きめの猫が追いかけて、急に御簾の端から走り出すと、女房たちは恐がって騷ぎ立て、ざわざわと身じろぎし、動き回る様子や、衣ずれの音がやかましいほどに思われる。
    1042 
     1044 猫は、まだよく人に馴れていないのであろうか、綱がたいそう長く付けてあったが、物に引っかけまつわりついてしまったので、逃げようとして引っぱるうちに、御簾の端がたいそうはっきりと中が見えるほど引き開けられたのを、すぐに直す女房もいない。この柱の側にいた人々も慌てているらしい様子で、誰も手が出ないでいるのである。
    1043 
     1045

    1044 
     1046 [第八段 柏木、女三の宮を垣間見る]
    1045 
     1047 几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で立っていらっしゃる方がいる。階から西の二間の東の端なので、隠れようもなくすっかり見通すことができる。
    1046 
     1048 紅梅襲であろうか、濃い色薄い色を、次々と、何枚も重ねた色の変化、派手で、草子の小口のように見えて、桜襲の織物の細長なのであろう。お髪が裾までくっきりと見えるところは、糸を縒りかけたように靡いて、裾がふさふさと切り揃えられているのは、とてもかわいい感じで、七、八寸ほど身丈に余っていらっしゃる。お召し物の裾が長く余って、とても細く小柄で、姿つき、髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげである。夕日の光なので、はっきり見えず、奥暗い感じがするのも、とても物足りなく残念である。
    1047 
     1049 蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。猫がひどく鳴くので、振り返りなさった顔つき、態度などは、とてもおっとりとして、若くかわいい方だと、直観された。
    1048 
     1050

    1049 
     1051 [第九段 夕霧、事態を憂慮す]
    1050 
     1052 大将は、たいそうはらはらしていたが、近寄るのもかえって身分に相応しくないので、ただ気づかせようと、咳ばらいなさったので、すっとお入りになる。実の所、自分ながらも、とても残念な気持ちがなさったが、猫の綱を放したので、溜息をもらさずにはいられない。
    1051 
     1053 それ以上に、あれほど夢中になっていた衛門督は、胸がいっぱいになって、他の誰でもない、大勢の中ではっきりと目立つ袿姿からも、他人と間違いようもなかったご様子など、心に忘れられなく思われる。
    1052 
     1054 何気ない顔を装っていたが、「当然見ていたにちがいない」と、大将は困った事になったと思わずにはいられない。たまらない気持ちの慰めに、猫を招き寄せて抱き上げてみると、とてもよい匂いがして、かわいらしく鳴くのが、慕わしい方に思いなぞらえられるとは、好色がましいことであるよ。
    1053 
     1055

    1054 
     1056 

    第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴


    1055 
     1057 [第一段 蹴鞠の後の酒宴]
    1056 
     1058 大殿がこちらを御覧になって、
    1057 
     1059 「上達部の座席には、あまりに軽々しいな。こちらに」
    1058 
     1060 とおっしゃって、東の対の南面の間にお入りになったので、皆そちらの方にお上りになった。兵部卿宮も席をお改めになって、お話をなさる。
    1059 
     1061 それ以下の殿上人は、簀子に円座を召して、気楽に、椿餅、梨、柑子のような物が、いろいろないくつもの箱の蓋の上に盛り合わせてあるのを、若い人々ははしゃぎながら取って食べる。適当な干物ばかりを肴にして、酒宴の席となる。
    1060 
     1062 衛門督は、たいそうひどく沈みこんで、ややもすれば、花の木に目をやってぼんやりと物思いに耽っている。大将は、事情を知っているので、「妙なことから垣間見た御簾の透影を思い出しているのだろう」とお考えになる。
    1061 
     1063 「とても端近にいた様子を、一方では軽率だと思っているだろう。いやはや。こちらのご様子は、あのようなことは決してありますまいものを」と思うと、「こんなふうだから、世間の評判が高い割には、内々のご愛情は薄いようなのだった」
    1062 
     1064 と合点されて、
    1063 
     1065 「やはり、他人に対しても自分に対しても、不用心で、幼いのは、かわいらしいようだが不安なものだ」
    1064 
     1066 と、軽んじられる。
    1065 
     1067 宰相の君は、いろんな欠点をもなかなか気づかず、思いがけない御簾の隙間から、ちらっとその方と拝見したのも、「自分の以前からの気持ちが報いられるのではないか」と、前世からの約束も嬉しく思われて、どこまでもお慕い続けている。
    1066 
     1068

    1067 
     1069 [第二段 源氏の昔語り]
    1068 
     1070 院は、昔話を始めなさって、
    1069 
     1071 「太政大臣が、どのような事でも、わたしを相手にして勝負の争いをなさった中で、蹴鞠だけはとても敵わなかった。ちょっとした遊び事には、別に伝授があるはずもないが、名人の血統はやはり特別であったよ。たいそう目も及ばぬほど、上手に見えた」
    1070 
     1072 とおっしゃると、ちょっと苦笑して、
    1071 
     1073 「公の政務にかけては劣っております家風が、そのような方面では伝わりましても、子孫にとっては、大したことはございませんでしょう」
    1072 
     1074 とお答え申されると、
    1073 
     1075 「どうしてそんなことが。何事でも他人より勝れている点を、書き留めて伝えるべきなのだ。家伝などの中に書き込んでおいたら、面白いだろう」
    1074 
     1076 などと、おからかいになるご様子が、つやつやとして美しいのを拝見するにつけても、
    1075 
     1077 「このような方と一緒にいては、どれほどのことに心を移す人がいらっしゃるだろうか。いったい、どうしたら、かわいそうにとお認め下さるほどにでも、気持ちをお動かし申し上げることができようか」
    1076 
     1078 と、あれこれ思案すると、ますますこの上なく、お側には近づきがたい身分の程が自然と思い知らされるので、ただもう胸の塞がる思いで退出なさった。
    1077 
     1079

    1078 
     1080 [第三段 柏木と夕霧、同車して帰る]
    1079 
     1081 大将の君と同車して、途中お話なさる。
    1080 
     1082 「やはり、今ごろの退屈な時には、こちらの院に参上して、気晴らしすべきだ」
    1081 
     1083 「今日のような暇な日を見つけて、花の季節を逃さず参上せよと、おっしゃったが、行く春を惜しみがてらに、この月中に、小弓をお持ちになって参上ください」
    1082 
     1084 と約束し合う。お互いに別れる道までお話なさって、宮のお噂がやはりしたかったので、
    1083 
     1085 「院におかれては、やはり東の対の御方にばかりいらっしゃるようですね。あちらの方へのご愛情が格別勝るからでしょう。こちらの宮はどのようにお思いでしょうか。院の帝が並ぶ者のないお扱いをずっとしてお上げになっていらっしゃったのに、それほどでもないので、沈み込んでいらっしゃるようなのは、お気の毒なことです」
    1084 
     1086 と、よけいな事を言うので、
    1085 
     1087 「とんでもないことです。どうしてそんなことがありましょう。こちらの御方は、普通の方とは違った事情でお育てなさったお親しさの違いがおありなのでしょう。宮を何かにつけて、たいそう大事にお思い申し上げていらっしゃいますものを」
    1086 
     1088 とお話しになると、
    1087 
     1089 「いや、黙って下さい。すっかり聞いております。とてもお気の毒な時がよくあるというではありませんか。実のところ、並々ならぬ御寵愛の宮ですのに。考えられないお扱いではないですか」
    1088 
     1090 と、お気の毒がる。
    1089 
     1091 「どうして、花から花へと飛び移る鴬は
    1090 
     1092  桜を別扱いしてねぐらとしないのでしょう
    1091 
     1093 春の鳥が、桜だけにはとまらないことよ。不思議に思われることですよ」
    1092 
     1094 と、口ずさみに言うので、
    1093 
     1095 「何と、つまらないおせっかいだ。やっぱり思った通りだな」と思う。
    1094 
     1096 「深山の木にねぐらを決めているはこ鳥も
    1095 
     1097  どうして美しい花の色を嫌がりましょうか
    1096 
     1098 理屈に合わない話です。そう一方的におっしゃってよいものですか」
    1097 
     1099 と答えて、面倒なので、それ以上物を言わせないようにした。他に話をそらせて、それぞれ別れた。
    1098 
     1100

    1099 
     1101 [第四段 柏木、小侍従に手紙を送る]
    1100 
     1102 督の君は、やはり太政大臣邸の東の対に、独身で暮らしていらっしゃっるのであった。考えるところがあって、長年このような独身生活をしてきが、誰のせいでもなく自分からもの寂しく心細い時々もあるが、
    1101 
     1103 「自分はこれほどの身分で、どうして思うことが叶わないことがあろうか」
    1102 
     1104 と、ばかり自負しているが、この夕方からひどく気持ちが塞ぎ、物思いに沈み込んで、
    1103 
     1105 「どのような機会に、再びあれぐらいでもよい、せめてちらっとでもお姿を見たいものだ。何をしても人目につかない身分の者なら、ちょっとでも手軽な物忌や、方違えの外出も身軽にできるから、自然と何かと機会を見つけることもできようが」
    1104 
     1106 などと、思いを晴らすすべもなく、
    1105 
     1107 「深窓の内に住む方に、どのような手段で、このような深くお慕い申しているということだけでも、お知らせ申し上げられようか」
    1106 
     1108 と胸が苦しく晴れないので、小侍従のもとに、いつものように、手紙をおやりになる。
    1107 
     1109 「先日、誘われて、お邸に参上致しましたが、ますますどんなにかわたしをお蔑すみなさったことでしょうか。その夕方から、気分が悪くなって、わけもなく今日は物思いに沈んで暮らしております」
    1108 
     1110 などと書いて、
    1109 
     1111 「よそながら見るばかりで手折ることのできない悲しみは深いけれども
    1110 
     1112  あの夕方見た花の美しさはいつまでも恋しく思われます」
    1111 
     1113 とあるが、小侍従は先日の事情を知らないので、ただ普通の恋煩いだろうと思う。
    1112 
     1114

    1113 
     1115 [第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る]
    1114 
     1116 御前には女房たちがあまりいない時なので、この手紙を持って上がって、
    1115 
     1117 「あの方が、このようにばかり、忘れられないといって、手紙を寄こしなさるのが面倒なことでございます。お気の毒そうな様子を見るに見かねる気持ちが起こりはせぬかと、自分の心ながら分らなくなります」
    1116 
     1118 と、にっこりして申し上げると、
    1117 
     1119 「とても嫌なことを言うのね」
    1118 
     1120 と、無邪気におっしゃって、手紙を広げたのを御覧になる。
    1119 
     1121 「見ていない」という歌を引いたところを、不注意だった御簾の端の事を自然とお思いつかれたので、お顔が赤くなって、大殿が、あれほど何かあるごとに、
    1120 
     1122 「大将に見られたりなさらないように。子供っぽいところがおありのようだから、自然とついうっかりしていて、お見かけ申すようなことがあるかも知れない」
    1121 
     1123 と、ご注意申し上げなさっていたのをお思い出しになると、
    1122 
     1124 「大将が、こんなことがあったとお話し申し上げるようなことがあったら、どんなにお叱りになるだろう」
    1123 
     1125 と、人が拝見なさったことをお考えにならないで、まずは、叱られることを恐がり申されるお考えとは、なんと幼稚な方よ。
    1124 
     1126 いつもよりもお言葉がないので、はりあいがなく、特に無理して催促申し上げるべき事でもないから、こっそりと、いつものように書く。
    1125 
     1127 「先日は、知らない顔をなさっていましたね。失礼なことだとお許し申し上げませんでしたのに、『見ないでもなかった』とは何ですか。まあ、嫌らしい」
    1126 
     1128 と、さらさらと走り書きして、
    1127 
     1129 「今さらお顔の色にお出しなさいますな
    1128 
     1130  手の届きそうもない桜の枝に思いを掛けたなどと
    1129 
     1131 無駄なことですよ」
    1130 
     1132 とある。
    1131 
     1133

    1132 
     1134源氏物語の世界ヘ
    1133 
     1135本文
    1134 
     1136ローマ字版
    1135 
     1137注釈
    1136 
     1138明融臨模本
    1137 
     1139大島本
    1138 
     1140自筆本奥入
    1139 
     11411140 
     1142
    1141 
     11431142 
     11441143