47 総角(大島本)


AGEMAKI


薫君の中納言時代
二十四歳秋から歳末までの物語



Tale of Kaoru's Chunagon era, from fall to the end of the year at the age of 24

1
第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ


1  Tale of Ohoi-kimi  A parting at dawn without sexual relation between Kaoru and Ohoi-kimi

1.1
第一段 秋、八の宮の一周忌の準備


1-1  In fall, Sisters prepare for the first anniversary of their father's death

1.1.1  あまた年耳馴れたまひにし 川風も、この秋はいとはしたなくもの悲しくて、 御果ての事いそがせたまふ。おほかたのあるべかしきことどもは、中納言殿、阿闍梨などぞ仕うまつりたまひける。ここには法服の事、経の飾り、こまかなる御扱ひを、 人の聞こゆるに従ひて営みたまふも、いとものはかなくあはれに、「 かかるよその御後見なからましかば」と見えたり。
 何年も耳馴れなさった川風も、今年の秋はとても身の置き所もなく悲しくて、一周忌の法要をご準備なさる。一通りの必要なことどもは、中納言殿と、阿闍梨などがご奉仕なさったのであった。こちらでは法服のこと、経の飾りや、こまごまとしたお仕事を、女房が申し上げるのに従ってご準備なさるのも、まことに頼りなさそうにお気の毒で、「このような他人のお世話がなかったら」と見えた。
 長い年月れた河風かわかぜの音も、今年の秋は耳騒がしく、悲しみを加重するものとばかり宇治の姫君たちは聞きながら、父宮の御一周忌の仏事の用意をしていた。大体の仕度したくは源中納言と山の御寺みてら阿闍梨あじゃりの手でなされてあって、女王にょおうたちはただ僧たちへ出す法服のこと、経巻の装幀そうていそのほかのこまごまとしたものを、何がなければ不都合であるとか、何を必要とするとかいうようなことを周囲の女たちが注意するままに手もとで作らせることしかできないのであったから、かおるのような後援者がついておればこそ、これまでに事も運ぶのであるがと思われた。
  Amata tosi mimi-nare tamahi ni si kaha-kaze mo, kono aki ha ito hasitanaku mono-kanasiku te, ohom-hate no koto isoga se tamahu. Ohokata no aru bekasiki koto-domo ha, Tyuunagon-dono, Azyari nado zo tukau-maturi tamahi keru. Koko ni ha hohubuku no koto, kyau no kazari, komaka naru ohom-atukahi wo, hito no kikoyuru ni sitagahi te itonami tamahu mo, ito mono-hakanaku ahare ni, "Kakaru yoso no ohom-usiromi nakara masika ba." to miye tari.
1.1.2   みづからも参うでたまひて、今はと脱ぎ捨てたまふほどの御訪らひ、浅からず聞こえたまふ。 阿闍梨もここに参れり。名香の糸ひき乱りて、「 かくても経ぬる」など、うち語らひたまふほどなりけり。結び上げたるたたりの、簾のつまより、几帳のほころびに透きて見えければ、 そのことと心得て、「 わが涙をば玉にぬかなむ」とうち誦じたまへる、 伊勢の御もかくこそありけめと、をかしく聞こゆるも、 内の人は、聞き知り顔にさしいらへたまはむもつつましくて、「 ものとはなしに」とか 、「貫之がこの世ながらの別れをだに、 心細き筋にひきかけけむも」など、げに古言ぞ、人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出でたまふ。
 ご自身でも参上なさって、今日を限りに喪服をお脱ぎになるときのお見舞いを、丁重に申し上げなさる。阿闍梨もここちらに参上していた。名香の糸を引き散らして、「こうして過ごして来たことよ」などと、お話しなさっている時であった。結び上げた糸繰り台が、御簾の端から、几帳の隙間を通して見えたので、そのことだと察して、「わたしの涙を玉にして糸に通して下さい」と口ずさんでいらっしゃるのは、伊勢の御もこうであったろうと、興深くお思い申し上げるにつけても、内側の人は、知ったかぶりにお返事申し上げなさるようなのも遠慮されて、「糸ではないのに」とか、「貫之が生きていての別れでさえ、心細いものとして詠んだというのも」などと、なるほど古歌は、人の心を晴らすよすがであったのをお思い出しなさる。
 薫は自身でも出かけて来て、除服後の姫君たちの衣服その他を周到にそろえた贈り物をした。その時に阿闍梨も寺から出て来た。二人の姫君は名香みょうこうの飾りの糸を組んでいる時で、「かくてもへぬる」(身をうしと思ふに消えぬものなればかくてもへぬるものにぞありける)などと言い尽くせぬ悲しみを語っていたのであるため、結び上げた総角あげまき(組み紐の結んだかたまり)のふさ御簾みすの端から、几帳きちょうのほころびをとおして見えたので、薫はそれとうなずいた。
「自身の涙を玉にそうと言いました伊勢いせもあなたがたと同じような気持ちだったのでしょうね」
 こうした文学的なことを薫が言っても、それに応じたようなことで答えをするのも恥ずかしくて、心のうちでは貫之つらゆき朝臣あそんが「糸にるものならなくに別れは心細くも思ほゆるかな」と言い、生きての別れをさえ寂しがったのではなかったかなどと考えていた。
  Midukara mo maude tamahi te, ima ha to nugi sute tamahu hodo no ohom-toburahi, asakara zu kikoye tamahu. Azyari mo koko ni mawire ri. Myaugau no ito hiki-midari te, "Kaku te mo he nuru." nado, uti-katarahi tamahu hodo nari keri. Musubi-age taru tatari no, sudare no tuma yori, kityau no hokorobi ni suki te miye kere ba, sono koto to kokoro-e te, "Waga namida wo ba tama ni nuka nam." to uti-zyu-zi tamahe ru, Ise-no-go mo kaku koso ari keme to, wokasiku kikoyuru mo, uti no hito ha, kiki-siri-gaho ni sasi-irahe tamaha m mo tutumasiku te, "Mono to ha nasi ni." to ka, "Turayuki ga konoyo nagara no wakare wo dani, kokoro-bosoki sudi ni hiki-kake kem mo." nado, geni huru-koto zo, hito no kokoro wo noburu tayori nari keru wo omohi-ide tamahu.
注釈1川風もこの秋は『完訳』は「風が秋の当来を告げる。その秋は悲哀の季節。故八の宮の一周忌近い今年の秋はとりわけ悲しい」と注す。薫二十四歳秋。宇治八宮薨去の翌秋。1.1.1
注釈2御果ての事八宮の一周忌の法要。昨年の秋八月二十日ごろに薨去した。1.1.1
注釈3人の聞こゆるに従ひて女房たちが申し上げるのに従って。1.1.1
注釈4かかるよその御後見なからましかば語り手の目を通しての感想。「ましかば」反実仮想。薫や阿闍梨の世話がなかったらできなかったろう、の意。1.1.1
注釈5みづからも参うでたまひて薫自身。1.1.2
注釈6阿闍梨もここに参れり山の阿闍梨が姫君たちの邸に来ていた。1.1.2
注釈7かくても経ぬる『源氏釈』は「身を憂しと思ふに消えぬ物なればかくてもへぬる世にこそありけれ」(古今集恋五、八〇六、読人しらず)を指摘。1.1.2
注釈8そのことと心得て姫君たちは名香の糸を作っているのだ、と分かって。1.1.2
注釈9わが涙をば玉にぬかなむ『源氏釈』は「より合わせてなくなる声を糸にしてわがなみだ涙をば玉にぬかなむ」(伊勢集)を指摘。1.1.2
注釈10伊勢の御もかくこそありけめと伊勢の御は宇多天皇の中宮温子に仕えた女房。『大和物語』にそのエピソードが語られている。1.1.2
注釈11内の人は御簾の内側の姫君たち。1.1.2
注釈12ものとはなしにとか『源氏釈』は「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(古今集羈旅、四一五、紀貫之)を指摘。1.1.2
注釈13心細き筋にひきかけけむ「筋」「ひきかけ」は「糸」の縁語。1.1.2
出典1 かくても経ぬる 身を憂しと思ふに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ 古今集恋五-八〇六 読人しらず 1.1.2
出典2 わが涙をば玉にぬかなむ 縒り合はせて泣くなる声を糸にして我が涙をば玉にぬかなむ 伊勢集-四八三 1.1.2
出典3 ものとはなしに 糸に縒るものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな 古今集羇旅-四一五 紀貫之 1.1.2
1.2
第二段 薫、大君に恋心を訴える


1-2  Kaoru appeals to Ohoi-kimi on his love

1.2.1   御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、 客人
 御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどをお書き出しなさる筆のついでに、客人が、
 御仏みほとけへの願文を文章博士もんじょうはかせに作らせる下書きをしたすずりのついでに、薫は、

  Ohom-gwanmon tukuri, kyau Hotoke kuyau-ze raru beki kokoro-bahe nado kaki-ide tamahe ru suzuri no tuide ni, marauto,
1.2.2  「 あげまきに長き契りを結びこめ
 「総角に末長い契りを結びこめて
 「あげまきに長き契りを結びこめ
    "Agemaki ni nagaki tigiri wo musubi-kome
1.2.3   同じ所に縒りも会はなむ
  一緒になって会いたいものです
  同じところにりも合はなん」
    onazi tokoro ni yori mo aha nam
1.2.4  と書きて、見せたてまつりたまへれば、 例の、とうるさけれど
 と書いて、お見せ申し上げなさると、いつもの、と煩わしいが、
 と書いて大姫君に見せた。またとうるさく女王は思いながらも、
  to kaki te, mise tatematuri tamahe re ba, rei no, to urusakere do,
1.2.5  「 ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に
 「貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に
 「きもあへずもろき涙の玉の緒に
    "Nuki mo ahe zu moroki namida no tama-no-wo ni
1.2.6   長き契りをいかが結ばむ
  末長い契りをどうして結ぶことができましょう
  長き契りをいかが結ばん」
    nagaki tigiri wo ikaga musuba m
1.2.7  とあれば、「 あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。
 とあるので、「一緒になれなかったら生きている甲斐もありません」と、恨めしそうに物思いにお耽りになる。
  と返しを書いて出した。「逢はずば何を」(片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずば何を玉の緒にせん)と薫は歎かれるのであるが、
  to are ba, "Aha zu ha nani wo?" to, uramesige ni nagame tamahu.
1.2.8   みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、 宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。
 ご自身のお身の上については、このように何とはなしに話をそらせて相手をなさらないので、すらすらと意中を申し上げることもできず、宮のご執心を真面目に申し上げなさる。
自身のことを正面から言うことはできずに、らす溜息ためいきに代える程度により口へ出しえないのは、姫君のあまりに高貴な気に打たれてしまうことが多いからであった。それで兵部卿ひょうぶきょうの宮と中の君の縁組みのことを熱心なふうに言い出した。
  Midukara no ohom-uhe ha, kaku sokohakatonaku mote-keti te hadukasige naru ni, suga-suga to mo e notamahi-yora de, Miya no ohom-koto wo zo mameyaka ni kikoye tamahu.
1.2.9  「 さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。 まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。
 「それ程までご執心でないことを、このようなことに少し積極的でいらっしゃるご性格で、一度申し出されては後に引かない意地からかと、あれやこれやと、十分にお気持ちをお探り申し上げております。ほんとうに不安なようではありませんので、どうしてこのようにむやみに、お避けになるのでしょう。
「それほど深くお思いになるのでなく好奇心をお働かせになることが多くて、お申し込みになったのを、冷淡にお扱われになるために、負けぬ気を出しておいでになるだけではないかと、私は考えもしまして、いろいろにして御様子を見ていますが、どうも誠心誠意でお始めになった恋愛としか思われません。それをどうしてただ今のようなふうにばかりこちらではお扱いになるのでしょう。
  "Sasimo mi-kokoro ni iru maziki wo, kayau no kata ni sukosi susumi tamahe ru ohom-honzyau ni, kikoye some tamahi kem make-zi-damasihi ni ya to, tozama-kauzama ni, ito yoku nam mi-kesiki mi tatematuru. Makoto ni usirometaku ha arumazige naru wo, nado kaku anagati ni simo, mote-hanare tamahu ram?
1.2.10   世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」
 男女の仲の様子などを、ご存知でないようには拝見しませんのに、いやに、よそよそしくばかりおあしらいなさるので、これほど心から信頼申し上げている気持ちと違って、恨めしい気がします。どのようにお考えになっているのかなどを、はっきりとお聞き致したいものですね」
ものの判断がおできにならぬほどの少女ではおられない聡明そうめいなあなたの御意見をよく伺いたいと私は思っているのですが、いつまでも御相談相手にしてくださいませんのは、私の純粋な信頼をおくみいただけない、恨めしいことだと思っています。可否だけでも言ってくださいませんか」
  Yo no arisama nado, obosi-waku maziku ha mi tatematura nu wo, utate, toho-dohosiku nomi motenasa se tamahe ba, kabakari ura-naku tanomi kikoyuru kokoro ni tagahi te, uramesiku nam. Tomo-kakumo obosi-waku ram sama nado wo, sahayaka ni uketamahari ni si gana."
1.2.11  と、いとまめだちて聞こえたまへば、
 と、たいそう真面目になって申し上げなさるので、
 薫はまじめであった。
  to, ito mamedati te kikoye tamahe ba,
1.2.12  「 違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。 げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、 こののたまふめる筋はいにしへもさらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、 かかるさまにて世づきたる方を思ひ絶ゆべく 思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。さるは、すこし世籠もりたるほどにて、 深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を 、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、 いかなるべき世にかあらむ
 「お気持ちに背くまいとの気持ちなればこそ、こうしてまでおかしな世間の例にもなる状態で、隔てなくお相手しているのでございます。それをお分かりにならなかったことこそ、浅い気持ちがあるような気がします。おっしゃるように、このような住まいなどに、情けの深い人は、ありたけの物思いをし尽くすでしょうが、何事にも後れて育ちましたので、このおっしゃるような方面は、故人も、一向に何一つ、こういう場合にはああいう場合にはなどと、将来のことを予想して、おっしゃっておくこともなかったので、やはり、このような状態で、世間並みの生活を諦めるようお考え置きであった、と思い合わされますので、何ともお答え申し上げようがなくて。一方では、少し生い先長い年頃で、山奥暮らしはお気の毒にお見えになるお身の上を、まことにこのように枯木にはさせたくないものだと、人知れず面倒見ずにはいられなく思っているのですが、どのようになる縁なのでしょうか」
「あなたの御親切に感謝しておりますればこそ、こんなにまで世間に例のございませんほどにもお親しくおつきあい申し上げているのでございます。それがおわかりになりませんのは、あなたのほうに不純な点がおありになるのではないかと疑われます。少女でもないとおっしゃいますが、実際こんな寄るべない身の上になっていましては、ありとあらゆることを普通の人であれば考え尽くしていなければなりませんのに、どんなことにも幼稚で、ことに今のお話のようなことは、宮が生きておいでになりましたころにも、こんな話があればとかそうであればとか将来の問題としてほかの話の中ででもおっしゃらなかったことでしたから、やはり宮様のお心は、私たちはただこのままで、他の方のような結婚の幸福というようなことは念頭に置かずに一生を過ごすようにとお考えになったに違いないとそう思っているものですから、兵部卿の宮様のことにつきましても可否の言葉の出しようがないのでございます。けれど妹は若くて、こうした山陰やまかげに永久に朽ちさせてしまうのがあまりに心苦しゅうございましてね、なにも私と同じ道を取らずともよいはずであるとも考えられまして、ほかのほうのことも空想いたしますが、どんな運命が前途にありますことか」
  "Tagahe zi no kokoro nite koso ha, kau made ayasiki yo no tamesi naru arisama nite, hedate naku motenasi habere. Sore wo obosi-waka zari keru koso ha, asaki koto mo mazari taru kokoti sure. Geni, kakaru sumahi nado ni, kokoro ara m hito ha, omohi-nokosu koto, arumaziki wo, nani-goto ni mo okure some ni keru uti ni, kono notamahu meru sudi ha, inisihe mo, sarani kake te, toara-ba kakara-ba nado, yuku-suwe no aramasi-goto ni tori-maze te, notamahi-oku koto mo nakari sika ba, naho, kakaru sama ni te, yo-duki taru kata wo omohi-tayu beku obosi-oki te keru, to nam omohi-ahase habere ba, tomo-kakumo kikoye m kata naku te. Saruha, sukosi yo-gomori taru hodo nite, miyama-gakure ni ha kokoro-gurusiku miye tamahu hito no ohom-uhe wo, ito kaku kutiki ni ha nasi-hate zu mo gana to, hito-sire-zu atukahasiku oboye habere do, ika naru beki yo ni ka ara m?"
1.2.13  と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。
 と、嘆息して途方に暮れていらっしゃったときの様子、たいそうおいたわしく感じられる。
 と言って、物思わしそうに大姫君の歎息をするのが哀れであった。
  to, uti-nageki te mono-omohi midare tamahi keru hodo no kehahi, ito aharege nari.
注釈14御願文作り主語は薫。願文は漢文で書く。1.2.1
注釈15客人薫。1.2.1
注釈16あげまきに長き契りを結びこめ同じ所に縒りも会はなむ薫から大君への贈歌。「総角」は催馬楽の曲名。その詩句を踏まえる。1.2.2
注釈17例のとうるさけれど『完訳』は「椎本でも薫は匂宮と中君の媒にかこつけ大君に胸中を訴えた。「例の」と繰り返される」と注す。1.2.4
注釈18ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばむ大君の返歌。「契り」「結び」の語句を用いて返す。「もろき涙の玉の緒」に余命短いことをいう。1.2.5
注釈19あはずは何を『源氏釈』は「片糸をこなたかなたによりかけてあはずは何を玉の緒にせむ」(古今集恋一、四八三、読人しらず)を指摘。1.2.7
注釈20みづからの御上は大君ご自身の身の上については。1.2.8
注釈21宮の御ことをぞ匂宮が中君にのご執心であることを。1.2.8
注釈22さしも御心に以下「承りにしがな」まで、薫の詞。1.2.9
注釈23まことにうしろめたくはあるまじげなるを『完訳』は「匂宮は安心できる人。以下、表面的に匂宮を言いながら、内実、自分を拒む大君への不満を哀訴」と注す。1.2.9
注釈24世のありさまなど男女の仲。1.2.10
注釈25違へじの心にてこそは以下「いかなるべき世にかあらむ」まで、大君の詞。1.2.12
注釈26げにかかる住まひなどに心あらむ人は『集成』は「仰せのように、こんな山里の住まいなどをしていますと、物の分る方なら物思いの限りを尽すことでしょうが。「世のありさまなど、おぼしわくまじくは見たてまつらぬを」という薫の言葉を受ける」と注す。1.2.12
注釈27こののたまふめる筋は大君自身の結婚に関する話。1.2.12
注釈28いにしへも故人父宮も、の意。1.2.12
注釈29さらにかけてとあらばかからばなど「さらにかけて」で、一向に何一つ、の意。「とあらばかからば」で、もしこならば、またああであったならば、の意。1.2.12
注釈30かかるさまにていままで通りの状態で。1.2.12
注釈31世づきたる方を結婚生活。1.2.12
注釈32思しおきてけるとなむ主語は父宮。1.2.12
注釈33深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を『完訳』は「前言から転じて、前途が長く山篭りをさせる気の毒な中の君の縁談に腐心」と注す。『異本紫明抄』は「かたちこそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ」(古今集雑上、八七五、兼芸法師)を指摘。1.2.12
注釈34いかなるべき世にかあらむ『集成』は「どのような縁に決りますことやら」。『完訳』は「これから先どうなるのでございましょう」と訳す。1.2.12
出典4 あげまきに 総角(あげまき)や とうとう (ひろ)ばかりや とうとう (さか)りて寝たれども (まろ)び あひけり とうとう か寄りあひけり とうとう 催馬楽-総角 1.2.2
出典5 あはずは何を 片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずは何を玉の緒にせむ 古今集恋一-四八三 読人しらず 1.2.7
出典6 深山隠れに 形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ 古今集雑上-八七五 兼芸法師 1.2.12
1.3
第三段 薫、弁を呼び出して語る


1-3  Kaoru calls and talks with Ben

1.3.1   けざやかにおとなびても、いかでかは賢しがりたまはむと、ことわりにて、例の、 古人召し出でてぞ語らひたまふ
 てきぱきと一人前に振る舞っても、どうして賢くことをお決めになれようかと、もっともに思われて、いつものように、老女を召し出して相談なさる。
中の君の結婚談にもせよはっきりと年長者らしく、若い貴女は縁組みの話の賛否を言い切りうるはずはないのである、と同情した薫は、別の所で例の老女の弁を呼び出して、
  Kezayaka ni otonabi te mo, ikadekaha sakasigari tamaha m to, kotowari nite, rei no, huru-hito mesi-ide te zo katarahi tamahu.
1.3.2  「 年ごろは、ただ後の世ざまの心ばへにて進み参りそめしを、 もの心細げに思しなるめりし御末のころほひこの御事どもを、心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを、思しおきてたてまつりたまひし御ありさまどもには違ひて、御心ばへどもの、いといとあやにくにもの強げなるは、 いかに、思しおきつる方の異なるにやと、疑はしきことさへなむ。
 「今までは、ただ来世の事を願う気持ちで参っておりましたが、何となく心細そうにお思いであったようなご晩年に、この姫君たちのことを、考え通りにお世話申し上げるようにおっしゃり約束したのですが、お考え置き申されたご様子とは違って、お二人の気持ちが、とてもとても困ったことに強情なのは、どのようにお考え置きになっていた人が別であったのかと、疑わしくまで思われます。
「以前は宮様を仏道の導きとしておたずねしていたものですが、お心細くお見えになるようになった御薨去こうきょ前になって、お二方の将来のことを私の計らいに任せるというような仰せがあったのですよ。ところが宮様の御希望あそばしたようになろうとは姫君がたはお思いにならないで、限りなくささげる尊敬と熱情を無視されるのですから、何か別に対象とあそばされる人があるのではないかという疑いとでもいうようなものが私の心に起こってきましたよ。   "Tosi-goro ha, tada noti-no-yo-zama no kokoro-bahe ni te susumi mawiri some si wo, mono-kokoro-bosoge ni obosi naru meri si ohom-suwe no korohohi, ko no ohom-koto-domo wo, kokoro ni makase te motenasi kikoyu beku nam notamahi tigiri te si wo, obosi-oki te tatematuri tamahi si ohom-arisama-domo ni ha tagahi te, mi-kokorobahe-domo no, ito ito ayaniku ni mono-tuyoge naru ha, ikani, obosi-oki turu kata no koto naru ni ya to, utagahasiki koto sahe nam.
1.3.3  おのづから聞き伝へたまふやうもあらむ。 いとあやしき本性にて、世の中に心をしむる方なかりつるを、さるべきにてや、かうまでも聞こえ馴れにけむ。世人もやうやう言ひなすやうあべかめるに、同じくは 昔の御ことも違へきこえず我も人も世の常に心とけて聞こえはべらばや、と思ひよるは、つきなかるべきことにても、 さやうなる例なくやはある」
 自然とお聞き及びになっていることもありましょう。とても妙な性質で、世の中に執着することはなかったが、前世からの因縁でしょうか、こんなにまでお親しみ申したのでしょう。世間の人もだんだんと噂するらしくもあるから、同じことなら故人のご遺言にお背き申さず、わたしも姫君も、世間の普通の男女のように心をお交わし申したい、と思い寄りましたのは、不似合いなことであっても、そのような例もないわけではありません」
あなたは世間で言っていることも聞いておいでになるでしょう、変わった性情から私は人間並みに結婚をしようというような考えは全然捨てていたものでした。それが宿命というものなのでしょうか、こちらの姫君に心をおかれすることになって、今ではもう世間のうわさにも上っているだろうと思われるまでになっているのですから、できることなら宮様の御遺志にもかなう結果を生じさせたいと私の思うのは、勝手なことかはしれませんが、だれからも批難をされないでいいことかと思う。例のあることだしね」
  Onodukara kiki-tutahe tamahu yau mo ara m. Ito ayasiki honzyau nite, yononaka ni kokoro wo simuru kata nakari turu wo, saru-beki nite ya, kau made mo kikoye nare ni kem. Yo-hito mo yau-yau ihi-nasu yau a' beka' meru ni, onaziku ha mukasi no ohom-koto mo tagahe kikoye zu, ware mo hito mo yo no tune ni kokoro toke te kikoye habera baya, to omohi-yoru ha, tuki nakaru beki koto nite mo, sayau naru tamesi naku yaha aru."
1.3.4  などのたまひ続けて、
 などとおっしゃり続けて、
 と薫は話し続け、また、
  nado notamahi tuduke te,
1.3.5  「 宮の御ことをも、かく聞こゆるに、うしろめたくはあらじと、うちとけたまふさまならぬは、うちうちに、さりとも 思ほし向けたることのさまあらむ。なほ、いかに、いかに」
 「宮のお身の上を、このように申し上げるのに、不安でないと、気をお許しにならないご様子なのは、内々で、やはり他にお考えの人がいるのでしょうか。さあ、どうなのですか、どうなのですか」
「兵部卿の宮様のことも、私がお勧めしている以上は安心して御承諾くだすっていいものを、そうでないのはお二方の女王様にそれぞれ別なお望みがあるのではないのですか。あなたからでもよく聞きたいものですよ。ねえ、どんなお望みがあるのだろう」
  "Miya no ohom-koto wo mo, kaku kikoyuru ni, usirometaku ha ara zi to, uti-toke tamahu sama nara nu ha, uti-uti ni, saritomo omohosi muke taru koto no sama ara m. Naho, ikani, ikani?"
1.3.6  とうち眺めつつのたまへば、 例の、悪ろびたる女ばらなどは、かかることには、憎きさかしらも言ひまぜて、 言よがりなどもすめるを、いとさはあらず、心のうちには、「あらまほしかるべき御ことどもを」と思へど、
 と嘆きながらおっしゃるので、いつもの、良くない女房連中などは、このようなことには、憎らしいおせっかいを言って、調子を合わせたりなどするようであるが、まったくそうではなく、心の中では、「理想的なお二人方の縁談だわ」と思うが、
 とも、物思わしそうにして言うのであった。こんな時によくない女房であれば、姫君がたを批難したり、自身の立場を有利にしようとしたり試みるものであるが、弁はそんな女ではなかった。心の中では二人の女王の上にこの縁がそれぞれ成立すればどんなにいいであろうとは思っているのであるが、
  to uti-nagame tutu notamahe ba, rei no, warobi taru womna-bara nado ha, kakaru koto ni ha, nikuki sakasira mo ihi-maze te, koto-yogari nado mo su meru wo, ito saha ara zu, kokoro no uti ni ha, "Aramahosikaru beki ohom-koto-domo wo." to omohe do,
注釈35けざやかにおとなびてもいかでかは賢しがりたまはむ薫の心中の思い。大君がどんなにてきぱきと大人ぶって妹の縁談を進めようとしても、どうしてそれができようか。反語表現。1.3.1
注釈36古人召し出でてぞ語らひたまふ『完訳』は「大君相手では埒があかず、弁に打ち明けて加勢を頼む」と注す。1.3.1
注釈37年ごろはただ以下「例なくやはある」まで、薫の詞。1.3.2
注釈38もの心細げに思しなるめりし御末のころほひ八宮の晩年の様子についていう。1.3.2
注釈39この御事どもを心にまかせてもてなしきこゆべくなむのたまひ契りてしを『集成』は「この際自分の側に引きつけた言い方」。『完訳』は「八の宮の晩年に、姫君二人の将来を依託されたこと(橋姫・椎本)。「心にまかせてもてな」すようにとは、薫の勝手な解釈による」と注す。1.3.2
注釈40いかに思しおきつる方の異なるにやと『完訳』は「八の宮には、私(薫)以外に意中の人物があったのか、の意」と注す。1.3.2
注釈41いとあやしき本性にて薫自身についていう。今まで女人に心引かれることはなかったことをいう。1.3.3
注釈42昔の御ことも違へきこえず故八宮の遺言に違わず、の意。1.3.3
注釈43我も人も「人」は大君をさす。1.3.3
注釈44さやうなる例なく『完訳』は「落葉の宮と柏木などもその例」と注す。1.3.3
注釈45宮の御ことをも以下「なほいかにいかに」まで、薫の詞。「宮」は匂宮。匂宮と中君の縁談。1.3.5
注釈46思ほし向けたることのさまあらむ『集成』は「内々にやはり別のお考えの相手がいるに違いない」。『完訳』は「内々に別のお心づもりでもおありなのでしょうか」と訳す。1.3.5
注釈47例の悪ろびたる女ばらなどは『首書或抄』は「草子地より弁かことをいはんとて世間の女房とものことをいふ也」と指摘。1.3.6
注釈48言よがりなどもすめるを推量の助動詞「めり」は語り手の推量。1.3.6
1.4
第四段 薫、弁を呼び出して語る(続き)


1-4  Kaoru calls and talks with Ben (2)

1.4.1  「 もとより、かく 人に違ひたまへる御癖どもにはべればにや、いかにもいかにも、世の常に何やかやなど、 思ひよりたまへる御けしきになむはべらぬ。
 「もともと、このように人と違っていらっしゃるお二方のご性格のせいでしょうか、どうしてもどうしても、世間の普通の人のように、何やかやと世間並みの結婚を、お考えになっていらっしゃるご様子でございません。
「初めからそんなふうに少し変わった御性格なのでございますからね。どうして、どうしてほかの方を対象にお考えなどなさるものでございますか。   "Motoyori, kaku hito ni tagahi tamahe ru ohom-kuse-domo ni habere ba ni ya, ikanimo-ikanimo, yo-no-tune ni naniya-kaya nado, omohi-yori tamahe ru mi-kesiki ni nam habera nu.
1.4.2  かくて、さぶらふこれかれも、年ごろだに、何の 頼もしげある木の本の隠ろへも はべらざりき。身を捨てがたく思ふ限りは、ほどほどにつけてまかで散り、 昔の古き筋なる人も、多く見たてまつり捨てたるあたりに、 まして今は、しばしも立ちとまりがたげにわびはべりて、 おはしましし世にこそ限りありてかたほならむ御ありさまは、いとほしくもなど、古代なる御うるはしさに、思しもとどこほりつれ。
 こうして、仕えております誰彼も、今まででさえ、何の頼りになる庇護もございませんでした。身を捨てがたく思う者たちだけは、身分身分に応じて暇をもらって離れ去り、昔からの古い縁故の人も、多くはお見限り申した邸に、まして今では、立ち止まりがたそうに困り合っておりまして、ご在世中にこそ、格式もあって、不釣合なご結婚は、お気の毒だわなどと、昔気質の律儀さから、おためらいになっていました。
女房なども宮様のおいでになりました当時と申しても何の頼もしいところのある親王家ではなかったのですから、わが身を犠牲にしますのを喜びません人たちは、それぞれに相当な行く先を作ってお暇をとってまいるのでございましてね。昔のいろいろな関係で切るにも切られぬ主従の御縁のある人でも、こんなにだれもが出て行ってしまいますのを見ておりましては、しばらくでも残っているのがいやでならぬふうを見せましてね、そしてまたその人たちは姫君がたに、『宮様の御在世中はお相手によって尊貴なお家を傷つけるかと御遠慮もあそばしたでしょうが、   Kakute, saburahu kore-kare mo, tosi-goro dani, nani no tanomosige aru ko no moto no kakurohe mo habera zari ki. Mi wo sute-gataku omohu kagiri ha, hodo-hodo ni tuke te makade tiri, mukasi no huruki sudi naru hito mo, ohoku mi tatematuri sute taru atari ni, masite ima ha, sibasi mo tati-tomari gatage ni wabi haberi te, ohasimasi si yo ni koso, kagiri ari te, kataho nara m ohom-arisama ha, itohosiku mo nado, kotai naru ohom-uruhasisa ni, obosi mo todokohori ture.
1.4.3  今は、かう、また頼みなき御身どもにて、 いかにもいかにも、世になびきたまへらむを、あながちにそしりきこえむ人は、かへりてものの心をも知らず、言ふかひなきことにて こそはあらめ。いかなる人か、いとかくて世をば過ぐし果てたまふべき。
 今では、このように、他に頼りのいないお身の上の方たちで、どのようにもどのようにも、成り行き次第に身を任せなさるのを、むやみに悪口を申し上げるような人は、かえって物の道理を知らず、言いようもないことでしょう。どのような人が、まことにこうして一生をお送りなさることができましょうか。
お心細いお二人きりにおなりになったのですもの、どんな結婚でもなすったらいいはずです、それをとやかくと言う人はもののわからぬ人間だとかえって軽蔑あそばしたらいいのです、どうしてこんなふうにばかりしておいでになることができますか、   Ima ha, kau, mata tanomi naki ohom-mi-domo nite, ikanimo-ikanimo, yo ni nabiki tamahe ra m wo, anagati ni sosiri kikoye m hito ha, kaheri te mono no kokoro wo mo sira zu, ihukahinaki koto nite koso ha ara me. Ika naru hito ka, ito kaku te yo wo ba sugusi hate tamahu beki.
1.4.4   松の葉をすきて勤むる山伏だに、生ける身の捨てがたさによりてこそ、仏の御教へをも、道々別れては行ひなすなれ、などやうの、 よからぬことを聞こえ知らせ、若き御心ども乱れたまひぬべきこと多くはべるめれど、 たわむべくもものしたまはず中の宮をなむ、いかで人めかしくも扱ひなしたてまつらむ、と思ひきこえたまふべかめる。
 松の葉を食べて修業する山伏でさえ、生きている身の捨て難いことによって、仏のお教えも、それぞれの流派をつくって行っている、などというような、よくないことをご忠告申し上げ、若いお二方のお気持ちがお迷いになることが多くございますようですが、志操を曲げようともなさらず、中の宮を、何とか一人前にして差し上げたい、とお思い申し上げていらっしゃるようでございます。
松の葉を食べて行をするという坊様たちでさえ、生きんがために都合のよい一派一派を開いていくものでございますから』などと、こんないやなことを申しましてね、若い姫君がたのお心を苦しめまして利己的に媒介者になろうといたしますが、女王様はそんな浮薄な言葉にお動きになるような方がたではございません。お妹様だけには人並みな幸福を得させたいとお考えになっているようでございます。   Matu no ha wo suki te tutomuru yamabusi dani, ike ru mi no sute gatasa ni yori te koso, Hotoke no ohom-wosihe wo mo, miti-miti wakare te ha okonahi nasu nare, nado yau no, yokara nu koto wo kikoye sirase, wakaki mi-kokoro-domo midare tamahi nu beki koto ohoku haberu mere do, tawamu beku mo monosi tamaha zu, Naka-no-Miya wo nam, ikade hito-mekasiku mo atukahi-nasi tatematura m, to omohi kikoye tamahu beka' meru.
1.4.5  かく 山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも疎からず思ひきこえさせたまひ、今はとざまかうざまに、こまかなる筋聞こえ通ひたまふめるに、 かの御方を、さやうにおもむけて聞こえたまはばとなむ思すべかめる
 このように山奥にお訪ね申し上げなさるようなお志の、幾年もお世話していただくご行為に対しても、親しくお思い申し上げなさって、今ではあれやこれやと、こまごまとした方面のこともご相談申し上げていらっしゃるようで、あの御方を、おっしゃるようお望み申してくださるならば、とお思いのようです。
こうしたみちのたいへんな所へ御訪問をお欠かしあそばさないあなた様の御好意は長い年月の間によくおわかりになっていらっしゃることでもございますし、ただ今になりましてはことさらあなた様のあたたかい御庇護ひごのもとにいらっしゃるわけでございますからね。大姫君は中の君様をお望みになればとそうねがっていらっしゃるらしゅうございます。   Kaku yama hukaku tadune kikoye sase tamahu meru mi-kokorozasi no, tosi he te mi tatematuri nare tamahe ru kehahi mo, utokara zu omohi kikoye sase tamahi, ima ha tozama-kauzama ni, komaka naru sudi kikoye kayohi tamahu meru ni, kano Ohom-kata wo, sayau ni omomuke te kikoye tamaha ba, to nam obosu beka' meru.
1.4.6   宮の御文などはべるめるは、さらにまめまめしき御ことならじ、とはべるめる」
 宮のお手紙などがございますようなのは、全然真剣な気持ちからではあるまい、とお考えのようです」
兵部卿の宮様からお手紙は始終おいただきになるのですが、それは誠意のある求婚者だとも認めておられないようでございます」
  Miya no ohom-humi nado haberu meru ha, sarani mame-mamesiki ohom-koto nara zi, to haberu meru."
1.4.7  と聞こゆれば、
 と申し上げると、
 弁は姫君の意志を伝えようとしただけである。
  to kikoyure ba,
1.4.8  「 あはれなる御一言を聞きおき、露の世にかかづらはむ限りは、聞こえ通はむの心あれば、 いづ方にも見えたてまつらむ、同じことなるべきをさまではた、思しよるなる、いとうれしきことなれど、 心の引く方なむ、かばかり思ひ捨つる世に、 なほとまりぬべきものなりければ改めてさはえ思ひなほすまじくなむ。世の常になよびかなる筋にもあらずや。
 「おいたわしいご遺言を聞きおき、露の世に生きている限りは、お付き合いを願いたいとの気持ちなので、どちらの方とご一緒になっても、同じことになるでしょうが、そのようにまで、お考えになっているというのは、まことに嬉しいことですが、心の惹かれる方は、これほど捨て切った世なのですが、やはり執着してしまうものなので、今さらそのようには考え改められません。世間並みのあだっぽい恋ではないのですよ。
「宮様の御遺言を身にんで承った私は、生きているかぎりこちらのお世話を申し上げる義務があると思うのですから、両女王のどなたでもお許しくだされば結婚してもいいわけですが、同じことのようで、しかも姫君が中姫君のために私をえらんでくださいましたことはうれしいことですが、ともかくも私が捨てたい世にただ一つ深く心の惹かれる感じを味わい、また死後までもこの思いは残ろうと思った方から、ほかの方へ愛を移すことはできるものでありませんよ。改めて心をそう持とうとしても無理なことです。私の望むところは世間並みの恋の成立ではありません。   "Ahare naru ohom-hito-koto wo kiki-oki, tuyu no yo ni kakaduraha m kagiri ha, kikoye kayoha m no kokoro are ba, idu-kata ni mo miye tatematura m, onazi koto naru beki wo, sa made hata, obosi-yoru naru, ito uresiki koto nare do, kokoro no hiku kata nam, kabakari omohi suturu yo ni, naho tomari nu beki mono nari kere ba, aratame te saha e omohi nahosu maziku nam. Yo-no-tune ni nayobika naru sudi ni mo ara zu ya.
1.4.9  ただかやうにもの隔てて、こと残いたるさまならず、さし向ひて、とにかくに定めなき世の物語を、隔てなく聞こえて、つつみたまふ御心の隈残らず もてなしたまはむなむ、兄弟などのさやうに睦ましきほどなるもなくて、 いとさうざうしくなむ、世の中の思ふことの、あはれにも、をかしくも、愁はしくも、時につけたるありさまを、心に籠めてのみ過ぐる身なれば、さすがにたつきなくおぼゆるに、 疎かるまじく頼みきこゆる
 ただこのような物を隔てて、言い残した状態でなく、差し向かいで、とにもかくにも無常の世の話を、隔て心なく申し上げて、お隠しになるお心の中をすっかり打ち明けてお相手してくださるなら、兄弟などのように親しい人もなくて、とても淋しいので、世の中の思うことの、しみじみとしたこと、おもしろいこと、悲しいことも、その時々の思いを、胸一つに収めて過ごしてきた身の上なので、何と言っても頼りなく思われるので、親しくお頼み申し上げるのです。
ただ今のようなふうに何かを隔てたままでも、何事に限らず話し合う相手にいつまでもなっていていただきたいだけです。私には姉妹きょうだいなどでそうした間柄になりうるような人もなくて寂しいのですよ。人生の身にしむ点も、おもしろいことも、困ることも、その時その時ただ一人で感じているだけであるのが物足りないのです。   Tada kayau ni mono hedate te, koto nokoi taru sama nara zu, sasi-mukahi te, toni-kakuni sadame naki yo no monogatari wo, hedate naku kikoye te, tutumi tamahu mi-kokoro no kuma nokora zu motenasi tamaha m nam, harakara nado no sayau ni mutumasiki hodo naru mo naku te, ito sau-zausiku nam, yononaka no omohu koto no, ahare ni mo, wokasiku mo, urehasiku mo, toki ni tuke taru arisama wo, kokoro ni kome te nomi suguru mi nare ba, sasuga ni tatuki naku oboyuru ni, utokaru maziku tanomi kikoyuru.
1.4.10   后の宮は、なれなれしく、さやうにそこはかとなき思ひのままなるくだくだしさを、聞こえ触るべきにもあらず。 三条の宮は、親と思ひきこゆべきにもあらぬ御若々しさなれど、 限りあれば、たやすく馴れきこえさせずかし。 その他の女は、すべていと疎くつつましく、恐ろしくおぼえて、心からよるべなく心細きなり。
 后の宮は、親しく、そのように何ということなく思いのままのこまごまとしたことを、申し上げられる方ではありません。三条の宮は、母親と申し上げるほどでもないお若々しさですが、分限がありますので、気安くお親しみ申し上げることはできません。その他の女性は、すべてたいそう疎々しく、気が引けて恐ろしく思われて、自ら求めて結婚相手もなく心細いのです。
中宮ちゅうぐうはあまりに御身分が高過ぎて、なれなれしく私の思うとおりのことを何から何まで申し上げられないし、三条の宮様は母とも思われぬ若々しいお気持ちの方ではありましても、子は子の分があって、どんな話も申し上げるというわけにはゆきません。そのほかの女性というものはすべて皆私には遠い遠い所にいるとしか考えられませんで、私にいつも孤独の感を覚えています。心細いのですよ。   Kisai-no-Miya ha, nare-naresiku, sayau ni sokohakatonaki omohi no mama naru kuda-kudasisa wo, kikoye huru beki ni mo ara zu. Samdeu-no-Miya ha, oya to omohi kikoyu beki ni mo ara nu waka-wakasisa nare do, kagiri are ba, tayasuku nare kikoye sase zu kasi. Sono hoka no womna ha, subete ito utomasiku tutumasiku, osorosiku oboye te, kokoro kara yorube naku kokoro-bosoki nari.
1.4.11  なほざりのすさびにても、 懸想だちたることは、いとまばゆくありつかず、はしたなきこちごちしさにてまいて 心にしめたる方のことは、うち出づる ことは難くて、怨めしくもいぶせくも思ひきこゆるけしきをだに 見えたてまつらぬこそ、我ながら限りなくかたくなしきわざなれ。 宮の御ことをも、さりとも悪しざまには聞こえじと、 まかせてやは見たまはぬ
 いい加減な好き心からも、懸想めいたことは、とても気恥ずかしくて性に合わず、体裁悪い不器用さで、まして心に思い詰めている方のことは、口に出すのも難しくて、恨めしくも鬱陶しくもお思い申し上げる様子をさえ見ていただけないのは、自分ながらこの上なく愚かしいことだ。宮のお事をも、悪くお計らい申し上げまいと、お任せ下さいませんか」
その場かぎりの戯れ事でも恋愛に関したことはまぶしい気がして、人から見れば見苦しい頑固がんこな男になっているのです。まして深く恋しく思う方にはそれをお話しすることも困難なことに思われます。恨めしく思ったり、悲しんだりしている恋のもだえもお知らせすることができなくて、われながら変わった生まれつきが憎まれます。兵部卿ひょうぶきょうの宮のことも私がお受け合いする以上は不安もなかろうと思って任せてくだすってよさそうなものですがね」
  Nahozari no susabi nite mo, kesau-dati taru koto ha, ito mabayuku ari tuka zu, hasitanaki koti-gotisisa nite, maite kokoro ni sime taru kata no koto ha, uti-iduru koto ha kataku te, uramesiku mo ibuseku mo omohi kikoyuru kesiki wo dani miye tatematura nu koso, ware nagara kagirinaku katakunasiki waza nare. Miya no ohom-koto wo mo, saritomo asi-zama ni ha kikoye zi to, makase te yaha mi tamaha nu."
1.4.12  など言ひゐたまへり。老い人、はた、 かばかり心細きにあらまほしげなる御ありさまを、いと切に、 さもあらせたてまつらばやと思へど、いづ方も恥づかしげなる御ありさまどもなれば、思ひのままにはえ聞こえず。
 などとおっしゃっていた。老女は、老女で、これほど心細いので、理想的なご様子を、とても切に、そうして差し上げたいと思うが、どちらも気恥ずかしいご様子の方々なので、思いのままには申し上げられない。
 こんなことをかおるは言っていた。老いた弁もまたこの心細い身の上の姫君たちに上もない二つの縁が成立するようにとは切に願うところであったが、二女王にょおうともに天性の気品の高さに、自身の思うことのすべてが言われなかった。
  nado ihi wi tamahe ri. Oyi-bito, hata, kabakari kokoro-bosoki ni, aramahosige naru ohom-arisama wo, ito seti ni, sa mo ara se tatematura baya to omohe do, idu-kata mo hadukasige naru ohom-arisama-domo nare ba, omohi no mama ni ha e kikoye zu.
注釈49もとよりかく以下「御ことならじとはべるめる」まで、弁の詞。1.4.1
注釈50人に違ひたまへる御癖どもに姫君たちの性質をさしていう。1.4.1
注釈51思ひよりたまへる御けしきに結婚について。1.4.1
注釈52頼もしげある木の本の隠ろへも『河海抄』は「侘び人のわきて立ち寄る木のもとは頼む蔭なく紅葉散りけり」(古今集秋下、二九二、僧正遍昭)を指摘。1.4.2
注釈53昔の古き筋なる人も『集成』は「昔からの古いご縁故の人々も。宮家に代々奉公してきたゆかりの者たち」と注す。1.4.2
注釈54まして今は八宮亡き現在。1.4.2
注釈55おはしましし世にこそ以下「行ひなすなれ」まで、よからぬ女房の意見。係助詞「こそ」は「とどこほりつれ」に係る。係結び、逆接用法。1.4.2
注釈56限りありて宮家としての格式があって。1.4.2
注釈57かたほならむ御ありさまは不釣合なご縁組は、の意。1.4.2
注釈58いかにもいかにも世になびきたまへらむを『完訳』は「このままでは暮しがたい意」と注す。1.4.3
注釈59こそはあらめ係結び、逆接用法。1.4.3
注釈60松の葉をすきて勤むる山伏だに生ける身の捨てがたさによりてこそ「すく」は飲み込むこと。松の葉を食べて修行をする山伏でさえ生身の体は捨てがたいので、の意。1.4.4
注釈61よからぬことを聞こえ知らせ『完訳』は「宮家の品格を損うような意見」と注す。1.4.4
注釈62たわむべくもものしたまはず主語は大君。1.4.4
注釈63中の宮をなむ係助詞「なむ」は「たまふべかめる」に係る。1.4.4
注釈64山深く訪ねきこえさせたまふめる御心ざしの薫の宇治訪問についていう。格助詞「の」は同格の意。1.4.5
注釈65年経て見たてまつり馴れたまへるけはひも薫が大君を。1.4.5
注釈66疎からず思ひきこえさせたまひ主語は大君。1.4.5
注釈67かの御方をさやうにおもむけて聞こえたまはば『完訳』は「中の君を薫と結婚させたいと、大君は望んでいるとする。大君自身、自らは独身と決め、中の君を「深山隠れ」の「朽木」にはしたくないと、薫にも語った」と注す。1.4.5
注釈68となむ思すべかめる弁が大君の考えを推測したもの。1.4.5
注釈69宮の御文などはべるめるは匂宮からの手紙。1.4.6
注釈70あはれなる御一言を以下「まかせてやは見たまはぬ」まで、薫の詞。八宮の遺言をさす。1.4.8
注釈71いづ方にも見えたてまつらむ同じことなるべきを大君と中君のどちらと結婚しても同じ。1.4.8
注釈72さまではた思しよるなる大君が私薫を中君の結婚相手にと考えているということ。「なる」伝聞推定の助動詞。1.4.8
注釈73心の引く方なむ大君をさす。係助詞「なむ」は結びの流れ。1.4.8
注釈74なほとまりぬべきものなりければ大君に執着を覚える意。1.4.8
注釈75改めてさはえ思ひなほすまじくなむ改めて中君に思い直すことはできない、の意。1.4.8
注釈76もてなしたまはむなむ仮定の気持ち。係助詞「なむ」は「疎かるまじく頼みきこゆる」に係る。1.4.9
注釈77いとさうざうしくなむ係助詞「なむ」は「疎かるまじく頼みきこゆる」に係る。1.4.9
注釈78疎かるまじく頼みきこゆる大君に親しくしていただきたいと期待申し上げている、意。1.4.9
注釈79后の宮は明石中宮。表向き薫の異母姉。1.4.10
注釈80三条の宮は親と思ひきこゆべきにもあらぬ薫の母女三の宮。前年に三条宮邸は焼失して現在は六条院に住んでいるが、本来の呼称でよぶ。1.4.10
注釈81限りあれば『集成』は「親子の分がありますので」。『完訳』は「皇女で、出家の身という制約」と注す。1.4.10
注釈82その他の女はすべていと疎くつつましく恐ろしく姉や母以外の女性はすべて馴染めず気後れして恐ろしい、という薫の女性観。1.4.10
注釈83懸想だちたることはいとまばゆくありつかずはしたなきこちごちしさにて薫は、仮初の色恋めいたことでも気恥ずかしく性に合わず体裁の悪い不器用さだ、という。1.4.11
注釈84心にしめたる方のことは大君のことをさす。1.4.11
注釈85見えたてまつらぬこそ『集成』は「〔大君に〕見て頂けないのは」と訳す。1.4.11
注釈86宮の御ことをも匂宮と中君の縁談。1.4.11
注釈87まかせてやは見たまはぬ私薫に任せてくださいませんか、の意。1.4.11
注釈88かばかり心細きに八宮死後の心細さ。1.4.12
注釈89あらまほしげなる御ありさまを大君には理想的な薫の有様、と弁は思う。1.4.12
注釈90さもあらせたてまつらばやと大君と薫を結婚させたい。1.4.12
出典7 頼もしげある木の本 わび人のわきて立ち寄る木のもとは頼む蔭なく紅葉散りけり 古今集秋下-二九二 僧正遍昭 1.4.2
校訂1 まいて まいて--まいり(り/$)て 1.4.11
校訂2 ことは ことは--ことも(も/#は) 1.4.11
1.5
第五段 薫、大君の寝所に迫る


1-5  Kaoru slips into Ohoi-kimi's bedroom

1.5.1  今宵は泊りたまひて、 物語などのどやかに聞こえまほしくてやすらひ暮らしたまひつ。あざやかならず、もの怨みがちなる御けしき、やうやうわりなくなりゆけば、 わづらはしくて、うちとけて聞こえたまはむことも、いよいよ苦しけれど、 おほかたにてはありがたくあはれなる人の御心なれば、こよなくももてなしがたくて、対面したまふ。
 今夜はお泊まりになって、お話などをのんびりと申し上げたくて、ぐずぐずして日をお暮らしになった。はっきりとではないが、何か恨みがましいご様子、だんだんと無性に昂じて行くので、厄介になって、気を許してお話し申し上げることも、ますますつらいけれど、全体的にはめったにいない親切なご性格の方なので、ひどくすげないお扱いもできなくて、面会なさる。
 薫は今夜を泊まることにして姫君とのどかに話がしたいと思う心から、その日を何するとなく山川をながめ暮らした。この人の態度が不鮮明になり、何かにつけてうらみがましくものを言う近ごろの様子に、煩わしさを覚え出した姫君は、親しく語り合うことがいよいよ苦しいのであったが、その他の点では世にもまれな誠意をこの一家のために見せる薫であったから、冷ややかには扱いかねて、その夜も話の相手をする承諾はしたのであった。
  Koyohi ha tomari tamahi te, monogatari nado nodoyaka ni kikoye mahosiku te, yasurahi kurasi tamahi tu. Azayaka nara zu, mono-urami-gati naru mi-kesiki, yau-yau warinaku nari-yuke ba, wadurahasiku te, utitoke te kikoye tamaha m koto mo, iyo-iyo kurusikere do, ohokata nite ha arigataku ahare naru hito no mi-kokoro nare ba, koyonaku mo motenasi gataku te, taimen si tamahu.
1.5.2   仏のおはする中の戸を開けて、御燈明の火けざやかにかかげさせて、 簾に屏風を添へてぞおはする。 外にも大殿油参らすれど、「 悩ましうて無礼なるを。あらはに」など諌めて、かたはら臥したまへり。御くだものなど、わざとはなくしなして参らせたまへり。
 仏のいらっしゃる間の中の戸を開けて、御燈明の光を明るく照らさせて、簾に屏風を添えておいでになる。外の間にも大殿油を差し上げるが、「疲れて無作法なので。丸見えでは」などと制止して、横に臥せっていらっしゃった。果物などを、特別なふうにではなく整えて差し上げさせなさった。
 仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには御簾みす屏風びょうぶを添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、
「少し疲れていて失礼な恰好かっこうをしていますから」
 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐ゆうげに代えて供えられてあった。
  Hotoke no ohasuru naka-no-to wo ake te, mi-akasi no hi kezayaka ni kakage sase te, sudare ni byaubu wo sohe te zo ohasuru. To ni mo oho-tonabura mawirasure do, "Nayamasiu te murai naru wo. Ahare ni." nado isame te, katahara husi tamahe ri. Ohom-kudamono nado, wazato ha naku si nasi te mawira se tamahe ri.
1.5.3  御供の 人びとにもゆゑゆゑしき肴などして出ださせたまへり。廊めいたる方に集まりて、 この御前は人げ遠くもてなして、しめじめと物語聞こえたまふ。うちとくべくもあらぬものから、なつかしげに愛敬づきて、もののたまへるさまの、なのめならず心に入りて、 思ひ焦らるるもはかなし
 お供の人びとにも、風流なお肴などをお出させなさった。廊のような所に集まって、こちらの御前は人の気配を遠ざけて、しみじみとお話申し上げなさる。気をお許しになるはずもないものの、優しそうに愛嬌がおありで、物をおっしゃる様子が、一方ならず心に染みいって、胸が切なくなるのもたわいない。
従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋へやにその人たちは集められていて、こちらを静かにさせておき、客は女王と話をかわしていた。打ち解けた様子はないながらになつかしく愛嬌あいきょうの添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫はみずから感じていた。   Ohom-tomo no hito-bito ni mo, yuwe-yuwesiki sakana nado si te idasa se tamahe ri. Rau mei taru kata ni atumari te, kono o-mahe ha hito-ge tohoku motenasi te, sime-zime to monogatari kikoye tamahu. Utitoku beku mo ara nu monokara, natukasige ni aigyau-duki te, mono notamahe ru sama no, nanome nara zu kokoro ni iri te, omohi-ira ruru mo hakanasi.
1.5.4  「 かくほどもなきものの隔てばかりを障り所にて、おぼつかなく思ひつつ過ぐす心おそさの、あまりをこがましくもあるかな」と思ひ続けらるれど、つれなくて、おほかたの世の中のことども、あはれにもをかしくも、さまざま聞き所多く語らひきこえたまふ。
 「このように何でもない隔て物だけを障害にして、もどかしく思っては過ごしてきた不器用さが、あまりにも馬鹿らしいな」と思い続けられるが、さりげなく平静を装って、世間一般の事柄を、しみじみと興味を惹くように、いろいろとおもしろくたくさんお話し申し上げなさる。
この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言であった。   "Kaku hodo mo naki mono no hedate bakari wo sahari-dokoro nite, obotukanaku omohi tutu sugusu kokoro ososa no, amari wokogamasiku mo aru kana!" to omohi-tuduke rarure do, turenaku te, ohokata no yononaka no koto-domo, ahare ni mo wokasiku mo, sama-zama kiki-dokoro ohoku katarahi kikoye tamahu.
1.5.5   内には、「人びと、近く」などのたまひおきつれど、「 さしも、もて離れたまはざらなむ」と思ふべかめれば、いとしも護りきこえず、 さし退つつ、みな寄り臥して、仏の御燈火もかかぐる人もなし。ものむつかしくて、忍びて人召せど、おどろかず。
 内側では、「女房たち、近くに」などとおっしゃっておいたが、「そんなにも、よそよそしくなさらないで欲しい」と思っているようなので、たいしてお守り申さず、尻ごみ尻ごみしながら、皆寄り臥して、仏の御燈明を明るくする人もいない。何となく気づまりで、こっそりと人をお呼びになるが、目を覚まさない。
女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、御仏みほとけもかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも出て来る様子がない。
  Uti ni ha, "Hito-bito, tikaku." nado notamahi-oki ture do, "Sasimo, mote-hanare tamaha zara nam." to omohu beka' mere ba, ito simo mamori kikoye zu, sasi-sizoki tutu, mina yori-husi te, Hotoke no ohom-tomosibi mo kakaguru hito mo nasi. Mono-mutukasiku te, sinobi te hito mese do, odoroka zu.
1.5.6  「 心地のかき乱り、悩ましくはべるを、ためらひて、暁方にもまた聞こえむ」
 「気分が悪く、苦しうございますので、少し休んで、明け方に再びお話し申し上げましょう」
「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」
  "Kokoti no kaki-midari, nayamasiku haberu wo, tamerahi te, akatuki-gata ni mo mata kikoye m."
1.5.7  とて、入りたまひなむとするけしきなり。
 と言って、お入りになろうとする様子である。
 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。
  tote, iri tamahi na m to suru kesiki nari.
1.5.8  「 山路分けはべりつる人は、ましていと苦しけれど、かく聞こえ 承るに慰めてこそはべれ。うち捨てて入らせたまひなば、いと心細からむ」
 「山路を分け入って来ましたわたしは、あなた以上にとても苦しいのですが、このようにお話し申し上げたりお聞きしたりすることによって慰められております。わたしを捨ててお入りになったら、たいそう心細いでしょう」
「遠く山路やまみちを来ました者はあなた以上に身体からだが悩ましいのですが、話を聞いていただくことができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちらへおいでになっては心細いではありませんか」
  "Yamadi wake haberi turu hito ha, masite ito kurusikere do, kaku kikoye uketamaharu ni nagusame te koso habere. Uti-sute te ira se tamahi na ba, ito kokoro-bosokara m."
1.5.9  とて、屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむくつけくて、 半らばかり入りたまへるに、引きとどめられて、いみじくねたく心憂ければ、
 と言って、屏風を静かに押し開けてお入りになった。たいそう気味悪くて、半分程お入りになったところ、引き止められて、ひどく悔しく気にくわないので、
 薫はこう言って屏風びょうぶを押しあけてこちらのへや身体からだをすべり入らせた。恐ろしくて向こうの室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、
  tote, byaubu wo yawora osi-ake te iri tamahi nu. Ito mukutukeku te, nakara bakari iri tamahe ru ni, hiki-todome rare te, imiziku netaku kokoro-ukere ba,
1.5.10  「 隔てなきとは、かかるをや言ふらむ。めづらかなる わざかな」
 「隔てなくとは、このようなことを言うのでしょうか。変なことですね」
「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」
  "Hedate naki to ha, kakaru wo ya ihu ram. Meduraka naru waza kana!"
1.5.11  と、あはめたまへるさまの、 いよいよをかしければ
 と、非難なさる様子が、ますます魅力的なので、
 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。
  to, ahame tamahe ru sama no, iyo-iyo wokasikere ba,
1.5.12  「 隔てぬ心をさらに思し分かねば、聞こえ知らせむとぞかし。 めづらかなりとも、いかなる方に、思しよるにかはあらむ。仏の御前にて誓言も立てはべらむ。うたて、な懼ぢたまひそ。御心破らじと思ひそめてはべれば。 人はかくしも推し量り思ふまじかめれど、 世に違へる痴者にて過ぐしはべるぞや」
 「隔てない心を全然お分かりでないので、お教え申し上げましょうとね。変なことだとも、どのようなことに、お考えなのでしょうか。仏の御前で誓言も立てましょう。嫌な、お恐がりなさるな。お気持ちを損ねまいと初めから思っておりますので。他人はこのようにも推量して思うまいでしょうが、世間の人と違った馬鹿正直者で通しておりますからね」
「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」
  "Hedate nu kokoro wo sarani obosi-waka ne ba, kikoye sirase m to zo kasi. Meduraka nari tomo, ika naru kata ni, obosi-yoru ni kaha ara m? Hotoke no o-mahe nite tika-koto mo tate habera m. Utate, na wodi tamahi so. Mi-kokoro yabura zi to omohi-some te habere ba. Hito ha kaku simo osihakari omohu mazika' mere do, yo ni tagahe ru sire-mono nite sugusi haberu zo ya!"
1.5.13  とて、心にくきほどなる火影に、 御髪のこぼれかかりたるを、かきやりつつ見たまへば、人の御けはひ、思ふやうに香りをかしげなり。
 と言って、奥ゆかしいほどの火影で、御髪がこぼれかかっているのを、掻きやりながら御覧になると、姫君のご様子は、申し分なくつやつやと美しい。
 こう言って、薫は感じのいいほどなのあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってやりながら見た顔は、想像していたように艶麗えんれいであった。   tote, kokoro-nikuki hodo naru hokage ni, mi-gusi no kobore kakari taru wo, kaki-yari tutu mi tamahe ba, hito no ohom-kehahi, omohu yau ni kawori wokasige nari.
注釈91物語などのどやかに聞こえまほしくて大君とゆっくり話などをしたくて。1.5.1
注釈92やすらひ暮らしたまひつ『集成』は「ぐずぐずしながら夕方まで過された」と訳す。1.5.1
注釈93わづらはしくてうちとけて聞こえたまはむことも主語は大君。1.5.1
注釈94おほかたにては『集成』は「この好色の筋をのけたら、ほかはすべて世にも稀な実のあるお人柄なので」と注す。1.5.1
注釈95仏のおはする中の戸を開けて仏間と廂間の隔ての中の戸。仏間は母屋の西面にある。大君は仏間にいる。1.5.2
注釈96簾に屏風を添へて母屋と廂の境の簾。光に照らし出されるのを避けるために屏風を置いた。1.5.2
注釈97外にも大殿油参らすれど母屋から見た外、薫の居る西の廂。1.5.2
注釈98悩ましうて無礼なるをあらはに薫の詞。「無礼」は男性詞。1.5.2
注釈99ゆゑゆゑしき肴など『集成』は「上品なつまみ物などを添えて」と訳す。1.5.3
注釈100この御前は人げ遠くもてなして薫と大君の周辺。『完訳』は「供人たちが気を利かす」と注す。1.5.3
注釈101思ひ焦らるるもはかなし『評釈』は「ふとくずれては他愛もない人の心、と、自嘲めくことばである」。『全集』は「薫の自嘲とも語り手の評言ともとれる」。『完訳』は「現世離脱を身上としてきた薫の変化を、語り手が評して結ぶ体」と注す。1.5.3
注釈102かくほどもなきものの隔てばかりを以下「おこがましくもあるかな」まで、薫の心中の思い。『完訳』は「もどかしく思っては、あせるだけの優柔さが、あまりに愚かしい。俗情に苦しむ薫の自嘲である」と注す。1.5.4
注釈103内には御簾の内側。1.5.5
注釈104さしももて離れたまはざらなむと思ふべかめれば女房たちの思いを、語り手が推測。1.5.5
注釈105さし退つつ、みな寄り臥して接続助詞「つつ」同じ動作の反復。女房たちが大君の側を下がり下がりして、の意。1.5.5
注釈106心地のかき乱り以下「また聞こえむ」まで、大君の詞。1.5.6
注釈107山路分けはべりつる人は以下「いと心細からむ」まで、薫の詞。「山路分け」は歌語的表現。1.5.8
注釈108半らばかり入りたまへるに主語は大君。「に」接続助詞、弱い順接の意。--したところ、の意。1.5.9
注釈109隔てなきとは以下「めづらかなるわざなる」まで、大君の詞。薫の「隔てなく聞こえて」の言葉を受けての言葉。1.5.10
注釈110いよいよをかしければ「をかし」は美しさに心引かれる、魅力があるの意。1.5.11
注釈111隔てぬ心を以下「過ぐしはべるぞや」まで、薫の詞。大君の「隔てなきとは」の言葉を受けての言葉。1.5.12
注釈112めづらかなりとも大君の「めづらかなるわざかな」を受けての言葉。1.5.12
注釈113人はかくしも推し量り『完訳』は「人々は、自分たちに情交がなかったとは思うまいが」と注す。1.5.12
注釈114世に違へる痴者にて『完訳』は「自分は世人と異なり、ばか正直に大君の気持を尊重するとする」と注す。1.5.12
注釈115御髪のこぼれかかりたるをかきやりつつ見たまへば薫、大君と直に対面している。1.5.13
校訂3 人びとにも 人びとにも--人/\に(に/+も<朱>) 1.5.3
校訂4 承る 承る--*うけ給へる 1.5.8
校訂5 わざ わざ--(/+わさ<朱>) 1.5.10
1.6
第六段 薫、大君をかき口説く


1-6  Kaoru tries to win Ohoi-kimi's affection

1.6.1  「 かく心細くあさましき御住み処に、好いたらむ人は障り所あるまじげなるを、我ならで尋ね来る人も あらましかば、さてや止みなまし。いかに口惜しきわざならまし」と、 来し方の心のやすらひさへ、あやふくおぼえたまへど、 言ふかひなく憂しと思ひて泣きたまふ御けしきの、いといとほしければ、「 かくはあらで、おのづから心ゆるびしたまふ折もありなむ」と思ひわたる。
 「このように心細くひどいお住まいで、好色の男は邪魔者もないのだが、自分以外に訪ねて来る人もあったら、そのままにしておくだろうか。どんなに残念なことだろうに」と、将来はもちろんのこと今までの優柔不断さまで、不安に思われなさるが、言いようもなくつらいと思ってお泣きになるご様子が、たいそうおいたわしいので、「このようにではなく、自然と心がとけてこられる時もきっとあるだろう」と思い続ける。
何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入ちんにゅうしたとすれば、このままで置くはずもなく、たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安とせずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐かれんで、これ以上の何の行為もできない。こんなふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、   "Kaku kokoro-bosoku asamasiki ohom-sumika ni, sui tara m hito ha sahari-dokoro arumazige naru wo, ware nara de tadune kuru hito mo ara masika ba, sate ya yami na masi. Ikani kutiwosiki waza nara masi." to, kisi-kata no kokoro-yasurahi sahe, ayahuku oboye tamahe do, ihukahinaku usi to omohi te naki tamahu mi-kesiki no, ito itohosikere ba, "Kaku ha ara de, onodukara kokoro-yurubi si tamahu wori mo ari na m." to omohi wataru.
1.6.2  わりなきやうなるも心苦しくて、さまよくこしらへきこえたまふ。
 無理やり迫るのも気の毒なので、体裁よくおなだめ申し上げなさる。
男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手じょうずになだめていた。
  Wari naki yau naru mo kokoro-gurusiku te, sama yoku kosirahe kikoye tamahu.
1.6.3  「 かかる御心のほどを思ひよらで、あやしきまで聞こえ馴れにたるを、 ゆゆしき袖の色など、見あらはしたまふ心浅さに、みづからの言ふかひなさも思ひ知らるるに、さまざま慰む方なく」
 「このようなお気持ちとは思いよらず、不思議なほど親しくさせて頂いたことを、不吉な喪服の色など、見ておしまいになられる思いやりの浅さに、また自分自身の言いようのなさも思い知らされるので、あれこれと気の慰めようもありません」
「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」
  "Kakaru mi-kokoro no hodo wo omohi-yora de, ayasiki made kikoye nare ni taru wo, yuyusiki sode no iro nado, mi arahasi tamahu kokoro-asasa ni, midukara no ihukahinasa mo omohi-sira ruru ni, sama-zama nagusamu kata naku."
1.6.4  と恨みて、何心もなくやつれたまへる墨染の火影を、いとはしたなくわびしと思ひ惑ひたまへり。
 と恨んで、何の用意もなく質素な喪服でいらっしゃる墨染の火影を、とても体裁悪くつらいと困惑していらっしゃった。
 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影ほかげで見られるのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。
  to urami te, nani-gokoro mo naku yature tamahe ru sumi-zome no hokage wo, ito hasitanaku wabisi to omohi madohi tamahe ri.
1.6.5  「 いとかくしも 思さるるやうこそはと、恥づかしきに、聞こえむ方なし。 袖の色をひきかけさせたまふはしも、ことわりなれど、ここら御覧じなれぬる心ざしのしるしには、 さばかりの忌おくべく、今始めたることめきてやは思さるべき。なかなかなる御わきまへ心になむ」
 「まことにこのようにまでお嫌いになるわけもあるのかと、恥ずかしくて、申し上げようもありません。喪服の色を理由になさるのも、もっともなことですが、長年お親しみなさったお気持ちの表れとしては、そのような憚らねばならないような、今始まったような事のようにお思いなさってよいものでしょうか。かえってなさらなくてもよいご分別です」
「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をおしかりなさいますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなかろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、かえって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」
  "Ito kaku simo obosa ruru yau koso ha to, hadukasiki ni, kikoye m kata nasi. Sode no iro wo hiki-kake sase tamahu ha simo, kotowari nare do, kokora go-ran-zi nare nuru kokorozasi no sirusi ni ha sabakari no imi-oku beku, ima hazime taru koto meki te yaha obosa ru beki. Naka-naka naru ohom-wakimahe-gokoro ni nam."
1.6.6  とて、 かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて、折々の思ふ心の忍びがたくなりゆくさまを、いと多く聞こえたまふに、「 恥づかしくもありけるかな」と疎ましく、「 かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな」と、聞きたまふこと多かり。
 と言って、あの琴の音を聴いた有明の月の光をはじめとして、季節折々の思う心の堪えがたくなってゆく有様を、たいそうたくさん申し上げなさると、「気恥ずかしいことだわ」と疎ましく思って、「このような気持ちでありながら何喰わぬ顔で真面目顔していらっしゃっのだわ」と、お聞きになることが多かった。
 薫はそれに続いてあの琵琶びわと琴の合奏されていた夜の有明月ありあけづき隙見すきみをした時のことを言い、それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多くの言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えられぬ羞恥しゅうちを覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間表面うわべをあくまでも冷静に作っていたのであるかと、身にしみ入る気もするのであった。   tote, kano mono-no-ne kiki si ariake no tuki-kage yori hazime te, wori-wori no omohu kokoro no sinobi-gataku nari-yuku sama wo, ito ohoku kikoye tamahu ni, "Hadukasiku mo ari keru kana!" to utomasiku, "Kakaru kokorobahe nagara turenaku mamedati tamahi keru kana!" to, kiki tamahu koto ohokari.
1.6.7  御かたはらなる 短き几帳を、 仏の御方にさし隔ててかりそめに添ひ臥したまへり。名香のいと香ばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、 人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にてわづらはしく、「 墨染の今さらに、折ふし心焦られしたるやうに、あはあはしく、 思ひそめしに違ふべければかかる忌なからむほどに、この御心にも、さりともすこしたわみたまひなむ」など、せめてのどかに思ひなしたまふ。
 お側にある低い几帳を、仏の方に立てて隔てとして、形ばかり添い臥しなさった。名香がたいそう香ばしく匂って、樒がとても強く薫っている様子につけても、人よりは格別に仏を信仰申し上げていらっしゃるお心なので、気が咎めて、「服喪中の今、折もあろうに堪え性もないようで、軽率にも、当初の気持ちと違ってしまいそうなので、このような喪中が明けたころに、姫君のお気持ちも、そうはいっても少しはお緩みになるだろう」などと、つとめて気長に思いなしなさる。
薫はその横にあった短い几帳きちょうで御仏のほうとの隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、しきみの香も室に満ちている所であったから、だれよりも求道ぐどう心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなくても身にしむものの多いものであるのに、まして峰のあらしも、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてここは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。
  Ohom-katahara naru midikaki kityau wo, Hotoke no ohom-kata ni sasi-hedate te, karisome ni sohi-husi tamahe ri. Myaugau no ito kaubasiku nihohi te, sikimi no ito hanayaka ni kawore ru kehahi mo, hito yori ha keni Hotoke wo mo omohi kikoye tamahe ru mi-kokoro nite, wadurahasiku, "Sumi-zome no imasara ni, wori-husi kokoro-ira re si taru yau ni, aha-ahasiku, omohi-some si ni tagahu bekere ba, kakaru imi nakara m hodo ni, kono mi-kokoro ni mo, saritomo sukosi tawami tamahi na m." nado, semete nodoka ni omohi-nasi tamahu.
1.6.8  秋の夜のけはひは、 かからぬ所だに、おのづからあはれ多かるを、まして 峰の嵐も籬の虫も、心細げにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、 時々さしいらへたまへるさま、いと見所多くめやすし。 いぎたなかりつる人びとは、「 かうなりけり」と、けしきとりてみな入りぬ。
 秋の夜の様子は、このような場所でなくてさえ、自然としみじみとしたことが多いのに、まして峰の嵐も籬の虫の音も、心細そうにばかり聞きわたされる。無常の世のお話に、時々お返事なさる様子、実に見ごたえのある点が多く無難である。眠たそうにしていた女房たちは、「こうなったのだわ」と、様子を察して皆下がってしまった。
 よいを早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆部屋へやのほうへ行ってしまった。   Aki no yo no kehahi ha, kakara nu tokoro dani, onodukara ahare ohokaru wo, masite mine no arasi mo magaki no musi mo, kokoro-bosoge ni nomi kiki-watasa ru. Tunenaki yo no ohom-monogatari ni, toki-doki sasi-irahe tamahe ru sama, ito mi-dokoro ohoku meyasusi. Igitanakari turu hito-bito ha, "Kau nari keri." to, kesiki tori te mina iri nu.
1.6.9   宮ののたまひしさまなど思し出づるに、「 げに、ながらへば、心の外にかくあるまじきことも見るべきわざにこそは」と、もののみ悲しくて、 水の音に流れ添ふ心地したまふ
 父宮がご遺言なさったことなどをお思い出しなさると、「なるほど、生き永らえると、意外なこのようなとんでもない目に遭うものだわ」と、何もかも悲しくて、水の音に流れ添う心地がなさる。
召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の河音かわおととともに多くの涙が流れるのであった。   Miya no notamahi si sama nado obosi-iduru ni, "Geni, nagarahe ba, kokoro no hoka ni kaku arumaziki koto mo miru beki waza ni koso ha." to, mono nomi kanasiku te, midu no oto ni nagare sohu kokoti si tamahu.
注釈116かく心細くあさましき御住み処に以下「わざならまし」まで、薫の心中の思い。『集成』は「以下、美しい大君を見ての薫の心騷ぎ」と注す。1.6.1
注釈117あらましかば「止みなまし」と「わざならまし」に係る。反実仮想の構文。1.6.1
注釈118来し方の心のやすらひさへ副助詞「さへ」によって、将来の不安はもちろんのこと、過去の優柔不断な態度までが不安となる、という意。1.6.1
注釈119言ふかひなく憂しと思ひて主語は大君。1.6.1
注釈120かくはあらで以下「折もありなむ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「大君がこんなにいやがられるのではなくて」。『完訳』は「薫の無理じいしようとする気持が、気長に待とうとする気持に移る」と注す。1.6.1
注釈121かかる御心のほどを以下「慰む方なく」まで、大君の詞。1.6.3
注釈122ゆゆしき袖の色など見あらはしたまふ心浅さに『集成』は「薫の無体な振舞に、自分の不用意さをも悔やむ」。『完訳』は「顔を見られたことの屈辱は、口に出して言うことさえできない」と注す。1.6.3
注釈123いとかくしも以下「心になむ」まで、薫の詞。1.6.5
注釈124思さるるやうこそ嫌う気持ち。1.6.5
注釈125袖の色をひきかけさせたまふはしも『源氏釈』は「奥山の晴れぬ時雨ぞわび人の袖の色をばいとどましける」(出典未詳)を指摘。1.6.5
注釈126さばかりの忌おくべく今始めたることめきてやは思さるべき『集成』は「それくらいのことを憚らねばならないような、この頃始まったことと同じにお考えになっていいものでしょうか。喪中を口実にするのは、昨日今日の恋ならともかく、自分の場合は長年のことだからと、次に、二年前の垣間見のことから話し出す」と注す。1.6.5
注釈127かの物の音聞きし有明の月影よりはじめて薫が二年前に月明りに中に姉妹の合奏しているさまを垣間見したことから話し出して。1.6.6
注釈128恥づかしくもありけるかな大君の心中の思い。我が身の不注意を恥じる気持ち。1.6.6
注釈129かかる心ばへながらつれなくまめだちたまひけるかな大君の心中の思い。薫の下心を疎ましく思う。1.6.6
注釈130短き几帳丈の低い三尺の几帳。1.6.7
注釈131仏の御方にさし隔てて仏に憚る気持ち。1.6.7
注釈132かりそめに添ひ臥したまへり『完訳』は「実事のない添い寝」と注す。1.6.7
注釈133人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて一般の人よりは道心深い薫の人柄についていう。1.6.7
注釈134わづらはしく『集成』は「気がとがめて」。『完訳』は「うしろめたい気持になられるので」と訳す。1.6.7
注釈135墨染の今さらに以下「たわみたまひなむ」まで、薫の心中に反省する思い。1.6.7
注釈136思ひそめしに違ふべければ『集成』は「自分の本意にも反することだろうから」。「完訳」は「仏道に志した当初の気持」と注す。1.6.7
注釈137かかる忌なからむほどに八宮の一周忌が明けたころに。1.6.7
注釈138かからぬ所だに『集成』は「こうした喪の家でなくても」。『完訳』は「こうした山里でなくてさえ」と訳す。1.6.8
注釈139峰の嵐も籬の虫も「峰の嵐」「籬」は歌語。1.6.8
注釈140時々さしいらへたまへるさま大君についていう。1.6.8
注釈141いぎたなかりつる人びとは眠たがっていた女房たちをさす。1.6.8
注釈142かうなりけりとけしきとりて『集成』は「さてはそうだったのかと、様子を察して」。『完訳』は「大君と薫が契りを交したと思う。そう思われても無理からぬ事態」と注す。1.6.8
注釈143宮ののたまひしさまなど思し出づるに主語は大君。1.6.9
注釈144げにながらへば以下「わざにこそは」まで、大君の心中の思い。『集成』は「女房たちも自分に従わないのを見ての嘆き」と注す。1.6.9
注釈145水の音に流れ添ふ心地したまふ『奥入』は「辺風は吹き断つ秋の心緒、隴水は流れ添ふ夜の涙行」(和漢朗詠集、王昭君、大江朝綱)を指摘。1.6.9
出典8 水の音に流れ添ふ心地 辺風吹断秋心緒 隴水流添夜涙行 辺風吹き断つ秋の心の緒 隴水流れ添ふ夜の涙の行 1.6.9
1.7
第七段 実事なく朝を迎える


1-7  It becomes morning without sexual relation between Kaoru and Ohoi-kimi

1.7.1  はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて声づくり、 馬どものいばゆる音も、旅の宿りの あるやうなど 人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。 光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるを もろともに見たまふ女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、
 いつのまにか夜明け方になってしまった。お供の人びとが起きて合図をし、馬どもが嘶く声も、旅の宿の様子など供人が話していたのを、ご想像されて、おもしろくお思いになる。光が見えた方面の障子を押し開けなさって、空のしみじみとした様子を一緒に御覧になる。女も少しいざり出でなさったが、奥行きのない軒の近さなので、忍草の露もだんだんと光が見えて行く。お互いに実に優美な姿態、容貌を、
そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作りぜきの音を立て、幾つの馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えていた。
 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子からかみをあけて、身にしむ秋の空を二人でながめようとした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人ともえんな容姿の男女であった。
  Hakanaku ake-gata ni nari ni keri. Ohom-tomo no hito-bito oki te kowa-dukuri, muma-domo no ibayuru oto mo, tabi no yadori no aru yau nado hito no kataru wo, obosi-yara re te, wokasiku obosa ru. Hikari miye turu kata no syauzi wo osi-ake tamahi te, sora no ahare naru wo morotomoni mi tamahu. Womna mo sukosi wizari-ide tamahe ru ni, hodo mo naki noki no tikasa nare ba, sinobu no tuyu mo yau-yau hikari miye mote yuku. Katamini ito en naru sama, katati-domo wo,
1.7.2  「 何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」
 「何というのではなくて、ただこのように月や花を、同じような気持ちで愛で、無常の世の有様を話し合って、過ごしたいものですね」
「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」
  "Nani to ha naku te, tada kayau ni tuki wo mo hana wo mo, onazi kokoro ni mote-asobi, hakanaki yo no arisama wo kikoye ahase te nam, sugusa mahosiki."
1.7.3  と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、
 と、たいそう親しい感じでお語らい申されると、だんだんと恐ろしさも慰められて、
 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。
  to, ito natukasiki sama si te katarahi kikoye tamahe ba, yau-yau osorosisa mo nagusami te,
1.7.4  「 かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」
 「このように面と向かっての体裁の悪い恰好でなく、何か物を隔ててなどしてお答え申し上げるならば、ほんとうに心の隔てはまったくないのですが」
「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」
  "Kau ito hasitanakara de, mono hedate te nado kikoye ba, makoto ni kokoro no hedate ha sarani aru maziku nam."
1.7.5  といらへたまふ。
 とお答えなさる。
 と女は言った。   to irahe tamahu.
1.7.6  明くなりゆき、 むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ 。夜深き朝の鐘の音かすかに響く。「 今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。
 明るくなってゆき、群鳥が飛び立ち交う羽風が近くに聞こえる。まだ暗いうちの朝の鐘の音がかすかに響く。「今は、とても見苦しいですから」と、とても無性に恥ずかしそうにお思いになっていた。
外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。黎明れいめいの鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。
  Akaku nari-yuki, mura-tori no tati-samayohu ha-kaze tikaku kikoyu. Yo-bukaki asita no kane no oto kasuka ni hibiku. "Ima ha, ito mi-gurusiki wo." to, ito warinaku hadukasige ni obosi tari.
1.7.7  「 ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。また、 人はいかが推し量りきこゆべき例のやうになだらかにもてなさせたまひて 、ただ 世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」
 「事あり顔に朝露を分けて帰ることはできません。また、人はどのように推量申し上げましょうか。いつものように穏便にお振る舞いになって、ただ世間一般と違った問題として、今から後も、ただこのようにしてくださいませ。まったく不安なことはないとお思いください。これほど一途に思い詰める心のうちを、いじらしいとお分かりくださらないのは効ないことです」
「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似まねは決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋をまもろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」
  "Koto-ari-gaho ni asa-tuyu mo e wake haberu mazi. Mata, hito ha ikaga osihakari kikoyu beki. Rei no yau ni nadaraka ni motenasa se tamahi te, tada yo ni tagahi taru koto nite, ima yori noti mo, tada kayau ni si-nasa se tamahi te yo. Yo ni usirometaki kokoro ha ara zi to obose. Kabakari anagati naru kokoro no hodo mo, ahare to obosi-sira nu koso kahinakere."
1.7.8  とて、出でたまはむのけしきもなし。あさましく、かたはならむとて、
 と言って、お帰りなるような様子もない。あきれて、見苦しいことと思って、
 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、
  tote, ide tamaha m no kesiki mo nasi. Asamasiku, kataho nara m tote,
1.7.9  「 今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。 今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」
 「今から後は、そのようなことなので、仰せの通りにいたしましょう。今朝は、またお願い申し上げていることを聞いてくださいませ」
「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝けさだけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」
  "Ima yori noti ha, sareba koso, motenasi tamaha m mama ni ara m. Kesa ha, mata kikoyuru ni sitagahi tamahe kasi."
1.7.10  とて、 いとすべなしと思したれば
 と言って、ほんとうに困ったとお思いなので、
 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。
  tote, ito sube nasi to obosi tare ba,
1.7.11  「 あな、苦しや暁の別れや。まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを
 「ああ、つらい。暁の別れだ。まだ経験のないことなので、なるほど、迷ってしまいそうだ」
「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰りみちに頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」
  "Ana, kurusi ya! Akatuki no wakare ya! Mada sira nu koto nite, geni, madohi nu beki wo."
1.7.12  と嘆きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。
 と嘆きがちである。鶏も、どこのであろうか、かすかに鳴き声がするので、京が自然と思い出される。
 かおるが幾度も歎息たんそくをもらしている時に、鶏もどちらかのほうで遠声ではあるが幾度も鳴いた。京のような気がふと薫にした。
  to nageki-gati nari. Nihatori mo, idu-kata ni ka ara m, honoka ni otonahu ni, Kyau omohi-ide raru.
1.7.13  「 山里のあはれ知らるる声々に
 「山里の情趣が思い知られます鳥の声々に
 「山里の哀れ知らるる声々に
    "Yama-zato no ahare sira ruru kowe-gowe ni
1.7.14   とりあつめたる朝ぼらけかな
  あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね
  とりあつめたる朝ぼらけかな」
    tori-atume taru asaborake kana
1.7.15  女君、
 女君、
 姫君はそれに答えて、
  Womna-Gimi,
1.7.16  「 鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
 「鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが
 「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
    "Tori no ne mo kikoye nu yama to omohi si wo
1.7.17   世の憂きことは訪ね来にけり
  人の世の辛さは後を追って来るものですね
  よにうきことはたづねきにけり」
    yo no uki koto ha tadune ki ni keri
1.7.18  障子口まで送りたてまつりたまひて、 昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。 名残恋しくて、「 いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。
 障子口までお送り申し上げなさって、昨夜入った戸口から出て、お臥せりになったが、眠ることはできない。名残惜しくて、「ほんとにこのようにせつなく思うのだったら、幾月も今までのんびりと構えていられなかったろうに」などと、帰ることを億劫に思われなさる。
 と言った。姫君の居間の襖子からかみの口まで送って行った。そして中の間を昨夜ゆうべはいった戸口から客室のほうへ出て薫は横になったが、もとより眠りは得られない。別れて来た人が恋しくて、こんなにも思われるなら今まで気長な態度がとれなかったはずであるとも歎かれて、京へ帰る気もしないのであった。
  Syauzi-guti made okuri tatematuri tamahi te, yobe iri si toguti yori ide te, husi tamahe re do, madoroma re zu. Nagori kohisiku te, "Ito kaku omoha masika ba, tuki-goro mo ima made kokoro nodoka nara masi ya!" nado, kahera m koto mo mono-uku oboye tamahu.
注釈146馬どものいばゆる音も旅の宿りの『奥入』は「晨の鶏再び鳴いて残月没りぬ、征馬連に嘶えて行人出づ」(白氏文集巻十二、生別離)を指摘。1.7.1
注釈147人の語るを薫の供人。1.7.1
注釈148光見えつる方の障子を朝の曙光。『集成』は「母屋から廂の間に出た趣」と注す。1.7.1
注釈149もろともに見たまふ『完訳』は「男女がともに夜明けの戸外を眺めるのは、後朝の典型的な一場面」と注す。1.7.1
注釈150女もすこしゐざり出でたまへるに『集成』は「見た目には、恋をする男女の体なのでこう言う」と注す。1.7.1
注釈151何とはなくて以下「過ぐさまほしき」まで、薫の詞。『完訳』は「夫婦というわけでなくとも」と注す。1.7.2
注釈152かういとはしたなからで以下「あるまじくなむ」まで、大君の詞。「かう」は直に対面する体裁悪さをいう。1.7.4
注釈153むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ『河海抄』は「むら鳥の立ちにし我が名今さらにことなしぶともしるしあらめや」(古今集恋三、六七四、読人しらず)を指摘。1.7.6
注釈154今はいと見苦しきを大君の詞。『集成』は「帰りを急がす言葉。周囲に憚る気持」と注す。1.7.6
注釈155ことあり顔に以下「こそかひなけれ」まで、薫の詞。完訳「わけあり顔に。朝露を分けて女のもとから帰るのは、後朝の男の典型的な姿。大君のつれなさを恨む気持もこもる」と注す。1.7.7
注釈156人はいかが推し量りきこゆべき『集成』は「かえって二人の仲は疑われよう、の意」。『完訳』は「どうせ人は、結婚した仲と思うから、早く退出してはかえって不都合でもあったかと疑うだろう」と注す。1.7.7
注釈157例のやうになだらかにもてなさせたまひて『集成』は「いつものように何気なくお振舞いになって」。『完訳』は「普通の夫婦のように穏やかにおふるまいになって」と訳す。1.7.7
注釈158世に違ひたることにて『完訳』は「実事のない親交をさす」と注す。1.7.7
注釈159今より後は以下「従ひたまへかし」まで、大君の詞。1.7.9
注釈160今朝はまた聞こゆるに係助詞「は」、他とは区別する意。私の申し上げることを聞いて下さい、の意。1.7.9
注釈161いとすべなしと思したれば主語は大君。1.7.10
注釈162あな苦しや以下「惑ひぬべきを」まで、薫の詞。1.7.11
注釈163暁の別れやまだ知らぬことにてげに惑ひぬべきを『花鳥余情』は「まだ知らぬ暁起きの別れには道さへまどふものにぞありける」(出典未詳)を指摘。1.7.11
注釈164山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな薫から大君への贈歌。「とりあつめたる」に「鳥」を響かす。1.7.13
注釈165鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを世の憂きことは訪ね来にけり大君の返歌。「鳥」「山」の語句を受けて返す。『異本紫明抄』は「飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)『集成』は「いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえ来ざらむ」(古今集雑下、九五二、読人しらず)を指摘。1.7.16
注釈166昨夜入りし戸口より出でて西廂と母屋の境の戸口。1.7.18
注釈167名残恋しくて『花鳥余情』は「夜もすがらなづさはりぬる妹が袖なごり恋しく思ほゆるかな」(古今六帖五、あした)を指摘。1.7.18
注釈168いとかく思はましかば月ごろも今まで心のどかならましや薫の心中の思い。反実仮想の構文。『完訳』は「悠長に構えた過往を悔む気持」と注す。1.7.18
出典9 馬どものいばゆる音 晨鶏再鳴残月没 征馬連嘶行人出 晨の鶏再び鳴きて残月没りぬ 征馬連<しきり>に嘶きて行人出づ 1.7.1
出典10 むら鳥の立ちさまよふ羽風 群鳥の立ちにしわが名今さらにことなしぶともしるしあらめや 古今集恋三-六七四 読人しらず 1.7.6
出典11 鳥の音も聞こえぬ山 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ 古今集恋一-五三五 読人しらず 1.7.16
いかならむ巌の中に住まばかは世の憂きことの聞こえこざらむ 古今集雑下-九五二 読人しらず
出典12 名残恋しくて 夜もすがらたづさはりつる妹が袖名残恋しく思ほゆるかな 古今六帖五-二五九五 1.7.18
校訂6 例の 例の--れ(れ/+い<朱>)の 1.7.7
1.8
第八段 大君、妹の中の君を薫にと思う


1-8  Ohoi-kimi desires her sister getting married to Kaoru

1.8.1   姫宮は、人の思ふらむことのつつましきに、とみにもうち臥されたまはで、「 頼もしき人なくて世を過ぐす身の心憂きを、ある人どもも、よからぬこと何やかやと、次々に従ひつつ言ひ出づめるに、心よりほかのことありぬべき世なめり」と 思しめぐらすには
 姫宮は、女房がどう思っているだろうかと気が引けるので、すぐには横におなりになれず、「頼みにする親もなくて世の中を生きてゆく身の上のつらさを、仕えている女房連中も、つまらない縁談の事を何やかやと、次々に従って言い出すようだから、望みもしない結婚になってしまいそうだ」と思案なさる一方で、
 姫君は人がどんな想像をしているかと思うのが恥ずかしくて、すぐにもまくらへつくことはできなかった。いろいろな思いが女王の胸にわく。親のない娘の心細さにつけこむような女房の取り次いでくる幾件かの縁談、その青年たちが今一歩思いやりのないことを進めた時に、自分はどうなるであろうと、心にもなく、人の妻になってしまう運命が自分を待っているのであろうと、いろいろにも考え合わせてみれば、   Hime-Gimi ha, hito no omohu ram koto no tutumasiki ni, tomi ni mo uti-husa re tamaha de, "Tanomosiki hito naku te yo wo sugusu mi no kokoro-uki wo, aru hito-domo mo, yokara nu koto nani-ya ka-ya to, tugi-tugi ni sitagahi tutu ihi-idu meru ni, kokoro yori hoka no koto ari nu beki yo na' meri." to obosi-megurasu ni ha,
1.8.2  「 この人の御けはひありさまの、疎ましくはあるまじく、故宮も、さやうなる心ばへあらばと、折々のたまひ思すめりしかど、 みづからは、なほかくて過ぐしてむ。我よりはさま容貌も盛りにあたらしげなる中の宮を、 人なみなみに見なしたらむこそうれしからめ。 人の上になしては、心のいたらむ限り思ひ後見てむ。みづからの上のもてなしは、 また誰れかは見扱はむ
 「この人のご様子や態度が、疎ましくはなさそうだし、故宮も、そのような気持ちがあったらと、時々おっしゃりお考えのようだったが、自分自身は、やはりこのように独身で過ごそう。自分よりは容姿も容貌も盛りで惜しい感じの中の宮を、人並みに結婚させたほうが嬉しいだろう。妹の身の上のことなら、心の及ぶ限り後見しよう。自分の身の世話は、他に誰が見てくれようか。
薫は良人おっととして飽き足らぬところはなく、父宮も先方にその希望があればと、そんなことを時々おらしになったようであった。けれども自分はやはり独身で通そう、自分よりも若く、盛りの美貌びぼうを持っていて、この境遇に似合わしくなく、いたましく見える中の君に薫を譲って、人並みな結婚をさせることができればうれしいことであろう、自分のことでなくなれば力の及ぶかぎりの世話を結婚する中の君のためにすることができよう、自分が結婚するのではだれがそうした役を勤めてくれよう、親もない、姉もない。   "Kono hito no ohom-kehahi arisama no, utomasiku ha arumaziku, ko-Miya mo, sayau naru kokoro-bahe ara ba to, wori-wori notamahi obosu meri sika do, midukara ha, naho kakute sugusi te m. Ware yori ha sama katati mo sakari ni atarasige naru Naka-no-Miya wo, hito nami-nami ni mi-nasi tara m koso uresikara me. Hito no uhe ni nasi te ha, kokoro no itara m kagiri omohi usiromi te m. Midukara no uhe no motenasi ha, mata tare ka ha mi-atukaha m.
1.8.3  この人の御さまの、なのめにうち紛れたるほどならば、かく見馴れぬる年ごろのしるしに、うちゆるぶ心もありぬべきを、 恥づかしげに見えにくきけしきも、なかなかいみじくつつましきに、 わが世はかくて過ぐし果ててむ
 この人のお振舞が、いい加減ででたらめならば、このように親しんできた年月のせいで、気を緩める気持ちもありそうなのだが、立派すぎて近づきがたい感じなのも、かえってひどく気後れするので、自分の人生はこうして独身で終えよう」
薫が今少し平凡な男であれば、長く持ち続けられた好意に対してむくいるために、妻になる気が起きたかもしれぬ。けれどあの人はそうでない、あまりにすぐれた男である、気品が高く近づきにくいふうもあるではないか、自分には不似合いに思われてならぬ、自分は今までどおりの寂しい運命のままで一人いよう   Kono hito no ohom-sama no, nanome ni uti-magire taru hodo nara ba, kaku mi-nare nuru tosi-goro no sirusi ni, uti-yurubu kokoro mo ari nu beki wo, hadukasige ni miye nikuki kesiki mo, naka-naka imiziku tutumasiki ni, waga yo ha kaku te sugusi-hate te m."
1.8.4  と思ひ続けて、音泣きがちに明かしたまへるに、名残いと悩ましければ、中の宮の臥したまへる奥の方に添ひ臥したまふ。
 と思い続けて、つい声を立てて泣き泣き夜を明かしなさったが、そのため気分がとても悪いので、中の宮が臥していらっしゃった奥の方に添ってお臥せりになる。
と、思い続けて朝まで泣いていたあとの身体からだのぐあいがよろしくなくて、中姫君の寝ている帳台の奥のほうへはいって横になった。
  to omohi tuduke te, ne naki-gati ni akasi tamahe ru ni, nagori ito nayamasikere ba, Naka-no-Miya no husi tamahe ru oku no kata ni sohi-husi tamahu.
1.8.5  例ならず、人のささめきしけしきもあやしと、 この宮は思しつつ寝たまへるに、かくておはしたれば、うれしくて、 御衣ひき着せたてまつりたまふに御移り香の紛るべくもあらず、くゆりかかる心地すれば、宿直人がもて扱ひけむ思ひあはせられて、「 まことなるべし」と、いとほしくて、寝ぬるやうにてものものたまはず。
 いつもと違って、女房がささやいている様子が変だと、この宮はお思いになりながら寝ていらっしゃったが、こうしていらっしゃったので、嬉しくて、御衣を引き掛けて差し上げなさると、御移り香が隠れようもなく、薫ってくる感じがするので、宿直人がもてあましていたことが思い合わされて、「ほんとうなのだろう」と、お気の毒に思って、眠ってしまったようにして何もおっしゃらない。
 昨夜は平常とは変わっておそくまで話し声がするのを怪しく思いながら、中の君は寝入ったのであったから、大姫君のこうして来たのがうれしくて、夜着を姉の上へ掛けようとした時に、高いにおいがくゆりかかるように立つのを知った。あの宿直とのいの侍が衣服をもらって、困りきった薫のにおいであることが思い合わされて、男の熱情と力に姉君が負けたというようなこともあったであろうかと気の毒で、それからまたよく眠りに入ったようにして何も言わなかった。
  Rei nara zu, hito no sasameki si kesiki mo ayasi to, kono Miya ha, obosi tutu ne tamahe ru ni, kakute ohasi tare ba, uresiku te, ohom-zo hiki-kise tatematuri tamahu ni, ohom-uturi-ga no magiru beku mo ara zu, kuyuri kakaru kokoti sure ba, tonowi-bito ga mote-atukahi kem omohi ahase rare te, "Makoto naru besi." to, itohosiku te, ne nuru yau ni te mono mo notamaha zu.
1.8.6  客人は、弁のおもと呼び出でたまひて、こまかに語らひおき、御消息 すくすくしく聞こえおきて出でたまひぬ。「 総角を戯れにとりなししも 、心もて、 尋ばかりの隔ても対面しつるとや、この君も思すらむ」と、いみじく恥づかしければ、心地悪しとて、悩み暮らしたまひつ。人びと、
 客人は、弁のおもとを呼び出しなさって、こまごまと頼みこんで、ご挨拶をしかつめらしく申し上げおいてお出になった。「総角の歌を戯れの冗談にとりなしても、自分から、一尋ほどの隔てはあったにしてもお会いしたものと、この君もお思いだろう」と、ひどく恥ずかしいので、気分が悪いといって、一日中横になっていらっしゃった。女房たちは、
 薫は朝になってからまた老女の弁にいたいと呼び出して、昨日きのうも話した自身の気持ちをこまごまとまた語って行き、そして姫君へは礼儀的な挨拶あいさつを言い入れて帰った。
 昨日は総角あげまきを言葉のくさびにして歌を贈答したりしていたが、催馬楽歌さいばらうたの「ひろばかり隔てて寝たれどかよりあひにけり」というようなあやまちをその人としてしまったように妹も思うことであろうと恥ずかしくて、気分が悪いということにして大姫君はずっと床を離れずにいた。女房たちは、
  Marauto ha, Ben-no-Omoto yobi-ide tamahi te, komaka ni katarahi-oki, ohom-seusoko suku-sukusiku kikoye-oki te ide tamahi nu. "Agemaki wo tahabure ni torinasi si mo, kokoro-mote, hiro bakari no hedate mo taimen si turu to ya, kono Kimi mo obosu ram." to, imiziku hadukasikere ba, kokoti asi tote, nayami kurasi tamahi tu. Hito-bito,
1.8.7  「 日は残りなくなりはべりぬ。はかばかしく、はかなきことをだに、また仕うまつる人もなきに、折悪しき御悩みかな」
 「法事までの日数が少なくなりました。しっかりと、ちょっとしたことでさえも、他にお世話いたす人もいないので、あいにくのご病気ですこと」
「もう御仏事までに日がいくらもなくなりましたのに、そのほかには小さいこともはかばかしくできる人もない時のあやにくな姫君の御病気ですね」
  "Hi ha nokori naku nari haberi nu. Haka-bakasiku, hakanaki koto wo dani, mata tukau-maturu hito mo naki ni, wori asiki ohom-nayami kana!"
1.8.8  と聞こゆ。中の宮、 組などし果てたまひて
 と申し上げる。中の宮は、組紐など作り終えなさって、
 などと言っていた。組紐が皆出来そろってから、中の君が来て、
  to kikoyu. Naka-no-Miya, kumi nado si-hate tamahi te,
1.8.9  「 心葉など、えこそ思ひよりはべらね」
 「心葉などを、どうしてよいか分かりません」
「飾りのふさは私にどうしてよいかわからないのですよ」
  "Kokoroba nado, e koso omohi-yori habera ne."
1.8.10  と、 せめて聞こえたまへば暗くなりぬる紛れに起きたまひて、もろともに結びなどしたまふ。中納言殿より御文あれど、
 と、無理におせがみ申し上げなさるので、暗くなったのに紛れてお起きになって、一緒に結んだりなどなさる。中納言殿からお手紙があるが、
 と訴えるのを聞いて、もうその時にあたりも暗くなっていたのに紛らして、姫君は起きていっしょに紐結びを作りなどした。
 源中納言からの手紙の来た時、
  to, semete kikoye tamahe ba, kuraku nari nuru magire ni oki tamahi te, morotomo ni musubi nado si tamahu. Tyuunagon-dono yori ohom-humi are do,
1.8.11  「今朝よりいと悩ましくなむ」
 「今朝からとても気分が悪くて」
今朝けさから身体からだを悪くしておりますから」
  "Kesa yori ito nayamasiku nam."
1.8.12  とて、 人伝てにぞ聞こえたまふ
 と言って、人を介してお返事申し上げなさる。
 と取り次ぎに言わせて、返事を出さなかったのを、   tote, hito-dute ni zo kikoye tamahu.
1.8.13  「さも、見苦しく、若々しくおはす」
 「いかにも、見苦しく、子供っぽくいらっしゃいます」
あまりに苦々しい態度だ   "Samo, mi-gurusiku, waka-wakasiku ohasu."
1.8.14  と、人びとつぶやききこゆ。
 と、女房たちはぶつぶつ申し上げる。
そしる女たちもあった。
  to, hito-bito tubuyaki kikoyu.
注釈169姫宮は、人の思ふらむことの『完訳』は「この巻では、以下、大君をも姫宮と呼ぶ」と注す。「人」は女房をさす。1.8.1
注釈170頼もしき人なくて世を過ぐす身の以下「ありぬべき世なめり」まで、大君の心中の思い。『新大系』は「以下、大君の心中に即した叙述」と注す。1.8.1
注釈171思しめぐらすには連語「には」、その一方では、というニュアンス。1.8.1
注釈172この人の御けはひありさまの以下「わが世はかくて過ぐし果ててむ」まで、大君の心中の思い。「この人」は薫。1.8.2
注釈173みづからはなほかくて過ぐしてむ独身で過すことを決意。1.8.2
注釈174人なみなみに見なしたらむこそ人並みに結婚させることをいう。1.8.2
注釈175人の上になしては『集成』は「妹の身の上のこととしてなら(中の君と薫を結婚させたら)、心の及ぶ限り大切に世話をしよう。姉として、気のつく限りの婿扱いをしよう、の意」と注す。1.8.2
注釈176また誰れかは見扱はむ反語表現。誰も後見する人がいない。1.8.2
注釈177恥づかしげに見えにくきけしきも『集成』は「あまりに立派で近づきがたい薫の様子なのも。「見えにくし」は、親しく夫婦の語らいもしにくい気持」と注す。1.8.3
注釈178わが世はかくて過ぐし果ててむ前にも「みづからはなほかく過ぐしてむ」とあった。それより「果ててむ」と強い決意の表れ。『集成』は「何度も決意を固める体」。『河海抄』は「いざここに我が世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し」(古今集雑下、九八一、読人しらず)を指摘。1.8.3
注釈179この宮は中君。1.8.5
注釈180御衣ひき着せたてまつりたまふに中君が大君に御夜着を掛けてさし上げる、意。1.8.5
注釈181御移り香の紛るべくもあらず薫の移り香。大君の衣装に染み込む。1.8.5
注釈182まことなるべし中君の心中の思い。女房たちが大君と薫の仲についてひそひそ話していたことは真実なのだろう、と思う。1.8.5
注釈183すくすくしく聞こえおきて『集成』は「しかつめらしく口上を申し上げておいて」。『完訳』は「姫宮への伝言をきまじめにお申しおきになって」と注す。1.8.6
注釈184総角を戯れにとりなししも以下「思すらむ」まで、大君の心中の思い。薫の歌をさす。1.8.6
注釈185尋ばかり催馬楽「総角」の歌句。1.8.6
注釈186日は残りなくなりはべりぬ以下「御悩みかな」まで、女房の詞。1.8.7
注釈187組などし果てたまひて名香の組糸。総角に組み上げる。1.8.8
注釈188心葉など以下「思ひよりはべらね」まで、中君の詞。1.8.9
注釈189せめて聞こえたまへば『完訳』は「(心葉は)箱などにつける飾り花。普通は金銀などの彫金細工。ここは組糸で作る。それを大君に作ってほしいと、起き出すようしむけた」注す。1.8.10
注釈190暗くなりぬる紛れに『集成』は「暗くなって顔も見えなくなった頃に」。『完訳』は「昨夜の薫との一件を恥じる気持」と注す。1.8.10
注釈191人伝てにぞ聞こえたまふ『集成』は「女房の代筆でお返事なさる」と注す。1.8.12
注釈192さも見苦しく若々しくおはすと人びとつぶやききこゆ『集成』は「薫からの文を、後朝の文ととる女房たちは、大君のはにかみと見て文句を言う」。『完訳』は「薫からの大事な後朝の文なのに大君は返事さえ書かない、の気持。大君の結婚を頼みに思う女房たちの、世俗的打算からの非難」と注す。1.8.13
出典13 尋ばかりの隔て 総角(あげまき)や とうとう (ひろ)ばかりや とうとう (さか)りて寝たれども (まろ)び あひけり とうとう か寄りあひけり とうとう 催馬楽-総角 1.8.6
校訂7 戯れに 戯れに--たはふれ(れ/+に) 1.8.6
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 3/28/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年5月3日

渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2004年9月21日

Last updated 10/26/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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