50 東屋(大島本)


ADUMAYA


薫君の大納言時代
二十六歳秋八月から九月までの物語



Tale of Kaoru's Dainagon era, from August to September at the age of 26

3
第三章 浮舟の物語 浮舟の母、中君に娘の浮舟を託す


3  Tale of Ukifune  Ukifune's mother leaves Ukifune to Naka-no-kimi in Kyoto

3.1
第一段 浮舟の母、中君と談話す


3-1  Ukifune's mother talks with Naka-no-kimi

3.1.1   女君の御前に出で来ていみじくめでたてまつれば田舎びたる、と思して笑ひたまふ
 女君の御前に出て来て、たいそうお誉め申し上げると、田舎人めいている、とお思いになってお笑いになる。
 昔の中将が言葉を尽くして宮の御容姿をほめたたえているのを聞いていて、夫人はこの人も田舎いなかびたものであると思って笑っていた。
  Womna-Gimi no o-mahe ni ide-ki te, imiziku mede tatemature ba, winakabi taru, to obosi te warahi tamahu.
3.1.2  「 故上の亡せたまひしほどは、言ふかひなく幼き御ほどにて、 いかにならせたまはむと見たてまつる人も故宮も思し嘆きしを、 こよなき御宿世のほどなりければ、さる山ふところのなかにも、 生ひ出でさせたまひしにこそありけれ。口惜しく、 故姫君のおはしまさずなりにたるこそ、飽かぬことなれ」
 「故母上がお亡くなりになったときは、何ともお話にならないほど小さいころで、どんなにおなりにあそばすのかと、お世話申し上げる人も、亡き父宮もお嘆きになったが、この上ないご運勢でいらっしゃったので、あの山里の中でも、ご立派に成人あそばしたのです。残念なことに、亡くなった姫君がいらっしゃらなくなったのが、惜しまれることです」
 「奥様にお別れになりましたのはお生まれになったばかしでございましたから、どうおなりあそばすことかとわれわれも不安でなりませんでしたし、宮様も御心配あそばしたものでございますが、あなた様は御幸運を持ってお生まれになったものですから、宇治のような山ふところでごりっぱにお育ちになったのでございます。ほんとうに残念でございます。大姫君のおかくれになりましたことはあきらめきれません」
  "Ko-Uhe no use tamahi si hodo ha, ihukahinaku wosanaki ohom-hodo nite, ikani nara se tamaha m to, mi tatematuru hito mo, ko-Miya mo obosi nageki si wo, koyonaki ohom-sukuse no hodo nari kere ba, saru yama hutokoro no naka ni mo, ohi-ide sase tamahi si ni koso ari kere. Kutiwosiku, ko-Hime-Gimi no ohasimasa zu nari ni taru koso, aka nu koto nare."
3.1.3  など、うち泣きつつ聞こゆ。 君もうち泣きたまひて
 などと、泣きながら申し上げる。君もお泣きになって、
 などと泣きながら常陸の妻は言う。中の君も泣いていた。
  nado, uti-naki tutu kikoyu. Kimi mo uti-naki tamahi te,
3.1.4  「 世の中の恨めしく心細き折々も、またかくながらふれば、 すこしも思ひ慰めつべき折もあるをいにしへ頼みきこえける蔭どもに後れたてまつりけるは、なかなかに世の常に思ひなされて、見たてまつり知らずなりにければ、あるを、なほ この御ことは、尽きせずいみじくこそ。 大将の、よろづのことに心の移らぬよしを愁へつつ、浅からぬ御心のさまを 見るにつけても、いとこそ口惜しけれ」
 「世の中が恨めしく心細い時々も、またこのように生きていると、少しでも思いが慰められるときがあるのを、昔お頼り申し上げていた肉親たちに先立たれ申したときは、かえって世間一般の事と諦めもついて、お顔も存じ上げずになってしまったのを、それなのに、やはりこの姉君のご逝去は、いつまでも悲しいことです。大将が、何にも心が移らないことを愁えながら、深く変わらないご愛情を見るにつけても、まことに残念です」
 「人生が恨めしくばかり思われて心細い時にも、また生きていれば少し慰みになる時もあって、そんなおりおりに、生まれた時にお別れしたお母様のことは、そうした運命だったのだからと、お顔を知らないのだからあきらめはつくのだけれど、お姉様のことはいつも生きていてくだすったらと思われて悲しいのですよ。大将さんが今でもまだどんなことにも心の慰められることがないとお悲しみになるほどの、深い愛をお姉様に持っておいでになったことがわかると、いっそうお死にになったのが残念でね」
  "Yononaka no uramesiku kokoro-bosoki wori-wori mo, mata kaku nagarahure ba, sukosi mo omohi nagusame tu beki wori mo aru wo, inisihe tanomi kikoye keru kage-domo ni okure tatematuri keru ha, naka-naka ni yo no tune ni omohi-nasa re te, mi tatematuri sira zu nari ni kere ba, aru wo, naho kono ohom-koto ha, tuki se zu imiziku koso. Daisyau no, yorodu no koto ni kokoro no utura nu yosi wo urehe tutu, asakara nu mi-kokoro no sama wo miru ni tuke te mo, ito koso kutiwosikere."
3.1.5  とのたまへば、
 とおっしゃると、
 と中の君は言った。
  to notamahe ba,
3.1.6  「 大将殿は、さばかり世にためしなきまで、帝のかしづき思したなるに、心おごりしたまふらむかし。 おはしまさましかば、なほ このこと、せかれしもしたまはざらましや」
 「大将殿は、あれほど世の中に例がないまでに、帝が大切になさっているといいますが、得意でいらっしゃるでしょう。姉君が生きていらっしゃったら、このご降嫁のことは、おやめにもならなかったでしょうか」
 「大将様はあんなに、ためしもないほど婿君としてみかどがお大事にあそばすために、御驕慢きょうまんになってそんなふうなこともお言いになるのではありますまいか。大姫君が生きておいでになっても、そのために宮様との御結婚をお断わりあそばすとも思われませんもの」
  "Daisyau-dono ha, sabakari yo ni tamesi naki made, Mikado no kasiduki obosi ta' naru ni, kokoro-ogori si tamahu ram kasi. Ohasimasa masika ba, naho kono koto, seka re si mo si tamaha zara masi ya!"
3.1.7  など聞こゆ。
 などと申し上げる。

  nado kikoyu.
3.1.8  「 いさや、やうのものと、人笑はれなる心地せましも、 なかなかにやあらまし見果てぬにつけて心にくくもある世にこそ、と思へどかの君は、いかなるにかあらむ、あやしきまでもの忘れせず、 故宮の御後の世をさへ、思ひやり深く後見ありきたまふめる」
 「さあね、姉妹同じような運命だと、物笑いになる気がしましょうも、かえってつらい思いをしたことでしょう。途中で亡くなられたので、奥ゆかしくもある仲だ、と思いますが、あの君は、どういうわけでしょうか、不思議なまでに忘れないで、故父宮の亡き後の追善供養までを、深く考えてお世話してくださるようです」
 「まあお姉様だって、だれもがっているような悲しい目は見ていらっしゃるだろうからね。かえって先にお死にになってよかったかもしれない。すべてを見てしまわないためによい想像ばかりをしておられるようなものだと思うけれどね。でもね大将はどういう宿縁があるのか怪しいほど昔の恋を忘れずにおいでになってね、お父様の後世ごせのことまでもよく心配してくだすって仏事などもよく親切に御自身の手でしてくださるのですよ」
  "Isaya, yau no mono to, hito-warahare naru kokoti se masi mo, naka-naka ni ya ara masi. Mi-hate nu ni tuke te, kokoro-nikuku mo aru yo ni koso, to omohe do, kano Kimi ha, ika naru ni ka ara m, ayasiki made mono-wasure se zu, ko-Miya no ohom-noti-no-yo wo sahe, omohi-yari hukaku usiromi ariki tamahu meru."
3.1.9  など、 心うつくしう語りたまふ。
 などと、素直にお話しなさる。
 と中の君は、感謝している心を別段誇張もせずに常陸夫人へ語って聞かせた。
  nado, kokoro-utukusiu katari tamahu.
3.1.10  「 かの過ぎにし御代はりに尋ねて見むと、 この数ならぬ人をさへなむ、かの弁の尼君にはのたまひける。 さもやと思うたまへ寄るべきことにははべらねど、 一本ゆゑにこそはと、かたじけなけれど、 あはれになむ思うたまへらるる御心深さなる
 「あの亡くなった姉君の代わりに捜し出して会いたいと、この物の数にも入らない娘までを、あの弁の尼君にはおっしゃったのでした。ではそのようにと、考えるわけではございませんが、ゆかりの者だからかと、恐れ多いことですが、しみじみとありがたく思われますお気持ちの深さですこと」
 「おかくれになった姫君の代わりにほしいと、物の数でもございません方のことさえも宇治の弁の尼からお言わせになりましてございます。私はそんなだいそれたことは考えもいたしませんが『紫の一本ひともとゆゑに』(むさし野の草は皆がら哀れとぞ思ふ)と申しますように、大姫君の妹様というだけでお思いになるのかとおそれおおい申しようですが、哀れに思われますほどな真心な恋をなすったのでございますね」
  "Kano sugi ni si ohom-kahari ni tadune te mi m to, kono kazu nara nu hito wo sahe nam, kano Ben-no-Ama-Gimi ni ha notamahi keru. Samoya to, omou tamahe yoru beki koto ni ha habera ne do, hito-moto yuwe ni koso ha to, katazikenakere do, ahare ni nam omou tamahe raruru mi-kokoro-hukasa naru."
3.1.11  など言ふついでに、 この君をもてわづらふこと、泣く泣く語る。
 などと言うついでに、この姫君の身の振りに困っていることを、泣きながら話す。
 などと常陸夫人は話したついでに、姫君を将来どう取り扱っていいかと煩悶はんもんしているということを泣く泣く中の君へ訴えた。
  nado ihu tuide ni, kono Kimi wo mote-wadurahu koto, naku-naku kataru.
注釈291女君の御前に出で来て浮舟の母が中君の御前に。3.1.1
注釈292いみじくめでたてまつれば浮舟の母が匂宮の素晴らしさを。3.1.1
注釈293田舎びたると思して笑ひたまふ主語は中君。3.1.1
注釈294故上の亡せたまひしほどは以下「飽かぬことなれ」まで、母北の方の詞。「故上」は中君の母上。3.1.2
注釈295いかにならせたまはむと主語は中君の母上。3.1.2
注釈296見たてまつる人も故母上付きの女房たち。3.1.2
注釈297故宮も故父八の宮。3.1.2
注釈298こよなき御宿世のほどなりければ『集成』葉「不遇な生い立ちはむしろ異数の出世の予兆であった、という考え方」。『完訳』は「異数の運勢なればこそ山里での不遇な生い立ちだった、の理屈」と注す。3.1.2
注釈299生ひ出でさせたまひしにこそありけれ主語は中君。3.1.2
注釈300故姫君の中君の姉大君。3.1.2
注釈301君もうち泣きたまひて中君。3.1.3
注釈302世の中の恨めしく以下「口惜しけれ」まで、中君の詞。3.1.4
注釈303すこしも思ひ慰めつべき折もあるを若宮誕生などをさす。3.1.4
注釈304いにしへ頼みきこえける蔭どもに両親をさす。3.1.4
注釈305この御ことは姉大君の死去をさす。3.1.4
注釈306大将の薫。3.1.4
注釈307見るにつけても主語は話者の中君。3.1.4
注釈308大将殿は以下「したまはざらましや」まで、浮舟の母の詞。3.1.6
注釈309おはしまさましかば大君が生きていらっしゃったら。「--ましや」反実仮想の構文。大君が亡くなられたので、女二宮の降嫁が行われた、の意。3.1.6
注釈310このことせかれしも「このこと」は帝の女二宮の降嫁。「せかれ」は「塞く」、取り止めになる意。3.1.6
注釈311いさややうのものと以下「後見ありきたまふめる」まで、中君の詞。姉妹ともに同じ境遇になろう、の意。姉大君は帝の女二宮が、自分中君は夕霧の六の君が、それぞれ正妻として迎えられ、側室の立場となる。3.1.8
注釈312なかなかにやあらまし反実仮想の構文。3.1.8
注釈313見果てぬにつけて主語は大君。途中で亡くなった意。3.1.8
注釈314心にくくもある世にこそと思へど『集成』は「いつまでも心に残る仲なのだ」。『完訳』は「そのために奥ゆかしくも思われる間柄なのでしょう」と訳す。3.1.8
注釈315かの君は薫。3.1.8
注釈316故宮の故八の宮。3.1.8
注釈317かの過ぎにし御代はりに以下「御心深さなる」まで、浮舟の母の詞。故大君の代わりに娘の浮舟を引き取って。3.1.10
注釈318この数ならぬ人を浮舟をさす。3.1.10
注釈319さもやと薫の意向どおりに。3.1.10
注釈320思うたまへ寄るべき「たまへ」謙譲の補助動詞。3.1.10
注釈321一本ゆゑに『異本紫明抄』は「紫のひともとゆゑに武蔵野の草は見ながらあはれとぞ思ふ」(古今集雑上、八六七、読人しらず)を指摘。3.1.10
注釈322あはれになむ思うたまへらるる御心深さなる『集成』は「しみじみとおやさしいお方と思われます昔を忘れぬお心深さです」と訳す。3.1.10
注釈323この君を娘の浮舟を。3.1.11
出典3 一本ゆゑに 紫の一本ゆゑに武蔵野の草は見ながらあはれとぞ見る 古今集雑上-八六七 読人しらず 3.1.10
校訂22 心うつくしう 心うつくしう--心うつくしく(く/#う) 3.1.9
3.2
第二段 浮舟の母、娘の不運を訴える


3-2  Ukifune's mother appeals to Naka-no-kimi her daughter's unhappy

3.2.1  こまかにはあらねど、 人も聞きけりと思ふに少将の思ひあなづりけるさまなどほのめかして、
 こまごまとではないが、女房も聞いて知っていると思うので、少将が馬鹿にしたことなどちらっと話して、
 細かに言ったのではないが、二条の院の女房らの間にまでうわさをされるようになっていることであるからと思い、左近少将が軽蔑けいべつしたことなどをほのめかして言った。
  Komaka ni ha ara ne do, hito mo kiki keri to omohu ni, Seusyau no omohi anaduri keru sama nado honomekasi te,
3.2.2  「 命はべらむ限りは、何か、朝夕の慰めぐさにて見過ぐしつべし。うち捨てはべりなむのちは、思はずなるさまに散りぼひはべらむが悲しさに、 尼になして、深き山にやし据ゑて、 さる方に世の中を思ひ絶えてはべらましなどなむ、思うたまへわびては、思ひ寄りはべる」
 「生きています限りは、何とか、朝夕の話相手として暮らせましょう。先立ってしまった後は、不本意な身の上となって落ちぶれてさまようのが悲しいので、尼にして、深い山中にでも生活させて、そのような考えで世の中を諦めようなどと、思いあぐねました末には、そのように思っています」
 「私の命のございます間は、ただお顔を見るだけを朝夕の慰めにして、そばでお暮らしさせるつもりでございますが、死にましたあとは不幸な女になって世の中へ出て苦労をおさせすることになるかと思いますのが悲しくて、いっそ尼にして深い山へお住ませすることにすれば、人生へのよくは忘れてしまうことになってよろしかろうなどと、考えあぐんでは思いついたりもいたします」
  "Inoti habera m kagiri ha, nani ka, asa-yuhu no nagusame-gusa nite mi-sugusi tu besi. Uti-sute haberi na m noti ha, omoha zu naru sama ni tiribohi habera m ga kanasisa ni, ama ni nasi te, hukaki yama ni ya si suwe te, saru kata ni yononaka wo omohi taye te habera masi nado nam, omou tamahe wabi te ha, omohi yori haberu."
3.2.3  など言ふ。
 などと言う。

  nado ihu.
3.2.4  「 げに、心苦しき御ありさまにこそはあなれど、何か、人にあなづらるる御ありさまは、 かやうになりぬる人のさがにこそ。さりとても、堪へぬわざなりければ、 むげにその方に 思ひおきてたまへりし身だに、かく心より外にながらふれば、まいていとあるまじき御ことなり。 やついたまはむも、いとほしげなる御さまにこそ」
 「おっしゃるように、お気の毒なご様子のようですが、どうして、人に馬鹿にされるご様子は、このように父親のいない人の常です。そうかといって、それもできる事でないので、一途にその方面にと父宮が考えていらっしゃったわたしの身の上でさえ、このように心ならずも生きながらえていますので、それ以上にとんでもない御事です。髪を落としなさるのも、おいたわしいほどのご器量です」
 「ほんとうに気の毒なことだけれどそれは一人だけのことでなく父をくした人は皆そうよ。それに女は独身で置いてくれないのが世の中のならいで一生一人でいるようにとお父様がめておいでになった私でさえ、自分の意志でなしにこうして人妻になっているのだから、まして無理なことですよ。尼にさせることもあまりにきれいで惜しい人ですよ」
  "Geni, kokoro-gurusiki ohom-arisama ni koso ha a' nare do, nanika, hito ni anadura ruru ohom-arisama ha, kayau ni nari nuru hito no saga ni koso. Saritotemo, tahe nu waza nari kere ba, mugeni sono kata ni omohi-oki te tamahe ri si mi dani, kaku kokoro yori hoka ni nagarahure ba, maite ito aru maziki ohom-koto nari. Yatui tamaha m mo, itohosige naru ohom-sama ni koso."
3.2.5  など、いと大人びてのたまへば、母君、いとうれしと思ひたり。 ねびにたるさまなれど、よしなからぬさましてきよげなり。いたく肥え過ぎにたるなむ、 常陸殿とは見えける
 などと、とても大人ぶっておっしゃると、母君は、たいそう嬉しく思った。ふけて見える姿だが、品がなくもない姿で小ぎれいである。ひどく太り過ぎているのが、常陸殿といった感じである。
 中の君が姉らしくこう言うのを聞いて常陸ひたち夫人は喜んでいた。年はいっているがりっぱできれいな顔の女であった。ふとり過ぎたところは常陸さんと言われるのにかなっていた。
  nado, ito otonabi te notamahe ba, Haha-Gimi, ito uresi to omohi tari. Nebi ni taru sama nare do, yosi nakara nu sama si te kiyoge nari. Itaku koye sugi ni taru nam, Hitati-dono to ha miye keru.
3.2.6  「 故宮の、つらう情けなく 思し放ちたりしに、いとど人げなく、人にもあなづられたまふと見たまふれど、かう聞こえさせ御覧ぜらるるにつけてなむ、いにしへの憂さも慰みはべる」
 「故宮が、つらく情けなくお見捨てになったので、ますます一人前らしくなく、人からも馬鹿にされなさると拝見しましたが、このようにお話し申し上げさせてただき、このようにお目にかからせていただけるにつけて、昔のつらさも晴れます」
 「お亡くなりになりました宮様が子としてお認めくださらなかったために、みじめな方はいっそうみじめなものになって、人からもおあなどられになると悲しがっておりましたが、あなた様へお近づきいたしますのをお許しくださいまして、御親切な身のふり方まで御心配くださいますことで、昔の宮様のお恨めしさも慰められます」
  "Ko-Miya no, turau nasake naku obosi hanati tari si ni, itodo hitoge-naku, hito ni mo anadura re tamahu to mi tamahure do, kau kikoye sase go-ran-ze raruru ni tuke te nam, inisihe no usa mo nagusami haberu."
3.2.7  など、年ごろの物語、 浮島のあはれなりしことも 聞こえ出づ。
 などと、長年の話や、浮島の美しい景色のことなどを申し上げる。
 そのあとで常陸さんはあちらこちらと伴われて行った良人おっとの任国の話をし、陸奥むつ浮嶋うきしまの身にしむ景色けしきなども聞かせた。
  nado, tosi-goro no monogatari, Uki-sima no ahare nari si koto mo kikoye idu.
3.2.8  「 わが身一つのと のみ、言ひ合はする人もなき 筑波山のありさまも、かく あきらめきこえさせて、いつも、いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど、 かしこにはよからぬあやしの者ども、いかにたち騷ぎ求めはべらむ。さすがに心あわたたしく思ひたまへらるる。 かかるほどのありさまに身をやつすは、口惜しきものになむはべりけると、身にも思ひ知らるるを、 この君はただ任せきこえさせて、知りはべらじ
 「自分一人だけがつらい思いをと、話し合う相手もいない筑波山での暮らしぶりも、このように胸が晴れるように申し上げて、いつも、まことにこのように伺候していたく存じなりましたが、あちらには出来の悪い卑しい娘たちが、どんなに騒いで捜していることでしょう。やはり落ち着かない気がいたします。このような受領の妻に身を落としているのは、情けないことでございましたと、身にしみて思い知られるのですが、この姫君は、ひたすらお任せ申し上げて、わたしは構いますまい」
 「あの『わが身一つのうきからに』(なべての世をも恨みつるかな)というふうに悲しんでばかりいました常陸時代のことも詳しくお話し申し上げることもいたしまして、始終おそばにまいっていたい心になりましたけれど、うちのほうではわんぱくな子供たちのおおぜいが、私のおりませんのを寂しがって騒いでいることかと思いますと、さすがに気が落ち着きません。ああした階級の家へはいってしまいましたことで、私自身も情けなく思うことが多いのでございますから、この方だけはあなた様の思召おぼしめしにお任せいたしますから、どうとも将来のことをおめくださいまし」
  "Waga mi hitotu no to nomi, ihi-ahasuru hito mo naki Tukuba-yama no arisama mo, kaku akirame kikoyesase te, itu mo, ito kaku te saburaha mahosiku omohi tamahe nari haberi nure do, kasiko ni ha yokara nu ayasi no mono-domo, ikani tati-sawagi motome habera m. Sasuga ni kokoro-awatatasiku omohi tamahe raruru. Kakaru hodo no arisama ni mi wo yatusu ha, kutiwosiki mono ni nam haberi keru to, mi ni mo omohi sira ruru wo, kono Kimi ha, tada makase kikoye sase te, siri habera zi."
3.2.9  など、かこちきこえかくれば、「 げに、見苦しからでもあらなむ」と見たまふ。
 などと、お願い申し上げるようにするので、「なるほど、よい結婚をしてほしいものだ」と御覧になる。
 この常陸夫人の頼みを聞いて、中の君も、この人の言うとおり妹は地方官級の人の妻などにさせたくないと思っていた。
  nado, kakoti kikoye kakure ba, "Geni, mi-gurusikara de mo ara nam." to mi tamahu.
注釈324人も聞きけりと思ふに主語は浮舟の母。女房も聞き知っている。3.2.1
注釈325少将の思ひあなづりけるさま左近少将が結婚相手を浮舟から妹に乗り換えたことをさす。3.2.1
注釈326命はべらむ限りは以下「思ひ寄りはべる」まで、浮舟の母の詞。主語は浮舟の母。3.2.2
注釈327尼になして浮舟を尼にして。3.2.2
注釈328さる方に世の中を思ひ絶えてはべらましなど主語は浮舟の母。「はべる」とあるので、自分自身のこと。自分も出家生活をする。
【はべらましなど】−「まし」推量の助動詞、仮想の意。
3.2.2
注釈329げに心苦しき以下「御さまにこそ」まで、中君の詞。3.2.4
注釈330かやうになりぬる人父親に先立たれた子。3.2.4
注釈331むげにその方に山住みの生活をさす。3.2.4
注釈332思ひおきてたまへりし主語は父八の宮。3.2.4
注釈333やついたまはむも髪を落とすこと、出家することをいう。3.2.4
注釈334ねびにたるさまなれど浮舟の母の姿態。『完訳』は「以下、語り手のやや諧謔的な批評」と注す。3.2.5
注釈335常陸殿とは見えける『集成』は「いかにも田舎者の受領の妻といった風情、と茶化した草子地」と注す。3.2.5
注釈336故宮の以下「慰みはべる」まで、浮舟の母の詞。3.2.6
注釈337思し放ちたりしに八の宮が浮舟を。3.2.6
注釈338浮島のあはれなりしことも『花鳥余情』は「塩釜の前に浮きたる浮島の浮きて思ひのある世なりけり」(古今六帖三、塩釜)を指摘。3.2.7
注釈339わが身一つのと以下「知りはべらじ」まで、浮舟の母の詞。『源氏釈』は「大方はわが身一つの憂きからになべての世をもうらみつるかな」(拾遺集恋五、九五三、読人しらず)。『異本紫明抄』は「世の中は昔よりやは憂かりけむわが身一つのためになれるか」(古今集雑下、九四八、読人しらず)を指摘。3.2.8
注釈340筑波山のありさまも『紫明抄』は「筑波山端山繁山繁けれど思ひ入るには障らざりけり」(重之集)を指摘。ここは常陸国の歌枕として引用。3.2.8
注釈341あきらめきこえさせて主語は話者の浮舟の母。中君に。3.2.8
注釈342かしこにはよからぬあやしの者ども自邸の常陸介との間にできた娘たち。3.2.8
注釈343かかるほどのありさまに受領の妻という身。3.2.8
注釈344この君は浮舟。3.2.8
注釈345ただ任せきこえさせて知りはべらじ中君に浮舟を。自分は構わない。3.2.8
注釈346げに見苦しからでもあらなむ中君の心中の思い。浮舟によい結婚をしてほしいと思う。3.2.9
出典4 浮島のあはれなりしこと 塩釜の前に浮きたる浮島の浮きて思ひのある世なりけり 古今六帖三-一七九六 山口女王 3.2.7
出典5 わが身一つの おほかたは我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな 拾遺集恋五-九五三 紀貫之 3.2.8
世の中は昔よりやは憂かりけむ我が身一つのためになれるか 古今集雑下-九四八 読人しらず
校訂23 常陸殿とは 常陸殿とは--ひたち殿と(と/+は<朱>) 3.2.5
3.3
第三段 浮舟の母、薫を見て感嘆す


3-3  Ukifune's mother peeps Kaoru and admires his fineness

3.3.1   容貌も心ざまも、え憎むまじうらうたげなり。もの恥ぢもおどろおどろしからず、さまよう児めいたるものから、かどなからず、近くさぶらふ人びとにも、いとよく隠れてゐたまへり。ものなど言ひたるも、 昔の人の御さまに、あやしきまで おぼえたてまつりてぞあるやかの人形求めたまふ人に見せたてまつらばやと、うち思ひ出でたまふ折しも、
 器量も気立ても、憎むことができないほどかわいらしい。はにかみようも大げさでなく、よい具合におっとりしているものの、才気がないでなく、近くに仕えている女房たちに対しても、たいそうよく隠れていらっしゃる。何か言っているのも、亡くなった姉君のご様子に不思議なまでにお似申していることよ。あの人形を捜していらっしゃる方にお見せ申し上げたいと、ふと思い出しなさった折しも、
 姫君は容貌ようぼうといい、性質といい憎むことのできぬ可憐かれんな人であった。ひどく恥ずかしがるふうも見せず、感じよく少女らしくはあるが機智きちの影が見えなくはない。夫人の居室に侍している女房たちに見られぬように、上手じょうずに顔の隠れるようにしてすわっていた。ものの言いようなども総角あげまきの姫君に怪しいまでよく似ているのであった。あの人型ひとがたがほしいと言った人に与えたいとその人のことが中の君の心に浮かんだちょうどその時に、
  Katati mo kokoro-zama mo, e nikumu maziu rautage nari. Mono-hadi mo odoro-odorosikara zu, sama you ko-mei taru monokara, nadoka nara zu, tikaku saburahu hito-bito ni mo, ito yoku kakure te wi tamahe ri. Mono nado ihi taru mo, mukasi no hito no ohom-sama ni, ayasiki made oboye tatematuri te zo aru ya! Kano hitogata motome tamahu hito ni mise tatematura baya to, uti omohi-ide tamahu wori simo,
3.3.2  「 大将殿参りたまふ
 「大将殿が参っておられます」
 右大将の入来を人が知らせに来た。
  "Daisyau-dono mawiri tamahu."
3.3.3  と、 人聞こゆれば、例の、御几帳ひきつくろひて、心づかひす。この客人の母君、
 と、女房が申し上げるので、いつものように、御几帳を整えて注意をする。この客人の母君は、
 居室にいた女房たちはいつものように几帳きちょうれ絹を引き直しなどして用意をした。姫君の母は、
  to kikoyure ba, rei no, mi-kityau hiki-tukurohi te, kokoro-dukahi su. Kono marauto no Haha-Gimi,
3.3.4  「 いで、見たてまつらむほのかに見たてまつりける人の、 いみじきものに聞こゆめれど、 宮の御ありさまには、え並びたまはじ」
 「それでは、拝見させていただきましょう。ちらっと拝見した人が、大変にお誉め申していたが、宮のご様子には、とてもお並びになることはできまい」
 「では私ものぞかせていただきましょう。少しお見かけしただけの人が、たいへんにおほめしていましたけれど、こちらの宮様のお姿とは比較すべきではございますまい」
  "Ide, mi tatematura m. Honoka ni mi tatematuri keru hito no, imiziki mono ni kikoyu mere do, Miya no ohom-arisama ni ha, e narabi tamaha zi."
3.3.5  と言へば、御前にさぶらふ人びと、
 と言うと、御前に伺候する女房たちは、
 と言っていたが、女房たちは、
  to ihe ba, o-mahe ni saburahu hito-bito,
3.3.6  「 いさや、えこそ聞こえ定めね
 「さあね、とてもお定め申し上げることができません」
 「さあ、どうでしょう。どちらがおすぐれになっていらっしゃるか私たちにはきめられませんわね」
  "Isaya, e koso kikoye sadame ne."
3.3.7  と聞こえあへり。
 と申し上げ合っている。
 こんなことを言う。中の君が、
  to kikoye aheri.
3.3.8  「 いかばかりならむ人か、宮をば消ちたてまつらむ」
 「どれほどの人が、宮をお負かせ申せましょうか」
 「二人で向かい合っていらっしゃるのを見た時、宮はうるおいのないわるいお顔のようにお見えになった。別々に見れば優劣はない方がたのように見えるのだけれど、美しい人というものは一方の美をそこねるものだから困るのね」と言うと、人々は笑って、「けれど宮様だけはおそこなわれにならないでしょう。どんな方だって宮様にお勝ちになる美貌びぼうを持っておいでになるはずはございませんもの」
  "Ikabakari nara m hito ka, Miya wo ba keti tatematura m."
3.3.9  など言ふほどに、「 今ぞ、車より降りたまふなる」と聞く ほど、かしかましきまで追ひののしりて、とみにも 見えたまはず。待たれたまふほどに、歩み入りたまふさまを見れば、 げに、あなめでたをかしげとも見えずながらぞ、なまめかしうあてにきよげなるや。
 などと言っているうちに、「今、車から降りなさっている」と聞く間、うるさいほど先払いの声がして、すぐにはお現れにならない。お待たされになっているうちに、歩いてお入りになる様子を見ると、なるほど、何ともご立派で、色めかしい風情とは見えないが、優雅で上品に美しい。
 などと言うころ、客は今下車するのであるらしく、前駆の人払いの声がやかましく立てられていたが、急にはかおるの姿がここへ現われては来なかった。待ち遠しく人々が思うころに縁側を歩んで来た大将は、派手はでな美貌というのではなしに、えんで上品な美しさを持っていて、
  nado ihu hodo ni, "Ima zo, kuruma yori ori tamahu naru."to kiku hodo, kasikamasiki made ohi nonosiri te, tomi ni mo miye tamaha zu. Mata re tamahu hodo ni, ayumi-iri tamahu sama wo mire ba, geni, ana medeta, wokasige to mo miye zu nagara zo, namamekasiu ate ni kiyoge naru ya!
3.3.10   すずろに見え苦しう恥づかしくて、 額髪などもひきつくろはれて、心恥づかしげに用意多く、際もなきさまぞしたまへる。 内裏より参りたまへるなるべし御前どものけはひあまたして、
 何となく対面するのも遠慮されて、額髪などもついつくろって、気がひけるほど嗜み深い態度で、この上ない様子をしていらっしゃった。内裏から参上なさったのであろう、ご前駆の様子が大勢いて、
 だれもその人に羞恥しゅうちを覚えさせられぬ者はなく、知らず知らず額髪も直されるのであった。貴人らしく、この上なく典雅な風采ふうさいが薫には備わっていた。御所から退出した帰りみちらしい。前駆の者がひしめいている気配けはいがここにも聞こえる。
  Suzuro ni miye kurusiu hadukasiku te, hitahi-gami nado mo hiki-tukurohare te, kokoro-hadukasige ni youi ohoku, kiha mo naki sama zo si tamahe ru. Uti yori mawiri tamahe ru naru besi, go-zen-domo no kehahi amata si te,
3.3.11  「 昨夜、后の宮の悩みたまふよし承りて参りたりしかば、宮たちのさぶらひたまはざりしかば、いとほしく 見たてまつりて宮の御代はりに今までさぶらひはべりつる。 今朝もいと懈怠して参らせたまへるをあいなう、御あやまちに推し量りきこえさせてなむ」
 「昨夜、后の宮がご病気でいらっしゃる旨を承って参内しましたら、宮様方が伺候していらっしゃらなかったので、お気の毒に拝見して、宮のお代わりに今まで伺候しておりました。今朝もとても怠けて参内あそばしたのを、失礼ながら、あなたのご過失とお察し申し上げまして」
 「昨晩中宮がお悪いということを聞きまして、御所へまいってみますと、宮様がたはどなたも侍しておられないので、お気の毒に存じ上げてこちらの宮様の代わりに今まで御所にいたのです。今朝けさも宮様のおいでになるのがお早くなかったので、これはあなたの罪でしょうと私は解釈していたのですよ」
  "Yobe, Kisai-no-Miya no nayami tamahu yosi uketamahari te mawiri sika ba, Miya-tati no saburahi tamaha zari sika ba, itohosiku mi tatematuri te, Miya no ohom-kahari ni ima made saburahi haberi turu. Kesa mo ito ketai si te mawira se tamahe ru wo, ainau, ohom-ayamati ni osihakari kikoyesase te nam."
3.3.12  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と大将は言った。
  to kikoye tamahe ba,
3.3.13  「 げに、おろかならず、思ひやり深き 御用意になむ」
 「なるほど、大変なこと、行き届いたお心遣いをいただきまして」
 「ほんとうに深いお思いやりをなさいますこと」
  "Geni, oroka nara zu, omohi-yari hukaki ohom-youi ni nam."
3.3.14  とばかりいらへきこえたまふ。宮は内裏にとまりたまひぬるを 見おきてただならずおはしたるなめり
 とだけお答え申し上げなさる。宮は内裏にお泊まりになったのを見届けて、思うところがあっていらっしゃったようである。
 夫人はこう答えただけである。宮が御所にとどまっておいでになるのを見てこの人はまた中の君と話したくなって来たものらしい。
  to bakari irahe kikoye tamahu. Miya ha uti ni tomari tamahi nuru wo mi-oki te, tada nara zu ohasi taru na' meri.
注釈347容貌も心ざまも以下、中君から見た浮舟像。3.3.1
注釈348昔の人の御さまに故大君の様子に。3.3.1
注釈349おぼえたてまつりてぞあるや中君の心中と語り手の驚きとが融合した叙述。間投助詞「や」はその両義性ある表現。3.3.1
注釈350かの人形求めたまふ人に見せたてまつらばや中君の心中の思い。浮舟を薫に逢わせたい。3.3.1
注釈351大将殿参りたまふ女房の詞。3.3.2
注釈352人聞こゆれば女房が中君に。3.3.3
注釈353いで見たてまつらむ以下「え並びたまはじ」まで、浮舟の母の詞。薫を拝見しよう。3.3.4
注釈354ほのかに見たてまつりける人浮舟の乳母。3.3.4
注釈355いみじきものに『集成』は「大層ご立派な方と」と訳す。3.3.4
注釈356宮の御ありさまに匂宮のご様子。3.3.4
注釈357いさやえこそ聞こえ定めね中君付きの女房の詞。3.3.6
注釈358いかばかり以下「たてまつらむ」まで、浮舟の母の詞。3.3.8
注釈359今ぞ車より降りたまふなる女房の詞。「なる」は伝聞推定の助動詞。『集成』は「気配で察する体」と注す。3.3.9
注釈360げにあなめでた以下、浮舟の母の目を通しての叙述。3.3.9
注釈361をかしげとも見えずながら『完訳』は「色めかしい風情とも見えぬが、の意か。誠実さを強調するか」と注す。3.3.9
注釈362すずろに見え苦しう『集成』は「うっかり対面するのも憚られるほど立派なお姿で。薫の優雅さや気品に圧倒される思い」と注す。3.3.10
注釈363額髪なども自分の額髪。3.3.10
注釈364内裏より参りたまへるなるべし浮舟の母の推測。3.3.10
注釈365御前どものけはひ薫の御前駆。前駆の場合、「御前」は「ごぜん」と読む。3.3.10
注釈366昨夜后の宮の以下「聞こえさせてなむ」まで、薫の詞。3.3.11
注釈367見たてまつりて明石中宮を。3.3.11
注釈368宮の御代はりに匂宮の代わり。3.3.11
注釈369今朝もいと懈怠して参らせたまへるを主語は匂宮。匂宮の遅参。3.3.11
注釈370あいなう『集成』は「失礼ながら」「冗談にいう」。『完訳』は「私としてはあらずもがなのことですけれど」と訳す。3.3.11
注釈371げに以下「御用意になむ」まで、中君の詞。『完訳』は「冗談をきまじめに受け流す趣」と注す。3.3.13
注釈372御用意薫の気づかいをいう。3.3.13
注釈373見おきて主語は薫。3.3.14
注釈374ただならずおはしたるなめり『細流抄』は「草子地也」と指摘。「なめり」は語り手の推測。3.3.14
校訂24 ほど ほど--程に(に/#) 3.3.9
校訂25 見えたまはず 見えたまはず--みえ(え/+給は)す 3.3.9
3.4
第四段 中君、薫に浮舟を勧める


3-4  Naka-no-kimi recommends Kaoru for Ukmifune

3.4.1  例の、物語いとなつかしげに聞こえたまふ。事に触れて、 ただいにしへの忘れがたく、世の中のもの憂くなりまさるよしを、あらはには言ひなさで、かすめ愁へたまふ。
 いつものように、お話をとても親しく申し上げなさる。何につけても、ただ亡き姫君が忘れられず、世の中がますますつまらなくなっていくことを、はっきりとは言わないで、それとなく訴えなさる。
 いつものようになつかしい調子で薫は話し続けていたが、ともすればただ昔ばかりが忘られなくて、現在の生活に興味の持たれぬことを混ぜて中の君へ訴えようとするのであった。
  Rei no, monogatari ito natukasige ni kikoye tamahu. Koto ni hure te, tada inisihe no wasure gataku, yononaka no mono-uku nari masaru yosi wo, araha ni ha ihi-nasa de, kasume urehe tamahu.
3.4.2  「 さしも、いかでか、世を経て心に離れずのみはあらむ。なほ、 浅からず言ひ初めてしことの筋なれば、名残なからじとにや」など、見なしたまへど、人の御けしきはしるきものなれば、見もてゆくままに、あはれなる御心ざまを、 岩木ならねば、思ほし知る。
 「そんなにまで深く、どうして、いつまでも忘れられずばかりいらっしゃるのだろう。やはり、深く思っているように言い出したことだから、忘れられたと思われたくないのだろうか」などと、しいてお思いになるが、相手のご様子ははっきりとしているので、見ているうちに、しみじみとしたお気持ちを、岩木ではないから、お分かりになる。
 この人の言っているように長い時間を隔ててなお恋の続いているわけはない、これは熱愛するようにその昔に言い始めたことであったから、忘れていぬふうを装うのではないかと女王にょおうは疑ってもみたが、人の心は外見にもよく現われてくるものであるから、しばらく見ているうちに、この人の故人への思慕の情が岩木でない人にはよくわかるのであった。
  "Sasimo, ikadeka, yo wo he te kokoro ni hanare zu nomi ha ara m. Naho, asakara zu ihi-some te si koto no sudi nare ba, nagori nakara zi to ni ya?" nado, mi-nasi tamahe do, hito no mi-kesiki ha siruki mono nare ba, mi mote-yuku mama ni, ahare naru mi-kokoro-zama wo, iha-ki nara ne ba, omohosi-siru.
3.4.3  怨みきこえたまふことも多かれば、いとわりなくうち嘆きて、 かかる御心をやむる禊を せさせたてまつらまほしく 思ほすにやあらむかの人形のたまひ出でて、
 お恨み申し上げることが多いので、たいそう困って嘆息して、このようなお気持ちを無くす禊をおさせ申し上げたくお思いになったのであろうか、あの人形のことをお話し出しになって、
 この人を思う心も縷々るると言われるのに中の君は困っていて、恋の心をやめさせるみそぎをさせたい気にもなったか、人型ひとがたの話をしだして、
  Urami kikoye tamahu koto mo ohokare ba, ito warinaku uti-nageki te, kakaru mi-kokoro wo yamuru misogi wo se sase tatematura mahosiku omohosu ni ya ara m, kano hitogata notamahi-ide te,
3.4.4  「 いと忍びてこのわたりになむ
 「とても人目を忍んでこの辺りにいます」
 「このごろはあの人、そっとこのうちに来ています」
  "Ito sinobi te kono watari ni nam."
3.4.5  と、ほのめかしきこえたまふを、 かれもなべての心地はせず、ゆかしくなりにたれど、うちつけにふと移らむ心地はたせず。
 と、それとなく申し上げなさると、相手も平気な気持ちではいられず、興味をもったが、急に心移りする気はしない。
 とほのめかすと、男もそれをただごととして聞かれなかった。牽引力けんいんりょくのそこにもあるのを覚えたが、にわかにそちらへ恋を移す気にこの人はなれなかった。
  to, honomekasi kikoye tamahu wo, kare mo nabete no kokoti ha se zu, yukasiku nari ni tare do, utituke ni huto utura m kokoti hata se zu.
3.4.6  「 いでや、その本尊、願ひ満てたまふべくはこそ尊からめ、時々、心やましくは、なかなか山水も濁りぬべく」
 「さあ、そのご本尊が、願いをお満たしくださったら尊いことでしょうが、時々、悩ましく思うようでは、かえって悟りも濁ってしまいましょう」
 「でもその御本尊が私の願望を皆受け入れてくださるのであれば尊敬されますがね。いつも悩まされてばかりいるようでは、信仰も続きませんよ」
  "Ideya, sono Honzon, negahi mite tamahu beku ha koso tahutokara me, toki-doki, kokoro-yamasiku ha, naka-naka yama-midu mo nigori nu beku."
3.4.7  とのたまへば、果て果ては、
 とおっしゃると、最後は、

  to notamahe ba, hate-hate ha,
3.4.8  「 うたての御聖心や
 「困ったご道心ですこと」
 「まあ、あなたの信仰ってそれくらいなのですね」
  "Utate no ohom-hiziri-gokoro ya!"
3.4.9  と、ほのかに笑ひたまふも、をかしう聞こゆ。
 と、かすかにお笑いになるのも、おもしろく聞こえる。
 ほのかに中の君の笑うのも薫には美しく聞かれた。
  to, honoka ni warahi tamahu mo, wokasiu kikoyu.
3.4.10  「 いで、さらば、伝へ果てさせたまへかし。この御逃れ言葉こそ、思ひ出づればゆゆしく」
 「さあ、それでは、すっかりお伝えになってください。このお逃れの言葉も、思い出すと不吉な気がします」
 「では完全に私の希望をお伝えください。御自身の一時のがれの口実だと伺っていると、あとに何も残らなかった昔のことが思い出されて恐ろしくなります」
  "Ide, saraba, tutahe hate sase tamahe kasi. Kono ohom-nogare-kotoba koso, omohi-idure ba yuyusiku."
3.4.11  とのたまひても、また涙ぐみぬ。
 とおっしゃって、再び涙ぐんだ。
 こう言ってまた薫は涙ぐんだ。
  to notamahi te mo, mata namidagumi nu.
3.4.12  「 見し人の形代ならば身に添へて
 「亡き姫君の形見ならば、いつも側において
  見し人のかたしろならば身に添へて
    "Mi si hito no katasiro nara ba mi ni sohe te
3.4.13   恋しき瀬々のなでものにせむ
  恋しい折々の気持ちを移して流す撫物としよう
  恋しき瀬々のなでものにせん
    kohisiki se-ze no nade-mono ni se m
3.4.14  と、例の、戯れに言ひなして、紛らはしたまふ。
 と、いつものように、冗談のように言って、紛らわしなさる。
 これを例の冗談じょうだんにして言い紛らわしてしまった。
  to, rei no, tahabure ni ihi-nasi te, magirahasi tamahu.
3.4.15  「 みそぎ河瀬々に出ださむなでものを
 「禊河の瀬々に流し出す撫物を
  「みそぎがは瀬々にいださんなでものを
    "Misogi-gaha se-ze ni idasa m nade-mono wo
3.4.16   身に添ふ影と誰れか頼まむ
  いつまでも側に置いておくと誰が期待しましょう
  身に添ふかげとたれか頼まん
    mi ni sohu kage to tare ka tanoma m
3.4.17   引く手あまたに、とかや。いとほしくぞはべるや
 引く手あまたで、とか言います。不憫でございますわ」
 『ひくてあまたに』(大ぬさの引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ)とか申すようなことで、出過ぎたことですが私は心配されます」
  Hikute amata ni, to ka ya! Itohosiku zo haberu ya!"
3.4.18  とのたまへば、
 とおっしゃると、

  to notamahe ba,
3.4.19  「 つひに寄る瀬は、さらなりや。いと うれたきやうなる 水の泡にも争ひはべるかな。かき流さるるなでものは、いで、まことぞかし。いかで慰むべきことぞ」
 「最後の寄る瀬は、言うまでもありませんよ。たいそういまいましいような水の泡にも負けないようでございますね。捨てられて流される撫物は、いやもう、まったくその通りです。どうして慰められることができましょうか」
 「『つひによるせ』(大ぬさと名にこそ立てれ流れてもつひの寄る瀬はありけるものを)はどこであると私が思っていることはあなたにだけはおわかりになるはずですし、その話のほうのははかない水のあわと争って流れる撫物なでものでしかないのですから、あなたのお言葉のようにたいした効果を私にもたらしてくれもしないでしょう。私はどうすれば空虚になった心が満たされるのでしょう」
  "Tuhini yoru se ha, sara nari ya! Ito uretaki yau naru midu no awa ni mo arasohi haberu kana! Kaki-nagasa ruru nade-mono ha, ide, makoto zo kasi. Ikade nagusamu beki koto zo."
3.4.20  など言ひつつ、暗うなるもうるさければ、 かりそめにものしたる人も、 あやしくと思ふらむもつつましきを、
 などと言っているうちに、暗くなってくるのもやっかいなので、一時的に泊まっている人も、変だと思うのも気がひけて、
 こんなことを言いながら薫が長く帰って行こうとしないのもうるさくて、中の君は、
  nado ihi tutu, kurau naru mo urusakere ba, karisome ni monosi taru hito mo, ayasiku to omohu ram mo tutumasiki wo,
3.4.21  「 今宵は、なほ、とく帰りたまひね
 「今夜は、やはり、早くお帰りなさいませ」
 「ちょっと泊りがけでまいっている客も怪しく思わないかと遠慮がされますから、今夜だけは早くお帰りくださいまし」
  "Koyohi ha, naho, toku kaheri tamahi ne."
3.4.22  と、こしらへやりたまふ。
 と、機嫌をおとりになる。
 と言い、上手じょうずに帰りを促した。
  to, kosirahe yari tamahu.
注釈375ただいにしへの忘れがたく亡き大君を。3.4.1
注釈376さしもいかでか以下「名残なからじとにや」まで、中君の心中の思い。3.4.2
注釈377浅からず言ひ初めてしことの筋なれば『完訳』は「最初に深い思いを訴えたので、忘れたと思われたくないせいか」と注す。3.4.2
注釈378岩木ならねば『異本紫明抄』は「人は木石に非ず、皆情有り」(白氏文集、李夫人)を指摘。3.4.2
注釈379かかる御心をやむる禊を『異本紫明抄』は「恋せじとみたらし河にせし禊神はうけずもなりにけるかな」(古今集恋一、五〇一、読人しらず)を指摘。3.4.3
注釈380思ほすにやあらむ語り手の推測。挿入句的に挟み込む。3.4.3
注釈381かの人形浮舟をさす。3.4.3
注釈382いと忍びてこのわたりになむ中君の詞。3.4.4
注釈383かれも薫をさす。3.4.5
注釈384いでやその本尊以下「濁りぬべく」まで、薫の詞。3.4.6
注釈385うたての御聖心や中君の詞。冗談に言う。3.4.8
注釈386いでさらば以下「ゆゆしく」まで、薫の詞。3.4.10
注釈387見し人の形代ならば身に添へて恋しき瀬々のなでものにせむ薫の詠歌。「見し人」は故大君。「瀬々」と「なでもの」は縁語。3.4.12
注釈388みそぎ河瀬々に出ださむなでものを身に添ふ影と誰れか頼まむ中君の返歌。薫の「身に」「瀬々」「なでもの」の語句を受けて返す。『完訳』は「「なでもの」は水に流すものだから、生涯の伴侶と誰が頼みにしよう、と切り返した歌」と注す。3.4.15
注釈389引く手あまたに、とかや。いとほしくぞはべるや歌に続けた中君の詞。『源氏釈』は「大幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ」(古今集恋四、七〇六、読人しらず)を指摘。3.4.17
注釈390つひに寄る瀬は以下「慰むべきことぞ」まで、薫の詞。3.4.19
注釈391水の泡にも争ひはべるかな『全書』は「水の泡の消えて憂き身と言ひながら流れてなほも頼まるるかな」(古今集恋五、七九二、紀友則)を指摘。3.4.19
注釈392かりそめにものしたる人浮舟の母。3.4.20
注釈393あやしくと思ふらむも主語は浮舟の母。薫の長居を。3.4.20
注釈394今宵はなほとく帰りたまひね中君の詞。3.4.21
出典6 岩木ならねば 人非木石皆有情 不如不逢傾城<人木石にあらざれば皆情け有り 傾城に逢はざるに如かず> 白氏文集巻四-一六〇 李夫人 3.4.2
出典7 かかる御心をやむる禊 恋せじとと御手洗川にせし禊神はうけずぞなりにけらしも 古今集恋一-五〇一 読人しらず 3.4.3
出典8 引く手あまた 大幣(おほぬさ)の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ 古今集恋四-七〇六 読人しらず 3.4.17
出典9 つひに寄る瀬は 大幣(おほぬさ)と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありてふものを 古今集恋四-七〇七 在原業平 3.4.19
出典10 うれたきやうなる水の泡 水の泡の消えで憂き身と言ひながら流れて猶も頼まるるかな 古今集恋五-七九二 紀友則 3.4.19
3.5
第五段 浮舟の母、娘に貴人の婿を願う


3-5  Ukifune's mother desires her daughter to get marriaged to a noble man

3.5.1  「 さらば、その客人にかかる心の願ひ年経ぬるを、うちつけになど、浅う思ひなすまじう、のたまはせ知らせたまひて、はしたなげなるまじうはこそ。いとうひうひしうならひにてはべる身は、何ごともをこがましきまでなむ」
 「それでは、その客人に、このような願いを何年も持っていたので、急になど、浅く考えないようにおっしゃってお知らせなさって、みっともない目にあわないように願います。とても不慣れでございますわが身には、何事も愚かしいほど不調法で」
 「ではお客様に、それは私の長い間の願いだったことを言ってくだすって、にわかな思いつきの浅薄な志だと取られないようにしていただけば、私も自信がついて接近して行けるでしょう。恋愛の経験の少ない私には、女性の好意を求めに行くようなことなどは今さら恥ずかしくてできなくなっています」
  "Saraba, sono Marauto ni, kakaru kokoro no negahi tosi he nuru wo, utituke ni nado, asau omohi-nasu maziu, notamaha se sira se tamahi te, hasitanage naru maziu ha koso. Ito uhi-uhisiu narahi nite haberu mi ha, nani-goto mo wokogamasiki made nam."
3.5.2  と、語らひきこえおきて出でたまひぬるに、この母君、
 と、約束申してお出になったので、この母君、
 薫はこう頼んで帰って行った。姫君の母は薫をりっぱだと思い、
  to, katarahi kikoye oki te ide tamahi nuru ni, kono Haha-Gimi,
3.5.3  「 いとめでたく、思ふやうなるさまかな
 「とても立派で、理想的な様子ですこと」
 理想的な貴人である
  "Ito medetaku, omohu yau naru sama kana!"
3.5.4  とめでて、 乳母ゆくりかに思ひよりて、たびたび言ひしことを、 あるまじきことに言ひしかど、この御ありさまを見るには、「 天の川を渡りても、かかる彦星の光を こそ待ちつけさせめ。わが娘は、なのめならむ人に見せむは 惜しげなるさまを、夷めきたる人をのみ見ならひて、少将をかしこきものに思ひける」を、悔しきまで思ひなりにけり。
 と誉めて、乳母がひょいと思いついて、度々言ったことを、とんでもないことに言ったが、このご様子を見ては、「天の川を渡ってでも、このような彦星の光を待ち受けさせたいもの。自分の娘は、平凡な人と結婚させるのは惜しい様子を、東国の田舎者ばかり見馴れていて、少将を立派な人と思っていた」のを、後悔されるのだった。
 と心でほめて、乳母めのとが左近少将への復讐ふくしゅうとして思いつき、たびたび勧めたのを、あるまじいことだと退けていたが、あの風采ふうさいの大将であれば、たまさかな通い方をされても忍ぶことができよう、自分の娘は平凡人の妻とさせるにはあまりに惜しい美が備わっているのに、東国の野蛮な人たちばかりを見て来た目では、あの少将をすら優美な姿と見て婿にも擬してみたと、くちおしいまでにも破れた以前の姫君の婚約者のことをこの女は思うようになった。
  to mede te, Menoto yukuri-ka ni omohi-yori te, tabi-tabi ihi si koto wo, aru-maziki koto ni ihi sika do, kono ohom-arisama wo miru ni ha, "Ama-no-gaha wo watari te mo, kakaru Hiko-bosi no hikari wo koso mati-tuke sase me. Waga musume ha, nanome nara m hito ni mise m ha wosige naru sama wo, ebisu meki taru hito wo nomi mi-narahi te, Seusyau wo kasikoki mono ni omohi keru." wo, kuyasiki made omohi nari ni keri.
3.5.5   寄りゐたまへりつる真木柱も 茵も、名残匂へる移り香、 言へばいとことさらめきたるまでありがたし時々見たてまつる人だに、たびごとに めできこゆ
 寄り掛かっていらした真木柱にも茵にも、そのまま残っている匂いや移り香が、言うとわざとらしいまでに素晴らしい。時々拝見する女房でさえ、その度ごとにお誉め申し上げる。
 よりかかっていた柱にも敷き物にも残った薫のにおいのかんばしさを口にしては誇張したわざとらしいことにさえなるであろうと思われた。おりおり見る人さえもそのたびごとにほめざるを得ない薫であったのである。
  Yori-wi tamahe ri turu makibasira mo sitone mo, nagori nihohe ru uturi-ga, ihe ba ito kotosara-meki taru made arigatasi. Toki-doki mi tatematuru hito dani, tabi goto ni mede kikoyu.
3.5.6  「 経などを読みて、功徳のすぐれたることあめるにも、香の香うばしきをやむごとなきことに、仏のたまひおきけるも、ことわりなりや。薬王品などに、取り分きてのたまへる、牛頭栴檀とかや、おどろおどろしきものの名なれど、まづかの殿の近く振る舞ひたまへば、仏はまことしたまひけり、とこそおぼゆれ。幼くおはしけるより、行ひもいみじくしたまひければよ」
 「お経などを読んで、功徳のすぐれたことがあるようなのにつけても、香の芳しいのをこの上ないこととして、仏さまが説いておおきになったのも、もっともなことですわ。薬王品などに、特別に説かれている牛頭栴檀とかは、大げさな物の名前だが、まずあの大将殿が近くで身動きなさると、仏さまがほんとうにおっしゃったのだ、と思われます。子供でいらした時から、勤行も熱心になさっていたからですよ」
 「お経をたくさん読んだ人に、その報いの現われてくることの書いてある中に、芳香を身体からだに持つということを最高のものに仏様が書いておありになるのも道理だと思われますね。薬王品やくおうぼんなどにも特にそれが書いてありますね。牛頭栴檀ごずせんだんの香とかこわいような名だけれど、私たちは大将様にお近づきできることで仏様のお言葉にうそのないことをわからせていただきました。御幼少の時から仏勤めをよくあそばしたからよ」
  "Kyau nado wo yomi te, kudoku no sugure taru koto ameru ni mo, kano kaubasiki wo yamgotonaki koto ni, Hotoke notamahi-oki keru mo, kotowari nari ya! Yakuwau-hon nado ni, toriwaki te notamahe ru, Godusendan to ka ya, odoro-odorosiki mono no na nare do, madu kano tono no tikaku hurumahi tamahe ba, Hotoke ha makoto si tamahi keri, to koso oboyure. Wosanaku ohasi keru yori, okonahi mo imiziku si tamahi kere ba yo."
3.5.7  など言ふもあり。また、
 などと言う者もいる。また、

  nado ihu mo ari. Mata,
3.5.8  「 前の世こそゆかしき御ありさまなれ
 「前世が知りたいご様子ですこと」
 「でもこの世だけの信仰の結果とは思われませんね。どんな前生を持っていらっしゃったのか、それが知りたくなりますわ」
  "Saki-no-yo koso yukasiki ohom-arisama nare."
3.5.9  など、口々めづることどもを、 すずろに笑みて聞きゐたり
 などと、口々に誉めることを、思わずにっこりして聞いていた。
 などとも言って口々にほめるのを、常陸ひたち夫人は知らず知らず微笑して聞いていた。
  nado, kuti-guti meduru koto-domo wo, suzuro ni wemi te kiki wi tari.
注釈395さらばその客人に以下「おこがましきまでなむ」まで、薫の詞。
【その客人に】−浮舟に。
3.5.1
注釈396かかる心の願ひ浮舟を大君の「形代」として世話したい。3.5.1
注釈397いとめでたく思ふやうなるさまかな浮舟の母の感想。3.5.3
注釈398乳母ゆくりかに以下「思ひけるを」あたりまで、浮舟の心中に即した叙述。途中から直接心中文に競り上がって、再び地の文に吸収されていく。3.5.4
注釈399あるまじきことに言ひしかど主語は浮舟の母。3.5.4
注釈400天の川を渡りてもかかる彦星の光を『異本紫明抄』は「彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ」(伊勢物語)を指摘。3.5.4
注釈401寄りゐたまへりつる真木柱も『源氏釈』は「わぎもこが来ては寄り立つ真木柱そもむつまじきゆかりと思へば」(出典未詳)を指摘。3.5.5
注釈402言へばいとことさらめきたるまでありがたし語り手と浮舟の母の感想が一体化した叙述。3.5.5
注釈403時々見たてまつる人だに中君付きの女房。3.5.5
注釈404めできこゆ薫を。3.5.5
注釈405経などを読みて以下「したまひければよ」まで、女房の詞。3.5.6
注釈406前の世こそゆかしき御ありさまなれ女房の詞。3.5.8
注釈407すずろに笑みて聞きゐたり主語は浮舟の母。3.5.9
出典11 彦星の光 彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ 伊勢物語-一七〇 3.5.4
出典12 寄りゐたまへりつる真木柱 我妹子が来ては寄り立つ真木柱睦まじきゆかりと思へば 源氏釈所引-出典未詳 3.5.5
校訂26 惜しげなるさま 惜しげなるさま--おしけな(な/+るさ<朱>)ま 3.5.4
3.6
第六段 浮舟の母、中君に娘を託す


3-6  Ukifune's mother leaves Ukifune to Naka-no-kimi in Kyoto

3.6.1   君は、忍びてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ
 女君は、こっそりとおっしゃった話を、それとなくおっしゃる。
 中の君はそっと薫に託された話をした。
  Kimi ha, sinobi te notamahi turu koto wo, honomekasi notamahu.
3.6.2  「 思ひ初めつること、執念きまで軽々しからずものしたまふめるを、げに、ただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地すべけれど、かの世を背きても、など思ひ寄りたまふらむも、 同じことに思ひなして、試みたまへかし」
 「思いはじめたことは、執念深いまでに軽々しくなくいらっしゃるようなのを、なるほど、ただ今の様子などを思うと、やっかいな気持ちがしましょうが、あの出家をしても、などとお考えになるのも、同じこととお思いになって、お試しなさいませ」
 「一度お思いになったことは執拗しつようなほどにもお忘れにならない、まれな頼もしい性質でね。それは今はまあ御新婚された時などで、めんどうが多い気もあなたはするでしょうけれど、あなたが尼にさせようかなどとも思っておいでになるのなら、その気で試みてごらんになったらどう」
  "Omohi some turu koto, sihuneki made karo-garosikara zu monosi tamahu meru wo, geni, tada ima no arisama nado wo omohe ba, wadurahasiki kokoti su bekere do, kano yo wo somuki te mo, nado, omohi-yori tamahu ram mo, onazi koto ni omohi-nasi te, kokoromi tamahe kasi."
3.6.3  とのたまへば、
 とおっしゃると、

  to notamahe ba,
3.6.4  「 つらき目見せず、人にあなづられじの心にてこそ、 鳥の音聞こえざらむ住まひまで 思ひたまへおきつれ。げに、 人の御ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、 下仕へのほどなどにても、 かかる人の御あたりに、馴れきこえむは、かひありぬべし。まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべるめれど、 数ならぬ身に 、もの思ふ種をやいとど蒔かせて見はべらむ。
 「つらい目にあわず、誰からも馬鹿にされまいとの考えで、鳥の声が聞こえないような深山での生活まで考えておりました。おっしゃるように、殿のご様子や態度などを拝見して存じますことは、下仕えの身分などであっても、このような方のご身辺で、親しくしていただけるのは、生き甲斐のあることでしょう。まして若い女は、きっと心をお寄せ申し上げるにちがいないでしょうが、物の数にも入らない身で、物思いの種をますます蒔かせることになりましょうか。
 「つらい思いも味わわせず、人に軽蔑けいべつもさせたく思いません心から、とりの声も聞こえませぬような僧房住まいをおさせする気になっていたのですが、大将さんをはじめてお見上げして、ああした方にはたとえしも仕えにでも御奉公できますことは生きがいがあることと思われましてございます。年のいった者でもそう思うのですから、まして若い人はあの方に好感を持つことだろうと思われますものの、相手がごりっぱであればあるだけ卑下がされまして、物思いの種を心にかせることになりはしないでしょうかと苦労に考えられます。
  "Turaki me mise zu, hito ni anadura re zi no kokoro nite koso, tori no ne kikoye zara m sumahi made omohi tamahe oki ture. Geni, hito no ohom-arisama kehahi wo mi tatematuri tamahuru ha, simo-dukahe no hodo nite mo, kakaru hito no ohom-atari ni, nare kikoye m ha, kahi ari nu besi. Maite wakaki hito ha, kokoro tuke tatematuri nu beku haberu mere do, kazu nara nu mi ni, mono omohu tane wo ya itodo maka se te mi habera m.
3.6.5  高きも短きも、女といふものは、かかる筋にてこそ、この世、後の世まで、苦しき身になりはべるなれ、と思ひたまへはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。 それもただ御心になむ。ともかくも、思し捨てず、ものせさせたまへ」
 身分の高い者も低い者も、女というものは、このような男女の仲のことで、現世と、来世まで、苦しい身になるものです、と存じておりますので、かわいそうに存じております。その話もただお気持ちに任せます。ともかくも、お見捨てにならず、お世話くださいませ」
 身分の高低にかかわらず、女というものはねたましがらせられることで、この世のため、未来の世のために罪ばかりを作ることになるものだと思いますと、それがかわいそうでございます。しかし何も皆あなたの思召おぼしめし次第でございます。どんなにでもおめになって、お世話をくださいませ」
  Takaki mo mizikaki mo, womna to ihu mono ha, kakaru sudi nite koso, ko-no-yo, noti-no-yo made, kurusiki mi ni nari haberu nare, to omohi tamahe habere ba nam, itohosiku omohi tamahe haberu. Sore mo tada mi-kokoro ni nam. Tomo-kakumo, obosi-sute zu, monose sase tamahe."
3.6.6  と聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、
 と申し上げるので、たいそうやっかいになって、
 と常陸夫人の言うのを聞いていて、中の君は重い責任を負わされた気がして、
  to kikoyure ba, ito wadurahasiku nari te,
3.6.7  「 いさや。来し方の心深さにうちとけて、行く先のありさまは知りがたきを」
 「さあね。過去の思いやり深さに気を許しても、将来の様子は分からないことです」
 「今までの親切な心を知っているだけで将来のことは私に保証ができないのだから、そう言われるとどうしてよいかわからない」
  "Isaya! Kosi-kata no kokoro-bukasa ni utitoke te, yuku-saki no arisama ha siri gataki wo."
3.6.8  とうち嘆きて、ことに物ものたまはずなりぬ。
 とためいきをついて、他には何もおっしゃらずになった。
 と歎息をしたままでその話はしなくなった。
  to uti-nageki te, koto ni mono mo notamaha zu nari nu.
3.6.9  明けぬれば、車など率て来て、 守の消息など、いと腹立たしげに脅かしたれば
 夜が明けたので、車などを引き出して来て、介の手紙などが、とても立腹した文面で脅かしていたので、
 夜が明けると車などを持って来て、常陸守の帰りを促す腹だたしげな、威嚇いかく的な言葉を使いが伝えたため、
  Ake nure ba, kuruma nado wi te ki te, Kami no seusoko nado, ito hara-datasige ni obiyakasi tare ba,
3.6.10  「 かたじけなく、よろづに頼みきこえさせてなむ。なほ、しばし隠させたまひて、 巌の中にとも、いかにとも 、思ひたまへめぐらしはべるほど、 数にはべらずとも、思ほし放たず、何ごとをも教えさせたまへ」
 「恐れ多いことですが、万事お頼み申し上げます。やはり、もうしばらくお隠しになって、巌の中なりとも、どこなりとも、思案いたします間は、人並みの者でございませんが、お見捨てなく、何事もお教えくださいませ」
 「もったいないことですが、万事あなた様をお頼みに思わせていただきまして、あの方をお手もとへ置いてまいります。『いかならんいはほの中に住まばかは』(世のうきことの聞こえこざらん)とばかり苦しんでおります間だけを隠してあげてくださいませ。哀れな人と御覧くださいまして、教えられておりませんことをお教えくださいませ」
  "Katazikenaku, yorodu ni tanomi kikoye sase te nam. Naho, sibasi kakusa se tamahi te, ihaho no naka ni to mo, ikani to mo, omohi tamahe megurasi haberu hodo, kazu ni habera zu tomo, omohosi hanata zu, nani-goto wo mo wosihe sase tamahe."
3.6.11  など聞こえおきて、 この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもおぼえけり。
 などと申し上げておいて、この御方も、たいそう心細く、初めてのことで、別れることを心配するが、はなやかで美しく見える所で、しばらくの間もお親しみ申せると思うと、そうはいっても嬉しく思われるのだった。
 などと、昔の中将の君は夫人に泣きながら頼んでおいて帰って行こうとした。姫君は母に別れていたこともない習慣から心細く思うのであったが、はなやかな貴族の家庭にしばらくでも混じって行けるようになったことはさすがにうれしかった。
  nado kikoye-oki te, kono Ohom-Kata mo, ito kokoro-bosoku, naraha nu kokoti ni, tati-hanare m wo omohe do, imamekasiku wokasiku miyuru atari ni, sibasi mo mi-nare tatematura m to omohe ba, sasuga ni uresiku mo oboye keri.
注釈408君は、忍びてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ中君は薫が頼んだことを浮舟の母に言う。3.6.1
注釈409思ひ初めつること以下「試みたまへかし」まで、中君の詞。主語は薫。3.6.2
注釈410同じことに思ひなして『集成』は「それと同じ捨て身になった積りで」と訳す。3.6.2
注釈411つらき目見せず以下「せさせたまへ」まで、浮舟の母の詞。3.6.4
注釈412鳥の音聞こえざらむ住まひまで『異本紫明抄』は「飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)を指摘。出家遁世の意。3.6.4
注釈413人の御ありさまけはひを薫の様子や感じ。3.6.4
注釈414下仕へのほど女房以下の下仕えの身分。3.6.4
注釈415かかる人の御あたりに薫の身辺。3.6.4
注釈416数ならぬ身に娘の浮舟の身を思う。『異本紫明抄』は「かずならぬ身には思ひのなかれかし人なみなみに濡るる袖かな」(出典未詳)「今はとて忘るる草の種をだに人の心に蒔かせずもがな」(伊勢物語)を指摘。3.6.4
注釈417それもただ御心になむ浮舟の身のふりを。『完訳』は「中の君の考えしだいと委ねる」と注す。3.6.5
注釈418いさや以下「知りがたきを」まで、中君の詞。3.6.7
注釈419守の消息などいと腹立たしげに脅かしたれば娘の婚礼の日に外出していたので。3.6.9
注釈420かたじけなく以下「教へさせたまへ」まで、浮舟の母の詞。浮舟の身の処遇を依頼する。3.6.10
注釈421巌の中にともいかにとも『異本紫明抄』は「いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ」(古今集雑下、九五二、読人しらず)を指摘。3.6.10
注釈422数にはべらずとも浮舟の身を謙っていう。3.6.10
注釈423この御方も浮舟。3.6.11
出典13 鳥の音聞こえざらむ住まひ 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ 古今集恋一-五三五 読人しらず 3.6.4
出典14 数ならぬ身 今はとて忘るる草の種をだに人の心に蒔かせずもがな 伊勢物語-三九 3.6.4
出典15 巌の中に いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ 古今集雑下-九五二 読人しらず 3.6.10
Last updated 4/24/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 4/24/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 4/24/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年8月6日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月7日

Last updated 11/5/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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