34 若菜上(明融臨模本)


WAKANA-NO-ZYAU


光る源氏の准太上天皇時代
三十九歳暮から四十一歳三月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from the end of 39 to March the age of 41

9
第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う


9  Tale of Genji  Murasaki and Akikonomu celebtate Genji's 40 years old

9.1
第一段 紫の上、薬師仏供養


9-1  A Buddhist celebrate ceremony is held for Genji by Murasaki at the temple in Sagano

9.1.1   神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてまつりたまふ。いかめしきことは、切にいさめ申したまへば、忍びやかにと思しおきてたり。
 神無月に、対の上は、院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で、薬師仏をご供養申し上げなさる。盛大になることは、切にご禁じ申されていたので、目立たないようにとお考えになっていた。
 十月に紫夫人は院の四十の賀のために嵯峨さが御堂みどうで薬師仏の供養をすることになった。たいそうになることは院がとめておいでになったから、目だたせない準備をしたのであった。
  Kamina-duki ni, Tai-no-Uhe, Win no ohom-ga ni, Sagano no mi-dau ni te, Yakusi-Botoke kuyau-zi tatematuri tamahu. Ikamesiki koto ha, seti ni isame mausi tamahe ba, sinobiyaka ni to obosi-oki te tari.
9.1.2  仏、経箱、帙簀のととのへ、まことの極楽思ひやらる。最勝王経、金剛般若、寿命経など、いとゆたけき御祈りなり。上達部いと多く参りたまへり。
 仏像、経箱、帙簀の整っていること、真の極楽のように思われる。最勝王経、金剛般若経、寿命経など、たいそう盛大なお祈りである。上達部がたいへん大勢参上なさった。
 それでも仏像、経箱、経巻の包みなどのりっぱさは極楽も想像されるばかりである。そうした最勝王経、金剛、般若はんにゃ、寿命経などの読まれる頼もしい賀の営みであった。高官が多く参列した。
  Hotoke, kyau-bako, disu no totonohe, makoto no Gokuraku omohi-yara ru. Saisyauwau-gyau, Kongau-Hannya, Zyumyau-kyau nado, ito yutakeki ohom-inori nari. Kamdatime ito ohoku mawiri tamahe ri.
9.1.3  御堂のさま、おもしろくいはむかたなく、 紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて、見物なるにかたへは、きほひ集りたまふなるべし
 御堂の様子、素晴らしく何とも言いようがなく、紅葉の蔭を分けて行く野辺の辺りから始まって、見頃の景色なので、半ばはそれで競ってお集まりになったのであろう。
 御堂のあたりの嵯峨野の秋のながめの美しさに半分は心がかれて集まった人なのであろうが、
  Mi-dau no sama, omosiroku iha m kata naku, momidi no kage wake-yuku nobe no hodo yori hazime te, mi-mono naru ni, katahe ha, kihohi atumari tamahu naru besi.
9.1.4  霜枯れわたれる野原のままに、馬車の行きちがふ音しげく響きたり。御誦経われもわれもと、 御方々いかめしくせさせたまふ。
 一面に霜枯れしている野原のまにまに、馬や牛車が行き違う音がしきりに響いていた。御誦経を、我も我もと御方々がご立派におさせになる。
その日は霜枯れの野原を通る馬や車を無数に見ることができた。盛んな誦経ずきょうの申し込みが各夫人からもあった。
  Simogare watare ru nohara no mama ni, muma kuruma no yuki-tigahu oto sigeku hibiki tari. Mi-zyukyau ware mo ware mo to, ohom-kata-gata ikamesiku se sase tamahu.
注釈559神無月に対の上院の御賀に神無月に紫の上が源氏の四十賀を祝って嵯峨野の御堂で薬師仏供養を催す。9.1.1
注釈560紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて見物なるに下文の「霜枯れわたれる野原のままに馬車の行きちがふ音しげく響きたり」とともに、神無月の嵯峨野の風景描写。9.1.3
注釈561かたへは、きほひ集りたまふなるべし「なる」「べし」の断定の助動詞と推量の助動詞は、語り手の言辞。9.1.3
注釈562御方々六条院の御方々。9.1.4
9.2
第二段 精進落としの宴


9-2  A banquet is held after the Buddhist ceremoney by Murasaki

9.2.1   二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集ひたまへるうちに、わが御私の殿と思す二条の院にて、その御まうけせさせたまふ。御装束をはじめ、おほかたのことどもも、皆こなたにのみしたまふ。御方々も、さるべきことども分けつつ望み仕うまつりたまふ。
 二十三日を御精進落しの日として、こちらの院は、このように隙間もなく大勢集っていらっしゃるので、ご自分の私的邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせになる。ご装束をはじめとして、一般の事柄もすべてこちらでばかりなさる。他の御方々も適当な事を分担しいしい、進んでお仕えなさる。
 二十三日が仏事の最後の日で、六条院は狭いまでに夫人らが集まって住んでいるため、女王には自身だけの家のように思われる二条の院で賀の饗宴きょうえんを開くことにしてあった。賀の席上で奉る院のお服類をはじめとして当日用の仕度したくはすべて紫夫人の手でととのえられているのであったが、花散里はなちるさと夫人や、明石あかし夫人なども分担したいと言い出して手つだいをした。
  Nizihu-sam-niti wo ohom-tosimi no hi ni te, kono Win ha, kaku sukima naku tudohi tamahe ru uti ni, waga ohom-watakusi no tono to obosu Nideu-no-win ni te, sono ohom-mauke se sase tamahu. Ohom-syauzoku wo hazime, ohokata no koto-domo mo, mina konata ni nomi si tamahu. Ohom-kata-gata mo, saru-beki koto-domo wake tutu nozomi tukau-maturi tamahu.
9.2.2  対どもは、人の局々にしたるを払ひて、殿上人、諸大夫、院司、下人までのまうけ、いかめしくせさせたまへり。
 東西の対は、女房たちの局にしていたのを片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの饗応の席を、盛大に設けさせなさっている。
 二条の院の対の屋を今は女房らの部屋へやなどにも使わせることにしていたのであるが、それを片づけて殿上役人、五位の官人、院付きの人々の接待所にあてた。
  Tai-domo ha, hito no tubone-tubone ni si taru wo harahi te, Tenzyau-bito, syo-Daibu, Winzi, simo-bito made no mauke, ikamesiku se sase tamahe ri.
9.2.3  寝殿の放出を、例のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。
 寝殿の放出を例のように飾って、螺鈿の椅子を立ててある。
 寝殿の離れ座敷を式場にして、螺鈿らでん椅子いすを院の御ために設けてあった。
  Son-den no hanati-ide wo, rei no siturahi ni te, raden no isi tate tari.
9.2.4  御殿の西の間に、御衣の 机十二立てて冬の御よそひ、御衾など、例のごとく、紫の綾の覆どもうるはしく見えわたりて、うちの心はあらはならず。
 御殿の西の間に、ご衣装の机を十二立てて、夏冬のご衣装、御夜具など、しきたりによって、紫の綾の覆いの数々が整然と掛けられていて、中の様子ははっきりしない。
 西の座敷に衣裳いしょうの卓を十二置き、夏冬の服、夜着などの積まれたそれらの上を紫のあやおおうてあるのも目に快かった。中の品物の見えないのも感じがいいのである。
  Otodo no nisi no ma ni, ohom-zo no tukue zihu-ni tate te, natu huyu no ohom-yosohi, ohom-husuma nado, rei no gotoku, murasaki no aya no ohohi-domo uruhasiku miye watari te, uti no kokoro ha araha nara zu.
9.2.5  御前に置物の机 二つ、唐の地の裾濃の覆したり。插頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。
 御前に置物の机を二脚、唐の地の裾濃の覆いをしてある。挿頭の台は沈の花足、黄金の鳥が、銀の枝に止まっている工夫など、淑景舎のご担当で、明石の御方がお作らせになったものだが、趣味深くて格別である。
 椅子の前には置き物の卓が二つあって、支那しなうすものすそぼかしのおおいがしてある。挿頭かざしの台はじんの木の飾りあしの物で、蒔絵まきえの金の鳥が銀の枝にとまっていた。これは東宮の桐壺の方が受け持ったので、明石夫人の手から調製させたものであるからきわめて高雅であった。
  O-mahe ni okimono no tukue hutatu, kara no di no susogo no ohohi si tari. Kazasi no dai ha, din no kesoku, kogane no tori, sirogane no yeda ni wi taru kokorobahe nado, Sigeisya no ohom-adukari ni te, Akasi-no-Ohomkata no se sase tamahe ru, yuwe hukaku kokoro koto nari.
9.2.6  うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき 泉水、潭 など、目馴れずおもしろし。北の壁に添へて、置物の御厨子、二具立てて、御調度ども例のことなり。
 背後の御屏風の四帖は、式部卿宮がお作らせになったものであった。たいそう善美を尽くして、おきまりの四季の絵であるが、目新しい山水、潭など、見なれず興味深い。北の壁に沿って、置物の御厨子、二具立てて、御調度類はしきたりどおりである。
 御座おましの後ろの四つの屏風びょうぶ式部卿しきぶきょうの宮がお受け持ちになったもので、非常にりっぱなものだった。絵は例の四季の風景であるが、泉や滝のき方に新しい味があった。北側の壁に添って置き棚が二つえられ、小物の並べてあることはきまった形式である。
  Usiro no mi-byaubu si-dehu ha, Sikibukyau-no-Miya nam se sase tamahi keru. Imiziku tukusi te, rei no siki no we nare do, medurasiki sensui, tan nado, me nare zu omosirosi. Kita no kabe ni sohe te, okimono no mi-dusi, huta-yorohi tate te, mi-teudo-domo rei no koto nari.
9.2.7  南の廂に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りたまはぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張打ちて、西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。
 南の廂の間に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、ましてそれ以下の人々で参上なさらない人はいない。舞台の左右に、楽人の平張りを作り、東西に屯食を八十具、禄の唐櫃を四十ずつ続けて立ててある。
 南側の座敷に高官、左右の大臣、式部卿の宮をはじめとして親王がたのお席があった。舞台の左右に奏楽者の天幕ができ、庭の西と東には料理の箱詰めが八十、纏頭てんとう用の品のはいった唐櫃からびつを四十並べてあった。
  Minami no hisasi ni, Kamdatime, Hidari Migi no Otodo, Sikibukyau-no-Miya wo hazime tatematuri te, tugi-tugi ha masite mawiri tamaha nu hito nasi. Butai no hidari migi ni, gaku-nin no hirabari uti te, nisi himgasi ni tonziki hatizihu-gu, roku no kara-bitu si-zihu dutu tuduke te tate tari.
注釈563二十三日を御としみの日にて十月二十三日を精進落しの日としての意。9.2.1
注釈564机十二立てて十二か月分という意味。9.2.4
注釈565泉水潭など『集成』は「泉水・壇」の漢字を宛て「庭園に設けた泉であろう。泉水の周囲を石などで固めたもの。唐絵であろう」。『完訳』は「山水・潭」の漢字を宛て「「山水」は庭園の泉。「潭」は石などで固めた泉水の周囲の意か」と注す。9.2.6
校訂124 夏--なれ(れ/$つ) 9.2.4
校訂125 二つ、唐の地 二つ、唐の地--ふた??(??/#つから)のち(ち/=らイ) 9.2.5
校訂126 など、目 など、目--なとの(の/$め) 9.2.6
9.3
第三段 舞楽を演奏す


9-3  Concert dances and music are held after the Buddhist ceremoney

9.3.1  未の時ばかりに楽人参る。「 万歳楽」、「皇じやう」など舞ひて、日暮れかかるほどに、 高麗の乱声して、「 落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、 権中納言、衛門督下りて、「 入綾」をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入りぬる名残、飽かず興ありと人びと思したり。
 未の刻ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇じょう」などを舞って、日が暮れるころ、高麗楽の乱声をして、「落蹲」が舞い出たところは、やはり常には見ない舞の様子なので、舞い終わるころに、権中納言や、衛門督が庭に下りて、「入綾」を少し舞って、紅葉の蔭に入ったその後の気持ちは、いつまでも面白いとご一同お思いである。
 午後二時に楽人たちが参入した。万歳楽、※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)こうじょうなどが舞われ、日の暮れ時に高麗こうらい楽の乱声らんじょうがあって、また続いて落蹲らくそんの舞われたのも目れず珍らしい見物であったが、終わりに近づいた時に、権中納言と、右衛門督うえもんのかみが出て短い舞をしたあとで紅葉もみじの中へはいって行ったのを陪観者は興味深く思った。
  Hituzi no toki bakari ni gaku-nin mawiru. Manzai-raku, Wauzyau nado mahi te, hi kure kakaru hodo ni, Koma no ranzyau si te, Rakuson mahi-ide taru hodo, naho tune no me nare nu mahi no sama nare ba, mahi haturu hodo ni, Gon-no-Tyuunagon, Wemon-no-Kami ori te, Iri-aya wo honoka ni mahi te, momidi no kage ni iri nuru nagori, akazu kyou ari to hito-bito obosi tari.
9.3.2   いにしへの朱雀院の行幸に、「青海波」のいみじかりし夕べ、思ひ出でたまふ人々は、 権中納言、衛門督、また劣らず立ち続きたまひにける、世々のおぼえありさま、容貌、 用意などもをさをさ劣らず、官位はやや進みてさへこそなど、齢のほどをも数へて、「 なほ、さるべきにて、昔よりかく立ち続きたる御仲らひなりけり」と、めでたく思ふ。
 昔の朱雀院の行幸に、「青海波」が見事であった夕べ、お思い出しになる方々は、権中納言と、衛門督とが、また負けず跡をお継ぎになっていらっしゃるのが、代々の世評や様子、器量、態度なども少しも負けず、官位は少し昇進さえしていらっしゃるなどと、年齢まで数えて、「やはり、前世の因縁で、昔からこのように代々並び合うご両家の間柄なのだ」と、素晴らしく思う。
 昔の朱雀すざく院の行幸みゆきに青海波が絶妙の技であったのを覚えている人たちは、源氏の君と当時のとうの中将のようにこの若い二人の高官がすぐれた後継者として現われてきたことを言い、世間から尊敬されていることも、りっぱさも美しさも昔の二人の貴公子に劣らず、官位などはその時の父君たち以上にも進んでいることなどを年齢としまでも数えながら語って、やはり前生の善果がある家の子息たちであると両家を祝福した。
  Inisihe no Syuzyaku-win no miyuki ni, Seigaiha no imizikari si yuhube, omohi-ide tamahu hito-bito ha, Gon-no-Tyuunagon, Wemon-no-Kami, mata otora zu tati-tuduki tamahi ni keru, yo-yo no oboye arisama, katati, youi nado mo wosa-wosa otora zu, tukasa kurawi ha yaya susumi te sahe koso nado, yohahi no hodo wo mo kazohe te, "Naho, saru-beki ni te, mukasi yori kaku tati-tuduki taru ohom-nakarahi nari keri." to, medetaku omohu.
9.3.3  主人の院も、あはれに涙ぐましく、思し出でらるることども多かり。
 主人の院も、しみじみと涙ぐんで、自然と思い出される事柄が多かった。
 六条院も涙ぐまれるほど身にしむ追憶がおありになった。
  Aruzi-no-Win mo, ahare ni namida-gumasiku, obosi-ide raruru koto-domo ohokari.
注釈566万歳楽皇じやうなど舞ひて「万歳楽」は唐楽(左舞)の曲名。平調。四人舞。即位礼などの祝宴に舞う。「皇じやう」も唐楽(左舞)の曲名。平調。9.3.1
注釈567高麗の乱声して高麗楽(右舞)が始まる前に演奏される笛と太鼓による「乱声」。9.3.1
注釈568落蹲舞ひ出でたる高麗楽(右舞)の曲名。高麗壱越調。9.3.1
注釈569権中納言衛門督夕霧と柏木。9.3.1
注釈570入綾をほのかに舞ひて舞が終って退場する前に、改めて正面に向いて、再び舞い納める。9.3.1
注釈571いにしへの朱雀院の行幸に青海波のいみじかりし夕べ「紅葉賀」に語られている。「藤裏葉」でも回想されている。9.3.2
注釈572権中納言衛門督以下「進みてさへこそ」まで、人々の噂だが、地の文と融合している。9.3.2
注釈573なほさるべきにて以下「御仲らひなりけり」まで、人々の噂。9.3.2
校訂127 用意 用意--(/+ようい) 9.3.2
9.4
第四段 宴の後の寂寥


9-4  Genji feels loneliness after the banquet

9.4.1  夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども、人びと率ゐて、禄の唐櫃に寄りて、一つづつ取りて、次々賜ふ。白きものどもを品々かづきて、山際より池の堤過ぐるほどのよそ目は、 千歳をかねて遊ぶ鶴の 毛衣に思ひまがへらる。
 夜に入って、楽人たちが退出する。北の対の政所の別当連中は、下男どもを引き連れて、禄の唐櫃の側に立って、一つずつ取り出して、順々に与えなさる。白い衣類をそれぞれが肩に懸けて、築山の側から池の堤を通り過ぎて行くのを横から眺めると、千歳の寿をもって遊ぶ鶴の白い毛衣に見間違えるほどである。
 夜になって楽人たちの退散していく時に紫の夫人付きの家職の長が下役たちを従えて出て、纏頭品の箱から一つずつ出して皆へわかった。白い纏頭の服を皆が肩にかけて山ぎわから池の岸を通って行くのをはるかに見てはつるの列かと思われた。
  Yo ni iri te, gakunin-domo makari-idu. Kita-no-mandokoro no Bettau-domo, hito-bito hikiwi te, roku no kara-bitu ni yori te, hitotu-dutu tori te, tugi-tugi tamahu. Siroki mono-domo wo sina-zina kaduki te, yamagiha yori ike no tutumi suguru hodo no yosome ha, titose wo kane te asobu turu no kegoromo ni omohi magahe raru.
9.4.2  御遊び始まりて、またいとおもしろし。御琴どもは、春宮よりぞ調へさせたまひける。朱雀院よりわたり参れる琵琶、琴。内裏より賜はりたまへる箏の御琴など、皆昔おぼえたるものの音どもにて、めづらしく掻き合はせたまへるに、何の折にも、過ぎにし方の御ありさま、内裏わたりなど思し出でらる。
 管弦の御遊びが始まって、これもまた素晴らしい。御琴類は、東宮から御準備あそばしたものであった。朱雀院からお譲りのあった琵琶、琴。帝から頂戴なさった箏の御琴など、すべて昔を思い出させる音色で、久しぶりに合奏なさると、どの演奏の時にも、昔のご様子や、宮中あたりのことなどが自然とお思い出される。
 席上での音楽が始まっておもしろい夜の宴になった。楽器は東宮の御手から皆呈供されたのである。朱雀すざく院からお譲られになった琵琶びわみかどからお賜わりになった十三げんの琴などは六条院のためにお馴染なじみの深い音色ねいろを出して、何につけても昔の宮廷がお思われになる方であったから、またさまざまの恋しい昔の夢をおかせした。
  Ohom-asobi hazimari te, mata ito omosirosi. Ohom-koto-domo ha, Touguu yori zo totonohe sase tamahi keru. Syuzyaku-win yori watari mawire ru biha, kin. Uti yori tamahari tamahe ru syau-no-ohom-koto nado, mina mukasi oboye taru mono-no-ne-domo ni te, medurasiku kaki-ahase tamahe ru ni, nani no wori ni mo, sugi ni si kata no ohom-arisama, Uti watari nado obosi-ide raru.
9.4.3  「 故入道の宮おはせましかば、かかる御賀など、われこそ進み仕うまつら ましか何ごとにつけてかは心ざしも見えたてまつりけむ
 「亡き入道の宮が生きていらっしゃったら、このような御賀など、自分が進んでお仕え申したであろうに。何をすることによって、わたしの気持ちを分かって戴けただろうか」
 入道の宮がおいでになったなら四十の御賀も自分が主催して行なったことであろう。今になっては何を志としてお見せすることができよう、
  "Ko-Niudau-no-Miya ohase masika ba, kakaru ohom-ga nado, ware koso susumi tukau-matura masi ka. Nani-goto ni tuke te ka ha kokorozasi mo miye tatematuri kem?"
9.4.4  と、飽かず口惜しくのみ思ひ出できこえたまふ。
 と、ただただ恨めしく残念にばかりお思い申し上げなさる。
 すべて不可能なことになったと院は御歎息たんそくをあそばした。
  to, akazu kutiwosiku nomi omohi-ide kikoye tamahu.
9.4.5  内裏にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにも栄なくさうざうしく思さるるに、この院の御ことをだに、例の跡をあるさまのかしこまりを尽くしてもえ見せたてまつらぬを、世とともに飽かぬ心地したまふも、今年はこの御賀にことつけて、行幸などもあるべく思しおきてけれど、
 帝におかせられても、亡き母宮のおいであそばさないことを、何事につけても張り合いがなく物足りなくお思いなされるので、せめてこの院の御賀の事だけでも、きまったとおりの礼儀を十分に尽くしてさし上げることができないのを、何かにつけ常に物足りないお気持ちでいらっしゃるので、今年はこの四十の御賀にかこつけて、行幸などもあるようにお考えでいらっしゃったが、
 女院をお失いになったことは何の上にも添う特殊な光の消えたことであると帝も寂しく思召すのであって、せめて六条院だけを最高の地位にえたいというお望みも実現されないことを始終残念に思召す帝であったが、今年は四十の賀に託して六条院へ行幸みゆきをあそばされたい思召しであった。
  Uti ni mo, ko-Miya no ohasimasa nu koto wo, nani-goto ni mo haye naku sau-zausiku obosa ruru ni, kono Win no ohom-koto wo dani, rei no ato wo aru sama no kasikomari wo tukusi te mo e mise tatematura nu wo, yo to tomoni akanu kokoti si tamahu mo, kotosi ha kono ohom-ga ni kototuke te, miyuki nado mo aru beku obosi-oki te kere do,
9.4.6  「 世の中のわづらひならむこと、さらにせさせたまふまじくなむ
 「世の中の迷惑になるようなことは、絶対になさらぬように」
 しかしそれも冗費は国家のためお慎みになるように
  "Yononaka no wadurahi nara m koto, sarani se sase tamahu maziku nam."
9.4.7  と否び申したまふこと、たびたびになりぬれば、口惜しく思しとまりぬ。
 とご辞退申し上げなさること、再々になったので、残念ながらお思い止まりなさった。
 と六条院からの御進言があっておできにならぬためにくやしく思召すばかりであった。
  to inabi mausi tamahu koto, tabi-tabi ni nari nure ba, kutiwosiku obosi tomari nu.
注釈574千歳をかねて遊ぶ鶴の毛衣に催馬楽「席田(むしろだ)の 席田の 伊津貫川に や 住む鶴の 住む鶴の や 住む鶴の 千歳をかねてぞ 遊びあへる 千歳をかねてぞ 遊びあへる」(席田)の文句による表現。9.4.1
注釈575故入道の宮おはせましかば以下「見えたてまつりけむ」まで、源氏の心中。藤壷は三十七歳で薨去。「ましかば--まし」の反実仮想の構文。9.4.3
注釈576何ごとにつけてかは心ざしも見えたてまつりけむ『集成』は、疑問文で「一体何によってお尽ししたいと思う気持も分って頂けたことだろう」。『完訳』は、反語文で「この自分の深い気持を何一つごらんいただいたことがあったであろうか、まったくそうした機会もなかった」と訳す。9.4.3
注釈577世の中のわづらひならむことさらにせさせたまふまじくなむ源氏の詞。帝の行幸を辞退。9.4.6
出典32 千歳をかねて遊ぶ鶴 席田(むしろだ)の 席田の 伊津貫川(いつぬきがは)に や 住む鶴の 住む鶴の や 住む鶴の 千歳をかねてぞ 遊びあへる 千歳をかねてぞ 遊びあへる 催馬楽-席田 9.4.1
校訂128 毛衣に思ひまがへらる。 鶴の毛衣に思ひまがへらる。御遊び--(/+つるのけ衣に思まかへらる御あそひ) 9.4.1
校訂129 ましか ましか--ましかは(は/$) 9.4.3
9.5
第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷


9-5  A Buddhist celebrate ceremony is held for Genji by Akikonomu at the temples in Nara and Kyoto

9.5.1   師走の二十日余りのほどに、中宮まかでさせたまひて、今年の残りの御祈りに、 奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。
 十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして、今年の残りの御祈祷に、奈良の京の七大寺に、御誦経のため、布を四千反、この平安京の四十寺に、絹を四百疋分けてお納めあそばす。
 十二月の二十日過ぎに中宮ちゅうぐうが宮中から退出しておいでになって、六条院の四十歳の残りの日のための祈祷きとうに、奈良ならの七大寺へ布四千反をわかってお納めになった。また京の四十寺へ絹四百ぴきを布施にあそばされた。
  Sihasu no hatuka amari no hodo ni, Tyuuguu makade sase tamahi te, kotosi no nokori no ohom-inori ni, Nara no kyau no siti-dai-zi ni, mi-zyukyau, nuno yon-sen-tan, kono tikaki miyako no si-zihu-zi ni, kinu yon-hyaku-hiki wo wakati te se sase tamahu.
9.5.2  ありがたき御はぐくみを思し知りながら、 何ごとにつけてか、深き御心ざしをもあらはし御覧ぜさせたまはむとて、 父宮、母御息所のおはせまし御ための心ざしをも取り添へ思すに、かくあながちに、朝廷にも聞こえ返させたまへば、ことども多くとどめさせたまひつ。
 ありがたいお世話をご存知でありながら、どのような機会にか、深い感謝の気持ちを表して御覧に入れようとお思いなさって、父宮と、母御息所とがご存命ならばきっとして差し上げただろう感謝の気持ちも添えてお思いになったのだが、このように無理に、帝に対してもご辞退申し上げていらっしゃっるので、ご計画の多くを中止なさった。
 養父の院の深い愛を受けながら、お報いすることは何一つできなかった自分とともに、御父の前皇太子、母御息所みやすどころの感謝しておられる志も、せめてこの際に現わしたいと中宮は思召したのであるが、宮中からの賀の御沙汰ごさたを院が御辞退されたあとであったから、大仰おおぎょうになることは皆おやめになった。
  Arigataki ohom-hagukumi wo obosi-siri nagara, nani-goto ni tuke te ka, hukaki mi-kokorozasi wo mo arahasi go-ran-ze sase tamaha m tote, Titi-Miya, Haha-Miyasumdokoro no ohase masi ohom-tame no kokorozasi wo mo tori-sohe obosu ni, kaku anagati ni, ohoyake ni mo kikoye kahesa se tamahe ba, koto-domo ohoku todome sase tamahi tu.
9.5.3  「 四十の賀といふことは、さきざきを聞きはべるにも、 残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、このたびは、なほ、世の響きとどめさせたまひて、 まことに後に足らむことを数へさせたまへ
 「四十の賀ということは、先例を聞きましても、残りの寿命が長い例が少なかったが、今回は、やはり、世間の騷ぎになることをお止めあそばして、ほんとうに後に寿命を保った時に祝ってください」
 「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」
  "Sizihu-no-ga to ihu koto ha, saki-zaki wo kiki haberu ni mo, nokori no yohahi hisasiki tamesi nam sukunakari keru wo, kono tabi ha, naho, yo no hibiki todome sase tamahi te, makoto ni noti ni tara m koto wo kazohe sase tamahe."
9.5.4  とありけれど、公ざまにて、なほいといかめしくなむありける。
 とあったが、公的催しとなって、やはりたいそう盛大になったのであった。
 と六条院は言っておいでになったのであるが、やはりこれは半公式の賀宴で派手はでになった。
  to ari kere do, ohoyake-zama ni te, naho ito ikamesiku nam ari keru.
注釈578師走の二十日余りのほど十二月二十日過ぎ、中宮が源氏の四十賀を催す。9.5.1
注釈579奈良の京の七大寺に東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺。9.5.1
注釈580何ごとにつけてか反語表現。この機会を逃したら他にない。9.5.2
注釈581父宮母御息所のおはせまし御ための父故前坊と母六条御息所。「まし」反実仮想の助動詞。『完訳』は「父宮と母御息所がもしご存命であったならこうもしてさしあげたであろう報恩の」と訳す。9.5.2
注釈582四十の賀といふことは以下「数へさせたまへ」まで、源氏の四十の賀を盛大に祝うことを辞退する詞。9.5.3
注釈583残りの齢久しき例なむ少なかりけるを『河海抄』は仁明天皇四十一、村上天皇四十二、東三条院四十にて崩御の例を挙げる。9.5.3
注釈584まことに後に足らむことを数へさせたまへ『集成』は「将来、本当に五十、六十になった時お祝い下さい」。『完訳』は「本当にこの後、余生を全うすることができたようなときに祝ってくださいまし」と訳す。9.5.3
校訂130 何ごとにつけてか 何ごとにつけてか--なにことも(も/$に)つけても(も/$か) 9.5.2
校訂131 させ させ--きか(きか/$さ)せ 9.5.3
9.6
第六段 中宮主催の饗宴


9-6  A banquet is held after the Buddhist ceremoney by Akikonomu

9.6.1  宮のおはします町の寝殿に、御しつらひなどして、 さきざきにこと変はらず、上達部の禄など、大饗になずらへて、親王たちにはことに女の装束、非参議の四位、まうち君達 など、ただの殿上人には、白き細長一襲、腰差などまで、次々に 賜ふ
 宮のいらっしゃる町の寝殿に、御準備などをして、前のと特に変わらず、上達部の禄など、大饗に準じて、親王たちには特に女装束、非参議の四位、廷臣たちなどの、普通の殿上人には、白い細長を一襲と、腰差などまで、次々とお与えになる。
 六条院の中宮のお住居すまいの町の寝殿が式場になっていて、前にお受けになった幾つかの賀の式に変わらぬ行き届いた設けがされてあった。高官への纏頭てんとうはおきさきの大饗宴きょうえんの日の品々に準じて下された。親王がたには特に女の装束、非参議の四位、殿上役人などには白い細長衣ほそなが一領、それ以下へは巻いた絹を賜わった。
  Miya no ohasimasu mati no sin-den ni, ohom-siturahi nado si te, saki-zaki ni koto kahara zu, Kamdatime no roku nado, daikyau ni nazurahe te, Miko-tati ni ha koto ni womna no syauzoku, hi-Samgi no si-wi, Mauti-kimdati nado, tada no Tenzyau-bito ni ha, siroki hosonaga hito-kasane, kosi-zasi nado made, tugi-tugi ni tamahu.
9.6.2  装束限りなくきよらを尽くして、名高き帯、御佩刀など、故前坊の御方ざまにて伝はり参りたるも、またあはれになむ。 古き世の一の物と名ある限りは、皆集ひ参る 御賀になむあめる昔物語にも、もの得させたるを、かしこきことには数へ続けためれど、いとうるさくて、 こちたき御仲らひのことどもは えぞ数へあへはべらぬや
 装束はこの上なく善美を尽くして、有名な帯や、御佩刀など、故前坊のお形見として御相続なさっているのも、また感慨に堪えないことである。古来第一の宝物として有名な物は、すべて集まって参るような御賀のようである。昔物語にも、引出物を与えることを、たいしたこととして一つ一つ数え上げているようであるが、これはとても煩わしいので、ご立派な方々のご贈答の数々は、とても数え上げることができない。
 院のためにととのえられた御衣服は限りもなくみごとなもので、そのほかに国宝とされている石帯せきたい、御剣を奉らせたもうたのである。この二品などは宮の御父の前皇太子の御遺品で、歴史的なものだったから院のお喜びは深かった。古い時代の名器、美術品が皆集まったような賀宴になったのであった。昔の小説も贈り物をすることを最も善事のように書き立ててあるが、面倒で筆者にはいちいち書けない。
  Syauzoku kagiri naku kiyora wo tukusi te, na-dakaki obi, mi-hakasi nado, ko-Zenbau no ohom-kata-zama ni te tutahari mawiri taru mo, mata ahare ni nam. Huruki yo no iti-no-mono to na aru kagiri ha, mina tudohi mawiru ohom-ga ni nam a' meru. Mukasi-monogatari ni mo, mono e sase taru wo, kasikoki koto ni ha kazohe tuduke ta' mere do, ito urusaku te, kotitaki ohom-nakarahi no koto-domo ha, e zo kazohe-ahe habera nu ya?
注釈585さきざきにこと変はらず玉鬘や紫の上が主催した四十の賀と比較しての意。9.6.1
注釈586古き世の一の物と名ある限りは『集成』は「以下、草子地」。『完訳』は「語り手の評」と注す。9.6.2
注釈587御賀になむあめる推量の助動詞「めり」主観的推量は、語り手の言辞。下文にも「続けためれど」とある。9.6.2
注釈588昔物語にも『宇津保物語』など。『細流抄』は「草子地也」と指摘。9.6.2
注釈589こちたき御仲らひのことどもは『集成』は「こちらは(源氏の御賀の場合は)とても大変で、ご立派な方々のご贈答の数々は」。『完訳』は「この仰々しいご交際のことは」と訳す。9.6.2
注釈590えぞ数へあへはべらぬや「はべり」丁寧の補助動詞、語り手の文章中に使用。9.6.2
校訂132 など など--なとの(の/$) 9.6.1
校訂133 賜ふ 賜ふ--た(た/$)たまふ 9.6.1
校訂134 こちたき こちたき--こ△△(△△/#ちた)き 9.6.2
校訂135 ことどもは ことどもは--ことゝも(も/+は) 9.6.2
校訂136 はべらぬや はべらぬや--はへらぬや△(△/#) 9.6.2
9.7
第七段 勅命による夕霧の饗宴


9-7  A banquet is held for Genji by Yugiri obeying Mikado's orders

9.7.1   内裏には、思し初めてしことどもを、むげにやはとて、中納言にぞつけさせたまひてける。そのころの 右大将、病して辞したまひけるを、この中納言に、御賀のほどよろこび加へむと思し召して、 にはかになさせたまひつ
 帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、やすやすとは中止できまいとお思いになって、中納言に御依頼あそばした。そのころの右大将が、病気になって職をお退きになったので、この中納言に、御賀に際して喜びを加えてやろうとお思いあそばして、急に右大将におさせあそばした。
 帝は六条院へ好意をお見せになろうとした賀宴をやむをえず御中止になったかわりに、そのころ病気のため右大将を辞した人のあとへ、中納言をにわかに抜擢ばってきしておすえになった。
  Uti ni ha, obosi-some te si koto-domo wo, muge ni ya ha tote, Tyuunagon ni zo tuke sase tamahi te keru. Sono-koro no U-Daisyau, yamahi si te, zi-si tamahi keru wo, kono Tyuunagon ni, ohom-ga no hodo yorokobi kuhahe m to obosi-mesi te, nihaka ni nasa se tamahi tu.
9.7.2  院もよろこび聞こえさせたまふものから、
 院もお礼申し上げなさるものの、
 院もお礼の御挨拶あいさつをあそばされたが、それは、
  Win mo yorokobi kikoye sase tamahu monokara,
9.7.3  「 いと、かく、にはかに余る喜びをなむ、いちはやき心地しはべる」
 「とても、このような、急に身に余る昇進は、早すぎる気が致します」
 「突然の御恩命はあまりに過分なお取り扱いで、若い彼が職に堪えますかどうか疑問にいたしております」
  "Ito, kaku, nihaka ni amaru yorokobi wo nam, itihayaki kokoti si haberu."
9.7.4  と卑下し申したまふ。
 とご謙遜申し上げなさる。
 こんな謙遜けんそんなお言葉であった。
  to hige si mausi tamahu.
9.7.5  丑寅の町に、御しつらひまうけたまひて、 隠ろへたるやうにしなしたまへれど、今日は、なほかたことに儀式まさりて、 所々の饗なども内蔵寮、穀倉院より、仕うまつらせたまへり
 丑寅の町に、ご準備を整えなさって、目立たないようになさったが、今日は、やはり儀式の様子も格別で、あちらこちらでの饗応なども、内蔵寮や、穀倉院から、ご奉仕させなさっていた。
 みかどはこの右大将を表面の主催者として院の四十の賀の最後の宴を北東の町の花散里はなちるさと夫人の住居すまいに設けられた。派手はでになることを院は避けようとされたのであったが、宮中の御内命によって行なわれるこの賀宴は、すべて正式どおりに略したところのないすばらしいものになった。幾つかの宴席の料理の仕度したくなどは内廷からされた。
  Usitora-no-mati ni, ohom-siturahi mauke tamahi te, kakurohe taru yau ni si nasi tamahe re do, kehu ha, naho kata koto ni gisiki masari te, tokoro-dokoro no kyau nado mo, Kura-dukasa, Kokusau-win yori, tukau-matura se tamahe ri.
9.7.6  屯食など、公けざまにて、 頭中将宣旨うけたまはりて、親王たち五人、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、宰相五人、殿上人は、例の、内裏、春宮、院、残る少なし。
 屯食などは、公式的な作り方で、頭中将が宣旨を承って、親王たち五人、左右の大臣、大納言が二人、中納言が三人、参議が五人で、殿上人は、例によって、内裏のも、東宮のも、院のも、残る人は少ない。
 屯食とんじきの用意などはお指図さしずを受けてとうの中将が皆したのである。親王お五方いつかた、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、参議五人、これだけが参列して、御所の殿上役人、東宮、院の殿上人もほとんど皆集まって参っていた。
  Tonziki nado, ohoyake-zama ni te, Tou-no-Tyuuzyau senzi uketamahari te, Miko-tati go-nin, Hidari Migi no Otodo, Dainagon hutari, Tyuunagon sam-nin, Saisyau go-nin, Tenzyau-bito ha, rei no, Uti, Touguu, Win, nokoru sukunasi.
9.7.7  御座、御調度どもなどは、太政大臣詳しくうけたまはりて、仕うまつらせたまへり。今日は、仰せ言ありて 渡り参りたまへり。院も、いとかしこくおどろき申したまひて、御座に着きたまひぬ。
 お座席、ご調度類などは、太政大臣が詳細に勅旨を承って、ご準備なさっていた。今日は、勅命があって、いらっしゃっていた。院も、たいそう恐縮申されて、お座席にご着席になった。
 院のお席の物、その室に備えられた道具類は太政大臣が聖旨を奉じて最高の技術者に製作させた物であった、そしてお言葉を受けてこの大臣もお式の場へ臨んだ。院はこれにもお驚きになって恐縮の意を表されながら式の座へお着きになった。
  O-masi, mi-teudo-domo nado ha, Ohoki-Otodo kuhasiku uketamahari te, tukau-matura se tamahe ri. Kehu ha, ohose-goto ari te watari mawiri tamahe ri. Win mo, ito kasikoku odoroki mausi tamahi te, ohom-za ni tuki tamahi nu.
9.7.8  母屋の御座に向へて、大臣の御座あり。 いときよらにものものしく太りて、この大臣ぞ、今盛りの宿徳とは見えたまへる
 母屋のお座席に向かい合って、大臣のお座席がある。たいそう美々しく堂々と太って、この大臣は、今が盛りの威厳があるようにお見えである。
 中央の室に南面された院のお席に向き合って太政大臣の座があった。きれいで、りっぱによくふとっていて、位人臣をきわめた貫禄かんろくの見える男盛りと見えた。
  Moya no ohom-za ni mukahe te, Otodo no ohom-za ari. Ito kiyora ni mono-monosiku hutori te, kono Otodo zo, ima sakari no siutoku to ha miye tamahe ru.
9.7.9  主人の院は、なほいと若き源氏の君に見えたまふ。御屏風四帖に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄毯に、下絵のさまなど おろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などよりも、この御屏風の墨つきのかかやくさまは、目も及ばず、思ひなしさへめでたくなむありける。
 主人の院は、今もなお若々しい源氏の君とお見えである。御屏風四帖に、帝が御自身でお書きあそばした唐の綾の薄毯の地に、下絵の様子など、尋常一様であるはずがない。美しい春秋の作り絵などよりも、この御屏風のお筆の跡の輝く様子は、目も眩む思いがし、御宸筆と思うせいでいっそう素晴らしかったのであった。
 院はまだ若い源氏の君とお見えになるのであった。四つの屏風びょうぶには帝の御筆蹟ひっせきられてあった。薄地の支那綾しなあやに高雅な下絵のあるものである。四季の彩色絵よりもこのお屏風はりっぱに見えた。帝の御字は輝くばかりおみごとで、目もくらむかと思いなしも添って思われた。
  Aruzi-no-Win ha, naho ito wakaki Genzi-no-Kimi ni miye tamahu. Mi-byaubu si-dehu ni, Uti no ohom-te kaka se tamahe ru, kara no aya no usu-tan ni, sitawe no sama nado odoroka nara m ya ha? Omosiroki syunziu no tukuri-we nado yori mo, kono mi-byaubu no sumi-tuki no kakayaku sama ha, me mo oyoba zu, omohi-nasi sahe medetaku nam ari keru.
9.7.10  置物の御厨子、弾き物、吹き物など、蔵人所より賜はりたまへり。大将の御勢ひ、いといかめしくなりたまひにたれば、うち添へて、今日の作法いとことなり。 御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人、上より次々に牽きととのふるほど、日暮れ果てぬ。
 置物の御厨子、絃楽器、管楽器など、蔵人所から頂戴なさった。右大将のご威勢も、たいそう堂々たる者におなりになったので、それも加わって、今日の儀式はまことに格別である。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人が、上の者から順々に馬を引き並べるうちに、日がすっかり暮れた。
 置き物の台、き物、吹き物の楽器は蔵人所くろうどどころから給せられたのである。右大将の勢力も強大になっていたため今日の式のはなやかさはすぐれたものに思われた。四十匹の馬が左馬寮、右馬寮、六衛府りくえふの官人らによって次々に引かれて出た。おそれ多いお贈り物である。そのうち夜になった。
  Oki-mono no mi-dusi, hiki-mono, huki-mono nado, Kuraudo-dokoro yori tamahari tamahe ri. Daisyau no ohom-ikihohi, ito ikamekasiku nari tamahi ni tare ba, uti-sohe te, kehu no sahohu ito koto nari. Ohom-muma si-zihu-hiki, Hidari Migi no Muma-dukasa, Roku-wehu no kwanzin, kami yori tugi-tugi ni hiki totonohuru hodo, hi kure hate nu.
注釈591内裏には冷泉帝、夕霧に命じて源氏の四十賀を祝う。9.7.1
注釈592右大将病して辞したまひけるを系図不詳の人。病気により職を退いたのでの意。9.7.1
注釈593にはかになさせたまひつ急に夕霧を右大将の後任にご任命あそばした。9.7.1
注釈594いとかくにはかに以下「心地しはべる」まで、源氏の詞。感謝の気持ちを述べる。9.7.3
注釈595隠ろへたるやうにしなしたまへれど『集成』は「目立たぬ所をお選びなさったのだけれども」。『完訳』は「内輪の御賀のようになさったのだったが」と訳す。9.7.5
注釈596所々の饗なども『集成』は「六条の院の、院庁の諸役所への饗応」。『完訳』は「花散里の居所以外でも饗応」と注す。9.7.5
注釈597内蔵寮穀倉院より仕うまつらせたまへり「内蔵寮」は宮中の宝物や献上品を収蔵管理する役所。「穀倉院」は畿内諸国から徴収した米餞を収納する役所。勅命による賀宴ゆえにこれらの物品を用いる。9.7.5
注釈598頭中将宣旨うけたまはりて朝廷の饗宴の場合と同様に頭中将が勅命によって行った。この頭中将は、系図不詳の人。述語は省略されている。9.7.6
注釈599いときよらにものものしく太りて、この大臣ぞ、今盛りの宿徳とは見えたまへる太政大臣の風采。『集成』は「美々しく堂々と太っていられて」「重々しく威厳のある人」。『完訳』は「まことに美々しく堂々とふとっていて、この大臣こそ今が盛りの威厳望を誇るお方とお見受けされる」と訳す。9.7.8
注釈600おろかならむやは語り手の驚嘆の辞。9.7.9
注釈601御馬四十疋帝から御下賜された馬。9.7.10
校訂137 渡り参り 渡り参り--つかうまつらせ(つかうまつらせ/$わたりまいり) 9.7.7
9.8
第八段 舞楽を演奏す


9-8  Concert dances and music are held after the Buddhist ceremoney

9.8.1  例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、 けしきばかり舞ひて、大臣の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに、皆人、心を入れたまへり。琵琶は、例の兵部卿宮、何ごとにも世に難きものの上手におはして、 いと二なし。御前に琴の御琴。大臣、和琴弾きたまふ。
 例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞、形ばかり舞って、太政大臣がおいでになっているので、珍しく湧き立った管弦の御遊に、参会者一同、熱中して演奏していらっしゃった。琵琶は、例によって兵部卿宮、どのような事でも世にも稀な名人でいらっしゃって、二人といない出来である。院の御前に琴の御琴。太政大臣、和琴をお弾きになる。
 例の万歳楽、賀皇恩がこうおんなどという舞を、形式的にだけ舞わせたあとで、お座敷の音楽のおもしろい場が開かれた。太政大臣という音楽の達者たてものが臨場していることにだれもだれも興奮しているのである。琵琶びわは例によって兵部卿ひょうぶきょうの宮、院はきん、太政大臣は和琴わごんであった。
  Rei no, Manzai-raku, Gawauon nado ihu mahi, kesiki bakari mahi te, Otodo no watari tamahe ru ni, medurasiku mote-hayasi tamahe ru ohom-asobi ni, mina-hito, kokoro wo ire tamahe ri. Biha ha, rei no Hyaubukyau-no-Miya, nani-goto ni mo yo ni kataki mono no zyauzu ni ohasi te, ito ni nasi. O-mahe ni kin-no-ohom-koto. Otodo, wagon hiki tamahu.
9.8.2   年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや、いと優にあはれに思さるれば、琴も御手をさをさ隠したまはず、いみじき音ども出づ。
 長年幾度となくお聞きになってきたお耳のせいか、まことに優美にしみじみと感慨深くお感じになって、ご自身の琴の秘術も少しもお隠しにならず、素晴らしい音色を奏でる。
 久しくお聞きにならぬせいか和琴の調べを絶妙のものとしてお聞きになる院は、御自身も琴を熱心におきあそばされたのである。いかなる時にも聞きえなかった妙音も出た。
  Tosi-goro sohi tamahi ni keru ohom-mimi no kiki-nasi ni ya, ito iu ni ahare ni obosa rure ba, kin mo ohom-te wosa-wosa kakusi tamaha zu, imiziki ne-domo idu.
9.8.3  昔の御物語どもなど出で来て、 今はた、かかる御仲らひに、いづ方につけても、聞こえかよひたまふべき御睦びなど、心よく聞こえたまひて、御酒あまたたび参りて、もののおもしろさもとどこほりなく、御酔ひ泣きどもえとどめたまはず。
 昔のお話なども出てきて、今は今で、このような親しいお間柄で、どちらからいっても、仲よくお付き合いなさるはずの親しいご交際などを、気持ちよくお話し申されて、お杯を幾度もお傾けになって、音楽の感興も増す一方で、酔いの余りの感涙を抑えかねていらっしゃる。
 またも昔の話が出て、子息の縁組みその他のことで昔に増した濃い親戚しんせき関係を持つことにおなりになった二人は、むつまじく酒杯をお重ねになった。おもしろさも頂天に達した気がされて、酔い泣きをされるのもこのかたがたであった。
  Mukasi no ohom-monogatari-domo nado ide-ki te, ima hata, kakaru ohom-nakarahi ni, idu-kata ni tuke te mo, kikoye kayohi tamahu beki ohom-mutubi nado, kokoro-yoku kikoye tamahi te, ohom-miki amata tabi mawiri te, mono no omosirosa mo todokohori naku, ohom-wehi-naki-domo e todome tamaha zu.
9.8.4   御贈り物に、すぐれたる和琴一つ、好みたまふ高麗笛添へて。紫檀の箱一具に、唐の本ども、ここの草の本など入れて。 御車に追ひてたてまつれたまふ。御馬ども迎へ取りて、右馬寮ども、高麗の楽して、ののしる。六衛府の官人の禄ども、大将 賜ふ
 御贈り物として見事な和琴を一つ、お好きでいらっしゃる高麗笛を加えて。紫檀の箱一具に、唐の手本とわが国の草仮名の手本などを入れて。お車まで追いかけて差し上げなさる。御馬を受け取って、右馬寮の官人たちが、高麗の楽を演奏して、大声を上げる。六衛府の官人の禄など、大将がお与えになる。
 お贈り物には、すぐれた名器の和琴を一つ、それに大臣の好む高麗笛こまぶえを添え、また紫檀したんの箱一つには唐本と日本の草書の書かれた本などを入れて、院は帰ろうとする大臣の車へお積ませになった。馬を院方の人が受け取った時に右馬寮の人々は高麗楽を奏した。六衛府の官人たちへの纏頭てんとうは大将が出した。
  Ohom-okurimono ni, sugure taru wagon hitotu, konomi tamahu Komabue sohe te. Sitan no hako hito-yorohi ni, kara no hon-domo, koko no sau no hon nado ire te. Mi-kuruma ni ohi te tatemature tamahu. Ohom-muma-domo mukahe-tori te, Migi-no-Tukasa-domo, Koma no gaku si te, nonosiru. Roku-wehu no kwanzin no roku-domo, Daisyau tamahu.
9.8.5   御心と削ぎたまひて、いかめしきことどもは、このたび停めたまへれど、内裏、春宮、 一院、后の宮、次々の御ゆかりいつくしきほど、いひ知らず見えにたることなれば、 なほかかる折には、めでたくなむおぼえける
 ご意向から簡素になさって、仰々しいことは、今回はご中止なさったが、帝、東宮、一の院、后の宮、次から次へと御縁者の堂々たることは、筆舌に尽くしがたいことなので、やはりこのような晴れの賀宴の折には、素晴らしく思われるのであった。
 質素に質素にとして目だつことはおやめになったのであるが、宮中、東宮、朱雀すざく院、きさいの宮、このかたがたとの関係が深くて、自然にはなやかさの作られる六条院は、こんな際に最も光る家と見えた。
  Mi-kokoro to sogi tamahi te, ikamesiki koto-domo ha, kono tabi todome tamahe re do, Uti, Touguu, Iti-no-Win, Kisai-no-Miya, tugi-tugi no ohom-yukari itukusiki hodo, ihi sira zu miye ni taru koto nare ba, naho kakaru wori ni ha, medetaku nam oboye keru.
注釈602けしきばかり舞ひて『完訳』は「ご祝儀としてほんの形ばかりに舞い」と訳す。9.8.1
注釈603いと二なし『完訳』は「まったく太刀打ちできるお方はいらっしゃらない」と訳す。9.8.1
注釈604年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや『集成』は「長年、太政大臣の和琴を何度も聞いてこられたことを思って聞かれるせいか」と訳す。9.8.2
注釈605今はたかかる御仲らひに昔は従兄弟どうし、今は子供たち夕霧と雲居雁の舅どうしという関係。9.8.3
注釈606御贈り物に源氏から太政大臣への贈り物。9.8.4
注釈607御車に追ひてたてまつれたまふ『集成』は「贈り物の通例の作法である」と注す。9.8.4
注釈608御心と削ぎたまひて源氏の御意向から簡略になさっての意。9.8.5
注釈609一院朱雀院。『完訳』は「准太上天皇の源氏(新院)と区別するための呼称」と注す。9.8.5
注釈610なほかかる折にはめでたくなむおぼえける『集成』は「草子地」と注す。9.8.5
校訂138 賜ふ 賜ふ--(/+たまふ) 9.8.4
9.9
第九段 饗宴の後の感懐


9-9  Genji thinks his wives' future after the banquet

9.9.1  大将の、ただ一所おはするを、さうざうしく栄なき心地せしかど、あまたの人にすぐれ、おぼえことに、人柄もかたはらなきやうにものしたまふにも、 かの母北の方の、伊勢の御息所との恨み深く、挑みかはしたまひけむほどの御宿世どもの 行く末見えたるなむ、さまざまなりける
 大将が、ただ一人りいらっしゃるのを、物足りなく張り合いのない感じがしたが、大勢の人々に抜きん出て、評判も格別で、人柄も並ぶ者がないように優れていらっしゃるにつけても、あの母北の方が、伊勢の御息所との確執が深く、互いに争いなさったご運命の結果が現れたのが、それぞれの違いだったのである。
 院には大将だけがお一人息子で、ほかに男子のないことは寂しい気もされることであったが、その一人の子が万人にすぐれた器量を持ち、君主の御覚えがめでたく、幸運の人というにほかならぬことがあかしされていくにつけて、この人の母である夫人と、伊勢いせ御息所みやすどころとの双方の自尊心が強くて苦しく競い合った時代に次いで、中宮とこの大将が双方とも、院の大きい愛のもとでりっぱなかたがたになられたことが思わせられる。
  Daisyau no, tada hito-tokoro ohasuru wo, sau-zausiku haye naki kokoti se sika do, amata no hito ni sugure, oboye koto ni, hitogara mo katahara naki yau ni monosi tamahu ni mo, kano haha-Kitanokata no, Ise-no-Miyasumdokoro to no urami hukaku, idomi kahasi tamahi kem hodo no ohom-sukuse-domo no yukusuwe miye taru nam, sama-zama nari keru.
9.9.2   その日の御装束どもなど、こなたの上なむしたまひける。禄どもおほかたのことをぞ、 三条の北の方いそぎたまふめりし。折節につけたる御いとなみ、うちうちのもののきよらをも、 こなたにはただよそのことにのみ聞きわたりたまふを、 何事につけてかは、かかるものものしき数にもまじらひたまはましと、おぼえたるを、大将の君の御ゆかりに、いとよく数まへられたまへり。
 その当日のご装束類は、こちらの御方がご用意なさったのであった。禄などの一通りのことは、三条の北の方がご準備なさったようであった。何かの折節につけたお催し事、内輪の善美事をも、こちらはただ他所事とばかり聞き過していらっしゃるので、どのような事をして、このような堂々たる方々のお仲間入りなされようかと、お思いであったのだが、大将の君のご縁で、まことに立派に重んじられていらっしゃった。
 この日大将から院へ奉った衣服類は花散里夫人が引き受けて作ったのである。纏頭の物は皆三条の若夫人の手でできたようであった。六条院のはなやかな催し事もよそのことに聞いていた花散里夫人には、こうした生きがいのある働きをする日はあることかと思われたものであるが、大将の母儀ぼぎになっていることによって光栄が分かたれたのである。
  Sono hi no ohom-syauzoku-domo nado, konata no uhe nam si tamahi keru. Roku-domo ohokata no koto wo zo, Samdeu-no-Kitanokata ha isogi tamahu meri si. Worihusi ni tuke taru ohom-itonami, uti-uti no mono no kiyora wo mo, konata ni ha tada yoso no koto ni nomi kiki-watari tamahu wo, nani-goto ni tuke te ka ha, kakaru mono-monosiki kazu ni mo mazirahi tamaha masi to, oboye taru wo, Daisyau-no-Kimi no ohom-yukari ni, ito yoku kazumahe rare tamahe ri.
注釈611かの母北の方の葵の上をさす。9.9.1
注釈612行く末見えたるなむさまざまなりける『全集』は「語り手の感慨」と指摘。『集成』は「それぞれのお子たちの身の上なのだ。車争いに恨みをのんだ御息所の娘は中宮になり、夕霧はただの臣下である」と注す。9.9.1
注釈613その日の御装束どもなどこなたの上なむしたまひける当日の源氏の装束を花散里が準備。9.9.2
注釈614三条の北の方雲居雁をいう。「北の方」という呼称。9.9.2
注釈615いそぎたまふめりし推量の助動詞「めり」主観的推量、過去の助動詞「き」体験的過去等のニュアンスは、語り手の言辞。9.9.2
注釈616こなたには花散里方をいう。9.9.2
注釈617何事につけてかは以下「まじらひたまはまし」まで、花散里の心中と地の文が融合した叙述。語り手の花散里に対する敬語「たまふ」が混入する。助動詞「まし」反実仮想。9.9.2
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渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
門田裕志、小林繁雄(青空文庫)

2004年3月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月4日

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