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 3夕顔(大島本)3 
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 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-3-1)7 
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夕 顔

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 11光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語
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 13 [主要登場人物]
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 光る源氏<ひかるげんじ>
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呼称---君・帝の御子、十七歳 参議兼近衛中将
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 夕顔<ゆうがお>
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 18
呼称---女・常夏・女君、故三位中将の娘、頭中将の愛人
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 19
 六条御息所<ろくじょうのみやすんどころ>
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呼称---六条わたり・女、故東宮の妃、源氏の愛人
20 
 21
 空蝉<うつせみ>
21 
 22
呼称---北の方・女房、故中納言兼衛門督の娘、伊予介の後妻
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 23
 軒端荻<のきばのおぎ>
23 
 24
呼称---片つ方人・娘、伊予介の娘、紀伊守の兄妹
24 
 25
 頭中将<とうのちゅうじょう>
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呼称---頭中将・中将殿・君・中将・頭の君大夫、左大臣の嫡男、源氏の妻葵の上の兄 蔵人頭兼近衛中将
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 惟光<これみつ>
27 
 28
呼称---惟光・大夫、大弐乳母の子、源氏の乳兄弟
28 
 29
 伊予介<いよのすけ>
29 
 30
呼称---伊予介・伊予、空蝉の夫
30 
 31
 右近<うこん>
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呼称---右近・右近の君・女、夕顔の乳母の子
32 
 3333 
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 35第一章 夕顔の物語 夏の物語
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36 
 37
  • 源氏、五条の大弐乳母を見舞う---六条わたりの御忍び歩きのころ
  • 37 
     38
  • 数日後、夕顔の宿の報告---惟光、日頃ありて参れり
  • 38 
     3939 
     40第二章 空蝉の物語
    40 
     41 空蝉の夫、伊予国から上京す---さて、かの空蝉のあさましくつれなきを41 
     42

    42 
     43第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
    43 
     44 霧深き朝帰りの物語---秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに44 
     45

    45 
     46第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
    46 
     47
    47 
     48
  • 源氏、夕顔の宿に忍び通う---まことや、かの惟光が預かりのかいま見は
  • 48 
     49
  • 八月十五夜の逢瀬---君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば
  • 49 
     50
  • なにがしの院に移る---いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを
  • 50 
     51
  • 夜半、もののけ現われる---宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに
  • 51 
     52
  • 源氏、二条院に帰る---からうして、惟光朝臣参れり
  • 52 
     53
  • 十七日夜、夕顔の葬送---日暮れて、惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて
  • 53 
     54
  • 忌み明ける---九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて
  • 54 
     5555 
     56第五章 空蝉の物語(2)
    56 
     57 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答---かの、伊予の家の小君、参る折あれど57 
     58

    58 
     59第六章 夕顔の物語(3)
    59 
     60 四十九日忌の法要---かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて60 
     61

    61 
     62第七章 空蝉の物語(3)
    62 
     63 空蝉、伊予国に下る---伊予介、神無月の朔日ごろに下る
    63 
     64

    64 
     65【出典】
    65 
     66【校訂】
    66 
     67

    67 
     68 

    第一章 夕顔の物語 夏の物語

    68 
     69 [第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う]
    69 
     70

    70 
     71 六条わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五条なる家尋ねておはしたり。
    71 
     72

    72 
     73 御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。
    73 
     74

    74 
     75 御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせたまはず、誰れとか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何処かさして」と思ほしなせば、玉の台も同じことなり。
    75 
     76

    76 
     77 切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
    77 
     78

    78 
     79 「遠方人にもの申す」
    79 
     80

    80 
     81 と独りごちたまふを、御隋身ついゐて、
    81 
     82

    82 
     83 「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」
    83 
     84

    84 
     85 と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、
    85 
     86

    86 
     87 「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」
    87 
     88

    88 
     89 とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
    89 
     90 さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、
    90 
     91

    91 
     92 「これに置きて参らせよ。枝も情けなげなめる花を」
    92 
     93

    93 
     94 とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で来たるして、奉らす。
    94 
     95

    95 
     96 「鍵を置きまどはしはべりて、いと不便なるわざなりや。もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど、らうがはしき大路に立ちおはしまして」とかしこまり申す。
    96 
     97

    97 
     98 引き入れて、下りたまふ。惟光が兄の阿闍梨、婿の三河守、娘など、渡り集ひたるほどに、かくおはしましたる喜びを、またなきことにかしこまる。
    98 
     99

    99 
     100 尼君も起き上がりて、
    100 
     101

    101 
     102 「惜しげなき身なれど、捨てがたく思うたまへつることは、ただ、かく御前にさぶらひ、御覧ぜらるることの変りはべりなむことを口惜しく思ひたまへ、たゆたひしかど、忌むことのしるしによみがへりてなむ、かく渡りおはしますを、見たまへはべりぬれば、今なむ阿弥陀仏の御光も、心清く待たれはべるべき」
    102 
     103

    103 
     104 など聞こえて、弱げに泣く。
    104 
     105

    105 
     106 「日ごろ、おこたりがたくものせらるるを、安からず嘆きわたりつるに、かく、世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれに口惜しうなむ。命長くて、なほ位高くなど見なしたまへ。さてこそ、九品の上にも、障りなく生まれたまはめ。この世にすこし恨み残るは、悪ろきわざとなむ聞く」など、涙ぐみてのたまふ。
    106 
     107

    107 
     108 かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人は、あさましうまほに見なすものを、まして、いと面立たしう、なづさひ仕うまつりけむ身も、いたはしうかたじけなく思ほゆべかめれば、すずろに涙がちなり。
    108 
     109

    109 
     110 子どもは、いと見苦しと思ひて、「背きぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたまふ」と、つきしろひ目くはす。
    110 
     111

    111 
     112 君は、いとあはれと思ほして、
    112 
     113

    113 
     114 「いはけなかりけるほどに、思ふべき人びとのうち捨ててものしたまひにけるなごり、育む人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひ睦ぶる筋は、またなくなむ思ほえし。人となりて後は、限りあれば、朝夕にしもえ見たてまつらず、心のままに訪らひ参づることはなけれど、なほ久しう対面せぬ時は、心細くおぼゆるを、『さらぬ別れはなくもがな』」
    114 
     115

    115 
     116 となむ、こまやかに語らひたまひて、おし拭ひたまへる袖のにほひも、いと所狭きまで薫り満ちたるに、げに、よに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと、尼君をもどかしと見つる子ども、皆うちしほたれけり。
    116 
     117

    117 
     118 修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。
    118 
     119

    119 
     120 「心あてにそれかとぞ見る白露の
    120 
     121  光そへたる夕顔の花」
    121 
     122

    122 
     123 そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光に、
    123 
     124

    124 
     125 「この西なる家は何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」
    125 
     126

    126 
     127 とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、えさは申さで、
    127 
     128

    128 
     129 「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」
    129 
     130

    130 
     131 など、はしたなやかに聞こゆれば、
    131 
     132

    132 
     133 「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」
    133 
     134

    134 
     135 とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。
    135 
     136

    136 
     137 「揚名介なる人の家になむはべりける。男は田舎にまかりて、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて来通ふ、と申す。詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。
    137 
     138

    138 
     139 「さらば、その宮仕人ななり。したり顔にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、
    139 
     140

    140 
     141 「寄りてこそそれかとも見めたそかれに
    141 
     142  ほのぼの見つる花の夕顔」
    142 
     143

    143 
     144 ありつる御随身して遣はす。
    144 
     145

    145 
     146 まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど経ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。
    146 
     147

    147 
     148 御前駆の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は下ろしてけり。隙々より見ゆる灯の光、蛍よりけにほのかにあはれなり。
    148 
     149

    149 
     150 御心ざしの所には、木立前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの、気色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。
    150 
     151

    151 
     152 翌朝、すこし寝過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。
    152 
     153

    153 
     154 今日もこの蔀の前渡りしたまふ。来し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み処ならむ」とは、往き来に御目とまりたまひけり。
    154 
     155

    155 
     156 [第二段 数日後、夕顔の宿の報告]
    156 
     157

    157 
     158 惟光、日頃ありて参れり。
    158 
     159

    159 
     160 「わづらひはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく見たまへあつかひてなむ」
    160 
     161

    161 
     162 など、聞こえて、近く参り寄りて聞こゆ。
    162 
     163

    163 
     164 「仰せられしのちなむ、隣のこと知りてはべる者、呼びて問はせはべりしかど、はかばかしくも申しはべらず。『いと忍びて、五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに知らせず』となむ申す。
    164 
     165 時々、中垣のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影見えはべり。褶だつもの、かごとばかり引きかけて、かしづく人はべるなめり。
    165 
     166 昨日、夕日のなごりなくさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。もの思へるけはひして、ある人びとも忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
    166 
     167

    167 
     168 と聞こゆ。君うち笑みたまひて、「知らばや」と思ほしたり。
    168 
     169

    169 
     170 おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ふには、好きたまはざらむも、情けなくさうざうしかるべしかし、人のうけひかぬほどにてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、このましうおぼゆるものを、と思ひをり。
    170 
     171

    171 
     172 「もし、見たまへ得ることもやはべると、はかなきついで作り出でて、消息など遣はしたりき。書き馴れたる手して、口とく返り事などしはべりき。いと口惜しうはあらぬ若人どもなむはべるめる」
    172 
     173

    173 
     174 と聞こゆれば、
    174 
     175

    175 
     176 「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。
    176 
     177

    177 
     178 かの、下が下と、人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。
    178 
     179

    179 
     180 

    第二章 空蝉の物語

    180 
     181 [第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す]
    181 
     182

    182 
     183 さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しき過ちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなむを、心にかからぬ折なし。かやうの並々までは思ほしかからざりつるを、ありし「雨夜の品定め」の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。
    183 
     184

    184 
     185 うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、「まづ、こなたの心見果てて」と思すほどに、伊予介上りぬ。
    185 
     186

    186 
     187 まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける。
    187 
     188

    188 
     189 国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることもさまざまなり。
    189 
     190

    190 
     191 「ものまめやかなる大人を、かく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げに、これぞ、なのめならぬ片はなべかりける」と、馬頭の諌め思し出でて、いとほしきに、「つれなき心はねたけれど、人のためは、あはれ」と思しなさる。
    191 
     192

    192 
     193 「娘をばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし」と、聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、「今一度はえあるまじきことにや」と、小君を語らひたまへど、人の心を合せたらむことにてだに、軽らかにえしも紛れたまふまじきを、まして、似げなきことに思ひて、今さらに見苦しかるべし、と思ひ離れたり。
    193 
     194

    194 
     195 さすがに、絶えて思ほし忘れなむことも、いと言ふかひなく、憂かるべきことに思ひて、さるべき折々の御答へなど、なつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに、目とまるべきふし加へなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。
    195 
     196

    196 
     197 いま一方は、主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまへど、御心も動かずぞありける。
    197 
     198

    198 
     199 

    第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語

    199 
     200 [第一段 霧深き朝帰りの物語]
    200 
     201

    201 
     202 秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には、絶え間置きつつ、恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり。
    202 
     203

    203 
     204 六条わたりにも、とけがたかりし御気色をおもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし。されど、よそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなることにかと見えたり。
    204 
     205

    205 
     206 女は、いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。
    206 
     207

    207 
     208 霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色に、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、御几帳引きやりたれば、御頭もたげて見出だしたまへり。
    208 
     209

    209 
     210 前栽の色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。廊の方へおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色の折にあひたる、羅の裳、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。
    210 
     211

    211 
     212 見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばし、ひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくも、と見たまふ。
    212 
     213

    213 
     214 「咲く花に移るてふ名はつつめども
    214 
     215  折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
    215 
     216 いかがすべき」
    216 
     217

    217 
     218 とて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、
    218 
     219

    219 
     220 「朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて
    220 
     221  花に心を止めぬとぞ見る」
    221 
     222

    222 
     223 と、おほやけごとにぞ聞こえなす。
    223 
     224

    224 
     225 をかしげなる侍童の、姿このましう、ことさらめきたる、指貫の裾、露けげに、花の中に混りて、朝顔折りて参るほどなど、絵に描かまほしげなり。
    225 
     226

    226 
     227 大方に、うち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。物の情け知らぬ山がつも、花の蔭には、なほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、我がかなしと思ふ女を、仕うまつらせばやと願ひ、もしは、口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、卑しきにても、なほ、この御あたりにさぶらはせむと、思ひ寄らぬはなかりけり。
    227 
     228

    228 
     229 まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこし物の心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ。明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。
    229 
     230

     

    230 
     231 

    第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語

    231 
     232 [第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う]
    232 
     233

     

    233 
     234 まことや、かの惟光が預かりのかいま見は、いとよく案内見とりて申す。
    234 
     235

     

    235 
     236 「その人とは、さらにえ思ひえはべらず。人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋にわたり来つつ、車の音すれば、若き者どもの覗きなどすべかめるに、この主とおぼしきも、はひわたる時はべかめる。容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。
    236 
     237

     

    237 
     238 一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、覗きて、童女の急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまへ。中将殿こそ、これより渡りたまひぬれ』と言へば、また、よろしき大人出で来て、『あなかま』と、手かくものから、『いかでさは知るぞ、いで、見む』とて、はひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひはべる。急ぎ来るものは、衣の裾を物に引きかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗きの心も冷めぬめりき。『君は、御直衣姿にて、御随身どももありし。なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童をなむ、しるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、
    238 
     239

    239 
     240 「たしかにその車をぞ見まし」
    240 
     241

    241 
     242 とのたまひて、「もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、
    242 
     243

    243 
     244 「私の懸想もいとよくしおきて、案内も残るところなく見たまへおきながら、ただ、我れどちと知らせて、物など言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてなむ、隠れまかり歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが言誤りしつべきも、言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひてつくりはべる」など、語りて笑ふ。
    244 
     245

    245 
     246 「尼君の訪ひにものせむついでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。
    246 
     247

    247 
     248 かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「これこそ、かの人の定め、あなづりし下の品ならめ。その中に、思ひの外にをかしきこともあらば」など、思すなりけり。
    248 
     249

    249 
     250 惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせ初めてけり。このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。
    250 
     251

    251 
     252 女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ちありきたまふは、おろかに思されぬなるべし、と見れば、我が馬をばたてまつりて、御供に走りありく。
    252 
     253

    253 
     254 「懸想人のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくもあるべきかな」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率ておはしける。「もし思ひよる気色もや」とて、隣に中宿をだにしたまはず。
    254 
     255

    255 
     256 女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御在処見せむと尋ぬれど、そこはことなくまどはしつつ、さすがに、あはれに見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、便なく軽々しきことと、思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。
    256 
     257

    257 
     258 かかる筋は、まめ人の乱るる折もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべき振る舞ひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思す。
    258 
     259

    259 
     260 いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣をたてまつり、さまを変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけむものの変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた、手さぐりもしるべきわざなりければ、「誰ればかりにかはあらむ。なほこの好き者のし出でつるわざなめり」と、大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひよらぬさまに、たゆまずあざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女方もあやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。
    260 
     261

    261 
     262 [第二段 八月十五夜の逢瀬]
    262 
     263

    263 
     264 君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、いづこをはかりとか、我も尋ねむ。かりそめの隠れ処と、はた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも、移ろひゆかむ日を、いつとも知らじ」と思すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてむと思されず。
    264 
     265

    265 
     266 人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「なほ誰れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえありて便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など思ほしよる。
    266 
     267

    267 
     268 「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」
    268 
     269

    269 
     270 など、語らひたまへば、
    270 
     271

    271 
     272 「なほ、あやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」
    272 
     273

    273 
     274 と、いと若びて言へば、「げに」と、ほほ笑まれたまひて、
    274 
     275

    275 
     276 「げに、いづれか狐なるらむな。ただはかられたまへかし」
    276 
     277

    277 
     278 と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふに、なほ、かの頭中将の常夏疑はしく、語りし心ざま、まづ思ひ出でられたまへど、「忍ぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出でたまはず。
    278 
     279

    279 
     280 気色ばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ、「かれがれにとだえ置かむ折こそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ」とさへ、思しけり。
    280 
     281

    281 
     282 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、
    282 
     283

    283 
     284 「あはれ、いと寒しや」
    284 
     285

    285 
     286 「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」
    286 
     287

    287 
     288 など、言ひ交はすも聞こゆ。
    288 
     289

    289 
     290 いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。
    290 
     291

    291 
     292 艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂きもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、我がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかかやかむよりは、罪許されてぞ見えける。
    292 
     293

    293 
     294 ごほごほと鳴る神よりもおどろおどろしく、踏み轟かす唐臼の音も枕上とおぼゆる。「あな、耳かしかまし」と、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。
    294 
     295

    295 
     296 白妙の衣うつ砧の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣戸を引き開けて、もろともに見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。
    296 
     297

    297 
     298 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、
    298 
     299

    299 
     300 「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみは、いと苦しかりけり」とのたまへば、
    300 
     301

    301 
     302 「いかでか。にはかならむ」
    302 
     303

    303 
     304 と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。このある人びとも、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。
    304 
     305

    305 
     306 明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」と、聞きたまふ。「南無当来導師」とぞ拝むなる。
    306 
     307

    307 
     308 「かれ、聞きたまへ。この世とのみは思はざりけり」と、あはれがりたまひて、
    308 
     309

    309 
     310 「優婆塞が行ふ道をしるべにて
    310 
     311  来む世も深き契り違ふな」
    311 
     312

    312 
     313 長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼め、いとこちたし。
    313 
     314

    314 
     315 「前の世の契り知らるる身の憂さに
    315 
     316  行く末かねて頼みがたさよ」
    316 
     317

    317 
     318 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。
    318 
     319

    319 
     320 [第三段 なにがしの院に移る]
    320 
     321

    321 
     322 いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。
    322 
     323

    323 
     324 そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
    324 
     325

    325 
     326 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。
    326 
     327

    327 
     328  いにしへもかくやは人の惑ひけむ
    328 
     329  我がまだ知らぬしののめの道
    329 
     330

    330 
     331 慣らひたまへりや」
    331 
     332

    332 
     333 とのたまふ。女、恥ぢらひて、
    333 
     334

    334 
     335 「山の端の心も知らで行く月は
    335 
     336  うはの空にて影や絶えなむ
    336 
     337 心細く」
    337 
     338

    338 
     339 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。
    339 
     340

    340 
     341 御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、艶なる心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。
    341 
     342

    342 
     343 ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、清げにしつらひたり。
    343 
     344

    344 
     345 「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、
    345 
     346

    346 
     347 「ことさらに人来まじき隠れ家求めたるなり。さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。
    347 
     348

    348 
     349 御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、「息長川」と契りたまふことよりほかのことなし。
    349 
     350

    350 
     351 日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の野らにて、池も水草に埋もれたれば、いとけうとげになりにける所かな。別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。
    351 
     352

    352 
     353 「けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。
    353 
     354

    354 
     355 顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、
    355 
     356

    356 
     357 「夕露に紐とく花は玉鉾の
    357 
     358  たよりに見えし縁にこそありけれ
    358 
     359 露の光やいかに」
    359 
     360

    360 
     361 とのたまへば、後目に見おこせて、
    361 
     362

    362 
     363 「光ありと見し夕顔のうは露は
    363 
     364  たそかれ時のそら目なりけり」
    364 
     365

    365 
     366 とほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。
    366 
     367

    367 
     368 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」
    368 
     369

    369 
     370 とのたまへど、「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。
    370 
     371

    371 
     372 「よし、これも我からなめり」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。
    372 
     373

    373 
     374 惟光、尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。「かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、「我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。
    374 
     375

    375 
     376 たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと御かたはらに添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、「名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。
    376 
     377

    377 
     378 「内裏に、いかに求めさせたまふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「あやしの心や。六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ。恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、思ひ比べられたまひける。
    378 
     379

    379 
     380 [第四段 夜半、もののけ現われる]
    380 
     381

    381 
     382 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、
    382 
     383

    383 
     384 「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
    384 
     385

    385 
     386 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
    386 
     387

    387 
     388 物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
    388 
     389

    389 
     390 「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、
    390 
     391

    391 
     392 「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
    392 
     393

    393 
     394 「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。
    394 
     395

    395 
     396 「物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
    396 
     397

    397 
     398 「我、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
    398 
     399

    399 
     400 とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。
    400 
     401

    401 
     402 風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、
    402 
     403

    403 
     404 「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、
    404 
     405

    405 
     406 「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。
    406 
     407

    407 
     408 帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
    408 
     409

    409 
     410 「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。
    410 
     411

    411 
     412 「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。御前にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
    412 
     413

    413 
     414 「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
    414 
     415

    415 
     416 紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
    416 
     417

    417 
     418 「なほ持て参れ」
    418 
     419

    419 
     420 とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえ上らず。
    420 
     421

    421 
     422 「なほ持て来や、所に従ひてこそ」
    422 
     423

    423 
     424 とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
    424 
     425

    425 
     426 「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
    426 
     427

    427 
     428 「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」
    428 
     429

    429 
     430 とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
    430 
     431

    431 
     432 右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
    432 
     433

    433 
     434 南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて、心強く、
    434 
     435

    435 
     436 「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」
    436 
     437

    437 
     438 と諌めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
    438 
     439

    439 
     440 この男を召して、
    440 
     441

    441 
     442 「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言へ、と仰せよ。なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。かかる歩き許さぬ人なり」
    442 
     443

    443 
     444 など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、この人を空しくしなしてむことのいみじく思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。
    444 
     445

    445 
     446 夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、「梟」はこれにやとおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなた、けどほく疎ましきに、人声はせず、「などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。
    446 
     447

    447 
     448 右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。「また、これもいかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。我一人さかしき人にて、思しやる方ぞなきや。
    448 
     449

    449 
     450 火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。「惟光、とく参らなむ」と思す。ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、千夜を過ぐさむ心地したまふ。
    450 
     451

    451 
     452 からうして、鶏の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、かかる目を見るらむ。我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。
    452 
     453

    453 
     454 [第五段 源氏、二条院に帰る]
    454 
     455

    455 
     456 からうして、惟光朝臣参れり。夜中、暁といはず、御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でむことのあへなきに、ふとも物言はれたまはず。右近、大夫のけはひ聞くに、初めよりのこと、うち思ひ出でられて泣くを、君もえ堪へたまはで、我一人さかしがり抱き持たまへりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく、えもとどめず泣きたまふ。
    456 
     457

    457 
     458 ややためらひて、「ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふにもあまりてなむある。かかるとみの事には、誦経などをこそはすなれとて、その事どももせさせむ。願なども立てさせむとて、阿闍梨ものせよ、と言ひつるは」とのたまふに、
    458 
     459

    459 
     460 「昨日、山へまかり上りにけり。まづ、いとめづらかなることにもはべるかな。かねて、例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ」
    460 
     461

    461 
     462 「さることもなかりつ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たてまつる人もいと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。
    462 
     463

    463 
     464 さいへど、年うちねび、世の中のとあることと、しほじみぬる人こそ、もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、
    464 
     465

    465 
     466 「この院守などに聞かせむことは、いと便なかるべし。この人一人こそ睦しくもあらめ、おのづから物言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ。まづ、この院を出でおはしましね」と言ふ。
    466 
     467

    467 
     468 「さて、これより人少ななる所はいかでかあらむ」とのたまふ。
    468 
     469

    469 
     470 「げに、さぞはべらむ。かの故里は、女房などの、悲しびに堪へず、泣き惑ひはべらむに、隣しげく、とがむる里人多くはべらむに、おのづから聞こえはべらむを、山寺こそ、なほかやうのこと、おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」と、思ひまはして、「昔、見たまへし女房の、尼にてはべる東山の辺に、移したてまつらむ。惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の、みづはぐみて住みはべるなり。辺りは、人しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり」
    470 
     471

    471 
     472 と聞こえて、明けはなるるほどの紛れに、御車寄す。
    472 
     473

    473 
     474 この人をえ抱きたまふまじければ、上蓆におしくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかにて、疎ましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲し、と思せば、なり果てむさまを見むと思せど、
    474 
     475

    475 
     476 「はや、御馬にて、二条院へおはしまさむ。人騒がしくなりはべらぬほどに」
    476 
     477

    477 
     478 とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬はたてまつりて、くくり引き上げなどして、かつは、いとあやしく、おぼえぬ送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨てて行くに、君は物もおぼえたまはず、我かのさまにて、おはし着きたり。
    478 
     479

    479 
     480 人びと、「いづこより、おはしますにか。なやましげに見えさせたまふ」など言へど、御帳の内に入りたまひて、胸をおさへて思ふに、いといみじければ、「などて、乗り添ひて行かざりつらむ。生き返りたらむ時、いかなる心地せむ。見捨てて行きあかれにけりと、つらくや思はむ」と、心惑ひのなかにも、思ほすに、御胸せきあぐる心地したまふ。御頭も痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、惑はれたまへば、「かくはかなくて、我もいたづらになりぬるなめり」と思す。
    480 
     481

    481 
     482 日高くなれど、起き上がりたまはねば、人びとあやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。昨日、え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつかながらせたまふ。大殿の君達参りたまへど、頭中将ばかりを、「立ちながら、こなたに入りたまへ」とのたまひて、御簾の内ながらのたまふ。
    482 
     483

    483 
     484 「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重くわづらひはべりしが、頭剃り忌むこと受けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このごろ、またおこりて、弱くなむなりにたる、『今一度、とぶらひ見よ』と申したりしかば、いときなきよりなづさひし者の、今はのきざみに、つらしとや思はむ、と思うたまへてまかれりしに、その家なりける下人の、病しけるが、にはかに出であへで亡くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出ではべりけるを、聞きつけはべりしかば、神事なるころ、いと不便なること、と思うたまへかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、しはぶき病みにやはべらむ、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆること」
    484 
     485

    485 
     486 などのたまふ。中将、
    486 
     487

    487 
     488 「さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。昨夜も、御遊びに、かしこく求めたてまつらせたまひて、御気色悪しくはべりき」と聞こえたまひて、立ち返り、「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。述べやらせたまふことこそ、まことと思うたまへられね」
    488 
     489

    489 
     490 と言ふに、胸つぶれたまひて、
    490 
     491

    491 
     492 「かく、こまかにはあらで、ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、奏したまへ。いとこそたいだいしくはべれ」
    492 
     493

    493 
     494 と、つれなくのたまへど、心のうちには、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地も悩ましければ、人に目も見合せたまはず。蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ。大殿などにも、かかることありて、え参らぬ御消息など聞こえたまふ。
    494 
     495

    495 
     496 [第六段 十七日夜、夕顔の葬送]
    496 
     497

    497 
     498 日暮れて、惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて、参る人びとも、皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、
    498 
     499

    499 
     500 「いかにぞ。今はと見果てつや」
    500 
     501

    501 
     502 とのたまふままに、袖を御顔に押しあてて泣きたまふ。惟光も泣く泣く、
    502 
     503

    503 
     504 「今は限りにこそはものしたまふめれ。長々と籠もりはべらむも便なきを、明日なむ、日よろしくはべれば、とかくの事、いと尊き老僧の、あひ知りてはべるに、言ひ語らひつけはべりぬる」と聞こゆ。
    504 
     505

    505 
     506 「添ひたりつる女はいかに」とのたまへば、
    506 
     507

    507 
     508 「それなむ、また、え生くまじくはべるめる。我も後れじと惑ひはべりて、今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる。『かの故里人に告げやらむ』と申せど、『しばし、思ひしづめよ、と。ことのさま思ひめぐらして』となむ、こしらへおきはべりつる」
    508 
     509

    509 
     510 と、語りきこゆるままに、いといみじと思して、
    510 
     511

    511 
     512 「我も、いと心地悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」とのたまふ。
    512 
     513

    513 
     514 「何か、さらに思ほしものせさせたまふ。さるべきにこそ、よろづのことはべらめ。人にも漏らさじと思うたまふれば、惟光おり立ちて、よろづはものしはべる」など申す。
    514 
     515

    515 
     516 「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。尼君ましてかやうのことなど、諌めらるるを、心恥づかしくなむおぼゆべき」と、口かためたまふ。
    516 
     517

    517 
     518 「さらぬ法師ばらなどにも、皆、言ひなすさま異にはべる」
    518 
     519

    519 
     520 と聞こゆるにぞ、かかりたまへる。
    520 
     521

    521 
     522 ほの聞く女房など、「あやしく、何ごとならむ、穢らひのよしのたまひて、内裏にも参りたまはず、また、かくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。
    522 
     523

    523 
     524 「さらに事なくしなせ」と、そのほどの作法のたまへど、
    524 
     525

    525 
     526 「何か、ことことしくすべきにもはべらず」
    526 
     527

    527 
     528 とて立つが、いと悲しく思さるれば、
    528 
     529

    529 
     530 「便なしと思ふべけれど、今一度、かの亡骸を見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にてものせむ」
    530 
     531

    531 
     532 とのたまふを、いとたいだいしきこととは思へど、
    532 
     533

    533 
     534 「さ思されむは、いかがせむ。はや、おはしまして、夜更けぬ先に帰らせおはしませ」
    534 
     535

    535 
     536 と申せば、このごろの御やつれにまうけたまへる、狩の御装束着替へなどして出でたまふ。
    536 
     537

    537 
     538 御心地かきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、いかにせむと思しわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今の骸を見では、またいつの世にかありし容貌をも見む」と、思し念じて、例の大夫、随身を具して出でたまふ。
    538 
     539

    539 
     540 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。
    540 
     541

    541 
     542 辺りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人泣く声のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。寺々の初夜も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の声尊くて、経うち読みたるに、涙の残りなく思さる。
    542 
     543

    543 
     544 入りたまへれば、火取り背けて、右近は屏風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。手をとらへて、
    544 
     545

    545 
     546 「我に、今一度、声をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと」
    546 
     547

    547 
     548 と、声も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。
    548 
     549

    549 
     550 大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、涙落としけり。
    550 
     551

    551 
     552 右近を、「いざ、二条へ」とのたまへど、
    552 
     553

    553 
     554 「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れたてまつらず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか帰りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騒がれはべらむが、いみじきこと」と言ひて、泣き惑ひて、「煙にたぐひて、慕ひ参りなむ」と言ふ。
    554 
     555

    555 
     556 「道理なれど、さなむ世の中はある。別れと言ふもの、悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を頼め」と、のたまひこしらへて、「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ」
    556 
     557

    557 
     558 とのたまふも、頼もしげなしや。
    558 
     559

    559 
     560 惟光、「夜は、明け方になりはべりぬらむ。はや帰らせたまひなむ」
    560 
     561

    561 
     562 と聞こゆれば、返りみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。
    562 
     563

    563 
     564 道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなく惑ふ心地したまふ。ありしながらうち臥したりつるさま、うち交はしたまへりしが、我が御紅の御衣の着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと道すがら思さる。御馬にも、はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また、惟光添ひ助けておはしまさするに、堤のほどにて、御馬よりすべり下りて、いみじく御心地惑ひければ、
    564 
     565

    565 
     566 「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらに、え行き着くまじき心地なむする」
    566 
     567

    567 
     568 とのたまふに、惟光心地惑ひて、「我がはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でたてまつるべきかは」と思ふに、いと心あわたたしければ、川の水に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく思ひ惑ふ。
    568 
     569

    569 
     570 君も、しひて御心を起こして、心のうちに仏を念じたまひて、また、とかく助けられたまひてなむ、二条院へ帰りたまひける。
    570 
     571

    571 
     572 あやしう夜深き御歩きを、人びと、「見苦しきわざかな。このごろ、例よりも静心なき御忍び歩きの、しきるなかにも、昨日の御気色の、いと悩ましう思したりしに。いかでかく、たどり歩きたまふらむ」と、嘆きあへり。
    572 
     573

    573 
     574 まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
    574 
     575

    575 
     576 苦しき御心地にも、かの右近を召し寄せて、局など近くたまひて、さぶらはせたまふ。惟光、心地も騒ぎ惑へど、思ひのどめて、この人のたづきなしと思ひたるを、もてなし助けつつさぶらはす。
    576 
     577

    577 
     578 君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。服、いと黒くして、容貌などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。
    578 
     579

    579 
     580 「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり。年ごろの頼み失ひて、心細く思ふらむ慰めにも、もしながらへば、よろづに育まむとこそ思ひしか、ほどなくまたたち添ひぬべきが、口惜しくもあるべきかな」
    580 
     581

    581 
     582 と、忍びやかにのたまひて、弱げに泣きたまへば、言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と思ひきこゆ。
    582 
     583

    583 
     584 殿のうちの人、足を空にて思ひ惑ふ。内裏より、御使、雨の脚よりもけにしげし。思し嘆きおはしますを聞きたまふに、いとかたじけなくて、せめて強く思しなる。大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづらひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
    584 
     585

    585 
     586 穢らひ忌みたまひしも、一つに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせたまふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。大殿、我が御車にて迎へたてまつりたまひて、御物忌なにやと、むつかしう慎ませたてまつりたまふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。
    586 
     587

    587 
     588 [第七段 忌み明ける]
    588 
     589

    589 
     590 九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。
    590 
     591

    591 
     592 右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、
    592 
     593

    593 
     594 「なほ、いとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠いたまへりしぞ。まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、
    594 
     595

    595 
     596 「などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞こえたまひながら、『なほざりにこそ紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに思したりし」と聞こゆれば、
    596 
     597

    597 
     598 「あいなかりける心比べどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。またうち返し、つらうおぼゆる。かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。なほ詳しく語れ。今は、何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、
    598 
     599

    599 
     600 「何か、隔てきこえさせはべらむ。自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。
    600 
     601

    601 
     602 親たちは、はや亡せたまひにき。三位中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし。それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、山里に移ろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、思し嘆くめりし。世の人に似ず、ものづつみをしたまひて人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりしか」
    602 
     603

    603 
     604 と、語り出づるに、「さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
    604 
     605

    605 
     606 「幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。
    606 
     607

    607 
     608 「しか。一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。
    608 
     609

    609 
     610 「さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじきを。そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。
    610 
     611

    611 
     612 「さらば、いとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこに」など聞こゆ。
    612 
     613

    613 
     614 夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしき交じらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、面影にらうたく思し出でらるれば、
    614 
     615

    615 
     616 「年はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。
    616 
     617

    617 
     618 「十九にやなりたまひけむ。右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば、いかでか世にはべらむずらむ。いとしも人にと、悔しくなむ。ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。
    618 
     619

    619 
     620 「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、
    620 
     621

    621 
     622 「この方の御好みには、もて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。
    622 
     623

    623 
     624 空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、
    624 
     625

    625 
     626 「見し人の煙を雲と眺むれば
    626 
     627  夕べの空もむつましきかな」
    627 
     628

    628 
     629 と独りごちたまへど、えさし答へも聞こえず。かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。耳かしかましかりし砧の音を、思し出づるさへ恋しくて、「正に長き夜」とうち誦じて、臥したまへり。
    629 
     630

    630 
     631 

    第五章 空蝉の物語(2)

    631 
     632 [第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答]
    632 
     633

    633 
     634 かの、伊予の家の小君、参る折あれど、ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば、憂しと思し果てにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなどするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかと、試みに、
    634 
     635

    635 
     636 「承り、悩むを、言に出でては、えこそ、
    636 
     637

    637 
     638 問はぬをもなどかと問はでほどふるに
    638 
     639 いかばかりかは思ひ乱るる
    639 
     640 『益田』はまことになむ」
    640 
     641

    641 
     642 と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず。
    642 
     643

    643 
     644 「生けるかひなきや、誰が言はましことにか。
    644 
     645

    645 
     646 空蝉の世は憂きものと知りにしを
    646 
     647 また言の葉にかかる命よ
    647 
     648 はかなしや」
    648 
     649

    649 
     650 と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。なほ、かのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。
    650 
     651

    651 
     652 かやうに憎からずは、聞こえ交はせど、け近くとは思ひよらず、さすがに、言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなむ、と思ふなりけり。
    652 
     653

    653 
     654 かの片つ方は、蔵人少将をなむ通はす、と聞きたまふ。「あやしや。いかに思ふらむ」と、少将の心のうちもいとほしく、また、かの人の気色もゆかしければ、小君して、「死に返り思ふ心は、知りたまへりや」と言ひ遣はす。
    654 
     655

    655 
     656 「ほのかにも軒端の荻を結ばずは
    656 
     657  露のかことを何にかけまし」
    657 
     658

    658 
     659 高やかなる荻に付けて、「忍びて」とのたまへれど、「取り過ちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば、さりとも、罪ゆるしてむ」と思ふ、御心おごりぞ、あいなかりける。
    659 
     660

    660 
     661 少将のなき折に見すれば、心憂しと思へど、かく思し出でたるも、さすがにて、御返り、口ときばかりをかことにて取らす。
    661 
     662

    662 
     663 「ほのめかす風につけても下荻の
    663 
     664  半ばは霜にむすぼほれつつ」
    664 
     665

    665 
    c1666 手は悪しげなるを、紛らはしさればみて書いたるさま、品なし。火影に見し顔、思し出でらる。「うちとけで向ひゐたる人は、え疎み果つまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」と思し出づるに、憎からず。なほ<A HREF="#no18">「こりずまに、またもあだ名立ちぬべき」</A><A NAME="te18">御心の</A>すさびなめり。<BP>666 手は悪しげなるを、紛らはしさればみて書いたるさま、品なし。火影に見し顔、思し出でらる。「うちとけで向ひゐたる人は、え疎み果つまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」と思し出づるに、憎からず。なほ<A HREF="#no18">「こりずまに、またもあだ名立ちぬべき」</A><A NAME="te18">御心の</A>すさびなめり。<BR>
     667

    667 
     668 

    第六章 夕顔の物語(3)

    668 
     669 [第一段 四十九日忌の法要]
    669 
     670

    670 
     671 かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。経、仏の飾りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。
    671 
     672

    672 
     673 御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。その人となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆるよし、あはれげに書き出でたまへれば、
    673 
     674

    674 
     675 「ただかくながら、加ふべきことはべらざめり」と申す。
    675 
     676

    676 
     677 忍びたまへど、御涙もこぼれて、いみじく思したれば、
    677 
     678

    678 
     679 「何人ならむ。その人と聞こえもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」
    679 
     680

    680 
     681 と言ひけり。忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴を取り寄せさせたまひて、
    681 
     682

    682 
     683 「泣く泣くも今日は我が結ふ下紐を
    683 
     684  いづれの世にかとけて見るべき」
    684 
     685

    685 
     686 「このほどまでは漂ふなるを、いづれの道に定まりて赴くらむ」と思ほしやりつつ、念誦をいとあはれにしたまふ。頭中将を見たまふにも、あいなく胸騒ぎて、かの撫子の生ひ立つありさま、聞かせまほしけれど、かことに怖ぢて、うち出でたまはず。
    686 
     687

    687 
     688 かの夕顔の宿りには、いづ方にと思ひ惑へど、そのままにえ尋ねきこえず。右近だに訪れねば、あやしと思ひ嘆きあへり。確かならねど、けはひをさばかりにやと、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと好き歩きければ、いとど夢の心地して、「もし、受領の子どもの好き好きしきが、頭の君に怖ぢきこえて、やがて、率て下りにけるにや」とぞ、思ひ寄りける。
    688 
     689

    689 
     690 この家主人ぞ、西の京の乳母の女なりける。三人その子はありて、右近は他人なりければ、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と、泣き恋ひけり。右近はた、かしかましく言ひ騒がむを思ひて、君も今さらに漏らさじと忍びたまへば、若君の上をだにえ聞かず、あさましく行方なくて過ぎゆく。
    690 
     691

    691 
     692 君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、またの夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。
    692 
     693

    693 
     694 

    第七章 空蝉の物語(3)

    694 
     695 [第一段 空蝉、伊予国に下る]
    695 
     696

    696 
     697 伊予介、神無月の朔日ごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心ことにせさせたまふ。また、内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿も遣はす。
    697 
     698

    698 
     699 「逢ふまでの形見ばかりと見しほどに
    699 
     700  ひたすら袖の朽ちにけるかな」
    700 
     701

    701 
     702 こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。
    702 
     703

    703 
     704 御使、帰りにけれど、小君して、小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。
    704 
     705

    705 
     706 「蝉の羽もたちかへてける夏衣
    706 
     707  かへすを見てもねは泣かれけり」
    707 
     708

    708 
     709 「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続けたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるも、しるく、うちしぐれて、空の気色いとあはれなり。眺め暮らしたまひて、
    709 
     710

    710 
     711 「過ぎにしも今日別るるも二道に
    711 
     712  行く方知らぬ秋の暮かな」
    712 
     713

    713 
     714 なほ、かく人知れぬことは苦しかりけりと、思し知りぬらむかし。かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、みな漏らしとどめたるを、「など、帝の御子ならむからに、見む人さへ、かたほならずものほめがちなる」と、作りごとめきてとりなす人ものしたまひければなむ。あまりもの言ひさがなき罪、さりどころなく。
    714 
     715

    715 
     716 【出典】
    716 
     717出典1 世の中はいづれかさして我がならむ行きとまるをぞ宿と定むる(古今集雑下-九八七 読人しらず)(戻)
    717 
     718出典2 何せむに玉の台も八重葎はへらむ宿に二人こそ寝む(古今六帖六-三八七四)(戻)
    718 
     719出典3 うち渡す遠方人に物申す我そのそこに白く咲けるは何の花ぞも(古今集旋頭歌-一〇〇七 読人しらず)(戻)
    719 
     720出典4 筑波嶺のこのもかのもに影はあれど君が御影に増す影はなし(古今集東歌-一〇九五 常陸歌)(戻)
    720 
    c2-1721-722<A NAME="no5">出典5</A> 老いぬれば去らぬ別れもなくもがないよいよ見まくほしき君かな(古今集雑上-九〇〇 在原業平の母)<BR>《改行》
     
    世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため(古今集雑下-九〇一 在原業平)<A HREF="#te5">(戻)</A><BR>
    721<A NAME="no5">出典5</A> 老いぬれば去らぬ別れもなくもがないよいよ見まくほしき君かな(古今集雑上-九〇〇 在原業平の母)世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため(古今集雑下-九〇一 在原業平)<A HREF="#te5">(戻)</A><BR>
     723出典6 季夏之月---蟋蟀居壁(礼記-月令)(戻)
    722 
     724出典7 朝露貪名利 夕陽憂子孫(白氏文集二-七九 不致仕)(戻)
    723 
     725出典8 七月七日長生殿 夜半無人私語時(白氏文集十二-五九六 長恨歌)(戻)
    724 
     726出典9 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(白氏文集十二-五九六 長恨歌)(戻)
    725 
     727出典10 鳰鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむこと尽きめやも(万葉集二十-四四五八 馬史国人)(戻)
    726 
     728出典11 白波の寄する渚に世を過ぐす海人の子なれば宿も定めず(和漢朗詠下-七二二 海人詠)(戻)
    727 
     729出典12 海人の刈る藻に棲む虫の我からとねをこそ泣かめ世をば恨みじ(古今集恋五-八〇七 藤原直子)(戻)
    728 
     730出典13 梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢(白氏文集一-四 凶宅詩)(戻)
    729 
     731出典14 暮るる間の千歳を過ぐす心地して待つはまことに久しかりけり(後撰集恋二-六六七 藤原隆方)(戻)
    730 
     732出典15 思ふとていとこそ人になれざらめしかならひてぞ見ねば恋しき(拾遺集恋四-900 読人しらず)(戻)
    731 
     733出典16 八月九月正長夜 千声万声無了時(白氏文集十九-一二八七 聞夜砧)(戻)
    732 
     734出典17 ねぬなはの苦しかるらむ人よりぞ我ぞ益田の生けるかひなき(拾遺集恋四-八九四 読人しらず)(戻)
    733 
     735出典18 こりずまに又もなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にしすまへば(古今集恋三-六〇一 読人しらず)(戻)
    734 
     736

    735 
     737 【校訂】
    736 
     738備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    737 
     739校訂1 らうがはしき--らうる(る/$か<朱>)はしき(戻)
    738 
     740校訂2 所狭き--(/+所<朱>)せき(戻)
    739 
     741校訂3 まかりて--さ(さ/$ま<朱>)かりて(戻)
    740 
     742校訂4 見たまへ--*見たまひ(戻)
    741 
     743校訂5 かごと--かう(う/$こ<朱>)と(戻)
    742 
     744校訂6 なべかり--(/+な)へかり(戻)
    743 
     745校訂7 指貫の--指貫(貫/+の<朱>)(戻)
    744 
     746校訂8 えはべらず--み(み/$え<朱>)侍らす(戻)
    745 
     747校訂9 まかり--(/+ま<朱>)かり(戻)
    746 
     748校訂10 あるべきかな--*あるへかな(戻)
    747 
     749校訂11 たてまつり--*たてまつる(戻)
    748 
     750校訂12 御けはひ--さ(さ/$御<朱>)けはひ(戻)
    749 
     751校訂13 たゆまず--たゆま(ま/$ま<朱>)す(戻)
    750 
     752校訂14 思されず--おほされすと(と/$<朱>)(戻)
    751 
     753校訂15 隠る--かへ(へ/$く<朱>)る(戻)
    752 
     754校訂16 呉竹--くれ(れ/+竹<朱>)(戻)
    753 
     755校訂17 いかでか--いかて(て/+か<朱>)(戻)
    754 
     756校訂18 艶なる--*ゑんある(戻)
    755 
     757校訂19 なり--なる(る/$り<朱>)(戻)
    756 
     758校訂20 野ら--ゝ(ゝ/+ら<朱>)(戻)
    757 
     759校訂21 けうとげ--けゝ(ゝ/$う<朱>)とけ(戻)
    758 
     760校訂22 けうとく--けうそ(そ/$と<朱>)く(戻)
    759 
     761校訂23 御かたはらに--御かたはらに(に/$に)く(戻)
    760 
     762校訂24 人え聞き--人は(は/$え<朱>)きゝ(戻)
    761 
     763校訂25 曹司--さこ(こ/$う<朱>)(戻)
    762 
     764校訂26 消え--きこ(こ/$<朱>)え(戻)
    763 
     765校訂27 からうして--から(ら/+う)して(戻)
    764 
     766校訂28 ある--*あり(戻)
    765 
     767校訂29 阿闍梨--あま(ま/$さ<朱>)り(戻)
    766 
     768校訂30 はべれば--*侍らは(戻)
    767 
     769校訂31 馬--あ(あ/$む<朱>)ま(戻)
    768 
     770校訂32 川--か(か/+わ<朱>)(戻)
    769 
     771校訂33 なめり--なめ(め/+り<朱>)(戻)
    770 
     772校訂34 一つに--*ひとへに(戻)
    771 
     773校訂35 いみじく--いみ(み/+しく<朱>)(戻)
    772 
     774校訂36 身--*事(戻)
    773 
     775校訂37 返し--かへ(へ/$へ<朱>)し(戻)
    774 
     776校訂38 と--(/+と<朱>)(戻)
    775 
     777校訂39 承り--*うけ給(戻)
    776 
     778校訂40 また--たま(たま/$また<朱>)(戻)
    777 
     779校訂41 のたまへれど--の給つ(つ/$へ)れと(戻)
    778 
     780校訂42 折--かほ(かほ/$おり<朱>)(戻)
    779 
     781校訂43 赴く--を(を/+も)むく(戻)
    780 
     782校訂44 かの--かれ(かれ/$)かの(戻)
    781 
     783校訂45 はた--い(い/$は<朱>)た(戻)
    782 
     784校訂46 ゆく--(/+ゆく<朱>)(戻)
    783 
     785校訂47 あまり--あま(ま/$ま<朱>)り(戻)
    784 
     786

    785 
     787源氏物語の世界ヘ
    786 
     788ローマ字版
    787 
     789現代語訳
    788 
     790注釈
    789 
     791大島本
    790 
     792自筆本奥入
    791 
     793792 
     794
    793 
     795794