47 総角(大島本)


AGEMAKI


薫君の中納言時代
二十四歳秋から歳末までの物語



Tale of Kaoru's Chunagon era, from fall to the end of the year at the age of 24

2
第二章 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる


2  Tale of Ohoi-kimi  Ohoi-kimi slips out of the room leaving her sister

2.1
第一段 一周忌終り、薫、宇治を訪問


2-1  After the first anniversary of Hachinomiya's death, Kaoru visits to Uji

2.1.1  御服など果てて、脱ぎ捨てたまへるにつけても、 かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを思すに、 いみじく思ひのほかなる身の憂さと、泣き沈みたまへる御さまども、いと心苦しげなり。
 御服喪などが終わって、お脱ぎ捨てになったのにつけても、片時の間も生き永らえようとは思わなかったが、あっけなく過ぎてしまった月日の間をお思いなると、ひどく思ってもいなかった身のつらさと、泣き沈んでいらっしゃるお二方のご様子が、まことにお気の毒である。
 喪の期が過ぎて除服をするにつけても、片時も父君のあとには生き残る命と思わなかったものが、こうまで月日を重ねてきたかと、これさえ薄命の中に数えて二人の女王にょおうの泣いているのも気の毒であった。   Ohom-buku nado hate te, nugi-sute tamahe ru ni tuke te mo, kata-toki mo okure tatematura m mono to omoha zari si wo, hakanaku sugi ni keru tukihi no hodo wo obosu ni, imiziku omohi no hoka naru mi no usa to, naki sidumi tamahe ru ohom-sama-domo, ito kokoro-gurusige nari.
2.1.2  月ごろ黒く馴らはしたまへる御姿、 薄鈍にて 、いとなまめかしくて、中の宮は、げにいと盛りにて、 うつくしげなる匂ひまさりたまへり御髪など澄ましつくろはせて見たてまつりたまふに、世の物思ひ忘るる心地してめでたければ、人知れず、「 近劣りしては思はずやあらむ」と、頼もしくうれしくて、今はまた見譲る人もなくて、親心にかしづきたてて見きこえたまふ。
 幾月も黒い喪服を着馴れていらしたお姿が、薄鈍色になって、たいそう優美なので、中の宮は、なるほど女盛りで、可憐な感じが勝っていらっしゃった。御髪などを洗い清めさせて整わせて拝見なさると、この世の憂いが忘れる気がして素晴らしいので、心中密かに、「近づいて見劣りがすることはないだろう」と、頼もしく嬉しくて、今は他に見譲る人もいなくて、親代わりになって大切にお世話申し上げなさる。
一か年真黒まっくろな服を着ていた麗人たちの薄鈍うすにび色に変わったのもえんに見えた。姉君の思っているように、中の君は美しい盛りの姿と見えて、喪の間にまたひときわ立ちまさったようにも思われる。髪を洗わせなどした中の君の姿を大姫君はながめているだけで人生の悲しみも皆忘れてしまう気がするほどな麗容だった。姫君はすべて思うとおりな気がして、結婚して良人おっとに幻滅を覚えさせることはよもあるまいと頼もしくうれしくて、自身のほかには保護者のない妹君を親心になって大事がる姉女王であった。
  Tuki-goro kuroku narahasi taru ohom-sugata, usu-nibi nite, ito namamekasiku te, Naka-no-Miya ha, geni ito sakari ni te, utukusige naru nihohi masari tamahe ri. Mi-gusi nado sumasi tukurohase te mi tatematuri tamahu ni, yo no mono-omohi wasururu kokoti si te medetakere ba, hito sire zu, "Tika-otori si te ha omoha zu ya ara m?" to, tanomosiku uresiku te, ima ha mata mi-yuduru hito mo naku te, oya-gokoro ni kasiduki tate te mi kikoye tamahu.
2.1.3   かの人は、つつみきこえたまひし 藤の衣も改めたまへらむ長月も、静心なくて、またおはしたり。「 例のやうに聞こえむ」と、また御消息あるに、 心あやまりして、わづらはしくおぼゆれば、とかく聞こえすまひて対面したまはず。
 あの方は、ご遠慮申し上げなさった服喪期間中もお改まりになっていような九月も、待ちきれず、再びおいでになった。「いつものようにお会い申したい」と、またご挨拶があるので、気分が悪くなって、厄介に思われるので、何かと言い訳申し上げてお会いなさらない。
 薫はいくぶんの遠慮がされた恋人の喪服ももう脱がれた時と思って、結婚の初めには不吉として人のきらう九月ではあったが、待ちきれぬ心でまた宇治へ行った。これまでのようにして話し合いたいと取り次ぎの女は薫の意を伝えて来るのであったが、
「不注意からまた病をしまして苦しんでいる際ですから」
 というような返事ばかりを言わせて大姫君は会おうとしなかった。
  Kano hito ha, tutumi kikoye tamahi si hudi no koromo mo aratame tamahe ra m Nagatuki mo, sidu-kokoro naku te, mata ohasi tari. "Rei no yau ni kikoye m." to, mata ohom-seusoko aru ni, kokoro-ayamari si te, wadurahasiku oboyure ba, tokaku kikoye sumahi te taimen si tamaha zu.
2.1.4  「 思ひの外に心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
 「意外に冷たいお心ですね。女房たちもどのように思うでしょう」
 「存外にあなたは人情味に欠けた方です。女房たちが私をどう見ていることでしょう。」
  "Omohi no hoka ni kokoro-uki mi-kokoro kana! Hito mo ika ni omohi habera m."
2.1.5  と、御文にて聞こえたまへり。
 と、お手紙で申し上げなさった。
 と今度はふみに書いて薫がよこした。
  to, ohom-humi ni te kikoye tamahe ri.
2.1.6  「 今はとて脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」
 「今を限りと脱ぎ捨てました時の悲しみに、かえって前より塞ぎこんでおりまして、お返事申し上げられません」
 「父の喪服を脱ぎました際の悲しみがずっと続きまして、かえって今のほうが深い暗さの中に沈んでおります私ですから、お話を承ることができませぬ。」
  "Ima ha tote nugi haberi si hodo no kokoro-madohi ni, naka-naka sidumi haberi te nam, e kikoye nu."
2.1.7  とあり。
 とある。
 返事はこう書いて出された。   to ari.
2.1.8   怨みわびて例の人召して、よろづにのたまふ。世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、 思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「 ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。
 恨みのやりばがなくて、いつもの女房を召して、いろいろとおっしゃる。世にまたとない心細さの慰めとしては、この君だけをお頼み申し上げていた女房たちなので、思い通りに結婚なさって、世間並の住まいにお移りなどなさるのを、とてもおめでたいことと話し合って、「ただお入れ申そう」と、皆しめし合わせているのであった。
しかたのない気のする薫は、例のように弁を呼び出して、この人の力を借ろうと相談した。心細いこの山荘にいて源中納言だけを唯一の庇護者ひごしゃと信じてたよる心のある女房たちは、弁からの話を聞いて、この結婚を成立させることほどよいことはないと皆言いあわせ、どんなにしても姫君の寝室へ薫を導こうと手はずを決めていた。
  Urami-wabi te, rei no hito mesi te, yorodu ni notamahu. Yo ni sira nu kokoro-bososa no nagusame ni ha, kono Kimi wo nomi tanomi kikoye taru Hito-bito nare ba, omohi ni kanahi tamahi te, yo no tune no sumika ni uturohi nado si tamaha m wo, ito medetakaru beki koto ni ihi-ahase te, "Tada ire tatematura m." to, mina katarahi ahase keri.
注釈193かた時も後れたてまつらむものと思はざりしを、はかなく過ぎにける月日のほどを姫君たちの心中の思いを地の文で語る。2.1.1
注釈194いみじく思ひのほかなる身の憂さ姫君たちの心中の思い。2.1.1
注釈195薄鈍にて除服の後は平服に戻るの普通だが、姫君たちはなお志厚く薄鈍色の喪服を着用している。2.1.2
注釈196うつくしげなる匂ひまさりたまへり『集成』は「可憐な美しさという点では姉君よりすぐれていらっしゃる」と注す。2.1.2
注釈197御髪など澄ましつくろはせて大君が女房をして中君の御髪を洗い整わせて、の意。2.1.2
注釈198近劣りしては思はずやあらむ大君の心中の思い。『集成』は「薫は中の君を期待外れだとは思わないだろう」と注す。2.1.2
注釈199かの人は薫をさす。2.1.3
注釈200藤の衣も改めたまへらむ長月も静心なくて『完訳』は「その喪服を改める九月の到来を待ちかねた。九月は忌月で結婚がはばかられる。命日の八月二十日ごろから、日数をおかずに訪ねたことになる」と注す。『河海抄』には「男女初会合忌正五九月云々」とある。2.1.3
注釈201例のやうに聞こえむ薫の訪問の主旨。2.1.3
注釈202心あやまりして『集成』は「〔大君は〕かたくなな気持になって」。『完訳』は「姫宮は気分がすぐれず」と訳す。2.1.3
注釈203思ひの外に以下「いかに思ひはべらむ」まで、薫の手紙文。2.1.4
注釈204今はとて以下「え聞こえぬ」まで、大君の返事。2.1.6
注釈205怨みわびて主語は薫。2.1.8
注釈206例の人召して弁の君をさす。「例の人」で一語。2.1.8
注釈207思ひにかなひたまひて『集成』は「(姫君が)自分たちの願い通りに薫と結婚して下さって、世間並みに京のお邸にお移りなどなさることを、大層結構なことだと話し合って」と注す。2.1.8
注釈208ただ入れたてまつらむ女房たちの詞。2.1.8
校訂8 薄鈍 薄鈍--うすわ(わ/#に<朱>)ひ 2.1.2
2.2
第二段 大君、妹の中の君に薫を勧める


2-2  Ohoi-kimi recommends her sister getting married to Kaoru

2.2.1  姫宮、そのけしきをば深く見知りたまはねど、「 かく取り分きて人めかしなつけたまふめるに、うちとけて、うしろめたき心もやあらむ。 昔物語にも、心もてやは、とあることもかかることもあめるうちとくまじき人の心にこそあめれ」と思ひよりたまひて、
 姫宮、その様子を深くご存知ないが、「このように特別に一人前に親しくしているらしいので、気を許して、気がかりな考えがあるかもしれない。昔物語にも、自分から、とかく事件が起こることはあろうか。気を許してはならない女房の心であるようだ」と思い至りなさって、
 姫君は女房たちがどんなことを計画しているかを深くは知らないのであるが、弁を特別な者にしてなつけている薫であるから、自分として油断のできぬ考えをしているかもしれぬ、昔の小説の中の姫君なども、自身の意志から恋の過失をしてしまうのは少ないのである、他の女房と質は違っても、弁には弁の利己心が働くはずであるからと、なんとなく今日の家の中の空気のただならぬのによって思い寄るところがあった。   Hime-Miya, sono kesiki wo ba hukaku mi-siri tamaha ne do, "Kaku tori-waki te hito-mekasi natuke tamahu meru ni, utitoke te, usirometaki kokoro mo ya ara m? Mukasi-monogatari ni mo, kokoro mote yaha, toaru mo kakaru koto mo a' meru. Uti-toku maziki hito no kokoro ni koso a' mere." to omohi-yori tamahi te,
2.2.2  「 せめて怨み深くはこの君をおし出でむ劣りざまならむにてだに、さても見そめては、あさはかにはもてなすまじき心なめるを、まして、ほのかにも見そめては、慰みなむ。言に出でては、いかでかは、 ふとさることを待ち取る人のあらむ本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは、かたへは 人の思はむことを、あいなう浅き方にやなど、つつみたまふならむ」
 「せめて恨みが深いなら、この妹君を押し出そう。たとえ見劣りする相手でも、そのように見初めては、いい加減には扱わないお心のようだから、わたし以上に、少しでも見初めたらきっと慰むことであろう。言葉に表しては、どうして、急に乗り換える人があろうか。希望通りでないと、承知する様子のないらしいのは、一つには、こちらの思うことを、筋違いに浅い思慮ではないかなどと、遠慮なさるだろう」
薫がしいて近づいて来た時には妹を自分の代わりに与えよう、目的としたものに劣っていたところで、そうして縁の結ばれた以上は軽率に捨ててしまうような性格の薫ではないのだから、ましてほのかにでも顔を見れば多大な慰めを感じるに価する妹ではないか、こんなことは話として持ち出しても、眼前に目的を変えて見せる人があるはずはない、この間から弁に言わせてもいるが、初めの志に違うなどと言って聞き入れるふうがないというのは、自分に対して今まで言っていたことが、こんなに根底の浅いものであったかと思わせることを避けているにすぎまい、   "Semete urami hukaku ha, kono Kimi wo osi-ide m. Otori-zama nara m ni te dani, satemo mi-some te ha, asahaka ni ha motenasu maziki kokoro na' meru wo, masite, honoka ni mo mi-some te ha, nagusami na m. Koto ni ide te ha, ikadekaha, huto saru koto wo mati-toru hito no ara m. Hoi ni nam ara nu to, ukehiku kesiki no naka naru ha, katahe ha hito no omoha m koto wo, ainau asaki kata ni ya nado, tutumi tamahu nara m."
2.2.3  と 思し構ふるを、「 けしきだに知らせたまはずは、罪もや得む」と、身をつみていとほしければ、よろづにうち語らひて、
 とご計画なさるが、「そのそぶりさえお知らせなさらなかったら、恨みを受けよう」と、我が身につまされてお気の毒なので、いろいろとお話になって、
とこう考えを決める姫君であったが、少しそのことを中の君に知らせておかないでその計らいをするのは仏法の罪を作ることではあるまいかと、先夜の闖入者に苦しんだ経験から妹の女王がかわいそうになり、ほかの話をした続きに、
  to obosi kamahuru wo, "Kesiki dani sira se tamaha zu ha, tumi mo ya e m." to, mi wo tumi te itohosikere ba, yorodu ni uti-katarahi te,
2.2.4  「 昔の御おもむけも世の中をかく心細くて 過ぐし果つとも、なかなか人笑へに、かろがろしき心つかふな、などのたまひおきしを、 おはせし世の御ほだしにて、行ひの御心を乱りし罪だにいみじかりけむを、 今はとて、さばかりのたまひし一言をだに違へじ、と思ひはべれば、心細くなどもことに思はぬを、この人びとの、あやしく心ごはきものに憎むめるこそ、いとわりなけれ。
 「故人のご意向も、世の中をこのように心細く終えようとも、かえって物笑いに、軽々しい考えをするな、などと遺言なさったが、在世中の御足手まといで、勤行のお心を乱した罪でさえ大変であったのに、今はの際に、せめてそのようにおっしゃった一言だけでも違えまい、と思いますので、心細いなどとも格別思わないが、この女房たちが、妙に強情者のように憎んでいるらしいのは、ほんとに訳が分かりません。
「おくなりになったお父様のお言葉は、たとえこうした心細い生活でも、それを続けて行かねばならぬとして、浮薄な恋愛を、感情の動くままにして、世間の物笑いになるなということでしたね。一生お父様の信仰生活へおはいりになるお妨げをしてきたその罪だけでもたいへんなのだから、せめて終わりの御訓戒にそむきたくないと私は思って、独身でいるのを心細いなどと考えないのですがね、女房たちまでむやみに気の強い女のように言って悪く見ているのは困ったものですわね。   "Mukasi no ohom-omomuke mo, yononaka wo kaku kokoro-bosoku te sugusi-hatu tomo, naka-naka hito-warahe ni, karo-garosiki kokoro tukahu na, nado notamahi-oki si wo, ohase si yo no ohom-hodasi nite, okonahi no mi-kokoro wo midari si tumi dani imizikari kem wo, ima ha tote, sabakari notamahi si hito-koto wo dani tagahe zi, to omohi habere ba, kokoro-bosoku nado mo koto ni omoha nu wo, kono hito-bito no, ayasiku kokoro-gohaki mono ni nikumu meru koso, ito warinakere.
2.2.5   げに、さのみやうのものと過ぐしたまはむも、明け暮るる月日に添へても、 御ことをのみこそ、あたらしく心苦しくかなしきものに思ひきこゆるを、 君だに世の常にもてなしたまひて、 かかる身のありさまもおもだたしく、慰むばかり 見たてまつりなさばや
 女房の言うように、私と同じように独身でお過しになるのも、明け暮れの月日がたつにつけても、あなたのお身の上ばかりが、惜しくおいたわしく悲しい身の上とお思い申し上げていますが、せめてあなただけでも世間並みに結婚なさって、このようなわが身の有様も面目が立って、慰められるようお世話申し上げたい」
まあそう変わった人間に思われていてもいいとして、私のあなたと暮らしている月日があなたの青春をむだにしてしまうのではないかと、私はそれが始終惜しく思われてならないのですよ。気の毒でかわいそうでね。だからあなただけは普通の女らしく結婚をして、あなたの幸福を見ることで私も慰められるようになりたい気がします」
  Geni, sa nomi yau no mono to sugusi tamaha m mo, ake-kururu tuki-hi ni sohe te mo, ohom-koto wo nomi koso, atarasiku kokoro-gurusiku kanasiki mono ni omohi kikoyuru wo, Kimi dani yo no tune ni motenasi tamahi te, kakaru mi no arisama mo omodatasiku, nagusamu bakari mi tatematuri nasa baya."
2.2.6  と聞こえたまはば、 いかに思すにかと、心憂くて、
 と申し上げなさると、どのようにお考えなのかと、情けなくなって、
 と言うと、どんな考えがあって姉君はこんなことを言いだしたのであろうと急に情けなく中の君はなって、
  to kikoye tamaha ba, ikani obosu ni ka to, kokoro-uku te,
2.2.7  「 一所をのみやは、さて世に果てたまへとは、 聞こえたまひけむ。はかばかしくもあらぬ身のうしろめたさは、数添ひたるやうにこそ、 思されためりしか。心細き御慰めには、かく朝夕に見たてまつるより、いかなるかたにか」
 「お一人だけが、そのように独身で終えなさいとは、申されたでしょうか。頼りないわが身の不安さは、よけいあるように、お思いのようでした。心細さの慰めには、このように朝夕にお目にかかるより他に、どのような手段がありましょうか」
「あなたお一人だけにお残しになった御訓戒だったのでしょうか。あなたほど聡明そうめいでない私のほうをことに気がかりにお父様は思召してのお言葉かと私は思っています。心細さはこうしていつもごいっしょにいることだけで慰めるほかに何があるでしょう」
  "Hito-tokoro wo nomi yaha, sate yo ni hate tamahe to ha, kikoye tamahi kem. Haka-bakasiku mo ara nu mi no usirometasa ha, kazu sohi taru yau ni koso, obosa re ta' meri sika. Kokoro-bosoki ohom-nagusame ni ha, kaku asayuhu ni mi tatematuru yori, ika naru kata ni ka."
2.2.8  と、なま恨めしく思ひたまひつれば、げにと、いとほしくて、
 と、何やら恨めしそうに思っていらっしゃるので、なるほどと、お気の毒になって、
 少し恨めしがるふうに中の君の言うのが道理に思われて姫君はかわいそうに見た。
  to, nama-uramesiku omohi tamahi ture ba, geni to, itohosiku te,
2.2.9  「 なほ、これかれ、うたてひがひがしきものに言ひ思ふべかめるにつけて、思ひ乱れはべるぞや」
 「やはり、誰も彼もが困った強情者のように言い思っているらしいのにつけても、途方に暮れておりますよ」
「いいえね、女房たちが私らを頑固がんこ過ぎる女だと言いもし、思いもしているらしいから、いろいろとほかの道のことも考えたのですよ」
  "Naho, kore-kare, utate higa-higasiki mono ni ihi omohu beka' meru ni tuke te, omohi midare haberu zo ya!"
2.2.10  と、言ひさしたまひつ。
 と、言いかけてお止めになった。
 あとはこんなふうにだけより言わなかった。   to, ihi-sasi tamahi tu.
注釈209かく取り分きて以下「心にこそあめれ」まで、大君の心中の思い。2.2.1
注釈210昔物語にも心もてやはとあることもかかることもあめる反語表現の構文。『集成』は「昔物語でも、姫君の一存で、とかくのことが起ろうか。みな女房の仲立ちによるものだ、の意」と注す。2.2.1
注釈211うちとくまじき人の心女房の思慮。2.2.1
注釈212せめて怨み深くは以下「つつみたまふならむ」まで、大君の心中の思い。薫がどうしても諦めずに、深く恨むようなら、の意。2.2.2
注釈213この君をおし出でむ妹の中君をさす。2.2.2
注釈214劣りざまならむにてだにさても見そめては『完訳』は「劣った女を相手にしてさえ。薫の気長なやさしさを認めた判断」と注す。2.2.2
注釈215ふとさることを待ち取る人のあらむ反語表現の構文。中君との結婚をさす。2.2.2
注釈216本意になむあらぬと、うけひくけしきのなかなるは薫は弁の君から大君が中君をという意向を聞かされたが、同意しなかったという話は、の意。「なかなる」の「なる」は伝聞推定の助動詞。2.2.2
注釈217人の思はむことをこちら大君自身をさす。推量の助動詞「む」婉曲の意。2.2.2
注釈218思し構ふるを中君と薫の結婚を計画する。2.2.3
注釈219けしきだに知らせたまはずは罪もや得む大君の心中の思い。2.2.3
注釈220昔の御おもむけも以下「見たてまつりなさばや」まで、大君の中君への詞。「昔の御おもむけ」は亡き父宮のご意向、の意。2.2.4
注釈221世の中をかく心細くて以下「心つかうな」まで、父八宮の遺言。2.2.4
注釈222おはせし世の御ほだしにて父宮在世中のお足手まといで。2.2.4
注釈223今はとてさばかりのたまひし一言をだに違へじと思ひはべれば生涯結婚すまい、という意。2.2.4
注釈224げにさのみやうのものと過ぐしたまはむも『集成』は「でも、あの人たちの言う通り、あなたまでが私と同じに独り身で過されるのも」と注す。2.2.5
注釈225御ことをのみこそあなた中君のことばかりが。2.2.5
注釈226君だに世の常に「君」は二人称。2.2.5
注釈227かかる身のありさまもおもだたしく慰むばかり自分の身の上もあなたが薫と結婚したら面目が立って気持ちが慰められる。2.2.5
注釈228見たてまつりなさばや中君の結婚を背後からお世話したい。2.2.5
注釈229いかに思すにか中君の心中の思い。姉君はどうお考えなのか。2.2.6
注釈230一所をのみやは以下「いかなるかたにか」まで、中君の詞。反語表現の構文。2.2.7
注釈231聞こえたまひけむ主語は父宮。2.2.7
注釈232思されためりしか主語は父宮。推量の助動詞「めり」は中君の主観的推量のオニュアンス。2.2.7
注釈233なほこれかれうたて以下「思ひ乱れはべるぞや」まで、大君の詞。2.2.9
校訂9 過ぐし果つ 過ぐし果つ--すくしは(は/+つ) 2.2.4
2.3
第三段 薫は帰らず、大君、苦悩す


2-3  Kaoru will not leave the room, Ohoi-kimi has an anguished time

2.3.1  暮れゆくに、客人は帰りたまはず。姫宮、いとむつかしと思す。弁参りて、 御消息ども聞こえ伝へて、怨みたまふをことわりなるよしを、つぶつぶと聞こゆれば、いらへもしたまはず、うち嘆きて、
 日が暮れて行くのに、客人はお帰りにならない。姫宮は、とても困ったことだとお思いになる。弁が参って、ご挨拶などをもお伝え申し上げて、お恨みになるのもごもっともなことを、こまごまと申し上げると、お返事もなさらず、お嘆きになって、
日は暮れていくが京の客は帰ろうとしない。姫君は困ったことであると思っていた。弁が来て薫の言葉を伝えてから、あの人の恨むのが道理であると言葉を尽くして言うのに対して、答えもせず、歎息をしている姫君は、   Kure-yuku ni, Marauto ha kaheri tamaha zu. Hime-Miya, ito mutukasi to obosu. Ben mawiri te, ohom-seusoko-domo kikoye tutahe te, urami tamahu wo kotowari naru yosi wo, tubu-tubu to kikoyure ba, irahe mo si tamaha zu, uti-nageki te,
2.3.2  「 いかにもてなすべき身にかは一所おはせましかば、ともかくも、 さるべき人扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、 身を心ともせぬ世なれば 皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを 聞こえ知らすれどこは、はかばかしきことかは人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは」
 「どのように振る舞ったらよいものか。どちらかの親が生きていらっしゃったら、どうなるにせよ、親からお世話され申して、運命というものにつけても、思い通りにならない世の中なので、すべてよくあることとして、物笑いの非難も隠れるというもの。仕えている女房は皆年をとり、賢そうに自分自身では思いながら、いい気になって、お似合いのご縁だと言い聞かせるが、これが、しっかりしたことだろうか。一人前でもない考えで、ただ勝手に言っているばかりだ」
どうすればよい自分なのであろう、父宮さえおいでになれば、何となるにもせよ、だれの妻になるにもせよ、娘として取り扱われて、宿命というものがある人生であってみれば、自身の意志でなくとも人の妻になることもあろうし、結婚生活が不幸なことになっても、親に選ばれた良人おっとであるからと、そう恥を思わずにも済むであろう、周囲にいる女房は皆年を取っていて、賢げな顔をしては自身の頼まれた男との縁組みだけが最上のことのように言って勧めに来るが、そんなことがどうしてよかろう、   "Ikani motenasu beki mi ni kaha. Hito-tokoro ni ohase masika ba, tomo-kakumo, saru-beki hito ni atukaha re tatematuri te, sukuse to ihu naru kata ni tuke te, mi wo kokoro to mo se nu yo nare ba, mina rei no koto ni te koso ha, hito warahe naru toga wo mo kakusu nare. Aru kagiri no hito ha tosi tumori, sakasige ni onogazisi ha omohi tutu, kokoro wo yari te, nitukahasige naru koto wo kikoye sirasure do, ko ha, haka-bakasiki koto kaha! Hito-mekasikara nu kokoro-domo nite, tada hito-kata ni ihu ni koso ha."
2.3.3  と見たまへば、 引き動かしつばかり聞こえあへるも、いと心憂く疎ましくて、動ぜられたまはず。同じ心に何ごとも語らひきこえたまふ中の宮は、 かかる筋には、今すこし心も得ずおほどかにて、何とも聞き入れたまはねば、「 あやしくもありける身かな」と、ただ奥ざまに向きておはすれば、
 とお考えになると、引き動かさんばかりにお勧め申し上げ合うのも、まことにつらく嫌な感じがして、従う気になれない。同じ気持ちで何事もご相談申し上げなさる中の宮は、このような結婚に関する話題には、もう少しご存知なくおっとりして、何ともお分かりでないので、「変わった身の上だわ」と、ただ奥の方に向いていらっしゃるので、
彼女らの見る世界は狭く、その判断力は信じられないと思っている姫君は、その人たちが力で引き動かそうとせんばかりにして言うことも、いやなこととより聞かれず心の動くことはないのである。どんなことも話し合う妹の女王はこうした結婚とか恋愛とかいうことについては姫君よりもいっそう関心を持たぬようであったから、圧迫を感じる近ごろの話をしても、そう深く苦しい心境に立ち入っては来てくれないのであったから、姫君は一人で歎くほかはなかった。へやの奥のほうに向こうを向いてすわっている女王の後ろでは   to mi tamahe ba, hiki-ugokasitu bakari kikoye ahe ru mo, ito kokoro-uku utomasiku te, dou-ze rare tamaha zu. Onazi kokoro ni nani-goto mo katarahi kikoye tamahu Naka-no-Miya ha, kakaru sudi ni ha, ima sukosi kokoro mo e zu ohodoka ni te, nani to mo kiki-ire tamaha ne ba, "Ayasiku mo ari keru mi kana!" to, tada oku-zama ni muki te ohasure ba,
2.3.4  「 例の色の御衣どもたてまつり替へよ
 「いつもの服装にお召し替えなさいませ」
薄鈍うすにびでない他のお召し物に姫君をお着かえさせるように   "Rei no iro no ohom-zo-domo tatematuri kahe yo."
2.3.5  など、そそのかしきこえつつ、 皆、さる心すべかめるけしきをあさましく、「げに、何の障り所かはあらむ。ほどもなくて、かかる御住まひのかひなき、 山梨の花ぞ」、逃れむ方なかりける
 などと、お勧め申し上げながら、皆、お目にかからせようという考えのようなので、あきれて、「なるほど、何の支障があるだろうか。手狭な所で、このようなご生活の仕方ない、山梨の花」、逃げることもできないのであった。
とか女房らが言っていて、だれもが今夜で結婚が成立するもののようにして、こそこそとその用意をするらしいのを、姫君はあさましく思っていた。皆が心を合わせてすれば、狭い山荘の内で隠れている所もないのである。
  nado, sosonokasi kikoye tutu, mina, saru kokoro su beka' meru kesiki wo, asamasiku, "Geni, nani no sahari-dokoro ka ha ara m. Hodo mo naku te, kakaru ohom-sumahi no kahinaki, yamanasi no hana zo", nogare m kata nakari keru.
2.3.6  客人は、かく顕証に、これかれにも口入れさせず、「忍びやかに、 いつありけむことともなくもてなしてこそ」と思ひそめたまひけることなれば、
 客人は、こうあからさまに、誰それにも口を出させず、「こっそりと、いつから始まったともなく運びたい」と初めからお考えになっていたことなので、
 薫はこんなふうにだれもが騒ぎ立てることを願っていず、そうした者を介在させずにいつから始まったことともなく恋の成立していくのを以前から望んでいたのであって、   Marauto ha, kaku keseu ni, kore-kare ni mo kuti ire sase zu, "Sinobiyaka ni, itu ari kem koto to mo naku motenasi te koso." to omohi some tamahi keru koto nare ba,
2.3.7  「 御心許したまはずは、いつもいつも、かくて過ぐさむ
 「お許しくださらないならば、いつもいつも、このようにして過ごそう」
姫君の心が自分へ傾くことのない間はこのままの関係でよい   "Mi-kokoro yurusi tamaha zu ha, itu-mo itu-mo, kakute sugusa m."
2.3.8  と思しのたまふを、この老い人の、 おのがじし語らひて、 顕証にささめきさは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる
 とお考えになりおっしゃるが、この老女が、それぞれと相談しあって、あからさまにささやき、そうは言っても、浅はかで老いのひがみからか、お気の毒に見える。
とも思っているのであるが、老女の弁が自身だけでは足らぬように思って、他の女たちに助力を求めたために、あらわにだれもが私語することになったのである。多少洗練されたところはあっても、もともとあさはかな女であるにすぎぬ弁が、その上老いて頭の働きが鈍くなっているせいでもあろう。   to obosi notamahu wo, kono Oyi-bito no, onogazisi katarahi te, keseu ni sasameki, saha ihe do, hukakara nu ke ni, oyi higame ru ni ya, itohosiku zo miyuru.
注釈234御消息ども『集成』は「薫の口上。あれこれと多い趣」と注す。2.3.1
注釈235いかにもてなすべき身にかは以下「ただ一方に言ふにこそは」まで、大君の心中の思い。2.3.2
注釈236一所おはせましかば両親のうちどちらか生きていらっしゃったら。反実仮想の構文。2.3.2
注釈237さるべき人『集成』は「娘の結婚の世話をするのが当然の人。親のこと」。『完訳』は「親の世話を受けながら、その指図どおりに結婚して」と注す。2.3.2
注釈238扱はれたてまつりて「たてまつる」の主体者は親、自分自身に対する敬語表現になる。この下に「〜まし」の気持ちがある。2.3.2
注釈239身を心ともせぬ世なれば『源氏釈』は「いなせとも言ひ放たれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり」(後撰集恋五、九三八、伊勢)を指摘。2.3.2
注釈240皆例のことにてこそは人笑へなる咎をも隠すなれ親の勧める結婚なら失敗しても世間の物笑いにならない、の意。2.3.2
注釈241ある限りの人は仕えている女房は皆。2.3.2
注釈242聞こえ知らすれど自分自身に対する敬語表現。主体者は女房。2.3.2
注釈243こははかばかしきことかは反語表現。2.3.2
注釈244人めかしからぬ心どもにて使用人の分際で。身分制度の意識。2.3.2
注釈245引き動かしつばかり聞こえあへるも主語は女房たち。『完訳』は「女房が、大君を薫と対面させるべく、強引に誘うさま」と注す。2.3.3
注釈246かかる筋には結婚に関する話題。2.3.3
注釈247あやしくもありける身かな大君の思い。『集成』は「一人ぼっちの変な身の上の私だこと」と注す。2.3.3
注釈248例の色の御衣どもたてまつり替へよ女房の詞。2.3.4
注釈249皆さる心すべかめるけしきを『集成』は「一同婚儀の段取りを進めるらしい様子なのを」。『完訳』は「薫に逢わせる準備をする様子」と注す。「すべかめる」は大君に心中に即した叙述。2.3.5
注釈250あさましくげに何の障り所かはあらむ『集成』は「大君の心中から自然に地の文に移る書き方」。『完訳』は「いかにも相手が近寄るのに防ぐものがあろうか。日ごろの薫の、障りや隔てのない親交の訴えを受け、「げに」とする。地の文に心中叙述の割り込んだ形」と注す。2.3.5
注釈251山梨の花ぞ逃れむ方なかりける『源氏釈』は「世の中をうしと言ひてもいづこにか身をば隠さむ山梨の花」(古今六帖六、山梨)を指摘。2.3.5
注釈252いつありけむことともなくもてなしてこそ薫の大君処遇の考え。2.3.6
注釈253御心許したまはずはいつもいつもかくて過ぐさむ薫の詞。2.3.7
注釈254おのがじし女房同士。2.3.8
注釈255顕証にささめき『集成』は「大っぴらに私語し」と訳す。2.3.8
注釈256さは言へど、深からぬけに、老いひがめるにや、いとほしくぞ見ゆる『湖月抄』は師説「弁か事を草子地也」と指摘。『集成』は「何といっても、心根が浅はかなので、年をとってわけもわからなくなっているのか、姫君がお気の毒に思われる。草子地。弁などは、年輩の思慮深い女房であるはずなのに、という気持が下にある」と注す。2.3.8
出典14 身を心ともせぬ世 いなせとも言ひ放たれず憂きものは身を心ともせぬ世なりけり 後撰集恋五-九三七 伊勢 2.3.2
出典15 山梨の花 世の中を憂しと言ひてもいづこにか身をば隠さむ山梨の花 古今六帖六-四二六八 2.3.5
2.4
第四段 大君、弁と相談する


2-4  Ohoi-kimi talks with Ben

2.4.1  姫宮、思しわづらひて、 弁が参れるにのたまふ。
 姫宮、お困りになって、弁が参ったのでおっしゃる。
不快に思っていた姫君は、弁の出て来た時に、
  Hime-Miya, obosi-wadurahi te, Ben ga mawire ru ni notamahu.
2.4.2  「 年ごろも人に似ぬ御心寄せとのみ のたまひわたりしを聞きおき、今となりては、よろづに残りなく頼みきこえて、あやしきまでうちとけにたるを、 思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて、恨みたまふめるこそわりなけれ。 世に人めきてあらまほしき身ならば、かかる御ことをも、何かはもて離れても思はまし。
 「長年、世間の人と違ったご好意とばかりおっしゃっていたのを聞いており、今となっては、何でもすっかりお頼み申して、不思議なほど親しくしていたのですが、思っていたのと違ったお気持ちがおありで、お恨みになるらしいのは困ったことです。世間の人のように夫を持ちたい身の上ならば、このような縁談も、どうしてお断りなどしましょう。
「おかくれになりました宮様も、珍しい同情をお寄せくださる方だと始終喜んでばかりおいでになりましたし、今になっては何でも皆御親切におすがりするほかもない私たちで、例もないようなお親しみをもって御交際をしてまいりましたが、意外なお望みがまじっていまして、あなた様はお恨みになり、私は失望をいたすことになりました。人間としてはなやかな幸福を得たいと願う身でございましたら、あなた様の御好意に決しておそむきなどはいたされません。   "Tosi-goro mo, hito ni ni nu mi-kokoro-yose to nomi notamahi watari si wo kiki-oki, ima to nari te ha, yorodu ni nokori naku tanomi kikoye te, ayasiki made utitoke ni taru wo omohi si ni tagahu sama naru mi-kokoro-bahe no maziri te, urami tamahu meru koso wari nakere. Yo ni hito-meki te aramahosiki mi nara ba, kakaru ohom-koto wo mo, nanikaha mote-hanare te mo omoha masi.
2.4.3  されど、昔より思ひ離れそめたる心にて、 いと苦しきを。この君の盛り過ぎたまはむも口惜し。げに、かかる住まひも、ただこの御ゆかりに所狭くのみおぼゆるを、まことに 昔を思ひきこえたまふ心ざしならば、同じことに思ひなしたまへかし。身を分けたる心のうちは皆ゆづりて、見たてまつらむ心地なむすべき。なほ、かうやうによろしげに聞こえなされよ」
 けれども、昔から思い捨てていた考えなので、とてもつらいことです。この妹君が盛りをお過ぎになるのも残念です。なるほど、このような住まいも、ただこの君のためにも不都合にばかり思われますが、ほんとうに亡き宮をお思い出し申し上げるお気持ちならば、同じようにお考えになってください。身を分けた妹に心の中はすべて譲って、お世話申し上げたい気がするのです。やはり、このようによろしく申し上げてくださいね」
しかし、私は昔から現世のことに執着を持たぬ女だものですから、お言いくださいますことはただ苦しいばかりにしか承れないのでございます。それで思いますのは妹のことでございます。むなしくその人に青春を過ぎさせてしまうのが私として忍ばれないことに思われます。この山荘の生活も、あなた様の御好意だけで続けていかれる現状なのですから、父を御追慕してくださいますお志がございましたら、妹を私に代えてお愛しくださいませ。身は身として、心は皆妹のために与えていくつもりでございますとね。この意味をもっとあなたが敷衍ふえんして申し上げたらいいでしょう」
  Saredo, mukasi yori omohi hanare some taru kokoro nite, ito kurusiki wo! Kono Kimi no sakari sugi tamaha m mo kutiwosi. Geni, kakaru sumahi mo, tada kono ohom-yukari ni tokoro-seku nomi oboyuru wo, makoto ni mukasi wo omohi kikoye tamahu kokorozasi nara ba, onazi koto ni omohi-nasi tamahe kasi. Mi wo wake taru kokoro no uti ha mina yuduri te, mi tatematura m kokoti nam su beki. Naho, kau yau ni yorosige ni kikoye-nasa re yo."
2.4.4  と、恥ぢらひたるものから、あるべきさまをのたまひ続くれば、いとあはれと見たてまつる。
 と、恥ずかしがっているが、望んでいることをおっしゃり続けたので、まことにおいたわしいと拝する。
 と、恥じながらも要領よく姫君は言った。弁は同情を禁じがたく思った。
  to, hadirahi taru monokara, aru-beki sama wo notamahi tudukure ba, ito ahare to mi tatematuru.
2.4.5  「 さのみこそは、さきざきも御けしきを見たまふれば、いとよく聞こえさすれど、 さはえ思ひ改むまじ、兵部卿宮の御恨み、深さまさるめれば、またそなたざまに、いとよく後見きこえむ、 となむ聞こえたまふ。それも思ふやうなる御ことどもなり。二所ながらおはしまして、ことさらに、 いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに、えしも、かく世にありがたき御ことども、さし集ひたまはざらまし。
 「そのようにばかりは、以前にもご様子を拝見しておりますので、とてもよく申し上げましたが、そのようにはお考え改めることはできず、兵部卿宮のお恨みの、深さが増すようなので、またそれはそれで、とても十分にご後見申し上げたい、と申されています。それも願ってもないことです。ご両親がお揃いで、特別に、たいそうお心をこめてお育て申し上げなさるにしましても、とても、このようにめったにないご縁談ばかりも、続いて来ないでしょう。
「あなた様のそういう思召おぼしめしは私にもわかっているものでございますから、骨を折りまして、そうなりますようにと申し上げるのですが、どうしても自分の心をほかへ移すことはできない、中姫君と自分が結婚をすれば兵部卿ひょうぶきょうの宮様のお恨みも負うことになる、そちらの御縁組が成り立てばまた自分は中姫君に十分のお世話を申し上げるつもりだとおっしゃるのでございます。それもけっこうなお話なのでございますから、お二方ともそうした良縁をお得になりまして、まれな御誠意をもって奥様がたをあの貴公子様がたが御大切にあそばす時のごりっぱさは世間に類のないものになりますでございましょう。   "Sa nomi koso ha, saki-zaki mo mi-kesiki wo mi tamahure ba, ito yoku kikoye-sasure do, saha e omohi aratamu mazi, Hyaubukyau-no-Miya no ohom-urami, hukasa masaru mere ba, mata sonata zama ni, ito yoku usiromi kikoye m, to nam kikoye tamahu. Sore mo omohu yau naru ohom-koto-domo nari. Huta-tokoro nagara ohasimasi te, kotosara ni, imiziki mi-kokoro tukusi te kasiduki kikoye sase tamaha m ni, e simo, kaku yo ni arigataki ohom-koto-domo, sasi-tudohi tamaha zara masi.
2.4.6  かしこけれど、かくいと たつきなげなる御ありさまを見たてまつるに、いかになり果てさせたまはむと、うしろめたく悲しくのみ見たてまつるを、 後の御心は知りがたけれど、うつくしくめでたき御宿世どもにこそおはしましけれとなむ、かつがつ思ひきこゆる。
 恐れ多いことですが、このようにとても頼りなさそうなご様子を拝見すると、果てはどのようにおなりあそばすのだろうかと、不安で悲しくばかり拝見していますが、将来のお心は分かりませんけれど、お二方ともご立派で素晴らしいご運勢でいらっしゃったのだと、何はともあれお思い申し上げます。
失礼な言葉ですが、こんなふうに不十分なお暮らしをあそばすのを拝見しておりますと、どうおなりになるのかと、私どもは不安で、悲しくてなりませんのにお一方様のお心持ちはまだ私はわかっておりませんでございますが、ともかくも最も高いお身分の方でいらっしゃいます。   Kasikokere do, kaku ito tatuki nage naru ohom-arisama wo mi tatematuru ni, ikani nari hate sase tamaha m to, usirometaku kanasiku nomi mi tatematuru wo, noti no mi-kokoro ha siri gatakere do, utukusiku medetaki ohom-sukuse-domo ni koso ohasimasi kere to nam, katu-gatu omohi kikoyuru.
2.4.7   故宮の御遺言違へじと思し召すかたはことわりなれど、 それは、さるべき人のおはせず、品ほどならぬことやおはしまさむと思して、 戒めきこえさせたまふめりしにこそ
 故宮のご遺言に背くまいとお考えあそばすのはごもっともなことですが、それは、婿にふさわしい方がいらっしゃらず、身分の不釣合なことがおありだろうとお考えになって、ご忠告申し上げなさったようなのではございませんか。
宮様の御遺言どおりにしたいと思召すのはごもっともですが、それは似合わしからぬ人が求婚者として現われてまいらぬかと、その場合を御心配あそばして仰せになりましたことで、   Ko-Miya no ohom-yuigon tagahe zi to obosi-mesu kata ha kotowari nare do, sore ha, saru-beki hito no ohase zu, sina hodo nara nu koto ya ohasimasa m to obosi te, imasime kikoye sase tamahu meri si ni koso.
2.4.8   この殿の、さやうなる心ばへものしたまはましかば、 一所をうしろやすく見おきたてまつりて、いかにうれしからましと、折々 のたまはせしものを。 ほどほどにつけて、思ふ人に後れたまひぬる人は、高きも下れるも、心の外に、あるまじきさまにさすらふたぐひだにこそ多くはべるめれ。
 この殿の、そのようなお気持ちがおありでしたら、お一方を安心してお残し申せて、どんなに嬉しいことだろうと、時々おっしゃっていました。身分相応に、愛する人に先立たれなさった人は、身分の高い人も低い人も、思いの他に、とんでもない姿でさすらう例さえ多くあるようです。
中納言様にどちらかの女王にょおう様をおめとりになるお心があったなら、そのお一人の縁故で今一人の女王様のことも安心ができてどんなにうれしいだろうと、おりおり私どもへお話しあそばしたことがあるのでございますよ。どんな貴い御身分の方でも親御様にお死に別れになったあとでは、思いも寄らぬつまらぬ人と夫婦になっておしまいになるというような結果を見ますのさえ   Kono Tono no, sayau naru kokorobahe monosi tamaha masika ba, hito-tokoro wo usiro-yasuku mi-oki tatematuri te, ikani uresikara masi to, wori-wori notamaha se si mono wo. Hodo ni tuke te, omohu hito ni okure tamahi nuru hito ha, takaki mo kudare ru mo, kokoro no hoka ni, arumaziki sama ni sasurahu taguhi dani koso ohoku haberu mere.
2.4.9  それ皆例のことなめれば、もどき言ふ人もはべらず。まして、かくばかり、ことさらにも作り出でまほしげなる人の御ありさまに、心ざし深くありがたげに聞こえたまふを、 あながちにもて離れさせたまうて、思しおきつるやうに、行ひの本意を遂げたまふとも、 さりとて雲霞をやは
 それはみな憂き世の常のようですので、非難する人もございません。まして、これほどに、特別に誂えたような方のご様子で、ご愛情も深くめったにないように求婚申し上げなさるのを、むやみに振り切りなさって、お考えおいていたように、出家の本願をお遂げなさったとしても、そうかといって雲や霞を食べて生きらえましょうか」
たくさんに例のあることでございまして、それはしかたのないこととして、だれもうわさにかけはいたしません。ましてこんな理想的と申しましょうか、作り事ほどに何もかものおそろいになった方で、そして御愛情が深くて、誠心誠意御結婚を望んでおいでになる方がおありになりますのに、しいてそれを冷ややかにお扱いになりまして、御遺言だからと申して、仏の道へおはいりになるようなことをなさいましても、仙人せんにんのように雲やかすみを召し上がって生きて行くことはできるでございましょうか」
  Sore mina rei no koto na' mere ba, modoki ihu hito mo habera zu. Masite, kaku bakari, kotosara ni mo tukuri-ide mahosige naru hito no ohom-arisama ni, kokorozasi hukaku arigatage ni kikoye tamahu wo, anagati ni mote-hanare sase tamau te, obosi-oki turu yau ni, okonahi no hoi wo toge tamahu tomo, saritote kumo kasumi wo ya ha."
2.4.10  など、すべてこと多く申し続くれば、いと憎く心づきなしと思して、ひれ臥したまへり。
 などと、総じて言葉数多く申し上げ続けると、とても憎く気にくわないとお思いになって、うつ伏しておしまいになった。
 とも能弁に言い続ける老女を憎いように思い、姫君はうつぶしになって泣いていた。   nado, subete koto ohoku mausi tudukure ba, ito nikuku kokoro-duki-nasi to obosi te, hire-husi tamahe ri.
注釈257弁が参れるに『集成』は「姫君の説得に来たのだろう」と注す。2.4.1
注釈258年ごろも以下「聞こえなされよ」まで、大君の弁への詞。2.4.2
注釈259人に似ぬ御心寄せ薫の人物評。2.4.2
注釈260のたまひわたりしを主語は故八宮。2.4.2
注釈261思ひしに違ふさまなる御心ばへの混じりて好意の他に結婚を望んでいた気持ちをさす。2.4.2
注釈262世に人めきてあらまほしき身ならば『完訳』は「私が人並に結婚して暮したいと思う身なら。実際には独身を通そうの決意。反実仮想の構文」と注す。「あらまほしき身」は夫を持ちたい身、の意。2.4.2
注釈263いと苦しきを『集成』は読点で「を」接続助詞、逆接の意。『完訳』は句点で「を」間投助詞、詠嘆の意に解す。2.4.3
注釈264昔を思ひきこえたまふ心ざしならば「昔」は故人八宮。「たまふ」は弁に対する敬語。2.4.3
注釈265さのみこそは以下「雲霞をやは」まで、弁の詞。2.4.5
注釈266さはえ思ひ改むまじ『集成』は「以下「後見きこえむ」まで、薫の言葉をそのまま伝える体」と注す。2.4.5
注釈267となむ聞こえたまふ主語は薫。2.4.5
注釈268いみじき御心尽くしてかしづききこえさせたまはむに『集成』は「大層ご熱心に奔走あそばしてご結婚のお計らいをあそばされましょうとも」。『完訳』は「格別大事にお世話申し上げていらっしゃる場合でも」と訳す。下文に「さし集ひたまはざらまし」とある反実仮想の構文。2.4.5
注釈269たつきなげなる御ありさま『完訳』は「弁はあえて宮家の生活の窮乏にふれる」と注す。「たつき」の読みについて、『集成』は「たつき」。『完訳』は「たづき」。『岩波古語辞典』には「中世、タツギ・タツキとも」。2.4.6
注釈270後の御心は知りがたけれど挿入句。『完訳』は「婿君の将来の気持は分らぬが。男の心変りもありうるという一般的な判断を、挿入させた文脈」と注す。2.4.6
注釈271故宮の御遺言『集成』は「「おぼろけのよすがならで、--この山里をあくがれたまふな。ただかう人に違じたる契り異なる身とおぼしなして--」とあった(椎本)」と注す。2.4.7
注釈272それはさるべき人のおはせず『集成』は「それは、お家柄にふさわしい殿方がいらっしゃらず、身分の釣合わぬ縁組でもなさりはせぬかと(父宮が)ご心配あそばして」。『完訳』は「宮家の婿にふさわしい人」と注す。2.4.7
注釈273戒めきこえさせたまふめりしにこそ係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。2.4.7
注釈274この殿の『集成』は「このお殿様が。薫のこと。もはや、主人といった呼び方」。『完訳』は「「殿」の呼称に注意。薫を邸の主人格に呼ぶ」と注す。2.4.8
注釈275一所をうしろやすく見おきたてまつりていかにうれしからまし「一所」は姉妹のうちの一人。推量の助動詞「まし」反実仮想の意。2.4.8
注釈276のたまはせし主語は故八宮。2.4.8
注釈277ほどほどにつけて思ふ人に後れたまひぬる人は高きも下れるも一般論として、親に先立たれた娘が不本意な結婚をする例の多いことをいう。2.4.8
注釈278あながちにもて離れさせたまうて『集成』は「取り付くしまもなくお断り申しなさって」。『完訳』は「あなたが勝手に振り切って。大君の「昔より思ひ離れ--」への反論。「行ひの本意」もそこから出た言葉」と注す。2.4.9
注釈279さりとて雲霞をやは『対校』は「背くとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ」(古今六帖二、尼・伊勢物語)を指摘。『集成』は「仙人のような暮しもなるまい、の意」。『完訳』は「出家しても衣食の心配は必要」と注す。2.4.9
出典16 雲霞をやは 背くとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ 伊勢物語-一七八 2.4.9
2.5
第五段 大君、中の君を残して逃れる


2-5  Ohoi-kimi slips out of the room leaving her sister Naka-no-kimi

2.5.1   中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと、見たてまつりたまひて、もろともに例のやうに大殿籠もりぬ。 うしろめたくいかにもてなさむ、とおぼえたまへど、ことさらめきて、さし籠もり隠ろへたまふべきものの隈だになき御住まひなれば、なよよかに をかしき御衣、上にひき着せたてまつりたまひてまだけはひ暑きほどなればすこしまろび退きて臥したまへり
 中の宮も、ひとごとながらおいたわしいご様子だわと、拝見なさって、一緒にいつものようにお寝みになった。気がかりで、どのように対処しようか、と思われなさるが、わざとらしく引き籠もって身をお隠しになる物蔭さえないお住まいなので、柔らかく美しい御衣を、上にお掛け申し上げなさって、まだ暑いころなので、少し寝返りして臥せっていらっしゃった。
中の君もわけはわからぬながら姉君の様子を気の毒に思ってながめていた。そしていっしょに常の夜のように寝室へはいった。
 薫が客となって泊まっている今夜であることを姫君は思うと気がかりで、どういう処置を取ろうかと考えられるのであったが、特に四方の戸をしめきってこもっておられるような所もない山荘なのであるから、中の君の上に柔らかな地質の美しい夜着をけ、まだ暑さもまったく去っているという時候でもないのであるから、少し自身は離れて寝についた。
  Naka-no-Miya mo, ainaku itohosiki mi-kesiki kana to, mi tatematuri tamahi te, morotomoni rei no yau ni ohotono-gomori nu. Usirometaku, ikani motenasa m, to oboye tamahe do, kotosara meki te, sasi-komori kakurohe tamahu beki mono no kuma dani naki ohom-sumahi nare ba, nayoyoka ni wokasiki ohom-zo, uhe ni hiki-kise tatematuri tamahi te, mada kehahi atuki hodo nare ba, sukosi marobi noki te husi tamahe ri.
2.5.2  弁は、のたまひつるさまを客人に聞こゆ。「 いかなれば、いとかくしも世を思ひ離れたまふらむ。聖だちたまへりしあたりにて、常なきものに思ひ知りたまへるにや」と思すに、 いとどわが心通ひておぼゆれば、さかしだち憎くもおぼえず。
 弁は、おっしゃったことを客人に申し上げる。「どうして、ほんとにこのように結婚を思い断っていらっしゃるのだろう。聖めいていらした方の側にいて、無常をお悟りになったのか」とお思いになると、ますます自分の心と似通っていると思われるので、利口ぶった憎い女とも思われない。
 弁は姫君の言ったことを薫に伝えた。どうしてそんなに結婚がいとわしくばかり思われるのであろう、聖僧のようでおありになった父宮の感化がしからしめるのかと、人生の無常さを深く悟っている心は、自分の内にも共通なものが見いだせる薫には、それが感じ悪くは思われない。
  Ben ha, notamahi turu sama wo Marauto ni kikoyu. "Ika nare ba, ito kaku simo yo wo omohi hanare tamahu ram. Hiziri-dati tamahe ri si atari nite, tune-naki mono ni omohi-siri tamahe ru ni ya?" to obosu ni, itodo waga kokoro kayohi te oboyure ba, sakasi-dati nikuku mo oboye zu.
2.5.3  「 さらば、物越などにも、今はあるまじきことに思しなるにこそはあなれ。今宵ばかり、大殿籠もるらむあたりにも、忍びてたばかれ」
 「それでは、物越しに会うのでも、今はとんでもないこととお考えなのですね。今夜だけは、お寝みになっている所に、こっそりと手引きせよ」
「ではもう物越しでお話をし合うことも今夜はしたくないという気におなりになったのだね。最後のこととして今夜だけでいいから御寝室へ私をそっと導いて行ってください」
  "Saraba, mono-gosi nado ni mo, ima ha aru maziki koto ni obosi naru ni koso ha a' nare. Koyohi bakari, ohotono-gomoru ram atari ni mo, sinobi te tabakare."
2.5.4  とのたまへば、 心して、人疾く静めなど、心知れるどちは思ひ構ふ。
 とおっしゃるので、気をつけて、他の女房を早く寝静めたりして、事情を知っている者同志は手筈をととのえる。
 と中納言は言った。老女はその頼み事をよく運ばせようとして、他の女房たちを皆早く寝させてしまい、計画を知らせてある人たちとともに油断なく時の来るのを待っていた。   to notamahe ba, kokoro-si te, hito toku sidume nado, kokoro-sire ru doti ha omohi kamahu.
2.5.5  宵すこし過ぐるほどに、風の音荒らかにうち吹くに、はかなきさまなる蔀などは、ひしひしと紛るる音に、「 人の忍びたまへる振る舞ひは、 え聞きつけたまはじ」と思ひて、やをら導き入る。
 宵を少し過ぎたころに、風の音が荒々しく吹くと、頼りない邸の蔀などは、きしきしと鳴る紛らわしい音に、「人がこっそり入っていらっしゃる音は、お聞きつけになるまい」と思って、静かに手引きして入れる。
荒い風が吹き出して簡単な蔀戸しとみどなどはひしひしと折れそうな音をたてているのに紛れて人が忍び寄る音などは姫君の気づくところとなるまいと女房らは思い、静かに薫を導いて行った。   Yohi sukosi suguru hodo ni, kaze no oto araraka ni uti-huku ni, hakanaki sama naru sitomi nado ha, hisi-hisi to magiruru oto ni, "Hito no sinobi tamahe ru hurumahi ha, e kiki-tuke tamaha zi." to omohi te, yawora mitibiki iru.
2.5.6   同じ所に大殿籠もれるを、うしろめたしと思へど、常のことなれば、「 ほかほかにともいかが聞こえむ御けはひをも、たどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ」と思ひけるに、 うちもまどろみたまはねば、ふと聞きつけたまて、やをら起き出でたまひぬ。いと疾くはひ隠れたまひぬ。
 同じ所にお寝みなっているのを、不安だと思うが、いつものことなので、「別々にとはどうして申し上げられよう。ご様子も、はっきりとお見知り申していらっしゃるだろう」と思ったが、少しもお眠りになることもできないので、ふと足音を聞きつけなさって、そっと起き出しておしまいになった。とても素早く這ってお隠れになった。
二人の女王の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だけを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫にわかっているはずであるからと弁は思っていた。
 物思いに眠りえない姫君はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。それは非常に迅速に行なわれたことであった。
  Onazi tokoro ni ohotono-gomore ru wo, usirometasi to omohe do, tune no koto nare ba, "Hoka-hoka ni to mo ikaga kikoye m? Ohom-kehahi wo mo, tadotadosikara zu mi tatematuri siri tamahe ra m." to omohi keru ni, uti mo madoromi tamaha ne ba, huto kiki-tuke tama' te, yawora oki-ide tamahi nu. Ito toku hahi-kakure tamahi nu.
2.5.7  何心もなく寝入りたまへるを、 いといとほしくいかにするわざぞと、胸つぶれて、もろ ともに隠れなばやと思へど、さもえ立ち返らで、わななくわななく見たまへば、火のほのかなるに、袿姿にて、いと馴れ顔に、几帳の帷を引き上げて入りぬるを、いみじくいとほしく、「 いかにおぼえたまはむ」と思ひながら、あやしき壁の面に、屏風を立てたるうしろの、むつかしげなるにゐたまひぬ。
 無心に寝ていらっしゃるのを、とてもお気の毒に、どのようにするのかと、胸がどきりとして、一緒に隠れたいと思うが、そのように立ち戻ることもできず、震えながら御覧になると、灯火がほのかに明るい中に、袿姿で、いかにも馴れ馴れしく、几帳の帷子を引き上げて中に入ったのを、ひどくおいたわしくて、「どのようにお思いになっているだろう」と思いながら、粗末な壁の面に、屏風を立てた背後の、むさ苦しい所にお座りになった。
無心によく入っていた中の君を思うと、胸が鳴って、なんという残酷なことをしようとする自分であろう、起こしていっしょに隠れようかともいったんは躊躇ちゅうちょしたが、思いながらもそれは実行できずに、ふるえながら帳台のほうを見ると、ほのかにの光を浴びながら、うちぎ姿で、さも来れた所だというようにして、とばりれ布を引き上げて薫ははいって行った。非常に妹がかわいそうで、さめて妹はどんな気がすることであろうと悲しみながら、ちょっと壁の面に添って屏風びょうぶの立てられてあった後ろへ姫君ははいってしまった。   Nani-gokoro mo naku ne-iri tamahe ru wo, ito itohosiku, ikani suru waza zo to, mune tubure te, morotomo ni kakure na baya to omohe do, samo e tati-kahera de, wananaku wananaku mi tamahe ba, hi no honoka naru ni, utiki-sugata nite, ito nare-gaho ni, kityau no katabira wo hiki-age te iri nuru wo, imiziku itohosiku, "Ikani oboye tamaha m?" to omohi nagara, ayasiki kabe no tura ni, byaubu wo tate taru usiro no, mutukasige naru ni wi tamahi nu.
2.5.8  「 あらましごとにてだに、つらしと思ひたまへりつるを、まいて、いかにめづらかに思し疎まむ」と、いと心苦しきにも、すべてはかばかしき後見なくて、落ちとまる身どもの悲しきを思ひ続けたまふに、 今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど、ただ今の心地して、いみじく恋しく悲しくおぼえたまふ。
 「将来の心積もりとして話しただけでも、つらいと思っていらっしゃったのを、まして、どんなに心外にお疎みになるだろう」と、とてもおいたわしく思うにつけても、すべてしっかりした後見もいなくて、落ちぶれている二人の身の上の悲しさを思い続けなさると、今を限りと山寺にお入りになった父宮の夕方のお姿などが、まるで今のような心地がして、ひどく恋しく悲しく思われなさる。
ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言った人であるから、ましてこんなことをはかった自分はうとましい姉だと思われ、憎くさえ思われることであろうと、思い続けるにつけても、だれも頼みになる身内の者を持たない不幸が、この悲しみをさせるのであろうと思われ、あの最後に山の御寺みてらへおいでになった時、父宮をお見送りしたのが今のように思われて、堪えられぬまで父君を恋しく思う姫君であった。
  "Aramasi-goto nite dani, turasi to omohi tamahe ri turu wo, maite, ikani meduraka ni obosi utoma m." to, ito kokoro-gurusiki ni mo, subete haka-bakasiki usiromi naku te, oti-tomaru mi-domo no kanasiki wo omohi tuduke tamahu ni, ima ha tote yama ni nobori tamahi si yuhube no ohom-sama nado, tada ima no kokoti si te, imiziku kohisiku kanasiku oboye tamahu.
注釈280中の宮も、あいなくいとほしき御けしきかなと『完訳』は「中の宮も姉君を、なんとも不本意なおいたわしいご様子よと」と訳す。2.5.1
注釈281うしろめたく大君の不安な気持ち。2.5.1
注釈282いかにもてなさむと『集成』は「(大君は)気がかりで、弁などが何をするだろうと、不安にお思いになるが。薫を導き入れるかもしれないと不安を覚える」。『完訳』は「自分(大君)がどう対処したものか。一説に、弁が何をするのか」と注す。2.5.1
注釈283をかしき御衣上にひき着せたてまつりたまひて大君が中君に。『完訳』は「中の君の身体に。薫が忍び込んだら、妹を美しく見せ、自らは逃れるつもり」と注す。2.5.1
注釈284まだけはひ暑きほどなれば八月下旬であるが残暑が残っている。2.5.1
注釈285すこしまろび退きて臥したまへり『集成』は「少し離れて横におなりになった。「まろびのく」は、前出催馬楽の言葉を用いる」。『完訳』は「寝返りする意」と注す。2.5.1
注釈286いかなればいとかくしも以下「思ひ知りたまへるにや」まで、薫の心中の思い。2.5.2
注釈287いとどわが心通ひておぼゆれば『完訳』は「道心を身上とする薫の心に」と注す。2.5.2
注釈288さらば物越などにも以下「忍びてたばかれ」まで、薫の弁への詞。2.5.3
注釈289心して人疾く静めなど主語は弁。『集成』は「気をつけて、ほかの女房たちを早く寝静まらせたりして」と注す。2.5.4
注釈290人の忍びたまへる振る舞ひ『完訳』は「「人」は薫。以下、「思ひけるに」あたりまで、薫を寝所に導く弁に即した叙述」と注す。2.5.5
注釈291え聞きつけたまはじ主語は大君。2.5.5
注釈292同じ所に大殿籠もれるを『集成』は「以下「--見たてまつり知りたまへらむ」まで、弁の心中」と注す。2.5.6
注釈293ほかほかにともいかが聞こえむ今夜は別々にお寝みになるようにと、どうして言えようか。反語表現。弁の内省。2.5.6
注釈294御けはひをもたどたどしからず見たてまつり知りたまへらむ薫は大君の感じをはっきりと知っているだろうから、姉妹を取り違えることはあるまい。2.5.6
注釈295うちもまどろみたまはねば主語は大君。2.5.6
注釈296いといとほしく『集成』は「以下、大君の心中の思いと動作を交互に書く」と注す。2.5.7
注釈297いかにするわざぞと『集成』は「どうしたらよいのだろうと」。『完訳』は「弁らがどうするのだろうと」と訳す。2.5.7
注釈298ともに隠れなばや大君の心中。中君と一緒に隠れたい。2.5.7
注釈299いかにおぼえたまはむ大君の心中。中君の心中を察する。2.5.7
注釈300あらましごとにてだに以下「思し疎まむ」まで、大君の心中。『集成』は「将来の心積りとして話しただけでも、ひどいと思っていらっしゃったのに」と訳す。中君に薫との結婚を勧めたことをさす。2.5.8
注釈301今はとて山に登りたまひし夕べの御さまなど故父宮が山寺に入った夕べの最後の姿。2.5.8
2.6
第六段 薫、相手を中の君と知る


2-6  Kaoru sees that the woman is not Ohoi-kimi but Naka-no-kimi

2.6.1  中納言は、独り臥したまへるを、 心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、 やうやうあらざりけりと見る。「今すこしうつくしくらうたげなるけしきはまさりてや」とおぼゆ。
 中納言は、独り臥していらっしゃるのを、そのつもりでいたのかと嬉しくなって、心をときめかしなさると、だんだんと違った人であったと分かる。「もう少し美しくかわいらしい感じが勝っていようか」と思われる。
 薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく似てはいたが、美しく可憐かれんな点はこの人がまさっているかと見えた。   Tyuunagon ha, hitori husi tamahe ru wo, kokoro si keru ni ya to uresiku te, kokoro-tokimeki si tamahu ni, yau-yau ara zari keri to miru. "Ima sukosi utukusiku rautage naru kesiki ha masari te ya?" to oboyu.
2.6.2   あさましげにあきれ惑ひたまへるを、「 げに、心も知らざりける」と見ゆれば、いといとほしくもあり、またおし返して、隠れたまへらむつらさの、まめやかに心憂くねたければ、 これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど、なほ本意の違はむ、口惜しくて、
 驚いてあきれていらっしゃるのを、「なるほど、事情を知らなかったのだ」と見えるので、とてもお気の毒でもあり、また思い返しては、隠れていらっしゃる方の冷淡さが、ほんとうに情けなく悔しいので、この人をも他人のものにはしたくないが、やはりもともとの気持ちと違ったのが、残念で、
驚いている顔を見て、この人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れてしまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながらも、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。   Asamasige ni akire madohi tamahe ru wo, "Geni, kokoro mo sira zari keru." to miyure ba, ito itohosiku mo ari, mata osi-kahesi te, kakure tamahe ra m turasa no, mameyaka ni kokoro-uku netakere ba, kore wo mo yoso no mono to ha e omohi hanatu mazikere do, naho ho'i no tagaha m, kutiwosiku te,
2.6.3  「 うちつけに浅かりけりともおぼえたてまつらじ。この一ふしは、なほ過ぐして、つひに、 宿世逃れずは、こなたざまにならむも、何かは異人のやうにやは」
 「一時の浅い気持ちだったとは思われ申すまい。この場は、やはりこのまま過ごして、結局、運命から逃れられなかったら、こちらの宮と結ばれるのも、どうしてまったくの他人でもないし」
そのようにたやすく相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこの人を思わず同じだけに愛することができよう   "Utituke ni asakari keri to mo oboye tatematura zi. Kono hito-husi ha, naho sugusi te, tuhi ni, sukuse nogare zu ha, konata zama ni nara m mo, nanikaha koto-bito no yau ni ya ha."
2.6.4  と思ひ覚まして、 例の、をかしくなつかしきさまに語らひて明かしたまひつ。
 と気を静めて、例によって、風情ある優しい感じでお話して夜をお明かしになった。
という分別のできた薫は、例のように美しくなつかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。
  to omohi-samasi te, rei no, wokasiku natukasiki sama ni katarahi te akasi tamahi tu.
2.6.5  老い人どもは、しそしつと思ひて、
 老女連中は、十分にうまくいったと思って、
 老いた女房はただの話し声だけのする帳台の様子に失敗したことを思い、また一人はすっと出て行ったらしい音も聞いたので、   Oyi-bito-domo ha, sisosi tu to omohi te,
2.6.6  「 中の宮、いづこにかおはしますらむ。あやしきわざかな」
 「中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう。不思議なことだわ」
中の君はどこへおいでになったのであろうか、わけのわからぬことである   "Naka-no-Miya, iduko ni ka ohasimasu ram? Ayasiki waza kana!"
2.6.7  と、たどりあへり。
 と、探し合っていた。
といろいろな想像をしていた。
  to, tadori ahe ri.
2.6.8  「 さりとも、あるやうあらむ
 「いくら何でも、どこかにいらっしゃるだろう」
「でも何か思いも寄らぬことがあるのでしょうね」
  "Saritomo, aru yau ara m."
2.6.9  など言ふ。
 などと言う。
 とも言っていた。
  nado ihu.
2.6.10  「 おほかた例の、見たてまつるに皺のぶる心地して、めでたくあはれに見まほしき御容貌ありさまを、 などて、いともて離れては聞こえたまふらむ。何か、これは世の人の言ふめる、 恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ
 「総じていつも、拝見すると皺の延びる気がして、素晴らしく立派でいつまでも拝見していたいご器量や態度を、どうして、とてもよそよそしくお相手申し上げていらっしゃるのだろう。何ですか、これは世間の人が言うような、恐ろしい神様が、お憑き申しているのでしょうか」
「私たちがお顔を拝見すると、こちらの顔のしわまでも伸び、若がえりさえできると思うようなりっぱな御風采ふうさいの中納言様をなぜお避けになるのでしょう。私の思うのには、これは世間でいう魔が姫君にいているのですよ」
  "Ohokata rei no, mi tatematuru ni siwa noburu kokoti si te, medetaku ahare ni mi mahosiki ohom-katati arisama wo, nado te, ito mote-hanare te ha kikoye tamahu ram. Nanika, kore ha yo no hito no ihu meru, osorosiki kami zo, tuki tatematuri tara m."
2.6.11  と、歯はうちすきて、愛敬なげに言ひなす女あり。また、
 と、歯は抜けて、憎たらしく言う女房がいる。また、
 歯の落ちこぼれた女が無愛嬌ぶあいきょうな表情でこう言いもする。
  to, ha ha uti-suki te, aigyau nage ni ihi-nasu womna ari. Mata,
2.6.12  「 あな、まがまがしなぞのものか憑かせたまはむ。ただ、人に遠くて、生ひ出でさせたまふめれば、かかることにも、 つきづきしげにもてなしきこえたまふ人もなくおはしますに、はしたなく 思さるるにこそ。今おのづから 見たてまつり馴れたまひなば思ひきこえたまひてむ
 「まあ、縁起でもない。どんな魔物がお憑きになっているものですか。ただ、世間離れして、お育ちになったようですから、このようなことでも、ふさわしくとりなして差し上げなさる人もなくていらっしゃるので、体裁悪く思わずにはいらっしゃれないのでしょう。そのうち自然と拝しお馴れなさったら、きっとお慕い申し上げなさるでしょう」
「魔ですって、まあいやな、そんなものにどうして憑かれておいでになるものですか。ただあまりに人間離れのした環境に置かれておいでになりましたから、夫婦の道というようなことも上手じょうずに説明してあげる人もないし、殿方が近づいておいでになるとむしょうに恐ろしくおなりになるのですよ。そのうちれておしまいになれば、お愛しになることもできますよ」
  "Ana, maga-magasi. Nazo no mono ka tuka se tamaha m. Tada, hito ni tohoku te, ohi-ide sase tamahu mere ba, kakaru koto ni mo, tuki-dukisige ni motenasi kikoye tamahu hito mo naku ohasimasu ni, hasitanaku obosa ruru ni koso. Ima onodukara mi tatematuri nare tamahi na ba, omohi kikoye tamahi te m."
2.6.13  など語らひて、
 などと話して、
 こんなことを言う者もあって   nado katarahi te,
2.6.14  「 とくうちとけて、思ふやうにておはしまさなむ
 「すぐにうちとけて、理想的な生活におなりになってほしい」
しまいには皆いい気になり、どうか都合よくいけばいい   "Toku utitoke te, omohu yau ni te ohasimasa nam."
2.6.15  と言ふ言ふ寝入りて、いびきなど、かたはらいたくするもあり。
 と言いながら寝入って、いびきなどを、きまり悪いくらいにする者もいる。
と言い言いだれも寝入ってしまった。いびきまでもかきだした不行儀な女もあった。   to ihu ihu ne-iri te, ibiki nado, kataharaitaku suru mo ari.
2.6.16   逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど 、ほどもなく明けぬる心地して、 いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひを、人やりならず飽かぬ心地して、
 逢いたい人と過ごしたのではない秋の夜であるが、間もなく明けてしまう気がして、どちらとも区別することもできない優美なご様子を、自分自身でも物足りない気がして、
恋人のために秋の夜さえも早く明ける気がしたと故人の歌ったような間柄になっている女性といたわけではないが、夜はあっけなく明けた気がして、かおる女王にょおうのいずれもが劣らぬ妍麗けんれいさの備わったその一人と平淡な話ばかりしたままで別れて行くのを飽き足らぬここちもしたのであった。
  Ahu hito kara ni mo ara nu aki no yo nare do, hodo mo naku ake nuru kokoti si te, idure to waku beku mo ara zu namamekasiki ohom-kehahi wo, hito-yari nara zu aka nu kokoti si te,
2.6.17  「 あひ思せよ。いと心憂くつらき人の御さま、見習ひたまふなよ」
 「あなたも愛してください。とても情けなくつらいお方のご様子を、真似なさいますな」
「あなたも私を愛してください。冷酷な女王さんをお見習いになってはいけませんよ」
  "Ahi obose yo. Ito kokoro-uku turaki hito no ohom-sama, mi-narahi tamahu na yo."
2.6.18  など、 後瀬を契りて出でたまふ 我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど、なほ つれなき人の御けしき、今一たび見果てむの心に、思ひのどめつつ、 例の、出でて臥したまへり
 などと、後の逢瀬を約束してお出になる。自分ながら妙に夢のように思われるが、やはり冷たい方のお気持ちを、もう一度見極めたいとの気で、気持ちを落ち着けながら、いつものように、出て来てお臥せりになった。
 など、またまた機会のあろうことを暗示して出て行った。自分のことでありながら限りない淡泊な行動をとったと、夢のような気も薫はするのであるが、それでもなお無情な人の真の心持ちをもう一度見きわめた上で、次の問題に移るべきであると、不満足な心をなだめながら帰って来た例の客室で横たわっていた。
  nado, notise wo tigiri te ide tamahu. Ware nagara ayasiku yume no yau ni oboyure do, naho turenaki hito no mi-kesiki, ima hito-tabi mi-hate m no kokoro ni, omohi nodome tutu, rei no, ide te husi tamahe ri.
注釈302心しけるにや薫の心中。『集成』は「薫を迎える積りで、大君を一人にさせたのかと思う」。『完訳』は「大君が自分を迎えてくれたと欣喜」と注す。2.6.1
注釈303やうやうあらざりけりと見る『集成』は「以下、敬語抜きで薫の心中に密着した書き方」。『完訳』は「以下、薫の目と心に即した行文。敬語の用いられない点に注意したい」と注す。2.6.1
注釈304あさましげにあきれ惑ひたまへるを主語は中君。2.6.2
注釈305げに心も知らざりける薫の納得する気持ち。2.6.2
注釈306これをもよそのものとはえ思ひ放つまじけれど中君を他人のものとはしたくない。『完訳』は「薫は中君にも執心」と注す。2.6.2
注釈307うちつけに以下「異人のやうにやは」まで、薫の心中。2.6.3
注釈308宿世逃れずは『完訳』は「中の君と結ばれる宿世だとしても、姉の大君と同じに思おう」と注す。2.6.3
注釈309例の『完訳』は「昨夜と同様、実事のない逢瀬」と注す。2.6.4
注釈310中の宮いづこにか以下「あやしきわざかな」まで、老女の詞。2.6.6
注釈311さりともあるやうあらむ老女の詞。2.6.8
注釈312おほかた例の以下「憑きたてまつりたらむ」まで、老女の詞。2.6.10
注釈313などていともて離れては『集成』は以下を老女の詞とする。2.6.10
注釈314恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむ大君に取り憑く。『細流抄』に「世俗の諺に嫁すべき時過ぎぬれば神のつくと也」とある。『河海抄』は「玉葛実ならぬ樹にはちはやぶる神そつくとふならぬ樹ごとに」(万葉集巻二、一〇一)を指摘。2.6.10
注釈315あなまがまがし以下「思ひきこえたまひてむ」まで老女の詞。2.6.12
注釈316なぞのものか憑かせたまはむ反語表現。何の憑き物もついてない。2.6.12
注釈317つきづきしげにもてなしきこえたまふ人母親などをさす。2.6.12
注釈318思さるるにこそ「るる」自発の助動詞。係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。2.6.12
注釈319見たてまつり馴れたまひなば大君が薫に。2.6.12
注釈320思ひきこえたまひてむ大君が薫をお慕い申されるだろう。完了の助動詞「て」確述の意、きっと--するだろう、のニュアンス。2.6.12
注釈321とくうちとけて思ふやうにておはしまさなむ女房の詞。終助詞「なむ」他に対するあつらえの気持ち。2.6.14
注釈322逢ふ人からにもあらぬ秋の夜なれど『源氏釈』は「長しとも思ひぞはてぬ逢ふ人からの秋の夜なれば」(古今集恋三、六三六、凡河内躬恒)を指摘。2.6.16
注釈323いづれと分くべくもあらずなまめかしき御けはひ大君と中君。区別のつかないほど共に優美な姿。2.6.16
注釈324あひ思せよ以下「見習ひたまふなよ」まで、薫の詞。姉君のように振舞いなさるな、の意。2.6.17
注釈325後瀬を契りて出でたまふ後の逢瀬を約束して。『異本紫明抄』は「若狭なる後瀬の山の後も逢はむわが思ふ人に今日ならずとも」(古今六帖二、国)を指摘。「後瀬山」は若狭の国の歌枕。2.6.18
注釈326我ながらあやしく夢のやうにおぼゆれど『集成』は「逢いながら逢わぬ中の君との出会いのこと」。『完訳』は「実事のない逢瀬の複雑な思い」と注す。2.6.18
注釈327つれなき人大君。2.6.18
注釈328例の出でて臥したまへり大君邸における薫の習慣化した動作。2.6.18
出典17 逢ふ人からにもあらぬ秋の夜 長しとも思ひぞ果てぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば 古今集恋三-六三六 凡河内躬恒 2.6.16
出典18 後瀬を契りて 若狭なる後瀬の山の後も逢はむ我が思ふ人に今日ならずとも 古今六帖二-一二七二 2.6.18
2.7
第七段 翌朝、それぞれの思い


2-7  Next morning, sisters and Kaoru think about their mind

2.7.1   弁参りて
 弁が参って、
 弁が帳台の所へ来て、
  Ben mawiri te,
2.7.2  「 いとあやしく、中の宮は、いづくにかおはしますらむ
 「ほんとうに不思議に、中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう」
「お見えになりませんが、中姫君はどちらにおいでになるのでございましょう」
  "Ito ayasiku, Naka-no-Miya ha, iduku ni ka ohasimasu ram?"
2.7.3  と言ふを、 いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に、「 いかなりけむことにか」と思ひ臥したまへり。 昨日のたまひしことを思し出でて、姫宮を つらしと思ひきこえたまふ。
 と言うのを、とても恥ずかしく思いがけないお気持ちで、「どうしたことであったのか」と思いながら横になっていらっしゃった。昨日おっしゃったことをお思い出しになって、姫宮をひどい方だとお思い申し上げなさる。
 と言うのを聞いて、突然なことの身辺に起こって、昨夜の幾時間かを親兄弟でもない男と共にいたという羞恥しゅうち心から、中の君は黙ってはいたが、どんな事情があの始末をもたらしたのであろうと考えるのであった。昨日語られたことを思い出してみると中の君の恨めしく思われるのは姉君であった。   to ihu wo, ito hadukasiku omohi-kake nu mi-kokoti ni, "Ika nari kem koto ni ka?" to omohi husi tamahe ri. Kinohu notamahi si koto wo obosi-ide te, Hime-Miya wo turasi to omohi kikoye tamahu.
2.7.4  明けにける光につきてぞ、 壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる 思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
 すっかり明けた光を頼りにして、壁の中のこおろぎすが這い出しなさった。恨んでいらっしゃるだろうことがとてもお気の毒なので、お互いに何もおっしゃれない。
今一人の壁の中の蟋蟀こおろぎは暁の光に誘われて出て来た。中の君がどう思っているだろうと気の毒で互いにものが言われない。   Ake ni keru hikari ni tuki te zo, kabe no naka no kirigirisu hahi-ide tamahe ru. Obosu ram koto no ito itohosikere ba, katami ni mono mo iha re tamaha zu.
2.7.5  「 ゆかしげなく、心憂くもあるかな。今より後も、 心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ
 「奥ゆかしげもなく、情けないことだわ。今から後は、油断できないものだわ」
ひどい仕向けである。今からのちもまたどんなことがしいられるかもしれぬ、姉をさえ信じることのできぬのがこの世であるか   "Yukasige naku, kokoro-uku mo aru kana! Ima yori noti mo, kokoro-yurubi su beku mo ara nu yo ni koso."
2.7.6  と思ひ乱れたまへり。
 と思い乱れていらっしゃった。
と中姫君は思いもだえていた。
  to omohi midare tamahe ri.
2.7.7  弁は あなたに参りてあさましかりける御心強さを聞きあらはして、「いとあまり深く、人憎かりけること」と、いとほしく思ひほれゐたり。
 弁はあちらに参って、あきれはてたお気の強さをすっかり聞いて、「まことにあまりにも思慮が深く、かわいげがないこと」と、気の毒に思い呆然としていた。
 弁は客室へ行って薫から、姫君が冷酷にもねやへ身代わりを置いて隠れてしまった話をされ、そんなだれも同情を惜しむほどな強い拒みようを姫君はされたのであるかと驚きにぼんやりとなっていた。
  Ben ha anata ni mawiri te, asamasikari keru mi-kokoro-duyosa wo kiki arahasi te, "Ito amari hukaku, hito nikukari keru koto!" to, itohosiku omohi-hore wi tari.
2.7.8  「 来し方のつらさは、なほ残りある心地して、よろづに思ひ慰めつるを、 今宵なむ、まことに恥づかしく、 身も投げつべき心地する。 捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを思ひきこゆる方こそ、また、ひたぶるに、身をもえ思ひ捨つまじけれ。かけかけしき筋は、 いづ方にも思ひきこえじ。憂きもつらきも、かたがたに忘られたまふまじくなむ。
 「今までのつらさは、まだ望みの持てる気がして、いろいろと慰めていたが、昨夜は、ほんとうに恥ずかしく、身を投げてしまいたい気がする。お見捨てがたい気持ちで遺していかれたおいたわしさをお察し申し上げるのは、また、一途に、わが身を捨てることもできません。好色がましい気持ちは、どちらにもお思い申していません。悲しさも苦しさも、それぞれお忘れになられたくなく思います。
「今までのつめたいお扱いは、それでもまだ私に希望を捨てさせないものがあって、私には慰められるところもありましたがね、今日という今日はほんとうに恥ずかしくなってしまって、宇治川へ身も投げたい気になりましたよ。私のどんな行為の犠牲にしてもよいというように御寝所へ捨ててお置きになった女王さんのお気の毒だったことを思うと、私は今死んでしまうこともならない気がされます。妻になっていただきたいなどということはどちらの女王さんにも私はもう望まないことにしますよ。中姫君を強制的に妻にしては一生恨みの残ることになりますからね。   "Kisi-kata no turasa ha, naho nokori aru kokoti si te, yorodu ni omohi nagusame turu wo, koyohi nam, makoto ni hadukasiku, mi mo nage tu beki kokoti suru. Sute gataku otosi oki tatematuri kem kokoro-gurusisa wo omohi kikoyuru kata koso, mata, hitaburu ni, mi wo mo e omohi sutu mazikere. Kake-kakesiki sudi ha, idu-kata ni mo omohi kikoye zi. Uki mo turaki mo, kata-gata ni wasura re tamahu maziku nam.
2.7.9   宮などの、恥づかしげなく聞こえたまふめるを、同じくは心高く、と思ふ方ぞ異にものしたまふらむ、と心得果てつれば、いとことわりに恥づかしくて。また参りて、人びとに見えたてまつらむこともねたくなむ。よし、かくをこがましき身の上、また人にだに漏らしたまふな」
 宮などが、立派にお手紙を差し上げなさるようですが、同じことなら気位高く、という考えが別におありなのだろう、と納得がいきましたので、まことにごもっともで恥ずかしくて。再び参上して、あなた方にお目にかかることもしゃくでね。よし、このように馬鹿らしい身の上を、また他人にお漏らしなさいますな」
りっぱな兵部卿の宮様からの申し込みを受けておいでになる方だから、御自身でこうと決めておいでになることもあるだろうと私は知っていますから、あの方に近づいて行こうとは思われないし、こうした恥ずかしい立場に置かれた私が、またまいって女王がたにおいするのははばかられます。あなたにお頼みしておくが、愚かな恋をしていた私の話をせめて女房たちにだけでも知られないように黙っていてください」
  Miya nado no, hadukasige naku kikoye tamahu meru wo, onaziku ha kokoro-takaku, to omohu kata zo koto ni monosi tamahu ram, to kokoro-e hate ture ba, ito kotowari ni hadukasiku te. Mata mawiri te, hito-bito ni miye tatematura m koto mo netaku nam. Yosi, kaku wokogamasiki mi-no-uhe, mata hito ni dani morasi tamahu na."
2.7.10  と、怨じおきて、 例よりも急ぎ出でたまひぬ。「 誰が御ためもいとほしく」と、ささめきあへり。
 と、恨み言をいって、いつもより急いでお出になった。「どなたにとってもお気の毒で」と、ささやき合っていた。
 こう恨みを告げたあとで、平生よりも早く薫は帰ってしまった。中姫君のためにも中納言のためにも気の毒な結果を作ったと弁は昨夜の仲間の人たちとささやき合った。   to, en-zi oki te, rei yori mo isogi ide tamahi nu. "Taga ohom-tame mo itohosiku." to, sasameki-ahe ri.
注釈329弁参りて『完訳』は「薫と入れ替りに、弁が現れる」と注す。2.7.1
注釈330いとあやしく中の宮はいづくにかおはしますらむ弁の詞。2.7.2
注釈331いと恥づかしく思ひかけぬ御心地に中君の気持ち。2.7.3
注釈332いかなりけむことにか中君の心中。昨夜の薫との出来事。2.7.3
注釈333昨日のたまひしことを昨日大君が中君に薫との結婚話を勧めたこと。2.7.3
注釈334つらしと『集成』は「ひどいお方と」。『完訳』は「うらめしく」と訳す。2.7.3
注釈335壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる『河海抄』は「季夏蟋蟀壁ニ居ル」(礼記、月令)を指摘。壁の側に隠れていた大君を漢籍の故事にちなんで蟋蟀に譬える。2.7.4
注釈336思すらむこと中君が大君を恨んでいるだろうこと。2.7.4
注釈337ゆかしげなく以下「あらぬ世にこそ」まで、大君の心中の思い。『完訳』は「姉妹ともに薫から顔をあらわに見られ、奥ゆかしげもなく、情けないことだ、の意」と注す。2.7.5
注釈338心ゆるびすべくもあらぬ世にこそ『集成』は「女房たちへの不信と警戒心」と注す。2.7.5
注釈339あなたに参りて薫のいる西廂の間へ。2.7.7
注釈340あさましかりける御心強さを大君の強情さ。2.7.7
注釈341来し方のつらさは以下「漏らしたまふな」まで、薫の弁への詞。2.7.8
注釈342今宵なむ朝になってから言っているので、正確には昨夜の出来事をさす。2.7.8
注釈343身も投げつべき心地『源氏釈』は「頼め来る君しつらくは四方の海に身も投げつべき心地こそすれ」(馬内侍集)を指摘。2.7.8
注釈344捨てがたく落としおきたてまつりたまへりけむ心苦しさを『完訳』は「亡き父宮が姫君たちを残していかれた気持のおいたわしさを思うと、わが身も捨てられぬ意。自分は遺託をうけたのにと脅迫めく」と注す。2.7.8
注釈345いづ方にも大君と中君のどちらにも。2.7.8
注釈346宮などの恥づかしげなく聞こえたまふめるを匂宮が。『完訳』は「以下、結婚をするなら身分の高い匂宮を望むのか、のいやみ」と注す。2.7.9
注釈347例よりも急ぎ出でたまひぬ『完訳』は「普通の後朝の別れよりも早々に。腹立たしさを見せつける趣」と注す。2.7.10
注釈348誰が御ためもいとほしく薫にも大君にも。2.7.10
出典19 壁の中のきりぎりす 季夏蟋蟀居壁 礼記-月令 2.7.4
出典20 身も投げつべき心地 頼めくる君し辛くは四方の海に身も投げつべき心地こそすれ 馬内侍集-九 2.7.8
校訂10 ひ出で きりぎりす這ひ出で--きり/\すす(す<後出>/#<朱>)はい(い/+い<朱>)て 2.7.4
校訂11 心ゆるび 心ゆるび--*心ゆるい 2.7.5
2.8
第八段 薫と大君、和歌を詠み交す


2-8  Kaoru and Ohoi-kimi compose and exchange waka

2.8.1  姫君も、「 いかにしつることぞ、もし おろかなる心も のしたまはば」と、胸つぶれて心苦しければ、 すべて、うちあはぬ人びとのさかしら、憎しと思す。さまざま思ひたまふに、 御文あり。例よりはうれしとおぼえたまふも、 かつはあやし。秋のけしきも知らず顔に、青き枝の、片枝いと濃く紅葉ぢたるを、
 姫君も、「どうしたことだ、もしいい加減な気持ちがおありだったら」と、胸が締めつけられるように苦しいので、何もかも、考えの違う女房のおせっかいを、憎らしいとお思いになる。いろいろとお考えになっているところに、お手紙がある。いつもより嬉しく思われなさるのも、一方ではおかしなことである。秋の様子も知らないふりして、青い枝で、片一方はたいそう色濃く紅葉したのを、
大姫君も事情はよくわかっていないのであったから、妹の女王に薫が深い愛を覚えなかったのではあるまいかと、早く帰ったことについて胸を騒がせた、妹が哀れでもあった。すべての女房たちの仕業しわざの悪かったことに基因しているのであると思った。さまざまに大姫君が煩悶はんもんをしている時に源中納言からの手紙が来た。平生よりもこの使いがうれしく感ぜられたのも不思議であった。
 秋を感じないように片枝は青く、半ばは濃く色づいた紅葉もみじの枝に、
  Hime-Gimi mo, "Ikani si turu koto zo, mosi oroka naru kokoro monosi tamaha ba." to, mune tubure te kokoro-kurusikere ba, subete, uti-aha nu hito-bito no sakasira, nikusi to obosu. Sama-zama omohi tamahu ni, ohom-humi ari. Rei yori ha uresi to oboye tamahu mo, katu ha ayasi. Aki no kesiki mo sira-zu-gaho ni, awoki yeda no, kata-ye ito koku momidi taru wo,
2.8.2  「 おなじ枝を分きて染めける山姫に
 「同じ枝を分けて染めた山姫を
 「おなじを分きて染めける山姫に
    "Onazi ye wo waki te some keru yama-hime ni
2.8.3   いづれか深き色と問はばや
  どちらが深い色と尋ねましょうか
  いづれか深き色と問はばや」
    idure ka hukaki iro to toha baya
2.8.4  さばかり怨みつるけしきも、言少なにことそぎて、 おし包みたまへるを、「 そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり」と 見たまふも、心騷ぎて見る。
 あれほど恨んでいた様子も、言葉少なく簡略にして、包んでいらっしゃるが、「何ともなしにうやむやにして済ますようだ」と御覧になるのも、心騷ぎして見る。
 あれほど恨めしがっていたことも多く言わず、簡単にこの歌にしたのが手紙の内容であるのを見て、愛が確かにあるようでもなく、ただこんなふうにだけ取り扱って別れてしまう心なのであろうかと思うことで姫君が苦痛を感じている時に、   Sabakari urami turu kesiki mo, koto sukuna ni kotosogi te, osi-tutumi tamahe ru wo, "Sokohakatonaku motenasi te yami na m to na' meri." to mi tamahu mo, kokoro-sawagi te miru.
2.8.5  かしかましく、「 御返り」と言へば、「 聞こえたまへ」と譲らむも、うたておぼえて、さすがに書きにくく思ひ乱れたまふ。
 やかましく、「お返事を」と言うので、「差し上げなさい」と譲るのも、嫌な気がして、そうは言え書きにくく思い乱れなさる。
だれもだれもが返事を早くと促すのを聞いて、あなたからと今日は中の君に言うのも恥じられ、自分でするのも書きにくく思い乱れていた。
  Kasikamasiku, "Ohom-kaheri." to ihe ba, "Kikoye tamahe." to yudura m mo, utate oboye te, sasuga ni kaki nikuku omohi midare tamahu.
2.8.6  「 山姫の染むる心はわかねども
 「山姫が染め分ける心はわかりませんが
 「山姫の染むる心はわかねども
    "Yama-hime no somuru kokoro ha waka ne domo
2.8.7   移ろふ方や深きなるらむ
  色変わりしたほうに深い思いを寄せているのでしょう
  移らふかたや深きなるらん」
    uturohu kata ya hukaki naru ram
2.8.8  ことなしびに書きたまへるが、 をかしく見えければ、なほえ怨じ果つまじくおぼゆ。
 さりげなくお書きになっていたが、おもしろく見えたので、やはり恨みきれず思われる。
 事実に触れるでもなく書かれてある総角あげまきの姫君の字の美しさに、やはり自分はこの人を忘れ果てることはできないであろうと薫は思った。   Kotonasibi ni kaki tamahe ru ga, wokasiku miye kere ba, naho e wen-zi hatu maziku oboyu.
2.8.9  「 身を分けてなど、譲りたまふけしきは、たびたび見えしかど、うけひかぬにわびて構へたまへるなめり。そのかひなく、かく つれなからむもいとほしく、情けなきものに思ひおかれて、いよいよ はじめの思ひかなひがたくやあらむ。
 「身を分けてなどと、お譲りになる様子は、度々見えたが、承知しないのに困って企てなさったようだ。その効もなく、このように何の変化ないのもお気の毒で、情けない人と思われて、ますます当初からの思いがかないがたいだろう。
 自分の半身のような妹であるからと中の君をすすめるふうはたびたび見せられたのであるのに、自分がそれに従わないためにはかったものに違いない、その苦心をむだにした今になって、ただ恨めしさから冷淡を装っていれば初めからの願いはいよいよ実現難になるであろう、   "Mi wo wake te nado, yuduri tamahu kesiki ha, tabi-tabi miye sika do, ukehika nu ni wabi te kamahe tamahe ru na' meri. Sono kahinaku, kaku turenakara m mo itohosiku, nasake-naki mono ni omohi-oka re te, iyo-iyo hazime no omohi kanahi gataku ya ara m.
2.8.10  とかく言ひ伝へなどすめる 老い人の思はむところも軽々しく、とにかくに 心を染めけむだに悔しく、かばかりの世の中を思ひ捨てむの心に、みづからもかなはざりけりと、人悪ろく思ひ知らるるを、まして、おしなべたる好き者のまねに、同じあたり返すがへす漕ぎめぐらむ、いと 人笑へなる 棚無し小舟めきたるべし
 あれこれと仲立ちなどするような老女が思うところも軽々しく、結局のところ思慕したことさえ後悔され、このような世の中を思い捨てようとの考えに、自分自身もかなわなかったことよと、体裁悪く思い知られるのに、それ以上に、世間にありふれた好色者の真似して、同じ人を繰り返し付きまとわるのも、まことに物笑いな棚無し小舟みたいだろう」
中に今まで立たせておいた老女にさえ、自分の愛の深さを見失わせることになり、浮いた恋だったとされてしまうのが残念である。何にもせよ一人の人にこれほどまでも心のかれることになった初めがくやしい、ただはかないこの世を捨ててしまいたいと願っている精神にも矛盾する身になっているではないかと自分でさえ恥ずかしく思われることである、いわんや世間の浮気うわき者のように、その恋人の妹にまた恋をし始めるということはできないことであるとかおるは思い明かした。
  Tokaku ihi tutahe nado su meru Oyi-bito no omoha m tokoro mo karo-garosiku, toni-kakuni kokoro wo some kem dani kuyasiku, kabakari no yononaka wo omohi-sute m no kokoro ni, midukara mo kanaha zari keri to, hito-waroku omohi-sira ruru wo, masite, osinabe taru suki-mono no mane ni, onazi atari kahesu-gahesu kogi-megura m, ito hito-warahe naru tana-nasi-wo-bune meki taru besi."
2.8.11  など、夜もすがら思ひ明かしたまひて、まだ有明の空もをかしきほどに、 兵部卿宮の御方に参りたまふ
 などと、一晩中思いながら夜を明かしなさって、まだ有明の空も風情あるころに、兵部卿宮のお邸に参上なさる。
 次の朝の有明ありあけ月夜に薫は兵部卿ひょうぶきょうの宮の御殿へまいった。   nado, yomosugara omohi-akasi tamahi te, mada ariake no sora mo wokasiki hodo ni, Hyaubukyau-no-Miya no ohom-kata ni mawiri tamahu.
注釈349いかにしつることぞ以下「ものしたまはば」まで、大君の心中の思い。2.8.1
注釈350おろかなる心も薫が中君を疎略に扱う心、の意。2.8.1
注釈351すべてうちあはぬ人びとのさかしら『集成』は「やることなすことちぐはぐな女房たちのお節介」と注す。2.8.1
注釈352御文あり後朝の文。2.8.1
注釈353かつはあやし語り手の批評。『集成』は「考えてみれば、おかしなこと。草子地。本来は薫の懸想を迷惑がっている大君なのに、という気持」と注す。2.8.1
注釈354おなじ枝を分きて染めける山姫にいづれか深き色と問はばや薫から大君への贈歌。大君を「山姫」という。反語表現。自分の気持ちはもともと大君のほうにあるという意。『異本紫明抄』は「同じ枝を分きて木の葉のうつろふは西こそ秋の初めなりけれ」(古今集秋下、二五五、藤原勝臣)を指摘。2.8.2
注釈355おし包みたまへるを包み文。『集成』は「恋文ならば結び文にする」と注す。2.8.4
注釈356そこはかとなくもてなしてやみなむとなめり大君の推測。昨夜の中の君との一件をうやむやに済ませてしまうらしい。2.8.4
注釈357見たまふも主語は大君。2.8.4
注釈358御返り女房たちの詞。返事の催促。2.8.5
注釈359聞こえたまへ大君の中君への詞。中君が書くように促す。2.8.5
注釈360山姫の染むる心はわかねども移ろふ方や深きなるらむ大君の返歌。中君のほうに心を寄せているのでしょう、という意。2.8.6
注釈361をかしく見えければ主語は薫。大君の返歌を興趣ありと見た。2.8.8
注釈362身を分けてなど以下「棚無し小舟めきたるべし」まで、薫の心中の思い。2.8.9
注釈363つれなからむも中君に対して気持ちが移らないのも。2.8.9
注釈364はじめの思ひ薫の大君思慕。2.8.9
注釈365老い人の思はむところも軽々しく『完訳』は「薫は弁に大君思慕を強調してきただけに、中の君との一件を知られては不都合と思う」と注す。2.8.10
注釈366心を染めけむだに悔しく大君を思慕したことさえ後悔される。2.8.10
注釈367棚無し小舟めきたるべし『源氏釈』は「堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎ返り同じ人にや恋ひわたりなむ」(古今集恋四、七三二、読人しらず)を指摘。2.8.10
注釈368兵部卿宮の御方に参りたまふ六条院にある匂宮の曹司に。2.8.11
出典21 棚無し小舟 堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎ返り同じ人にや恋ひ渡るらむ 古今集恋四-七三二 読人しらず 2.8.10
校訂12 心--心も(も/#<朱>) 2.8.1
校訂13 人笑へ 人笑へ--*人わつらへ 2.8.10
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年5月3日

渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2004年9月21日

Last updated 10/26/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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