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 3少女(大島本)3 
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 7渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)7 
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少女

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 11光る源氏の太政大臣時代三十三歳の夏4月から35歳冬10月までの物語
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 13第一章 朝顔姫君の物語 藤壷代償の恋の諦め
13 
 14
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 15
  • 故藤壷の一周忌明ける---年が変わって、宮の御一周忌も過ぎたので
  • 15 
     16
  • 源氏、朝顔姫君を諦める---女五の宮の御方にも、このように機会を逃さず
  • 16 
     1717 
     18第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語
    18 
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    19 
     20
  • 子息夕霧の元服と教育論---大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが
  • 20 
     21
  • 大学寮入学の準備---字をつける儀式は、東の院でなさる
  • 21 
     22
  • 響宴と詩作の会---式が終わって退出する博士、文人たちをお召しになって
  • 22 
     23
  • 夕霧の勉学生活---引き続いて、入学の礼ということをおさせになって
  • 23 
     24
  • 大学寮試験の予備試験---今では寮試を受けさせようとなさって、まずご自分の前で
  • 24 
     25
  • 試験の当日---大学寮に参上なさる日は、寮の門前に
  • 25 
     2626 
     27第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語
    27 
     28
    28 
     29
  • 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任---そろそろ、立后の儀があってよいころであるが
  • 29 
     30
  • 夕霧と雲居雁の幼恋---冠者の君は、同じ所でご成長なさったが
  • 30 
     31
  • 内大臣、大宮邸に参上---あちらとこちらの新任の大饗の宴が終わって、朝廷の御用もなく
  • 31 
     32
  • 弘徽殿女御の失意---「女性はただ心がけによって、世間から重んじられる
  • 32 
     33
  • 夕霧、内大臣と対面---内大臣は、和琴を引き寄せなさって、律調の
  • 33 
     34
  • 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く---内大臣はお帰りになったふうにして、こっそりと女房を
  • 34 
     3535 
     36第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語
    36 
     37
    37 
     38
  • 内大臣、母大宮の養育を恨む---二日ほどして、参上なさった
  • 38 
     39
  • 内大臣、乳母らを非難する---姫君は、何もご存知でなくていらっしゃるのを
  • 39 
     40
  • 大宮、内大臣を恨む---大宮は、とてもかわいいとお思いになる二人の中でも
  • 40 
     41
  • 大宮、夕霧に忠告---このように騷がれているとも知らないで、冠者の君が
  • 41 
     4242 
     43第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
    43 
     44
    44 
     45
  • 夕霧と雲居雁の恋の煩悶---「今後いっそうお手紙などを交わすことは難しいだろう」と
  • 45 
     46
  • 内大臣、弘徽殿女御を退出させる---内大臣は、あれ以来参上なさらず、大宮を
  • 46 
     47
  • 夕霧、大宮邸に参上---ちょうど折しも冠者の君が参上なさった
  • 47 
     48
  • 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬---大宮のお手紙で
  • 48 
     49
  • 乳母、夕霧の六位を蔑む---御殿油をお点けし、内大臣が宮中から退出なさって来た様子で
  • 49 
     5050 
     51第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋
    51 
     52
    52 
     53
  • 惟光の娘、五節舞姫となる---大殿の所では、今年、五節の舞姫を差し上げなさる
  • 53 
     54
  • 夕霧、五節舞姫を恋慕---大学の君は、ただ胸が一杯で、食事なども
  • 54 
     55
  • 宮中における五節の儀---浅葱の服が嫌なので、宮中に参内することもせず
  • 55 
     56
  • 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す---そのまま皆宮中に残させなさって、宮仕えするようにとの
  • 56 
     57
  • 花散里、夕霧の母代となる---あの若君は、手紙をやることさえおできになれず
  • 57 
     58
  • 歳末、夕霧の衣装を準備---年の暮には、正月のご装束などを
  • 58 
     5959 
     60第七章 光る源氏の物語 六条院造営
    60 
     61
    61 
     62
  • 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸---元旦にも、大殿は御参賀なさらないので
  • 62 
     63
  • 弘徽殿大后を見舞う---夜は更けてしまったが、このような機会に、太后宮のいらっしゃる方を
  • 63 
     64
  • 源氏、六条院造営を企図す---大殿は、静かなお住まいを、同じことなら広く
  • 64 
     65
  • 秋八月に六条院完成---八月に、六条院が完成してお引っ越しなさる
  • 65 
     66
  • 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる---彼岸のころにお引っ越しになる
  • 66 
     67
  • 九月、中宮と紫の上和歌を贈答---九月になると、紅葉があちこちに色づいて
  • 67 
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     69

    69 
     70 

    第一章 朝顔姫君の物語 藤壷代償の恋の諦め

    70 
     71 [第一段 故藤壷の一周忌明ける]
    71 
     72 年が変わって、宮の御一周忌も過ぎたので、世の人々の喪服が平常に戻って、衣更のころなどもはなやかであるが、それ以上に賀茂祭のころは、おおよその空模様も気分がよいのに、前斎院は所在なげに物思いに耽っていらっしゃるが、庭先の桂の木の下を吹く風、慕わしく感じられるにつけても、若い女房たちは思い出されることが多いところに、大殿から、
    72 
     73 「御禊の日は、どのようにのんびりとお過ごしになりましたか」
    73 
     74 と、お見舞い申し上げなさった。
    74 
     75 「今日は、
    75 
     76  思いもかけませんでした
    76 
     77  再びあなたが禊をなさろうとは」
    77 
     78 紫色の紙、立て文にきちんとして、藤の花におつけになっていた。季節柄、感動をおぼえて、お返事がある。
    78 
     79 「喪服を着たのはつい昨日のことと思っておりましたのに
    79 
     80  もう今日はそれを脱ぐ禊をするとは、何と移り変わりの早い世の中ですこと
    80 
     81 はかなくて」
    81 
     82 とだけあるのを、例によって、お目を凝らして御覧になっていらっしゃる。
    82 
     83 喪服をお脱ぎになるころにも、宣旨のもとに、置き所もないほど、お心づかいの品々が届けられたのを、院は見苦しいこととお思いになりお口になさるが、
    83 
     84 「意味ありげな、色めかしいお手紙ならば、何とか申し上げてご辞退するのですが、長年、表向きの折々のお見舞いなどはお馴れ申し上げになっていて、とても真面目な内容なので、どのように言い紛らわしてお断り申したらよいだろうか」
    84 
     85 と、困っているようである。
    85 
     86

    86 
     87 [第二段 源氏、朝顔姫君を諦める]
    87 
     88 女五の宮の御方にも、このように機会を逃さずお見舞い申し上げるので、とても感心して、
    88 
     89 「この君が、昨日今日までは子供と思っていましたのに、このように成人されて、お見舞いくださるとは。容貌のとても美しいのに加えて、気立てまでが人並み以上にすぐれていらっしゃいます」
    89 
     90 とお褒め申し上げるのを、若い女房たちは苦笑申し上げる。
    90 
     91 こちらの方にもお目にかかりなさる時には、
    91 
     92 「この大臣が、このように心をこめてお手紙を差し上げなさるようですが、どうしてか、今に始まった軽いお気持ちではありません。亡くなられた宮も、その関係が違ってしまわれて、お世話申し上げることができなくなったとお嘆きになっては、考えていたことを無理にお断りになったことだなどと、おっしゃっては、後悔していらっしゃったことがよくありました。
    92 
     93 けれども、故大殿の姫君がいらっしゃった間は、三の宮がお気になさるのが気の毒さに、あれこれと言葉を添えることもなかったのです。今では、そのれっきとした奥方でいらした方まで、お亡くなりになってしまったので、ほんとに、どうしてご意向どおりになられたとしても悪くはあるまいと思われますにつけても、昔に戻ってこのように熱心におっしゃていただけるのも、そうなるはずであったのだろうと存じます」
    93 
     94 などと、いかにも古風に申し上げなさるのを、気にそまぬとお思いになって、
    94 
     95 「亡き父宮からも、そのように強情な者と思われてまいりましたが、今さらに、改めて結婚しようというのも、ひどくおかしなことでございます」
    95 
     96 と申し上げなさって、気恥ずかしくなるようなきっぱりとしたご様子なので、無理にもお勧め申し上げることもできない。
    96 
     97 宮家に仕える人たちも、上下の女房たち、皆が心をお寄せ申していたので、縁談事を不安にばかりお思いになるが、かの当のご自身は、心のありったけを傾けて、愛情をお見せ申して、相手のお気持ちが揺らぐのをじっと待っていらっしゃるが、そのように無理してまで、お心を傷つけようなどとは、お考えにならないのであろう。
    97 
     98

    98 
     99 

    第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

    99 
     100 [第一段 子息夕霧の元服と教育論]
    100 
     101 大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが、二条院でとお考えになるが、大宮がとても見たがっていっらしゃったのもごもっともに気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。
    101 
     102 右大将をはじめとして、御伯父の殿方は、みな上達部で高貴なご信望厚い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。だいたい世間でも大騒ぎをして、大変な準備のしようである。
    102 
     103 四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
    103 
     104 「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」
    104 
     105 とお止めになった。
    105 
     106 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。
    106 
     107 ご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
    107 
     108 「今のうちは、このように無理をしてまで、まだ若年なので大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますゆえ、もう二、三年間を無駄に過ごしたと思って、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに、一人前になりましょう。
    108 
     109 自分は、宮中に成長致しまして、世の中の様子を存じませんで、昼夜、御帝の前に伺候致して、ほんのちょっと学問を習いました。ただ、畏れ多くも直接に教えていただきましたのさえ、どのようなことも広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。
    109 
     110 つまらない親に、賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。
    110 
     111 高貴な家の子弟として、官位爵位が心にかない、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思うようです。遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し、機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物らしく立派なようですが、時勢が移り、頼む人に先立たれて、運勢が衰えた末には、人に軽んじらればかにされて、取り柄とするところがないものでございます。
    111 
     112 やはり、学問を基礎にしてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、安心できようと存じてです。ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」
    112 
     113 などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
    113 
     114 「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことを。ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、不審がっておりましたようですが、この子供心にも、とても残念がって、大将や、左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がり上がりし、一人前になったのに、浅葱をとてもつらいと思っていられるので、気の毒なのでございます」
    114 
     115 と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
    115 
     116 「たいそう一人前になって不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことよ。あの年頃ではね」
    116 
     117 と言って、とてもかわいいとお思いであった。
    117 
     118 「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
    118 
     119 とお申し上げになる。
    119 
     120

    120 
     121 [第二段 大学寮入学の準備]
    121 
     122 字をつける儀式は、東の院でなさる。東の対を準備なさった。上達部、殿上人、めったにないことで見たいものだと思って、我も我もと参集なさった。博士たちもかえって気後れしてしまいそうである。
    122 
     123 「遠慮することなく、慣例のとおりに従って、手加減せずに、厳格に行いなさい」
    123 
     124 とお命じになると、無理に平静をよそおって、他人の家から調達した衣装類が、身につかず、不恰好な姿などにもかまいなく、表情、声づかいが、もっともらしくしては、席について並んでいる作法をはじめとして、見たこともない様子である。
    124 
     125 若い君達は、我慢しきれず笑ってしまった。一方では、笑ったりなどしないような、年もいった落ち着いた人だけをと、選び出して、お酌などもおさせになるが、いつもと違った席なので、右大将や、民部卿などが、一所懸命に杯をお持ちになっているのを、あきれるばかり文句を言い言い叱りつける。
    125 
     126 「おおよそ、宴席の相伴役は、はなはだ不作法でござる。これほど著名な誰それを知らなくて、朝廷にはお仕えしている。はなはだばかである」
    126 
     127 などと言うと、人々がみな堪えきれず笑ってしまったので、再び、
    127 
     128 「うるさい。お静かに。はなはだ不作法である。退席していただきましょう」
    128 
     129 などと、脅して言うのも、まことにおかしい。
    129 
     130 見慣れていらっしゃらない方々は、珍しく興味深いことと思い、この大学寮ご出身の上達部などは、得意顔に微笑みながら、このような道をご愛好されて、大学に入学させなさったのが結構なことだと、ますますこのうえなく敬服申し上げていらっしゃった。
    130 
     131 少し私語を言っても制止する。無礼な態度であると言っても叱る。騒がしく叱っている博士たちの顔が、夜に入ってからは、かえって一段と明るくなった燈火の中で、滑稽じみて貧相で、不体裁な様子などが、何から何まで、なるほど実に普通でなく、変わった様子であった。
    131 
     132 大臣は、
    132 
     133 「とてもだらしなく、頑固な者なので、やかましく叱られてまごつくだろう」
    133 
     134 とおっしゃって、御簾の内に隠れて御覧になっていたのであった。
    134 
     135 用意された席が足りなくて、帰ろうとする大学寮の学生たちがいるのをお聞きになって、釣殿の方にお呼び止めになって、特別に賜物をなさった。
    135 
     136

    136 
     137 [第三段 響宴と詩作の会]
    137 
     138 式が終わって退出する博士、文人たちをお召しになって、また再び詩文をお作らせになる。上達部や、殿上人も、その方面に堪能な人ばかりは、みなお残らせになる。博士たちは、律詩、普通の人は、大臣をはじめとして、絶句をお作りになる。興趣ある題の文字を選んで、文章博士が奉る。夏の短いころの夜なので、すっかり明けて披講される。左中弁が、講師をお勤めした。容貌もたいそうきれいで、声の調子も堂々として、荘厳な感じに読み上げたところは、たいそう趣がある。世の信望が格別高い学者なのであった。
    138 
     139 このような高貴な家柄にお生まれになって、この世の栄華をひたすら楽しまれてよいお身の上でありながら、窓の螢を友とし、枝の雪にお親しみになる学問への熱心さを、思いつく限りの故事をたとえに引いて、それぞれが作り集めた句がそれぞれに素晴らしく、「唐土にも持って行って伝えたいほどの世の名詩である」と、当時世間では褒めたたえるのであった。
    139 
     140 大臣のお作は言うまでもない。親らしい情愛のこもった点までも素晴らしかったので、涙を流して朗誦しもてはやしたが、女の身では知らないことを口にするのは生意気だと言われそうなので、嫌なので書き止めなかった。
    140 
     141

    141 
     142 [第四段 夕霧の勉学生活]
    142 
     143 引き続いて、入学の礼ということをおさせになって、そのまま、この院の中にお部屋を設けて、本当に造詣の深い先生にお預け申されて、学問をおさせ申し上げなさった。
    143 
     144 大宮のところにも、めったにお出かけにならない。昼夜かわいがりなさって、いつまでも子供のようにばかりお扱い申していらっしゃるので、あちらでは、勉強もおできになれまいと考えて、静かな場所にお閉じこめ申し上げなさったのであった。
    144 
     145 「一月に三日ぐらいは参りなさい」
    145 
     146 と、お許し申し上げなさのであった。
    146 
     147 じっとお籠もりになって、気持ちの晴れないまま、殿を、
    147 
     148 「ひどい方でいらっしゃるなあ。こんなに苦しまなくても、高い地位に上り、世間に重んじられる人もいるではないか」
    148 
     149 とお恨み申し上げなさるが、いったい性格が、真面目で、浮ついたところがなくていらっしゃるので、よく我慢して、
    149 
     150 「何とかして必要な漢籍類を早く読み終えて、官途にもついて、出世しよう」
    150 
     151 と思って、わずか四、五か月のうちに、『史記』などという書物、読み了えておしまいになった。
    151 
     152

    152 
     153 [第五段 大学寮試験の予備試験]
    153 
     154 今では寮試を受けさせようとなさって、まずご自分の前で試験をさせなさる。
    154 
     155 いつものとおり、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかり招いて、先生の大内記を呼んで、『史記』の難しい巻々を、寮試を受けるのに、博士が反問しそうなところどころを取り出して、ひととおりお読ませ申し上げなさると、不明な箇所もなく、諸説にわたって読み解かれるさまは、爪印もつかず、あきれるほどよくできるので、
    155 
     156 「お生まれが違っていらっしゃるのだ」
    156 
     157 と、皆が皆、涙を流しなさる。大将は、誰にもまして、
    157 
     158 「亡くなった大臣が生きていらっしゃったら」
    158 
     159 と、口に出されて、お泣きになる。殿も、我慢がおできになれず、
    159 
     160 「他人のことで、愚かで見苦しいと見聞きしておりましたが、子が大きくなっていく一方で、親が代わって愚かになっていくことは、たいした年齢ではありませんが、世の中とはこうしたものなのだなあ」
    160 
     161 などとおっしゃって、涙をお拭いになるのを見る先生の気持ち、嬉しく面目をほどこしたと思った。
    161 
     162 大将が、杯をおさしになると、たいそう酔っぱらっている顔つきは、とても痩せ細っている。
    162 
     163 大変な変わり者で、学問のわりには登用されず、顧みられなくて貧乏でいたのであったが、お目に止まるところがあって、このように特別に召し出したのであった。
    163 
     164 身に余るほどのご愛顧を頂戴して、この若君のおかげで、急に生まれ変わったようになったと思うと、今にまして将来は、並ぶ者もない声望を得るであろうよ。
    164 
     165

    165 
     166 [第六段 試験の当日]
    166 
     167 大学寮に参上なさる日は、寮の門前に、上達部のお車が数知れないくらい集まっていた。おおよそ世間にこれを見ないで残っている人はあるまいと思われたが、この上なく大切に扱われて、労られながら入ってこられる冠者の君のご様子、なるほど、このような生活には耐えられないくらい上品でかわいらしい感じである。
    167 
     168 例によって、賤しい者たちが集まって来ている席の末に座るのをつらいとお思いになるのは、もっともなことである。
    168 
     169 ここでも同様に、大声で叱る者がいて、目障りであるが、少しも気後れせずに最後までお読みになった。
    169 
     170 昔が思い出される大学の盛んな時代なので、上中下の人は、我も我もと、この道を志望し集まってくるので、ますます、世の中に、学問があり有能な人が多くなったのであった。擬文章生などとかいう試験をはじめとして、すらすらと合格なさったので、ひたすら学問に心を入れて、先生も弟子も、いっそうお励みになる。
    170 
     171 殿でも、作文の会を頻繁に催し、博士、文人たちも得意である。すべてどのようなことにつけても、それぞれの道に努める人の才能が発揮される時代なのだった。
    171 
     172

    172 
     173 

    第三章 光る源氏周辺の人々の物語 内大臣家の物語

    173 
     174 [第一段 斎宮女御の立后と光る源氏の太政大臣就任]
    174 
     175 そろそろ、立后の儀があってよいころであるが、
    175 
     176 「斎宮の女御こそは、母宮も、自分の変わりのお世話役とおっしゃっていましたから」
    176 
     177 と、大臣もご遺志にかこつけて主張なさる。皇族出身から引き続き后にお立ちになることを、世間の人は賛成申し上げない。
    177 
     178 「弘徽殿の女御が、まず誰より先に入内なさったのもどうだらろうか」
    178 
     179 などと、内々に、こちら側あちら側につく人々は、心配申し上げている。
    179 
     180 兵部卿宮と申し上げた方は、今では式部卿になって、この御世となってからはいっそうご信任厚い方でいらっしゃる、その姫も、かねての望みがかなって入内なさっていた。同様に、王の女御として伺候していらっしゃるので、
    180 
     181 「同じ皇族出身なら、御母方として親しくいらっしゃる方をこそ、母后のいらっしゃらない代わりのお世話役として相応しいだろう」
    181 
     182 と理由をつけて、ふさわしかるべく、それぞれ競争なさったが、やはり梅壷が立后なさった。ご幸福が、うって変わってすぐれていらっしゃることを、世間の人は驚き申し上げる。
    182 
     183 大臣は、太政大臣にお上がりになって、大将は、内大臣におなりになった。天下の政治をお執りになるようにお譲り申し上げなさる。性格は、まっすぐで、威儀も正しくて、心づかいなどもしっかりしていらっしゃる。学問をとり立てて熱心になさったので、韻塞ぎにはお負けになったが、政治では立派である。
    183 
     184 いく人もの妻妾にお子たちが十余人、いずれも大きく成長していらっしゃるが、次から次と立派になられて、負けず劣らず栄えているご一族である。女の子は、弘徽殿の女御ともう一人いらっしゃるのであった。皇族出身を母親として、高貴なお血筋では劣らないのであるが、その母君は、按察大納言の北の方となって、現在の夫との間に子どもの数が多くなって、「それらの子どもと一緒に継父に委ねるのは、まことに不都合なことだ」と思って、お引き離させなさって、大宮にお預け申していらっしゃるのであった。女御よりはずっと軽くお思い申し上げていらっしゃったが、性格や、器量など、とてもかわいらしくいらっしゃるのであった。
    184 
     185

    185 
     186 [第二段 夕霧と雲居雁の幼恋]
    186 
     187 冠者の君は、同じ所でご成長なさったが、それぞれが十歳を過ぎてから後は、住む部屋を別にして、
    187 
     188 「親しい縁者ですが、男の子には気を許すものではありません」
    188 
     189 と、父大臣が訓戒なさって、離れて暮らすようになっていたが、子供心に慕わしく思うことなきにしもあらずなので、ちょっとした折々の花や紅葉につけても、また雛遊びのご機嫌とりにつけても、熱心にくっついてまわって、真心をお見せ申されるので、深い情愛を交わし合いなさって、きっぱりと今でも恥ずかしがりなさらない。
    189 
     190 お世話役たちも、
    190 
     191 「何の、子どもどうしのことなので、長年親しくしていらっしゃったお間柄を、急に引き離して、どうしてきまり悪い思いをさせることができようか」
    191 
     192 と思っていると、女君は何の考えもなくいらっしゃるが、男君は、あんなにも子どものように見えても、だいそれたどんな仲だったのであろうか、離れ離れになってからは、逢えないことを気が気でなく思うのである。
    192 
     193 まだ未熟ながら将来の思われるかわいらしい筆跡で、書き交わしなさった手紙が、不用意さから、自然と落としているときもあるのを、姫君の女房たちは、うすうす知っている者もいたのだが、「どうして、こんな関係である」と、どなたに申し上げられようか。知っていながら隠しているのであろう。
    193 
     194

    194 
     195 [第三段 内大臣、大宮邸に参上]
    195 
     196 あちらとこちらの新任の大饗の宴が終わって、朝廷の御用もなく、のんびりとしていたころ、時雨がさあっと降って、荻の上風もしみじみと感じられる夕暮に、大宮のお部屋に、内大臣が参上なさって、姫君をそこへお呼びになって、お琴などをお弾かせなさる。大宮は、何事も上手でいらっしゃるので、それらをみなお教えになる。
    196 
     197 「琵琶は、女性が弾くには見にくいようだが、いかにも達者な感じがするものです。今の世に、正しく弾き伝えている人は、めったにいなくなってしまいました。何々親王、何々の源氏とか」
    197 
     198 などとお数えになって、
    198 
     199 「女性の中では、太政大臣が山里に隠しおいていらっしゃる人が、たいそう上手だと聞いております。音楽の名人の血筋ではありますが、子孫の代になって、田舎生活を長年していた人が、どうしてそのように上手に弾けたのでしょう。あの大臣が、ことの他上手な人だと思っておっしゃったことがありました。他の芸とは違って、音楽の才能はやはり広くいろんな人と合奏をし、あれこれの楽器に調べを合わせてこそ、立派になるものですが、独りで学んで、上手になったというのは珍しいことです」
    199 
     200 などとおっしゃって、大宮にお促し申し上げになると、
    200 
     201 「柱を押さえることが久しぶりになってしまいました」
    201 
     202 とおっしゃったが、美しくお弾きになる。
    202 
     203 「ご幸運な上に、さらにやはり不思議なほど立派な方なのですね。お年をとられた今までに、お持ちでなかった女の子をお生み申されて、側に置いてみすぼらしくするでなく、れっきとしたお方にお預けした考えは、申し分のない人だと聞いております」
    203 
     204 などと、一方ではお話し申し上げなさる。
    204 
     205

    205 
     206 [第四段 弘徽殿女御の失意]
    206 
     207 「女性はただ心がけによって、世間から重んじられるものでございますね」
    207 
     208 などと、他人の身の上についてお話し出されて、
    208 
     209 「弘徽殿の女御を、悪くはなく、どんなことでも他人には負けまいと存じておりましたが、思いがけない人に負けてしまった運命に、この世は案に相違したものだと存じました。せめてこの姫君だけは、何とか思うようにしたいものです。東宮の御元服は、もうすぐのことになったと、ひそかに期待していたのですが、あのような幸福者から生まれたお后候補者が、また後から追いついてきました。入内なさったら、まして対抗できる人はいないのではないでしょうか」
    209 
     210 とお嘆きになると、
    210 
     211 「どうして、そのようなことがありましょうか。この家にもそのような人がいないで終わってしまうようなことはあるまいと、亡くなった大臣が思っていらっしゃって、女御の御ことも、熱心に奔走なさったのでしたが。生きていらっしゃったならば、このように筋道の通らぬこともなかったでしょうに」
    211 
     212 などと、あの一件では、太政大臣を恨めしくお思い申し上げていらっしゃった。
    212 
     213 姫君のご様子が、とても子どもっぽくかわいらしくて、箏のお琴をお弾きになっていらっしゃるが、お髪の下り端、髪の具合などが、上品で艶々としてしているのをじっと見ていらっしゃると、恥ずかしく思って、少し横をお向きになった横顔、その恰好がかわいらしげで、取由の手つきが、非常にじょうずに作った人形のような感じがするので、大宮もこの上なくかわいいと思っていらっしゃった。調子合わせのための小曲などを軽くお弾きになって、押しやりなさった。
    213 
     214

    214 
     215 [第五段 夕霧、内大臣と対面]
    215 
     216 内大臣は、和琴を引き寄せなさって、律調のかえって今風なのを、その方面の名人がうちとけてお弾きになっているのは、たいそう興趣がある。御前のお庭の木の葉がほろほろと落ちきって、老女房たちが、あちらこちらの御几帳の後に、集まって聞いていた。
    216 
     217 「風の力がおよそ弱い」
    217 
     218 と、朗誦なさって、
    218 
     219 「琴のせいではないが、不思議としみじみとした夕べですね。もっと、弾きましょうよ」
    219 
     220 とおっしゃって、「秋風楽」に調子を整えて、唱歌なさる声、とても素晴らしいので、みなそれぞれに、内大臣をも見事であるとお思い申し上げになっていらっしゃると、それをいっそう喜ばせようというのであろうか、冠者の君が参上なさった。
    220 
     221 「こちらに」とおっしゃって、御几帳を隔ててお入れ申し上げになった。
    221 
     222 「あまりお目にかかれませんね。どうしてこう、このご学問に打ち込んでいらっしゃるのでしょう。学問が身分以上になるのもよくないことだと、大臣もご存知のはずですが、こうもお命じ申し上げなさるのは、考える子細もあるのだろうと存じますが、こんなに籠もってばかりいらっしゃるのは、お気の毒でございます」
    222 
     223 と申し上げなさって、
    223 
     224 「時々は、別のことをなさい。笛の音色にも昔の聖賢の教えは、伝わっているものです」
    224 
     225とおっしゃって、御笛を差し上げなさる。
    225 
     226 たいそう若々しく美しい音色を吹いて、大変に興がわいたので、お琴はしばらく弾きやめて、大臣が、拍子をおおげさではなく軽くお打ちになって、
    226 
     227 「萩の花で摺った」
    227 
     228 などとお歌いになる。
    228 
     229 「大殿も、このような管弦の遊びにご熱心で、忙しいご政務からはお逃げになるのでした。なるほど、つまらない人生ですから、満足のゆくことをして、過ごしたいものでございますね」
    229 
     230 などとおっしゃって、お杯をお勧めなさっているうちに、暗くなったので、燈火をつけて、お湯漬や果物などを、どなたもお召し上がりになる。
    230 
     231 姫君はあちらの部屋に引き取らせなさった。つとめて二人の間を遠ざけなさって、「お琴の音だけもお聞かせしないように」と、今ではすっかりお引き離し申していらっしゃるのを、
    231 
     232 「お気の毒なことが起こりそうなお仲だ」
    232 
     233 と、お側近くお仕え申している大宮づきの年輩の女房たちは、ひそひそ話しているのであった。
    233 
     234

    234 
     235 [第六段 内大臣、雲居雁の噂を立ち聞く]
    235 
     236 内大臣はお帰りになったふうにして、こっそりと女房を相手なさろうと座をお立ちになったのだが、そっと身を細めてお帰りになる途中で、このようなひそひそ話をしているので、妙にお思いになって、お耳をとめなさると、ご自分の噂をしている。
    236 
     237 「えらそうにしていらっしゃるが、人の親ですよ。いずれ、ばかばかしく後悔することが起こるでしょう」
    237 
     238 「子を知っているのは親だというのは、嘘のようですね」
    238 
     239 などと、こそこそと噂し合う。
    239 
     240 「あきれたことだ。やはりそうであったのか。思いよらないことではなかったが、子供だと思って油断しているうちに。世の中は何といやなものであるな」
    240 
     241 と、ことの子細をつぶさに了解なさったが、音も立てずにお出になった。
    241 
     242 前駆の先を払う声が盛んに聞こえるので、
    242 
     243 「殿は、今お帰りあそばしたのだわ」
    243 
     244 「どこに隠れていらっしゃったのかしら」
    244 
     245 「今でもこんな浮気をなさるとは」
    245 
     246 と言い合っている。ひそひそ話をした女房たちは、
    246 
     247 「とても香ばしい匂いがしてきたのは、冠者の君がいらっしゃるのだとばかり思っていましたわ」
    247 
     248 「まあ、いやだわ。陰口をお聞きになったかしら。厄介なご気性だから」
    248 
     249 と、皆困り合っていた。
    249 
     250 殿は、道中お考えになることに、
    250 
     251 「まったく問題にならない悪いことではないが、ありふれた親戚どうしの結婚で、世間の人もきっとそう取り沙汰するに違いないことだ。大臣が、強引に女御を抑えなさっているのも癪なのに、ひょっとして、この姫君が相手に勝てることがあろうかも知れないと思っていたが、くやしいことだ」
    251 
     252 とお思いになる。殿どうしのお仲は、普通のことでは昔も今もたいそう仲よくいらっしゃりながら、このような方面では、競争申されたこともお思い出しになって、おもしろくないので、寝覚めがちに夜をお明かしになる。
    252 
     253 「大宮だって、そのような様子は御存じであろうに、たいへんにかわいがっていらっしゃるお孫たちなので、好きなようにさせていらっしゃるのだろう」
    253 
     254 と、女房たちが言っていた様子を、いまいましいとお思いになると、お心が穏やかでなくなって、少し男らしく事をはっきりさせたがるご気性にとっては、抑えがたい。
    254 
     255

    255 
     256 

    第四章 内大臣家の物語 雲居雁の養育をめぐる物語

    256 
     257 [第一段 内大臣、母大宮の養育を恨む]
    257 
     258 二日ほどして、参上なさった。頻繁に参上なさる時は、大宮もとてもご満足され、嬉しく思っておいであった。尼削ぎの御髪に手入れをなさって、きちんとした小袿などをお召し添えになって、わが子ながら気づまりなほど立派なお方なので、直接顔を合わせずにお会いなさる。
    258 
     259 大臣は御機嫌が悪くて、
    259 
     260 「こちらにお伺いするのも体裁悪く、女房たちがどのように見ていますかと、気がひけてしまいます。たいした者ではありませんが、世に生きていますうちは、常にお目にかからせていただき、ご心配をかけることのないようにと存じております。
    260 
     261 不心得者のことで、お恨み申さずにはいられないようなことが起こってまいりましたが、こんなにはお恨み申すまいと一方では存じながらも、やはり抑えがたく存じられまして」
    261 
     262 と、涙をお拭いなさるので、大宮は、お化粧なさっていた顔色も変わって、お目を大きく見張られた。
    262 
     263 「どうしたことで、こんな年寄を、お恨みなさるのでしょうか」
    263 
     264 と申し上げなさるのも、今さらながらお気の毒であるが、
    264 
     265 「ご信頼申していたお方に、幼い子どもをお預け申して、自分ではかえって幼い時から何のお世話も致さずに、まずは身近にいた姫君の、宮仕えなどが思うようにいかないのを、心配しながら奔走しいしい、それでもこの姫君を一人前にしてくださるものと信頼しておりましたのに、意外なことがございましたので、とても残念です。
    265 
     266 ほんとうに天下に並ぶ者のない優れた方のようですが、近しい者どうしが結婚するのは、人の外聞も浅薄な感じが、たいした身分でもないものどうしの縁組でさえ考えますのに、あちらの方のためにも、たいそう不体裁なことです。他人で、豪勢な初めての関係の家で、派手に大切にされるのこそ、よいものです。縁者どうしの、馴れ合いの結婚なので、大臣も不快にお思いになることがあるでしょう。
    266 
     267 それはそれとしても、これこれしかじかですと、わたしにお知らせくださって、特別なお扱いをして、少し世間でも関心を寄せるような趣向を取り入れたいものです。若い者どうしの思いのままに放って置かれたのが、心外に思われるのです」
    267 
     268 と申し上げなさると、夢にも御存知なかったことなので、驚きあきれなさって、
    268 
     269 「なるほど、そうおっしゃるのもごもっともなことですが、ぜんぜんこの二人の気持ちを存じませんでした。なるほど、とても残念なことは、こちらこそあなた以上に嘆きたいくらいです。子どもたちと一緒にわたしを非難なさるのは、恨めしいことです。
    269 
     270 お世話致してから、特別にかわいく思いまして、あなたがお気づきにならないことも、立派にしてやろうと、内々に考えていたのでしたよ。まだ年端もゆかないうちに、親心の盲目から、急いで結婚させようとは考えもしないことです。
    270 
     271 それにしても、誰がそのようなことを申したのでしょう。つまらぬ世間の噂を取り上げて、容赦なくおっしゃるのも、つまらないことで、根も葉もない噂で、姫君のお名に傷がつくのではないでしょうか」
    271 
     272 とおっしゃると、
    272 
     273 「どうして、根も葉もないことでございましょうか。仕えている女房たちも、陰ではみな笑っているようですのに、とても悔しく、面白くなく存じられるのですよ」
    273 
     274 とおっしゃって、お立ちになった。
    274 
     275 事情を知っている女房どうしは、実におかわいそうに思う。先夜の陰口を叩いた女房たちは、それ以上に気も動転して、「どうしてあのような内緒話をしたのだろう」と、一同後悔し合っていた。
    275 
     276

    276 
     277 [第二段 内大臣、乳母らを非難する]
    277 
     278 姫君は、何もご存知でなくていらっしゃるのを、お覗きになると、とてもかわいらしいご様子なのを、しみじみと拝見なさる。
    278 
     279 「若いと言っても、無分別でいらっしゃったのを知らないで、ほんとうにこうまで一人前にと思っていた自分こそ、もっとあさはかであったよ」
    279 
     280 とおっしゃって、御乳母たちをお責めになるが、お返事の申しようもない。
    280 
     281 「このようなことは、この上ない帝の大切な内親王も、いつの間にか過ちを起こす例は、昔物語にもあるようですが、二人の気持ちを知って仲立ちする人が、隙を窺ってするのでしょう」
    281 
     282 「この二人は、朝夕ご一緒に長年過ごしていらっしゃったので、どうして、お小さい二人を、大宮様のお扱いをさし越えてお引き離し申すことができましょうと、安心して過ごして参りましたが、一昨年ごろからは、はっきり二人を隔てるお扱いに変わりましたようなので、若い人と言っても、人目をごまかして、どういうものにか、ませた真似をする人もいらっしゃるようですが、けっして色めいたところもなくいらっしゃるようなので、ちっとも思いもかけませんでした」
    282 
     283 と、お互いに嘆く。
    283 
     284 「よし、暫くの間、このことは人に言うまい。隠しきれないことだが、よく注意して、せめて事実無根だともみ消しなさい。今からは自分の所に引き取ろう。大宮のお扱いが恨めしい。お前たちは、いくらなんでも、こうなって欲しいとは思わなかっただろう」
    284 
     285 とおっしゃるので、「困ったこととではあるが、嬉しいことをおっしゃる」と思って、
    285 
     286 「まあ、とんでもありません。按察大納言殿のお耳に入ることをも考えますと、立派な人ではあっても、臣下の人であっては、何を結構なことと考えて望んだり致しましょう」
    286 
     287 と申し上げる。
    287 
     288 姫君は、とても子供っぽいご様子で、いろいろとお申し上げなさっても、何もお分かりでないので、お泣きになって、
    288 
     289 「どうしたら、傷ものにおなりにならずにすむ道ができようか」
    289 
     290 と、こっそりと頼れる乳母たちとご相談なさって、大宮だけをお恨み申し上げなさる。
    290 
     291

    291 
     292 [第三段 大宮、内大臣を恨む]
    292 
     293 大宮は、とてもかわいいとお思いになる二人の中でも、男君へのご愛情がまさっていらっしゃるのであろうか、このような気持ちがあったのも、かわいらしくお思いになられるが、情愛なく、ひどいことのようにお考えになっておっしゃったのを、
    293 
     294 「どうしてそんなに悪いことがあろうか。もともと深くおかわいがりになることもなくて、こんなにまで大事にしようともお考えにならなかったのに、わたしがこのように世話してきたからこそ、春宮へのご入内のこともお考えになったのに。思いどおりにゆかないで、臣下と結ばれるならば、この男君以外にまさった人がいるだろうか。器量や、態度をはじめとして、同等の人がいるだろうか。この姫君以上の身分の姫君が相応しいと思うのに」
    294 
     295 と、ご自分の愛情が男君の方に傾くせいからであろうか、内大臣を恨めしくお思い申し上げなさる。もしもお心の中をお見せ申したら、どんなにかお恨み申し上げになることであろうか。
    295 
     296

    296 
     297 [第四段 大宮、夕霧に忠告]
    297 
     298 このように騷がれているとも知らないで、冠者の君が参上なさった。先夜も人目が多くて、思っていることもお申し上げになることができずに終わってしまったので、いつもよりもしみじみと思われなさったので、夕方いらっしゃったのであろう。
    298 
     299 大宮は、いつもは何はさておき、微笑んでお待ち申し上げていらっしゃるのに、まじめなお顔つきでお話など申し上げなさる時に、
    299 
     300 「あなたのお事で、内大臣殿がお恨みになっていらっしゃったので、とてもお気の毒です。人に感心されないことにご執心なさって、わたしに心配かけさせることがつらいのです。こんなことはお耳に入れまいと思いますが、そのようなこともご存知なくてはと思いまして」
    300 
     301 と申し上げなさると、心配していた方面のことなので、すぐに気がついた。顔が赤くなって、
    301 
     302 「どのようなことでしょうか。静かな所に籠もりまして以来、何かにつけて人と交際する機会もないので、お恨みになることはございますまいと存じておりますが」
    302 
     303 と言って、とても恥ずかしがっている様子を、かわいくも気の毒に思って、
    303 
     304 「よろしい。せめて今からはご注意なさい」
    304 
     305 とだけおっしゃって、他の話にしておしまいになった。
    305 
     306

    306 
     307 

    第五章 夕霧の物語 幼恋の物語

    307 
     308 [第一段 夕霧と雲居雁の恋の煩悶]
    308 
     309 「今後いっそうお手紙などを交わすことは難しいだろう」と考えると、とても嘆かわしく、食事を差し上げても、少しも召し上がらず、お寝みになってしまったふうにしているが、心も落ち着かず、人が寝静まったころに、中障子を引いてみたが、いつもは特に錠など下ろしていないのに、固く錠さして、女房の声も聞こえない。実に心細く思われて、障子に寄りかかっていらっしゃると、女君も目を覚まして、風の音が竹に待ち迎えられて、さらさらと音を立てると、雁が鳴きながら飛んで行く声が、かすかに聞こえるので、子供心にも、あれこれとお思い乱れるのであろうか、
    309 
     310 「雲居の雁もわたしのようなのかしら」
    310 
     311 と、独り言をおっしゃる様子、若々しくかわいらしい。
    311 
     312 とてももどかしくてならないので、
    312 
     313 「ここを、お開け下さい。小侍従はおりますか」
    313 
     314 とおっしゃるが、返事がない。乳母子だったのである。独り言をお聞きになったのも恥ずかしくて、わけなく顔を衾の中にお入れなさったが、恋心は知らないでもないとは憎いことよ。乳母たちが近くに臥せっていて、起きていることに気づかれるのもつらいので、お互いに音を立てない。
    314 
     315 「真夜中に友を呼びながら飛んでいく雁の声に
    315 
     316  さらに悲しく吹き加わる荻の上を吹く風よ」
    316 
     317 「身にしみて感じられることだ」と思い続けて、大宮の御前に帰って嘆きがちでいらっしゃるのも、「お目覚めになってお聞きになろうか」と憚られて、もじもじしながら臥せった。
    317 
     318 むやみに何となく恥ずかしい気がして、ご自分のお部屋に早く出て、お手紙をお書きになったが、小侍従にも会うことがおできになれず、あの姫君の方にも行くことがおできになれず、たまらない思いでいらっしゃる。
    318 
     319 女は女でまた、騒がれなさったことばかり恥ずかしくて、「自分の身はどうなるのだろう、世間の人はどのように思うだろう」とも深くお考えにならず、美しくかわいらしくて、ちょっと噂していることにも、嫌な話だとお突き放しになることもないのであった。
    319 
     320 また、このように騒がれねばならないことともお思いでなかったのを、御後見人たちがひどく注意するので、文通をすることもおできになれない。大人であったら、しかるべき機会を作るであろうが、男君も、まだ少々頼りない年頃なので、ただたいそう残念だとばかり思っている。
    320 
     321

    321 
     322 [第二段 内大臣、弘徽殿女御を退出させる]
    322 
     323 内大臣は、あれ以来参上なさらず、大宮をひどいとお思い申していらっしゃる。北の方には、このようなことがあったとは、そぶりにもお見せ申されず、ただ何かにつけて、とても不機嫌なご様子で、
    323 
     324 「中宮が格別に威儀を整えて参内なさったのに対して、わが女御が将来を悲嘆していらっしゃるのが、気の毒に胸が痛いので、里に退出おさせ申して、気楽に休ませて上げましょう。立后しなかったとはいえ、主上のお側にずっと伺候なさって、昼夜おいでのようですから、仕えている女房たちも気楽になれず、苦しがってばかりいるようですから」
    324 
     325 とおっしゃって、急に里にご退出させ申し上げなさる。お許しは難しかったが、無理をおっしゃって、主上はしぶしぶでおありであったのを、むりやりお迎えなさる。
    325 
     326 「所在なくていらっしゃるでしょうから、姫君を迎えて、一緒に遊びなどなさい。大宮にお預け申しているのは、安心なのですが、たいそう小賢しくませた人が一緒なので、自然と親しくなるのも、困った年頃になったので」
    326 
     327 とお申し上げなさって、急にお引き取りになさる。
    327 
     328 大宮は、とても気落ちなさって、
    328 
     329 「一人いらした女の子がお亡くなりになって以来、とても寂しく心細かったのが、うれしいことにこの姫君を得て、生きている間中お世話できる相手と思って、朝な夕なに、老後の憂さつらさの慰めにしようと思っていましたが、心外にも心隔てを置いてお思いになるのも、つらく思われます」
    329 
     330 などとお申し上げなさると、恐縮して、
    330 
     331 「心中に不満に存じられますことは、そのように存じられますと申し上げただけでございます。深く隔意もってお思い申し上げることはどうしていたしましょう。
    331 
     332 宮中に仕えております姫君が、ご寵愛が恨めしい様子で、最近退出おりますが、とても所在なく沈んでおりますので、気の毒に存じますので、一緒に遊びなどをして慰めようと存じまして、ほんの一時引き取るのでございます」と言って、「お育てくださり、一人前にしてくださったのを、けっしていいかげんにはお思い申しておりません」
    332 
     333 と申し上げなさると、このようにお思いたちになった以上は、引き止めようとなさっても、お考え直されるご性質ではないので、大変に残念にお思いになって、
    333 
     334 「人の心とは嫌なものです。あれこれにつけ幼い子どもたちも、わたしに隠し事をして嫌なことですよ。また一方で、子どもとはそのようなものでしょうが、内大臣が、思慮分別がおありになりながら、わたしを恨んで、このように連れて行っておしまいになるとは。あちらでは、ここよりも安心なことはあるまいに」
    334 
     335 と、泣きながらおっしゃる。
    335 
     336

    336 
     337 [第三段 夕霧、大宮邸に参上]
    337 
     338 ちょうど折しも冠者の君が参上なさった。「もしやちょっとした隙でもありやしないか」と、最近は頻繁にお顔を出しになられるのであった。内大臣のお車があるので、気がとがめて具合悪いので、こっそり隠れて、ご自分のお部屋にお入りになった。
    338 
     339 内大臣の若公達の、左近少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などと言った人々も、皆ここには参集なさったが、御簾の内に入ることはお許しにならない。
    339 
     340 左兵衛督、権中納言なども、異腹の兄弟であるが、故大殿のご待遇によって、今でも参上して御用を承ることが親密なので、その子どもたちもそれぞれ参上なさるが、この冠者の君に似た美しい人はいないように見える。
    340 
     341 大宮のご愛情も、この上なくお思いであったが、ただこの姫君を、身近にかわいい者とお思いになってお世話なさって、いつもお側にお置きになって、かわいがっていらっしゃったのに、このようにしてお引き移りになるのが、とても寂しいこととお思いになる。
    341 
     342 内大臣殿は、
    342 
     343 「今の間に、内裏に参上しまして、夕方に迎えに参りましょう」
    343 
     344 と言って、お出になった。
    344 
     345 「今さら言っても始まらないことだが、穏便に言いなして、二人の仲を許してやろうか」とお思いになるが、やはりとても面白くないので、「ご身分がもう少し一人前になったら、不満足な地位でないと見做して、その時に、愛情が深いか浅いかの状態も見極めて、許すにしても、改まった結婚という形式を踏んで婿として迎えよう。厳しく言っても、一緒にいては、子どものことだから、見苦しいことをしよう。大宮も、まさかむやみにお諌めになることはあるまい」
    345 
     346 とお思いになると、弘徽殿女御が寂しがっているのにかこつけて、こちらにもあちらにも穏やかに話して、お連れになるのであった。
    346 
     347

    347 
     348 [第四段 夕霧と雲居雁のわずかの逢瀬]
    348 
     349 大宮のお手紙で、
    349 
     350 「内大臣は、お恨みでしょうが、あなたは、こうはなってもわたしの気持ちはわかっていただけるでしょう。いらっしゃってお顔をお見せください」
    350 
     351 と差し上げなさると、とても美しく装束を整えていらっしゃった。十四歳でいらっしゃった。まだ十分に大人にはお見えでないが、とてもおっとりとしていらして、しとやかで、美しい姿態をしていらっしゃった。
    351 
     352 「いままでお側をお離し申さず、明け暮れの話相手とお思い申していたのに、とても寂しいことですね。残り少ない晩年に、あなたのご将来を見届けることができないことは、寿命と思いますが、今のうちから見捨ててお移りになる先が、どこかしらと思うと、とても不憫でなりません」
    352 
     353 と言ってお泣きになる。姫君は、恥ずかしいこととお思いになると、顔もお上げにならず、ただ泣いてばかりいらっしゃる。男君の御乳母の、宰相の君が出て来て、
    353 
     354 「同じご主人様とお頼り申しておりましたが、残念にもこのようにお移りあそばすとは。内大臣殿は別にお考えになるところがおありでも、そのようにお思いあそばしますな」
    354 
     355 などと、ひそひそと申し上げると、いっそう恥ずかしくお思いになって、何ともおっしゃらない。
    355 
     356 「いえもう、厄介なことは申し上げなさいますな。人の運命はそれぞれで、とても先のことは分からないもので」
    356 
     357 とおっしゃる。
    357 
     358 「いえいえ、一人前でないとお侮り申していらっしゃるのでしょう。今はそうですが、わたくしどもの若君が人にお劣り申していらっしゃるかどうか、どなたにでもお聞き合わせくださいませ」
    358 
     359 と、癪にさわるのにまかせて言う。
    359 
     360 冠者の君は、物陰に入って御覧になると、人が見咎めるのも、何でもない時は苦しいだけであったが、とても心細くて、涙を拭いながらいらっしゃる様子を、御乳母が、とても気の毒に見て、大宮にいろいろとご相談申し上げて、夕暮の人の出入りに紛れて、対面させなさった。
    360 
     361 お互いに何となく恥ずかしく胸がどきどきして、何も言わないでお泣きになる。
    361 
     362 「内大臣のお気持ちがとてもつらいので、ままよ、いっそ諦めようと思いますが、恋しくいらっしゃてたまらないです。どうして、少しお逢いできそうな折々があったころは、離れて過ごしていたのでしょう」
    362 
     363 とおっしゃる様子も、たいそう若々しく痛々しげなので、
    363 
     364 「わたしも、あなたと同じ思いです」
    364 
     365 とおっしゃる。
    365 
     366 「恋しいと思ってくださるでしょうか」
    366 
     367 とおっしゃると、ちょっとうなずきなさる様子も、幼い感じである。
    367 
     368

    368 
     369 [第五段 乳母、夕霧の六位を蔑む]
    369 
     370 御殿油をお点けし、内大臣が宮中から退出なさって来た様子で、ものものしく大声を上げて先払いする声に、女房たちが、
    370 
     371 「それそれ、お帰りだ」
    371 
     372 などと慌てるので、とても恐ろしくお思いになって震えていらっしゃる。そんなにやかましく言われるなら言われても構わないと、一途な心で、姫君をお放し申されない。姫君の乳母が参ってお捜し申して、その様子を見て、
    372 
     373 「まあ、いやだわ。なるほど、大宮は御存知ないことではなかったのだわ」
    373 
     374 と思うと、実に恨めしくなって、
    374 
     375 「何とも、情けないことですわ。内大臣殿がおっしゃることは、申すまでもなく、大納言殿にもどのようにお聞きになることでしょう。結構な方であっても、初婚の相手が六位風情との御縁では」
    375 
     376 と、つぶやいているのがかすかに聞こえる。ちょうどこの屏風のすぐ背後に捜しに来て、嘆くのであった。
    376 
     377 男君は、「自分のことを位がないと軽蔑しているのだ」とお思いになると、こんな二人の仲がたまらなくなって、愛情も少しさめる感じがして、許しがたい。
    377 
     378 「あれをお聞きなさい。
    378 
     379  真っ赤な血の涙を流して恋い慕っているわたしを
    379 
     380  浅緑の袖の色だと言ってけなしてよいものでしょうか
    380 
     381 恥ずかしい」
    381 
     382 とおっしゃると、
    382 
     383 「色々とわが身の不運が思い知らされますのは
    383 
     384  どのような因縁の二人なのでしょう」
    384 
     385 と、言い終わらないうちに、殿がお入りになっていらしたので、しかたなくお戻りになった。
    385 
     386 男君は、後に残された気持ちも、とても体裁が悪く、胸が一杯になって、ご自分のお部屋で横におなりになった。
    386 
     387 お車は三輌ほどで、ひっそりと急いでお出になる様子を聞くのも、落ち着かないので、大宮の御前から「いらっしゃい」とあるが、寝ている様子をして身動きもなさらない。
    387 
     388 涙ばかりが止まらないので、嘆きながら夜を明かして、霜がたいそう白いころに急いでお帰りになる。泣き腫らした目許も、人に見られるのが恥ずかしいので、大宮もまた、お召しになって放さないだろうから、気楽な所でと思って、急いでお帰りになったのであった。
    388 
     389 その道中は、誰のせいからでなく、心細く思い続けると、空の様子までもたいそう曇って、まだ暗いのであった。
    389 
     390 「霜や氷が嫌に張り詰めた明け方の
    390 
     391  空を真暗にして降る涙の雨だなあ」
    391 
     392

    392 
     393 

    第六章 夕霧の物語 五節舞姫への恋

    393 
     394 [第一段 惟光の娘、五節舞姫となる]
    394 
     395 大殿の所では、今年、五節の舞姫を差し上げなさる。何ほどといったご用意ではないが、童女の装束など、日が近くなったといって、急いでおさせになる。
    395 
     396 東の院では、参内の夜の付人の装束を準備させなさる。殿におかれては、全般的な事柄を、中宮からも、童女や、下仕えの人々のご料などを、並大抵でないものを差し上げなさった。
    396 
     397 昨年は、五節などは停止になっていたが、もの寂しかった思いを加えて、殿上人の気分も、例年よりもはなやかに思うにちがいない年なので、家々が競って、たいそう立派に善美の限りを尽くして用意をなさるとの噂である。
    397 
     398 按察大納言、左衛門督と、殿上人の五節としては、良清が、今では近江守で左中弁を兼官しているのが、差し上げるのだった。皆残させなさって、宮仕えするようにとの、仰せ言が特にあった年なので、娘をそれぞれ差し上げなさる。
    398 
     399 大殿の舞姫は、惟光朝臣が、摂津守で左京大夫を兼官しているその娘の、器量などもたいそう美しいという評判があるのをお召しになる。つらいことと思ったが、
    399 
     400 「按察大納言が、異腹の娘を差し上げられるというのに、朝臣が大切なまな娘を差し出すのは、何の恥ずかしいことがあろうか」
    400 
     401 とお責めになるので、困って、いっそのこと宮仕えをそのままさせようと考えていた。
    401 
     402 舞の稽古などは、里邸で十分に仕上げて、介添役など、親しく身近に添うべき女房などは、丹念に選んで、その日の夕方大殿に参上させた。
    402 
     403 大殿邸でも、それぞれのご婦人方の童女や、下仕えの優れている者をと、お比べになり、選び出される者たちの気分は、身分相応につけて、たいそう誇らしげである。
    403 
     404 主上のお前に召されて御覧になられる前稽古に、殿のお前を通らせてみようとお決めになる。誰一人落第する者もいないくらいに、それぞれ素晴らしい童女の姿態や、器量にお困りになって、
    404 
     405 「もう一人分の舞姫の介添役を、こちらから差し上げたいものだな」
    405 
     406 などと言ってお笑いになる。わずかに態度や心構えの違いによって選ばれたのであった。
    406 
     407

    407 
     408 [第二段 夕霧、五節舞姫を恋慕]
    408 
     409 大学の君は、ただ胸が一杯で、食事なども見たくなく、ひどくふさぎこんで、漢籍も読まないで物思いに沈んで横になっていらっしゃったが、気分も紛れようかと外出して、人目に立たないようにお歩きになる。
    409 
     410 姿態、器量は立派で美しくて、落ち着いて優美でいらっしゃるので、若い女房などは、とても素晴らしいと拝見している。
    410 
     411 対の上の御方には、御簾のお前近くに出ることさえお近寄らせにならない。ご自分のお心の性癖から、どのようにお考えになったのであろうか、他人行儀なお扱いなので、女房なども疎遠なのだが、今日は舞姫の混雑に紛れて、入り込んで来られたのであろう。
    411 
     412 舞姫を大切に下ろして、妻戸の間に屏風などを立てて、臨時の設備なので、そっと近寄ってお覗きになると、苦しそうに物に寄り臥していた。
    412 
     413 ちょうど、あの姫君と同じくらいに見えて、もう少し背丈がすらっとしていて、姿つきなどが一段と風情があって、美しい点では勝ってさえ見える。暗いので、詳しくは見えないが、全体の感じがたいそうよく似ている様子なので、心が移るというのではないが、気持ちを抑えかねて、裾を引いてさらさらと音を立てさせなさると、何か分からず、変だと思っていると、
    413 
     414 「天にいらっしゃる豊岡姫に仕える宮人も
    414 
     415  わたしのものと思う気持ちを忘れないでください
    415 
     416 瑞垣のずっと昔から思い染めてきましたのですから」
    416 
     417 とおっしゃるのは、あまりにも唐突というものである。
    417 
     418 若々しく美しい声であるが、誰とも分からず、薄気味悪く思っていたところへ、化粧し直そうとして、騒いでいる女房たちが、近くにやって来て騒がしくなったので、とても残念な気がして、お立ち去りになった。
    418 
     419

    419 
     420 [第三段 宮中における五節の儀]
    420 
     421 浅葱の服が嫌なので、宮中に参内することもせず、億劫がっていらっしゃるのを、五節だからというので、直衣なども特別の衣服の色を許されて参内なさる。いかにも幼げで美しい方であるが、お年のわりに大人っぽくて、しゃれてお歩きになる。帝をはじめ参らせて、大切になさる様子は並大抵でなく、世にも珍しいくらいのご寵愛である。
    421 
     422 五節の参内する儀式は、いずれ劣らず、それぞれがこの上なく立派になさっているが、「舞姫の器量は、大殿と大納言のとは素晴らしい」という大評判である。なるほど、とてもきれいであるが、おっとりとして可憐なさまは、やはり大殿のには、かないそうもなかった。
    422 
     423 どことなくきれいな感じの当世風で、誰の娘だか分からないよう飾り立てた姿態などが、めったにないくらい美しいのを、このように褒められるようである。例年の舞姫よりは、皆少しずつ大人びていて、なるほど特別な年である。
    423 
     424 大殿が宮中に参内なさって御覧になると、昔お目をとどめなさった少女の姿をお思い出しになる。辰の日の暮方に手紙をやる。その内容はご想像ください。
    424 
     425 「少女だったあなたも神さびたことでしょう
    425 
     426  天の羽衣を着て舞った昔の友も長い年月を経たので」
    426 
     427 歳月の流れを数えて、ふとお思い出しになられたままの感慨を、堪えることができずに差し上げたのが、胸をときめかせるのも、はかないことであるよ。
    427 
     428 「五節のことを言いますと、昔のことが今日のことのように思われます
    428 
     429  日蔭のかずらを懸けて舞い、お情けを頂戴したことが」
    429 
     430 青摺りの紙をよく間に合わせて、誰の筆跡だか分からないように書いた、濃く、また薄く、草体を多く交えているのも、あの身分にしてはおもしろいと御覧になる。
    430 
     431 冠者の君も、少女に目が止まるにつけても、ひそかに思いをかけてあちこちなさるが、側近くにさえ寄せず、たいそう無愛想な態度をしているので、もの恥ずかしい年頃の身では、心に嘆くばかりであった。器量はそれは、とても心に焼きついて、つれない人に逢えない慰めにでも、手に入れたいものだと思う。
    431 
     432

    432 
     433 [第四段 夕霧、舞姫の弟に恋文を託す]
    433 
     434 そのまま皆宮中に残させなさって、宮仕えするようにとの御内意があったが、この場は退出させて、近江守の娘は辛崎の祓い、津守のは難波で祓いをと、競って退出した。大納言も改めて出仕させたい旨を奏上させる。左衛門督は、資格のない者を差し上げて、お咎めがあったが、それも残させなさる。
    434 
     435 津守は、「典侍が空いているので」と申し上げさせたので、「そのように労をねぎらってやろうか」と大殿もお考えになっていたのを、あの冠者の君はお聞きになって、とても残念だと思う。
    435 
     436 「自分の年齢や、位などが、このように問題でないならば、願い出てみたいのだが。思っているということさえ知られないで終わってしまうことよ」
    436 
     437 と、特別強く執心しているのではないが、あの姫君のことに加えて涙がこぼれる時々がある。
    437 
     438 兄弟で童殿上する者が、つねにこの君に参上してお仕えしているのを、いつもよりも親しくご相談なさって、
    438 
     439 「五節はいつ宮中に参内なさるのか」
    439 
     440 とお尋ねになる。
    440 
     441 「今年と聞いております」
    441 
     442 と申し上げる。
    442 
     443 「顔がたいそうよかったので、無性に恋しい気がする。おまえがいつも見ているのが羨ましいが、もう一度見せてくれないか」
    443 
     444 とおっしゃると、
    444 
     445 「どうしてそのようなことができましょうか。思うように会えないのでございます。男兄弟だといって、近くに寄せませんので、まして、あなた様にはどうしてお会わせ申すことができましょうか」
    445 
     446 と申し上げる。
    446 
     447 「それでは、せめて手紙だけでも」
    447 
     448 といってお与えになった。「以前からこのようなことはするなと親が言われていたものを」と困ったが、無理やりにお与えになるので、気の毒に思って持って行った。
    448 
     449 年齢よりは、ませていたのであろうか、興味をもって見るのであった。緑色の薄様に、好感の持てる色を重ねて、筆跡はまだとても子供っぽいが、将来性が窺えて、たいそう立派に、
    449 
     450 「日の光にはっきりとおわかりになったでしょう
    450 
     451  あなたが天の羽衣も翻して舞う姿に思いをかけたわたしのことを」
    451 
     452 二人で見ているところに、父殿がひょいとやって来た。恐くなってどうしていいか分からず、隠すこともできない。
    452 
     453 「何の手紙だ」
    453 
     454 と言って取ったので、顔を赤らめていた。
    454 
     455 「けしからぬことをした」
    455 
     456 と叱ると、男の子が逃げて行くのを、呼び寄せて、
    456 
     457 「誰からだ」
    457 
     458 と尋ねると、
    458 
     459 「大殿の冠者の君が、これこれしかじかとおっしゃってお与えになったのです」
    459 
     460 と言うと、すっかり笑顔になって、
    460 
     461 「何ともかわいらしい若君のおたわむれだ。おまえたちは、同じ年齢だが、お話にならないくらい頼りないことよ」
    461 
     462 などと褒めて、母君にも見せる。
    462 
     463 「大殿の公達が、すこしでも一人前にお考えになってくださるならば、宮仕えよりは、差し上げようものを。大殿のご配慮を見ると、一度見初めた女性を、お忘れにならないのがたいそう頼もしい。明石の入道の例になるだろうか」
    463 
     464 などと言うが、皆は準備にとりかかっていた。
    464 
     465

    465 
     466 [第五段 花散里、夕霧の母代となる]
    466 
     467 あの若君は、手紙をやることさえおできになれず、一段と恋い焦がれる方のことが心にかかって、月日がたつにつれて、無性に恋しい面影に再び会えないのではないかとばかり思っている。大宮のお側へも、何となく気乗りがせず参上なさらない。いらっしゃったお部屋や長年一所に遊んだ所ばかりが、ますます思い出されるので、里邸までが疎ましくお思いになられて、籠もっていらっしゃった。
    467 
     468 大殿は、東院の西の対の御方に、お預け申し上げていらっしゃったのであった。
    468 
     469 「大宮のご寿命も大したことがないので、お亡くなりになった後も、このように子供の時から親しんで、お世話してください」
    469 
     470 と申し上げなさると、ただおっしゃっるとおりになさるご性質なので、親しくかわいがって上げなさる。
    470 
     471 ちらっとなどお顔を拝見しても、
    471 
     472 「器量はさほどすぐれていないな。このような方をも、父はお捨てにならなかったのだ」などと、「自分は、無性に、つらい人のご器量を心にかけて恋しいと思うのもつまらないことだ。気立てがこのように柔和な方をこそ愛し合いたいものだ」
    472 
     473 と思う。また一方で、
    473 
     474 「向かい合っていて見ていられないようなのも気の毒な感じだ。こうして長年連れ添っていらっしゃったが、父上が、そのようなご器量を、承知なさったうえで、浜木綿ほどの隔てを置き置きして、何やかやとなさって見ないようにしていらっしゃるらしいのも、もっともなことだ」
    474 
     475 と考える心の中は、大したほどである。
    475 
     476 大宮の器量は格別でいらっしゃるが、まだたいそう美しくいらっしゃり、こちらでもあちらでも、女性は器量のよいものとばかり目馴れていらっしゃるが、もともとさほどでなかったご器量が、少し盛りが過ぎた感じがして、痩せてみ髪が少なくなっているのなどが、このように難をつけたくなるのであった。
    476 
     477

    477 
     478 [第六段 歳末、夕霧の衣装を準備]
    478 
     479 年の暮には、正月のご装束などを、大宮はただこの冠君の君の一人だけの事を、余念なく準備なさる。いく組も、たいそう立派に仕立てなさったのを見るのも、億劫にばかり思われるので、
    479 
     480 「元旦などには、特に参内すまいと存じておりますのに、どうしてこのようにご準備なさるのでしょうか」
    480 
     481 と申し上げなさると、
    481 
     482 「どうして、そのようなことがあってよいでしょうか。年をとってすっかり気落ちした人のようなことをおっしゃいますね」
    482 
     483 とおっしゃるので、
    483 
     484 「年はとっていませんが、何もしたくない気がしますよ」
    484 
     485 と独り言をいって、涙ぐんでいらっしゃる。
    485 
     486 「あの姫君のことを思っているのだろう」と、とても気の毒になって、大宮も泣き顔になってしまわれた。
    486 
     487 「男は、取るに足りない身分の人でさえ、気位を高く持つものです。あまり沈んで、こうしていてはなりません。どうして、こんなにくよくよ思い詰めることがありましょうか。縁起でもありません」
    487 
     488 とおっしゃるが、
    488 
     489 「そんなことはありません。六位などと人が軽蔑するようなので、少しの間だとは存じておりますが、参内するのも億劫なのです。故祖父大臣が生きていらっしゃったならば、冗談にも、人からは軽蔑されることはなかったでございましょうに。何の遠慮もいらない実の親でいらしゃいますが、たいそう他人行儀に遠ざけるようになさいますので、いらっしゃる所にも、気安くお目通りもかないません。東の院にお出での時だけ、お側近く上がります。対の御方だけは、やさしくしてくださいますが、母親が生きていらっしゃいましたら、何も思い悩まなくてよかったものを」
    489 
     490 と言って、涙が落ちるのを隠していらっしゃる様子、たいそう気の毒なので、大宮は、ますますほろほろとお泣きになって、
    490 
     491 「母親に先立たれた人は、身分の高いにつけ低いにつけて、そのように気の毒なことなのですが、自然とそれぞれの前世からの宿縁で、成人してしまえば、誰も軽蔑する者はいなくなるものですから、思い詰めないでいらっしゃい。亡くなった太政大臣がせめてもう少しだけ長生きをしてくれればよかったのに。絶大な庇護者としては、同じようにご信頼申し上げてはいますが、思いどおりに行かないことが多いですね。内大臣の性質も、普通の人とは違って立派だと世間の人も褒めて言うようですが、昔と違う事ばかりが多くなって行くので、長生きも恨めしい上に、生い先の長いあなたにまで、このようなちょっとしたことにせよ、身の上を悲観していらっしゃるので、とてもいろいろと恨めしいこの世です」
    491 
     492 と言って、泣いていらっしゃる。
    492 
     493

    493 
     494 

    第七章 光る源氏の物語 六条院造営

    494 
     495 [第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸]
    495 
     496 元旦にも、大殿は御参賀なさらないので、のんびりとしていっらしゃる。良房の大臣と申し上げた方の、昔の例に倣って、白馬を牽き、節会の日は、宮中の儀式を模して、昔の例よりもいろいろな事を加えて、盛大なご様子である。
    496 
     497 二月の二十日余りに、朱雀院に行幸がある。花盛りはまだのころであるが、三月は故藤壷の宮の御忌月である。早く咲いた桜の花の色もたいそう美しいので、院におかれてもお心配りし特にお手入れあそばして、行幸に供奉なさる上達部や親王たちをはじめとして、十分にご用意なさっていた。
    497 
     498 お供の人々は皆、青色の袍に、桜襲をお召しになる。帝は、赤色の御衣をお召しあそばされた。お召しがあって、太政大臣が参上なさる。同じ赤色を着ていらっしゃるので、ますますそっくりで輝くばかりにお美しく見違えるほどとお見えになる。人々の装束や、振る舞いも、いつもと違っている。院も、たいそうおきれいにお年とともに御立派になられて、御様子や態度が、以前にもまして優雅におなりあそばしていた。
    498 
     499 今日は、専門の文人もお呼びにならず、ただ漢詩を作る才能の高いという評判のある学生十人をお呼びになる。式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜る。大殿のご長男の試験をお受けなさるようである。臆しがちな者たちは、ぼおっとしてしまって、繋いでない舟に乗って、池に一人一人漕ぎ出して、実に途方に暮れているようである。
    499 
     500 日がだんだんと傾いてきて、音楽の舟が幾隻も漕ぎ廻って、調子を整える時に、山風の響きがおもしろく吹き合わせているので、冠者の君は、
    500 
     501 「こんなにつらい修業をしなくても皆と一緒に音楽を楽しめたりできるはずのものを」
    501 
     502 と、世の中を恨めしく思っていらっしゃった。
    502 
     503 「春鴬囀」を舞うときに、昔の花の宴の時をお思い出しになって、院の帝が、
    503 
     504 「もう一度、あれの程が見られるだろうか」
    504 
     505 と仰せられるにつけても、その当時のことがしみじみと次々とお思い出されなさる。舞い終わるころに、太政大臣が、院にお杯を差し上げなさる。
    505 
     506 「鴬の囀る声は昔のままですが
    506 
     507  馴れ親しんだあの頃とはすっかり時勢が変わってしまいました」
    507 
     508 院の上は、
    508 
     509 「宮中から遠く離れた仙洞御所にも
    509 
     510  春が来たと鴬の声が聞こえてきます」
    510 
     511 帥宮と申し上げた方は、今では兵部卿となって、今上帝にお杯を差し上げなさる。
    511 
     512 「昔の音色そのままの笛の音に
    512 
     513  さらに鴬の囀る声までもちっとも変わっていません」
    513 
     514 巧みにその場をおとりなしなさった、心づかいは特に立派である。杯をお取りあそばして、
    514 
     515 「鴬が昔を慕って木から木へと飛び移って囀っていますのは
    515 
     516  今の木の花の色が悪くなっているからでしょうか」
    516 
     517 と仰せになる御様子、この上なく奥ゆかしくいらっしゃる。このお杯事は、お身内だけのことなので、多数の方には杯が回らなかったのであろうか、または書き洩らしたのであろうか。
    517 
     518 楽所が遠くてはっきり聞こえないので、御前にお琴をお召しになる。兵部卿宮は、琵琶。内大臣は和琴。箏のお琴は、院のお前に差し上げて、琴の琴は、例によって太政大臣が頂戴なさる。お勧め申し上げなさる。このような素晴らしい方たちによる優れた演奏で、秘術を尽くした楽の音色は、何ともたとえようがない。唱歌の殿上人が多数伺候している。「安名尊」を演奏して、次に「桜人」。月が朧ろにさし出して美しいころに、中島のあたりにあちこちに篝火をいくつも灯して、この御遊は終わった。
    518 
     519

    519 
     520 [第二段 弘徽殿大后を見舞う]
    520 
     521 夜は更けてしまったが、このような機会に、太后宮のいらっしゃる方を、避けてお伺い申し上げなさらないのも、思いやりがないので、帰りにお立ち寄りになる。大臣もご一緒に伺候なさる。
    521 
     522 大后宮はお待ち喜びになって、ご面会なさる。とてもたいそうお年を召されたご様子にも、故宮をお思い出し申されて、「こんなに長生きされる方もいらっしゃるものを」と、残念にお思いになる。
    522 
     523 「今ではこのように年を取って、すべての事柄を忘れてしまっておりましたが、まことに畏れ多くもお越し戴きましたので、改めて昔の御代のことが思い出されます」
    523 
     524 と、お泣きになる。
    524 
     525 「頼りになるはずの人々に先立たれて後、春になった気分も知らないでいましたが、今日初めて心慰めることができました。時々はお伺い致します」
    525 
     526 と御挨拶申し上げあそばす。太政大臣もしかるべくご挨拶なさって、
    526 
     527 「また改めてお伺い致しましょう」
    527 
    c2-1528-529 と、申し上げなさる。<BR>《改行》
     
    ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、<BR>
    528 と、申し上げなさる。ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、<BR>
     530 「どのように思い出していられるのだろう。結局、政権をお執りになるというご運勢は、押しつぶせなかったのだ」
    529 
     531 と昔を後悔なさる。
    530 
     532 尚侍の君も、ゆったりした気分でお思い出しになると、しみじと感慨無量な事が多かった。今でも適当な機会に、何かの伝で密かに便りを差し上げなさることがあるのであろう。
    531 
     533 大后は朝廷に奏上なさることのある時々に、御下賜された年官や年爵、何かにつけながら、ご意向に添わない時には、「長生きをしてこんな酷い目に遭うとは」と、もう一度昔の御代に取り戻したく、いろいろとご機嫌悪がっているのであった。
    532 
     534 年を取っていかれるにつれて、意地の悪さも加わって、院ももてあまして、例えようもなくお思い申し上げていらっしゃるのだった。
    533 
     535 さて、大学の君は、その日の漢詩を見事にお作りになって、進士におなりになった。長い年月修業した優れた者たちをお選びになったが、及第した人は、わずかに三人だけであった。
    534 
     536 秋の司召に、五位に叙されて、侍従におなりになった。あの人のことを、忘れる時はないが、内大臣が熱心に監視申していらっしゃるのも恨めしいので、無理をしてまでもお目にかかることはなさらない。ただお手紙だけを適当な機会に差し上げて、お互いに気の毒なお仲である。
    535 
     537

    536 
     538 [第三段 源氏、六条院造営を企図す]
    537 
     539 大殿は、静かなお住まいを、同じことなら広く立派にして、あちこちに別居して気がかりな山里人などをも、集め住まわせようとのお考えで、六条京極の辺りに、中宮の御旧居の近辺を、四町をいっぱいにお造りになる。
    538 
     540 式部卿宮が、明年五十歳におなりになる御賀のことを、対の上がお考えなので、大臣も、「なるほど、見過ごすわけにはいかない」とお思いになって、「そのようなご準備も、同じことなら新しい邸で」と、用意させなさる。
    539 
     541 年が改まってからは、昨年以上にこのご準備の事、御精進落としの事、楽人、舞人の選定などを、熱心に準備させなさる。経、仏像、法事の日の装束、禄などを、対の上はご準備なさるのだった。
    540 
     542 東の院で、分担してご準備なさることがある。ご間柄は、いままで以上にとても優美にお手紙のやりとりをなさって、お過ごしになっているのであった。
    541 
     543 世間中が大騒ぎしているご準備なので、式部卿宮のお耳にも入って、
    542 
     544 「長年の間、世間に対しては広大なお心であるが、わたくしどもには理不尽にも冷たくて、何かにつけて辱め、宮人に対してもお心配りがなく、嫌なことばかり多かったのだが、恨めしいと思うことがあったのだろう」
    543 
     545 と、お気の毒にもまたつらくもお思いであったが、このように数多くの女性関係の中で、特別のご寵愛があって、まことに奥ゆかしく結構な方として、大切にされていらっしゃるご運命を、自分の家までは及んで来ないが、名誉にお思いになると、また、
    544 
     546 「このように世間の評判となるまで、大騒ぎしてご準備なさるのは、思いがけない晩年の慶事だ」
    545 
     547 と、お喜びになるのを、北の方は、「おもしろくなく、不愉快だ」とばかりお思いであった。王女御の、ご入内の折などにも、大臣のご配慮がなかったようなのを、ますます恨めしいと思い込んでいらっしゃるのであろう。
    546 
     548

    547 
     549 [第四段 秋八月に六条院完成]
    548 
     550 八月に、六条院が完成してお引っ越しなさる。未申の町は中宮の御旧邸なので、そのままお住まいになる予定である。辰巳は、殿のいらっしゃる予定の区画である。丑寅は、東の院にいらっしゃる対の御方、戌亥の区画は、明石の御方とお考えになって造営なさった。もとからあった池や山を、不都合な所にあるものは造り変えて、水の情緒や、山の風情を改めて、いろいろと、それぞれの御方々のご希望どおりにお造りになった。
    549 
     551 東南の町は、山を高く築き、春の花の木を、無数に植えて、池の様子も趣深く優れていて、お庭先の前栽には、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などといった、春の楽しみをことさらには植えないで、秋の前栽を、ひとむらずつ混ぜてあった。
    550 
     552 中宮の御町は、もとからある山に、紅葉の色の濃い植木を幾本も植えて、泉の水を清らかに遠くまで流して、遣水の音がきわだつように岩を立て加え、滝を落として、秋の野を広々と作ってあるが、折柄ちょうどその季節で、盛んに咲き乱れていた。嵯峨の大堰あたりの野山も、見るかげもなく圧倒された今年の秋である。
    551 
     553 北東の町は、涼しそうな泉があって、夏の木蔭を主としていた。庭先の前栽には、呉竹があり、下風が涼しく吹くようにし、木高い森のような木は奥深く趣があって、山里めいて、卯花の垣根を特別に造りめぐらして、昔を思い出させる花橘、撫子、薔薇、くたになどといった花や、草々を植えて、春秋の木や草を、その中に混ぜていた。東面は、割いて馬場殿を造って、埒を結って、五月の御遊の場所として、水のほとりに菖蒲を植え茂らせて、その向かい側に御厩舎を造って、またとない素晴らしい馬を何頭も繋がせていらっしゃった。
    552 
     554 西北の町は、北面は築地で区切って、御倉町である。隔ての垣として松の木をたくさん植えて、雪を鑑賞するのに都合よくしてある。冬の初めの朝、霜が結ぶように菊の籬、得意げに紅葉する柞の原、ほとんど名も知らない深山木などの、木深く茂っているのを移植してあった。
    553 
     555

    554 
     556 [第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる]
    555 
     557 彼岸のころにお引っ越しになる。一度にとお決めあそばしたが、仰々しいようだといって、中宮は少しお延ばしになる。いつものようにおとなしく気取らない花散里は、その夜、一緒にお引っ越しなさる。
    556 
     558 春のお庭は、今の秋の季節には合わないが、とても見事である。お車十五台、御前駆は四位五位の人々が多く、六位の殿上人などは、特別な人だけをお選びあそばしていた。仰々しくはなく、世間の非難があってはと簡略になさっていたので、どのような点につけても大仰に威勢を張ることはない。
    557 
     559 もうお一方のご様子も、大して劣らないようになさって、侍従の君が付き添って、そちらはお世話なさっているので、なるほどこういうこともあるのであったと見受けられた。
    558 
     560 女房たちの曹司町も、それぞれに細かく当ててあったのが、他の何よりも素晴らしく思われるのであった。
    559 
     561 五、六日過ぎて、中宮が御退出あそばす。その御様子はそれは、簡略とはいっても、まことに大層なものである。御幸運の素晴らしいことは申すまでもなく、お人柄が奥ゆかしく重々しくいらっしゃるので、世間から重んじられていらっしゃることは、格別でおいであそばした。
    560 
     562 この町々の間の仕切りには、塀や廊などを、あちらとこちらとが行き来できるように作って、お互いに親しく風雅な間柄にお造りになってあった。
    561 
     563

    562 
     564 [第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答]
    563 
     565 九月になると、紅葉があちこちに色づいて、中宮のお庭先は何ともいえないほど素晴らしい。風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に、色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちらに差し上げになさった。
    564 
     566 大柄な童女が、濃い紫の袙に、紫苑の織物を重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、とてももの馴れた感じで、廊や、渡殿の反橋を渡って参上する。格式高い礼儀作法であるが、童女の容姿の美しいのを捨てがたくてお選びになったのであった。そのようなお所に伺候し馴れていたので、立居振舞、姿つき、他家の童女とは違って、好感がもてて風情がある。お手紙には、
    565 
     567 「お好みで春をお待ちのお庭では、せめてわたしの方の
    566 
     568  紅葉を風のたよりにでも御覧あそばせ」
    567 
     569 若い女房たちが、お使いを歓待する様子は風雅である。
    568 
     570 お返事には、この御箱の蓋に苔を敷き、巌などの感じを出して、五葉の松の枝に、
    569 
     571 「風に散ってしまう紅葉は心軽いものです、春の変わらない色を
    570 
     572  この岩にどっしりと根をはった松の常磐の緑を御覧になってほしいものです」
    571 
     573 この岩根の松も、よく見ると、素晴らしい造り物なのであった。このようにとっさに思いつきなさった趣向のよさを、感心して御覧あそばす。御前に伺候している女房たちも褒め合っていた。大臣は、
    572 
     574 「この紅葉のお手紙は、何とも憎らしいですね。春の花盛りに、このお返事は差し上げなさい。この季節に紅葉を貶すのは、龍田姫がどう思うかということもあるので、ここは一歩退いて、花を楯にとって、強いことも言ったらよいでしょう」
    573 
     575 と申し上げなさるのも、とても若々しくどこまでも素晴らしいお姿で魅力にあふれていらっしゃる上に、いっそう理想的なお邸で、お手紙のやりとりをなさる。
    574 
     576 大堰の御方は、「このように御方々のお引っ越しが終わってから、人数にも入らない者は、いつか分からないようにこっそりと移ろう」とお考えになって、神無月にお引っ越しになるのであった。お部屋の飾りや、お引っ越しの次第は他の方々に劣らないようにして、お移し申し上げなさる。姫君のご将来をお考えになると、万事についての作法も、ひどく差をつけず、たいそう重々しくお扱いなさった。
    575 
     577

    576 
     578源氏物語の世界ヘ
    577 
     579本文
    578 
     580ローマ字版
    579 
     581注釈
    580 
     582大島本
    581 
     583自筆本奥入
    582 
     584583 
     585
    584 
     586585 
     587586