42 匂兵部卿(大島本)


NIHOHU-HYAUBUKYAU


薫君の中将時代
十四歳から二十歳までの物語



Tale of Kaoru's Chujo era, from 14 to 20 yeas old

1
第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後


1  Tale of coming generation after Genji  Genji's bereaved family and since then

1.1
第一段 匂宮と薫の評判


1-1  A reputation to Nio and Kaoru

1.1.1   光隠れたまひにし後、かの御影に立ちつぎたまふべき人、そこらの御末々にありがたかりけり下りゐの帝をかけたてまつらむはかたじけなし。 当代の三の宮、その同じ御殿にて生ひ出でたまひし 宮の若君と、この二所なむ、とりどりに きよらなる御名取りたまひて、げに、いとなべてならぬ御ありさまどもなれど、いとまばゆき際には おはせざるべし
 光源氏がお隠れになって後、あのお輝きをお継ぎになるような方、大勢のご子孫方の中にもいらっしゃらないのであった。御譲位された帝をどうこう申し上げるのは恐れ多いことである。今上帝の三の宮、その同じお邸でお生まれになった宮の若君と、このお二方がそれぞれに美しいとのご評判をお取りになって、なるほど、実に並大抵でないお二方のご器量であるが、ほんとうに輝くほどではいらっしゃらないであろう。
 光君ひかるきみがおかくれになったあとに、そのすぐれた美貌びぼうを継ぐと見える人は多くの遺族の中にも求めることが困難であった。院の陛下はおそれおおくて数に引きたてまつるべきでない。今のみかどの第三の宮と、同じ六条院で成長した朱雀すざく院の女三にょさんみやの若君の二人ふたりがとりどりに美貌の名を取っておいでになって、実際すぐれた貴公子でおありになったが、光源氏がそうであったようにまばゆいほどの美男というのではないようである。
  Hikari kakure tamahi ni si noti, kano mi-kage ni tati tugi tamahu beki hito, sokora no ohom-suwe-zuwe ni arigatakari keri. Ori-wi-no-Mikado wo kake tatematura m ha katazikenasi. Taudai no Sam-no-Miya, sono onazi otodo nite ohi-ide tamahi si Miya no Waka-Gimi to, kono huta-tokoro nam, tori-dori ni kiyora naru ohom-na tori tamahi te, geni, ito nabete nara nu mi-arisama-domo nare do, ito mabayuki kiha ni ha ohase zaru besi.
1.1.2  ただ世の常の人ざまに、めでたくあてになまめかしくおはするをもととして、さる御仲らひに、人の思ひきこえたるもてなし、ありさまも、いにしへの御響きけはひよりも、やや立ちまさりたまへるおぼえからなむ、かたへは、こよなういつくしかりける。
 ただ世間普通の人らしく、立派で高貴で優美でいらっしゃるのを基本として、そのようなご関係から、人が思い込みでご評判申し上げている扱い、様子も、昔のご評判やご威光よりも、少し勝っていらっしゃる高い評判ゆえに、一つには、この上なく威勢があったのであった。
 ただ普通の人としてはまことにりっぱでえんな姿の備わっている方たちである上に、あらゆる条件のそろった身分でおありになることも、光源氏にやや過ぎていて、人々の尊敬している心が実質以上に美なる人、すぐれた人にする傾向があった。
  Tada yo no tune no hito-zama ni, medetaku ate ni namamekasiku ohasuru wo moto to si te, saru ohom-nakarahi ni, hito no omohi kikoye taru motenasi, arisama mo, inisihe no ohom-hibiki kehahi yori mo, yaya tati-masari tamahe ru oboye kara nam, katahe ha, koyonau itukusikari keru.
1.1.3  紫の上の、御心寄せことに育みきこえたまひしゆゑ、三の宮は、二条院におはします。 春宮をば、さるやむごとなきものにおきたてまつりたまて、 帝、后、いみじうかなしうしたてまつり、かしづききこえさせたまふ宮なれば、内裏住みをせさせたてまつりたまへど、なほ心やすき故里に、住みよくしたまふなりけり。御元服したまひては、兵部卿と聞こゆ。
 紫の上が、格別におかわいがりになってお育て申し上げたゆえに、三の宮は、二条院にいらっしゃる。春宮は、そのような重い方として特別扱い申し上げなさって、帝、后が、大変におかわいがり申し上げになり、大切にお世話申し上げになっている宮なので、宮中生活をおさせ申し上げなさるが、やはり気楽な里邸を、住みよくお思いでいらっしゃるのであった。ご元服なさってからは、兵部卿と申し上げる。
 紫夫人が特に愛してお育てした方であったから、三の宮は二条の院に住んでおいでになるのである。むろん東宮は特別な方として御大切にあそばすのであるが、帝もおきさきもこの三の宮を非常にお愛しになって、御所の中へお住居すまいの御殿も持たせておありになるが、宮はそれよりも気楽な自邸の生活をお喜びになって、二条の院におおかたはおいでになるのであった。御元服後は三の宮を兵部卿ひょうぶきょうの宮と申し上げるのであった。
  Murasaki-no-Uhe no, mi-kokoro-yose koto ni hagukumi kikoye tamahi si yuwe, Sam-no-Miya ha, Nideu-no-win ni ohasimasu. Touguu wo ba, saru yamgotonaki mono ni oki tatematuri tamahi te, Mikado, Kisaki, imiziu kanasiu si tatematuri, kasiduki kikoye sase tamahu Miya nare ba, uti-zumi wo se sase tatematuri tamahe do, naho kokoro-yasuki hurusato ni, sumi yoku si tamahu nari keri. Go-genpuku si tamahi te ha, Hyaubukyau to kikoyu.
注釈1光隠れたまひにし後かの御影に立ちつぎたまふべき人そこらの御末々にありがたかりけり光る源氏の死後。『完訳』は「光源氏の死を、その名にふさわしく、日の光が隠れたと喩えた」と注す。「光」「影」は縁語表現。『河海抄』は「草深き霞の谷に影隠してる日の暮れし今日にやはあらぬ」(古今集哀傷、八四六、文屋康秀)を指摘。1.1.1
注釈2下りゐの帝を冷泉院。1.1.1
注釈3当代の三の宮今上帝の第三親王、すなわち匂宮。1.1.1
注釈4宮の若君女三の宮の若君、すなわち薫。1.1.1
注釈5きよらなる御名取りたまひて『集成』は「お美しいという評判をお取りになって」。『完訳』は「気高くお美しいとのご評判で」と訳す。1.1.1
注釈6おはせざるべし推量の助動詞「べし」推量の意は語り手の言辞。三光院実枝「けにいとなへてならぬ」を以下「作者の批判の語也」と注す。1.1.1
注釈7春宮をば以下「住みよくしたまふなりけり」までの一文、主語は「帝、后」であるが、「宮なれば」までの前半は東宮のことについて、後半は匂宮のことについて語っている。叙述が東宮から匂宮へと移っている。叙述の移ろいを鑑賞すべき。1.1.3
注釈8帝后いみじうかなしうしたてまつりかしづききこえさせたまふ宮なれば宮は匂宮。匂宮に対して「たてまつり」「きこえ」という謙譲表現が用いられる。帝、后には「させ」「たまふ」という最高敬語が用いられている。1.1.3
1.2
第二段 今上の女一宮と夕霧の姫君たち


1-2  Omna-ichi-no-Miya of Mikado and Yugiri's daughters

1.2.1   女一の宮は、六条院南の町の東の対を、 その世の御しつらひ改めずおはしまして、朝夕に恋ひしのびきこえたまふ。 二の宮も、同じ御殿の寝殿を、時々の御休み所にしたまひて、梅壺を御曹司にしたまうて、 右の大殿の中姫君を得たてまつりたまへり。次の坊がねにて、いとおぼえことに重々しう、人柄もすくよかになむものしたまひける。
 女一の宮は、六条院南の町の東の対を、ご生前当時のお部屋飾りを変えずにいらして、朝晩に恋い偲び申し上げなさっている。二の宮も、同じ邸の寝殿を、時々のご休息所になさって、梅壷をお部屋になさって、右大臣の中の姫君をお迎え申し上げていらっしゃった。次の春宮候補として、まことに信望が重々しく、人柄もしっかりしていらっしゃるのであった。
 女一にょいちみやは六条院の南の町の東のたいを、昔のとおりに部屋へやの模様変えもあそばされずに住んでおいでになって、明け暮れ昔の美しい養祖母の女王にょおうを恋しがっておいでになった。二の宮も同じ六条院の寝殿を時々行ってお休みになる所にあそばして、御所では梅壺うめつぼをお住居に使っておいでになったが、右大臣の二女をおめとりになっていた。次の太子に擬せられておいでになる方で、臣下が御尊敬申していることも並み並みでなくて、その御人格も堅実な方であった。
  Womna-Iti-no-Miya ha, Rokudeu-no-win no minami-no-mati no himgasi-no-tai wo, sono yo no ohom-siturahi aratame zu ohasimasi te, asayuhu ni kohi-sinobi kikoye tamahu. Ni-no-Miya mo, onazi otodo no sinden wo, toki-doki no ohom-yasumi-dokoro ni si tamahi te, Mumetubo wo ohom-zausi ni si tamau te, Migi-no-Ohoidono no Naka-no-Himegimi wo e tatematuri tamahe ri. Tugi no Bau-gane nite, ito oboye koto ni omo-omosiu, hitogara mo sukuyoka ni nam monosi tamahi keru.
1.2.2  大殿の御女は、いとあまたものしたまふ。大姫君は、春宮に参りたまひて、またきしろふ人なきさまにてさぶらひたまふ。その次々、なほ皆ついでのままにこそはと、世の人も思ひきこえ、后の宮ものたまはすれど、この兵部卿宮は、さしも思したらず、わが御心より起こらざらむことなどは、すさまじく思しぬべき 御けしきなめり
 大殿の御姫君は、とても大勢いらっしゃる。大姫君は、春宮に入内なさって、また競争する相手もない様子で伺候していらっしゃる。その次々と、やはりみなその順番通りに結婚なさるだろうと、世間の人もお思い申し上げ、后の宮も仰せになっていらっしゃるが、この兵部卿宮は、それほどはお思いにならず、ご自分のお気持ちから生じたのではない結婚などは、おもしろくなくお思いのご様子のようである。
 源右大臣には何人もの令嬢があって、長女は東宮に侍していて、競争者もないよい位置を得ているのである。下の令嬢はまた順序どおりに三の宮がおめとりになるのであろうと世間も見ているし、中宮ちゅうぐうもそのお心でおありになるのであるが、兵部卿の宮にそのお心がないのである。恋愛結婚でなければいやであると思っておいでになるふうなのであった。
  Ohoi-dono no ohom-musume ha, ito amata monosi tamahu. Oho-Hime-Gimi ha, Touguu ni mawiri tamahi te, mata kisirohu hito naki sama nite saburahi tamahu. Sono tugi-tugi, naho mina tuide no mama ni koso ha to, yo no hito mo omohi kikoye, Kisai-no-Miya mo notamahasure do, kono Hyaubukyau-no-Miya ha, sasimo obosi tara zu, waga mi-kokoro yori okora zara m koto nado ha, susamaziku obosi nu beki mi-kesiki na' meri.
1.2.3  大臣も、「 何かは、やうのものと、さのみうるはしうは」と静めたまへど、また、さる御けしきあらむをば、もて離れてもあるまじうおもむけて、いといたうかしづききこえたまふ。 六の君なむ、そのころの、すこし我はと思ひのぼりたまへる親王たち、上達部の、御心尽くすくさはひにものしたまひける。
 大臣も、「何の、同じようにと、そのようにばかりきちんきちんとすることはない」と落ち着いていらっしゃるが、また一方で、そのようなご意向があるなら、お断りはしないという顔つきで、とても大切にお世話申し上げていらっしゃる。六の君は、その当時の、少し自分こそはと自尊心高くいらっしゃる親王方、上達部の、お心を夢中にさせる種でいらっしゃるのであった。
 夕霧の大臣も同じように娘たちを御兄弟の宮方にとつがせることを世間へはばかっているのであったが、もし懇望されるなら同意をするのに躊躇ちゅうちょはしないというふうを見せて、兵部卿の宮に十分の好意を見せていた。大臣の六女は現在における自信のある貴公子の憧憬どうけいの的になっていた。
  Otodo mo, "Nanikaha, yau no mono to, sa nomi uruhasiu ha." to sidume tamahe do, mata, saru mi-kesiki ara m woba, mote-hanare te mo arumaziu omomuke te, ito itau kasiduki kikoye tamahu. Roku-no-Kimi nam, sono-koro no, sukosi ware ha to omohi-nobori tamahe ru Miko-tati, Kamdatime no, mi-kokoro tukusu kusahahi ni monosi tamahi keru.
注釈9女一の宮明石中宮腹の女一の宮。匂宮とともに紫の上に養育されていた。1.2.1
注釈10その世の御しつらひ紫の上在世当時のお部屋の模様。1.2.1
注釈11二の宮も今上帝の第二皇子、東宮の弟、匂宮の兄。1.2.1
注釈12右の大殿の中姫君夕霧の女、中の君。雲居雁腹の姫君。1.2.1
注釈13御けしきなめり推量の助動詞「めり」主観的推量は語り手の言辞。1.2.2
注釈14何かは以下「うるはしうは」まで、夕霧の心中。1.2.3
注釈15六の君夕霧の六の君、典侍腹の姫君。後の「宿木」巻で、匂宮と結婚する。1.2.3
1.3
第三段 光る源氏の夫人たちのその後


1-3  Genji's wives and since then

1.3.1   さまざま集ひたまへりし御方々、泣く泣くつひにおはすべき住みかどもに、皆おのおの移ろひたまひしに、花散里と聞こえしは、東の院をぞ、御処分所にて渡りたまひにける。
 いろいろとお集まりであった御方々は、泣く泣く最後の生活をなさるべき邸々に、みなそれぞれお移りになったが、花散里と申し上げた方は、二条東の院を、ご遺産としてお移りになった。
 六条院がおいでにならぬようになってから、夫人がたは皆泣く泣くそれぞれの家へ移ってしまったのであって、花散里はなちるさとといわれた夫人は遺産として与えられた東の院へ行ったのであった。
  Sama-zama tudohi tamahe ri si ohom-kata-gata, naku-naku tuhini ohasu beki sumika-domo ni, mina ono-ono uturohi tamahi si ni, Hanatirusato to kikoye si ha, Himgasi-no-win wo zo, ohom-syobun-dokoro nite watari tamahi ni keru.
1.3.2  入道の宮は、三条宮におはします。 今后は、内裏にのみさぶらひたまへば、院のうち寂しく、人少なになりにけるを、右の大臣、
 入道の宮は、三条宮にいらっしゃる。今后は、宮中にばかり伺候していらっしゃるので、六条院の中は寂しく、人少なになったが、右大臣が、
 中宮は大部分宮中においでになったから、院の中は寂しく人少なになったのを、夕霧の右大臣は、
  Nihudau-no-Miya ha, Samdeu-no-miya ni ohasimasu. Ima-Gisaki ha, Uti ni nomi saburahi tamahe ba, Win no uti sabisiku, hito-zukuna ni nari ni keru wo, Migi-no-Otodo,
1.3.3  「 人の上にて、いにしへの例を見聞くにも、生ける限りの世に、心をとどめて造り占めたる人の家居の、名残なくうち捨てられて、世の名残も常なく見ゆるは、いとあはれに、はかなさ知らるるを、わが世にあらむ限りだに、この院荒さず、ほとりの大路など、人影離れ果つまじう」
 「他人事として、昔の例を見たり聞いたりするにつけても、生きている限りの間に、丹精をこめて造り上げた人の邸が、すっかり忘れられて、人の世の常のことながら無常に思われるのは、まことに感慨無量で、情けない思いがしないではいられないが、せめて自分が生きている間だけでも、この院を荒廃させず、近くの大路など、人の姿が見えなくならないように」
 「昔の人の上で見ても、生きている時に心をこめて作り上げた家が、死後に顧みる者もないような廃邸になっていることは、栄枯盛衰を露骨に形にして見せている気がしてよろしくないものだから、せめて私一代だけは六条院を荒らさないことにしたいと思う。近くの町が人通りも少なく、寂しくなるようなことはさせたくない」
  "Hito no uhe nite, inisihe no tamesi wo mi-kiku ni mo, ike ru kagiri no yo ni, kokoro wo todome te tukuri sime taru hito no ihe-wi no, nagori naku uti-sute rare te, yo no nagori mo tune naku miyuru ha, ito ahare ni, hakanasa sira ruru wo, waga yo ni ara m kagiri dani, kono Win arasa zu, hotori no ohodi nado, hito-kage kare hatu maziu."
1.3.4  と、思しのたまはせて、丑寅の町に、かの 一条の宮を渡したてまつりたまひてなむ、 三条殿と、夜ごとに十五日づつ、うるはしう通ひ住みたまひける。
 と、お思いになりおっしゃって、丑寅の町に、あの一条宮をお移し申し上げなさって、三条殿と、一晩置きに十五日ずつ、きちんとお通いになっていらっしゃるのであった。
 と言って、東北の町へあの一条の宮をお移しして、三条のやしきと一夜置きに月十五日ずつ正しく分けて泊っていた。
  to, obosi notamahase te, Usi-tora-no-mati ni, kano Itideu-no-Miya wo watasi tatematuri tamahi te nam, Samdeu-dono to, yo-goto ni zihu-go niti dutu, uruhasiu kayohi sumi tamahi keru.
1.3.5  二条院とて、造り磨き、六条院の春の御殿とて、世にののしる玉の台も、 ただ一人の御末のためなりけり、と見えて、明石の御方は、あまたの宮たちの御後見をしつつ、扱ひきこえたまへり。大殿は、いづかたの御ことをも、 昔の御心おきてのままに、改め変ることなく、あまねき親心に仕うまつりたまふにも、「 対の上の、かやうにてとまりたまへら ましかば、いかばかり心を尽くして仕うまつり見えたてまつら まし。つひに、いささかも取り分きて、わが心寄せと見知りたまふべきふしもなくて、過ぎたまひにし こと」を、口惜しう飽かず悲しう思ひ出できこえたまふ。
 二条院と言って、磨き造り上げ、六条院の春の御殿と言って、世間に評判であった玉の御殿も、ただお一方の将来のためであったと思えて、明石の御方は、大勢の宮たちのご後見をしながら、お世話申し上げていらっしゃった。大殿は、どの方の御事も、故人のおとりきめ通りに、改変することなく、別け隔てなく親切にお仕えなさっているにつけても、「対の上が、このように生きていらっしゃったならば、どんなに誠意を尽くしてお仕え申し御覧に入れたことであろうか。とうとう、多少なりとも特別に、自分が好意を寄せているとお分かりになっていただける機会もなくて、お亡くなりになってしまったこと」を、残念に物足りなく悲しく思い出し申し上げなさる。
 二条の院と言って作りみがかれ、六条院の春の御殿と言って地上の極楽のように言われた玉のうてなもただ一人の女性の子孫のためになされたものであったかと見えて、明石あかし夫人は幾人もの宮様がたのお世話をして幸福に暮らしていた。夕霧はどの夫人に対しても院がお扱いになったとおりに、皆母として奉仕しているのであるが、紫の女王がこんなふうに院のおあとへ残っておいでになれば、どんなに自分は誠意をもってお尽くしすることであろう、終わりまで特別な自分の好意というものを受けてもらえるというようなことはなかったと思うと、今も大臣は残念でならぬように思うのであった。
  Nideu-no-win tote, tukuri migaki, Rokudeu-no-win no Haru-no-otodo tote, yo ni nonosiru tama-no-utena mo, tada hitori no ohom-suwe no tame nari keri, to miye te, Akasi-no-Ohomkata ha, amata no Miya-tati no ohom-usiromi wo si tutu, atukahi kikoye tamahe ri. Ohoi-dono ha, idukata no ohom-koto wo mo, mukasi no mi-kokoro-okite no mama ni, aratame kaharu koto naku, amaneki oya-gokoro ni tukau-maturi tamahu ni mo, "Tai-no-Uhe no, kayau ni te tomari tamahe ra masika ba, ikabakari kokoro wo tukusi te tukau-maturi miye tatematura masi. Tuhini, isasaka mo tori-waki te, waga kokoro-yose to mi-siri tamahu beki husi mo naku te, sugi tamahi ni si koto." wo, kutiwosiu aka zu kanasiu omohi-ide kikoye tamahu.
1.3.6  天の下の人、 院を恋ひきこえぬなく、とにかくにつけても、世はただ火を消ちたるやうに、何ごとも栄なき嘆きをせぬ折なかりけり。まして、 殿のうちの人びと御方々宮たちなどは、さらにも聞こえず、限りなき御ことをばさるものにて、またかの 紫の御ありさまを心にしめつつ、よろづのことにつけて、思ひ出できこえたまはぬ時の間なし。 春の花の盛りは、げに、長からぬにしも、おぼえまさるものとなむ。
 天下の人は、院を恋い慕い申し上げない者はなく、あれこれにつけても、世はまるで火を消したように、何事につけてもはりあいのない嘆きを漏らさない折はなかった。まして、殿の内の女房たち、ご夫人方、宮様方などは、改めて申し上げるまでもなく、限りないお嘆きの事はもちろんのこととして、またあの紫の上のご様子を心に忘れず、いろいろのことにつけて、お思い出し申し上げなさらない時の間もない。春の花の盛りは、なるほど、長くないことによって、かえって大事にされるというものである。
 天下の人で六条院をお慕いせぬ者はなくて、何につけても火が消えたように思ってなげかぬおりはないのであった。まして院に親しくお仕えしていた人たち、夫人がた、宮がたが院にお別れした悲しみに流す涙というものはどれほどの量であるかしれないのである。それとともに今も紫夫人を追慕する思いはだれにもあって、人からその女王の思い出されていない時というものはないのである。春の花の盛りは短くても印象は深く残るものであるというべきであろう。
  Ame no sita no hito, Win wo kohi kikoye nu naku, toni-kakuni tuke te mo, yo ha tada hi wo keti taru yau ni, nani-goto mo hayenaki nageki wo se nu wori nakari keri. Masite, tono no uti no hito-bito, Ohom-kata-gata, Miya-tati nado ha, sarani mo kikoye zu, kagiri naki ohom-koto wo ba saru mono nite, mata kano Murasaki no ohom-arisama wo kokoro ni sime tutu, yorodu no koto ni tuke te, omohi-ide kikoye tamaha nu toki no ma nasi. Haru no hana no sakari ha, geni, nagakara nu ni simo, oboye masaru mono to nam.
注釈16さまざま集ひたまへりし御方々六条院の源氏の夫人たち。女三の宮、花散里、明石御方たち。1.3.1
注釈17今后は今上帝の明石中宮。冷泉院の秋好中宮に対して「今后」という。1.3.2
注釈18人の上にて以下「人影離れ果つまじう」まで夕霧の心中。1.3.3
注釈19一条の宮を落葉の宮。1.3.4
注釈20三条殿と大宮邸、雲居雁がいる。1.3.4
注釈21ただ一人の御末のため明石御方をさす。二条院には匂宮(三の宮)、六条院の南町(春の御殿)には女一の宮と二の宮(東宮の弟)が住む。1.3.5
注釈22昔の御心おきて故人(源氏)の御意向。1.3.5
注釈23対の上の以下「過ぎたまひにしこと」まで、夕霧の心中。結びは地の文に吸収される。1.3.5
注釈24ましかば--まし反実仮想の構文。紫の上の死を追悼。1.3.5
注釈25ことを口惜しう『完訳』は「心中叙述が地の文に転ずる」と注す。1.3.5
注釈26院を源氏を。1.3.6
注釈27殿のうちの人びと『集成』は「お邸に仕える人々。「殿」は、六条の院、二条の院、それに東の院も含めていうか」と注す。1.3.6
注釈28御方々明石御方、花散里など。1.3.6
注釈29宮たちなどは明石中宮腹の源氏の孫宮たち。1.3.6
注釈30紫の御ありさまを語り手(作者)は地の文では「紫」と呼称する。1.3.6
注釈31春の花の盛りは『異本紫明抄』は「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世に何か久しかるべき」(伊勢物語)。『花鳥余情』は「残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はての憂ければ」(古今集春下、七一、読人しらず)。『休聞抄』は「待てと言ふに散らでし止まる物ならば何を桜に思ひまさまし」(古今集春下、七〇、読人しらず)。『岷江入楚』は「いざ桜我も散りなむ一盛りありなば人に憂きめ見えなむ」(古今集春下、七七、承均法師)を指摘。1.3.6
出典1 春の花の盛りは、げに、長からぬ 残りなく地散るぞめでたき桜花ありて世の中果ての憂ければ 古今集春下-七一 読人しらず 1.3.6
Last updated 2/14/2002
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 2/14/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-4)
Last updated 2/14/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
高橋真也(青空文庫)

2003年8月12日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月3日

Last updated 10/14/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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