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37 横笛(大島本)
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YOKOBUE
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光る源氏の准太上天皇時代 四十九歳春から秋までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from spring to fall, at the age of 49
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2 |
第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
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2 Tale of Yugiri A flute of the late Kashiwagi loved
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2.1 |
第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
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2-1 Yugiri visits Ichijo-miya residence
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2.1.1 |
大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに 思ひ出でつつ、「 いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、 御けしきもゆかしきを、 ほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、「 いかならむついでに、この 事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも 聞こしめさむ」と、思ひわたりたまふ。
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大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を、心ひそかに思い出し思い出ししては、「どういうことであったのか」と、とてもお尋ね申し上げたく、お顔色も伺いたいのだが、うすうす思い当たられる節もあるので、かえって口に出して申し上げるのも具合が悪くて、「どのような機会に、この事の詳しい事情をはっきりさせ、また、あの人の思いつめていた様子をお耳に入れようか」と、思い続けていらっしゃる。
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大将は柏木が命の終わりにとどめた一言を心一つに思い出して何事であったかいぶかしいと院に申し上げて見たく思い、その時の御表情などでお心も読みたいと願っているが、淡くほのかに想像のつくこともあるために、かえって思いやりのないお尋ねを持ち出して不快なお気持ちにおさせしてはならない、きわめてよい機会を見つけて自分は真相も知っておきたいし、故人が煩悶していた話もお耳に入れることにしたいと常に思っていた。
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Daisyau-no-Kimi ha, kano imaha no todime ni todome si hito-koto wo, kokoro hitotu ni omohi-ide tutu, "Ika nari si koto zo?" to ha, ito kikoye mahosiu, mi-kesiki mo yukasiki wo, hono-kokoroe te omohi-yora ruru koto mo are ba, naka-naka uti-ide te kikoye m mo katahara-iataku te, "Ika nara m tuide ni, kono koto no kuhasiki arisama mo akirame, mata, kano hito no omohi-iri tari si sama wo mo kikosi-mesa m?" to, omohi-watari tamahu.
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2.1.2 |
秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやりきこえたまひて、渡りたまへり。うちとけ、しめやかに、 御琴どもなど弾きたまふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつる けはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
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秋の夕方の心寂しいころに、一条の宮をどうしていられるかとご心配申し上げなさって、お越しになった。くつろいで、ひっそりとお琴などを弾いていらっしゃったところなのであろう。奥へ片づけることもできず、そのままその南の廂間にお入れ申し上げなさった。端の方にいた人たちが、いざって入って行く様子がはっきり分かって、衣ずれの音や、あたりに漂う香の匂いも薫り高く、奥ゆかしい感じである。
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物哀れな気のする夕方に大将は一条の宮をお訪ねした。柔らかいしめやかな感じがまずして宮は今まで琴などを弾いておいでになったものらしかった。来訪者を長く立たせておくこともできなくて、人々はいつもの南の中の座敷へ案内した。今までこの辺の座敷に出ていた人が奥へいざってはいった気配が何となく覚えられて、衣擦れの音と衣の香が散り、艶な気分を味わった。
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Aki no yuhube no mono-ahare naru ni, Itideu-no-Miya wo omohi-yari kikoye tamahi te, watari tamahe ri. Utitoke, simeyaka ni, ohom-koto-domo nado hiki tamahu hodo naru besi. Hukaku mo e tori-yara de, yagate sono minami no hisasi ni ire tatematuri tamahe ri. Hasi-tu-kata nari keru hito no, wizari-iri turu kehahi-domo siruku, kinu no otonahi mo, ohokata no nihohi kaubasiku, kokoro-nikuki hodo nari.
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2.1.3 |
例の、御息所、対面したまひて、昔の物語ども聞こえ交はしたまふ。 わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、 虫の音しげき野辺と ★乱れたる夕映えを、見わたしたまふ。
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いつものように、御息所がお相手なさって、昔話をあれこれと交わし合いなさる。ご自分の御殿は、明け暮れ人が大勢出入りして、もの騒がしく、幼い子供たちが、大勢寄って騒々しくしていらっしゃるのにお馴れになっているので、とても静かで心寂しい感じがする。ちょっと手入れも行き届いてない感じがするが、上品に気高くお暮らしになって、前栽の花々、虫の音のたくさん聞こえる野原のように咲き乱れている夕映えを、見渡しなさる。
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いつもの御息所が出て来て柏木の話などを双方でした。自身の所は人出入りも多く幾人もの子供が始終家の中を騒がしくしているのに馴れている大将には御殿の中の静かさがことさら身にしむように思われた。以前よりもまた荒れてきたような気はするが、さすがに貴人の住居らしい品は備わっていた。植え込みの花草が虫の音に満ちた野のように乱れた夕明りのもとの夜を大将はながめていた。
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Rei no, Miyasumdokoro, taimen si tamahi te, mukasi no monogatari-domo kikoye-kahasi tamahu. Waga ohom-tono no, ake-kure hito sigeku te, mono-sawagasiku, wosanaki Kimi-tati nado, sudaki awate tamahu ni narahi tamahi te, ito siduka ni mono ahare nari. Uti-are taru kokoti sure do, ate ni kedakaku sumi-nasi tamahi te, sensai no hana-domo, musi no ne sigeki nobe to midare taru yuhubaye wo, mi watasi tamahu.
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出典3 |
虫の音しげき野辺 |
君が植ゑし一村薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな |
古今集哀傷-八五三 三春有助 |
2.1.3 |
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2.2 |
第二段 柏木遺愛の琴を弾く
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2-2 Yugiri plays koto that is the late Kashiwagi loved
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2.2.1 |
和琴を引き寄せたまへれば、 律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、 なつかしうおぼゆ。
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和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。
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そこに出たままになっていた和琴を引き寄せてみると、それは律の調子に合わされてあって、よく弾き馴らされて人間の香に染んだなつかしいものであった。
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Wagon wo hiki-yose tamahe re ba, riti ni sirabe rare te, ito yoku hiki-narasi taru, hitoga ni simi te, natukasiu oboyu.
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2.2.2 |
「 かやうなるあたりに、思ひのままなる 好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」
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「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てるものだ」
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こんな趣味の美しい女住居に放縦な癖のついた男が来たなら、自制もできずに醜態を見せることがあるのであろう、
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"Kayau naru atari ni, omohi no mama naru suki-gokoro aru hito ha, sidumuru koto naku te, sama asiki kehahi wo mo arahasi, sarumaziki na wo mo taturu zo kasi."
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2.2.3 |
など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。
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などと、思い続けながら、お弾きになる。
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とこんなことも心に思いながら大将は和琴を弾いていた。
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nado, omohi-tuduke tutu, kaki-narasi tamahu.
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2.2.4 |
故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、
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故君がいつもお弾きになっていた琴であった。風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、
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これは柏木が生前よく弾いていた楽器である。ある曲のおもしろい一節だけを弾いたあとで、大将は、
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Ko-Kimi no tune ni hiki tamahi si koto nari keri. Wokasiki te hitotu nado, sukosi hiki tamahi te,
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2.2.5 |
「 あはれ、いとめづらかなる音に 掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。 承りあらはしてしがな」
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「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。お聞かせ願いたいものだ」
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「ことに和琴は名手というべき人でしたがね。忘れがたいあの人の芸術の妙味は宮様へお伝わりしているでしょうから、私はそれを承りたいのですが」
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"Ahare, ito meduraka naru ne ni kaki-narasi tamahi si haya! Kono ohom-koto ni mo komori te habera m kasi. Uketamahari arahasi te si gana!"
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2.2.6 |
とのたまへば、
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とおっしゃると、
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と言うと、
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to notamahe ba,
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2.2.7 |
「 琴の緒絶えにし後より ★、昔の御童遊びの名残をだに、 思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる。 院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、 かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、 定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、 世の憂きつまにといふやうに ★なむ見たまふる」
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「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。院の御前で、女宮たちがそれぞれ得意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼんやりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」
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「あの不幸のございましてからは、全くこうしたことに無関心におなりあそばしまして、お小さいころのお稽古弾きと申し上げるほどのこともあそばしません。院の御前で内親王様がたにいろいろの芸事のお稽古をおさせになりましたころには、音楽の才はおありになるというような御批評をお受けあそばした宮様ですが、あれ以来はぼんやりとしておしまいになりまして、毎日なさいますことはお物思いだけでございますから、音楽も結局寂しさを慰めるものではないという気が私にいたされます」
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"Koto no wo taye ni si noti yori, mukasi no ohom-warahaasobi no nagori wo dani, omohi-ide tamaha zu nam nari ni te habe' meru. Win no o-mahe ni te, Womna-Miya-tati no tori-dori no ohom-koto-domo, kokoromi kikoye tamahi si ni mo, kayau no kata ha, obomekasikara zu monosi tamahu to nam, sadame kikoye tamahu meri si wo, ara nu sama ni hore-boresiu nari te, nagame sugusi tamahu mere ba, yo no uki tuma ni to ihu yau ni nam mi tamahuru."
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2.2.8 |
と聞こえたまへば、
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とお答え申し上げなさると、
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と御息所は言う。
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to kikoye tamahe ba,
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2.2.9 |
「 いとことわりの御思ひなりや。限りだにある ★」
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「まことにごもっともなお気持ちです。せめて終わりがあれば」
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「ごもっともなことですよ。『恋しさの限りだにある世なりせば』(つらきをしひて歎かざらまし)」
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"Ito kotowari no ohom-omohi nari ya! Kagiri dani aru."
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2.2.10 |
と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、
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と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、
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大将は歎息をして楽器を前へ押しやった。
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to, uti nagame te, koto ha osi-yari tamahe re ba,
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2.2.11 |
「 かれ、なほさらば、 声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める 耳をだに、明きらめはべらむ ★」
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「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。何やら気も晴れずに物思いに沈み込んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」
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「楽器に故人の音がついているかどうかが、私どもにわかりますほどお弾きになって見てくださいませ。みじめにめいっておりますわれわれの耳だけでも助けてくださいませ」
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"Kare, naho sara ba, kowe ni tutaharu koto mo ya to, kiki-waku bakari nara sase tamahe. Mono mutukasiu omou tamahe sidume ru mimi wo dani, akirame habera m."
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2.2.12 |
と聞こえたまふを、
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と申し上げなさるので、
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to kikoye tamahu wo,
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2.2.13 |
「 しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」
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「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それを伺いたいと申し上げているのです」
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「私よりも御縁の深い方のあそばすものにこそ故人の芸術のうかがわれるものがあるでしょうから、ぜひ宮様のを承りたい」
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"Sika tutaharu naka-no-wo ha, koto ni koso ha habera me. Sore wo koso uketamahara m to ha kikoye ture."
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2.2.14 |
とて、 御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。
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とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。
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御簾のそばに近く和琴を押し寄せて大将はこう言うのであるが、すぐに気軽く御承引あそばすものでないことを知っている大将は、しいても望みはしなかった。
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tote, mi-su no moto tikaku osi-yose tamahe do, tomi ni simo uke-hiki tamahu maziki koto nare ba, sihite mo kikoye tamaha zu.
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出典4 |
琴の緒絶えにし後 |
呂氏春秋曰、鍾子期善聴 (中略) 鍾子期死、伯牙破琴絶絃 |
蒙求-伯牙絶絃 |
2.2.7 |
出典5 |
世の憂きつま |
浅茅生の小笹が原に置く露ぞ世の憂きつまと思ひ乱るる |
源氏釈所引-出典未詳 |
2.2.7 |
出典6 |
限りだにある |
恋しさの限りだにある世なりせば年経ば物は思はざらまし |
古今六帖五-二五七一 |
2.2.9 |
出典7 |
耳をだに、明きらめ |
如聴仙楽耳暫明 |
白氏文集-六〇三「琵琶行」 |
2.2.11 |
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2.3 |
第三段 夕霧、想夫恋を弾く
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2-3 Yugiri plays koto that is the late Kashiwagi loved
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2.3.1 |
月さし出でて曇りなき空に、 羽うち交はす雁がねも ★、列を離れぬ、うらやましく 聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、 箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、 琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
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月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も、列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのであろう。風が肌寒く感じられ、何となく寂しさに心動かされて、箏の琴をたいそうかすかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、ますます心を引きつけられてしまって、かえって物足りない思いがするので、琵琶を取り寄せて、とても優しい音色に「想夫恋」をお弾きになる。
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月が上ってきた。秋の澄んだ空を幾つかの雁の通って行くことも宮のお心には孤独でないものとしておうらやましいことであろうと思われた。冷ややかな風の身にしむように吹き込んでくるのにお誘われになって、宮は十三絃をほのかにお掻き鳴らしになるのであった。この情趣に大将の心はいっそう惹かれて、より多くを望む思いから、琵琶を借りて想夫恋を弾き出した。
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Tuki sasi-ide te kumori naki sora ni, hane uti-kahasu kari-ga-ne mo, tura wo hanare nu, urayamasiku kiki tamahu ram kasi. Kaze hada samuku, mono-ahare naru ni sasoha re te, syau-no-koto wo ito honoka ni kaki-narasi tamahe ru mo, oku hukaki kowe naru ni, itodo kokoro tomari hate te, naka-naka ni omohoyure ba, biha wo tori-yose te, ito natukasiki ne ni, Sauhuren wo hiki tamahu.
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2.3.2 |
「 思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、 こと問はせたまふべくや」
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「お気持ちを察してのようなのは、恐縮ですが、この曲目なら、何かおっしゃって下さるかと思いまして」
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「自信のあるものらしく見えますのが恥ずかしゅうございますが、この曲だけはごいっしょにあそばしてくだすってよい理由のあるものですから」
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"Omohi oyobi gaho naru ha, katahara-itakere do, kore ha, koto toha se tamahu beku ya?"
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2.3.3 |
とて、切に簾の内をそそのかしきこえたまへど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、
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とおっしゃって、しきりに御簾の中に向かって催促申し上げなさるが、和琴を所望された以上に、気が引けるお相手なので、宮はただ悲しいとばかりお思い続けていらっしゃるので、
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と大将は御簾の奥へ合奏をお勧めするのであるが、他のものよりも多く羞恥の感ぜられる曲に宮はお手を出そうとあそばさない。ただ琵琶の音に深く身にしむ思いを覚えてだけおいでになる宮へ、
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tote, seti ni su no uti wo sosonokasi kikoye tamahe do, masite, tutumasiki sasi-irahe nare ba, Miya ha tada mono wo nomi ahare to obosi tuduke taru ni,
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2.3.4 |
「 ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
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「言葉に出しておっしゃらないのも、おっしゃる以上に
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ことに出で言はぬを言ふにまさるとは
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"Koto ni ide te iha nu mo ihu ni masaru to ha
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2.3.5 |
人に恥ぢたるけしきをぞ見る」
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深いお気持ちなのだと、慎み深い態度からよく分かります」
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人に恥ぢたる気色とぞ見る
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hito ni hadi taru kesiki wo zo miru
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2.3.6 |
と聞こえたまふに、 ただ末つ方をいささか弾きたまふ。
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と申し上げなさると、わずかに終わりの方を少しお弾きになる。
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と大将が言った時、宮はただ想夫恋の末のほうだけを合わせてお弾きになった。
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to kikoye tamahu ni, tada suwe-tu-kata wo isasaka hiki tamahu.
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2.3.7 |
「 深き夜のあはればかりは聞きわけど
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「趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、
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深き夜の哀ればかりは聞きわけど
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"Hukaki yo no ahare bakari ha kiki wake do
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2.3.8 |
ことより顔にえやは弾きける」
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靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか」
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ことよりほかにえやは言ひける
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koto yori gaho ni e ya ha ihi keru
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2.3.9 |
飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、 古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
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もっと聞いていたいほどであるが、そのおっとりした音色によって、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、同じ調子の曲目といっても、しみじみとまたぞっとする感じで、ほんの少し弾いてお止めになったので、恨めしいほどに思われるが、
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ともお言いになるのであった。非常におもしろいお爪音であって、おおまかな音の楽器ではあるが、芸の洗練された名手が熱心にお弾きになるのであるから、すごい気分のような透徹した音を、美しく少しだけお聞かせになっておやめになったのを、大将は恨めしいまでに飽き足らず思うのであるが、
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Akazu wokasiki hodo ni, saru ohodoka naru mono-no-negara ni, huruki hito no kokoro sime te hiki-tutahe keru, onazi sirabe no mono to ihe do, ahare ni kokoro-sugoki mono no, katahasi wo kaki-narasi te yami tamahi nure ba, uramesiki made oboyure do,
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2.3.10 |
「 好き好きしさを、 さまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、 昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、 この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや。 弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
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「物好きな心を、いろいろな琴を弾いてお目に掛けてしまいました。秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかとご遠慮致して、退出致さねばなりません。また改めて失礼のないよう気をつけてお伺い致そうと思いますが、このお琴の調子を変えずにお待ち下さいませんか。とかく思いもよらぬことが起こる世の中ですから、気掛かりでなりません」
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「風流狂じみましたことをいろいろお目にかけてしまいました。秋の夜を無限におじゃまいたしておりましては故人からとがめられる気もいたしますから、もうお暇をいたしましょう。また別の日に新しい気持ちで御訪問をいたします。この楽器をこのままにしてお待ちくださるでしょうか。意外なことが起こらないともかぎらない人生のことですから不安なのです」
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"Suki-zukisisa wo, sama-zama ni hiki-ide te mo go-ran-ze rare nuru kana! Aki no yo hukasi habera m mo, mukasi no togame ya to habakari te nam, makade haberi nu beka' meru. Mata kotosara ni kokoro si te nam saburahu beki wo, kono ohom-koto-domo no sirabe kahe zu mata se tamaha m ya? Hiki tagahuru koto mo haberi nu beki yo nare ba, usirometaku koso."
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2.3.11 |
など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。
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などと、あらわにではないが、心の内をほのめかしてお帰りになる。
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などと言って、正面から恋を告げようとはしないのであるが、におわせるほどには言葉に盛って大将は帰ろうとした。
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nado, maho ni ha ara ne do, uti-nihohasi oki te ide tamahu.
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出典8 |
羽うち交はす雁がね |
白雲に羽うち交し飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月 |
古今集秋上-一九一 読人しらず |
2.3.1 |
出典9 |
ことに出でて言はぬも言ふにまさる |
此時無声勝有声 |
白氏文集-六〇三「琵琶行」 |
2.3.4 |
心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふに勝れる |
古今六帖五-二六四八 |
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2.4 |
第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る
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2-4 Miyasudokoro presents a flute that is the late Kashiwagi loved
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2.4.1 |
「 今宵の御好きには、 人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ 語りにのみ紛らはさせたまひて、 玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ ★」
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「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずのことでございます。これということもない昔話にばかり紛らわせなさって、寿命が延びるまでお聞かせ下さらなかったのが、とても残念です」
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「今夜の御風流は非難いたす者もございませんでしょう。昔の日の話をお補いくださいます程度にしかお聞かせくださいませんでしたのが残り多く思われてなりません」
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"Koyohi no ohom-suki ni ha, hito yurusi kikoye tu beku nam ari keru. Sokohakatonaki inisihe-gatari ni nomi magiraha sase tamahi te, tama no wo ni se m kokoti mo si habera nu, nokori ohoku nam."
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2.4.2 |
とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
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と言って、御贈り物に笛を添えて差し上げなさる。
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と言い、御息所は大将への贈り物へ笛を添えて出した。
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tote, ohom-okurimono ni hue wo sohe te tatematuri tamahu.
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2.4.3 |
「 これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、 御前駆に競はむ声なむ、 よそながらもいぶかしうはべる」
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「この笛には、実に古い由緒もあるように聞いておりましたが、このような蓬生の宿に埋もれているのは残念に存じまして、御前駆の負けないほどにお吹き下さる音色を、ここからでもお伺いしたく存じます」
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「この笛のほうは古い伝統のあるものと伺っておりました。こんな女住居に置きますことも、有名な楽器のために気の毒でございますから、お持ちくださいましてお吹きくださいませば、前駆の声に混じります音を楽しんで聞かせていただけるでしょう」
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"Kore ni nam, makoto ni huruki koto mo tutaharu beku kiki-oki haberi si wo, kakaru yomogihu ni udumoruru mo ahare ni mi tamahuru wo, ohom-saki ni kihoha m kowe nam, yoso nagara mo ibukasiu haberu."
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2.4.4 |
と聞こえたまへば、
|
と申し上げなさると、
|
と御息所は言った。
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to kikoye tamahe ba,
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2.4.5 |
「 似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」
|
「似つかわしくない随身でございましょう」
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「つたない私がいただいてまいることは似合わしくないことでしょう」
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"Nitukahasikara nu zuizin ni koso ha haberu bekere."
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2.4.6 |
とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
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とおっしゃって、御覧になると、この笛もなるほど肌身離さず愛玩しては、
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こう言いながら大将は手に取って見た。これも始終柏木が使っていて、
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tote, mi tamahu ni, kore mo geni yo to tomoni mi ni sohe te mote asobi tutu,
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2.4.7 |
「 みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
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「自分でも、まったくこの笛の音のあらん限りは、吹きこなせない。大事にしてくれる人に何とか伝えたいものだ」
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自分もこの笛を生かせるほどには吹けない。自分の愛する人に与えたい
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"Midukara mo, sara ni kore ga ne no kagiri ha, e huki-tohosa zu. Omoha m hito ni ikade tutahe te si gana."
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2.4.8 |
と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
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と、柏木が時々愚痴をこぼしていらっしゃったのをお思い出しなさると、さらに悲しみが胸に迫って、試みに吹いてみる。盤渉調の半分ばかりでお止めになって、
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とこんなことを柏木の言うのも聞いたことのある大将であったから、故人の琴に対した時よりもさらに多くの感情が動いた。試みに大将は吹いてみるのであったが、盤渉調を半分ほど吹奏して、
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to, wori-wori kikoye-goti tamahi si wo omohi-ide tamahu ni, ima sukosi ahare ohoku sohi te, kokoromi ni huki narasu. Bansikideu no nakara bakari huki sasi te,
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2.4.9 |
「 昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
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「故人を偲んで和琴を独り弾きましたのは、下手でも何とか聞いて戴けました。この笛はとても分不相応です」
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「故人を忍んで琴を弾きましたことはとにかく、これは晴れがましいまばゆい気がいたされます」
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"Mukasi wo sinobu hitori-goto ha, sate mo tumi yurusa re haberi keri. Kore ha mabayuku nam."
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2.4.10 |
とて、出でたまふに、
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と言って、お出になるので、
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こう挨拶して立って行こうとする時に、
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tote, ide tamahu ni,
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2.4.11 |
「 露しげきむぐらの宿にいにしへの
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「涙にくれていますこの荒れた家に昔の
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露しげき葎の宿にいにしへの
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"Tuyu sigeki mugura no yado ni inisihe no
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2.4.12 |
秋に変はらぬ虫の声かな」
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秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました」
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秋に変はらぬ虫の声かな
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Aki ni kahara nu musi no kowe kana
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2.4.13 |
と、聞こえ出だしたまへり。
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と、内側から申し上げなさった。
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と御息所が言いかけた。
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to, kikoye idasi tamahe ri.
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2.4.14 |
「 横笛の調べはことに変はらぬを
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「横笛の音色は特別昔と変わりませんが
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横笛の調べはことに変はらぬを
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"Yokobue no sirabe ha koto ni kahara nu wo
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2.4.15 |
むなしくなりし音こそ尽きせね」
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亡くなった人を悼む泣き声は尽きません」
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むなしくなりし音こそ尽きせね
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munasiku nari si ne koso tuki se ne
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2.4.16 |
出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。
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出て行きかねていらっしゃると、夜もたいそう更けてしまった。
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返歌をしてもまだ去りがたくて大将がためらっているうち深更になった。
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Ide-gate ni yasurahi tamahu ni, yoru mo itaku huke ni keri.
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出典10 |
玉の緒にせむ |
片糸をこなたかなたに撚りかけて逢はずは何を玉の緒にせむ |
古今集恋一-四三八 読人しらず |
2.4.1 |
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2.5 |
第五段 帰宅して、故人を想う
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2-5 Yugiri recollects the late Kashiwagi after comming his home
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2.5.1 |
殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
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殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて、皆お寝みになっていた。
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自宅に帰ってみると、もう格子などは皆おろされてだれも寝てしまっていた。
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Tono ni kaheri tamahe re ba, kausi nado orosase te, mina ne tamahi ni keri.
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2.5.2 |
「 この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」
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「この宮にご執心申されて、あのようにご熱心でいらっしゃるのだ」
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一条の宮に恋をして親切がった訪問を常にするというようなことを、
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"Kono Miya ni kokoro-kake kikoye tamahi te, kaku nemgoro-gari kikoye tamahu zo."
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2.5.3 |
など、人の 聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにて ものしたまふなるべし。
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などと、誰かがご報告したので、このように夜更けまで外出なさるのも憎らしくて、お入りになったのも知っていながら、眠ったふりをしていらっしゃるのであろう。
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夫人へ言う者があったために、今夜のようにほかで夜ふかしをされるのが不愉快でならない夫人は、良人が室内へはいって来たことも知りながら寝入ったふうをしているものらしい。
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nado, hito no kikoye sirase kere ba, kayau ni yo-hukasi tamahu mo nama nikuku te, iri tamahu wo mo kiku kiku, ne taru yau ni te monosi tamahu naru besi.
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2.5.4 |
「 ▼ 妹と我といるさの山の」
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「いい人とわたしと一緒に入るあの山の」
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「妹とわれといるさの山の山あららぎ」(手をとりふれぞや、かほまさるかにや)
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"Imo to ware to Irusa-no-yama no"
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2.5.5 |
と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
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と、声はとても美しく独り歌って、
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と美しい声で歌いながらはいって来た大将は、
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to, kowe ha ito wokasiu te, hitorigoti utahi te,
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2.5.6 |
「 こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
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「これは、またどうして、こう固く鍵を閉めているのだ。何とまあ、うっとうしいことよ。今夜の月を見ない所もあるのだなあ」
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「どうしてこんなに早く戸を皆しめてしまったのだろう。引っ込み思案な人ばかりなのだね。こんな月夜の景色をだれも見ようとしないなど」
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"Ko ha, nado, kaku sasi-katame taru. Ana, umore ya! Koyohi no tuki wo mi nu sato mo ari keri."
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2.5.7 |
と、うめきたまふ。 格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
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と、不満げにおっしゃる。格子を上げさせなさって、御簾を巻き上げなどなさって、端近くに横におなりになった。
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と歎息して格子を上げさせ、御簾を巻き上げなどして縁に近く出て横たわっていた。
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to, umeki tamahu. Kausi age sase tamahi te, mi-su maki-age nado si tamahi te, hasi tikaku husi tamahe ri.
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2.5.8 |
「 ▼ かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
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「このように素晴らしい月なのに、気楽に夢を見ている人が、あるものですか。少しお出になりなさい。何と嫌な」
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「こんなよい晩に眠ってしまう人があるものですか。少し出ていらっしゃい。つまらないじゃありませんか」
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"Kakaru yo no tuki ni, kokoro-yasuku yume miru hito ha, aru mono ka! Sukosi ide tamahe. Ana kokoro-u!"
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2.5.9 |
など聞こえたまへど、 心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。
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などと申し上げなさるが、面白くない気がして、知らぬ顔をなさっている。
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などと夫人へ言うのであるが、おもしろく思っていない夫人は何とも言わないのである。
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nado kikoye tamahe do, kokoro-yamasiu uti-omohi te, kiki-sinobi tamahu.
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2.5.10 |
君たちの、いはけなく 寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、 ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。 この笛をうち吹きたまひつつ、
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若君たちが、あどけなく寝惚けている様子などが、あちらこちらにして、女房も混み合って寝ている、とてもにぎやかな感じがするので、さきほどの所の様子が、思い比べられて、多く違っている。この笛をちょっとお吹きになりながら、
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子供が寝おびれて何か言っている声があちこちにして、女房もその辺の部屋にたくさん寝ている、このにぎわしい自宅の夜と、一条邸の夜とのあまりにも相違しているのを大将は思い比べていた。贈られた笛を吹きながら
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Kimi-tati no, ihakenaku ne-obire taru kehahi nado, koko kasiko ni uti si te, nyoubau mo sasi-komi te husi taru, hitoke nigihahasiki ni, ari turu tokoro no arisama, omohi ahasuru ni, ohoku kahari tari. Kono hue wo uti-huki tamahi tutu,
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2.5.11 |
「 いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
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「どのように、わたしが立ち去った後でも、物思いに耽っていらっしゃることだろう。お琴の合奏は、調子を変えずなさっていらっしゃるのだろう。御息所も、和琴の名手であった」
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自分の去ったあとの御母子がどんなに寂しく月明の景色をながめておられるだろう、自分の弾いた楽器も宮の合わせてくだすったものもそのままで二人の女性にもてあそばれているであろう、御息所も和琴が上手なはずである
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"Ikani, nagori mo, nagame tamahu ram? Ohom-koto-domo ha, sirabe kahara zu asobi tamahu ram kasi. Miyasumdokoro mo, wagon no zyauzu zo kasi."
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2.5.12 |
など、思ひやりて臥したまへり。
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などと、思いをはせて臥せっていらっしゃった。
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などと思いやりながら寝ているのである。
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nado, omohi-yari te husi tamahe ri.
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2.5.13 |
「 いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
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「どうして、故君は、ただ表向きの気配りは、大切にお扱い申し上げていながら、大して深い愛情はなかったのだろう」
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どうしてあんなにりっぱな宮様を衛門督は形式的に大事がっただけで、ほんとうに愛してはいなかったのであろう
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"Ika nare ba, ko-Kimi, tada ohokata no kokorobahe ha, yamgotonaku motenasi kikoye nagara, ito hukaki kesiki nakari kem?"
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2.5.14 |
と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
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と、考えるにつけても、大変いぶかしく思わずにはいらっしゃれない。
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と大将は不思議に思われてならない。
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to, sore ni tuke te mo, ito ibukasiu oboyu.
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2.5.15 |
「 見劣りせむことこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならず さぞあるかし ★」
|
「実際会って見て器量がよくないとなると、たいそうお気の毒なことだな。世間一般の話でも、最高に素晴らしいという評判の人は、きっとそんなこともあるものだ」
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お顔を見て美しく想像したのと違ったところがあっては不幸な結果をもたらすことにもなろう、ほかのことでも空想をし過ぎたことには必然的に幻滅が起こるものである
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"Miotori se m koto koso, ito itohosikaru bekere. Ohokata no yo ni tuke te mo, kagirinaku kiku koto ha, kanarazu sa zo aru kasi."
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2.5.16 |
など思ふに、わが御仲の、 うちけしきばみたる思ひやりもなくて、 睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう 押したちておごりならひたまへるも、 ことわりにおぼえたまひけり。
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などと思うにつけ、ご自分の夫婦仲が、その気持ちを顔に出して相手を疑うこともなくて、仲睦まじくなった歳月のほどを数えると、しみじみと感慨深く、とてもこう我が強くなって勝手に振る舞うようにおなりになったのも、無理もないことと思われなさった。
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など思いながらも、大将は自身たち夫婦の仲を考えて、なんらの見栄も気どりも知らぬ少年少女の時に知った恋の今日まで続いて来た年月を数えてみては、夫人が強い驕慢な妻になっているのに無理でないところがあるとも思われた。
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nado omohu ni, waga ohom-naka no, uti- kesiki-bami taru omohi-yari mo naku te, mutubi some taru tosi-tuki no hodo wo kazohuru ni, ahare ni, ito kau osi-tati te ogori narahi tamahe ru mo, kotowari ni oboye tamahi keri.
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出典11 |
妹と我といるさの山の |
妹と我と いるさの山の 山蘭( 手な取り触れそや 顔優るがにや 速(く優るがにや |
催馬楽-妹と我 |
2.5.4 |
出典12 |
かかる夜の月に、心やすく夢見る |
かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞ憂き |
古今集秋上-一九〇 凡河内躬恒 |
2.5.8 |
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2.6 |
第六段 夢に柏木現れ出る
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2-6 The ghost of the late Kashiwagi appears in Yugiri's dream
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2.6.1 |
すこし寝入りたまへる夢に、 かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。 夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに ★、
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少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で、側に座って、この笛を取って見ている。夢の中にも、故人が、厄介にも、この笛の音を求めて来たのだ、と思っていると、
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少し寝入ったかと思うと故人の衛門督がいつか病室で見た時の袿()姿でそばにいて、あの横笛を手に取っていた。夢の中でも故人が笛に心を惹()かれて出て来たに違いないと思っていると、
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Sukosi ne-iri tamahe ru yume ni, kano Wemon-no-Kami, tada arisi sama no utiki-sugata nite, katahara ni wi te, kono hue wo tori te miru. Yume no uti ni mo, naki hito no, wadurahasiu, kono kowe wo tadune te ki taru, to omohu ni,
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2.6.2 |
「 笛竹に吹き寄る風のことならば
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「この笛の音に吹き寄る風は同じことなら
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「笛竹に吹きよる風のごとならば
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"Huetake ni huki-yoru kaze no koto nara ba
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2.6.3 |
末の世長きねに伝へなむ
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わたしの子孫に伝えて欲しいものだ
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末の世長き音()に伝へなん
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suwe no yo nagaki ne ni tutahe nam
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2.6.4 |
思ふ方異にはべりき」
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その伝えたい人は違うのだった」
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私はもっとほかに望んだことがあったのです」
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Omohu kata koto ni haberi ki."
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2.6.5 |
と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。
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と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝おびえて泣きなさるお声に、目が覚めておしまいになった。
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と柏木は言うのである。望みということをよく聞いておこうとするうちに、若君が寝おびれて泣く声に目がさめた。
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to ihu wo, toha m to omohu hodo ni, Waka-Gimi no ne-obire te naki tamahu ohom-kowe ni, same tamahi nu.
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2.6.6 |
この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。 いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、 白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
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この若君がひどく泣きなさって、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も御殿油を近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話して、抱いていらっしゃった。とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。子供もとてもかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。
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この子が長く泣いて乳を吐いたりなどするので、乳母()が起きて世話をするし、夫人も灯()を近くへ持って来させて、顔にかかる髪を耳の後ろにはさみながら子を抱いてあやしなどしていた。色白な夫人が胸を拡()げて泣く子に乳などをくくめていた。子供も色の白い美しい子であるが、出そうでない乳房()を与えて母君は慰めようとつとめているのである。
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Kono Kimi itaku naki tamahi te, tudami nado si tamahe ba, Menoto mo oki sawagi, Uhe mo ohotonabura tikaku tori-yose sase tama te, mimi-hasami si te, sosokuri tukurohi te, idaki te wi tamahe ri. Ito yoku koye te, tubu-tubu to wokasige naru mune wo ake te, ti nado kukume tamahu. Tigo mo ito utukusiu ohasuru Kimi nare ba, siroku wokasige naru ni, ohom-ti ha ito kaharaka naru wo, kokoro wo yari te nagusame tamahu.
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2.6.7 |
男君も寄りおはして、「 いかなるぞ」などのたまふ。 うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、 夢のあはれも紛れぬべし。
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男君も側にお寄りになって、「どうしたのだ」などとおっしゃる。魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行ってしまうことであろう。
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大将もそのそばへ来て、「どう」などと言っていた。夜の魔を追い散らすために米なども撒()かれる騒がしさに夢の悲しさも紛らされてゆく大将であった。
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Wotoko-Gimi mo yori ohasi te, "Ika naru zo?" nado notamahu. Uti-maki si tirasi nado si te, midari-gahasiki ni, yume no ahare mo magire nu besi.
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2.6.8 |
「 悩ましげにこそ見ゆれ。 今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり」
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「苦しそうに見えますわ。若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に、格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たのでしょう」
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「この子は病気になったらしい。はなやかな方に夢中になっていらっしって、おそくなってから月をながめたりなさるって格子をあけさせたりなさるものだから、また物怪()がはいって来たのでしょう」
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"Nayamasige ni koso miyure. Imamekasiki mi-arisama no hodo ni akugare tamau te, yo-bukaki ohom-tuki mede ni, kausi mo age rare tare ba, rei no mononoke no iri-ki taru na' meri."
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2.6.9 |
など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
|
などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、
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と若々しい顔をした夫人が恨むと、良人()は笑って、
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nado, ito wakaku wokasiki kaho si te, kakoti tamahe ba, uti-warahi te,
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|
2.6.10 |
「 あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。 あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
|
「妙な、物の怪の案内とは。わたしが格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。大勢の子持ちの母親におなりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」
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「変にこじつけて私の罪にするのですね。私が格子を上げさせなかったらなるほど物怪ははいる道がなかったろうね。おおぜいの人のお母様になったあなただから、たいした考え方ができるようになったものだ」
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"Ayasi no, mononoke no sirube ya! Maro kausi age zu ha, miti naku te, geni e iri-ko zara masi. Amata no hito no oya ni nari tamahu mama ni, omohi itari hukaku mono wo koso notamahi nari ni tare."
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2.6.11 |
とて、うち見やりたまへるまみの、 いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
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と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、
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こう言っても妻をながめる大将の美しい目つきはさすがに恥ずかしがって、続けて恨みも言わずに、
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tote, uti-mi-yari tamahe ru mami no, ito hadukasige nare ba, sasuga ni mono mo notamaha de,
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2.6.12 |
「 出でたまひね。見苦し」
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「さあ、もうお止めなさいまし。みっともない恰好ですから」
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「あちらへいらっしゃい。人が見ます。見苦しい」
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"Ide tamahi ne. Mi-gurusi."
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2.6.13 |
とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。
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と言って、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も憎くない。ほんとうに、この若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお明かしになった。
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とだけ言った。明るい灯()に顔を見られるのをいやがるのも可憐()な妻であると大将は思った。若君は夜通しむずかって寝なかった。
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tote, akiraka naru hokage wo, sasuga ni hadi tamahe ru sama mo nikukara zu. Makoto ni, kono Kimi nadumi te, naki mutukari akasi tamahi tu.
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Last updated 9/4/2003 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3) Last updated 1/18/2002 渋谷栄一注釈(ver.1-1-2) |
Last updated 1/18/2002 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 10/4/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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