37 横笛(大島本)


YOKOBUE


光る源氏の准太上天皇時代
四十九歳春から秋までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from spring to fall, at the age of 49

3
第三章 夕霧の物語 匂宮と薫


3  The tale of Yugiri  Children Nio-no-Miya and Kaoru in Rokujo-in

3.1
第一段 夕霧、六条院を訪問


3-1  Yugiri visits Rokujo-in to meet Genji

3.1.1  大将の君も、夢思し出づるに、
 大将の君も、夢を思い出しなさると、
 大将は夢を思うと贈られた横笛ももてあまされる気がした。
  Daisyau-no-Kimi mo, yume obosi-iduru ni,
3.1.2  「 この笛のわづらはしくもあるかな人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。 女の御伝へはかひなきをやいかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、 長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ」
 「この笛は厄介なものだな。故人が執着していた笛の、行くべき所ではなかったのだ。女方から伝わっても意味のなことだ。どのように思ったことだろう。この世に、物の数にも入らない些事も、あの臨終の際に、一心に恨めしく思ったり、または愛情を持ったりしては、無明長夜の闇に迷うということだ。そうだからこそ、どのようなことにも執着は持つまいと思うのだ」
 故人の強い愛着ののこった品がやりたく思う人の手に行っていぬものらしい。しかも宮の御もとへ置きたく思う理由もない。それは笛が女の吹奏を待つものでないからである。生きておれば何とも思わぬことが臨終の際にふと気がかりになったり、ふと恋しく心が残ったりすることで幽魂が浄土へは向かわず宙宇に迷うと言われている。そうであるから人間は何事にも執着になるほどの関心を持ってはならない
  "Kono hue no wadurahasiku mo aru kana! Hito no kokoro todome te omohe ri si mono no, yuku beki kata ni mo ara zu. Womna no ohom-tutahe ha kahinaki wo ya! Ikaga omohi tura m? Kono yo ni te, kazu ni omohi-ire nu koto mo, kano imaha no todime ni, itinen no uramesiki mo, mosi ha ahare to mo omohu ni matuhare te koso ha, nagaki yo no yami ni mo madohu waza na' nare. Kakare ba koso ha, nanigoto ni mo sihu ha todome zi to omohu yo nare."
3.1.3  など、思し続けて、 愛宕に誦経せさせたまふ。また、 かの心寄せの寺にもせさせたまひて
 などと、お考え続けなさって、愛宕で誦経をおさせになる。また、故人が帰依していた寺にもおさせになって、
 のであると、こんなことを思って大納言のために愛宕おたぎの寺で誦経ずきょうをさせ、またそのほか故人と縁故のある寺でも同じく経を読ませた。
  nado, obosi-tuduke te, Otagi ni zyukyau se sase tamahu. Mata, kano kokoro-yose no tera ni mo se sase tamahi te,
3.1.4  「 この笛をば、わざと 人のさるゆゑ深きものにて、引き出でたまへりしを、たちまちに 仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし」
 「この笛を、わざわざ御息所が特別の遺品として、譲り下さったのを、すぐにお寺に納めるのも、供養になるとは言うものの、あまりにあっけなさぎよう」
 この笛を歴史的価値のある物として、好意で自分へ贈った人に対しては、それがどんな尊いことであっても寺へ納めたりしてしまうことも不本意なことである
  "Kono hue wo ba, wazato hito no saru yuwe hukaki mono ni te, hiki-ide tamahe ri si wo, tatimati ni Hotoke no miti ni omomuke m mo, tahutoki koto to ha ihi nagara, ahenakaru besi."
3.1.5  と思ひて、六条の院に参りたまひぬ。
 と思って、六条院に参上なさった。
 と思って、大将は六条院へ参った。
  to omohi te, Rokudeu-no-Win ni mawiri tamahi nu.
3.1.6   女御の御方におはしますほどなりけり三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、 こなたにぞまた取り分きておはしまさせたまひける。走り出でたまひて、
 女御の御方にいらっしゃる時なのであった。三の宮は、三歳ほどで、親王の中でもかわいらしくいらっしゃるのを、こちらではまた特別に引き取ってお住ませなさっているのであった。走っておいでになって、
 その時院は姫君の女御にょごの御殿へ行っておいでになった。三歳ぐらいになっておいでになる三の宮を女一の宮と同じように紫の女王にょおうがお養いしていて、対へお置き申してあるのであるが、大将が行くと走っておいでになって、
  Nyougo no ohom-kata ni ohasimasu hodo nari keri. Sam-no-Miya, mi-tu bakari ni te, naka ni utukusiku ohasuru wo, konata ni zo mata tori waki te ohasimasa se tamahi keru. Hasiri-ide tamahi te,
3.1.7  「 大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ
 「大将よ、宮をお抱き申して、あちらへ連れていらっしゃい」
 「大将さん、私を抱いてあちらの御殿へつれて行ってちょうだい」
  "Daisyau koso, Miya idaki tatematuri te, anata he wi te ohase."
3.1.8  と、みづからかしこまりて、いとしどけなげにのたまへば、 うち笑ひて
 と、自分に敬語をつけて、とても甘えておっしゃるので、ほほ笑んで、
 うやうやしい態度で、そしてお小さい方らしくお言いになると、大将は笑って、
  to, midukara kasikomari te, ito sidokenage ni notamahe ba, uti-warahi te,
3.1.9  「 おはしませ。いかでか 御簾の前をば渡りはべらむ。いと軽々ならむ」
 「いらっしゃい。どうして御簾の前を行けましょうか。たいそう無作法でしょう」
 「いらっしゃいませ。けれど女王様のお御簾みすの前をどうしてお通りいたしましょう。私よりもあなた様がお困りになりましょう」
  "Ohasimase. Ikade ka mi-su no mahe wo ba watari habera m. Ito kyau-kyau nara m."
3.1.10  とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、
 と言って、お抱き申してお座りになると、
 こう言いながらすわったひざへ宮を抱いておのせすると、
  tote, idaki tatematuri te wi tamahe re ba,
3.1.11  「 人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ
 「誰も見ていません。わたしが、顔を隠そう。さあさあ」
 「だれも見ないよ。いいよ。私顔を隠して行くから」
  "Hito mo mi zu. Maro, kaho ha kakusa m. Naho-naho."
3.1.12  とて、御袖してさし隠したまへば、いとうつくしうて、率てたてまつりたまふ。
 と言って、お袖で顔をお隠しになるので、とてもかわいらしいので、お連れ申し上げなさる。
 宮がそでを顔へお当てになるのもおかわいらしくて大将はそのまま寝殿のほうへお抱きして行った。
  tote, ohom-sode si te sasi-kakusi tamahe ba, ito utukusiu te, wi te tatematuri tamhu.
注釈149この笛のわづらはしくもあるかな以下「と思ふ世なれ」まで、夕霧の心中。3.1.2
注釈150人の心とどめて「人」は柏木をさす。夢の中の柏木の言葉を想起。3.1.2
注釈151女の御伝へはかひなきをや横笛は男性の吹く楽器。『完訳』は「女は笛を吹かないので、女からの伝授はありえない」と注す。3.1.2
注釈152いかが思ひつらむ主語は柏木。3.1.2
注釈153長き夜の闇にも惑ふわざななれ無明長夜の闇に苦しむ、意。「なれ」は伝聞推定の助動詞。3.1.2
注釈154愛宕に誦経せさせたまふ愛宕は当時の火葬場。「桐壺」巻の桐壺更衣が火葬にふされた場所も同じ。3.1.3
注釈155かの心寄せの寺にもせさせたまひて左大臣家の菩提寺である極楽寺か。3.1.3
注釈156この笛をばわざと以下「あへなかるべし」まで、夕霧の心中。『集成』は「以下、ふたたび夕霧お思い」と注す。『完訳』は「わざと」以下を夕霧の心中とする。3.1.4
注釈157人の『完訳』は「「人」は御息所。一説には宮」と注す。3.1.4
注釈158仏の道におもむけむも尊きこと笛を寺に寄進するのも故人の供養になる、という意。3.1.4
注釈159女御の御方におはしますほどなりけり主語は源氏。女御は明石女御、里下がり中。『集成』は「源氏は、常は紫の上方(東の対)にいるので、夕霧はまずそこを訪れる」と注す。3.1.6
注釈160三の宮三つばかりにて匂宮、三歳。3.1.6
注釈161こなたにぞまた取り分きて紫の上が女一宮の他にもまた三の宮を特別に引き取って、の意。3.1.6
注釈162大将こそ宮抱きたてまつりてあなたへ率ておはせ匂宮の詞。「こそ」係助詞、呼び掛け。「宮」は自分自身。「抱きたてまつりて」「率ておはせ」という言い方には敬語の使い方として、自分で自分を敬った言い方をしている。そにに、いかにもあどけなくまた宮さまらしい高貴さがうかがえる。「あなた」は母明石女御のいる寝殿。3.1.7
注釈163うち笑ひて主語は夕霧。3.1.8
注釈164おはしませ以下「軽々ならむ」まで、夕霧の詞。さあ、いらっしゃい、の意。3.1.9
注釈165御簾の前紫の上のいる御簾の前。3.1.9
注釈166人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ匂宮の詞。『集成』は「わたしが顔を隠してあげよう。顔を隠せば、人に見えないと思っている。幼い精一杯の知恵」。『完訳』は「夕霧の顔を。一説には宮自身の顔を。幼児らしい知恵」と注す。3.1.11
3.2
第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う


3-2  Grandsons of Genji scramble for Yugiri

3.2.1   こなたにも二の宮の、若君とひとつに混じりて遊びたまふ、 うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりたまふを、二の宮見つけたまひて、
 こちら方にも、二の宮が、若君とご一緒になって遊んでいらっしゃるのを、かわいがっておいであそばすのであった。隅の間の所にお下ろし申し上げなさるのを、二の宮が見つけなさって、
 こちらの御殿のほうでも院が宮の若君と二の宮がいっしょに遊んでおいでになるのをかわいく思ってながめておいでになるのであった。かどのお座敷の前で三の宮をおろししたのを、二の宮がお見つけになって、
  Konata ni mo, Ni-no-Miya no, Waka-Gimi to hitotu ni maziri te asobi tamahu, utukusimi te ohasimasu nari keri. Sumi-no-ma no hodo ni orosi tatematuri tamahu wo, Ni-no-Miya mituke tamahi te,
3.2.2  「 まろも大将に抱かれむ
 「わたしも大将に抱かれたい」
 「私も大将に抱いていただくのだ」
  "Maro mo Daisyau ni idaka re m."
3.2.3  とのたまふを、三の宮、
 とおっしゃるのを、三の宮は、
 とお言いになると、三の宮が、
  to notamahu wo, Sam-no-miya,
3.2.4  「 あが大将をや
 「わたしの大将なのだから」
 「いけない、私の大将だもの」
  "Aga Daisyau wo ya!"
3.2.5  とて、控へたまへり。院も御覧じて、
 と言って、お放しにならない。院も御覧になって、
 と言って伯父おじ君の上着を引っぱっておいでになる。院が御覧になって、
  tote, hikahe tamahe ri. Win mo go-ran-zi te,
3.2.6  「 いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き守りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したまふ」
 「まことにお行儀の悪いお二方ですね。朝廷のお身近の警護の人を、自分の随身にしようと争いなさるとは。三の宮が、特にいじわるでいらっしゃいます。いつも兄宮に負けまいとなさる」
 「お行儀のないことですよ。おかみのお付きの大将を御自分のものにしようとお争いになったりしてはなりませんよ。三の宮さんはよくわからずやをお言いになりますね。いつでもお兄様に反抗をなさいますね」
  "Ito midari-gahasiki mi-arisama-domo kana! Ohoyake no ohom-tikaki mamori wo, watakusi no zuizin ni ryau-ze m to arasohi tamahu yo! Sam-no-Miya koso, ito saganaku ohasure. Tune ni konokami ni kihohi mausi tamahu."
3.2.7  と、諌めきこえ扱ひたまふ。大将も笑ひて、
 と、おたしなめ申して仲裁なさる。大将も笑って、
 とおさとしになる。大将も笑って、
  to, isame kikoye atukahi tamahu. Daisyau mo warahi te,
3.2.8  「 二の宮は、こよなく兄心にところさりきこえたまふ御心深くなむおはしますめる。 御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせたまふ」
 「二の宮は、すっかりお兄様らしく弟君に譲って上げるお気持ちが十分におありのようです。お年のわりには、こわいほどご立派にお見えになります」
 「二の宮様はずいぶんお兄様らしくて、お小さい方によくお譲りになったり、思いやりのあることをなさいます。大人でも恥ずかしくなるほどでございます」
  "Ni-no-Miya ha, koyonaku konokami-gokoro ni tokoro-sari kikoye tamahu mi-kokoro hukaku nam ohasimasu meru. Ohom-tosi no hodo yori ha, osorosiki made miye sase tamahu."
3.2.9  など聞こえたまふ。 うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり
 などと申し上げなさる。ほほ笑んで、どちらもとてもかわいらしいとお思い申し上げあそばしていらっしゃった。
 こんなことを言っていた。院は微笑を顔にお浮かべになって、お小言こごとはお言いになったものの、どちらもかわいくてならぬというような表情をしておいでになった。
  nado kikoye tamahu. Uti-wemi te, idure mo ito utukusi to omohi kikoye sase tamahe ri.
3.2.10  「 見苦しく軽々しき 公卿の御座なりあなたにこそ
 「見苦しく失礼なお席だ。あちらへ」
 「公卿こうけいをこんな失礼な所へ置いてはおけない。対のほうへ行くことにしよう」
  "Mi-gurusiku karu-garusiki kugyau no mi-za nari. Anata ni koso."
3.2.11  とて、渡りたまはむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。 宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心 のうちに思せど、 なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむと、これも心の癖に、 いとほしう思さるればいとらうたきものに思ひかしづききこえたまふ。
 とおっしゃって、お渡りになろうとすると、宮たちがまとわりついて、まったくお離れにならない。宮の若君は、宮たちとご同列に扱うべきではないと、ご心中にはお考えになるが、かえってそのお気持ちを、母宮が、心にとがめて気を回されることだろうと、これもまたご性分で、お気の毒に思われなさるので、とても大切にお扱い申し上げなさる。
 とお言いになって、立とうとあそばされるのであるが、宮たちがまつわってお離れにならない。宮の若君は宮たちと同じに扱うべきでないとお心の中では思召おぼしめされるのであるが、女三の尼宮が心の鬼からその差別待遇をゆがめて解釈されることがあってはと、優しい御性質の院はお思いになって、若君をもおかわいがりになり、大事にもあそばすのであった。
  tote, watari tamaha m to suru ni, Miya-tati matuhare te, sara ni hanare tamaha zu. Miya no Waka-Gimi ha, Miya-tati no ohom-tura ni ha arumaziki zo kasi to, mi-kokoro no uti ni obose do, naka-naka sono mi-kokorobahe wo, Haha-Miya no, mi-kokoro-no-oni ni ya omohi-yose tamahu ram to, kore mo kokoro no kuse ni, itohosiu obosa rure ba, ito rautaki mono ni omohi kasiduki kikoye tamahu.
注釈167こなたにも明石女御方をさす。3.2.1
注釈168二の宮の若君とひとつに混じりて二の宮は後の式部卿宮。音楽の才能が期待された(若菜下)。若君は薫。3.2.1
注釈169うつくしみておはしますなりけり主語は源氏。3.2.1
注釈170まろも大将に抱かれむ二の宮の詞。3.2.2
注釈171あが大将をや匂宮の詞。「を」間投助詞、詠嘆。「や」係助詞、詠嘆。3.2.4
注釈172いと乱りがはしき以下「競ひ申したまふ」まで、源氏の詞。3.2.6
注釈173二の宮はこよなく以下「見えさせ給ふ」まで、夕霧の詞。3.2.8
注釈174御年のほどよりは二の宮は四、五歳。3.2.8
注釈175うち笑みていづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり主語は源氏。「させたまへり」最高敬語。3.2.9
注釈176見苦しく以下「あなたにこそ」まで、源氏の詞。3.2.10
注釈177公卿の御座なり大島本に仮名で「みさ」とある。「御座」を「みざ」と読む例。3.2.10
注釈178あなたにこそ東の対をさす。3.2.10
注釈179宮の若君は宮たちの御列にはあるまじきぞかし源氏の心中。「宮の若君」は女三の宮の若君、すなわち薫。『集成』は「臣下の分際だから、公私の別をつけるべきだと、内心は考える」と注す。3.2.11
注釈180なかなかその御心ばへを母宮の御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむ源氏の心中。間接的に語る。したがって源氏の「心ばへ」を「御心ばへ」という敬語が混入する。『完訳』は「もしも薫を低く扱えば、女三の宮が不義の子ゆえとひがむだろう、と考える」と注す。3.2.11
注釈181いとほしう思さるれば女三の宮を。3.2.11
注釈182いとらうたきものに薫を。3.2.11
校訂12 のうちに思せど、なかなかその御心 のうちに思せど、なかなかその御心--(/+のうちにおほせと中/\その御心<朱>) 3.2.11
3.3
第三段 夕霧、薫をしみじみと見る


3-3  Yugiri stares Kaoru in the face

3.3.1  大将は、この君を「 まだえよくも見ぬかな」と思して、 御簾の隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せたてまつりて、招きたまへば、走りおはしたり。
 大将は、この若君を「まだよく見ていないな」とお思いになって、御簾の間からお顔をお出しになったところを、花の枝が枯れて落ちているのを取って、お見せ申して、お呼びなさると、走っていらっしゃった。
 大将はこの若君をまだよく今までに顔を見なかったと思って、御簾みすの間から顔を出した時に、花のしおれた枝の落ちているのを手に取って、そのに見せながら招くと、若君は走って来た。
  Daisyau ha, kono Kimi wo "Mada e yoku mo mi nu kana!" to obosi te, mi-su no hima yori sasi-ide tamahe ru ni, hana no yeda no kare te oti taru wo tori te, mise tatematuri te, maneki tamahe ba, hasiri ohasi tari.
3.3.2  二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、 皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。 なま目とまる心も添ひて見ればにや 、眼居など、これは今すこし強うかどあるさま まさりたれど、まじりのとぢめをかしうかをれるけしきなど、 いとよくおぼえたまへり
 二藍の直衣だけを着て、たいそう色白で光輝いてつやつやとかわいらしいこと、親王たちよりもいっそうきめこまかに整っていらっしゃって、まるまると太りおきれいである。何となくそう思って見るせいか、目つきなど、この子は少しきつく才走った様子は衛門督以上だが、目尻の切れが美しく輝いている様子など、とてもよく似ていらっしゃった。
 薄藍うすあい色の直衣のうしだけを上に着ているこの小さい人の色が白くて光るような美しさは、皇子がたにもまさっていて、きわめて清らかな感じのする子であった。ある疑問に似たものを持つ思いなしか、まなざしなどにはその人のよりも聡慧そうけいらしさが強く現われては見えるが、切れ長な目の目じりのあたりのえんな所などはよく柏木かしわぎに似ていると思われた。
  Hutaawi no nahosi no kagiri wo ki te, imiziu sirou hikari utukusiki koto, Miko-tati yori mo komaka ni wokasige ni te, tubu-tubu to kiyora nari. Nama-me tomaru kokoro mo sohi te mire ba ni ya, manako-wi nado, kore ha ima sukosi tuyou kado aru sama masari tare do, maziri no todime wokasiu kawore ru kesiki nado, ito yoku oboye tamahe ri.
3.3.3  口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「 わが目のうちつけなるにやあらむ、 大殿はかならず思し寄すらむ」と、 いよいよ御けしきゆかし
 口もとが、特別にはなやかな感じがして、ほほ笑んでいるところなどは、「自分がふとそう思ったせいなのか、大殿はきっとお気づきであろう」と、ますますご心中が知りたい。
 美しい口もとの笑う時にことさらはなやかに見えることなどは自分の心に潜在するものがそう思わせるのかもしらぬが、院のお目には必ずお思い合わせになることがあろうと考えられるほど似ていると、大将は異母弟を見ながらも、いよいよ院が柏木に対してどう思っておいでになるかを早く知りたくなった。
  Kutituki no, kotosara ni hanayaka naru sama si te, uti-wemi taru nado, "Waga me no utituke naru ni ya ara m, Otodo ha kanarazu obosi-yosu ram." to, iyo-iyo mi-kesiki yukasi.
3.3.4  宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見えたまふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べたてまつりつつ、
 宮たちは、親王だと思うせいから気高くもみえるものの、世間普通のかわいらしい子供とお見えになるのだが、この君は、とても上品な一方で、特別に美しい様子なので、ご比較申し上げながら、
 宮がたは自然に気高けだかくお見えになるところはあるが、普通のきれいな子供とさまで変わってはおいでにならないのに、若君は貴族の子らしい品格のほかに、
  Miya-tati ha, omohi-nasi koso kedakakere, yo no tune no utukusiki tigo-domo to miye tamahu ni, kono Kimi ha, ito ate naru monokara, sama koto ni wokasige naru wo, mi-kurabe tatematuri tutu,
3.3.5  「 いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、 父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれたまて、
 「何と、かわいそうな。もし自分の疑いが本当なら、父大臣が、あれほどすっかり気落ちしていらして、
 何ものにも優越した美の備わっているのを、大将は比べて思いながら、哀れなことである、自分の推測が真実であれば柏木の父の大臣は故人を切に思う心から、
  "Ide, ahare! Mosi utagahu yuwe mo makoto nara ba, titi-Otodo no, sabakari yo ni imiziku omohi hore tama' te,
3.3.6  『 子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』
 『子供だと名乗って出て来る人さえいないことよ。形見と思って世話する者でもせめて遺してくれ』
 柏木の子供であると名のって来る者の出て来ないことに失望して、それだけの形見をすら不幸な親に残してくれなかった
  "Ko to nanori ide-kuru hito dani naki koto. Katami ni miru bakari no nagori wo dani todome yo kasi."
3.3.7  と、泣き焦がれたまふに、 聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ」など思ふも、「 いで、いかでさはあるべきことぞ
 と、泣き焦がれていらしたのに、お知らせ申し上げないのも罪なことではないか」などと思うが、「いや、どうしてそんなことがありえよう」
 と言って泣きこがれているのであるから、知らせないでいるのは罪作りなことになろうと考えられて来るうちにまた、そんなことはありうることではないと否定もされる。
  to, naki-kogare tamahu ni, kika se tatematura zara m tumi e gamasisa." nado omohu mo, "Ide, ikade saha aru beki koto zo."
3.3.8  と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。 心ばへさへなつかしうあはれにて睦れ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。
 と、やはり納得がゆかず、推測のしようもない。気立てまでが優しくおとなしくて、じゃれていらっしゃるので、とてもかわいらしく思われる。
 ますます不可解な問題であると大将は思った。性質もなつかしく優しい子で、大将に馴染なじんでそばを離れず遊んでいるのもかわいく思われた。
  to, naho kokoro e zu, omohi-yoru kata nasi. Kokorobahe sahe natukasiu ahare ni te, muture asobi tamahe ba, ito rautaku oboyu.
注釈183まだえよくも見ぬかな夕霧の心中。3.3.1
注釈184御簾の隙よりさし出でたまへるに主語は薫。3.3.1
注釈185皇子たちよりも二の宮や三の宮よりも。3.3.2
注釈186なま目とまる心も添ひて見ればにや語り手の夕霧の心中を忖度した挿入句。『完訳』は「何となくそう思い見るせいか」と訳す。以下、夕霧の目を通した描写。3.3.2
注釈187まさりたれど「これは」「今すこし」などと共に、父柏木との比較を前提にした構文。3.3.2
注釈188いとよくおぼえたまへり父柏木そっくりである意。3.3.2
注釈189わが目のうちつけなる以下「かならず思し寄すらむ」まで、夕霧の心中。3.3.3
注釈190大殿はかならず思し寄すらむ推量の助動詞「らむ」視界外推量のニュアンス。3.3.3
注釈191いよいよ御けしきゆかし『完訳』は「夕霧は柏木死去の由因を確かめたい。ここで薫が柏木の子であることをほとんど確信し、いよいよ秘密の核心をつかみたい」と注す。3.3.3
注釈192いであはれ以下「罪得がましさ」まで、夕霧の心中。3.3.5
注釈193父大臣の柏木の父、致仕太政大臣。3.3.5
注釈194子と名のり出でくる人だに以下「とどめよかし」まで、致仕大臣の言葉を引用。「柏木」巻に同趣旨の言葉がある。3.3.6
注釈195聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ『集成』は「仏教では、親子の縁を重んじるからである」と注す。3.3.7
注釈196いでいかでさはあるべきことぞ夕霧の心中。3.3.7
注釈197心ばへさへなつかしうあはれにて薫は美貌の上に気立てまでがやさしい。副助詞「さへ」添加の意。「あはれ」の意について、『集成』は「おとなしくて」、『完訳』は「しみじみ好ましく」と解す。3.3.8
注釈198睦れ遊びたまへば夕霧になついてじゃれる。3.3.8
校訂13 心--*ところ 3.3.2
3.4
第四段 夕霧、源氏と対話す


3-4  Yugiri talks with Genji

3.4.1   対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ。昨夜、かの一条の宮に参うでたりしに、 おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑みて聞きおはす。 あはれなる昔のこと、かかりたる節々は、あへしらひなどしたまふに、
 対へお渡りになったので、のんびりとお話など申し上げていらっしゃるうちに、日も暮れかかって来た。昨夜、あの一条宮邸に参った時に、おいでになっていたご様子などを申し上げなさったところ、ほほ笑んで聞いていらっしゃる。気の毒な故人の話、関係のある話の節々には、あいずちなどを打ちなさって、
 院が対のほうへおいでになったのでお供をして行って大将がお話をかわしているうちに日も暮れかかってきた。昨夜一条の宮をおたずねした時のあちらの様子などを大将が語るのを院は微笑して聞いておいでになった。故人に関することが出てくる時には言葉もおはさみになって同情して聞いておいでになるのであったが、
  Tai he watari tamahi nure ba, nodoyaka ni ohom-monogatari nado kikoye te ohasuru hodo ni, hi kure kakari nu. Yobe, kano Itideu-no-Miya ni maude tari si ni, ohase si arisama nado kikoye-ide tamahe ru wo, hohowemi te kiki ohasu. Ahare naru mukasi no koto, kakari taru husi-busi ha, ahesirahi nado si tamahu ni,
3.4.2  「 かの想夫恋の心ばへは、げに、いにしへの例にも引き出でつべかりけるをりながら、 女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるることどもこそ多かれ。
 「あの想夫恋を弾いた気持ちは、なるほど、昔の風流の例として引き合いに出してもよさそうなところであるが、女は、やはり、男が心を動かす程度の風流があっても、いい加減なことでは表わすべきではないことだと、考えさせられることが多いな。
 「想夫恋を少しお合わせになったということなどは非常におもしろくて文学的ではあるが、しかし自分の意見として言えば女は異性を知らず知らず興奮させるような結果までを考慮してどこまでも避けねばならぬことだと思うがね、
  "Kano Sauhuren no kokorobahe ha, geni, inisihe no tamesi ni mo hiki-ide tu bekari keru wori nagara, womna ha, naho, hito no kokoro-uturu bakari no yuwe yosi wo mo, oboroke ni te ha morasu maziu koso ari kere to, omohi-sira ruru koto-domo koso ohokare.
3.4.3   過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を、 人に知られぬとならば、同じうは、心きよくて、とかくかかづらひ、 ゆかしげなき乱れなからむや、誰がためも心にくく、めやすかるべきことならむとなむ思ふ」
 故人への情誼を忘れず、このように末長い好意を、先方も知られたとならば、同じことなら、きれいな気持ちで、あれこれとかかわり合って、面白くない間違いを起こさないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、世間体も穏やかなことであろうと思う」
 故人への情誼よしみで御親切にし始めたのであれば、君はどこまでもきれいな心でお交際つきあいをしなければならないよ。あやまちのないようにね。苦しい結果を引き起こすようなことのないようにするのがどちらのためにもいいことだろうと思う」
  Sugi ni si kata no kokorozasi wo wasure zu, kaku nagaki youi wo, hito ni sira re nu to nara ba, onaziu ha, kokoro kiyoku te, tokaku kakadurahi, yukasigenaki midare nakara m ya, ta ga tame mo kokoro-nikuku, meyasukaru beki koto nara m to nam omohu."
3.4.4  とのたまへば、「 さかし。人の上の御教へばかりは心強げにて、かかる好きはいでや」と、見たてまつりたまふ。
 とおっしゃるので、「そのとおりだ。他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好色の道はどうかな」と、拝見なさる。
 と院はお言いになった。大将は心に、このお言葉は承服されない、人をお教えになるのには賢いことを仰せられても、御自身がこの場合に処して御冷静でありうるであろうかと思っていた。
  to notamahe ba, "Sakasi. Hito no uhe no ohom-wosihe bakari ha kokoro tuyoge ni te, kakaru suki ha ide ya?" to, mi tatematuri tamahu.
3.4.5  「 何の乱れかはべらむ。なほ、常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、 心短くはべらむこそ、なかなか 世の常の嫌疑あり顔にはべらめとてこそ。
 「何の間違いがございましょう。やはり、無常の世の同情から世話をするようになりました方々に、当座だけのいたわりで終わったら、かえって世間にありふれた疑いを受けましょうと思ってです。
 「あやまちなどの起こりようはありません。人生の無常に直面されたかたがたを宗教的な気持ちで慰めて差し上げる義務があるように思いましてお交際つきあいを始めたのですから、すぐまたその友情から離れますようなことをしましては、かえって普通の失敗した野心家らしく世間から思われるだろうと考えますから、いつまでも友情は捨てないつもりでおります。
  "Nani no midare ka habera m? Naho, tune nara nu yo no ahare wo kake-some haberi ni si atari ni, kokoro-mizikaku habera m koso, naka-naka yo no tune no kengi ari gaho ni habera me tote koso.
3.4.6  想夫恋は、心とさし過ぎて こと出でたまはむや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。
 想夫恋は、ご自分の方から弾き出しなさったのなら、非難されることにもなりましょうが、ことのついでに、ちょっとお弾きになったのは、あの時にふさわしい感じがして、興趣がございました。
 想夫恋をおきになりましたことで御非難のお言葉がございましたが、あちらが進んでなすったことであればそれは決しておもしろい話ではございませんが、私の参ります前から弾いておいでになりました琴を、ただ少しばかり私の想夫恋に合わせてくださいましたのですから、非常にその場の情景にかなってよかったのでございます。
  Sauhuren ha, kokoro to sasi-sugi te koto ide tamaha m ya, nikuki koto ni habera masi, mono no tuide ni honoka nari si ha, wori kara no yosiduki te, wokasiu nam haberi si.
3.4.7  何ごとも、人により、ことに従ふわざにこそはべるべかめれ。 齢なども、やうやういたう若びたまふべきほどにもものしたまはず、 また、あざれがましう、好き好きしきけしきなどに、もの馴れ などもしはべらぬに、 うちとけたまふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものしたまひける」
 何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう。年齢なども、だんだんと、若々しいお振る舞いが相応しいお年頃ではいらっしゃいませんし、また、冗談を言って、好色がましい態度を見せることに、馴れておりませんので、お気を許されるでしょうか。大体が優しく無難なお方のご様子でいらっしゃいました」
 どんなこともその女性次第だと思います。御年齢などもきらきらとする若さを少し越えていらっしゃいます方が、好色漢のような態度をお見せするはずもない私に、親しい友情が生じまして、私の願ったことが聞いていただけたというようなことは恥ずかしいこととは思われません。御観察申し上げるところでは非常に女らしい優しい御性質のようです」
  Nani-goto mo, hito ni yori, koto ni sitagahu waza ni koso haberu beka' mere. Yohahi nado mo, yau-yau itau wakabi tamahu beki hodo ni mo monosi tamaha zu, mata, azare gamasiu, suki-zukisiki kesiki nado ni, mono-nare nado mo si habera nu ni, uti-toke tamahu ni ya? Ohokata natukasiu meyasuki hito no ohom-arisama ni nam monosi tamahi keru."
3.4.8  など聞こえたまふに、 いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄りたまひて、 かの夢語りを聞こえたまへば、とみにものものたまはで、聞こしめして、思し合はすることもあり。
 などと申し上げなさっているうちに、ちょうどよい機会を作り出して、少し近くに寄りなさって、あの夢のお話を申し上げなさると、すぐにはお返事をなさらずに、お聞きあそばして、お気づきあそばすことがある。
 こんな話をしていた大将は、かねて願っている機会が到来したように思い、少し院のお座へ近づいて昨夜ゆうべの夢の話をした。ものも言わずに聞いておいでになった院のお心の中にはお思い合わせになることがあった。
  nado kikoye tamahu ni, ito yoki tuide tukuri ide te, sukosi tikaku mawiri yori tamahi te, kano yume gatari wo kikoye tamahe ba, tomi ni mono mo notamaha de, kikosimesi te, obosi ahasuru koto mo ari.
注釈199対へ渡りたまひぬればのどやかに御物語など聞こえておはするほどに日暮れかかりぬ源氏が東の対に移動なさったので、夕霧も源氏に従って移動し、東の対でゆっくりとお話し申し上げているうちに、日が暮れかかってきた、という意。3.4.1
注釈200おはせしありさまなど御息所や落葉宮の様子。3.4.1
注釈201あはれなる昔のこと「昔」は故人柏木をさす。3.4.1
注釈202かの想夫恋の心ばへは以下「なからむとなむ思ふ」まで、源氏の詞。『集成』は「夕霧の話を聞いて、以下に落葉の宮を批判する。女三の宮のこともつねに意識下にあるからであろう」と注す。3.4.2
注釈203女はなほ人の心移るばかりのゆゑよしをもおぼろけにては漏らすまじうこそありけれ『完訳』は「女は、相手の男が心を動かすような嗜みがあっても、並々のことでは見せてはならぬもの。宮は想夫恋を弾くべきでなかったと訓戒」と注す。3.4.2
注釈204過ぎにし方の心ざしを忘れず故人柏木への情誼。3.4.3
注釈205人に知られぬとならば「人」は相手落葉宮をさす。「られ」受身の助動詞、連用形。「ぬ」完了の助動詞。3.4.3
注釈206ゆかしげなき乱れなからむや『完訳』は「おもしろみのない間違い。女三の宮の姉宮に、夕霧までが関わり父院に迷惑の及ぶのを恐れる」と注す。3.4.3
注釈207さかし人の上の以下「かかる好きはいでや」まで、夕霧の心中。『集成』は「一人の男性として源氏を見る夕霧の心中」。『完訳』は「源氏の日常を見て、こちらも同感だ、とする皮肉な反応。他人への説教だけはしっかりしたものだが、ご自分の色恋沙汰はどんなものか。この反発が、以下の父への冷たい観察へと転ず」と注す。3.4.4
注釈208何の乱れかはべらむ以下「ものしたまひける」まで、夕霧の詞。3.4.5
注釈209心短くはべらむこそ当座のいたわり。3.4.5
注釈210世の常の嫌疑あり顔に『集成』は「未亡人に言い寄ってみたが、はねつけられたので、手を引いたのだとおもわれはしないか、の意」と注す。3.4.5
注釈211こと出でたまはむや憎きことにはべらまし推量の助動詞「まし」反実仮想の意。読点で、逆接で文脈は続く。3.4.6
注釈212齢なども落葉宮の年齢不詳。女三の宮が二十三、四歳だから、それより上のはず。3.4.7
注釈213またあざれがましう以下、夕霧自身についていう。3.4.7
注釈214うちとけたまふにや主語は落葉宮。係助詞「や」反語表現。3.4.7
注釈215いとよきついで作り出でて『集成』は「うまく話のきっかけを作り出して」と訳す。3.4.8
注釈216かの夢語り柏木が夕霧の夢の中で、笛の相伝が間違っている、夕霧ではなく別の人に伝えたのだ、といったこと。3.4.8
校訂14 なども なども--(/+な)とも 3.4.7
3.5
第五段 笛を源氏に預ける


3-5  Yugiri transfer the flute to Genji

3.5.1  「 その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり。かれは 陽成院の御笛なり。それを 故式部卿宮の、いみじきものにしたまひけるを、かの衛門督は、童よりいと異なる音を吹き出でしに感じて、 かの宮の萩の宴せられける日、贈り物に取らせたまへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しか ものしたるななり
 「その笛は、わたしが預からねばならない理由がある物だ。それは陽成院の御笛だ。それを故式部卿宮が大事になさっていたが、あの衛門督は、子供の時から大変上手に笛を吹いたのに感心して、故式部卿宮が萩の宴を催された日、贈り物にお与えになったものだ。女の考えで深い由緒もよく知らず、そのように与えたのだろう」
 「その笛は私の所へ置いておく因縁があるものなのだよ。昔は陽成ようぜい院の御物ぎょぶつだったものなのだがね。私の叔父おじのおくなりになった式部卿しきぶきょうの宮が秘蔵しておいでになったのを、あの衛門督えもんのかみは子供の時から笛がことによくできたものだから、宮のおやしきはぎの宴のあった時に贈り物としてお与えになったのだ。御婦人がたは深いお考えもなしに君へ贈られたのだろう」
  "Sono hue ha, koko ni miru beki yuwe aru mono nari. Kare ha Yauzei-Win no ohom-hue nari. Sore wo ko-Sikibukyau-no-Miya no, imiziki mono ni si tamahi keru wo, kano Wemon-no-Kami ha, waraha yori ito koto naru ne wo huki-ide si ni kan-zi te, kano Miya no hagi-no-en se rare keru hi, okurimono ni tora se tamahe ru nari. Womna no kokoro ha hukaku mo tadori sira zu, sika monosi taru na' nari."
3.5.2  などのたまひて、
 などとおっしゃって、
  院はこうお言いになるのであった。
  nado notamahi te,
3.5.3  「 末の世の伝へ、またいづ方にとかは思ひまがへむ。 さやうに思ふなりけむかし」など思して、「 この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし」と思す。
 「子孫に伝えたいということは、また他に誰と間違えようか。そのように考えたのだろう」などとお考えになって、「この君も思慮深い人なので、気づくこともあろうな」とお思いになる。
 御心中ではまず手もとへ置こう、死後にもとの持ち主の譲らせたい人は分明であると思召おぼしめされた。聡明そうめいな大将にはもう想像ができていて、今持ち合わせてもいるのであろうとお思いになるのであった。
  "Suwe-no-yo no tutahe, mata idu-kata ni to ka ha omohi magahe m. Sayau ni omohu nari kem kasi." nado obosi te, "Kono Kimi mo ito hukaki hito nare ba, omohi-yoru koto ara m kasi." to obosu.
3.5.4   その御けしきを見るに、いとど憚りて、とみにも うち出で聞こえたまはねど、せめて聞かせたてまつらむの心あれば、今しもことのついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしう もてなして
 そのご表情を見ていると、ますます遠慮されて、すぐにはお話し申し上げなされないが、せめてお聞かせ申そうとの思いがあるので、ちょうど今この機会に思い出したように、はっきり分からないふりをして、
 すべてを察しになった院のお顔色を見てはいっそう大将は打ち出しにくくなるのであるが、ぜひ伺ってみたい気持ちがあって、ただこの瞬間に心へ浮かんできたというようにして、思い出し思い出し申すように言う、
  Sono mi-kesiki wo miru ni, itodo habakari te, tomi ni mo uti-ide kikoye tamaha ne do, semete kika se tatematura m no kokoro are ba, ima simo koto no tuide ni omohi-ide taru yau ni, obomekasiu motenasi te,
3.5.5  「 今はとせしほどにも、とぶらひにまかりてはべりしに、亡からむ後のことども言ひ置きはべりし中に、 しかしかなむ深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべりしかば、いかなることにかはべりけむ、今にそのゆゑをなむえ思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」
 「臨終となった折にも、お見舞いに参上いたしましたところ、亡くなった後の事を遺言されました中に、これこれしかじかと、深く恐縮申している旨を、繰り返し言いましたので、どのようなことでしょうか、今に至までその理由が分かりませんので、気に掛かっているのでございます」
 「もう衛門督が終焉しゅうえんに近いころでございました。見舞いにまいりました私に、いろいろ遺言をいたしました中に、六条院様に対して深い罪を感じているということを繰り返し繰り返し言ったのでございましたが、ただ御感情を害していると聞きましただけでは、私によくわからないのでしたが、どんなことだったのでございましょう。ただ今もまだよくわからないのでございます」
  "Ima ha to se si hodo ni mo, toburahi ni makari te haberi si ni, nakara m noti no koto-domo ihi-oki haberi si naka ni, sika-sika nam hukaku kasikomari mausu yosi wo, kahesu gahesu monosi haberi sika ba, ika naru koto ni ka haberi kem, ima ni sono yuwe wo nam e omohi tamahe yori habera ne ba, obotukanaku haberu."
3.5.6  と、いとたどたどしげに聞こえたまふに、
 と、いかにも腑に落ちないように申し上げなさるので、
 自分が感じたように
  to, ito tado-tadosige ni kikoye tamahu ni,
3.5.7  「 さればよ
 「やはり知っているのだな」
 大将はあの秘密の全貌ぜんぼうを知っているのである
  "Sare ba yo!"
3.5.8  と思せど、何かは、そのほどの事あらはしのたまふべきならねば、しばしおぼめかしくて、
 とお思いになるが、どうして、そのような事柄をお口にすべきではないので、暫くは分からないふりをして、
 と院はお悟りになったのであるが、くわしくお語りになるべきことでもないので、しばらくは突然いぶかしい話を聞くというような御表情を見せておいでになったあとで、
  to obose do, nanikaha, sono hodo no koto arahasi notamahu beki nara ne ba, sibasi obomekasiku te,
3.5.9  「 しか、人の恨みとまるばかりのけしきは、 何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞こゆべき。 夜語らずとか、女房の伝へに 言ふなり」
 「そのような、人に恨まれるような事は、いつしただろうかと、自分自身でも思い出す事ができないな。それはそれとして、そのうちゆっくり、あの夢の事は考えがついてからお話し申そう。夜には夢の話はしないものだとか、女房たちが言い伝えているようだ」
 「そんなに死んで行く時にまで人の気にかけるようなことはいつ自分が言ったりしたりしたのだろう。私にもわからない、思い出せないよ。いずれ静かな時を見て君の夢に関する細かな説明はしてあげよう。夢の話を夜はしてならないものだとか、迷信だろうが女の人などは言うものだよ」
  "Sika, hito no urami tomaru bakari no kesiki ha, nani no tuide ni ka ha mori-ide kem to, midukara mo e omohi-ide zu nam. Sate, ima siduka ni, kano yume ha omohi ahase te nam kikoyu beki. Yoru katara zu to ka, nyoubau no tutahe ni ihu nari."
3.5.10  とのたまひて、をさをさ御いらへもなければ、うち出で聞こえてけるを、いかに思すにかと、 つつましく思しけり、とぞ
 とおっしゃって、ろくにお返事もないので、お耳に入れてしまったことを、どのように考えていらっしゃるのかと、きまり悪くお思いであった、とか。
 と院は言っておいでになって、あの不思議な問題にはあまり触れようとあそばさないのを見て、大将は自分の言い出したということがお気に入らないのではないかと、きまり悪く思ったのである。
  to notamahi te, wosa-wosa ohom-irahe mo nakere ba, uti-ide kikoye te keru wo, ikani obosu ni ka to, tutumasiku obosi keri, to zo.
注釈217その笛はここに見るべきゆゑあるものなり以下「ものしたるなり」まで、源氏の詞。『集成』は「内心、薫に伝えるべきだと判断しての発言」と注す。3.5.1
注釈218陽成院の御笛なり陽成院、歴史上の天皇(八六八〜九四九)。3.5.1
注釈219故式部卿宮の物語中の朝顔斎院の父桃園式部卿宮。陽成天皇の弟に南院式部卿宮貞保親王(八七〇〜九二四)がいる。柏木は右将軍藤原保忠(九三六年死去)に準えられているので(「柏木」巻)、史実と虚構との不即不離の関係が見られる。3.5.1
注釈220かの宮の萩の宴せられける日物語中には語られていない催し事。3.5.1
注釈221ものしたるななり「ななり」は断定の助動詞+伝聞推定の助動詞の省約形。3.5.1
注釈222末の世の伝へ以下「思ふなりけむかし」まで、源氏の心中。3.5.3
注釈223さやうに思ふ柏木は笛を薫に伝えたい、ということ。3.5.3
注釈224この君も以下「ことあらむかし」まで、源氏の心中。3.5.3
注釈225その御けしきを見るに夕霧が源氏の表情を見ると。接続助詞「に」順接の意。3.5.4
注釈226うち出で聞こえたまはねど主語は夕霧。3.5.4
注釈227今はとせしほどにも以下「おぼつかなくはべる」まで、夕霧の詞。3.5.5
注釈228しかしかなむ深くかしこまり申すよしを『集成』は「「しかしかなむ」は、夕霧の実際に発言した内容を省略した書き方」。『完訳』は「柏木が実際には詳しく述べたが、ここは「しかじか」と省筆」と注す。「かしこまり申す」は柏木が源氏に対してお詫び申す意。3.5.5
注釈229さればよ源氏の心中。『集成』は「やっぱり知っているのだな、と(源氏は)お思いになるが、いやなに、その時のことをありのままにおっしゃるべきことではないので。源氏の心中の思いと地の文が交錯し、重なる文脈」と注す。3.5.7
注釈230しか人の恨み以下「言ふなり」まで、源氏の詞。「人」は柏木をさす。3.5.9
注釈231何のついでにかは漏り出でけむとみづからもえ思ひ出でずなむ『完訳』は「六条院の試楽で、柏木に皮肉をあびせたこともあるが、それらにはあえてふれない」と注す。3.5.9
注釈232夜語らずとか女房の伝へに夢の話は夜には語らないという言い伝え。「孫真人云フ、夜、夢ハ須ラク説クベカラズ」(紫明抄)。3.5.9
注釈233つつましく思しけりとぞ『弄花抄』は「紫式部が作と見せしと也」と指摘。『集成』は「事実を伝え聞いた語り手の口ぶり」。『完訳』は「語り手が伝聞した形で閉じる」と注す。3.5.10
校訂15 もてなして もてなして--もてなし△(△/#て) 3.5.4
校訂16 とか とか--と(と/+か<朱>) 3.5.9
Last updated 9/4/2003
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3)
Last updated 1/18/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-2)
Last updated 1/18/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kumi(青空文庫)

2003年10月4日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

Last updated 10/4/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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