47 総角(大島本)


AGEMAKI


薫君の中納言時代
二十四歳秋から歳末までの物語



Tale of Kaoru's Chunagon era, from fall to the end of the year at the age of 24

6
第六章 大君の物語 大君の病気と薫の看護


6  Tale of Ohoi-kimi  Ohoi-kimi falls ill and Kaoru nurses her

6.1
第一段 薫、大君の病気を知る


6-1  Kaoru hears that Ohoi-kimi fell ill

6.1.1   待ちきこえたまふ所は、絶え間遠き心地して、「 なほ、かくなめり」と、心細く眺めたまふに、中納言おはしたり。 悩ましげにしたまふと聞きて、御とぶらひなりけり。いと心地惑ふばかりの御悩みにもあらねど、 ことつけて、対面したまはず。
 お待ち申し上げていらっしゃる所では、長く訪れのない気がして、「やはり、こうなのだ」と、心細く物思いに沈んでいらっしゃるところに、中納言がおいでになった。ご病気でいらっしゃると聞いての、お見舞いなのであった。ひどく気分が悪いというご病気ではないが、病気にかこつけてお会いなさらない。
 待つほうの人からいえば、これが長い時間に思われて、やはりこんなふうにして忘られてしまうのかと、心細く物思いばかりがされた。そんなころにちょうど中納言がたずねて来た。総角あげまきの姫君が病気になったと聞いて見舞いに来たのである。ちょっとしたことにもすぐ影響が現われてくるというほどの病体ではなかったが、姫君はそれに託して対談するのを断わった。
  Mati kikoye tamahu tokoro ha, tayema tohoki kokoti si te, "Naho, kaku na' meri." to, kokoro-bosoku nagame tamahu ni, Tyuunagon ohasi tari. Nayamasige ni si tamahu to kiki te, ohom-toburahi nari keri. Ito kokoti madohu bakari no ohom-nayami ni mo ara ne do, kototuke te, taimen si tamaha zu.
6.1.2  「 おどろきながら、はるけきほどを参り来つるを。なほ、かの悩みたまふらむ御あたり近く」
 「びっくりして、遠くから参ったのに。やはり、あちらのご病人のお側近くに」
「おしらせを聞くとすぐに、驚いて遠いみちを上がった私なのですから、ぜひ御病床の近くへお通しください」
  "Odoroki nagara, harukeki hodo wo mawiri ki turu wo. Naho, kano nayami tamahu ram ohom-atari tikaku."
6.1.3  と、切におぼつかながりきこえたまへば、うちとけて住まひたまへる方の御簾の前に入れたれまつる。「いとかたはらいたきわざ」と 苦しがりたまへどけにくくはあらで、御髪もたげ、御いらへなど聞こえたまふ。
 と、しきりにご心配申し上げなさるので、くつろいで休んでいらっしゃるお部屋の御簾の前にお入れ申し上げる。「まことに見苦しいこと」と迷惑がりなさるが、そっけなくはなく、お頭を上げて、お返事など申し上げなさる。
 と言って、不安でこのままでは帰れぬふうを見せるために、女王の病室の御簾みすの前へ座が作られ、かおるはそこへ行った。困ったことであると姫君は苦しがっていたが、そう冷ややかなふうは見せるのでもなかった。頭をまくらから上げて返辞などをした。   to, seti ni obotukanagari kikoye tamahe ba, utitoke te sumahi tamahe ru kata no mi-su no mahe ni ire tatematuru. "Ito kataharaitaki waza." to kurusigari tamahe do, kenikuku ha ara de, mi-gusi motage, ohom-irahe nado kikoye tamahu.
6.1.4   宮の、御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど、語りきこえたまひて、
 宮が、不本意ながらお素通りになった様子などを、お話し申し上げなさって、
宮が御意志でもなくお寄りにならなかった紅葉もみじの船の日のことを薫は言い、
  Miya no, mi-kokoro mo yuka de ohasi sugi ni si arisama nado, katari kikoye tamahi te,
6.1.5  「 のどかに思せ。心焦られして、な恨みきこえたまひそ」
 「安心してください。いらいらなさって、お恨み申し上げなさいますな」
気永きながに見ていてください。はらはらとお心をつかってお恨みしたりなさらないように」
  "Nodoka ni obose. Kokoro-ira re si te, na urami kikoye tamahi so."
6.1.6  など教へきこえたまへば、
 などとお諭し申し上げなさると、
 などと教えるようにも言う。
  nado wosihe kikoye tamahe ba,
6.1.7  「 ここには、ともかくも聞こえたまはざめり。 亡き人の御諌めはかかることにこそ、と見はべるばかりなむ、いとほしかりける」
 「妹には、格別何とも申し上げなさらないようです。亡き親のご遺言はこのようなことだったのだ、と思われて、おかわいそうなのです」
「私は格別愚痴をこぼしたりはいたしませんが、くなられました宮様が、御教訓を残してお置きになりましたのは、こうしたこともあらせまい思召しかと思いまして、あの人がかわいそうでございます」
  "Koko ni ha, tomo-kakumo kikoye tamaha za' meri. Naki-hito no ohom-isame ha kakaru koto ni koso, to mi haberu bakari nam, itohosikari keru."
6.1.8  とて、泣きたまふけしきなり。いと心苦しく、我さへ恥づかしき心地して、
 と言って、お泣きになる様子である。まことにおいたわしくて、自分までが恥ずかしい気がして、
 それに続いて大姫君の歎く気配けはいがした。心苦しくて、薫は自身すらも恥ずかしくなって、
  tote, naki tamahu kesiki nari. Ito kokoro-gurusiku, ware sahe hadukasiki kokoti si te,
6.1.9  「 世の中は、とてもかくても一つさまにて過ぐすこと難くなむはべるを。いかなることをも御覧じ知らぬ 御心どもには、ひとへに恨めしなど思すこともあらむを、しひて思しのどめよ。うしろめたくはよにあらじとなむ思ひはべる」
 「夫婦仲というものは、いずれにしても一筋縄でゆくことは難しいものです。いろいろなことをご存知ないお二方には、ひたすら恨めしいと思いになることもあるでしょうが、じっと気長に考えなさい。不安はまったくないと存じます」
「人生というものは、何も皆思いどおりにいくものではありませんからね。そんなことには少しも経験をお持ちにならないあなたがたにとっては、恨めしくばかりお思われになることもあるでしょうが、まあしいてもそれを静めて時をお待ちなさい。決してこのまま悪くなっていく御縁ではないと私は信じています」
  "Yononaka ha, totemo-kakutemo hitotu sama nite sugusu koto naku nam haberu wo. Ika naru koto wo mo go-ran-zi sira nu mi-kokoro-domo ni ha, hitohe ni uramesi nado obosu koto mo ara m wo, sihite obosi nodome yo. Usirometaku ha yo ni ara zi to nam omohi haberu."
6.1.10  など、 人の御上をさへ扱ふも、かつはあやしくおぼゆ
 などと、他人のお身の上まで世話をやくのも、一方では妙なと思われなさる。
 などと言いながらも、自身のことでなく他の人の恋でこの弁明はしているのであると思うと、奇妙な気がしないでもなかった。   nado, hito no ohom-uhe wo sahe atukahu mo, katu ha ayasiku oboyu.
6.1.11  夜々は、まして いと苦しげにしたまひければ疎き人の御けはひの近きも、中の宮の苦しげに思したれば、
 夜毎に、さらにとても苦しそうになさったので、他人がお側近くにいる感じも、中の宮が辛そうにお思いになっていたので、
夜になるときまって苦しくなる病状であったから、他人が病室の近くに来ていることは中の君が迷惑することと思って、   Yoru-yoru ha, masite itokurusige ni si tamahi kere ba, utoki hito no ohom-kehahi no tikaki mo, Naka-no-Miya no kurusige ni obosi tare ba,
6.1.12  「 なほ、例の、あなたに
 「やはり、いつものように、あちらに」
やはりいつもの客室のほうへ寝床をしつらえて   "Naho, rei no, anata ni."
6.1.13  と人びと聞こゆれど、
 と女房たちが申し上げるが、
人々が案内を申し出るのであったが、
  to hito-bito kikoyure do,
6.1.14  「 まして、かくわづらひたまふほどのおぼつかなさを。 思ひのままに参り来て、出だし放ちたまへれば、いとわりなくなむ。かかる折の御扱ひも、 誰れかははかばかしく 仕うまつる
 「いつもより、このようにご病気でいらっしゃる時が気がかりなので。心配のあまりに参上して、外に放っておかれては、とてもたまりません。このような時のご看病の指図も、誰がてきぱきとお仕えできましょうか」
「始終気がかりでならなく思われる方が、ましてこんなふうにお悪くなっておいでになるのを聞くと、すぐにも上がった私を、病室からお遠ざけになるのは無意味ですよ。こんな場合のお世話なんぞも、私以外のだれが行き届いてできますか」
  "Masite, kaku wadurahi tamahu hodo no obotukanasa wo. Omohi no mama ni mawiri ki te, idasi hanati tamahe re ba, ito warinaku nam. Kakaru wori no ohom-atukahi mo, tare ka ha haka-bakasiku tukau-maturu."
6.1.15  など、弁のおもとに語らひたまひて、御修法ども始むべきことのたまふ。「 いと見苦しく、ことさらにも厭はしき身を」と聞きたまへど、 思ひ隈なくのたまはむもうたてあればさすがに、ながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり
 などと、弁のおもとにご相談なさって、御修法をいくつも始めるようにおっしゃる。「たいそう見苦しく、わざわざ捨ててしまいたいわが身なのに」と聞いていらっしゃるが、相手の気持ちを顧みないかのように断るのもいやなので、やはり、生き永らえよと思ってくださるお気持ちもありがたく思われる。
 などと、老女の弁に語って、始めさせる祈祷きとうについての計らいも薫はした。そんなことは恥ずかしい、死にたいとさえ思うほどの無価値な自分ではないかと大姫君は聞いていて思うのであったが、好意を持ってくれる人に対して、思いやりのないように思われるのも苦しくて、まあ生きていてもよいという気になったという、こんな、優しい感情もある女王なのであった。
  nado, Ben-no-Omoto ni katarahi tamahi te, mi-suhohu-domo hazimu beki koto notamahu. "Ito mi-gurusiku, kotosara ni mo itohasiki mi wo." to kiki tamahe do, omohi kumanaku notamaha m mo utate are ba, sasuga ni, nagarahe yo to omohi tamahe ru kokoro-bahe mo ahare nari.
注釈830待ちきこえたまふ所は匂宮を。宇治の姫君たちをさす。6.1.1
注釈831なほかくなめり数日間の途絶えから、匂宮はやはり不誠実な人だと絶望する気持。6.1.1
注釈832悩ましげにしたまふと聞きて大君の状態。前に食事も通らないとあったことをさす。6.1.1
注釈833ことつけて病気にかこつけて。6.1.1
注釈834おどろきながら以下「御あたり近く」まで、薫の詞。6.1.2
注釈835苦しがりたまへど主語は大君。6.1.3
注釈836けにくくはあらでそっけなくはなく。6.1.3
注釈837宮の御心もゆかでおはし過ぎにしありさまなど匂宮が不本意ながら立ち寄ることができなかった事情などを。6.1.4
注釈838のどかに思せ以下「恨みきこえたまひそ」まで、薫の詞。6.1.5
注釈839ここにはともかくも以下「いとほしかりける」まで、大君の詞。「ここには」は妹の中君をさす。6.1.7
注釈840亡き人の御諌め故父八宮の遺言。6.1.7
注釈841世の中はとてもかくても以下「となむ思ひはべる」まで、薫の詞。「世の中」は夫婦仲をいう。『異本紫明抄』「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」(新古今集雑下、一八五一、蝉丸)を指摘。6.1.9
注釈842御心どもには大君と中君の御心中。6.1.9
注釈843人の御上をさへ扱ふもかつはあやしくおぼゆ『完訳』は「自分の恋もかなわぬのに、匂宮の世話までやくのも、一面では妙な感じ。自嘲ぎみの感慨である」と注す。6.1.10
注釈844いと苦しげにしたまひければ主語は大君。6.1.11
注釈845疎き人の御けはひの薫をさす。6.1.11
注釈846なほ例のあなたに女房の詞。西廂の客間に勧める。6.1.12
注釈847ましてかくわづらひたまふほどの以下「仕うまつる」まで、薫の詞。6.1.14
注釈848思ひのままに参り来て『集成』は「何もかも投げ出してやって参りましたのに」。『完訳』は「ただ心配のあまりお訪ねしてしまったのに」と訳す。6.1.14
注釈849誰れかは--仕うまつる反語表現。私薫しかいない、意。6.1.14
注釈850いと見苦しくことさらにも厭はしき身を大君の心中。薫の指図を聞きながら思う。6.1.15
注釈851思ひ隈なくのたまはむもうたてあれば『完訳』は「せっかくのご親切に対して察しもつかぬようにお断りをおっしゃるのも不都合なことだし」と注す。6.1.15
注釈852さすがにながらへよと思ひたまへる心ばへもあはれなり『集成』は「それでもやはり、長生きせよと願っていられる(薫の)気持もうれしく思われる。「さすがに」は、「ことさらにもいとはしき身を、と聞きたまへど」に応じる」。『完訳』は「薫の言動に、大君は一面ではやはり、誠意を認めて感動する」と注す。6.1.15
出典51 世の中は、とてもかくても 世の中をとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ 新古今集雑下-一八五一 蝉丸 6.1.9
6.2
第二段 大君、匂宮と六の君の婚約を知る


6-2  Ohoi-kimi hears that Nio-no-miya and Roku-no-kimi got married

6.2.1  またの朝に、「 すこしもよろしく思さるや。昨日ばかりにてだに聞こえさせむ」とあれば、
 翌朝、「少しはよくなりましたか。せめて昨日ぐらいにお話し申し上げたい」というので、
 次の朝になって、薫のほうから、
「少し御気分はおよろしいようですか。せめて昨日きのうほどにでもしてお話がしたい」
 と、言ってやると、
  Mata no asita ni, "Sukosi mo yorosiku obosa ru ya! Kinohu bakari nite dani kikoyesase m." to are ba,
6.2.2  「 日ごろ経ればにや、今日はいと苦しくなむ。さらば、こなたに」
 「数日続いたせいか、今日はとても苦しくて。それでは、こちらに」
「次第に悪くなっていくのでしょうか、今日はたいへん苦しゅうございます。それではこちらへ」
  "Higoro hure ba ni ya, kehu ha ito kurusiku nam. Saraba, konata ni."
6.2.3  と言ひ出だしたまへり。 いとあはれに、いかにものしたまふべきにかあらむ、 ありしよりはなつかしき御けしきなるも、胸つぶれておぼゆれば、近く寄りて、よろづのことを聞こえたまひて、
 とお伝えになった。たいそうおいたわしく、どのような具合でいらっしゃるのか。以前よりは優しいご様子なのも、胸騷ぎして思われるので、近くに寄って、いろいろのことを申し上げなさって、
 という挨拶あいさつがあった。中納言は哀れにそれを聞いて、どんなふうに苦しいのであろうと思い、以前よりも親しみを見せられるのも悪くなっていく前兆ではあるまいかと胸騒ぎがし、近く寄って行きいろいろな話をした。
  to ihi-idasi tamahe ri. Ito ahare ni, ikani monosi tamahu beki ni ka ara m, arisi yori ha natukasiki mi-kesiki naru mo, mune tubure te oboyure ba, tikaku yori te, yorodu no koto wo kikoye tamahi te,
6.2.4  「 苦しくてえ聞こえず。すこしためらはむほどに」
 「苦しくてお返事できません。少しおさまりましてから」
「今私は苦しくてお返辞ができません。少しよくなりましたらねえ」
  "Kurusiku te e kikoye zu. Sukosi tameraha m hodo ni."
6.2.5  とて、いとかすかにあはれなるけはひを、限りなく心苦しくて嘆きゐたまへり。さすがに、つれづれとかくておはしがたければ、いとうしろめたけれど、帰りたまふ。
 と言って、まことにか細い声で弱々しい様子を、この上なくおいたわしくて嘆いていらっしゃった。そうはいっても、所在なくこうしておいでになることもできないので、まことに不安だが、お帰りになる。
 こうかすかな声で言う哀れな恋人が心苦しくて、薫は歎息たんそくをしていた。さすがにこうしてずっと今日もいることはできない人であったから、気がかりにしながらも帰京をしようとして、
  tote, ito kasuka ni ahare naru kehahi wo, kagiri naku kokoro-gurusiku te nageki wi tamahe ri. Sasuga ni, ture-dure to kaku te ohasi gatakere ba, ito usirometakere do, kaheri tamahu.
6.2.6  「 かかる御住まひは、なほ苦しかりけり。 所さりたまふにことよせて、さるべき所に移ろはしたてまつらむ」
 「このようなお住まいは、やはりお気の毒です。場所を変えて療養なさるのにかこつけて、しかるべき所にお移し申そう」
「こういう所ではお病気の際などに不便でしかたがない。家を変えてみる療法に託してしかるべき所へ私はお移ししようと思う」
  "Kakaru ohom-sumahi ha, naho kurusikari keri. Tokoro sari tamahu ni koto yose te, saru-beki tokoro ni uturohasi tatematura m."
6.2.7  など聞こえおきて、 阿闍梨にも、御祈り心に入るべくのたまひ知らせて、出でたまひぬ。
 などと申し上げおいて、阿闍梨にも、御祈祷を熱心にするようお命じになって、お出になった。
 などと言い置き、御寺みてら阿闍梨あじゃりにも熱心に祈祷きとうをするように告げさせて山荘を出た。
  nado, kikoye-oki te, Azari ni mo, ohom-inori kokoro ni iru beku notamahi sirase te, ide tamahi nu.
6.2.8   この君の御供なる人の、いつしかと、ここなる若き人を語らひ寄りたるなりけり。 おのがじしの物語に
 この君のお供の人で、早くも、ここにいる若い女房と恋仲になっているのであった。それぞれの話で、
 薫の従者でたびたびの訪問について来た男で山荘の若い女房と情人関係になった者があった。二人の中の話に、   Kono Kimi no ohom-tomo naru hito no, itusika to, koko naru wakaki hito wo katarahi yori taru nari keri. Onogazisi no monogatari ni,
6.2.9  「 かの宮の、御忍びありき制せられたまひて、内裏にのみ籠もりおはします。左の大殿の君を、あはせたてまつりたまへるなる。 女方は、年ごろの御本意なれば、思しとどこほることなくて、年のうちに ありぬべかなり
 「あの宮が、ご外出を禁じられなさって、内裏にばかり籠もっていらっしゃいます。左の大殿の姫君を、娶せ申しなさるらしい。女方は、長年のご本意なので、おためらいになることもなくて、年内にあると聞いている。
兵部卿の宮には監視がきびしく付き、外出を禁じられておいでになることを言い、
「左大臣のお嬢さんと御結婚をおさせになることになっているのだが、大臣のほうでは年来の志望が達せられるので二つ返辞というものなのだから、この年内に実現されることだろう。
  "Kano Miya no, ohom-sinobi-ariki sei-se rare tamahi te, Uti ni nomi komori ohasimasu. Hidari-no-Ohoidono no Kimi wo, ahase tatematuri tamahe ru naru. Womna-gata ha, tosi-goro no ohom-hoi nare ba, obosi todokohoru koto naku te, tosi no uti ni ari nu beka' nari.
6.2.10   宮はしぶしぶに思して、内裏わたりにも、ただ好きがましきことに御心を入れて、帝后の御戒めに静まりたまふべくも あらざめり
 宮はしぶしぶとお思いで、内裏辺りでも、ただ好色がましいことにご熱心で、帝や后の御意見にもお静まりそうもないようだ。
宮はその話に気がお進みにならないで、御所の中で放縦ほうじゅうな生活をして楽しんでおいでになるから、おかみや中宮様の御処置も当を得なかったわけになるのだね。   Miya ha sibu-sibu ni obosi te, Uti watari ni mo, tada suki-gamasiki koto ni mi-kokoro wo ire te, Mikado Kisaki no ohom-imasime ni sidumari tamahu beku mo ara za' meri.
6.2.11   わが殿こそ、なほあやしく人に似たまはず、あまりまめにおはしまして、人にはもて悩まれたまへ。ここにかく 渡りたまふのみなむ、目もあやに、おぼろけならぬこと、と人申す」
 わたしの殿は、やはり人にお似にならず、あまりに誠実でいらして、人からは敬遠されておいでだ。ここにこうしてお越しになるだけが、目もくらむほどで、並々でないことだ、と人が申している」
自家うちの殿様は決してそんなのじゃない、あまりまじめ過ぎる点で皆が困っているほどなのだ。ここへこうたびたびおいでになることだけが驚くべき御執心を一人の方に持っておられると言ってだれも感心していることだ」
  Waga Tono koso, naho ayasiku hito ni ni tamaha zu, amari mame ni ohasimasi te, hito ni ha mote nayama re tamahe. Koko ni kaku watari tamahu nomi nam, me mo aya ni, oboroke no koto, to hito mausu."
6.2.12  など語りけるを、「 さこそ言ひつれ」など、 人びとの中にて 語るを聞きたまふに、いとど胸ふたがりて、
 などと話したのを、「そのように言っていた」などと、女房たちの中で話しているのをお聞きになると、ますます胸がふさがって、
 とも言った。こんな話を聞きましたと、その女が他の女房たちの中で語っているのを中の君は聞いて、ふさがり続けた胸がまたその上にもふさがって、   nado katari keru wo, "Sakoso ihi ture." nado, hito-bito no naka ni te kataru wo kiki tamahu ni, itodo mune hutagari te,
6.2.13  「 今は限りにこそあなれ。やむごとなき方に定まりたまはぬ、なほざりの御すさびに、かくまで思しけむを、さすがに 中納言などの思はむところを思して、言の葉の限り深きなりけり」
 「もうお終いだわ。高貴な方と縁組がお決まりになるまでの、ほんの一時の慰みに、こうまでお思いになったが、そうはいっても中納言などが思うところをお考えになって、言葉だけは深いのだった」
もういよいよ自分から離れておしまいになる方と解釈しなければならない、りっぱな夫人をお得になるまでの仮の恋を自分へ運んでおいでになったにすぎなかったのであろう、さすがに中納言などへのはばかりで手紙だけは今でも情のあるようなことを書いておよこしになるのであろう   "Ima ha kagiri ni koso a' nare. Yamgotonaki kata ni sadamari tamaha nu, nahozari no ohom-susabi ni, kaku made obosi kem wo, sasuga ni Tyuunagon nado no omoha m tokoro wo obosi te, koto-no-ha no kagiri hukaki nari keri."
6.2.14  と思ひなしたまふに、ともかくも人の御つらさは思ひ知らず、 いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり
 とお思いになると、とやかく宮のおつらさは考えることもできず、ますます身の置き場所もない気がして、落胆して臥せっていらっしゃった。
と考えられるのであったが、恨めしいと人の思うよりも、恥ずかしい自身の置き場がない気がして、しおれて横になっていた。   to omohi-nasi tamahu ni, tomo-kakumo hito no ohom-turasa ha omohi-sira zu, itodo mi no oki-dokoro no naki kokoti si te, siwore husi tamahe ri.
6.2.15  弱き御心地は、いとど世に立ちとまるべくもおぼえず。恥づかしげなる人びとにはあらねど、 思ふらむところの苦しければ、聞かぬやうにて寝たまへるを、中の君、 もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝の御さまの いとらうたげにて、腕を枕にて寝たまへるに、御髪のたまりたるほどなど、ありがたくうつくしげなるを見やりつつ、 親の諌めし言の葉も、かへすがへす思ひ出でられたまひて悲しければ、
 弱ったご気分では、ますます世に生き永らえることも思われない。気のおける女房たちではないが、何と思うかつらいので、聞かないふりをして寝ていらしたが、中の宮、物思う時のことと聞いていたうたた寝のご様子がたいそうかわいらしくて、腕を枕にして寝ていらっしゃるところに、お髪がたまっているところなど、めったになく美しそうなのを見やりながら、親のご遺言も繰り返し繰り返し思い出されなさって悲しいので、
病女王はそれが耳にはいった時から、いっそうこの世に長くいたいとは思われなくなった。つまらぬ女たちではあるが、その人たちもどんなにこの始末を嘲笑ちょうしょうして思っているかもしれぬと思われる苦しさから、聞こえぬふうをして寝ているのであった。中の君は物思いをする人の姿態といわれるかいなまくらにしたうたた寝をしているのであるが、その姿が可憐かれんで、髪が肩の横にたまっているところなどの美しいのを、病女王にょおうはながめながら、親のいさめ(たらちねの親のいさめしうたた寝云々)の言葉というものがかえすがえす思い出されて悲しくなり、   Yowaki mi-kokoti ha, itodo yo ni tati-tomaru beku mo oboye zu. Hadukasige naru hito-bito ni ha ara ne do, omohu ram tokoro no kurusikere ba, kika nu yau nite ne tamahe ru wo, Naka-no-Kimi, mono omohu toki no waza to kiki si, utatane no ohom-sama no ito rautage nite, ude wo makura ni te ne tamahe ru ni, mi-gusi no tamari taru hodo nado, arigataku utukusige naru wo miyari tutu, oya no isame si koto-no-ha mo, kahesu-gahesu omohi-ide rare tamahi te kanasikere ba,
6.2.16  「 罪深かなる底にはよも沈みたまはじ。いづこにもいづこにも、おはすらむ方に 迎へたまひてよ。かくいみじく もの思ふ身どもをうち捨てたまひて、夢にだに 見えたまはぬよ
 「罪深いという地獄には、よもや落ちていらっしゃるまい。どこでもかしこでも、おいでになるところにお迎えください。このようにひどく物思いに沈むわたしたちをお捨てになって、夢にさえお見えにならないこと」
あの世の中でも罪の深い人のちる所へ父君は行っておいでにはなるまい、たとえどこにもせよおいでになる所へ自分を迎えてほしい、こんなに悲しい思いばかりを見ている自分たちを捨ててお置きになって、父君は夢にさえも現われてきてはくださらないではないか   "Tumi hukaka naru soko ni ha, yo mo sidumi tamaha zi. Iduko ni mo iduko ni mo, ohasu ram kata ni mukahe tamahi te yo. Kaku imiziku mono omohu mi-domo wo uti-sute tamahi te, yume ni dani miye tamaha nu yo."
6.2.17  と思ひ続けたまふ。
 とお思い続けなさる。
と思い続けて、   to omohi tuduke tamahu.
注釈853すこしもよろしく以下「聞こえさせむ」まで、薫の詞。6.2.1
注釈854日ごろ経ればにや以下「こなたに」まで、大君の詞。6.2.2
注釈855いとあはれに以下、薫の気持ちに即した叙述。6.2.3
注釈856ありしよりはなつかしき御けしきなるも『完訳』は「病床近くに招き入れるといった、今までにない親しい扱いに、薫は胸騷ぎがする」と注す。6.2.3
注釈857苦しくて以下「ためらはむほど」まで、大君の詞。6.2.4
注釈858かかる御住まひは以下「移ろはしたてまつむ」まで、薫の詞。6.2.6
注釈859所さりたまふにことよせて薫は転地療法にかこつけて、大君を都の適当な場所に移そうとする。6.2.6
注釈860阿闍梨にも故八宮の師である宇治山の阿闍梨。6.2.7
注釈861この君の御供なる人の薫の供人。「人の」の「の」は格助詞、同格の意。6.2.8
注釈862おのがじしの物語に薫の供人とその恋人の世間話。6.2.8
注釈863かの宮の御忍びありき以下「おぼろけならぬことと人申す」まで、供人の匂宮についての噂話。6.2.9
注釈864女方は夕霧の六君。6.2.9
注釈865ありぬべかなり連語「ぬべし」の連体形。確信に満ちた推量のニュアンス。「なり」伝聞推定の助動詞。6.2.9
注釈866宮はしぶしぶに思して匂宮。六君との結婚に気が進まない。6.2.10
注釈867あらざめり推量の助動詞「めり」。供人の主観的推量のニュアンス。6.2.10
注釈868わが殿こそ薫をさす。係助詞「こそ」は「もて悩まれたまへ」にかかる。6.2.11
注釈869渡りたまふのみなむ係助詞「なむ」は結びの流れ。6.2.11
注釈870さこそ言ひつれ薫の供人の恋人の詞。供人の話を間接話法で周囲の女房にかたる。6.2.12
注釈871人びとの中にて女房たちの中で。6.2.12
注釈872語るを聞きたまふに主語は大君。6.2.12
注釈873今は限りにこそあなれ以下「深きなりけり」まで、大君の心中。匂宮と六君の結婚話を聞いて絶望を感じる。6.2.13
注釈874中納言などの思はむところを思して薫の思惑。6.2.13
注釈875いとど身の置き所のなき心地して、しをれ臥したまへり精も根も尽き果てた様子。『完訳』は「薄情な匂宮への恨めしさ。それより、妹の親代りへとしての責任を痛感。しかしなすすべもなく無力」と注す。6.2.14
注釈876思ふらむところの苦しければ主語は女房たち。6.2.15
注釈877もの思ふ時のわざと聞きしうたた寝の御さまの『源氏釈』は「たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふときのわざにぞありける」(拾遺集恋四、八九七、読人しらず)を指摘する。6.2.15
注釈878親の諌めし言の葉も前の引歌「たらちねの」歌の言葉による。故父八宮の遺言をさす。6.2.15
注釈879罪深かなる底には以下「見えたまはぬよ」まで、大君の心中。「なる」伝聞推定の助動詞。罪深い人の行くところ、すなわち地獄をさす。6.2.16
注釈880よも沈みたまはじ主語は故父八宮。6.2.16
注釈881迎へたまひてよ私を。『完訳』は「亡父に抱きとめられたい思い。死への道が刻々と近づく趣である」と注す。6.2.16
注釈882もの思ふ身ども複数を表す接尾語「ども」、大君と中君の姉妹をさす。6.2.16
注釈883見えたまはぬよ主語は故八宮。6.2.16
出典52 もの思ふ時のわざと聞きし、うたた寝 たらちねの親の諌めしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける 拾遺集恋四-八九七 読人しらず 6.2.15
6.3
第三段 中の君、昼寝の夢から覚める


6-3  Naka-no-kimi wakes up from dream in daytime

6.3.1   夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて、木の下吹き払ふ風の音などに、たとへむ方なく、来し方行く先 思ひ続けられて添ひ臥したまへるさま、あてに限りなく見えたまふ。
 夕暮の空の様子がひどくぞっとするほど時雨がして、木の下を吹き払う風の音などに、たとえようもなく、過去未来が思い続けられて、添い臥していらっしゃる様子、上品でこの上なくお見えになる。
夕方の空の色がすごくなり、時雨しぐれが降り、木立ちの下を吹き払う風の音を寂しく聞きながら、過去のこと、のちの日のことをはかなんで病床にいる姿には、またもない品よさが備わり、   Yuhugure no sora no kesiki ito sugoku sigure te, ko no sita harahu kaze no oto nado ni, tatohe m kata naku, kisikata-yukusaki omohi tuduke rare te, sohi-husi tamahe ru sama, ate ni kagirinaku miye tamahu.
6.3.2   白き御衣に、髪は削ることもしたまはでほど経ぬれど、まよふ筋なくうちやられて、日ごろにすこし青みたまへるしも、なまめかしさまさりて、眺め出だしたまへるまみ、額つきのほども、 見知らむ人に見せまほし
 白い御衣に、髪は梳くこともなさらず幾日もたってしまっているが、まつわりつくことなく流れて、幾日も少し青くやつれていらっしゃるのが、優美さがまさって、外を眺めていらっしゃる目もと、額つきの様子も、分かる人に見せたいほどである。
白の衣服を着て、頭はくこともしないでいるのであるが、もつれたところもなくきれいに筋がそろったまま横に投げやりになっている髪の色に少し青みのできたのもえんな趣を添えたと見える。目つき額つきの美しさはすぐれた女の顔というもののよくわかる人に見せたいようであった。   Siroki ohom-zo ni, kami ha keduru koto mo si tamaha de hodo he nure do, mayohu sudi naku uti-yarare te, hi-goro ni sukosi awomi tamahe ru simo, namamekasisa masari te, nagame idasi tamahe ru mami, hitahi-tuki no hodo mo, mi-sira m hito ni mise mahosi.
6.3.3   昼寝の君、風のいと荒きに驚かされて起き上がりたまへり。山吹、薄色などはなやかなる色あひに、御顔はことさらに染め匂はしたらむやうに、いとをかしくはなばなとして、いささかもの思ふべきさまもしたまへらず。
 昼寝の君は、風がたいそう荒々しいのに目を覚まされて起き上がりなさった。山吹襲に、薄紫色の袿などがはなやかな色合いで、お顔は特別に染めて匂わしたように、とても美しくあでやかで、少しも物思いをする様子もなさっていない。
うたた寝していたほうの女王は、荒い風の音に驚かされて起き上がった。山吹やまぶきの色、淡紫うすむらさきなどの明るい取り合わせの着物は着ていたが顔はまたことさらに美しく、染めたように美しく、花々とした色で、物思いなどは少しも知らぬというようにも見えた。
  Hirune-no-Kimi, kaze no ito araki ni odoroka sare te oki-agari tamahe ri. Yamabuki, usu-iro nado hanayaka naru iro-ahi ni, ohom-kaho ha kotosara ni some nihohasi tara m yau ni, ito wokasiku hana-bana to si te, isasaka mono omohu beki sama mo si tamahe ra zu.
6.3.4  「 故宮の夢に見えたまへる、いともの思したるけしきにて、 このわたりにこそ、ほのめきたまひつれ」
 「故宮が夢に現れなさったが、とてもご心配そうな様子で、このあたりに、ちらちら現れなさった」
「お父様を夢に見たのですよ。物思わしそうにして、ちょうどこの辺の所においでになりましたわ」
  "Ko-Miya no yume ni miye tamahe ru, ito mono obosi taru kesiki ni te, ko no watari ni koso, honomeki tamahi ture."
6.3.5  と語りたまへば、いとどしく悲しさ添ひて、
 とお話しになると、ますます悲しさがつのって、
 と言うのを聞いて病女王の心はいっそう悲しくなった。
  to katari tamahe ba, itodosiku kanasisa sohi te,
6.3.6  「 亡せたまひて後、いかで夢にも見たてまつらむと思ふを、さらにこそ、見たてまつらね」
 「お亡くなりになって後、何とか夢にも拝したいと思うが、全然、拝見していません」
「おかくれになってから、どうかして夢の中ででもおいしたいと私はいつも思っているのに少しも出ておいでにならないのですよ」
  "Use tamahi te noti, ikade yume ni mo mi tatematura m to omohu wo, sarani koso, mi tatematura ne."
6.3.7  とて、二所ながらいみじく泣きたまふ。
 と言って、お二方ともひどくお泣きになる。
 と言ったあとで、二人は非常に泣いた。   tote, huta-tokoro nagara imiziku naki tamahu.
6.3.8  「 このころ明け暮れ思ひ出でたてまつれば、ほのめきもやおはすらむ。いかで、おはすらむ所に尋ね参らむ。 罪深げなる身どもにて
 「最近、明け暮れお思い出し申しているので、お姿をお見せになるかしら。何とか、おいでになるところへ尋ねて参りたい。罪障の深い二人だから」
このごろは明け暮れ自分が思っているのであるから、ふと出ておいでになることもあったのであろう、どうしても父君のおそばへ行きたい、人の妻にもならず、子なども持たない清い身を持ってあの世へ行きたい、   "Kono-koro ake-kure omohi-ide tatemature ba, honomeki mo ya ohasu ram. Ikade, ohasu ram tokoro ni tadune mawira m. Tumi hukage naru mi-domo nite."
6.3.9  と、後の世をさへ思ひやりたまふ。 人の国にありけむ香の煙ぞ 、いと得まほしく思さるる。
 と、来世のことまでお考えになる。唐国にあったという香の煙を、本当に手に入れたくお思いになる。
と大姫君は来世のことまでも考えていた。支那しなの昔にあったという反魂香はんごんこうも、恋しい父君のためにほしいとあこがれていた。   to, noti-no-yo wo sahe omohi-yari tamahu. Hito no kuni ni ari kem kau no keburi zo, ito e mahosiku obosa ruru.
注釈884夕暮の空のけしきいとすごくしぐれて初冬の山里の荒寥たる風景。大君の心象風景。6.3.1
注釈885思ひ続けられて主語は大君。6.3.1
注釈886添ひ臥したまへるさま几帳の陰に添って臥しているさま。6.3.1
注釈887白き御衣に清浄なさま。病中の体。6.3.2
注釈888見知らむ人に見せまほし語り手の評語。暗に薫をさしていう。6.3.2
注釈889昼寝の君中君。6.3.3
注釈890故宮の夢に見えたまへる以下「こそほのめきたまひつれ」まで、中君の詞。6.3.4
注釈891このわたりにこそ『集成』は「手で指し示す体」と注す。6.3.4
注釈892亡せたまひて後以下「見たてまつらね」まで、大君の詞。6.3.6
注釈893このころ明け暮れ以下「身どもにて」まで、大君の心中。6.3.8
注釈894罪深げなる身どもにて女は罪障が深く極楽往生も難しいとする仏教思想。6.3.8
注釈895人の国にありけむ香の煙ぞ『源氏釈』は「白氏文集」李夫人の反魂香の故事を指摘する。6.3.9
出典53 人の国にありけむ香の煙 反魂香夫人魂 夫人之魂在何許 反魂の香は夫人の魂を反す 夫人の魂何れの許にか在る 6.3.9
6.4
第四段 十月の晦、匂宮から手紙が届く


6-4  Last day of October, Naka-no-kimi receives a letter from Nio-no-miya

6.4.1  いと暗くなるほどに、宮より御使あり。 折は、すこしもの思ひ慰みぬべし御方はとみにも見たまはず。
 たいそう暗くなったころに、宮からお使いが来る。悲観の折とて、少し物思いもきっと慰んだことであろう。御方はすぐには御覧にならない。
暗くなってしまったころに兵部卿の宮のお使いが来た。こうした一瞬間は二女王の物思いも休んだはずである。中の君はすぐに読もうともしなかった。
  Ito kuraku naru hodo ni, Miya yori ohom-tukahi ari. Wori ha, sukosi mono-omohi nagusami nu besi. Ohom-kata ha tomi ni mo mi tamaha zu.
6.4.2  「 なほ、心うつくしくおいらかなるさまに聞こえたまへ。 かくてはかなくもなりはべりなばこれより名残なき方にもてなしきこゆる人もや出で来む、とうしろめたきを。まれにも、 この人の思ひ出できこえたまはむに、 さやうなるあるまじき心つかふ人は、えあらじと思へば、つらきながらなむ 頼まれはべる
 「やはり、素直におおらかにお返事申し上げなさい。こうして亡くなってしまったら、この方よりもさらにひどい目にお遭わせ申す人が現れ出て来ようか、と心配です。時たまでも、この方がお思い出し申し上げなさるのに、そのようなとんでもない料簡を使う人は、いますまいと思うので、つらいけれども頼りにしています」
「やっぱりおとなしくおおような態度を見せてお返事を書いておあげなさい。私がこのまま亡くなれば、今以上にあなたは心細い境遇になって、どんな人の媒介役を女房が勤めようとするかもしれないのですからね。私はそれが気がかりで、心の残る気もしますよ。でもこの方が時々でも手紙を送っておいでになるくらいの関心をあなたに持っていらっしゃる間は、そんな無茶なことをしようとする女もなかろうと思うと、恨めしいながらもなお頼みにされますよ」
  "Naho, kokoro-utukusiku oiraka naru sama ni kikoye tamahe. Kaku te hakanaku mo nari haberi na ba, kore yori nagori naki kata ni motenasi kikoyuru hito mo ya ide-ko m, to usirometaki wo. Mare ni mo, kono hito no omohi-ide kikoye tamaha m ni, sayau naru arumaziki kokoro tukahu hito ha, e ara zi to omohe ba, turaki nagara nam tanoma re haberu."
6.4.3  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と姫君が言うと、
  to kikoye tamahe ba,
6.4.4  「 後らさむと思しけるこそ、いみじくはべれ」
 「置き去りにしていこうとお思いなのは、ひどいことです」
「先に死ぬことなどをお思いになるのはひどいお姉様。悲しいではありませんか」
  "Okurasa m to obosi keru koso, imiziku habere."
6.4.5  と、いよいよ顔を引き入れたまふ。
 と、ますます顔を襟元にお入れになる。
 中の君はこう言って、いよいよ夜着の中へ深く顔を隠してしまった。
  to, iyo-iyo kaho wo hiki-ire tamahu.
6.4.6  「 限りあれば片時もとまらじと思ひしかど、ながらふるわざなりけり、と思ひはべるぞや。 明日知らぬ世の、さすがに嘆かしきも 誰がため惜しき命にかは
 「寿命があるので、片時も生き残っていまいと思っていたが、よくぞ生き永らえてきたものだった、と思っていますのよ。明日を知らない世が、そうはいっても悲しいのも、誰のために惜しい命かお分かりでしょう」
「自分の命が自分の思うままにはならないのですからね。私はあの時すぐにお父様のあとを追って行きたかったのだけれど、まだこうして生きているのですからね。明日はもう自分と関係のない人生になるかもしれないのに、やはりあとのことで心を苦しめていますのも、だれのために私が尽くしたいと思うからでしょう」
  "Kagiri are ba, kata-toki mo tomara zi to omohi sika do, nagarahuru waza nari keri, to omohi haberu zo ya. Asu sira nu yo no, sasuga ni nagekasiki mo, taga tame wosiki inoti kaha."
6.4.7  とて、大殿油参らせて 見たまふ
 と言って、大殿油をお召しになって御覧になる。
 と大姫君は灯を近くへ寄せさせて宮のお手紙を読んだ。   tote, ohotonabura mawirase te mi tamahu.
6.4.8  例の、こまやかに書きたまひて、
 例によって、こまやかにお書きになって、
いつものようにこまやかな心が書かれ、
  Rei no, komayaka ni kaki tamahi te,
6.4.9  「 眺むるは同じ雲居をいかなれば
 「眺めているのは同じ空なのに
 「ながむるは同じ雲井をいかなれば     "Nagamuru ha onazi kumowi wo ika nare ba
6.4.10   おぼつかなさを添ふる時雨ぞ
  どうしてこうも会いたい気持ちをつのらせる時雨なのか
  おぼつかなさを添ふる時雨しぐれぞ」
    obotukanasa wo sohuru sigure zo
6.4.11  「 かく袖ひつる」など いふこともやありけむ、耳馴れにたるを、なほあらじことと見るにつけても、恨めしさまさりたまふ。さばかり世にありがたき御ありさま容貌を、いとど、いかで 人にめでられむと、好ましく艶にもてなしたまへれば、 若き人の心寄せたてまつりたまはむ、ことわりなり。
 「このように袖を濡らした」などということも書いてあったのであろうか、耳慣れた文句なのを、やはりお義理だけの手紙と見るにつけても、恨めしさがおつのりになる。あれほど類まれなご様子やご器量を、ますます、何とかして女たちに誉められようと、色っぽくしゃれて振る舞っていらっしゃるので、若い女の方が心をお寄せ申し上げなさるのも、もっともなことである。
 とある。そでを涙でらすというようなことがあの方にあるのであろうか、男のだれもが言う言葉ではないかと見ながらもうらめしさはまさっていくばかりであった。
 世にもまれな美男でいらせられる方が、より多く人に愛されようとえんに作っておいでになるお姿に、若い心のかれていぬわけはない。
  "Kaku sode hituru." nado ihu koto mo ya ari kem, mimi nare ni taru wo, naho-ara-zi koto to miru ni tuke te mo, uramesisa masari tamahu. Sabakari yo ni arigataki ohom-arisama katati wo, itodo, ikade hito ni mede rare m to, konomasiku en ni motenasi tamahe re ba, wakaki hito no kokoro-yose tatematuri tamaha m, kotowari nari.
6.4.12  ほど経るにつけても恋しく、「 さばかり所狭きまで契りおきたまひしを、さりとも、いとかくてはやまじ」と思ひ直す心ぞ、常に添ひける。御返り、「 今宵参りなむ」と聞こゆれば、これかれそそのかしきこゆれば、ただ一言なむ、
 時が過ぎるにつけても恋しく、「あれほどたいそうなお約束なさっていたのだから、いくら何でも、とてもこのまま終わりになることはない」と考え直す気に、いつもなるのであった。お返事は、「今宵帰参したい」と申し上げるので、皆が皆お促し申し上げるので、ただ一言、
隔たる日の遠くなればなるほど恋しく宮をお思いするのは中の君であって、あれほどに、あれほどな誓言までしておいでになったのであるから、どんなことがあってもこのままよその人になっておしまいになることはあるまいと思いかえす心が常に横にあった。お返事を今夜のうちにお届けせねばならぬと使いが急がし立てるために、女房が促すのに負けて、ただ一言だけを中の君は書いた。
  Hodo huru ni tuke te mo kohisiku, "Sabakari tokoro-seki made tigiri-oki tamahi si wo, saritomo, ito kaku te ha yama zi." to omohi-nahosu kokoro zo, tune ni sohi keru. Ohom-kaheri, "Koyohi mawiri na m." to kikoyure ba, kore kare sosonokasi kikoyure ba, tada hito-koto nam,
6.4.13  「 霰降る深山の里は朝夕に
 「霰が降る深山の里は朝夕に
 「あられ降る深山みやまの里は朝夕に     "Arare huru miyama no sato ha asa-yuhu ni
6.4.14   眺むる空もかきくらしつつ
  眺める空もかき曇っております
  ながむる空もかきくらしつつ」
    nagamuru sora mo kaki-kurasi tutu
6.4.15   かく言ふは、神無月の晦日なりけり。「月も隔たりぬるよ」と、宮は静心なく思されて、「今宵、今宵」と思しつつ、 障り多みなるほどに五節などとく出で来たる年にて、内裏わたり今めかしく紛れがちにて、わざともなけれど過ぐいたまふほどに、 あさましく待ち遠なりはかなく人を見たまふにつけても、さるは御心に離るる折なし。左の大殿のわたりのこと、大宮も、
 こうお返事したのは、神無月の晦日だった。「一月もご無沙汰してしまったことよ」と、宮は気が気でなくお思いで、「今宵こそは、今宵こそは」と、お考えになりながら、邪魔が多く入ったりしているうちに、五節などが早くある年で、内裏辺りも浮き立った気分に取り紛れて、特にそのためではないが過ごしていらっしゃるうちに、あきれるほど待ち遠しくいらした。かりそめに女とお会いになっても、一方ではお心から離れることはない。左の大殿の縁談のことを、大宮も、
 それは十月の三十日のことであった。
 わぬ日が一月以上になるではないかと、宮は自責を感じておいでになりながら、今夜こそ今夜こそと期しておいでになっても、さわりが次から次へと多くてお出かけになることができないうちに、今年の五節ごせちは十一月にはいってすぐになり、御所辺の空気ははなやかなものになって、それに引かれておいでになるというのでもなく、わざわざ宇治をおたずねになろうとしないのでもなく、日が紛れてたっていく。
 この間を宇治のほうではどんなに待ち遠に思ったかしれない。かりそめの情人をお作りになってもそんなことで慰められておいでになるわけではなく、宮の恋しく思召おぼしめす人はただ一人の中の君であった。左大臣家の姫君との縁組みについて、中宮ちゅうぐうも今では御譲歩をあそばして、
  Kaku ihu ha, Kamnaduki no tugomori nari keri. "Tuki mo hedatari nuru yo!" to, Miya ha sidu-kokoro naku obosa re te, "Koyohi, koyohi." to obosi tutu, sahari ohomi naru hodo ni, Goseti nado toku ide-ki taru tosi nite, Uti watari imamekasiku magire-gati nite, waza to mo nakere do sugui tamahu hodo ni, asamasiku mati-doho nari. Hakanaku hito wo mi tamahu ni tuke te mo, saruha mi-kokoro ni hanaruru wori nasi. Hidari-no-Ohoidono no watari no koto, Oho-Miya mo,
6.4.16  「 なほ、さるのどやかなる御後見をまうけたまひて、そのほかに尋ねまほしく思さるる人あらば、参らせて、 重々しくもてなしたまへ
 「やはり、そのような落ち着いた正妻をお迎えになって、その他にいとしくお思いになる女がいたら、参上させて、重々しくお扱いなさい」
「あなたにとって強大な後援者を結婚で得てお置きになった上で、そのほかに愛している人があるなら、お迎えになって重々しく夫人の一人としてお扱いになればよろしいではないか」
  "Naho, saru nodoyaka naru ohom-usiromi wo mauke tamahi te, sono hoka ni tadune mahosiku obosa ruru hito ara ba, mawira se te, omo-omosiku motenasi tamahe."
6.4.17  と聞こえたまへど、
 と申し上げなさるが、
 と仰せられるようになったが、
  to kikoye tamahe do,
6.4.18  「 しばし。さ思うたまふるやうなむ」
 「もう暫くお待ちください。ある考えている子細があります」
「もうしばらくお待ちください。私に考えがあるのですから」
  "Sibasi. Sa omou tamahuru yau nam."
6.4.19  聞こえいなびたまひて、「 まことにつらき目はいかでか見せむ」など 思す御心を知りたまはねば、月日に添へてものをのみ思す。
 お断り申し上げなさって、「ほんとうにつらい目をどうしてさせられようか」などとお考えになるお心をご存知ないので、月日とともに物思いばかりなさっている。
 となおいなみ続けておいでになる兵部卿の宮であった。かりそめの恋人は作っても、勢いのある正妻などを持ってあの人に苦しい思いはさせたくないと宮の思っておいでになることなどは、宇治へわからぬことであったから、月日に添えて物思いが加わるばかりである。
  Kikoye inabi tamahi te, "Makoto ni turaki me ha ikade ka mise m." nado obosu mi-kokoro wo siri tamaha ne ba, tukihi ni sohe te mono wo nomi obosu.
注釈896折はすこしもの思ひ慰みぬべし『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の推測」と注す。6.4.1
注釈897御方は中君。匂宮の夫人という意味での呼称。6.4.1
注釈898なほ、心うつくしく以下「頼まれはべる」まで、大君の詞。6.4.2
注釈899かくてはかなくもなりはべりなば主語は大君。自分の死後を想像していう。6.4.2
注釈900これより名残なき方にもてなしきこゆる人もや匂宮以上にひどい男が現れるのではないか、と危惧する。6.4.2
注釈901この人の匂宮。6.4.2
注釈902さやうなるあるまじき心前出の「これより名残なき方にもてなしきこゆる」を受ける。6.4.2
注釈903頼まれはべる「れ」自発の助動詞。『完訳』は「保護者の役割程度を宮に期待」と注す。6.4.2
注釈904後らさむと以下「いみじくはべれ」まで、中君の詞。6.4.4
注釈905限りあれば以下「命にかは」まで、大君の詞。6.4.6
注釈906片時もとまらじと打消推量の助動詞「じ」意志の打ち消し。生き残っていまい、の意。6.4.6
注釈907明日知らぬ世のさすがに嘆かしきも『源氏釈』は「明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ」(古今集哀傷、八三八、紀貫之)を指摘。6.4.6
注釈908誰がため惜しき命にかは『源氏釈』は「岩くぐる山井の水を結びあげて誰がため惜しき命とかは知る」(伊勢集)を指摘。6.4.6
注釈909見たまふ匂宮からの文を。6.4.7
注釈910眺むるは同じ雲居をいかなればおぼつかなさを添ふる時雨ぞ匂宮から中君への贈歌。6.4.9
注釈911かく袖ひつるなど『源氏釈』は「いにしへも今も昔も行く末もか袖ひづるたぐひあらじな」(出典未詳)を指摘。『花鳥余情』は「神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき」(出典未詳)を指摘。『湖月抄』は「地」と草子地であることを指摘。語り手の推測を交えた表現。6.4.11
注釈912人にめでられむと女たちからちやほやされようと。6.4.11
注釈913若き人の心寄せたてまつりたまはむ中君が匂宮に。間接的な言い回し。6.4.11
注釈914さばかり所狭きまで契りおきたまひしを接続助詞「を」について、『集成』は「あんなにご大層なまでにお約束なさっていたのに、いくら何でも、このまま終るはずはない」と逆接の意。『完訳』は「あれほど十分過ぎるほどにお約束をしておかれたのだから、今さしあたってどうあろうとまさかこのままになってしまうこともなかろうと」と順接の原因理由の意に解す。『完訳』は「以下、宮への信頼感が起るとする。大君との相異に注意」と注す。6.4.12
注釈915今宵参りなむ使者の詞。中君の返事を催促。6.4.12
注釈916霰降る深山の里は朝夕に眺むる空もかきくらしつつ中君の返歌。「眺むる」の語句を用いて返す。『花鳥余情』は「霰降る深山の里の侘しきは来てたはやすく訪ふ人ぞなき」(後撰集冬、四六八、読人しらず)を指摘。『細流抄』は「深山にはあられ降るらし外山なるまさきの葛色づきにけり」(古今集、一〇七七、大歌所御歌)を指摘。6.4.13
注釈917かく言ふは神無月の晦日なりけり語り手の説明的叙述。6.4.15
注釈918障り多みなるほどに『源氏釈』は「港入りの葦分け小舟障り多み我が思ふ人に逢はぬころかな」(拾遺集恋三、八五三、柿本人麿)を指摘。6.4.15
注釈919五節などとく出で来たる年にて『集成』は「十一月の中の丑、寅、卯、辰の日に行われる儀式。普通、月に三度ある丑の日が二丑の時は、上の丑の日から行われる。今年はそれに当るのであろう」と注す。6.4.15
注釈920あさましく待ち遠なり宇治では。語り手の感情移入による叙述。6.4.15
注釈921はかなく人を見たまふにつけても主語は匂宮。6.4.15
注釈922なほさるのどやかなる以下「もてなしたまへ」まで、明石中宮の匂宮への詞。6.4.16
注釈923重々しくもてなしたまへ『集成』は「女房として召し使うように、と忠告する」と注す。6.4.16
注釈924しばしさ思うたまふるやう匂宮の返事。「さ」は自分で考えている内容をさす。6.4.18
注釈925まことにつらき目はいかでか見せむ匂宮の心中の思い。中君をそのようなつらい目には遇わせられない。反語表現。6.4.19
注釈926思す御心を知りたまはねば文は切れずに匂宮の心中から中君へ一続きで流れていく表現。6.4.19
出典54 明日知らぬ世 明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しけれ 古今集哀傷-八三八 紀貫之 6.4.6
出典55 誰がため惜しき命 岩くぐる山の井の水を結び上げて誰がため惜しき命とか知る 伊勢集-四二四 6.4.6
出典56 かく袖ひつる いにしへも今も昔も行く末もかく袖ひづるたぐひあらじな 源氏釈所引-出典未詳 6.4.11
神無月いつも時雨は降りしかどかく袖ひづる折はなかりき 花鳥余情所引-出典未詳
出典57 霰降る深山の里 霰降る深山の里の侘しきは来てたはやすく訪ふ人ぞなき 後撰集冬-四六八 読人しらず 6.4.13
出典58 障り多みなるほどに 港入りの葦分け小舟障り多み我が思ふ人に逢はぬころかな 拾遺集恋四-八五三 柿本人麿 6.4.15
6.5
第五段 薫、大君を見舞う


6-5  Kaoru visits Ohoi-kimi who falls ill

6.5.1  中納言も、「 見しほどよりは軽びたる御心かな。さりとも」と思ひきこえけるも、いとほしく、心からおぼえつつ、 をさをさ参りたまはず
 中納言も、「思ったよりは軽いお心だな。いくら何でも」とお思い申し上げていたのも、お気の毒に、心から思われて、めったに参上なさらない。
 かおるも宮を自分の観察していたよりも軽薄なお心であった、世間で見ているような方ではないとお信じ申していて、宇治の女王たちへ取りなしていたのが恥ずかしくなり、女のほうを心からかわいそうに思って、あまり宮へ近づいてまいらないようになった。   Tyuunagon mo, "Mi si hodo yori ha karobi taru mi-kokoro kana! Saritomo." to omohi kikoye keru mo, itohosiku, kokoro kara oboye tutu, wosa-wosa mawiri tamaha zu.
6.5.2  山里には、「 いかに、いかに」と、訪らひきこえたまふ。「この月となりては、すこしよろしくおはす」と聞きたまひけるに、公私もの騒がしきころにて、五、六日、人もたてまつれたまはぬに、「いかならむ」と、うちおどろかれたまひて、わりなきことのしげさをうち捨てて参でたまふ。
 山里には、「お加減はいかがですか。いかがですか」と、お見舞い申し上げなさる。「今月になってからは、少し具合がよくいらっしゃる」とお聞きになったが、公私に何かと騒がしいころなので、五、六日人も差し上げられなかったので、「どうしていらっしゃるだろう」と、急に気になりなさって、余儀ないご用で忙しいのを放り出して参上なさる。
そして山荘のほうへは病む女王の容体を聞きにやることを怠らなかった。
 十一月になって少しよいという報告を薫は得ていて、それがちょうど公私の用の繁多な時であったため、五、六日見舞いの使いを出さずにいたことを急に思い出して、まだいろいろな用のあったのも捨てておいて自身で出かけて行った。
  Yamazato ni ha, "Ikani, ikani?" to, toburahi kikoye tamahu. "Kono tuki to nari te ha, sukosi yorosiku ohasu." to kiki tamahi keru ni, ohoyake watakusi mono-sawagasiki koro nite, go, roku-niti, hito mo tatemature tamaha nu ni, "Ika nara m?" to, uti-odoroka re tamahi te, warinaki koto no sigesa wo uti-sute te made tamahu.
6.5.3  「 修法はおこたり果てたまふまで」とのたまひおきけるを、 よろしくなりにけりとて、阿闍梨をも帰したまひければ、いと人ずくなにて、例の、老い人出で来て、御ありさま聞こゆ。
 「修法は、病気がすっかりお治りになるまで」とおっしゃっておいたが、良くなったといって、阿闍梨をもお帰しになったので、たいそう人少なで、例によって、老女が出てきて、ご容態を申し上げる。
祈祷きとう恢復かいふくするまでとこの人から命じてあったのであったのに、少し快いようになったからといって阿闍梨あじゃりも寺へ帰してあった。それで山荘のうちはいっそう寂寞せきばくたるものになっていた。例の弁が出て来て病女王のことを報告した。
  "Syuhohu ha okotari hate tamahu made." to notamahi-oki keru wo, yorosiku nari ni keri tote, Azari wo mo kahesi tamahi kere ba, ito hito-zukuna nite, rei no, Oyi-bito ide-ki te, ohom-arisama kikoyu.
6.5.4  「 そこはかと痛きところもなく、おどろおどろしからぬ御悩みに、ものをなむさらに聞こしめさぬ。もとより、人に似たまはず、あえかにおはしますうちに、 この宮の御こと出で来にしのち、いとどもの思したるさまにて、はかなき御くだものをだに御覧じ入れざりし積もりにや、あさましく弱くなりたまひて、さらに頼むべくも見えたまはず。 よに心憂くはべりける身の命の長さにて、かかることを見たてまつれば、まづいかで先立ちきこえむと思ひたまへ入りはべり」
 「どこそこと痛いところもなく、たいしたお苦しみでないご病気なのに、食事を全然お召し上がりになりません。もともと、人と違っておいでで、か弱くいらっしゃるうえに、こちらの宮のご結婚話があって後は、ますますご心配なさっている様子で、ちょっとした果物さえお見向きもなさらなかったことが続いたためか、あきれるほどお弱りになって、まったく見込みなさそうにお見えです。まことに情けない長生きをして、このようなことを拝見すると、まずは何とか先に死なせていただきたいと存じております」
「どこがお痛いというところもございませんような、御大病とは思えぬ御容体でおありになりながら、物を少しも召し上がらないのでございますよ。だいたい御体質が繊弱でいらっしゃいますところへ、兵部卿ひょうぶきょうの宮様のことが起こってまいりましてからは、ひどく物思いをばかりなさいます方におなりになりまして、ちょっとしたお菓子をさえも召し上がろうとはなさらなかったおせいでございますよ、御衰弱がひどうございましてね、頼み少ないふうになっておしまいになりました。私は情けない長命ながいきをいたしまして、悲しい目にあいますより前に死にたいと念じているのでございます」
  "Sokohaka to itaki tokoro mo naku, odoro-odorosikara nu ohom-nayami ni, mono wo nam sarani kikosimesa nu. Moto yori, hito ni ni tamaha zu, aeka ni ohasimasu uti ni, kono Miya no ohom-koto ide-ki ni si noti, itodo mono obosi taru sama nite, hakanaki ohom-kudamono wo dani go-ran-zi ire zari si tumori ni ya, asamasiku yowaku nari tamahi te, sarani tanomu beku mo miye tamaha zu. Yo ni kokoro-uku haberi keru mi no inoti no nagasa nite, kakaru koto wo mi tatemature ba, madu ikade saki-dati kikoye m to omohi tamahe iri haberi."
6.5.5  と、言ひもやらず泣くさま、ことわりなり。
 と、言い終わらずに泣く様子、もっともなことである。
 と言い終えることもできぬように泣くのが道理に思われた。
  to, ihi mo yara zu naku sama, kotowari nari.
6.5.6  「 心憂く、などか、かくとも告げたまはざりける。院にも内裏にも、あさましく事しげきころにて、日ごろもえ聞こえざりつるおぼつかなさ」
 「情けない。どうして、こうとお知らせくださらなかったのか。院でも内裏でも、あきれるほど忙しいころなので、幾日もお見舞い申し上げなかった気がかりさよ」
「なぜそれをどなたもどなたも私へ知らせてくださらなかったのですか。冷泉れいぜい院のほうにも御所のほうにもむやみに御用の多い幾日だったものですから、私のほうの使いも出しかねていた間に、ずいぶん御心配していたのです」
  "Kokoro-uku, nadoka, kaku to mo tuge tamaha zari keru. Win ni mo Uti ni mo, asamasiku koto sigeki koro nite, hi-goro mo e kikoye zari turu obotukanasa."
6.5.7  とて、 ありし方に入りたまふ。御枕上近くてもの聞こえたまへど、御声もなきやうにて、えいらへたまはず。
 と言って、以前の部屋にお入りになる。御枕もと近くでお話し申し上げるが、お声もないようで、お返事できない。
 と言って、この前の病室にすぐ隣った所へはいって行った。まくらに近い所にして薫はものを言うのであったが、声もなくなったようで姫君の返辞を聞くことができない。
  tote, arisi kata ni iri tamahu. Ohom-makura-gami tikaku te mono kikoye tamahe do, ohom-kowe mo naki yau nite, e irahe tamaha zu.
6.5.8  「 かく重くなりたまふまで、誰も誰も告げたまはざりけるが、つらくも。 思ふにかひなきこと
 「こんなに重くおなりになるまで、誰も誰もお知らせくださらなかったのが、つらいよ。心配しても効ないことだ」
「こんなに重くおなりになるまで、どなたもおしらせくださらなかったのが恨めしい。私がどんなに御心配しているかが、皆さんに通じなかったのですか」
  "Kaku omoku nari tamahu made, tare mo tare mo tuge tamaha zari keru ga, turaku mo. Omohu ni kahinaki koto."
6.5.9  と恨みて、例の阿闍梨、おほかた世に 験ありと聞こゆる人の限り、あまた請じたまふ。 御修法、読経、明くる日より始めさせたまはむとて、 殿人あまた参り集ひ、上下の人立ち騷ぎたれば、心細さの名残なく頼もしげなり。
 と恨んで、いつもの阿闍梨、世間一般に効験があると言われている人をすべて、大勢お召しになる。御修法や、読経を翌日から始めさせようとなさって、殿邸の人が大勢参集して、上下の人たちが騒いでいるので、心細さがすっかりなくなって頼もしそうである。
 と言い、まず御寺みてら阿闍梨あじゃり、それから祈祷きとうに効験のあると言われる僧たちを皆山荘へ薫は招いた。祈祷と読経どきょうを翌日から始めさせて、手つだいの殿上役人、自家の侍たちが多く呼び寄せられ、上下の人が集まって来たので、前日までの心細げな山荘の光景は跡もなく、頼もしく見られる家となった。   to urami te, rei no Azyari, ohokata yo ni sirusi ari to kikoyuru hito no kagiri, amata syau-zi tamahu. Mi-syuhohu, dokyau, akuru hi yori hazime sase tamaha m tote, tono-bito amata mawiri tudohi, kami simo no hito tati-sawagi tare ba, kokoro-bososa no nagori naku tanomosige nari.
注釈927見しほどよりは以下「さりとも」まで、薫の心中の思い。6.5.1
注釈928をさをさ参りたまはず匂宮のもとに。『集成』は「薫の立腹のさま」と注す。6.5.1
注釈929いかにいかに大君の病状を見舞う文の要旨。6.5.2
注釈930修法はおこたり果てたまふまで薫の采配の要旨。6.5.3
注釈931よろしくなりにけりとて大君自身の発言。6.5.3
注釈932そこはかと痛きところもなく以下「思ひたまへ入りはべり」まで、弁の詞。『完訳』は「死病の徴候か。紫の上の病状とも類似」と注す。6.5.4
注釈933この宮の御こと出で来にしのち匂宮と六君との結婚話が出てきて後。6.5.4
注釈934よに心憂くはべりける身の命の長さにて弁自身のことをいう。長生きしたことによってつらい目を多く見るという。6.5.4
注釈935心憂くなどか以下「おぼつかなさ」まで、薫の詞。6.5.6
注釈936ありし方に入りたまふ先日通された大君の病室の前の廂の間。6.5.7
注釈937かく重くなりたまふまで以下「かひなきこと」まで、薫の詞。6.5.8
注釈938思ふにかひなきこと『完訳』は「心配のしがいもない。適切な処置もなく、の非難でもある」と注す。6.5.8
注釈939験ありと聞こゆる人の限り効験あると言われている人々すべて。6.5.9
注釈940御修法読経以下「始めさせたまはむ」まで、薫の心中の思いを地の文で叙述。6.5.9
注釈941殿人薫の家来、京の邸に仕えている者たち。6.5.9
6.6
第六段 薫、大君を看護する


6-6  Kaoru nurses Ohoi-kimi

6.6.1  暮れぬれば、「 例の、あなたに」と聞こえて、御湯漬けなど参らむとすれど、「 近くてだに見たてまつらむ」とて、南の廂は僧の座なれば、東面の今すこし気近き方に、屏風など立てさせて入りゐたまふ。
 暮れたので、「いつもの、あちらの部屋に」と申し上げて、御湯漬などを差し上げようとするが、「せめて近くで看病をしよう」と言って、南の廂間は僧の座席なので、東面のもう少し近い所に、屏風などを立てさせて入ってお座りになる。
日が暮れると例の客室へ席を移すことを女房たちは望み、湯漬ゆづけなどのもてなしをしようとしたのであるが、来ることのおくれた自分は、今はせめて近い所にいて看病がしたいと薫は言い、南の縁付きのは僧のへやになっていたから、東側の部屋へやで、それよりも病床に密接している所に屏風びょうぶなどを立てさせてはいった。   Kure nure ba, "Rei no, anata ni." to kikoye te, ohom-yuduke nado mawira m to sure do, "Tikaku te dani mi tatematura m." tote, minami no hisasi ha sou no za nare ba, himgasi-omote no ima sukosi kedikaki kata ni, byaubu nado tate sase te iri wi tamahu.
6.6.2   中の宮、苦しと思したれどこの御仲を、「 なほ、もてはなれたまはぬなりけり」と皆思ひて、疎くもえもてなし隔てず。初夜よりはじめて、法華経を不断に 読ませたまふ。声尊き限り十二人して、いと尊し。
 中の宮は、困ったこととお思いになったが、お二人の仲を、「やはり、何でもなくはないのだ」と皆が思って、よそよそしくは隔てたりはしない。初夜から始めて、法華経を不断に読ませなさる。声の尊い僧すべて十二人で、実に尊い。
これを中の君は迷惑に思ったのであるが、薫と姫君との間柄に友情以上のものが結ばれていることと信じている女房たちは、他人としては扱わないのであった。
 初夜から始めさせた法華経ほけきょうを続けて読ませていた。尊い声を持った僧の十二人のそれを勤めているのが感じよく思われた。
  Naka-no-Miya, kurusi to obosi tare do, kono ohom-naka wo, "Naho, mote-hanare tamaha nu nari keri." to mina omohi te, utoku mo e motenasi hedate zu. Syo-ya yori hazime te, Hokekyau wo hudan ni yoma se tamahu. Kowe tahutoki kagiri zihuni-nin site, ito tahutosi.
6.6.3   灯はこなたの南の間にともして、内は暗きに、几帳をひき上げて、すこしすべり入りて 見たてまつりたまへば、老人ども二、三人ぞさぶらふ。中の宮は、ふと隠れたまひぬれば、いと人少なに、心細くて臥したまへるを、
 灯火はこちらの南の間に燈して、内側は暗いので、几帳を引き上げて、少し入って拝見なさると、老女連中が二、三人伺候している。中の宮は、さっとお隠れになったので、たいそう人少なで、心細く臥せっていらっしゃるのを、
は僧たちのいる南のにあって、内側の暗くなっている病室へ薫はすべり入るようにして行って、病んだ恋人を見た。老いた女房の二、三人が付いていた。中の君はそっと物蔭ものかげへ隠れてしまったのであったから、ただ一人床上に横たわっている総角あげまきの病女王のそばへ寄って薫は、
  Hi ha konata no minami no hisasi-no-ma ni tomosi te, uti ha kuraki ni, kityau wo hiki-age te, sukosi suberi-iri te mi tatematuri tamahe ba, oyi-bito-domo ni, sam-nin zo saburahu. Naka-no-Miya ha, huto kakure tamahi nure ba, ito hito-zukuna ni, kokoro-bosoku te husi tamahe ru wo,
6.6.4  「 などか、御声をだに聞かせたまはぬ
 「どうして、お声だけでも聞かせてくださらないのか」
「どうしてあなたは声だけでも聞かせてくださらないのですか」
  "Nadoka, ohom-kowe wo dani kika se tamaha nu."
6.6.5  とて、御手を捉へておどろかしきこえたまへば、
 と言って、お手を取ってお声をかけて差し上げると、
 と言って、手を取った。
  tote, mi-te wo torahe te odorokasi kikoye tamahe ba,
6.6.6  「 心地には思ひながら、もの言ふがいと苦しくてなむ。日ごろおとづれたまはざりつれば、 おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと、口惜しくこそはべりつれ
 「気持ちはそのつもりでいても、物を言うのがとても苦しくて。幾日も訪れてくださらなかったので、お目にかかれないままにこと切れてしまうのではないかと、残念に思っておりました」
「心ではあなたのおいでになったことがわかっていながら、ものを言うのが苦しいものですから失礼いたしました。しばらくおいでにならないものですから、もうお目にかかれないままで死んで行くのかと思っていました」
  "Kokoti ni ha omohi nagara, mono ihu ga ito kurusiku te nam. Hi-goro otodure tamaha zari ture ba, obotukanaku te sugi haberi nu beki ni ya to, kutiwosiku koso haberi ture."
6.6.7  と、息の下にのたまふ。
 と、やっとの声でおっしゃる。
 息よりも低い声で病者はこう言った。
  to, iki no sita ni notamahu.
6.6.8  「 かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること
 「こんなにお待ちくださるまで参らなかったことよ」
「あなたにさえ待たれるほど長く出て来ませんでしたね、私は」
  "Kaku mata re tatematuru hodo made mawiri ko zari keru koto."
6.6.9  とて、さくりもよよと泣きたまふ。 御ぐしなど、すこし熱くぞおはしける
 と言って、しゃくりあげてお泣きになる。お額など、少し熱がおありであった。
 しゃくり上げて薫は泣いた。この人のほおに触れる髪の毛が熱で少し熱くなっていた。
  tote, sakuri mo yoyo to naki tamahu. Mi-gusi nado, sukosi atuku zo ohasi keru.
6.6.10  「 何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ
 「何の罪によるご病気か。人を嘆かせると、こうなるのですよ」
「あなたはなんという罪な性格を持っておいでになって、人をお悲しませになったのでしょう。その最後にこんな病気におなりになった」
  "Nani no tumi naru mi-kokoti ni ka. Hito ni nageki ohu koso, kaku am nare."
6.6.11  と、御耳にさし当てて、ものを多く聞こえたまへば、うるさうも恥づかしうもおぼえて、顔をふたぎたまへるを、 むなしく見なしていかなる心地せむ、と胸もひしげておぼゆ。
 と、お耳に口を当てて、いろいろ多く申し上げなさるので、うるさくも恥ずかしくも思われて、顔を被いなさっているのを、死なせてしまったらどんな気がするだろう、と胸も張り裂ける思いでいられる。
 耳に口を押し当てていろいろと薫が言うと、姫君はうるさくも恥ずかしくも思って、そでで顔をふさいでしまった。平生よりもなおなよなよとした姿になって横たわっているのを見ながら、この人を死なせたらどんな気持ちがするであろうと胸も押しつぶされたように薫はなっていた。
  to, ohom-mimi ni sasi-ate te, mono wo ohoku kikoye tamahe ba, urusau mo hadukasiu mo oboye te, kaho wo hutagi tamahe ru wo, munasiku mi-nasi te ika naru kokoti se m, to mune mo hisige te oboyu.
6.6.12  「 日ごろ見たてまつりたまひつらむ御心地も、やすからず思されつらむ。今宵だに、心やすくうち休ませたまへ。 宿直人さぶらふべし」
 「何日もご看病なさってお疲れも、大変なことでしょう。せめて今夜だけでも、安心してお休みなさい。宿直人が伺候しましょう」
「毎日の御介抱かいほうが、御心配といっしょになってたいへんだったでしょう。今夜だけでもゆっくりとお休みなさい。私がお付きしていますから」
  "Hi-goro mi tatematuri tamahi tura m mi-kokoti mo, yasukara zu obosa re tu ram. Koyohi dani, kokoro-yasuku uti-yasuma se tamahe. Tonowi-bito saburahu besi."
6.6.13  と聞こえたまへば、うしろめたけれど、「 さるやうこそは」と思して、すこししぞきたまへり。
 と申し上げなさると、気がかりであるが、「何かわけがあるのだろう」とお思いになって、少し退きなさった。
 見えぬ蔭にいる中の君に薫がこう言うと、不安心には思いながらも、何か直接に話したいことがあるのであろうと思って、若い女王にょおうは少し遠くへ行った。   to kikoye tamahe ba, usirometakere do, "Saru yau koso ha." to obosi te, sukosi sizoki tamahe ri.
6.6.14  直面にはあらねど、はひ寄りつつ見たてまつりたまへば、いと苦しく恥づかしけれど、「 かかるべき契りこそはありけめ」と思して、こよなうのどかにうしろやすき御心を、 かの片つ方の人に見比べたてまつりたまへば、あはれとも思ひ知られにたり。
 面と向かってというのではないが、這い寄りながら拝見なさると、とても苦しく恥ずかしいが、「このような宿縁であったのだろう」とお思いになって、この上なく穏やかで安心なお心を、あのもうお一方にお比べ申し上げなさると、しみじみとありがたく思い知られなさった。
真向まっこうへ顔を持ってくるのでなくても、近く寄り添って来る薫に、大姫君は羞恥しゅうちを覚えるのであったが、これだけの宿縁はあったのであろうと思い、危険な線は踏み越えようとしなかった同情の深さを、今一人の男性に比べて思うと、一種の愛はわく姫君であった。   Hita-omote ni ha ara ne do, hahi-yori tutu mi tatematuri tamahe ba, ito kurusiku hadukasikere do, "Kakaru beki tigiri koso ha ari keme." to obosi te, koyonau nodoyaka ni usiroyasuki mi-kokoro wo, kano kata tu kata no hito ni mi-kurabe tatematuri tamahe ba, ahare to mo omohi-sira re ni tari.
6.6.15  「 むなしくなりなむ後の思ひ出でにも、心ごはく、思ひ隈なからじ」とつつみたまひて、はしたなくもえおし放ちたまはず。 夜もすがら、人をそそのかして、御湯など参らせたてまつりたまへど、つゆばかり参るけしきもなし。「 いみじのわざや。いかにしてかは、かけとどむべき」と、言はむかたなく思ひゐたまへり。
 「亡くなった後の思い出にも、強情な、思いやりのない女だと思われまい」とお慎みなさって、そっけなくおあしらいになったりなさらない。一晩中、女房に指図して、お薬湯などを差し上げなさるが、少しもお飲みになる様子もない。「大変なことだ。どのようにして、お命を取り止めることができようか」と、何とも言いようがなく沈みこんでいらっしゃった。
死んだあとの思い出にも気強く、思いやりのない女には思われまいとして、かたわらの人を押しやろうとはしなかった。
 一夜じゅうかたわらにいて、時々は湯なども薫は勧めるのであったが、少しもそれは聞き入れなかった。悲しいことである、この命をどうして引きとめることができるであろうと薫は思い悩むのであった。
  "Munasiku nari na m noti no omohi-ide ni mo, kokoro-gohaku, omohi kumanakara zi." to tutumi tamahi te, hasitanaku mo e osi-hanati tamaha zu. Yomosugara, hito wo sosonokasi te, ohom-yu nado mawira se tatematuri tamahe do, tuyu bakari mawiru kesiki mo nasi. "Imizi no waza ya! Ikani si te ka ha, kake-todomu beki." to, iham-kata-naku omohi-wi tamahe ri.
注釈942例のあなたに弁の詞であろう。いつもの客間に、の意。6.6.1
注釈943近くてだに見たてまつらむ薫の詞。『集成』は「せめて近くにいて看取ってさし上げたい」と訳す。6.6.1
注釈944中の宮苦しと思したれど中君は大君の枕元にいる様子。6.6.2
注釈945この御仲を薫と大君の仲。6.6.2
注釈946なほもてはなれたまはぬなりけり女房たちの思い。6.6.2
注釈947読ませたまふ「せ」使役の助動詞。薫が僧侶に。6.6.2
注釈948灯はこなたの南の間にともして内は暗きに母屋の南側に僧侶の関があり、その東面に薫はいる。その北側に大君の病床がある様子。6.6.3
注釈949見たてまつりたまへば薫が大君を。6.6.3
注釈950などか御声をだに聞かせたまはぬ薫の詞。6.6.4
注釈951心地には以下「こそはべりつれ」まで、大君の詞。6.6.6
注釈952おぼつかなくて過ぎはべりぬべきにやと口惜しくこそはべりつれ『完訳』は「死を目前に、薫との不都合な関係も生じないと思うと、大君は胸奥に秘めた薫への好意をはじめて率直に告白。薫は感動のあまり嗚咽」と注す。6.6.6
注釈953かく待たれたてまつるほどまで参り来ざりけること薫の詞。今まで訪問しなかったことを後悔。6.6.8
注釈954御ぐしなどすこし熱くぞおはしける薫は大君の額に手を当てる。熱がある様子。6.6.9
注釈955何の罪なる御心地にか。人に嘆き負ふこそ、かくあむなれ薫の詞。『花鳥余情』は「水ごもりの神に問ひても聞きてしが恋ひつつ逢はぬ何の罪ぞと」(古今六帖四、片恋)を指摘。6.6.10
注釈956むなしく見なしていかなる心地せむ薫の心中の思い。6.6.11
注釈957日ごろ見たてまつりたまひつらむ以下「さぶらふべし」まで、薫の詞。中君に向かって言う。6.6.12
注釈958宿直人自分自身をいう。6.6.12
注釈959さるやうこそは中君の心中の思い。『完訳」は「秘密の話もあろうか、の気持」と注す。6.6.13
注釈960かかるべき契りこそはありけめ大君の心中の思い。身近に看病してもらうことを、前世からの宿縁であったのかと、思う。6.6.14
注釈961かの片つ方の人に匂宮をさす。6.6.14
注釈962むなしくなりなむ後の以下「思ひ隈なからし」まで、大君の心中の思い。『集成』は「死期に臨んで、せめていい思い出を残したいと思う」。『完訳』は「世俗的な結婚を拒否しながらも、大君は薫に真情を告白し、彼の胸奥に美しき印象を残したいとする。反俗的な愛の希求というべきか」と注す。6.6.15
注釈963夜もすがら人をそそのかして主語は薫。女房たちに指図して。6.6.15
注釈964いみじのわざや以下「かけとどむべき」まで、薫の心中の思い。6.6.15
出典59 何の罪なる御心地にか 水ごもりの神に問ひても聞きてしか恋ひつつ逢はぬ何の罪ぞと 古今六帖四-二〇二二 6.6.10
6.7
第七段 阿闍梨、八の宮の夢を語る


6-7  Ajari talks about tahat he dreamed Hachi-no-miya to sisters

6.7.1  不断経の、 暁方のゐ替はりたる声のいと尊きに、 阿闍梨も夜居にさぶらひて眠りたる、うちおどろきて陀羅尼読む。老いかれにたれど、いと功づきて頼もしう聞こゆ。
 不断の読経の、明け方に交替する声がたいそう尊いので、阿闍梨も徹夜で勤めていて居眠りをしていたのが、ふと目を覚まして陀羅尼を読む。老いしわがれた声だが、実にありがたそうで頼もしく聞こえる。
不断経を読む僧が夜明けごろに人の代わる時しばらく前の人と同音に唱える経声が尊く聞こえた。阿闍梨あじゃり夜居よいの護持僧を勤めていて、少し居眠りをしたあとでさめて、陀羅尼だらにを読み出したのが、老いたしわがれ声ではあったが老巧者らしく頼もしく聞かれた。
  Hudan-kyau no, akatuki-gata no wi-kahari taru kowe no ito tahutoki ni, Azyari mo yo-wi ni saburahi te neburi taru, uti-odoroki te Darani yomu. Oyi kare ni tare do, ito kuu-duki te tanomosiu kikoyu.
6.7.2  「 いかが今宵はおはしましつらむ
 「どのように今夜はおいででしたか」
「今夜の御様子はいかがでございますか」
  "Ikaga koyohi ha ohasi tu ram?"
6.7.3  など聞こゆるついでに、 故宮の御ことなど申し出でて、鼻しばしばうちかみて、
 などとお尋ね申し上げる機会に、故宮のお事などを申し上げて、鼻をしばしばかんで、
 などと阿闍梨は薫に問うたついでに、
  nado kikoyuru tuide ni, ko-Miya no ohom-koto nado mausi-ide te, hana siba-siba uti-kami te,
6.7.4  「 いかなる所におはしますらむ。さりとも、 涼しき方に ぞ、と思ひやりたてまつるを、先つころの夢になむ見えおはしましし。
 「どのような世界にいらっしゃるのでしょう。そうはいっても、涼しい極楽に、と想像いたしておりましたが、先頃の夢にお見えになりました。
「宮様はどんな所においでになりましょう。必ずもう清浄な世界においでになると私は思っているのですが、先日の夢にお見上げすることができまして、   "Ika naru tokoro ni ohasimasu ram? Saritomo, suzusiki kata ni zo, to omohi-yari tatematuru wo, sai-tu-koro no yume ni nam miye ohasimasi si.
6.7.5   俗の御かたちにて、『 世の中を深う厭ひ離れしかば、心とまることなかりしを、 いささかうち思ひしことに乱れてなむ、ただしばし願ひの所を隔たれるを思ふなむ、いと悔しき。すすむるわざせよ』と、いとさだかに仰せられしを、たちまちに 仕うまつるべきことのおぼえはべらねば、 堪へたるにしたがひて、行ひしはべる法師ばら五、六人して、 なにがしの念仏なむ仕うまつらせはべる。
 俗人のお姿で、『世の中を深く厭い離れていたので、執着するところはなかったが、わずかに思っていたことに乱れが生じて、今しばらく願っていた極楽浄土から離れているのを思うと、とても悔しい。追善供養をせよ』と、まことにはっきりと仰せになったが、すぐにご供養申し上げる方法が思い浮かびませんので、できる範囲内で、修業している法師たち五、六人で、何々の称名念仏を称えさせております。
それはまだ俗のお姿をしていられまして、人生を深くいとわしい所と信じていたから、執着の残ることは何もなかったのだが、少し心配に思われる点があって、今しばらくの間志す所へも行きつかずにいるのが残念だ。こうした私の気持ちを救うような方法を講じてくれとはっきりと仰せられたのですが、そうした場合に速く何をしてよろしいか私にはよい考えが出ないものですから、ともかくもできますことでと思いまして、修行の弟子でし五、六人にある念仏を続けさせております。   Zoku no ohom-katati nite, 'Yononaka wo hukau itohi hanare sika ba, kokoro tomaru koto nakari si wo, isasaka uti-omohi si koto ni midare te nam, tada sibasi negahi no tokoro wo hedata re ru wo omohu nam, ito kuyasiki. Susumuru waza se yo.' to, ito sadaka ni ohose rare si wo, tatimati ni tukau-maturu beki koto no oboye habera ne ba, tahe taru ni sitagahi te, okonahi si haberu hohusi-bara go, roku-nin si te, nanigasi no Nenbutu nam tukau-matura se haberu.
6.7.6  さては、 思ひたまへ得たることはべりて常不軽をなむつかせはべる」
 その他は、考えるところがございまして、常不軽を行わせております」
それからまた気づきまして常不軽じょうふきょうの行ないに弟子を歩かせております」
  Sate ha, omohi tamahe e taru koto haberi te, Zyauhukyau wo nam tuka se haberu."
6.7.7  など申すに、 君もいみじう泣きたまふ。 かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを、苦しき御心地にも、いとど消え入りぬばかりおぼえたまふ
 などと申すので、君もひどくお泣きになる。あの世までお邪魔申した罪障を、苦しい気持ちに、ますます息も絶えそうに思われなさる。
 こんなことを言うのを聞いて薫は非常に泣いた。父君の成仏じょうぶつの道の妨げをさえしているかと病女王もそれを聞いて、そのまま息も絶えんばかりに悲しんだ。   nado mausu ni, Kimi mo imiziu naki tamahu. Kano yo ni sahe samatage kikoyu ram tumi no hodo wo, kurusiki mi-kokoti ni mo, itodo kiye-iri nu bakari oboye tamahu.
6.7.8  「 いかで、かのまだ定まりたまはざらむさきに参でて、同じ所にも」
 「何とか、あのまだ行く所がお定まりにならない前に参って、同じ所にも」
ぜひとも父君がまだ冥府めいふの道をさまよっておいでになるうちに自分も行って、同じ所へまいりたい   "Ikade, kano mada sadamari tamaha zara m saki ni made te, onazi tokoro ni mo."
6.7.9  と、聞き臥したまへり。
 と、聞きながら臥せっていらっしゃった。
と思うのであった。   to, kiki husi tamahe ri.
6.7.10  阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、 そのわたりの里々、京までありきけるを、暁の嵐にわびて、阿闍梨のさぶらふあたりを尋ねて、 中門のもとにゐて、 いと尊くつく。回向の末つ方の心ばへいとあはれなり。客人もこなたにすすみたる御心にて、あはれ忍ばれたまはず。
 阿闍梨は言葉少なに立った。この常不軽は、その近辺の里々、京まで歩き回ったが、明け方の嵐に難渋して、阿闍梨のお勤めしている所を尋ねて、中門のもとに座って、たいそう尊く拝する。回向の偈の終わりのほうの文句が実にありがたい。客人もこの方面に関心のあるお方で、しみじみと感動に堪えられない。
阿闍梨は多く語らずに座を立って行った。
 この常不軽のぎょうはこの辺の村々をはじめとして、京の町々にまでもまわって家々のかどに額を突く行であって、寒い夜明けの風を避けるために、師の阿闍梨あじゃりのまいっている山荘へはいり、中門の所へすわって回向えこうの言葉を述べているその末段に言われることが、故人の遺族の身にしみじみとしむのであった。客である中納言も仏に帰依する人であったから、これも泣きながら聞いていた。
  Azari ha koto-sukuna nite tati nu. Kono Zyauhukyau, so no watari no sato-zato, Kyau made ariki keru wo, akatuki no arasi ni wabi te, Azyari no saburahu atari wo tadune te, tyuumon no moto ni wi te, ito tahutoku tuku. Wekau no suwe-tu-kata no kokorobahe ito ahare nari. Marauto mo konata ni susumi taru mi-kokoro nite, ahare sinoba re tamaha zu.
6.7.11  中の宮、 切におぼつかなくて、奥の方なる几帳のうしろに寄りたまへるけはひを聞きたまひて、あざやかにゐなほりたまひて、
 中の宮が、まことに気がかりで、奥のほうにある几帳の背後にお寄りになっているご気配をお聞きになって、さっと居ずまいを正しなさって、
 中の君が姉君を気づかわしく思うあまりに病床に近く来て、奥のほうの几帳きちょうの蔭に来ている気配けはいを薫は知り、居ずまいを正して、
  Naka-no-Miya, seti ni obotukanaku te, oku no kata naru kityau no usiro ni yori tamahe ru kehahi wo kiki tamahi te, azayaka ni wi-nahori tamahi te,
6.7.12  「 不軽の声はいかが聞かせたまひつらむ。 重々しき道には行はぬことなれど、尊くこそはべりけれ」とて、
 「不軽の声はどのようにお聞きあそばしましたでしょうか。重々しい祈祷としては行わないのですが、尊くございました」と言って、
「不軽の声をどうお聞きになりましたか、おごそかな宗派のほうではしないことですが尊いものですね」
 と言い、また、
  "Hukyau no kowe ha ikaga kika se tamahi tu ram. Omo-omosiki miti ni ha okonaha nu koto nare do, tahutoku koso haberi kere." tote,
6.7.13  「 霜さゆる汀の千鳥うちわびて
 「霜が冷たく凍る汀の千鳥が堪えかねて
 「霜さゆるみぎはの千鳥うちわびて     "Simo sayuru migiha no tidori uti-wabi te
6.7.14   鳴く音悲しき朝ぼらけかな
  寂しく鳴く声が悲しい、明け方ですね
  鳴く悲しき朝ぼらけかな」
    naku ne kanasiki asaborake kana
6.7.15   言葉のやうに聞こえたまふつれなき人の御けはひにも通ひて思ひよそへらるれど、いらへにくくて、弁してぞ聞こえたまふ。
 話すように申し上げなさる。冷淡な方のご様子にも似ていて、思い比べられるが、返事しにくくて、弁を介して申し上げなさる。
 これをただ言葉のようにして言った。
 恨めしい恋人に似たところのある人とは思うが返辞の声は出しかねて、弁に代わらせた。
  Kotoba no yau ni kikoye tamahu. Turenaki hito no ohom-kehahi ni mo kayohi te, omohi yosohe rarure do, irahe nikuku te, Ben si te zo kikoye tamahu.
6.7.16  「 暁の霜うち払ひ鳴く千鳥
 「明け方の霜を払って鳴く千鳥も
 「あかつきの霜うち払ひ鳴く千鳥     "Akatuki no simo uti-harahi naku tidori
6.7.17   もの思ふ人の心をや知る
  悲しんでいる人の心が分かるのでしょうか
  もの思ふ人の心をや知る」
    mono omohu hito no kokoro wo ya siru
6.7.18   似つかはしからぬ御代りなれど、ゆゑなからず聞こえなす。 かやうのはかなしごともつつましげなるものから、なつかしうかひあるさまにとりなしたまふものを、「今はとて別れなば、いかなる心地せむ」と惑ひたまふ。
 不似合いな代役だが、気品を失わず申し上げる。このようなちょっとしたことも、遠慮されるものの、やさしく上手におとりなしなさるものを、「今を最後と別れてしまったら、どんなに悲しい気がするだろう」と、目の前がまっくらにおなりになる。
 あまりに似合わしくない代わり役であったが、つたなくもないこわづかいで弁はこの役を勤めた。こうした言葉の贈答にも、遠慮深くはありながらなつかしい才気のにおいの覚えられるこの女王とも、姉女王を死が奪ったあとではよそよそになってしまわねばならぬではないか、何もかも失うことになればどんな気がするであろうと薫は恐ろしいことのようにさえ思った。   Nitukahasikara nu ohom-kahari nare do, yuwe nakara zu kikoye nasu. Kayau no hakanasi-goto mo, tutumasige naru monokara, natukasiu kahi aru sama ni tori-nasi tamahu mono wo, "Ima ha tote wakare na ba, ika naru kokoti se m." to madohi tamahu.
注釈965暁方のゐ替はりたる声の後夜から晨朝への交替。このとき、重唱となる。6.7.1
注釈966阿闍梨も夜居にさぶらひて徹夜で加持をすること。6.7.1
注釈967いかが今宵はおはしましつらむ阿闍梨の詞。6.7.2
注釈968故宮の御ことなど故八宮についての夢語り。6.7.3
注釈969いかなる所に以下「つかせはべる」まで、阿闍梨の詞。6.7.4
注釈970涼しき方に極楽浄土をさす。6.7.4
注釈971俗の御かたちにて在俗のままの姿。極楽往生をしていないさま。中君の夢の中にも極楽往生できなかったさまが語られていた。6.7.5
注釈972世の中を深う厭ひ離れしかば以下「すすむるわざせよ」まで、夢の中の八宮の詞。6.7.5
注釈973いささかうち思ひしことに乱れてなむ「なむ」は「悔しき」に係る。『集成』は「姫君たちの身の上を心にかけてのこと、ととれる言葉」。『完訳』は「姫君たちの身を案じて。大事な臨終の際にその妄想が浮んで、往生の一念が乱れたという趣。生前の懸念が的中」と注す。6.7.5
注釈974仕うまつるべきこと追善供養。6.7.5
注釈975堪へたるにしたがひて私でできる範囲内で、の意。6.7.5
注釈976なにがしの念仏なむ阿彌陀の念仏。それをぼかして言ったもの。6.7.5
注釈977思ひたまへ得たることはべりて『完訳』は「亡き宮の成仏のために考えついた」と注す。6.7.6
注釈978常不軽をなむ法華経の「常不軽菩薩品」。6.7.6
注釈979君も薫。6.7.7
注釈980かの世にさへ妨げきこゆらむ罪のほどを苦しき御心地にもいとど消え入りぬばかりおぼえたまふ『完訳』は「大君の心中。父宮の往生の障害にまでなった自分たちの罪深さ」と注す。前半は大君の心中に即した叙述(心中の間接的叙述)、後半は地の文による叙述(語り手による客観的叙述)。6.7.7
注釈981いかでかの以下「同じ所にも」まで、大君の心中、直接的叙述。6.7.8
注釈982そのわたりの里々宇治近辺の里。6.7.10
注釈983中門のもとに八宮邸の中門。6.7.10
注釈984いと尊くつく額ずく、意。礼拝する。6.7.10
注釈985切におぼつかなくて大君の容体が気がかりで、の意。6.7.11
注釈986不軽の声はいかが以下「こそはべりけれ」まで、薫の詞。6.7.12
注釈987重々しき道には行はぬことなれど常不軽の行は朝廷などでは行われないもの、とされている。6.7.12
注釈988霜さゆる汀の千鳥うちわびて鳴く音悲しき朝ぼらけかな薫の中君への贈歌。6.7.13
注釈989言葉のやうに聞こえたまふ話しかけるように。和歌は節をつけて詠じた。6.7.15
注釈990つれなき人の御けはひにも通ひて匂宮の感じに似て。6.7.15
注釈991思ひよそへらるれど主語は中君。匂宮が思い出される。6.7.15
注釈992暁の霜うち払ひ鳴く千鳥もの思ふ人の心をや知る中君の返歌。「霜」「千鳥」の言葉を用いて返す。6.7.16
注釈993似つかはしからぬ御代りなれど弁の代役をさしていう。前の「御けはひに通ひて」と対照的表現。6.7.18
注釈994かやうのはかなしごとも以下「いかなる心地せむ」まで、薫の心中の思い。6.7.18
注釈995つつましげなるものから大君の態度を想起。6.7.18
校訂33 涼しき 涼しき--すく(く/$ゝ<朱>)しき 6.7.4
6.8
第八段 豊明の夜、薫と大君、京を思う


6-8  In a night of Toyo-no-akari, Kaoru and Ohoi-kimi expect Kyoto

6.8.1   宮の夢に見えたまひけむさま 思しあはするに、「 かう心苦しき御ありさまどもを天翔りても いかに見たまふらむ」と推し量られて、 おはしましし御寺にも、御誦経せさせたまふ。所々の祈りの使出だしたてさせたまひ、 公にも私にも、御暇のよし申したまひて、祭祓、よろづにいたらぬことなくしたまへど、 ものの罪めきたる御病にもあらざりければ、何の験も見えず。
 宮が夢に現れなさった様子をお考えになると、「このようにおいたわしいお二方のご境遇を、宙空をさ迷いながらどのように御覧になっていられるだろう」と推察されて、お籠もりになったお寺にも、御誦経をおさせになる。所々にご祈祷の使者をお出しになって、朝廷にも私邸のほうにも、お休暇の旨を申されて、祀りや祓い、いろいろと思い至らないことのないほどなさるが、何かの罪によるお病気でもなかったので、何の効目も見えない。
阿闍梨の夢に八の宮が現われておいでになったことを思っても、このいたましい二人の女王があの世からお気がかりにお見えになることかもしれぬと思われる薫は、山の御寺みてらへも誦経ずきょうの使いを出し、そのほかの所々へも読経どきょうをさせる使いをすぐに立てた。宮廷のほうへも、私邸のほうへもおいとまい、神々への祭り、はらいまでもひまなくさせて姫君の快癒かいゆのみ待つ薫であったが、見えぬ罪により得ている病ではないのであったから、効験は現われてこなかった。   Miya no yume ni miye tamahi kem sama obosi-ahasuru ni, "Kau kokoro-gurusiki ohom-arisama-domo wo, amakakeri te mo ikani mi tamahu ram?" to osihakara re te, ohasimasi si mi-tera ni mo, mi-zukyau se sase tamahu. Tokoro-dokoro no inori no tukahi idasi tate sase tamahi, ohoyake ni mo watakusi ni mo, ohom-itoma no yosi mausi tamahi te, maturi harahe, yorodu ni itara nu koto naku si tamahe do, mono no tumi meki taru ohom-yamahi ni mo ara zari kere ba, nani no sirusi mo miye zu.
6.8.2   みづからも、平らかにあらむとも、仏をも 念じたまはばこそあらめ
 ご自身でも、治りたいと思って、仏をお祈りなさればだが、
病者自身が、生かせてほしいと仏に願っておればともかくであるが、   Midukara mo, tahiraka ni ara m tomo, Hotoke wo mo nen-zi tamaha ba koso ara me,
6.8.3  「 なほ、かかるついでにいかで亡せなむ。この君のかく添ひて、残りなくなりぬるを、今はもて離れむかたなし。さりとて、 かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見劣りして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと。もし命しひてとまらば、病にことつけて、 形をも変へてむ。さてのみこそ、長き心をもかたみに見果つべきわざなれ」
 「はやり、このような機会に何とかして死にたい。この君がこうして付き添って、余命残りなくなったが、今はもう他人で過すすべもない。そうかといって、このように並々ならず見える愛情だが、思ったほどでないと、自分も相手もそう思われるのは、つらく情けないことであろう。もし寿命が無理に延びたら、病気にかこつけて、姿を変えてしまおう。そうしてだけ、末長い心を互いに見届けることができるのだ」
女王にすれば、病になったのを幸いとして死にたいと念じていることであるから、祈祷きとう効目ききめもないわけである。死ぬほうがよい、中納言がこうしてつききりになっていて介抱かいほうをされるのでは、なおったあとの自分はその妻になるよりほかの道はない、そうかといって、今見る熱愛とのちの日の愛情とが変わり、自分も恨むことになり、煩悶はんもんが絶えなくなるのはいとわしい。もしこの病で死ぬことができなかった場合には、病身であることに託して尼になろう、そうしてこそ互いの愛は永久に保たれることになるのであるから、ぜひそうしなければならぬ   "Naho, kakaru tuide ni ikade use na m. Kono Kimi no kaku sohi te, nokori naku nari nuru wo, ima ha mote-hanare m kata nasi. Saritote, kau oroka nara zu miyu meru kokorobahe no, mi-otori si te, ware mo hito mo miye m ga, kokoro-yasukara zu ukaru beki koto. Mosi inoti sihite tomara ba, yamahi ni kototuke te, katati wo mo kahe te m. Sate nomi koso, nagaki kokoro wo mo katamini mi-hatu beki waza nare."
6.8.4  と思ひしみたまひて、
 と思い決めなさって、
と姫君は深く思うようになって、   to omohi-simi tamahi te,
6.8.5  「 とあるにても、かかるにても、いかでこの思ふことしてむ」と思すを、さまでさかしきことはえうち出でたまはで、中の宮に、
 「生きるにせよ、死ぬにせよ、何とかこの出家を遂げたい」とお思いになるのを、そこまで賢ぶったことはおっしゃらずに、中の宮に、
死ぬにしても、生きるにしても出家のことはぜひ実行したいと考えるのであるが、そんな賢げに聞こえることは薫に言い出されなくて、中の君に、
  "Toaru nite mo, kakaru nite mo, ikade kono omohu koto si te m." to obosu wo, sa made sakasiki koto ha e uti-ide tamaha de, Naka-no-Miya ni,
6.8.6  「 心地のいよいよ頼もしげなくおぼゆるを、忌むことなむ、いとしるしありて命延ぶることと聞きしを、さやうに阿闍梨にのたまへ」
 「気分がますます頼りなく思われるので、戒を受けると、とても効目があって寿命が延びることだと聞いていたが、そのように阿闍梨におっしゃってください」
「私の病気は癒るのでないような気がしますからね、仏のお弟子でしになることによって、命の助かる例もあると言いますから、あなたからそのことを阿闍梨に頼んでください」
  "Kokoti no iyo-iyo tanomosige naku oboyuru wo, imu koto nam, ito sirusi ari te inoti noburu koto to kiki si wo, sayau ni Azyari ni notamahe."
6.8.7  と聞こえたまへば、皆泣き騷ぎて、
 と申し上げなさると、みな泣き騒いで、
 こう言ってみた。皆が泣いて、
  to kikoye tamahe ba, mina naki sawagi te,
6.8.8  「 いとあるまじき御ことなり。かくばかり思し惑ふめる中納言殿も、いかがあへなきやうに思ひきこえたまはむ」
 「とんでもない御ことです。こんなにまでお心を痛めていらっしゃるような中納言殿も、どんなにがっかり申されることでしょう」
「とんでもない仰せでございます。あんなに御心配をしていらっしゃいます中納言様がどれほど御落胆あそばすかしれません」
  "Ito arumaziki ohom-koto nari. Kaku bakari obosi madohu meru Tyuunagon-dono mo, ikaga ahenaki yau ni omohi kikoye tamaha m."
6.8.9  と、似ぎなきことに思ひて、 頼もし人にも申しつがねば、 口惜しう思す
 と、ふさわしくないことと思って、頼りにしている方にも申し上げないので、残念にお思いになる。
 だれもこんなことを言って、唯一の庇護者ひごしゃであるかおるにこの望みを取り次ごうとしないのを病女王は残念に思っていた。
  to, nigenaki koto ni omohi te, tanomosi-bito ni mo mausi tuga ne ba, kutiwosiu obosu.
6.8.10   かく籠もりゐたまひつれば、聞きつぎつつ、御訪らひにふりはへものしたまふ人もあり。おろかに思されぬこと、と見たまへば、殿人、親しき家司などは、おのおのよろづの御祈りをせさせ、嘆ききこゆ。
 このように籠もっていらっしゃったので、次々と聞き伝えて、お見舞いにわざわざやって来る人もいる。いい加減にはお思いでない方だ、と拝見するので、殿上人や、親しい家司などは、それぞれいろいろなご祈祷をさせ、ご心配申し上げる。
 女王の病のために薫が宇治に滞在していることを、それからそれへと話に聞き、慰問にわざわざ来る人もあった。深く愛している様子を察している部下の人、家職の人たちはいろいろの祈祷を依頼しにまわるのに狂奔していた。
  Kaku komori wi tamahi ture ba, kiki tugi tutu, ohom-toburahi ni hurihahe monosi tamahu hito mo ari. Oroka ni obosa re nu koto, to mi tamahe ba, tono-bito, sitasiki keisi nado ha, ono-ono yorodu no ohom-inori wo se sase, nageki kikoyu.
6.8.11   豊明は今日ぞかしと、京思ひやりたまふ。 風いたう吹きて、雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ。「 都にはいとかうしもあらじかし」と、人やりならず心細うて、「 疎くてやみぬべきにや 」と思ふ契りはつらけれど、恨むべうもあらず。なつかしうらうたげなる御もてなしを、 ただしばしにても例になして、「 思ひつることどもも語らはばや」と思ひ続けて眺めたまふ。光もなくて暮れ果てぬ。
 豊明の節会は今日であると、京をお思いやりになる。風がひどく吹いて、雪が降る様子があわただしく荒れ狂う。「都ではとてもこうではあるまい」と、自ら招いてのこととはいえ心細くて、「他人関係のまま終わってしまうのだろうか」と思う宿縁はつらいけれど、恨むこともできない。やさしくかわいらしいおもてなしを、ただ少しの間でも元どおりにして、「思っていたことを話したい」と、思い続けながら眺めていらっしゃる。光もささず暮れてしまった。
 今日は五節ごせちの当日であると薫は京を思いやっていた。風がひどくなり、雪もあわただしく降り荒れていた。京の中の天気はこんなでもあるまいがと切実に心細さを感じていた薫は、この人と夫婦になれずに終わるのであろうかと考えられる点に、運命の恨めしさはあったが、そんなことは今さら思うべきでない、なつかしい可憐かれんなふうで、ただしばらくでも以前のように思うことの言い合える時があればいいのであるがと物思わしくしていた。明るくならないままで日が暮れた。
  Toyo-no-akari ha kehu zo kasi to, Kyau omohi-yari tamahu. Kaze itau huki te, yuki no huru sama awatatasiu are madohu. "Miyako ni ha ito kau simo ara zi kasi." to, hito-yari-nara-zu kokoro-bosou te, "Utoku te yami nu beki ni ya?" to omohu tigiri ha turakere do, uramu beu mo ara zu. Natukasiu rautage naru ohom-motenasi wo, tada sibasi nite mo rei ni nasi te, "Omohi turu koto-domo mo katara baya." to omohi tuduke te nagame tamahu. Hikari mo naku te kure-hate nu.
6.8.12  「 かき曇り日かげも見えぬ奥山に
 「かき曇って日の光も見えない奥山で
 「かきくもり日かげも見えぬ奥山に     "Kaki-kumori hikage mo miye nu okuyama ni
6.8.13   心をくらすころにもあるかな
  心を暗くする今日このごろだ
  心をくらすころにもあるかな」
 薫の歌である。
    kokoro wo kurasu koro ni mo aru kana
注釈996宮の夢に見えたまひけむさま故八宮が阿闍梨の夢の中に現れたという様子を。格助詞「の」は主格。6.8.1
注釈997思しあはするに主語は薫。6.8.1
注釈998かう心苦しき御ありさまどもを以下「見たまふらむ」まで、薫の心中の思い。6.8.1
注釈999天翔りても『集成』は「死者の霊が成仏せぬ時、宙をさまようとされた」と注す。6.8.1
注釈1000いかに見たまふらむ主語は八宮。6.8.1
注釈1001おはしましし御寺にも主語は八宮。6.8.1
注釈1002公にも私にも、御暇のよし申したまひて「公」は朝廷への欠勤届け。「私」は薫の私的な主人家筋への暇乞い。例えば、匂宮邸や夕霧邸へ。6.8.1
注釈1003ものの罪めきたる御病にもあらざりければ何かの祟による病気というのでない。原因が不明。6.8.1
注釈1004みづからも平らかに大君自身も。6.8.2
注釈1005念じたまはばこそあらめ「こそ」「あらめ」は係結びの法則、逆接用法。6.8.2
注釈1006なほかかるついでに以下「わざなれ」まで、大君の心中。6.8.3
注釈1007かうおろかならず見ゆめる心ばへの見劣りして『完訳』は「今は並大抵とは思われぬ気持が、結婚後はそれほどでもなかったのだと、双方で互いに思うようでは。結婚そのものが夫にも妻にも幻滅をもたらすとして、絶望的」と注す。6.8.3
注釈1008形をも変へてむ出家して尼姿となる。6.8.3
注釈1009とあるにても以下「思ふことしてむ」まで、大君の心中。生きるにせよ死ぬにせよ。出家を遂げたい。6.8.5
注釈1010心地のいよいよ頼もしげなく以下「阿闍梨にのたまへ」まで、大君の詞。6.8.6
注釈1011いとあるまじき御ことなり以下「思ひきこえたまはむ」まで、女房の詞。6.8.8
注釈1012頼もし人にも薫をさす。6.8.9
注釈1013口惜しう思す主語は大君。6.8.9
注釈1014かく籠もりゐたまひつれば主語は薫。宇治に。6.8.10
注釈1015豊明は今日ぞかし薫の心中。豊明節会、十一月上の辰の日。6.8.11
注釈1016風いたう吹きて雪の降るさまあわたたしう荒れまどふ薫の荒寥たる心象風景。6.8.11
注釈1017都にはいとかうしもあらじかし薫の心中に即した叙述。6.8.11
注釈1018疎くてやみぬべきにや薫の心中の思い。6.8.11
注釈1019ただしばしにても以下「かたらはばや」まで、薫の心中の思い。6.8.11
注釈1020思ひつることどもも語らはばや『完訳』は「薫は結婚したかったことを。「つる」の完了形に注意。死が目前」と注す。6.8.11
注釈1021かき曇り日かげも見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな薫の独詠歌。『完訳』は「「光もなくて--」の景に、薫の絶望的な心象風景をかたどる歌」と注す。6.8.12
校訂34 疎くて 疎くて--う(う/+と<朱>)くて 6.8.11
6.9
第九段 薫、大君に寄り添う


6-9  Kaoru nurses Ohoi-kimi closely

6.9.1  ただ、 かくておはするを頼みに、皆思ひきこえたり。 例の、近き方にゐたまへるに、御几帳などを、風のあらはに吹きなせば、中の宮、奥に入りたまふ。見苦しげなる人びとも、かかやき隠れぬるほどに、 いと近う寄りて
 ただ、こうしておいでになるのを頼みに、皆がお思い申し上げていた。いつもの、近いお側に座っていらっしゃるが、御几帳などを、風が烈しく吹くので、中の宮、奥のほうにお入りになる。見苦しそうな人びとも、恥ずかしがって隠れているところで、たいそう近くに寄って、
この人のいてくれるのをだれも力に頼んでいた。
 いつもの近い席に薫がいる時に、几帳きちょうなどを風が乱暴に吹き上げるため中の君は向こうのほうへはいった。老いた女房などもきまり悪がって隠れてしまった間に、近々と病床へ薫は寄って、
  Tada, kakute ohasuru wo tanomi ni, mina omohi kikoye tari. Rei no, tikaki kata ni wi tamahe ru ni, mi-kityau nado wo, kaze no araha ni huki nase ba, Naka-no-Miya, oku ni iri tamahu. Mi-gurusige naru hito-bito mo, kakayaki kakure nuru hodo ni, ito tikau yori te,
6.9.2  「 いかが思さるる。心地に思ひ残すことなく、念じきこゆるかひなく、御声をだに聞かずなりにたれば、いとこそわびしけれ。 後らかしたまはば、いみじうつらからむ」
 「どのようなお具合ですか。心のありたけを尽くして、ご祈祷申し上げる効もなく、お声をさえ聞かなくなってしまったので、まことに情けない。後に遺して逝かれなさったら、ひどくつらいことでしょう」
「どんな御気分ですか、私が精神を集中して快くおなりになるのを祈っているのに、そのかいがなくて、もう声すら聞かせていただけなくなったのは悲しいことじゃありませんか。私をあとに残して行っておしまいになったらどんなに恨めしいでしょう」
  "Ikaga obosa ruru. Kokoti ni omohi nokosu koto naku, nen-zi kikoyuru kahinaku, ohom-kowe wo dani kika zu nari ni tare ba, ito koso wabisikere. Okurakasi tamaha ba, imiziu turakara m."
6.9.3  と、泣く泣く聞こえたまふ。 ものおぼえずなりにたるさまなれど顔はいとよく隠したまへり
 と、泣く泣く申し上げなさる。意識もはっきりしなくなった様子だが、顔はまことによく隠していらっしゃった。
 泣く泣くこう言った。もう意識もおぼろになったようでありながら女王は薫のけはいを知ってそでで顔をよく隠していた。
  to, naku-naku kikoye tamahu. Mono oboye zu nari ni taru sama nare do, kaho ha ito yoku kakusi tamahe ri.
6.9.4  「 よろしき隙あらば、聞こえまほしきこともはべれど、ただ消え入るやうにのみなりゆくは、口惜しきわざにこそ」
 「気分の良い時があったら、申し上げたいこともございますが、ただもう息も絶えそうにばかりなってゆくのは、心残りなことです」
「少しでもよろしい間があれば、あなたにお話し申したいこともあるのですが、何をしようとしても消えていくようにばかりなさるのは悲しゅうございます」
  "Yorosiki hima ara ba, kikoye mahosiki koto mo habere do, tada kiye-iru yau ni nomi nari-yuku ha, kutiwosiki waza ni koso."
6.9.5  と、いとあはれと思ひたまへるけしきなるに、 いよいよせきとどめがたくて、ゆゆしう、かく心細げに思ふとは見えじと、つつみたまへど、 声も惜しまれず
 と、本当に悲しいと思っていらっしゃる様子なので、ますます感情を抑えがたくなって、不吉に、このように心細そうに思っているとは見られまいと、お隠しになるが、泣き声まで上げられてしまう。
 薫を深くあわれむふうのあるのを知って、いよいよ男の涙はとめどなく流れるのであるが、周囲で頼み少なく思っているとは知らせたくないと思って慎もうとしても、泣く声の立つのをどうしようもなかった。   to, ito ahare to omohi tamahe ru kesiki naru ni, iyo-iyo seki-todome gataku te, yuyusiu, kaku kokoro-bosoge ni omohu to ha miye zi to, tutumi tamahe do, kowe mo wosima re zu.
6.9.6  「 いかなる契りにて、限りなく思ひきこえながら、つらきこと多くて 別れたてまつるべきにか。少し 憂きさまをだに見せたまはばなむ、思ひ冷ますふしにもせむ」
 「どのような宿縁で、この上なくお慕い申し上げながら、つらいことが多くてお別れ申すのだろうか。少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」
自分とはどんな宿命で、心の限り愛していながら、恨めしい思いを多く味わわせられるだけでこの人と別れねばならぬのであろう、少し悪い感じでも与えられれば、それによってせめても失う者の苦しみをなだめることになるであろう、   "Ika naru tigiri ni te, kagirinaku omohi kikoye nagara, turaki koto ohoku te wakare tatematuru beki ni ka. Sukosi uki sama wo dani mise tamaha ba nam, omohi samasu husi ni mo se m."
6.9.7  とまもれど、いよいよあはれげにあたらしく、をかしき御ありさまのみ見ゆ。
 と見守っているが、ますますいとしく惜しく、美しいご様子ばかりが見える。
と思って見つめる薫であったが、いよいよ可憐かれんで、美しい点ばかりが見いだされる。   to mamore do, iyo-iyo aharege ni atarasiku, wokasiki ohom-arisama nomi miyu.
6.9.8   腕などもいと細うなりて、影のやうに弱げなるものから、色あひも変らず、白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、 衾を押しやりて、中に 身もなき雛を臥せたらむ心地して、御髪はいとこちたうもあらぬほどに うちやられたる、枕より落ちたる際の、つやつやとめでたうをかしげなるも、「 いかになりたまひなむとするぞ」とあるべきものにもあらざめりと見るが、惜しきことたぐひなし。
 腕などもたいそう細くなって、影のように弱々しいが、肌の色艶も変わらず、白く美しそうになよなよとして、白い御衣類の柔らかなうえに、衾を押しやって、中に身のない雛人形を臥せたような気がして、お髪はたいして多くもなくうちやられている、それが、枕からこぼれている側が、つやつやと素晴らしく美しいのも、「どのようにおなりになろうとするのか」と、生きていかれそうにもなく見えるのが、惜しいことは類がない。
かいななども細く細く細くなって影のようにはかなくは見えながらも色合いが変わらず、白く美しくなよなよとして、白い服の柔らかなのを身につけ夜着は少し下へ押しやってある。それはちょうど中に胴というもののないひな人形を寝かせたようなのである。髪は多すぎるとは思われぬほどのかさで床の上にあった。まくらから下がったあたりがつやつやと美しいのを見ても、この人がどうなってしまうのであろう、助かりそうも見えぬではないかと限りなく惜しまれた。   Kahina nado mo ito hosou nari te, kage no yau ni yowage naru monokara, iro-ahi mo kahara zu, sirou utukusige ni nayo-nayo to si te, siroki ohom-zo-domo no nayobika naru ni, husuma wo osi-yari te, naka ni mi mo naki hihina wo huse tara m kokoti si te, mi-gusi ha ito kotitau mo ara nu hodo ni uti-yara re taru, makura yori oti taru kiha no, tuya-tuya to medetau wokasige naru mo, "Ikani nari tamahi na m to suru zo." to, aru beki mono ni mo ara za' meri to miru ga, wosiki koto taguhi nasi.
6.9.9  ここら久しく悩みて、ひきもつくろはぬけはひの、 心とけず恥づかしげに、限りなうもてなしさまよふ人にも多うまさりて、こまかに見るままに、 魂も静まらむ方なし
 幾月も長く患って、身づくろいもしてない様子が、気を許そうともせず恥ずかしそうで、この上なく飾りたてる人よりも多くまさって、こまかに見ていると、魂も抜け出してしまいそうである。
長く病臥びょうがしていて何のつくろいもしていない人が、盛装して気どった美人というものよりはるかにすぐれていて、見ているうちに魂も、この人と合致するために自分を離れて行くように思われた。
  Kokora hisasiku nayami te, hiki mo tukuroha nu kehahi no, kokoro-toke zu hadukasige ni, kagirinau motenasi samayohu hito ni mo ohou masari te, komaka ni miru mama ni, tamasihi mo sidumara m kata nasi.
注釈1022かくておはするを薫が付き添っていらっしゃるのを。6.9.1
注釈1023例の近き方にゐたまへるに主語は中君。6.9.1
注釈1024いと近う寄りて主語は薫。6.9.1
注釈1025いかが思さるる以下「いみじうつらからむ」まで、薫の詞。6.9.2
注釈1026後らかしたまはば「後らかす」は「後らす」よりも使役的ニュアンスが強く出る。私をしてあとに残して逝かれたら、という自分に引きつけた物の言い方。6.9.2
注釈1027ものおぼえずなりにたるさまなれど大君のさま。『完訳』は「病状が悪化し、意識が混濁」と注す。6.9.3
注釈1028顔はいとよく隠したまへり『完訳』は「衰弱の顔を見られまいとする。薫に美しき印象を残して死にたいという願望」と注す。6.9.3
注釈1029よろしき隙あらば以下「わざにこそ」まで、大君の詞。6.9.4
注釈1030いよいよせきとどめがたくて主語は薫。6.9.5
注釈1031声も惜しまれず「れ」自発の助動詞。『集成』は「嗚咽の声も抑えきれない」。『完訳』は「涙はもとより声も惜しまず泣かずにはいられない」と注す。6.9.5
注釈1032いかなる契りにて以下「ふしにもせむ」まで、薫の心中の思い。6.9.6
注釈1033別れたてまつるべきにか自分の宿縁に対する疑問を投げ掛ける。6.9.6
注釈1034憂きさまを大君の容貌に醜いさまを、の意。6.9.6
注釈1035腕などもいと細うなりて薫の目や手を握った感触を通しての叙述。6.9.8
注釈1036衾を押しやりて夜具も重く感じられるさま。6.9.8
注釈1037身もなき雛を臥せたらむ心地して大君の痩せ細ったさま。6.9.8
注釈1038うちやられたる枕より落ちたる際の「うちやられたる」は連体中止法。いったん余韻をもって中止し、そしてそれが、というニュアンスで下文に続く。6.9.8
注釈1039いかになりたまひなむとするぞと薫の心中の思い。「と」は地の文。6.9.8
注釈1040あるべきものにもあらざめりと見るが薫の心中の思い。前の心中の思いと並列の構文。6.9.8
注釈1041心とけず恥づかしげに『完訳』は「薫に気を許そうともせず、近寄りにくいほど気高い様子」と注す。6.9.9
注釈1042魂も静まらむ方なし語り手の評言。薫は物思いのあまりに魂が遊離してしまいそうだ、の意。6.9.9
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年5月3日

渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2004年9月21日

Last updated 10/26/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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