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 3横笛(大島本)3 
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Last updated 9/4/2003
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 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3)7 
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 9  

横笛

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 11光る源氏の准太上天皇時代四十九歳春から秋までの物語
11 
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 13 [主要登場人物]
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14 
 15
 光る源氏<ひかるげんじ>
15 
 16
呼称---六条の院・院・大殿・大殿の君、四十九歳
16 
 17
 朱雀院<すざくいん>
17 
 18
呼称---院・山の帝、源氏の兄
18 
 19
 女三の宮<おんなさんのみや>
19 
 20
呼称---入道宮・母宮・宮・君、源氏の正妻
20 
 21
 薫<かおる>
21 
 22
呼称---宮の若君・若君・君、柏木と女三宮の密通の子
22 
 23
 匂宮<におうのみや>
23 
 24
呼称---三宮、今上帝の第三親王、明石女御の子
24 
 25
 二宮<にのみや>
25 
 26
呼称---二宮、今上帝の第二親王、明石女御の子
26 
 27
 夕霧<ゆうぎり>
27 
 28
呼称---大将の君・大将・男君・君、光る源氏の長男
28 
 29
 雲居雁<くもいのかり>
29 
 30
呼称---上、夕霧の北の方
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 31
 致仕の大臣<ちじのおとど>
31 
 32
呼称---父大臣・大臣、柏木の父
32 
 33
 四の君<しのきみ>
33 
 34
呼称---上、柏木の母
34 
 35
 落葉宮<おちばのみや>
35 
 36
呼称---二の宮・一条の宮・宮、朱雀院の第二内親王
36 
 37
 一条御息所<いちじょうのみやすんどころ>
37 
 38
呼称---御息所、落葉宮の母
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 40

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 41第一章 光る源氏の物語 薫の成長
41 
 42
42 
 43
  • 柏木一周忌の法要---故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲しさを
  • 43 
     44
  • 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る---山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにて
  • 44 
     45
  • 若君、竹の子を噛る---若君は、乳母のもとに寝たまへりける
  • 45 
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     47第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
    47 
     48
    48 
     49
  • 夕霧、一条宮邸を訪問---大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を
  • 49 
     50
  • 柏木遺愛の琴を弾く---和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて
  • 50 
     51
  • 夕霧、想夫恋を弾く---月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも
  • 51 
     52
  • 御息所、夕霧に横笛を贈る---「今宵の御好きには、人許しきこえつべく
  • 52 
     53
  • 帰宅して、故人を想う---殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて
  • 53 
     54
  • 夢に柏木現れ出る---すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督
  • 54 
     5555 
     56第三章 夕霧の物語 匂宮と薫
    56 
     57
    57 
     58
  • 夕霧、六条院を訪問---大将の君も、夢思し出づるに、「この笛の
  • 58 
     59
  • 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う---こなたにも、二の宮の、若君とひとつに
  • 59 
     60
  • 夕霧、薫をしみじみと見る---大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して
  • 60 
     61
  • 夕霧、源氏と対話す---対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など
  • 61 
     62
  • 笛を源氏に預ける---「その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり
  • 62 
     6363 
     64

    64 
     65【出典】
    65 
     66【校訂】
    66 
     67

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     68 

    第一章 光る源氏の物語 薫の成長

    68 
     69 [第一段 柏木一周忌の法要]
    69 
     70 故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲しさを、飽かず口惜しきものに、恋ひしのびたまふ人多かり。六条の院にも、おほかたにつけてだに、世にめやすき人の亡くなるをば、惜しみたまふ御心に、まして、これは、朝夕に親しく参り馴れつつ、人よりも御心とどめ思したりしかば、いかにぞやと、思し出づることはありながら、あはれは多く、折々につけてしのびたまふ。
    70 
     71 御果てにも、誦経など、取り分きせさせたまふ。よろづも知らず顔にいはけなき御ありさまを見たまふにも、さすがにいみじくあはれなれば、御心のうちに、また心ざしたまうて、黄金百両をなむ別にせさせたまひける。大臣は、心も知らでぞかしこまり喜びきこえさせたまふ。
    71 
     72 大将の君も、ことども多くしたまひ、とりもちてねむごろに営みたまふ。かの一条の宮をも、このほどの御心ざし深く訪らひきこえたまふ。兄弟の君たちよりもまさりたる御心のほどを、いとかくは思ひきこえざりきと、大臣、上も、喜びきこえたまふ。亡き後にも、世のおぼえ重くものしたまひけるほどの見ゆるに、いみじうあたらしうのみ、思し焦がるること、尽きせず。
    72 
     73

    73 
     74 [第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る]
    74 
     75 山の帝は、二の宮も、かく人笑はれなるやうにて眺めたまふなり、入道の宮も、この世の人めかしきかたは、かけ離れたまひぬれば、さまざまに飽かず思さるれど、すべてこの世を思し悩まじ、と忍びたまふ。御行なひのほどにも、「同じ道をこそは勤めたまふらめ」など思しやりて、かかるさまになりたまて後は、はかなきことにつけても、絶えず聞こえたまふ。
    75 
     76 御寺のかたはら近き林に抜き出でたる筍、そのわたりの山に掘れる野老などの、山里につけてはあはれなれば、たてまつれたまふとて、御文こまやかなる端に、
    76 
     77 「春の野山、霞もたどたどしけれど、心ざし深く堀り出でさせてはべるしるしばかりになむ。
    77 
     78  世を別れ入りなむ道はおくるとも
    78 
     79  同じところを君も尋ねよ
    79 
     80 いと難きわざになむある」
    80 
     81 と聞こえたまへるを、涙ぐみて見たまふほどに、大殿の君渡りたまへり。例ならず、御前近き櫑子どもを、「なぞ、あやし」と御覧ずるに、院の御文なりけり。見たまへば、いとあはれなり。
    81 
     82 「今日か、明日かの心地するを、対面の心にかなはぬこと」
    82 
     83 など、こまやかに書かせたまへり。この「同じところ」の御ともなひを、ことにをかしき節もなき。聖言葉なれど、「げに、さぞ思すらむかし。我さへおろかなるさまに見えたてまつりて、いとどうしろめたき御思ひの添ふべかめるを、いといとほし」と思す。
    83 
     84 御返りつつましげに書きたまひて、御使には、青鈍の綾一襲賜ふ。書き変へたまへりける紙の、御几帳の側よりほの見ゆるを、取りて見たまへば、御手はいとはかなげにて、
    84 
     85 「憂き世にはあらぬところのゆかしくて
    85 
     86  背く山路に思ひこそ入れ」
    86 
     87 「うしろめたげなる御けしきなるに、このあらぬ所求めたまへる、いとうたて、心憂し」
    87 
     88 と聞こえたまふ。
    88 
     89 今は、まほにも見えたてまつりたまはず、いとうつくしうらうたげなる御額髪、面つきのをかしさ、ただ稚児のやうに見えたまひて、いみじうらうたきを見たてまつりたまふにつけては、「など、かうはなりにしことぞ」と、罪得ぬべく思さるれば、御几帳ばかり隔てて、またいとこよなう気遠く、疎々しうはあらぬほどに、もてなしきこえてぞおはしける。
    89 
     90

    90 
     91 [第三段 若君、竹の子を噛る]
    91 
     92 若君は、乳母のもとに寝たまへりける、起きて這ひ出でたまひて、御袖を引きまつはれたてまつりたまふさま、いとうつくし。
    92 
     93 白き羅に、唐の小紋の紅梅の御衣の裾、いと長くしどけなげに引きやられて、御身はいとあらはにて、うしろの限りに着なしたまへるさまは、例のことなれど、いとらうたげに白くそびやかに、柳を削りて作りたらむやうなり。
    93 
     94 頭は露草してことさらに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみのびらかに、恥づかしう薫りたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、
    94 
     95 「かれは、いとかやうに際離れたるきよらはなかりしものを、いかでかからむ。宮にも似たてまつらず、今より気高くものものしう、さま異に見えたまへるけしきなどは、わが御鏡の影にも似げなからず」見なされたまふ。
    95 
     96 わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
    96 
     97 「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
    97 
     98 とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
    98 
     99 「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
    99 
     100 あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは。花の盛りは、ありなめど」
    100 
     101 と、うちまもりきこえたまふ。
    101 
     102 「うたて、ゆゆしき御ことにも」
    102 
     103 と、人びとは聞こゆ。
    103 
     104 御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
    104 
     105 「いとねぢけたる色好みかな」とて、
    105 
     106 「憂き節も忘れずながら呉竹の
    106 
     107  こは捨て難きものにぞありける」
    107 
     108 と、率て放ちて、のたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう、這ひ下り騷ぎたまふ。
    108 
     109 月日に添へて、この君のうつくしうゆゆしきまで生ひまさりたまふに、まことに、この憂き節、皆思し忘れぬべし。
    109 
     110 「この人の出でものしたまふべき契りにて、さる思ひの外の事もあるにこそはありけめ。逃れ難かなるわざぞかし」
    110 
     111 と、すこしは思し直さる。みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多かり。
    111 
     112 「あまた集へたまへる中にも、この宮こそは、かたほなる思ひまじらず、人の御ありさまも、思ふに飽かぬところなくてものしたまふべきを、かく思はざりしさまにて見たてまつること」
    112 
     113 と思すにつけてなむ、過ぎにし罪許し難く、なほ口惜しかりける。
    113 
     114

    114 
     115 

    第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛

    115 
     116 [第一段 夕霧、一条宮邸を訪問]
    116 
     117 大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに思ひ出でつつ、「いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、御けしきもゆかしきを、ほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、「いかならむついでに、この事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも聞こしめさむ」と、思ひわたりたまふ。
    117 
     118 秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやりきこえたまひて、渡りたまへり。うちとけ、しめやかに、御琴どもなど弾きたまふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつるけはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
    118 
     119 例の、御息所、対面したまひて、昔の物語ども聞こえ交はしたまふ。わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、虫の音しげき野辺と乱れたる夕映えを、見わたしたまふ。
    119 
     120

    120 
     121 [第二段 柏木遺愛の琴を弾く]
    121 
     122 和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。
    122 
     123 「かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」
    123 
     124 など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。
    124 
     125 故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、
    125 
     126 「あはれ、いとめづらかなる音に掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。承りあらはしてしがな」
    126 
     127 とのたまへば、
    127 
     128 「琴の緒絶えにし後より、昔の御童遊びの名残をだに、思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、世の憂きつまにといふやうになむ見たまふる」
    128 
     129 と聞こえたまへば、
    129 
     130 「いとことわりの御思ひなりや。限りだにある」
    130 
     131 と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、
    131 
     132 「かれ、なほさらば、声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める耳をだに、明きらめはべらむ」
    132 
     133 と聞こえたまふを、
    133 
     134 「しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」
    134 
     135 とて、御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。
    135 
     136

    136 
     137 [第三段 夕霧、想夫恋を弾く]
    137 
     138 月さし出でて曇りなき空に、羽うち交はす雁がねも、列を離れぬ、うらやましく聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
    138 
     139 「思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、こと問はせたまふべくや」
    139 
     140 とて、切に簾の内をそそのかしきこえたまへど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、
    140 
     141 「ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
    141 
     142  人に恥ぢたるけしきをぞ見る」
    142 
     143 と聞こえたまふに、ただ末つ方をいささか弾きたまふ。
    143 
     144 「深き夜のあはればかりは聞きわけど
    144 
     145  ことより顔にえやは弾きける」
    145 
     146 飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
    146 
     147 「好き好きしさを、さまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや。弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
    147 
     148 など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。
    148 
     149

    149 
     150 [第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る]
    150 
     151 「今宵の御好きには、人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせたまひて、玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ」
    151 
     152 とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
    152 
     153 「これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、御前駆に競はむ声なむ、よそながらもいぶかしうはべる」
    153 
     154 と聞こえたまへば、
    154 
     155 「似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」
    155 
     156 とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
    156 
     157 「みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
    157 
     158 と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
    158 
     159 「昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
    159 
     160 とて、出でたまふに、
    160 
     161 「露しげきむぐらの宿にいにしへの
    161 
     162  秋に変はらぬ虫の声かな」
    162 
     163 と、聞こえ出だしたまへり。
    163 
     164 「横笛の調べはことに変はらぬを
    164 
     165  むなしくなりし音こそ尽きせね」
    165 
     166 出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。
    166 
     167

    167 
     168 [第五段 帰宅して、故人を想う]
    168 
     169 殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
    169 
     170 「この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」
    170 
     171 など、人の聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにてものしたまふなるべし。
    171 
     172 「妹と我といるさの山の」
    172 
     173 と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
    173 
     174 「こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
    174 
     175 と、うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
    175 
     176 「かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
    176 
     177 など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。
    177 
     178 君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。この笛をうち吹きたまひつつ、
    178 
     179 「いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
    179 
     180 など、思ひやりて臥したまへり。
    180 
     181 「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
    181 
     182 と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
    182 
     183 「見劣りせむことこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならずさぞあるかし」
    183 
     184 など思ふに、わが御仲の、うちけしきばみたる思ひやりもなくて、睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押したちておごりならひたまへるも、ことわりにおぼえたまひけり。
    184 
     185

    185 
     186 [第六段 夢に柏木現れ出る]
    186 
     187 すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに、
    187 
     188 「笛竹に吹き寄る風のことならば
    188 
     189  末の世長きねに伝へなむ
    189 
     190 思ふ方異にはべりき」
    190 
     191 と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。
    191 
     192 この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
    192 
     193 男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
    193 
     194 「悩ましげにこそ見ゆれ。今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり」
    194 
     195 など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
    195 
     196 「あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
    196 
     197 とて、うち見やりたまへるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
    197 
     198 「出でたまひね。見苦し」
    198 
     199 とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。
    199 
     200

    200 
     201 

    第三章 夕霧の物語 匂宮と薫

    201 
     202 [第一段 夕霧、六条院を訪問]
    202 
     203 大将の君も、夢思し出づるに、
    203 
     204 「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ」
    204 
     205 など、思し続けて、愛宕に誦経せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひて、
    205 
     206 「この笛をば、わざと人のさるゆゑ深きものにて、引き出でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし」
    206 
     207 と思ひて、六条の院に参りたまひぬ。
    207 
     208 女御の御方におはしますほどなりけり。三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、こなたにぞまた取り分きておはしまさせたまひける。走り出でたまひて、
    208 
     209 「大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」
    209 
     210 と、みづからかしこまりて、いとしどけなげにのたまへば、うち笑ひて、
    210 
     211 「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡りはべらむ。いと軽々ならむ」
    211 
     212 とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、
    212 
     213 「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ」
    213 
     214 とて、御袖してさし隠したまへば、いとうつくしうて、率てたてまつりたまふ。
    214 
     215

    215 
     216 [第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う]
    216 
     217 こなたにも、二の宮の、若君とひとつに混じりて遊びたまふ、うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりたまふを、二の宮見つけたまひて、
    217 
     218 「まろも大将に抱かれむ」
    218 
     219 とのたまふを、三の宮、
    219 
     220 「あが大将をや」
    220 
     221 とて、控へたまへり。院も御覧じて、
    221 
     222 「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き守りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したまふ」
    222 
     223 と、諌めきこえ扱ひたまふ。大将も笑ひて、
    223 
     224 「二の宮は、こよなく兄心にところさりきこえたまふ御心深くなむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせたまふ」
    224 
     225 など聞こえたまふ。うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり。
    225 
     226 「見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ」
    226 
     227 とて、渡りたまはむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心のうちに思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむと、これも心の癖に、いとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづききこえたまふ。
    227 
     228

    228 
     229 [第三段 夕霧、薫をしみじみと見る]
    229 
     230 大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して、御簾の隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せたてまつりて、招きたまへば、走りおはしたり。
    230 
     231 二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、まじりのとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえたまへり。
    231 
     232 口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「わが目のうちつけなるにやあらむ、大殿はかならず思し寄すらむ」と、いよいよ御けしきゆかし。
    232 
     233 宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見えたまふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べたてまつりつつ、
    233 
     234 「いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれたまて、
    234 
     235 『子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』
    235 
     236 と、泣き焦がれたまふに、聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ」など思ふも、「いで、いかでさはあるべきことぞ」
    236 
     237 と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあはれにて、睦れ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。
    237 
     238

    238 
     239 [第四段 夕霧、源氏と対話す]
    239 
     240 対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞きおはす。あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどしたまふに、
    240 
     241 「かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら、女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ。
    241 
     242 過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を、人に知られぬとならば、同じうは、心きよくて、とかくかかづらひ、ゆかしげなき乱れなからむや、誰がためも心にくく、めやすかるべきことならむとなむ思ふ」
    242 
     243 とのたまへば、「さかし。人の上の御教へばかりは心強げにて、かかる好きはいでや」と、見たてまつりたまふ。
    243 
     244 「何の乱れかはべらむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、心短くはべらむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔にはべらめとてこそ。
    244 
     245 想夫恋は、心とさし過ぎてこと出でたまはむや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。
    245 
     246 何ごとも、人により、ことに従ふわざにこそはべるべかめれ。齢なども、やうやういたう若びたまふべきほどにもものしたまはず、また、あざれがましう、好き好きしきけしきなどに、もの馴れなどもしはべらぬに、うちとけたまふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものしたまひける」
    246 
     247 など聞こえたまふに、いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄りたまひて、かの夢語りを聞こえたまへば、とみにものものたまはで、聞こしめして、思し合はすることもあり。
    247 
     248

    248 
     249 [第五段 笛を源氏に預ける]
    249 
     250 「その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり。かれは陽成院の御笛なり。それを故式部卿宮の、いみじきものにしたまひけるを、かの衛門督は、童よりいと異なる音を吹き出でしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈り物に取らせたまへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたるななり」
    250 
     251 などのたまひて、
    251 
     252 「末の世の伝へ、またいづ方にとかは思ひまがへむ。さやうに思ふなりけむかし」など思して、「この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし」と思す。
    252 
     253 その御けしきを見るに、いとど憚りて、とみにもうち出で聞こえたまはねど、せめて聞かせたてまつらむの心あれば、今しもことのついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてなして、
    253 
     254 「今はとせしほどにも、とぶらひにまかりてはべりしに、亡からむ後のことども言ひ置きはべりし中に、しかしかなむ深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべりしかば、いかなることにかはべりけむ、今にそのゆゑをなむえ思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」
    254 
     255 と、いとたどたどしげに聞こえたまふに、
    255 
     256 「さればよ」
    256 
     257 と思せど、何かは、そのほどの事あらはしのたまふべきならねば、しばしおぼめかしくて、
    257 
     258 「しか、人の恨みとまるばかりのけしきは、何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞こゆべき。夜語らずとか、女房の伝へに言ふなり」
    258 
     259 とのたまひて、をさをさ御いらへもなければ、うち出で聞こえてけるを、いかに思すにかと、つつましく思しけり、とぞ。
    259 
     260

    260 
     261 【出典】
    261 
     262出典1 春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集春下-九七 読人しらず)(戻)
    262 
     263出典2 今さらに何生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや(古今集雑下-九五七 凡河内躬恒)(戻)
    263 
     264出典3 君が植ゑし一村薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな(古今集哀傷-八五三 三春有助)(戻)
    264 
    c1265<A NAME="no4">出典4</A> 呂氏春秋曰、鍾子期善聴中略鍾子期死、伯牙破琴絶絃(蒙求-伯牙絶絃)<A HREF="#te4">(戻)</A><BR>265<A NAME="no4">出典4</A> 呂氏春秋曰、鍾子期善聴 (中略) 鍾子期死、伯牙破琴絶絃(蒙求-伯牙絶絃)<A HREF="#te4">(戻)</A><BR>
     266出典5 浅茅生の小笹が原に置く露ぞ世の憂きつまと思ひ乱るる(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    266 
     267出典6 恋しさの限りだにある世なりせば年経ば物は思はざらまし(古今六帖五-二五七一)(戻)
    267 
     268出典7 如聴仙楽耳暫明(白氏文集-六〇三「琵琶行」)(戻)
    268 
     269出典8 白雲に羽うち交し飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月(古今集秋上-一九一 読人しらず)(戻)
    269 
     270出典9 此時無声勝有声(白氏文集-六〇三「琵琶行」)心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふに勝れる(古今六帖五-二六四八)(戻)
    270 
     271出典10 片糸をこなたかなたに撚りかけて逢はずは何を玉の緒にせむ(古今集恋一-四三八 読人しらず)(戻)
    271 
    c1272<A NAME="no11">出典11</A> 妹いもと我と いるさの山の 山蘭やまあららぎ 手な取り触れそや 顔優るがにや 速く優るがにや(催馬楽-妹と我)<A HREF="#te11">(戻)</A><BR>272<A NAME="no11">出典11</A> <ruby><rb><rp>(<rt>いも<rp>)</ruby>と我と いるさの山の <ruby><rb>山蘭<rp>(<rt>やまあららぎ<rp>)</ruby> 手な取り触れそや 顔優るがにや <ruby><rb><rp>(<rt><rp>)</ruby>く優るがにや(催馬楽-妹と我)<A HREF="#te11">(戻)</A><BR>
     273出典12 かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞ憂き(古今集秋上-一九〇 凡河内躬恒)(戻)
    273 
     274

    274 
     275 【校訂】
    275 
     276備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    276 
     277校訂1 いかにぞやと--*いかにそや(戻)
    277 
     278校訂2 折々に--おり/\(/\/+に<朱>)(戻)
    278 
     279校訂3 一襲--(/+一)かさね(戻)
    279 
     280校訂4 不便--ふむ(む/$<朱>)ひん(戻)
    280 
     281校訂5 誰が--たる(る/$か<朱>)(戻)
    281 
     282校訂6 と--*ナシ(戻)
    282 
     283校訂7 事の--こと(と/+の<朱>)(戻)
    283 
     284校訂8 語り--かたる(る/$り)(戻)
    284 
     285校訂9 いるさの山の--(山/+の)(戻)
    285 
     286校訂10 あるかし--あるは(は/$か<朱>)し(戻)
    286 
     287校訂11 来たる--きた(た/+る)(戻)
    287 
     288校訂12 のうちに思せど、なかなかその御心--(/+のうちにおほせと中/\その御心<朱>)(戻)
    288 
     289校訂13 心--*ところ(戻)
    289 
     290校訂14 なども--(/+な)とも(戻)
    290 
     291校訂15 もてなして--もてなし△(△/#て)(戻)
    291 
     292校訂16 とか--と(と/+か<朱>)(戻)
    292 
     293

    293 
     294源氏物語の世界ヘ
    294 
     295ローマ字版
    295 
     296現代語訳
    296 
     297注釈
    297 
     298大島本
    298 
     299自筆本奥入
    299 
     300300 
     301
    301 
     302302 
     303303