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 3真木柱(大島本)3 
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 7渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)7 
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真木柱

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 11光る源氏の太政大臣時代三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語
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 13第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚
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  • 鬚黒、玉鬘を得る---「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い
  • 15 
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  • 内大臣、源氏に感謝---父内大臣は、「かえって無難であろう
  • 16 
     17
  • 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活---十一月になった。神事などが多く
  • 17 
     18
  • 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す---殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに
  • 18 
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     20第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
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  • 鬚黒の北の方の嘆き---宮中に参内なさることを、心配なことと
  • 22 
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  • 鬚黒、北の方を慰める(一)---お住まいなどが、とんでもなく乱雑で
  • 23 
     24
  • 鬚黒、北の方を慰める(二)---殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君
  • 24 
     25
  • 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする---日が暮れたので、気もそぞろになって
  • 25 
     26
  • 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける---御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせて
  • 26 
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  • 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る---一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて
  • 27 
     28
  • 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う---日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる
  • 28 
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     30第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
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  • 式部卿宮、北の方を迎えに来る---修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく
  • 32 
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  • 母君、子供たちを諭す---お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを
  • 33 
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  • 姫君、柱の隙間に和歌を残す---日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も
  • 34 
     35
  • 式部卿宮家の悲憤慷慨---宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである
  • 35 
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  • 鬚黒、式部卿宮家を訪問---宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに
  • 36 
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  • 鬚黒、男子二人を連れ帰る---幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる
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     39第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ
    39 
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    40 
     41
  • 玉鬘、新年になって参内---このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は
  • 41 
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  • 男踏歌、貴顕の邸を回る---踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って
  • 42 
     43
  • 玉鬘の宮中生活---宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げ
  • 43 
     44
  • 帝、玉鬘のもとを訪う---月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて
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  • 玉鬘、帝と和歌を詠み交す---大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって
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  • 玉鬘、鬚黒邸に退出---そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが
  • 46 
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  • 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る---二月になった。大殿は
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  • 源氏、玉鬘の返書を読む---手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが
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  • 三月、源氏、玉鬘を思う---三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が
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     51第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君
    51 
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    52 
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  • 北の方、病状進む---あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって
  • 53 
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  • 十一月に玉鬘、男子を出産---その年の十一月に、たいそうかわいい赤子まで
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  • 近江の君、活発に振る舞う---そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も
  • 55 
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     58 

    第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚

    58 
     59 [第一段 鬚黒、玉鬘を得る]
    59 
     60 「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い。少しの間は広く世間には知らせまい」とご注意申し上げなさるが、そう隠してもお隠しきれになれない。何日かたったが、少しもお心を開くご様子もなく、「思いの他の不運な身の上だわ」と、思い詰めていらっしゃる様子がいつまでも続くので、「ひどく恨めしい」と思うが、浅からぬご縁、しみじみと嬉しく思う。
    60 
     61 見れば見るほどにご立派で、理想的なご器量、様子を、「他人のものにしてしまうところであったよ」と思うだけでも胸がどきどきして、石山寺の観音も、弁の御許も並べて拝みたく思うが、女君がほんとうに不愉快だと嫌ったので、出仕もせずに自宅に引き籠もっているのであった。
    61 
     62 なるほど、たくさんお気の毒な例を、いろいろと見て来たが、思慮の浅い人のために、お寺の霊験が現れたのであった。
    62 
     63 大臣も「不満足で残念だ」とお思いになるが、今さら言ってもしかたのないことなので、「誰も彼もこのようにご承知なさったことなので、今さら態度を変えるのも、相手のためにたいそうお気の毒であり、筋違いである」とお考えになって、結婚の儀式をたいそうまたとなく立派にお世話なさる。
    63 
     64 一日も早く、自分の邸にお迎え申し上げることをご準備なさるが、軽率にひょいとお移りなさる場合、あちらに待ち受けて、きっと好ましく思うはずのない人がいらっしゃるらしいのが、気の毒なことにかこつけなさって、
    64 
     65 「やはり、ゆっくりと、波風を立てないようにして、騒がれないで、どこからも人の非難や妬みを受けないよう、お振る舞いなさい」
    65 
     66 とお申し上げなさる。
    66 
     67

    67 
     68 [第二段 内大臣、源氏に感謝]
    68 
     69 父内大臣は、
    69 
     70 「かえって無難であろう。格別親身に世話してくれる後見のない人が、なまじっかの色めいた宮仕えに出ては、辛いことであろうと、不安に思っていた。大切にしたい気持ちはあるが、女御がこのようにいらっしゃるのを差し置いて、どうして世話できようか」
    70 
     71 などと、内々におっしゃっているのであった。なるほど、帝だと申しても、人より軽くおぼし召し、時たまお目にかかりなさって、堂々としたお扱いをなさらなかったら、軽率な出仕ということになりかねないのであった。
    71 
     72 三日の夜のお手紙を、取り交わしなさった様子を伝え聞きなさって、こちらの大臣のお気持ちを、「ほんとうにもったいなく、ありがたい」と感謝申し上げなさるのであった。
    72 
     73 このように隠れたご関係であるが、自然と、世間の人がおもしろい話として語り伝えては、次から次へと漏れ聞いて、めったにない世間話として言いはやすのであった。帝におかれてもお聞きあそばしたのであった。
    73 
     74 「残念にも、縁のなかった人であるが、あのように望んでいられた願いもあるのだから。宮仕えなど、妃の一人としてでは、お諦めになるのもよかろうが」
    74 
     75 などと仰せられるのであった。
    75 
     76

    76 
     77 [第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活]
    77 
     78 十一月になった。神事などが多く、内侍所にも仕事の多いころなので、女官連中、内侍連中が参上しては、はなやかに騒々しいので、大将殿は、昼もたいそう隠れたようにして籠もっていらっしゃるのを、たいそう気にくわなく、尚侍の君はお思いになっていた。
    78 
     79 兵部卿宮などは、それ以上に残念にお思いになる。兵衛督は、妹の北の方の事までを外聞が悪いと嘆いて、重ね重ね憂鬱であったが、「馬鹿らしく、恨んでみても今はどうにもならない」と考え直す。
    79 
     80 大将は、有名な堅物で、長年少しも浮気沙汰もなくて過ごしてこられたのが、すっかり変わってご満悦で、別人のようなご様子で、夜や早朝の人目を忍んでいらっしゃる出入りも、恋人らしく振る舞っていらっしゃるのを、おもしろいと女房たちは拝する。
    80 
     81 女は、陽気にはなやかにお振る舞いなさるご性分も表に出さず、とてもひどくふさぎ込んで、自分から求めて一緒になったのでないことは誰の目からも明らかであるが、「大臣がどうお思いであろうか、兵部卿宮のお気持ちの深くやさしくいらっしゃったこと」などを思い出しなさると、「恥ずかしく、残念だ」とばかりお思いになると、何かと気に入らないご様子が絶えない。
    81 
     82

    82 
     83 [第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す]
    83 
     84 殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに、潔白であることを証明なさって、「自分の心中でも、その場限りの間違ったことは好まないのだ」と、昔からのこともお思い出しになって、紫の上にも、
    84 
     85 「お疑いでしたね」
    85 
     86 などと申し上げなさる。「今さら、厄介な癖が出ても困る」とお思いになる一方で、何かたまらなくお思いになった時、「いっそ自分の物にしてしまおうか」と、お考えになったこともあるので、やはりご愛情も切れない。
    86 
     87 大将のおいでにならない昼ころ、お渡りになった。女君は、不思議なほど悩ましそうにばかりお振る舞いになって、さわやかな気分の時もなく萎れていらっしゃったが、このようにしてお越しになると、少し起き上がりなさって、御几帳に隠れてお座りになる。
    87 
     88 殿も、改まった態度で、少し他人行儀にお振る舞いになって、世間一般の話などを申し上げなさる。真面目な普通の人を夫として迎えるようになってからは、今まで以上に言いようのないご様子や有様をお分りになるにつけ、意外な運命の身の、置き所もないような恥ずかしさにも、涙がこぼれるのであった。
    88 
     89 だんだんと、情のこもったお話になって、近くにある御脇息に寄り掛かって、少し覗き見しながら、お話し申し上げになさる。たいそう美しげに面やつれしておいでの様子が、見飽きず、いじらしさがお加わりになっているにつけても、「他人に手放してしまうのも、あまりな気まぐれだな」と残念である。
    89 
     90 「あなたと立ち入った深い関係はありませんでしたが、三途の川を渡る時、
    90 
     91  他の男に背負われて渡るようにはお約束しなかったはずなのに
    91 
     92 思ってもみなかったことです」
    92 
     93 と言って、鼻をおかみになる様子、やさしく心を打つ風情である。
    93 
     94 女は顔を隠して、
    94 
     95 「三途の川を渡らない前に何とかしてやはり
    95 
     96  涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいものです」
    96 
     97 「幼稚なお考えですね。それにしても、あの三途の川の瀬は避けることのできない道だそうですから、お手先だけは、引いてお助け申しましょうか」と、ほほ笑みなさって、「真面目な話、お分かりになることもあるでしょう。世間にまたといない馬鹿さ加減も、また一方で安心できるのも、この世に類のないくらいなのを、いくら何でもと、頼もしく思っています」
    97 
     98 と申し上げなさるのを、ほんとうにどうすることもできず、聞き苦しいとお思いでいらっしゃるので、お気の毒になって、話をおそらしになりながら、
    98 
     99 「帝が仰せになることがお気の毒なので、やはり、ちょっとでも出仕おさせ申しましょう。自分の物と家の中に閉じ込めてしまってからでは、そのようなお勤めもできにくいお身の上となりましょう。当初の考えとは違ったかっこうですが、二条の大臣は、ご満足のようなので、安心です」
    99 
     100 などと、こまごまとお話し申し上げなさる。ありがたくも気恥ずかしくもお聞きになることが多いけれど、ただ涙に濡れていらっしゃる。たいそうこんなにまで悩んでおいでの様子がお気の毒なので、お思いのままに無体な振る舞いはなさらず、ただ、心得や、ご注意をお教え申し上げなさる。あちらにお移りになることを、直ぐにはお許し申し上げなさらないご様子である。
    100 
     101

    101 
     102 

    第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動

    102 
     103 [第一段 鬚黒の北の方の嘆き]
    103 
     104 宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
    104 
     105 北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
    105 
     106 女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
    106 
     107 式部卿宮がお聞きになって、
    107 
     108 「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
    108 
     109 とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
    109 
     110 生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。
    110 
     111

    111 
     112 [第二段 鬚黒、北の方を慰める(1)]
    112 
     113 お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
    113 
     114 「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
    114 
     115 長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
    115 
     116 幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
    116 
     117 式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
    117 
     118 と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。
    118 
     119

    119 
     120 [第三段 鬚黒、北の方を慰める(2)]
    120 
     121 殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
    121 
     122 「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
    122 
     123 と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
    123 
     124 たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
    124 
     125 つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
    125 
     126 「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
    126 
     127 「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
    127 
     128 太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
    128 
     129 穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
    129 
     130 と、とりなし申し上げなさると、
    130 
     131 「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
    131 
     132 大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。なさりよう見ているばかりです」
    132 
     133 とおっしゃるので、
    133 
     134 「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。大殿の北の方がご存知になることでもございません。箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。あの人の親らしくなくおいでのようです。このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
    134 
     135 などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。
    135 
     136

    136 
     137 [第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする]
    137 
     138 日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
    138 
     139 北の方がその様子を見て、
    139 
     140 「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。夜も更けたようですわ」
    140 
     141 とお促しになる。「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
    141 
     142 「このような雪では、どうして出かけられようか」
    142 
     143 とおっしゃる一方で、
    143 
     144 「やはり、ここ当分の間だけは。わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
    144 
     145 などと、お慰めなさると、
    145 
     146 「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
    146 
     147 などと、穏やかにおっしゃっていられる。
    147 
     148

    148 
     149 [第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける]
    149 
     150 御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
    150 
     151 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
    151 
     152 やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
    152 
     153 侍所で、供人たちが声立てて、
    153 
     154 「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」
    154 
     155 などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
    155 
     156 中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
    156 
     157 あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
    157 
     158 正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
    158 
     159 「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
    159 
     160 と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
    160 
     161 大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
    161 
     162 「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。
    162 
     163

    163 
     164 [第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る]
    164 
     165 一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
    165 
     166 「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
    166 
     167 と、生真面目にお書きになっている。
    167 
     168 「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
    168 
     169  独り冷たい片袖を敷いて寝ました
    169 
     170 耐えられませんでした」
    170 
     171 と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。筆跡はたいそうみごとである。漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
    171 
     172 尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
    172 
     173 北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。
    173 
     174

    174 
     175 [第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う]
    175 
     176 日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
    176 
     177 昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。御下着にまでその匂いが染みていた。嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
    177 
     178 木工の君、お召物に香をたきしめながら、
    178 
     179 「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
    179 
     180  思い余って炎となったその跡と拝見しました
    180 
     181 すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
    181 
     182 と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。薄情なことであるよ。
    182 
     183 「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
    183 
     184  後悔の炎がますます立つのだ
    184 
     185 まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
    185 
     186 と、溜息ついてお出かけになった。
    186 
     187 一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。
    187 
     188

    188 
     189 

    第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る

    189 
     190 [第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る]
    190 
    c3-1191-193 修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく起こってわめいているのをお聞きになると、「あってはならない不名誉なことにもなり、外聞の悪いことが、きっと出てこよう」と、恐ろしくて寄りつきなさらない。<P>《改行》
     邸にお帰りになる時も、別の部屋に離れていらして、子どもたちだけを呼び出してお会い申しなさる。《改行》
    女の子が一人、十二、三歳ほどで、またその下に、男の子が二人いらっしゃるのであった。最近になって、ご夫婦仲も離れがちでいらっしゃるが、れっきとした方として、肩を並べる人もなくて暮らして来られたので、「いよいよ最後だ」とお考えになると、お仕えしている女房たちも「ひどく悲しい」と思う。<BR>
    191-192 修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく起こってわめいているのをお聞きになると、「あってはならない不名誉なことにもなり、外聞の悪いことが、きっと出てこよう」と、恐ろしくて寄りつきなさらない。<BR>《改行》
     邸にお帰りになる時も、別の部屋に離れていらして、子どもたちだけを呼び出してお会い申しなさる。女の子が一人、十二、三歳ほどで、またその下に、男の子が二人いらっしゃるのであった。最近になって、ご夫婦仲も離れがちでいらっしゃるが、れっきとした方として、肩を並べる人もなくて暮らして来られたので、「いよいよ最後だ」とお考えになると、お仕えしている女房たちも「ひどく悲しい」と思う。<BR>
     194 父宮が、お聞きになって、
    193 
     195 「今は、あのように別居して、はっきりした態度をとっておいでだというのに、それにしても、辛抱していらっしゃる、たいそう不面目な物笑いなことだ。自分が生きている間は、そう一途に、どうして相手の言いなりに従っていらっしゃることがあろうか」
    194 
     196 と申し上げなさって、急にお迎えがある。
    195 
     197 北の方は、ご気分が少し平常になって、夫婦仲を情けなく思い嘆いていらっしゃると、このようにお申し上げになっているので、
    196 
     198 「無理して立ち止まって、すっかり見捨てられるのを見届けて、諦めをつけるのも、さらに物笑いになるだろう」
    197 
     199 などと、ご決心なさる。
    198 
     200 ご兄弟の公達、兵衛督は、上達部でいらっしゃるので、仰々しいというので、中将、侍従、民部大輔など、お車三台程でいらっしゃった。「きっとそうなるだろう」と、以前から思っていたことであるが、目の前に、今日がその終わりと思うと、仕えている女房たちも、ぽろぽろと涙をこぼし泣き合っていた。
    199 
     201 「長年ご経験のないよそでのお住まいで、手狭で気の置ける所では、どうして大勢の女房が仕えられようか。何人かは、それぞれ実家に下がって、落ち着きになられてから」
    200 
     202 などと決めて、女房たちはそれぞれ、ちょっとした荷物など、実家に運び出したりして、散り散りになるのであろう。お道具類は、必要な物は皆荷作りなどしながら、上の者や下の者が泣き騒いでいるのは、たいそう不吉に見える。
    201 
     203

    202 
     204 [第二段 母君、子供たちを諭す]
    203 
     205 お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを、母君、皆を呼んで座らせなさって、
    204 
     206 「わたしは、このようにつらい運命を、今は見届けてしまったので、この世に生き続ける気もありません。どうなりとなって行くことでしょう。将来があるのに、何といっても、散り散りになって行かれる様子が、悲しいことです。
    205 
     207 姫君は、どうなるにせよ、わたしについていらっしゃい。かえって、男の子たちは、どうしてもお父様のもとに参上してお会いしなければならないでしょうが、構ってもくださらないでしょうし、どっちつかずの頼りない生活になるでしょう。
    206 
     208 父宮が生きていらっしゃるうちは、型通りに宮仕えはしても、あの大臣たちのお心のままの世の中ですから、あの気を許せない一族の者よと、やはり目をつけられて、立身することも難しい。それだからといって、山林に続いて入って出家することも、来世まで大変なこと」
    207 
     209 とお泣きになると、皆、深い事情は分からないが、べそをかいて泣いていらっしゃる。
    208 
     210 「昔物語などを見ても、世間並の愛情深い親でさえ、時勢に流され、人の言うままになって、冷たくなって行くものです。まして、形だけの親のようで、見ている前でさえすっかり変わってしまったお心では、頼りになるようなお扱いをなさるまい」
    209 
     211 と、乳母たちも集まって、おっしゃり嘆く。
    210 
     212

    211 
     213 [第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す]
    212 
     214 日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も、心細く見える夕方である。
    213 
     215 「ひどく荒れて来ましょう。お早く」
    214 
     216 と、お迎えの公達はお促し申し上げるが、お目を拭いながら物思いに沈んでいらっしゃる。姫君は、殿がたいそうかわいがって、懐いていらっしゃっるので、
    215 
     217 「お目にかからないではどうして行けようか。『これで』などと挨拶しないで、再び会えないことになるかもしれない」
    216 
     218 とお思いになると、突っ伏して、「とても出かけられない」とお思いでいるのを、
    217 
     219 「そのようなお考えでいらっしゃるとは、とても情けない」
    218 
     220 などと、おなだめ申し上げなさる。「今すぐにも、お父様がお帰りになってほしい」とお待ち申し上げなさるが、このように日が暮れようとする時、あちらをお動きなさろうか。
    219 
     221 いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を、他人に譲る気がなさるのも悲しくて、姫君、桧皮色の紙を重ねたのに、ほんのちょっと書いて、柱のひび割れた隙間に、笄の先でお差し込みなさる。
    220 
     222 「今はもうこの家を離れて行きますが、わたしが馴れ親しんだ
    221 
     223  真木の柱はわたしを忘れないでね」
    222 
     224 最後まで書き終わることもできずお泣きになる。母君、「いえ、なんの」と言って、
    223 
     225 「長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても
    224 
     226  どうしてここに止まっていられましょうか」
    225 
     227 お側に仕える女房たちも、それぞれに悲しく、「それほどまで思わなかった木や草のことまで、恋しいことでしょう」と、目を止めて、鼻水をすすり合っていた。
    226 
     228 木工の君は、殿の女房として留まるので、中将の御許は、
    227 
     229 「浅い関係のあなたが残って、邸を守るはずの北の方様が
    228 
     230  出て行かれることがあってよいものでしょうか
    229 
     231 思いもしなかったことです。こうしてお別れ申すとは」
    230 
     232 と言うと、木工の君は、
    231 
     233 「どのように言われても、わたしの心は悲しみに閉ざされて
    232 
     234  いつまでここに居られますことやら
    233 
     235 いや、そのような」
    234 
     236 と言って泣く。
    235 
     237 お車を引き出して振り返って見るのも、「再び見ることができようか」と、心細い気がする。梢にも目を止めて、見えなくなるまで振り返って御覧になるのであった。君が住んでいるからではなく、長年お住まいになった所が、どうして名残惜しくないことがあろうか。
    236 
     238

    237 
     239 [第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨]
    238 
     240 宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである。母の北の方、泣き騷ぎなさって、
    239 
     241 「太政大臣を、結構なご親戚とお思い申し上げていらっしゃるが、どれほどの昔からの仇敵でいらっしゃったのだろうと思われます。
    240 
     242 女御にも、何かにつけて、冷淡なお仕打ちをなさったが、それは、お二人の間の恨み事が解けなかったころ、思い知れということであったであろうと、思ったりおっしゃったりもし、世間の人もそう言っていたのでさえ、やはり、そあってよいことでしょうか。
    241 
     243 一人を大切になさるのであれば、その周辺までもお蔭を蒙るという例はあるものだと、納得行きませんでしたが、まして、このような晩年になって、わけの分からない継子の世話をして、自分が飽きたのを気の毒に思って、律儀者で浮気しそうのない人をと思って、婿に迎えて大切になさるのは、どうして辛くないことでしょうか」
    242 
     244 と、大声で言い続けなさるので、宮は、
    243 
     245 「ああ、聞き苦しい。世間から非難されることのおありでない大臣を、口から出任せに悪くおっしゃるものではありませんよ。賢明な方は、かねてから考えていて、このような報復をしようと、思うことがおありだったのだろう。そのように思われるわが身の不幸なのだろう。
    244 
     246 なにげないふうで、すべてあの苦しみなさった報復は、引き上げたり落としたり、たいそう賢く考えていらっしゃるようだ。わたし一人は、しかるべき親戚だと思って、先年も、あのような世間の評判になるほどに、わが家には過ぎたお祝賀があった。そのことを生涯の名誉と思って、満足すべきなのだろう」
    245 
     247 とおっしゃると、ますます腹が立って、不吉な言葉を言い散らしなさる。この大北の方は、性悪な人だったのである。
    246 
     248 大将の君は、このようにお移りになってしまったことを聞いて、
    247 
     249 「まことに妙な、年若い夫婦のように、やきもちを焼いたようなことをなさったものだなあ。ご本人には、そのようなせっかちできっぱりした性分もないのに、宮があのように軽率でいらっしゃる」
    248 
     250 と思って、御子息もあり、世間体も悪いので、いろいろと思案に困って、尚侍の君に、
    249 
     251 「こんな妙なことがございましたようです。かえって気楽に存じられますが、そのまま邸の片隅に引っ込んでいてもよい気楽な人と、安心しておりましたのに、急にあの宮がなさったのでしょう。世間が見たり聞いたりことも薄情なので、ちょっと顔を出して、すぐに戻ってまいりましょう」
    250 
     252 と言って、お出になる。
    251 
     253 立派な袍のお召物に、柳の下襲、青鈍色の綺の指貫をお召しになって、身なりを整えていらっしゃる、まことに堂々としている。「どうして不似合いなところがあろうか」と、女房たちは拝見するが、尚侍の君は、このようなことをお聞きになるにつけても、わが身が情けなく思わずにはいらっしゃれないので、見向きもなさらない。
    252 
     254

    253 
     255 [第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問]
    254 
     256 宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに、先に、自邸にいらっしゃると、木工の君などが出てきて、その時の様子をお話し申し上げる。姫君のご様子をお聞きになって、男らしく堪えていらっしゃるが、ぽろぽろと涙がこぼれるご様子、たいそうお気の毒である。
    255 
     257 「それにしても、世間の人と違い、おかしな振る舞いの数々を大目に見てきた長年の気持ちを、ご理解なさらなかったのかな。ひどくわがままな人は、今までも一緒にいただろうか。まあよい、あの本人は、どうなったところで、廃人にお見えになるから、同じことだ。子どもたちも、どうなさろうというのだろうか」
    256 
     258 と、嘆息しながら、あの真木の柱を御覧になると、筆跡も幼稚だが、気立てがしみじみといじらしくて、道すがら、涙を押し拭い押し拭い参上なさると、お会いになれるはずもない。
    257 
     259 「何の。ただ時勢におもねる心が、今初めてお変わりになったのではない。年来うつつを抜かしていらっしゃる様子を、長いこと聞いてはいたが、いつを再び改心する時かと待てようか。ますます、奇妙な姿を現すばかりで終わることにおなりになろう」
    258 
     260 とご意見申される、もっともなことである。
    259 
     261 「まったく、大人げない気がしますな。お見捨てになるはずもない子供たちもいますのでと、のんきに構えておりましたわたしの不行届を、繰り返しお詫び申しても、お詫びの申しようがありません。今はただ、穏便に大目に見て下さって、罪は免れがたく、世間の人にも分からせた上で、このようにもなさるのがよい」
    260 
     262 などと、説得申すのに苦慮していらっしゃる。「せめて姫君にだけでもお会いしたい」と申し上げなさっているが、お出し申すはずもない。
    261 
     263 男の子たち、十歳になるのは、童殿上なさっている。とてもかわいらしい。人からほめられて、器量など優れてはいないが、たいそう利発で、物の道理をだんだんお分りになっていらした。
    262 
     264 次の君は、八歳ほどで、とても可憐で、姫君にも似ているので、撫でながら、
    263 
     265 「おまえを恋しい姫君のお形見と思って見ることにしよう」
    264 
     266 などと、涙を流してお話しなさる。宮にも、ご内意を伺ったが、
    265 
     267 「風邪がひどくて、養生しております時なので」
    266 
     268 と言うので、不体裁な思いで退出なさった。
    267 
     269

    268 
     270 [第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る]
    269 
     271 幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる。六条殿には連れて行くことがおできになれないので、邸に残して、
    270 
     272 「やはり、ここにいなさい。会いに来るのにも安心して来られるであろうから」
    271 
     273 とおっしゃる。悲しみにくれて、たいそう心細そうに見送っていらっしゃる様子、たいそうかわいそうなので、心配の種が増えたような気がするが、女君のご様子が、見がいがあって立派なので、気違いじみたご様子と比べると、格段の相違で、すべてお慰めになる。
    272 
     274 さっぱり途絶えてお便りもせず、体裁の悪かったことを口実にしているふうなのを、宮におかれて、ひどく不愉快にお嘆きになる。
    273 
     275 春の上もお聞きになって、
    274 
     276 「わたしまで、恨まれる原因になるのがつらいこと」
    275 
     277 とお嘆きになるので、大臣の君は、気の毒だとお思いになって、
    276 
     278 「難しいことだ。自分の一存だけではどうすることもできない人の関係で、帝におかせられても、こだわりをお持ちになっていらっしゃるようだ。兵部卿宮なども、お恨みになっていらっしゃると聞いたが、そうは言っても、思慮深くいらっしゃる方なので、事情を知って、恨みもお解けになったようだ。自然と、男女の関係は、人目を忍んでいると思っても、隠すことのできないものだから、そんなに苦にするほどの責任もない、と思っております」
    277 
     279 とおっしゃる。
    278 
     280

    279 
     281 

    第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ

    280 
     282 [第一段 玉鬘、新年になって参内]
    281 
     283 このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は、ますます晴れる間もないでいるのを、大将は、お気の毒にとお気づかい申し上げて、
    282 
     284 「あの参内なさる予定であったことも、沙汰止みになって、お妨げ申したのを、帝におかせられても、快からず何か含むところがあるようにお聞きあそばし、方々もお考えになるところがあるだろう。宮仕えの女性を妻にしている男もいないではないが」
    283 
     285 と思い返して、年が改まってから、参内させ申し上げなさる。男踏歌があったので、ちょうどその折に、参内の儀式をたいそう立派に、この上なく整えて参内なさる。
    284 
     286 お二方の大臣たち、この大将のご威勢までが加わり、宰相中将、熱心に気を配ってお世話申し上げなさる。兄弟の公達も、このような機会にと集まって、ご機嫌を取りに近づいて、大事になさる様子、たいそう素晴らしい。
    285 
     287 承香殿の東面にお局を設けてある。西に宮の女御がいらしたので、馬道だけの間隔であるが、お心の中は、遠く離れていらっしゃったであろう。御方々は、どの方となく競争なさい合って、宮中では、奥ゆかしくはなやいだ時分である。格別家柄の劣った更衣たち、多くも伺候なさっていない。
    286 
     288 中宮、弘徽殿女御、この宮の王女御、左大臣の女御などが伺候していらっしゃる。その他には、中納言、宰相の御息女が二人ほどが伺候していらっしゃるのであった。
    287 
     289

    288 
     290 [第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る]
    289 
     291 踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って、ことに賑やかな見物なので、どなたもどなたも綺羅を尽くし、袖口の色の重なり、うるさいほど立派に整えていらっしゃる。春宮の女御も、たいそう華やかになさって、春宮は、まだお若くいらっしゃるが、すべての面でたいそう風流である。
    290 
     292 帝の御前、中宮の御方、朱雀院と参って、夜がたいそう更けてしまったので、六条院には、今回は仰々しいのでとお取り止めになる。朱雀院から帰参して、春宮の御方々を回るうちに、夜が明けた。
    291 
     293 ほのぼのと美しい夜明けに、たいそう酔い乱れた恰好をして、「竹河」を謡っているところを見ると、内大臣家の御子息が、四、五人ほど、殿上人の中で、声が優れ、器量も美しくて、うち揃っていらっしゃるのが、たいそう素晴らしい。
    292 
     294 殿上童の八郎君は、正妻腹の子で、たいそう大切になさっているのが、とてもかわいらしくて、大将殿の太郎君と立ち並んでいるのを、尚侍の君も、他人とはお思いにならないので、お目が止まった。高貴な身分で長く宮仕えしていらっしゃる方々よりも、この御局の袖口は、全体の感じが今風で、同じ衣装の色合い、襲なりであるが、他の所より格別華やかである。
    293 
     295 ご本人も女房たちも、このようにご気分を晴らして、暫くの間は宮中でお過ごせになれたら、と思い合っていた。
    294 
     296 どこでも同じように、肩にお被けになる綿の様子も、色艶も格別に洗練なさって、こちらは水駅であったが、様子が賑やかで、女房たちが心づかいし過ぎるほどで、一定の作法通りの御饗応など、用意がしてある様子は、特別に気を配って、大将殿がおさせになったのであった。
    295 
     297

    296 
     298 [第三段 玉鬘の宮中生活]
    297 
     299 宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げなさることは、
    298 
     300 「夜になったら、ご退出おさせ申そう。このような機会にと、急にお考えが変わる宮仕えは安心でない」
    299 
     301 とばかり、同じことをご催促申し上げなさるが、お返事はない。伺候している女房たちが、
    300 
     302 「大臣が、『急いで退出することなく、めったにない参内なので、ご満足あそばされるくらいに。お許しがあってから、退出なさるよう』と、申し上げていらしたので、今夜は、あまりにも急すぎませんか」
    301 
     303 と申し上げたのを、たいそうつらく思って、
    302 
     304 「あれほど申し上げたのに、何とも思い通りに行かない夫婦仲だなあ」
    303 
     305 とお嘆きになっていらっしゃった。
    304 
     306 兵部卿宮、御前の管弦の御遊に伺候していらっしゃっても、気が落ち着かず、このお局あたりを思わずにはいらっしゃれないので、堪えきれずにお便りを申し上げなさった。大将は、近衛府の御曹司にいらっしゃる時であった。「そこから」と言って取り次いだので、しぶしぶと御覧になる。
    305 
     307 「深山木と仲よくしていらっしゃる鳥が
    306 
     308  またなく疎ましく思われる春ですねえ
    307 
     309 鳥の囀る声が耳に止まりまして」
    308 
     310 とある。お気の毒に思って、顔が赤くなって、お返事のしようもなく思っていらっしゃるところに、主上がお越しあそばす。
    309 
     311

    310 
     312 [第四段 帝、玉鬘のもとを訪う]
    311 
     313 月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて、まるで、あの大臣のご様子に違うところなくいらっしゃる。「このような方が二人もいらっしゃったのだ」と、拝見なさる。あの方のお気持ちは浅くはないが、嫌な物思いをしたけれど、こちらは、どうしてそのように思わせなさろう。たいそうやさしそうに、期待していたことと違ってしまった恨み事を仰せられるので、顔のやり場もないほどにお思いなさるよ。顔を袖で隠して、お返事も申し上げなさらないので、
    312 
     314 「妙に黙っていらっしゃるのですね。昇進なども、ご存知であろうと思うことがあるのに、何もお聞き入れなさらない様子でばかりいらっしゃるのは、そのようなご性格なのですね」
    313 
     315 と仰せになって、
    314 
     316 「どうしてこう一緒になりがたいあなたを
    315 
     317  深く思い染めてしまったのでしょう
    316 
     318 これ以上深くはなれないのでしょうか」
    317 
     319 と仰せになる様子、たいそう若々しく美しくて気恥ずかしいので、「どこが違っていらっしゃろうか」と気を取り直して、お返事申し上げなさる。宮仕えの年功もなくて、今年、位を賜ったお礼の気持ちなのであろうか。
    318 
     320 「どのようなお気持ちからとも存じませんでした
    319 
     321  この紫の色は、深いお情けから下さったものなのですね
    320 
     322 ただ今からはそのように存じましょう」
    321 
     323 と申し上げなさると、ほほ笑みなさって、
    322 
     324 「その、今から思って下さろうとしても、何の役にも立たないことです。訴えを聞いてくれる人があったら、その判断を聞いてみたいものです」
    323 
     325 と、たいそうお恨みあそばす御様子が、真面目で厄介なので、「とても嫌だわ」と思われて、「愛想の良い態度をお見せ申すまい、男の方の困った癖だわ」と思うと、真面目になって伺候していらっしゃるので、お思い通りの冗談も仰せになれずに、「だんだんと親しみ馴れて行くことだろう」とお思いあそばすのであった。
    324 
     326

    325 
     327 [第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す]
    326 
     328 大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって、ますます心が落ち着かないので、急いでせき立てなさる。ご自身も、「身分不相応なことも出て来かねない身の上だなあ」と情けなく思うので、落ち着いていらっしゃれず、退出させなさる段取り、もっともらしい口実を作り出して、父大臣など、うまく取り繕いなさって、御退出を許されなさったのであった。
    327 
     329 「それでは。これに懲りて、二度と出仕をさせない人があっては困る。たいそうつらい。誰より先に望んだ気持ちが、人に先を越されて、その人の御機嫌を伺うことよ。昔の誰それの例も、持ち出したい気がします」
    328 
     330 と仰せになって、ほんとうに残念だとお思いあそばしていらっしゃった。
    329 
     331 お聞きあそばしていた時よりも、格段に実際に素晴らしいのを、初めからそのような気持ちがないにせよ、お見逃しになれないだろうに、なおさらたいそう悔しく、残念にお思いなさる。
    330 
     332 けれども、まったく出来心からと、疎んじられまいとして、たいそう愛情深い程度にお約束なさって、親しみなさるのも、恐れ多く、「わたしは、わたしだわ、と思っているのに」とお思いになる。
    331 
     333 御輦車を寄せて、こちら方、あちら方の、お世話役の人々が待ち遠しがって、大将も、たいそううるさいほどお側を離れず、世話をお焼きになる時まで、お離れあそばされない。
    332 
     334 「こんなに厳重な付ききりの警護は不愉快だ」
    333 
     335 とお憎みあそばす。
    334 
     336 「幾重にも霞が隔てたならば、梅の花の香は
    335 
     337  宮中まで匂って来ないのだろうか」
    336 
     338 格別どうという歌ではないが、ご様子、物腰を拝見している時は、結構に思われたのであろうか。
    337 
     339 「野原が懐かしいので、このまま夜明かしをしたいが、そうさせたくないでいる人が、自分の身につまされて気の毒に思う。どのようにお便りしたらよいものか」
    338 
     340 とお悩みあそばすのも、「まことに恐れ多いこと」と、拝する。
    339 
     341 「香りだけは風におことづけください
    340 
     342  美しい花の枝に並ぶべくもないわたしですが」
    341 
     343 やはり冷たく扱われない様子を、しみじみとお思いになりながら、振り返りがちにお帰りあそばした。
    342 
     344

    343 
     345 [第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出]
    344 
     346 そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが、前もってはお許しが出ないだろうから、打ち明け申されずに、
    345 
     347 「急にたいそう風邪で気分が悪くなったものですから、気楽な所で休ませます間、よそに離れていてはたいそう不安でございますから」
    346 
     348 と、穏やかに申し上げなさって、そのままお移し申し上げなさる。
    347 
     349 父内大臣は、急なことで、「格式が欠けるようではないか」とお思いになるが、「強引に、そのくらいのことで反対するのも、気を悪くするだろう」とお思いになると、
    348 
     350 「どのようにでも。もともとわたしの自由にならないお方のことだから」
    349 
     351 と、申し上げなさるのであった。
    350 
     352 六条殿は、「あまりに急で不本意だ」とお思いになるが、どうしようもない。女も、思ってもみなかった身の上を、情けないとお思いになるが、盗んで来たらと、たいそう嬉しく安心した。
    351 
     353 あの、お入りあそばしたことを、たいそう嫉妬申し上げなさるのも、不愉快で、やはりつまらない人のような気がして、夫婦仲は疎々しい態度で、ますます機嫌が悪い。
    352 
     354 あの宮家でも、あのようにきつくおっしゃったが、たいそう後悔なさっているが、まったく音沙汰もない。ただ念願が叶ったお世話で、毎日いそしんでお過ごしになる。
    353 
     355

    354 
     356 [第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る]
    355 
     357 二月になった。大殿は、
    356 
     358 「それにしても、無愛想な仕打ちだ。まったくこのようにきっぱりと自分のものにしようとは思いもかけないで、油断させられたのが悔しい」
    357 
     359 と、体裁悪く、何から何までお気にならない時とてなく、恋しく思い出さずにはいらっしゃれない。
    358 
     360 「運命などと言うのも、軽く見てはならないものだが、自分のどうすることもできない気持ちから、このように誰のせいでもなく物思いをするのだ」
    359 
     361 と、寝ても起きても幻のようにまぶたにお見えになる。
    360 
     362 大将のような、趣味も、愛想もない人に連れ添っていては、ちょっとした冗談も遠慮されつまらなく思われなさって、我慢していらっしゃるとき、雨がひどく降って、とてものんびりとしたころ、このような所在なさも気の紛らし所にお行きになって、お話しになったことなどが、たいそう恋しいので、お手紙を差し上げなさる。
    361 
     363 右近のもとにこっそりと差し出すのも、一方では、それをどのように思うかとお思いになると、詳しくは書き綴ることがおできになれず、ただ相手の推察に任せた書きぶりなのであった。
    362 
     364 「降りこめられてのどやかな春雨のころ
    363 
     365  昔馴染みのわたしをどう思っていらっしゃいますか
    364 
     366 所在なさにつけても、恨めしく思い出されることが多くございますが、どのようにして分かるように申し上げたらよいのでしょうか」
    365 
     367 などとある。
    366 
     368 人のいない間にこっそりとお見せ申し上げると、ほろっと泣いて、自分の心でも、月日のたつにつれて、思い出さずにはいらっしゃれないご様子を、正面きって、「恋しい、何とかしてお目にかかりたい」などとは、おっしゃることのできない親なので、「おっしゃるとおり、どうしてお会いすることができようか」と、もの悲しい。
    367 
     369 時々、厄介であったご様子を、気にくわなくお思い申し上げたことなどは、この人にもお知らせになっていないことなので、自分ひとりでお思い続けていらっしゃるが、右近は、うすうす感じ取っていたのであった。実際、どんな仲であったのだろうと、今でも納得が行かず思っていたのであった。
    368 
     370 お返事は、「差し上げるのも気が引けるが、ご不審に思われようか」と思って、お書きになる。
    369 
     371 「物思いに耽りながら軒の雫に袖を濡らして
    370 
     372  どうしてあなた様のことを思わずにいられましょうか
    371 
     373 時がたつと、おっしゃるとおり、格別な所在なさも募りますこと。あなかしこ」
    372 
     374 と、恭しくお書きになっていた。
    373 
     375

    374 
     376 [第八段 源氏、玉鬘の返書を読む]
    375 
     377 手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが、「人が見たら、体裁悪いことだろう」と、平静を装っていらっしゃるが、胸が一杯になる思いがして、あの昔の、尚侍の君を朱雀院の母后が無理に逢わせまいとなさった時のことなどをお思い出しになるが、目前のことだからであろうか、こちらは普通と変わって、しみじみと心うつのであった。
    376 
     378 「色好みの人は、本心から求めて物思いの絶えない人なのだ。今は何のために心を悩まそうか。似つかわしくない恋の相手であるよ」
    377 
     379 と、冷静になるのに困って、お琴を掻き鳴らして、やさしくしいてお弾きになった爪音が、思い出さずにはいらっしゃれない。和琴の調べを、すが掻きにして、
    378 
     380 「玉藻はお刈りにならないで」
    379 
     381 と、謡い興じていらっしゃるのも、恋しい人に見せたならば、感動せずにはいられないご様子である。
    380 
     382 帝におかせられても、わずかに御覧あそばしたご器量ご様子を、お忘れにならず、
    381 
     383 「赤裳を垂れ引いて去っていってしまった姿を」
    382 
     384 と、耳馴れない古歌であるが、お口癖になさって、物思いに耽っておいであそばすのであった。お手紙は、そっと時々あるのであった。わが身を不運な境遇と思い込みなさって、このような軽い気持ちのお手紙のやりとりも、似合わなくお思いになるので、うち解けたお返事も申し上げなさらない。
    383 
     385 やはり、あの、またとないほどであったお心配りを、何かにつけて深くありがたく思い込んでいらっしゃるお気持ちが、忘れられないのであった。
    384 
     386

    385 
     387 [第九段 三月、源氏、玉鬘を思う]
    386 
     388 三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が美しい夕映えを御覧になるにつけても、まっさきに見る目にも美しい姿でお座りになっていらしたご様子ばかりが思い出さずにはいらっしゃれないので、春の御前を放って、こちらの殿に渡って御覧になる。
    387 
     389 呉竹の籬に、自然と咲きかかっている色艶が、たいそう美しい。
    388 
     390 「色に衣を」
    389 
     391 などとおっしゃって、
    390 
     392 「思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが
    391 
     393  心の中では恋い慕っている山吹の花よ
    392 
     394 面影に見え見えして」
    393 
     395 などとおっしゃっても、聞く人もいない。このように、さすがに諦めていることは、今になってお分かりになるのであった。なるほど、妙なおたわむれの心であるよ。
    394 
     396 鴨の卵がたいそうたくさんあるのを御覧になって、柑子や、橘などのように見せて、何気ないふうに差し上げなさる。お手紙は、「あまり人目に立っては」などとお思いになって、そっけなく、
    395 
     397 「お目にかからない月日がたちましたが、思いがけないおあしらいだとお恨み申し上げるのも、あなたお一人のお考えからではなく聞いておりますので、特別の場合でなくては、お目にかかることの難しいことを、残念に存じております」
    396 
     398 などと、親めいてお書きになって、
    397 
     399 「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
    398 
     400  どんな人が手に握っているのでしょう
    399 
     401 どうして、こんなにまでもなどと、おもしろくなくて」
    400 
     402 などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
    401 
     403 「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
    402 
     404 と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。
    403 
     405 「お返事は、わたしは差し上げられません」
    404 
     406 と、書きにくくお思いになっているので、
    405 
     407 「わたしがお書き申そう」
    406 
     408 と代わるのも、はらはらする思いである。
    407 
     409 「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
    408 
     410 どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
    409 
     411 不機嫌なご様子にびっくりしまして。懸想文めいていましょうか」
    410 
     412 とお返事申し上げた。
    411 
     413 「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。珍しくて」
    412 
     414 と言って、お笑いになる。心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。
    413 
     415

    414 
     416 

    第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君

    415 
     417 [第一段 北の方、病状進む]
    416 
     418 あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって、あまりな仕打ちだと、物思いに沈んで、ますます気が変になっていらっしゃる。大将殿の一通りのお世話、どんなことでも細かくご配慮なさって、男の子たちは、変わらずかわいがっていらっしゃるので、すっかり縁を切っておしまいにならず、生活上の頼りだけは、同様にしていらっしゃるのであった。
    417 
     419 姫君を、たまらなく恋しくお思い申し上げなさるが、全然お会わせ申し上げなさらない。子供心にも、この父君を、誰もが、みな許すことなくお恨み申し上げて、ますます遠ざけることばかりが増えて行くので、心細く悲しいが、男の子たちは、いつも一緒に行き来しているので、尚侍の君のご様子などを、自然と何かにつけて話し出して、
    418 
     420 「わたしたちをも、かわいがってやさしくして下さいます。毎日おもしろいことばかりして暮らしていらっしゃいます」
    419 
     421 などと言うと、羨ましくなって、このようにして自由に振る舞える男の身に生まれてこなかったことをお嘆きになる。妙に、男にも女にも物思いをさせる尚侍の君でいらっしゃるのであった。
    420 
     422

    421 
     423 [第二段 十一月に玉鬘、男子を出産]
    422 
     424 その年の十一月に、たいそうかわいい赤子までお生みになったので、大将も、願っていたようにめでたいと、大切にお世話なさること、この上ない。その時の様子、言わなくても想像できることであろう。父大臣も、自然に願っていた通りのご運命だとお思いになっていた。
    423 
     425 特別に大切にお世話なさっているお子様たちにも、ご器量などは劣っていらっしゃらない。頭中将も、この尚侍の君を、たいそう仲の好い姉弟として、お付き合い申し上げていらっしゃるものの、やはりすっきりしない御そぶりを時々は見せながら、
    424 
     426 「入内なさって、その甲斐あってのご出産であったらよかったのに」
    425 
     427 と、この若君のかわいらしさにつけても、
    426 
     428 「今まで皇子たちがいらっしゃらないお嘆きを拝見しているので、どんなに名誉なことであろう」
    427 
     429 と、あまりに身勝手なことを思っておっしゃる。
    428 
     430 公務は、しかるべく取り仕切っているが、参内なさることは、このままこうして終わってしまいそうである。それもやむをえないことである。
    429 
     431

    430 
     432 [第三段 近江の君、活発に振る舞う]
    431 
     433 そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も、ああした類の人の癖として、色気まで加わって、そわそわし出して、持て余していらっしゃる。女御も、「今に、軽率なことが、この君はきっとしでかすだろう」と、何かにつけ、はらはらしていらっしゃるが、大臣が、
    432 
     434 「今後は、人前に出てはいけません」
    433 
     435 と、戒めておっしゃるのさえ聞き入れず、人中に出て仕えていらっしゃる。
    434 
     436 どのような時であったろうか、殿上人が大勢、立派な方々ばかりが、この女御の御方に参上して、いろいろな楽器を奏して、くつろいだ感じの拍子を打って遊んでいる。秋の夕方の、どことなく風情のあるところに、宰相中将もお寄りになって、いつもと違ってふざけて冗談をおっしゃるのを、女房たちは珍しく思って、
    435 
     437 「やはり、どの人よりも格別だわ」
    436 
     438 と誉めると、この近江の君、女房たちの中を押し分けて出ていらっしゃる。
    437 
     439 「あら、嫌だわ。これはどうなさるおつもり」
    438 
     440 と引き止めるが、たいそう意地悪そうに睨んで、目を吊り上げているので、厄介になって、
    439 
     441 「軽率なことを、おっしゃらないかしら」
    440 
     442 と、お互いにつつき合っていると、この世にも珍しい真面目な方を、
    441 
     443 「この人よ、この人よ」
    442 
     444 と誉めて、小声で騷ぎ立てる声、まことにはっきり聞こえる。女房たち、とても困ったと思うが、声はとてもはっきりした調子で、
    443 
     445 「沖の舟さん。寄る所がなくて波に漂っているなら
    444 
     446  わたしが棹さして近づいて行きますから、行く場所を教えてください
    445 
     447 棚なし小舟みたいに、いつまでも一人の方ばかり思い続けていらっしゃるのね。あら、ごめんなさい」
    446 
     448 と言うので、たいそう不審に思って、
    447 
     449 「こちらの御方には、このようなぶしつけなこと、聞かないのに」と思いめぐらすと、「あの噂の姫君であったのか」
    448 
     450 と、おもしろく思って、
    449 
     451 「寄る所がなく風がもてあそんでいる舟人でも
    450 
     452  思ってもいない所には磯伝いしません」
    451 
     453 とおっしゃったので、引っ込みがつかなかったであろう、とか。
    452 
     454

    453 
     455源氏物語の世界ヘ
    454 
     456本文
    455 
     457ローマ字版
    456 
     458注釈
    457 
     459大島本
    458 
     460自筆本奥入
    459 
     461460 
     462
    461 
     463462 
     464463