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34 若菜上(明融臨模本)
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WAKANA-NO-ZYAU
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光る源氏の准太上天皇時代 三十九歳暮から四十一歳三月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from the end of 39 to March the age of 41
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6 |
第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁
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6 Tale of Genji Sam-no-Miya moves into Rokujo-in
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6.1 |
第一段 女三の宮、六条院に降嫁
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6-1 Sam-no-Miya moves into Rokujo-in
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6.1.1 |
かくて、如月の十余日に、朱雀院の姫宮、六条院へ渡りたまふ。この院にも、 御心まうけ世の常ならず。若菜参りし西の放出に 御帳立てて ★、 そなたの一、二の対、渡殿かけて、女房の局々まで、こまかにしつらひ磨かせたまへり。内裏に参りたまふ人の作法をまねびて、 かの院よりも御調度など運ばる。 渡りたまふ儀式、言へばさらなり。
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こうして、二月の十日過ぎに、朱雀院の姫宮、六条院へお輿入れになる。こちらの院におかれても、ご準備は並々でない。若菜を召し上がった西の放出に御帳台を設けて、そちらの西の第一、第二の対、渡殿にかけて、女房の局々に至るまで、念入りに整え飾らせなさっていた。宮中に入内なさる姫君の儀式に似せて、あちらの院からも御調度類が運ばれて来る。お移りになる儀式の盛大さは、今さら言うまでもない。
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二月の十幾日に朱雀院の女三の宮は六条院へおはいりになるのであった。六条院でもその準備がされて、若菜の賀に使用された寝殿の西の離れに帳台を立て、そこに属した一二の対の屋、渡殿へかけて女房の部屋も割り当てた華麗な設けができていた。宮中へはいる人の形式が取られて、朱雀院からもお道具類は運び込まれた。その夜の儀装の列ははなやかなものであった。
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Kakute, Kisaragi no towo-yo-ka ni, Syuzyaku-Win no Hime-Miya, Rokudeu-Win he watari tamahu. Kono Win ni mo, mi-kokoro mauke yo no tune nara zu. Wakana mawiri si nisi no hanati-ide ni mi-tyau tate te, sonata no iti, ni no tai wata-dono kake te, nyoubau no tubone tubone made, komaka ni siturahi migaka se tamahe ri. Uti ni mawiri tamahu hito no sahohu wo manebi te, kano Win yori mo mi-teudo nado hakoba ru. Watari tamahu gisiki, ihe ba sara nari.
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6.1.2 |
御送りに、上達部などあまた参りたまふ。かの家司望みたまひし大納言も、やすからず思ひながらさぶらひたまふ。 御車寄せたる所に、院渡りたまひて、下ろしたてまつりたまふなども、 例には違ひたることどもなり。
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御供奉に、上達部などが大勢お供なさる。あの家司をお望みになった大納言も、面白らかず思いながらも供奉なさっている。お車を寄せた所に、院がお出になって、お下ろし申し上げなさるなども、例には無いことである。
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供奉者には高官も多数に混じっていた。姫宮を主公として結婚をしたいと望んだ大納言も失敗した恨みの涙を飲みながらお付きして来た。お車の寄せられた所へ六条院が出てお行きになって、宮をお抱きおろしになったことなどは新例であった。
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Ohom-okuri ni, Kamdatime nado amata mawiri tamahu. Kano keisi nozomi tamahi si Dainagon mo, yasukara zu omohi nagara saburahi tamahu. Mi-kuruma yose taru tokoro ni, Win watari tamahi te, orosi tatematuri tamahu nado mo, rei ni ha tagahi taru koto-domo nari.
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6.1.3 |
ただ人におはすれば、よろづのこと限りありて、 内裏参りにも似ず、婿の大君といはむにもこと違ひて ★、めづらしき御仲のあはひどもになむ。
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臣下でいらっしゃるので、何もかも制限があって、入内の儀式とも違うし、婿の大君と言うのとも事情が違って、珍しいご夫婦の関係である。
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天子でおいでになるのではないから入内の式とも違い、親王夫人の入輿とも違ったものである。
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Tadaudo ni ohasure ba, yorodu no koto kagiri ari te, Uti-mawiri ni mo ni zu, muko no oho-kimi to iha m ni mo koto tagahi te, medurasiki ohom-naka no ahahi-domo ni nam.
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出典8 |
婿の大君 |
我家は 帷帳(も 垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴に 何よけむ 鮑(栄螺(か 石陰子(よけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ |
催馬楽-我家 |
6.1.3 |
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6.2 |
第二段 結婚の儀盛大に催さる
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6-2 The wedding celebrations are held splendidly
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6.2.1 |
三日がほど、かの院よりも、主人の院方 よりも、いかめしくめづらしきみやびを尽くしたまふ。
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三日の間は、あちらの院からも、主人である院からも、盛大でまたとないほどの優雅な催しをお尽くしになる。
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三日の間は御舅()の院のほうからも、また主人の院からも派手()な伺候者へのおもてなしがあった。
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Mi-ka ga hodo, kano Win yori mo, aruzi no Win-kata yori mo, ikamesiku medurasiki miyabi wo tukusi tamahu.
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6.2.2 |
対の上も、ことに触れてただにも思されぬ世のありさまなり。 げに、かかるにつけて、こよなく 人に劣り消たるることも あるまじけれど、また 並ぶ人なくならひたまひて、 はなやかに生ひ先遠く、あなづりにくきけはひにて移ろひたまへるに、 なまはしたなく思さるれど、つれなくのみもてなして、御渡りのほども、もろ心にはかなきこともし出でたまひて、 いとらうたげなる御ありさまを、いとどありがたしと思ひきこえたまふ。
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対の上も何かにつけて、平静ではいらっしゃれないお身の回りである。なるほど、このようなことになったからと言って、すっかりあちらに負けて影が薄くなってしまうこともあるまいけれど、また一方でこれまで揺ぎない地位にいらしたのに、華やかでお年も若く、侮りがたい勢いでお輿入れになったので、何となく居心地が悪くお思いになるが、何気ないふうにばかり装って、お輿入れの時も、ご一緒に細々とした事までお世話なさって、まことにかいがいしいご様子を、ますます得がたい人だとお思い申し上げなさる。
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紫の女王()もこうした雰囲気()の中にいては寂しい気のすることであろうと思われた。夫人は静かにながめていながらも、院との間柄が不安なものになろうとは思わないのであるが、だれよりも愛される妻として動きのない地位をこれまで持った人も、若くて将来の長い内親王が競争者におなりになったのであるから、次第に自分が自分をはずかしめていく気がしないでもない心を、おさえて、おおように姫宮の移っておいでになる前の仕度()なども院とごいっしょになってしたような可憐()な態度に院は感激しておいでになった。
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Tai-no-Uhe mo, koto ni hure te tada ni mo obosa re nu yo no arisama nari. Geni, kakaru ni tuke te, koyonaku hito ni otori keta ruru koto mo aru mazikere do, mata narabu hito naku narahi tamahi te, hanayaka ni ohisaki tohoku, anaduri nikuki kehahi ni te uturohi tamahe ru ni, nama-hasitanaku obosa rure do, turenaku nomi motenasi te, ohom-watari no hodo mo, moro-kokoro ni hakanaki koto mo si-ide tamahi te, ito rautage naru ohom-arisama wo, itodo arigatasi to omohi kikoye tamahu.
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6.2.3 |
姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。
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姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。
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女三の宮はかねて話のあったようにまだきわめて小さくて、幼い人といってもあまりにまでお子供らしいのである。
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Hime-Miya ha, geni, mada ito tihisaku, kata-nari ni ohasuru uti ni mo, ito ihakenaki kesiki si te, hitamiti ni wakabi tamahe ri.
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6.2.4 |
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、
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あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、
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紫の女王を二条の院へお迎えになった時と院は思い比べて御覧になっても、
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Kano Murasaki no yukari tadune tori tamahe ri si wori obosi-iduru ni,
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6.2.5 |
「 かれはされていふかひ ありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、 よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」
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「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなどもあるまい」
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その時の女王は才気が見えて、相手にしていておもしろい少女()であったのに、これは単に子供らしいというのに尽きる方であったから、これもいいであろう、自尊心の多過ぎず出過ぎたことのできない点だけが安心である
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"Kare ha sare te ihukahi ari si wo, kore ha, ito ihakenaku nomi miye tamahe ba, yoka meri. Nikuge ni ositati taru koto nado ha aru mazika' meri."
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6.2.6 |
と思すものから、「 いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。
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とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。
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と、院はつとめて善意で見ようとされながらも、あまりに言いがいのない新婦であるとお歎()かれになった。
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to obosu monokara, "Ito amari mono no hayenaki ohom-sama kana!" to mi tatematuri tamahu.
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6.3 |
第三段 源氏、結婚を後悔
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6-3 Genji regrets having consented the marriage
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6.3.1 |
三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを、 年ごろさもならひたまはぬ心地に、忍ぶれど、なほものあはれなり。 御衣どもなど、いよいよ薫きしめさせたまふものから、うち眺めてものしたまふけしき、いみじくらうたげにをかし。
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三日間は、毎晩お通いになるのを、今までにこのようなことは経験がおありでないので、堪えはするが、やはり胸が痛む。お召し物などを、いっそう念入りに香を薫きしめさせなさりながら、物思いに沈んでいらっしゃる様子は、たいそういじらしく美しい。
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三日の間は続いてそちらへおいでになるのを、今日までそうしたことに馴()れぬ女王であったから、忍ぼうとしても底から底から寂しさばかりが湧()いてきた。新婚時代の新郎の衣服として宮のほうへおいでになる院のお召し物へ女房に命じて薫香()をたきしめさせながら、自身は物思いにとらわれている様子が非常に美しく感ぜられた。
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Mi-ka ga hodo ha, yo-gare naku watari tamahu wo, tosi-goro samo narahi tamaha nu kokoti ni, sinobure do, naho mono ahare nari. Ohom-zo-domo nado, iyo-iyo taki-sime sase tamahu mono kara, uti-nagame te monosi tamahu kesiki, imiziku rautage ni wokasi.
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6.3.2 |
「 などて、よろづのことありとも、また人をば並べて見るべきぞ。 あだあだしく、心弱くなりおきにけるわがおこたりに、かかることも出で来るぞかし。若けれど、 中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを」
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「どうして、どんな事情があるにもせよ、他に妻を迎える必要があったのだろうか。浮気っぽく、気弱になっていた自分の失態から、このような事も出てきたのだ。若いけれど、中納言をお考えに入れずじまいだったようなのに」
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何事があっても自分はもう一人の妻を持つべきではなかったのである。この問題だけを謝絶しきれずに締まりがなく受け入れた自分の弱さからこんな悲しい思いをすることにもなったと、
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"Nadote, yorodu no koto ari tomo, mata hito wo ba narabe te miru beki zo. Ada-adasiku, kokoro-yowaku nari-oki ni keru waga okotari ni, kakaru koto mo ide-kuru zo kasi. Wakakere do, Tyuunagon wo ba e obosi-kake zu nari nu meri si wo."
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6.3.3 |
と、われながらつらく思し続くるに、涙ぐまれて、
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と、自分ながら情けなくお思い続けられて、つい涙ぐんで、
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院は御自身の心が恨めしくばかりおなりになって、涙ぐんで、
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to, ware nagara turaku obosi tudukuru ni, namida-guma re te,
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6.3.4 |
「 今宵ばかりは、ことわりと許したまひてむな。 これより後のとだえあらむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。 また、さりとて ★、かの院に聞こし召さむことよ」
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「今夜だけは、無理もないこととお許しくださいな。これから後に来ない夜があったら、我ながら愛想が尽きるだろう。だが、とは言っても、あちらの院には何とお聞きになろうやら」
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「もう一晩だけは世間並みの義理を私に立てさせてやると思って、行くのを許してください。今日からあとに続けてあちらへばかり行くようなことをする私であったなら、私自身がまず自身を軽蔑()するでしょうね。しかしまた院がどうお思いになることだか」
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"Koyohi bakari ha, kotowari to yurusi tamahi te m na. Kore yori noti no todaye ara m koso, mi nagara mo kokoro-dukinakaru bekere. Mata, saritote, kano Win ni kikosimesa m koto yo!"
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6.3.5 |
と、思ひ乱れたまへる御心のうち、苦しげなり。 すこしほほ笑みて、
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と言って、思い悩んでいらっしゃるご心中、苦しそうである。少しほほ笑んで、
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と、お言いになりながら煩悶()をされる様子がお気の毒であった。夫人は少し微笑をして、
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to, omohi midare tamahe ru mi-kokoro no uti, kurusige nari. Sukosi hohowemi te,
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6.3.6 |
「 みづからの御心ながらだに、え定めたまふまじかなるを、ましてことわりも何も、いづこにとまるべきにか」
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「ご自身のお考えでさえ、お決めになれないようですのに、ましてわたしは無理からぬことやら何やら、どちらに決められましょう」
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「それ御覧なさいませ。御自身のお心だってお決まりにならないのでしょう。ですもの、道理のあるのが強味ともいっておられませんわ」
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"Midukara no mi-kokoro nagara dani, e sadame tamahu mazika' naru wo, masite kotowari mo nani mo, iduko ni tomaru beki ni ka?"
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6.3.7 |
と、いふかひなげにとりなしたまへば、 恥づかしうさへおぼえたまひて、つらづゑをつきたまひて、寄り臥したまへれば、 硯を引き寄せたまひて、
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と、取りつく島もないように話を逸らされるので、恥ずかしいまでに思われなさって、頬杖をおつきになって、寄り臥していらっしゃると、硯を引き寄せて、
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絶望的にこう女王に言われては、恥ずかしくさえ院はお思われになって、頬杖()を突きながらうっとりと横になっておいでになった。紫の女王は硯()を引き寄せて無駄()書きを始めていた。
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to, ihukahi-nage ni tori-nasi tamahe ba, hadukasiu sahe oboye tamahi te, tura-duwe wo tuki tamahi te, yori-husi tamahe re ba, suzuri wo hiki-yose tamahi te,
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6.3.8 |
「 目に近く移れば変はる世の中を
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「眼のあたりに変われば変わる二人の仲でしたのに
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目に近くうつれば変はる世の中を
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"Me ni tikaku uture ba kaharu yononaka wo
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6.3.9 |
行く末遠く頼みけるかな」
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行く末長くとあてにしていましたとは」
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行く末遠く頼みけるかな
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yukusuwe tohoku tanomi keru kana
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6.3.10 |
古言など書き交ぜたまふを、取りて見たまひて、はかなき言なれど、げにと、ことわりにて、
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古歌などを書き交えていらっしゃるのを、取って御覧になって、何でもない歌であるが、いかにもと、道理に思って、
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と書き、またそうした意味の古歌なども書かれていく紙を、院は手に取ってお読みになり夫人の気持ちをお憐()みになった。
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Hurukoto nado kaki maze tamahu wo, tori te mi tamahi te, hakanaki koto nare do, geni to, kotowari ni te,
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6.3.11 |
「 命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき
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「命は尽きることがあってもしかたのないことだが
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命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき
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"Inoti koso tayu to mo taye me sadame naki
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6.3.12 |
世の常ならぬ仲の契りを」
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無常なこの世とは違う変わらない二人の仲なのだ」
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世の常ならぬ中の契りを
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yo no tune nara nu naka no tigiri wo
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6.3.13 |
とみにもえ渡りたまはぬを、
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すぐにはお出かけになれないのを、
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こんな歌を書いて、急に立って行こうともされないのを見て、夫人が、
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Tomi ni mo e watari tamaha nu wo,
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6.3.14 |
「 いとかたはらいたきわざかな」
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「まこと不都合なことです」
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「おそくなっては済みませんことですよ」
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"Ito katahara-itaki waza kana!"
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6.3.15 |
と、そそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどに、えならず匂ひて渡りたまふを、見出だしたまふも、 いとただにはあらずかし。
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と、お促し申し上げなさると、柔らかで優美なお召し物に、たいそうよい匂いをさせてお出かけになるのを、お見送りなさるのも、まことに平気ではいられないだろう。
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と催促したのを機会に、柔らかな直衣()の、艶()に薫香()の香をしませたものに着かえて院が出てお行きになるのを見ている女王の心は平静でありえまいと思われた。
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to, sosonokasi kikoye tamahe ba, nayoyoka ni wokasiki hodo ni, e nara zu nihohi te watari tamahu wo, mi-idasi tamahu mo, ito tada ni ha ara zu kasi.
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出典9 |
目に近く |
秋萩の下葉につけて目に近くよそなる人の心をぞ見る |
拾遺集雑秋-一一一六 女 |
6.3.8 |
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6.4 |
第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす
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6-4 Murasaki doesn't sleep all night
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6.4.1 |
年ごろ、 さもやあらむと思ひしことどもも、今はとのみもて離れたまひつつ、 さらばかくにこそはとうちとけゆく末に、ありありて、かく世の聞き耳も なのめならぬことの出で来ぬるよ。思ひ定むべき世のありさまにもあらざりければ、今より後も うしろめたくぞ思しなりぬる。
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長い間には、もしかしたらと思っていたいろいろな事も、今は終わりとすっかりお絶ちになって、ではこれで大丈夫と、安心なさるようになった今頃になって、とどのつまり、このような世間に外聞の悪い事が出て来るとは。安心できる二人の仲ではなかったのだから、これから先も不安にお思いになるのであった。
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これまでにさらに新婦を得ようとされるらしい気()ぶりはあっても、いよいよことが進行しそうな時に反省しておしまいになる院でおありになったから、ただもう何でもなく順調に幸福が続いていくとばかり信じていた末に、世間のものにも自分の位置をあやぶませるようなことが湧()いてきた。永久に不変なものなどはないこうしたこの世ではまたどんな運命に自分は遭遇するかもしれないと女王は思うようになった。
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Tosi-goro, samoya ara m to omohi si koto-domo mo, ima ha to nomi mote-hanare tamahi tutu, sara ba kaku ni koso ha to utitoke-yuku suwe ni, ari ari te, kaku yo no kiki-mimi mo nanome nara nu koto no ide-ki nuru yo. Omohi-sadamu beki yo no arisama ni mo ara zari kere ba, ima yori noti mo usirometaku zo obosi nari nuru.
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6.4.2 |
さこそつれなく紛らはしたまへど、さぶらふ人々も、
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あのようにさりげなく装ってはいらっしゃるが、伺候している女房たちも、
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表面にこの動揺した気持ちは見せないのであるが、女房たちも、
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Sakoso turenaku magirahasi tamahe do, saburahu hito-bito mo,
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6.4.3 |
「 思はずなる世なりや。あまたものしたまふやうなれど、いづ方も、皆こなたの御けはひにはかたさり憚るさまにて 過ぐしたまへばこそ、ことなくなだらかにもあれ、 おしたちてかばかりなるありさまに、 消たれてもえ過ぐしたまふまじ」
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「思いがけない事になりましたわね。大勢いらっしゃるようですが、どの方も、皆こちらのご威勢には一歩譲って遠慮なさって来たからこそ、何事もなく平穏でしたのに、誰憚らないこのようなやり方に、負けておしまいになったままではお過ごしになれまい」
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「意外なことになるものですね。ほかの奥様がたはおいでになってもこちらの奥様の競争者などという自信を持つ方もなくて、御遠慮をしていらっしゃるから無事だったのですが、こんなふうにこの奥様をすら眼中にお置きあそばさないような方が出ていらっしってはどうなることでしょう。だれよりも優越性のある方に劣等者の役はお勤まりにはならないでしょう。
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"Omoha zu naru yo nari ya! Amata monosi tamahu yau nare do, idu-kata mo, mina konata no ohom-kehahi ni ha kata-sari habakaru sama ni te sugusi tamahe ba koso, koto naku nadaraka ni mo are, ositati te kabakari naru arisama ni, keta re te mo e sugusi tamahu mazi."
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6.4.4 |
「また、さりとて、はかなきことにつけても、安からぬことのあらむ折々、かならずわづらはしきことども出で来なむかし」
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「でも、それはそれとして、ちょっとした事でも、穏やかならぬことがいろいろと起こったら、きっと面倒な事が持ち上がって来ましょうよ」
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そしてまたあちらから申せば、何でもないことに神経をおたかぶらせになるようなこともないとは言われませんから、そこで苦しい争闘が起こって奥様は御苦労をなさるでしょうね」
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"Mata, saritote, hakanaki koto ni tuke te mo, yasukara nu koto no ara m wori-wori, kanarazu wadurahasiki koto-domo ide-ki nam kasi."
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6.4.5 |
など、おのがじしうち語らひ嘆かしげなるを、 つゆも見知らぬやうに、 いとけはひをかしく物語などしたまひつつ、夜更くるまで おはす。
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などと、朋輩同士話し合って嘆いているふうなのを、少しも知らないふうに、まことに感じも優雅にお話などをなさりながら、夜が更けるまで起きていらっしゃる。
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などと語って歎()いているのであったが、少しも気にせぬふうで、機嫌()よく夫人は皆と話をして夜がふけるまで座敷に出ていたが、
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nado, onogazisi uti-katarahi nagekasige naru wo, tuyu mo mi-sira nu yau ni, ito kehahi wokasiku monogatari nado si tamahi tutu, yo hukuru made ohasu.
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6.5 |
第五段 六条院の女たち、紫の上に同情
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6-5 Women in Rokujo-in sympathize with Murasaki
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6.5.1 |
かう人のただならず言ひ思ひたるも、聞きにくしと思して、
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このように女房たちが容易ならぬことを言ったり思ったりしているのも、聞きにくいことだとお思いになって、
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女房たちの中にあるそうした空気が外へ知れては醜いように思って言った。
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Kau hito no tadanarazu ihi omohi taru mo, kiki-nikusi to obosi te,
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6.5.2 |
「 かく、これかれあまたものしたまふめれど、 御心にかなひて、今めかしくすぐれたる際にもあらずと、目馴れてさうざうしく思したりつるに、 この宮のかく渡りたまへるこそ、めやすけれ。
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「このように、だれかれと大勢いらっしゃるようですが、お気持ちにかなった、華やかな高い身分ではないと、目馴れて物足りなくお思いになっていたところに、この宮がこのようにお輿入れなさったことは、本当に結構なことです。
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「院には何人もの女性が侍しておられるのだけれど、理想的な御配偶とお認めになるはなやかな身分の人はないとお思いになって、物足らず思召していらっしゃったのだから、宮様がおいでになってこれで完全になったのよ。
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"Kaku, kore-kare amata monosi tamahu mere do, mi-kokoro ni kanahi te, imamekasiku sugure taru kiha ni mo ara zu to, me-nare te sau-zausiku obosi tari turu ni, kono Miya no kaku watari tamahe ru koso, meyasukere!
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6.5.3 |
なほ、童心の失せぬにやあらむ、われも睦びきこえてあらまほしきを、 あいなく隔てあるさまに人びとやとりなさむとすらむ。 ひとしきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただならず耳たつことも、おのづから出で来るわざなれ、 かたじけなく、心苦しき御ことなめれば、いかで心おかれたてまつらじとなむ思ふ」
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まだ、子供心が抜けないのでしょうか、わたしもお親しくさせていただきたいのですが、困ったことにこちらに隔て心があるかのように皆が考えようとするのかしら。同じ程度の人とか、劣っていると思う人に対しては、黙って聞き流すわけに行かないことも、ついつい起こるものですが、恐れ多く、お気の毒な御事情がおありらしいので、何とか親しくさせていただきたいと思っています」
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私はまだ子供の気持ちがなくなっていないと見えて、いっしょに遊んで楽しく暮らしたくばかり思っているのに、皆が私の気持ちを忖度()して面倒な関係にしてしまわないかと心配よ。自分と同じほどの人とか、もっと下の人とかには、あの人が自分より多く愛されることは不愉快だというような気持ちは自然起こるものだけれど、あちらは高貴な方で、お気の毒な事情でこうしておいでになったのだから、その方に悪くお思われしたくないと私は努めているのよ」
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Naho, waraha-gokoro use nu ni ya ara m, ware mo mutubi kikoye te aramashosiki wo, ainaku hedate aru sama ni hito-bito ya torinasa m to su ram. Hitosiki hodo, otori-zama nado omohu hito ni koso, tada nara zu mimi tatu koto mo, onodukara ide-kuru waza nare, katazikenaku, kokoro-gurusiki ohom-koto na' mere ba, ikade kokoro-oka re tatematura zi to nam omohu."
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6.5.4 |
などのたまへば、中務、中将の君などやうの人びと、目をくはせつつ、
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などとおっしゃると、中務、中将の君などといった女房たちは、目くばせしながら、
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中将とか中務()とかいう女房は目を見合わせて、
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nado notamahe ba, Nakatukasa, Tyuuzyau-no-Kimi nado yau no hito-bito, me wo kuhase tutu,
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6.5.5 |
「 あまりなる御思ひやりかな」
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「あまりなお心づかいですこと」
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「あまりに思いやりがおありになり過ぎるようね」
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"Amari naru ohom-omohiyari kana!"
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6.5.6 |
など言ふべし。昔は、ただならぬさまに使ひならしたまひし人どもなれば、 年ごろはこの御方にさぶらひて、皆 心寄せきこえたるなめり ★。
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などと、きっと言っているであろう。昔は、普通の女房よりは親しく使っていらした女房たちであるが、ここ何年かはこちらの御方にお仕えして、皆お味方申しているようである。
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ともひそかに言っていた。この人たちは若いころに院の御愛人であったが、須磨()へおいでになった留守中から夫人付きになっていて、皆女王を愛していた。
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nado ihu besi. Mukasi ha, tada nara nu sama ni tukahi narasi tamahi si hito-domo nare ba, tosi-goro ha kono ohom-Kata ni saburahi te, mina kokoro yose kikoye taru na' meri.
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6.5.7 |
異御方々よりも、
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他の御方々からも、
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他の夫人の中には、
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Koto ohom-kata-gata yori mo,
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6.5.8 |
「 いかに思すらむ。もとより思ひ離れたる人びとは、なかなか心安きを」
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「どのようなお気持ちでしょう。初めから諦めているわたしたちには、かえって平気ですが」
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どんなお気持ちがなさることでしょう、愛されない者のあきらめが平生からできている自分らとは違っておいでになったのであるから
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"Ikani obosu ram? Moto yori omohi hanare taru hito-bito ha, naka-naka kokoro-yasuki wo."
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6.5.9 |
など、おもむけつつ、とぶらひきこえたまふもあるを、
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などと、こちらの気を引きながら、お慰め申される方もあるが、
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という意味の慰問をする人もあるので、
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nado, omomuke tutu, toburahi kikoye tamhu mo aru wo,
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6.5.10 |
「 かくおしはかる人こそ、なかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさのみは思ひ悩まむ」
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「このように推量する人こそ、かえって厄介なこと。世の中もまことに無常なものなのに、どうしてそんなにばかり思い悩んでいよう」
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女王はそんな同情をされることがかえって自分には苦痛になる。無常のこの世にいてそう夫婦愛に執着している自分でもないもの
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"Kaku osihakaru hito koso, naka-naka kurusikere. Yononaka mo ito tune naki mono wo, nadote ka sa nomi ha omohi nayama m?"
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6.5.11 |
など思す。
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などとお思いになる。
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と思っていた。
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nado obosu.
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6.5.12 |
あまり久しき 宵居も、例ならず人やとがめむと、心の鬼に思して、入りたまひぬれば、 御衾参りぬれど、 げにかたはらさびしき夜な夜な経にけるも、なほ、ただならぬ心地すれど、かの須磨の御別れの折などを思し出づれば、
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あまり遅くまで起きているのも、いつにないことと、皆が変に思うだろうと気が咎めて、お入りになったので、御衾をお掛けしたが、なるほど独り寝の寂しい夜々を過ごしてきたのも、やはり、穏やかならぬ気持ちがするが、あの須磨のお別れの時などをお思い出しになると、
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あまりに長く寝ずにいるのも人が異様に思うであろうと我と心にとがめられて、帳台へはいると、女房は夜着を掛けてくれた。人から憐()まれているとおりに確かに自分は寂しい、自分の嘗()めているものは苦()いほかの味のあるものではないと夫人は思ったが、須磨()へ源氏の君の行ったころを思い出して
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Amari hisasiki yohiwi mo, rei nara zu hito ya togame m to, kokoro-no-oni ni obosi te, iri tamahi nure ba, ohom-husuma mawiri nure do, geni katahara sabisiki yona-yona he ni keru mo, naho, tada nara nu kokoti sure do, kano Suma no ohom-wakare no wori nado wo obosi-idure ba,
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6.5.13 |
「 今はと、かけ離れたまひても、ただ 同じ世のうちに 聞きたてまつらましかばと、わが身までのことはうち置き、 あたらしく悲しかりしありさまぞかし。さて、その紛れに、われも人も 命堪へずなりなましかば、いふかひあらまし世かは」
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「もう最後だと、お離れになっても、ただ同じこの世に無事でいらっしゃるとお聞き申すのであったらと、自分の身の上までのことはさておいて、惜しみ悲しく思ったことだわ。あのまま、あの騷ぎの中に、自分も殿も死んでしまったならば、お話にもならない二人の仲であったろうに」
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遠くに隔たっていようとも同じ世界に生きておいでになることで心を慰めようとそのころはした、自分がどんなにみじめであるかは心で問題にせず源氏の君のせめて健在でいることだけを喜んだではないか、その時の悲しみがもとで源氏の君なり自分なりが死んでいたとしたら、それからのち今日までの幸福は享()けられなかったのである
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"Ima ha to, kake-hanare tamahi te mo, tada onazi yo no uti ni kiki tatematura masika ba to, waga mi made no koto ha uti-oki, atarasiku kanasikari si arisama zo kasi. Sate, sono magire ni, ware mo hito mo inoti tahe zu nari na masika ba, ihu kahi ara masi yo kaha."
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6.5.14 |
と思し直す。
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とお思い直される。
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ともまた思い直されもするのであった。
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to obosi nahosu.
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6.5.15 |
風うち吹きたる夜のけはひ冷ひかにて、ふとも 寝入られたまふぬを、近くさぶらふ人びと、 あやしとや聞かむと、うちも身じろきたまはぬも、なほいと苦しげなり。 夜深き鶏の声の聞こえたるも、ものあはれなり。
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風が吹いている夜の様子が冷やかに感じられて、急には寝つかれなされないのを、近くに伺候している女房たち、変に思いはせぬかと、身動き一つなさらないのも、やはりまことにつらそうである。夜深いころの鶏の声が聞こえるのも、しみじみと哀れを感じさせる。
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外には風の吹いている夜の冷えで急には眠れない。近くに寝ている女房が寝返りの音を聞いて気をもむことがあるかもしれぬと思うことで、床の中でじっとしているのもまた女王に苦しいことであった。一番鶏()の声も身に沁()んで聞かれた。
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Kaze uti-huki taru yo no kehahi hiyayaka ni te, huto mo ne-ira re tamaha nu wo, tikaku saburahu hito-bito, ayasi to ya kika m to, uti mo mi-ziroki tamaha nu mo, naho ito kurusige nari. Yo-bukaki tori no kowe no kikoye taru mo, mono ahare nari.
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6.6 |
第六段 源氏、夢に紫の上を見る
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6-6 Genji sees Murasaki in his dream
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6.6.1 |
わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れたまふけにや ★、 かの御夢に見えたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにと心騒がしたまふに、 鶏の音待ち出でたまへれば、夜深きも知らず顔に、急ぎ出でたまふ。いといはけなき御ありさまなれば、乳母たち近くさぶらひけり。
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特別に恨めしいというのではないが、このように思い乱れなさったためであろうか、あちらの御夢に現れなさったので、ふと目をお覚ましになって、どうしたのかと胸騷ぎがなさるので、鶏の声をお待ちになっていたので、まだ夜の深いのも気づかないふりをして、急いでお帰りになる。とても子供子供したご様子なので、乳母たちが近くに伺候していた。
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恨んでばかりいるのでもなかったが、夫人のこんなに苦しんでいたことのあちらへ通じたのか、院は夫人の夢を御覧になった。目がさめて胸騒ぎのあそばされる院は鶏の鳴くのを聞いておいでになって、その声が終わるとすぐに宮の御殿をお出になるのであったが、お若い宮であるために乳母たちが近くにやすんでいて、
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Wazato turasi to ni ha ara ne do, kayau ni omohi midare tamahu ke ni ya, kano ohom-yume ni miye tamahi kere ba, uti-odoroki tamahi te, ikani to kokoro sawagasi tamahu ni, tori no ne mati-ide tamahe re ba, yo-bukaki mo sira-zu-gaho ni, isogi ide tamahu. Ito ihakenaki ohom-arisama nare ba, menoto-tati tikaku saburahi keri.
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![](../eiri/eiri134.gif) |
6.6.2 |
妻戸押し開けて出でたまふを、見たてまつり送る。 明けぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし。名残までとまれる御匂ひ、
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妻戸を押し開けてお出になるのを、お見送り申し上げる。明け方の暗い空に、雪の光が見えてぼんやりとしている。後に残っている御匂いに、
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その人たちが院の妻戸をあけて外へ出られるのをお見送りした。夜明け前のしばらくだけことさらに暗くなる時間で、わずかな雪の光で院のお姿がその人たちに見えるのである。院のお服から発散された香気がまだあとに濃く漂っているのに乳母たちは気づいて
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Tumado osi-ake te ide tamahu wo, mi tatematuri okuru. Ake-gure no sora ni, yuki no hikari miye te obotukanasi. Nagori made tomare ru ohom-nihohi,
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6.6.3 |
「 ▼ 闇はあやなし」
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「闇はあやなし」
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「春の夜の闇()はあやなし梅の花」
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"Yami ha ayanasi"
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6.6.4 |
と 独りごたる。
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とつい独り言が出る。
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などとも古歌が思わず口に上りもした。
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to hitori-gota ru.
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6.6.5 |
雪は所々消え残りたるが、いと白き庭の、ふと けぢめ見えわかれぬほどなるに、
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雪は所々に消え残っているのが、真白な庭と、すぐには見分けがつかぬほどなので、
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院は所々にたまった雪の色も砂子の白さと差別のつきにくい庭をながめながら対のほうへ向いてお歩きになりながら
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Yuki ha tokoro-dokoro kiye nokori taru ga, ito siroki niha no, huto kedime miye wakare nu hodo naru ni,
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6.6.6 |
「 ▼ なほ残れる雪」
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「今も残っている雪」
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なお「残れる雪」
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"Naho nokore ru yuki"
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6.6.7 |
と忍びやかに口ずさびたまひつつ、御格子うち叩きたまふも、久しくかかることなかりつるならひに、 人びとも空寝をしつつ、やや待たせたてまつりて、引き上げたり。
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とひっそりとお口ずさみなさりながら、御格子をお叩きなさるのも、長い間こうしたことがなかったのが常となって、女房たちも空寝をしては、ややお待たせ申してから、引き上げた。
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と口ずさんでおいでになった。対の格子をおたたきになったが、久しく夜明けの帰りなどをあそばされなかったのであったから、女房たちはくやしい気になってしばらく寝入ったふうをしていてやっとあとに格子をお上げした。
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to sinobiyaka ni kuti-zusabi tamahi tutu, mi-kausi uti-tataki tamahu mo, hisasiku kakaru koto nakari turu narahi ni, hito-bito mo sorane wo si tutu, yaya mata se tatematuri te, hiki-age tari.
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6.6.8 |
「 こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。 懼ぢきこゆる心のおろかならぬにこそあめれ。さるは、罪もなしや」
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「ずいぶん長かったので、身もすっかり冷えてしまったよ。お恐がり申す気持ちが並々でないからでしょう。とは言っても、別に私には罪はないのだがね」
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「長く外に待たされて、身体()が冷え通る気がしたのも、それは私の心が済まぬとあなたを恐れる内部のせいで、女房に罪はなかったのかもしれない」
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"Koyonaku hisasikari turu ni, mi mo hiye ni keru ha. Odi kikoyuru kokoro no oroka nara nu ni koso a' mere. Saru ha, tumi mo nasi ya!"
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6.6.9 |
とて、 御衣ひきやりなどしたまふに、すこし濡れたる御単衣の袖をひき隠して、 うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御用意など、 いと恥づかしげにをかし。
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と言って、御衾を引きのけなどなさると、少し涙に濡れた御単衣の袖を引き隠して、素直でやさしいものの、仲直りしようとはなさらないお気持ちなど、とてもこちらが恥ずかしくなるくらい立派である。
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と、院はお言いになりながら、夫人の夜着を引きあけて御覧になると、少し涙で濡()れている下の単衣()の袖()を隠そうとする様子が美しく心へお受け取られになった。しかも打ち解けぬものが夫人の心にあって品よく艶()な趣なのである。
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tote, ohom-zo hiki-yari nado si tamahu ni, sukosi nure taru ohom-hitohe no sode wo hiki-kakusi te, ura mo naku natukasiki monokara, uti-toke te hata ara nu ohom-youi nado, ito hadukasige ni wokasi.
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6.6.10 |
「 限りなき人と聞こゆれど、難かめる世を」
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「この上ない身分の人と申しても、これほどの人はいまい」
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最高の貴女()といっても完全にもののととのわぬ憾()みがあるのに
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"Kagirinaki hito to kikoyure do, kataka' meru yo wo."
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6.6.11 |
と、 思し比べらる。
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と、ついお比べにならずにはいられない。
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と院は新婦の宮と紫の女王を心にくらべておいでになった。
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to, obosi kurabe raru.
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6.6.12 |
よろづいにしへのことを思し出でつつ、とけがたき御けしきを怨みきこえたまひて、その日は暮らしたまひつれば、え渡りたまはで、寝殿には御消息を聞こえたまふ。
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いろいろと昔のことをお思い出しになりながら、なかなか機嫌を直してくださらないのをお恨み申し上げなさって、その日はお過ごしになったので、お渡りになれず、寝殿にはお手紙を差し上げなさる。
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二人が来た道を振り返ってお話しになりながら、恨みの解けぬふうな夫人をなだめて翌日はずっとそばを離れずにおいでになったあとでは、夜になっても宮のほうへお行きになれずに手紙だけをお送りになった。
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Yorodu inisihe no koto wo obosi-ide tutu, toke gataki mi-kesiki wo urami kikoye tamahi te, sono hi ha kurasi tamahi ture ba, e watari tamaha de, sin-den ni ha ohom-seusoko wo kikoye tamahu.
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6.6.13 |
「 今朝の雪に心地あやまりて、いと悩ましくはべれば、心安き方にためらひはべる」
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「今朝の雪で気分を悪くして、とても苦しゅうございますので、気楽な所で休んでおります」
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今暁()の雪に健康をそこねて苦しい気がしますから、気楽な所で養生をしようと思います。
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"Kesa no yuki ni kokoti ayamari te, ito nayamasiku habere ba, kokoro-yasuki kata ni tamerahi haberu."
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6.6.14 |
とあり。御乳母、
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とある。御乳母は、
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というのであった。乳母()の、
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to ari. Ohom-menoto,
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6.6.15 |
「 さ聞こえさせはべりぬ」
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「さように申し上げました」
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「そのとおりに申し上げました」
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"Sa kikoye sase haberi nu."
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6.6.16 |
とばかり、言葉に聞こえたり。
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とだけ、口上で申し上げた。
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という言葉を使いが聞いて来た。
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to bakari, kotoba ni kikoye tari.
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6.6.17 |
「 異なることなの御返りや」と思す。「 院に聞こし召さむこともいとほし。このころばかりつくろはむ」と思せど、えさもあらぬを、「 さは思ひしことぞかし。あな苦し」と、みづから思ひ続けたまふ。
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「そっけないお返事だ」とお思いになる。「院がお耳にあそばすこともおいたわしい、しばらくの間は人前を取り繕う」とお思いになるが、そうもできないので、「それは思ったとおりだった。ああ困ったことだ」と、ご自身お思い続けなさる。
|
平凡な返事であると院はお思いになった。朱雀()院がどうお思いになるかということが気がかりであるから、当分はあちらを立てるようにしておきたいと院はお思いになっても、実行に伴う苦痛が堪えがたく、なんということであろうと悲しんでおいでになった。
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"Koto naru koto na no ohom-kaheri ya!" to obosu. "Win ni kikosimesa m koto mo itohosi. Kono-koro bakari tukuroha m." to obose do, e samo ara nu wo, "Saha omohi si koto zo kasi. Ana kurusi!" to, midukara omohi-tuduke tamahu.
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6.6.18 |
女君も、「 思ひやりなき御心かな」と、苦しがりたまふ。
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女君も、「お察しのないお方だ」と、迷惑がりなさる。
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夫人も、「あちらへ御同情心の欠けたことでございますよ」と言いつつ自分の立場を苦しんでいた。
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Womna-Gimi mo, "Omohi-yari naki mi-kokoro kana!" to, kurusigari tamahu.
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出典10 |
明けぐれの空 |
あけぐれの空にぞ我は迷ひぬる思ふ心のゆかぬまにまに |
拾遺集恋二-七三六 源順 |
6.6.2 |
出典11 |
闇はあやなし |
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる |
古今集春上-四一 凡河内躬恒 |
6.6.3 |
出典12 |
なほ残れる雪 |
子城陰處猶残雪 衙鼓声前未有塵 |
白氏文集巻十六-九一一 |
6.6.6 |
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6.7 |
第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答
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6-7 Genji and Sam-no-Miya exchange waka in the morning
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6.7.1 |
今朝は、例のやうに大殿籠もり起きさせたまひて、宮の御方に御文たてまつれたまふ。 ことに恥づかしげもなき御さまなれど、御筆などひきつくろひて、 白き紙に、
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今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになって、宮の御方にお手紙を差し上げなさる。特別に気の張らないご様子であるが、お筆などを選んで、白い紙に、
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次の日はこれまでのとおりに自室でお目ざめになって、宮の御殿へ手紙をお書きになるのであった。晴れがましくは少しもお思いにならぬ相手ではあったが、筆を選んで白い紙へ、
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Kesa ha, rei no yau ni ohotono-gomori oki sase tamahi te, Miya no ohom-kata ni ohom-humi tatemature tamahu. Koto ni hadukasige mo naki ohom-sama nare do, ohom-hude nado hiki-tukurohi te, siroki kami ni,
|
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6.7.2 |
「 中道を隔つるほどはなけれども
|
「わたしたちの仲を邪魔するほどではありませんが
|
中道を隔つるほどはなけれども
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"Naka-miti wo hedaturu hodo ha nakere domo
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6.7.3 |
心乱るる 今朝のあは雪」
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降り乱れる今朝の淡雪にわたしの心も乱れています」
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心乱るる今朝()のあは雪
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kokoro midaruru kesa no ahayuki
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6.7.4 |
梅に付けたまへり。人召して、
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梅の枝にお付けなさった。人を呼び寄せて、
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と書いて、梅の枝へお付けになった。侍をお呼びになって、
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Mume ni tuke tamahe ri. Hito mesi te,
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6.7.5 |
「 西の渡殿よりたてまつらせよ」
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「西の渡殿から差し上げなさい」
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「西の渡殿のほうから参って差し上げるように」
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"Nisi no wata-dono yori tatematura se yo."
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|
6.7.6 |
とのたまふ。やがて見出だして、端近くおはします。白き御衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、「 友待つ雪」のほのかに残れる上に ★、うち散り添ふ空を眺めたまへり。鴬の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きなるを、
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とおっしゃる。そのまま外を見出して、端近くにいらっしゃる。白い御衣類を何枚もお召しになって、花を玩びなさりながら、「友待つ雪」がほのかに残っている上に、雪の降りかかる空をながめていらっしゃった。鴬が初々しい声で、軒近い紅梅の梢で鳴いているのを、
|
とお命じになった。そして院はそのまま縁に近い座敷で庭をながめておいでになった。白い服をお召しになって、梅の枝の残りを手にまさぐっておいでになるのである。仲間を待つ雪がほのかに白く残っている上に新しい雪も散っていた。若やかな声で鶯()が近いところの紅梅の梢()で鳴くのがお耳にはいって、
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to notamahu. Yagate mi-idasi te, hasi tikaku ohasimasu. Siroki ohom-zo-domo wo ki tamahi te, hana wo masaguri tamahi tutu, tomo matu yuki no honoka ni nokore ru uhe ni, uti-tiri sohu sora wo nagame tamahe ri. Uguhisu no wakayaka ni, tikaki koubai no suwe ni uti-naki taru wo,
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6.7.7 |
「 ▼ 袖こそ匂へ」
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「袖が匂う」
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「袖()こそ匂()へ」(折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやここに鶯ぞ啼()く)
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"Sode koso nihohe"
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6.7.8 |
と花をひき隠して、御簾押し上げて眺めたまへるさま、 夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり。
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と花を手で隠して、御簾を押し上げて眺めていらっしゃる様子は、少しも、このような人の親で重い地位のお方とはお見えでなく、若々しく優美なご様子である。
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と口ずさんで、花をお持ちになった手を袖に引き入れながら、御簾()を掲げて外を見ておいでになる姿は、ゆめにも院などという御位()の方とは見えぬ若々しさである。
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to hana wo hiki-kakusi te, mi-su osi-age te nagame tamahe ru sama, yume ni mo, kakaru hito no oya ni te, omoki kurawi to miye tamah zu, wakau namamekasiki ohom-sama nari.
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6.7.9 |
御返り、すこしほど経る心地すれば、入りたまひて、女君に花見せたてまつりたまふ。
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お返事が、少し暇どる感じなので、お入りになって、女君に花をお見せ申し上げなさる。
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寝殿から来るお返事が手間どるふうであったから、院は居室()のほうへおいでになって夫人に梅の花をお見せになった。
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Ohom-kaheri, sukosi hodo huru kokoti sure ba, iri tamahi te, Womna-Gimi ni hana mise tatematuri tamahu.
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|
6.7.10 |
「 花といはば、かくこそ匂はまほしけれな。 桜に移しては、また塵ばかりも心分くる方なくやあらまし」
|
「花と言ったら、このように匂いがあってよいものだな。桜に移したら、少しも他の花を見る気はしないだろうね」
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「花であればこれだけの香気を持ちたいものですね。桜の花にこの香()があればその他の花は皆捨ててしまうでしょうね。こればかりがよくなって」
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"Hana to iha ba, kaku koso nihoha mahosikere na! Sakura ni utusi te ha, mata tiri bakari mo kokoro wakuru kata naku ya ara masi."
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6.7.11 |
などのたまふ。
|
などとおっしゃる。
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nado notamahu.
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|
6.7.12 |
「 これも、あまた移ろはぬほど、目とめるにやあらむ。 花の盛りに並べて見ばや」
|
「この花も、多くの花に目移りしないうちに咲くから、人目を引くのであろうか。桜の花の盛りに比べてみたいものだ」
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「この花もただ今でこそ唯一の花で、梅はよいものだと思われるのですよ。春の百花の盛りにほかのものと比較したらどうでしょうかしら」
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"Kore mo, amata uturoha nu hodo, me tomaru ni ya ara m. Hana no sakari ni narabe te mi baya!"
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6.7.13 |
などのたまふに、御返りあり。紅の薄様に、あざやかにおし包まれたるを、胸つぶれて、御手のいと若きを、
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などとおっしゃっているところに、お返事がある。紅の薄様に、はっきりと包まれているので、どきりとして、ご筆跡のまことに幼稚なのを、
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などと夫人が言っている時に、宮のお返事が来た。紅()い薄様()に包まれたお文()が目にたつので院ははっとお思いになった。幼稚な宮の手跡は当分女王に隠しておきたい。
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nado notamahu ni, ohom-kaheri ari. Kurenawi no usuyau ni, azayaka ni osi-tutuma re taru wo, mune tubure te, ohom-te no ito wakaki wo,
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6.7.14 |
「 しばし見せたてまつらであらばや。隔つとはなけれど、あはあはしきやうならむは、人のほどかたじけなし」
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「しばらくの間はお見せしないでおきたいものだ。隠すというのではないが、軽々しく人に見せたら、身分柄恐れ多いことだ」
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この人に隔て心はないがさげすむ思いをさせることがあっては宮の身分に対して済まない
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"Sibasi mise tatematura de ara ba ya! Hedatu to ha nakere do, aha-ahasiki yau nara m ha, hito no hodo katazikenasi."
|
|
6.7.15 |
と思すに、ひき隠したまはむも心おきたまふべければ、かたそば広げたまへるを、 しりめに見おこせて添ひ臥したまへり。
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とお思いになると、お隠しになるというのもきっと気を悪くするだろうから、片端を広げていらっしゃるのを、横目で御覧になりながら、物に寄り臥していらっしゃった。
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と院はお思いになるのであるが、隠しておしまいになることも夫人の不快がることであろうからと、半分は見せてもよいというようにお拡()げになった文()を、女王は横目に見ながら横たわっていた。
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to obosu ni, hiki-kakusi tamaha m mo kokoro oki tamahu bekere ba, katasoba hiroge tamahe ru wo, siri-me ni mi-okose te sohi-husi tamahe ri.
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|
6.7.16 |
「 はかなくてうはの空にぞ消えぬべき
|
「頼りなくて中空に消えてしまいそうです
|
はかなくて上()の空にぞ消えぬべき
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"Hakanaku te uha-no-sora ni zo kiye nu beki
|
|
6.7.17 |
風にただよふ春のあは雪」
|
風に漂う春の淡雪のように」
|
風に漂ふ春のあは雪
|
kaze ni tadayohu haru no ahayuki
|
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6.7.18 |
御手、げにいと若く幼げなり。「 さばかりのほどになりぬる人は、いとかくはおはせぬものを」と、目とまれど、見ぬやうに紛らはして、止みたまひぬ。
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ご筆跡は、なるほどまことに未熟で幼稚である。「これほどの年になった人は、とてもこんなではいらっしゃらないものを」と、目につくが、見ないふりをなさって、お止めになった。
|
文字は実際幼稚なふうであった。十五にもおなりになればこんなものではないはずであるがと目にとまらぬことでもなかったが、見ぬふりをしてしまった。
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Ohom-te, geni ito wakaku wosanage nari. "Sabakari no hodo ni nari nuru hito ha, ito kaku ha ohase nu mono wo!" to, me tomare do, mi nu yau ni magirahasi te, yami tamahi nu.
|
|
6.7.19 |
異人の上ならば、「 さこそあれ」などは、忍びて聞こえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、
|
他人のことならば、「こんなに下手な」などとは、こっそり申し上げなさるにちがいないのだが、気の毒で、ただ、
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他の女性のことであれば批評的な言葉も院は口にせられたであろうが御身分に敬意をお払いになって、
|
Koto-hito no uhe nara ba, "Sa koso are." nado ha, sinobi te kikoye tamahu bekere do, itohosiku te, tada,
|
|
6.7.20 |
「 心安くを、思ひなしたまへ」
|
「ご安心して、お思いなさい」
|
「あなたは安心していてよいとお思いなさいよ」
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"Kokoro-yasuku wo, omohi-nasi tamahe."
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6.7.21 |
とのみ聞こえたまふ。
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とだけ申し上げなさる。
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とだけ夫人に言っておいでになった。
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to nomi kikoye tamahu.
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|
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出典13 |
今朝のあは雪 |
かつ消えて空に乱るる淡雪はもの思ふ人の心なりけり |
後撰集冬-四七九 藤原蔭基 |
6.7.3 |
出典14 |
友待つ雪 |
白雪の色分きがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる |
家持集-二八四 |
6.7.6 |
出典15 |
袖こそ匂へ |
折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとやここに鴬の鳴く |
古今集春上-三二 読人しらず |
6.7.7 |
出典16 |
桜に移して |
梅が香を桜の花に匂はせて柳が枝に咲かせてしかな |
後拾遺集春上-八二 中原致時 |
6.7.10 |
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6.8 |
第八段 源氏、昼に宮の方に出向く
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6-8 Genji goes to Sam-no-Miya in the daytime
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6.8.1 |
今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心ことにうち化粧じたまへる御ありさま、今見たてまつる女房などは、 まして見るかひありと思ひきこゆらむかし。御乳母などやうの老いしらへる人びとぞ、
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今日は、宮の御方に昼お渡りになる。特別念入りにお化粧なさっているご様子、今初めて拝見する女房などは、宮以上に素晴らしいとお思い申し上げることであろう。御乳母などの年とった女房たちは、
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今日は昼間に宮のほうへおいでになった。特にきれいに化粧をお施しになった院のお美しさに、この日はじめて近づいた女房は興奮していた。老いた女房などの中には、
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Kehu ha, Miya no ohom-kata ni hiru watari tamahu. Kokoro koto ni uti-kesyau-zi tamahe ru ohom-arisama, ima mi tatematuru nyoubau nado ha, masite miru kahi ari to omohi kikoyu ram kasi. Ohom-Menoto nado yau no oyisirahe ru hito-bito zo,
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6.8.2 |
「 いでや。この御ありさま一所 こそめでたけれ、めざましきことはありなむかし」
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「さあ、どうでしょう。このお一方はご立派ですが、癪にさわるようなことがきっと起こることでしょう」
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なんといっても幸福な奥様はあちらのお一方だけで、宮は御不快な目にもおあいになるのであろう
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"Ide ya! Kono ohom-arisama hito-tokoro koso medetakere, mezamasiki koto ha ari na m kasi."
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6.8.3 |
と、 うち混ぜて思ふもありける。
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と、嬉しいなかにも心配する者もいるのだった。
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と、こんなことを思う者もあった。
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to, uti-maze te omohu mo ari keru.
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6.8.4 |
女宮は、いとらうたげに幼きさまにて、 御しつらひなどのことことしく ★、よだけくうるはしきに、みづからは何心もなく、ものはかなき御ほどにて、いと御衣がちに、身もなく、あえかなり。ことに恥ぢなどもしたまはず、ただ稚児の面嫌ひせぬ心地して、心安くうつくしきさましたまへり。
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女宮は、たいそうかわいらしげに子供っぽい様子で、お部屋飾りなどが仰々しく。堂々と整然としているが、ご自身は無心に、頼りないご様子で、まったくお召し物に埋まって、身体もないかのように、か弱くいらっしゃる。特に恥ずかしがりもなさらず、まるで子供が人見知りしないような感じがして、気の張らないかわいい感じでいらっしゃった。
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姫宮は可憐()で、たいそうなお居間の装飾などとは調和のとれぬ何でもない無邪気な少女()で、お召し物の中にうずもれておしまいになったような小柄な姿を持っておいでになるのである。格別恥ずかしがってもおいでにならない。人見知りをせぬ子供のようであつかいやすい気を院はお覚えになった。
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Womna-Miya ha, ito rautage ni wosanaki sama ni te, ohom-siturahi nado no koto-kotosiku, yodakeku uruhasiki ni, midukara ha nani-gokoro mo naku, mono-hakanaki ohom-hodo ni te, ito ohom-zo-gati ni, mi mo naku, ayeka nari. Koto ni hadi nado mo si tamaha zu, tada tigo no omo-girahi se nu kokoti si te, kokoro-yasuku utukusiki sama si tamahe ri.
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6.8.5 |
「 院の帝は、 ををしくすくよかなる方の御才などこそ、心もとなくおはしますと、世人思ひためれ、 をかしき筋、なまめきゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへるを、などて、かくおいらかに生ほしたてたまひけむ。さるは、いと御心とどめたまへる皇女と聞きしを」
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「院の帝は、男らしく理屈っぽい方面のご学問などは、しっかりしていらっしゃらないと、世間の人は思っていたようだが、趣味の方面では、優美で風雅なことでは、人一倍勝れていらっしゃったのに、どうして、このようにおっとりとお育てになったのだろう。とはいえ、たいそうお心にとめていらっしゃった内親王と聞いたのだが」
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朱雀()院は重い学問のほうは奥を究()めておいでになると言われておいでにならないが、芸術的な趣味の豊かな方としてすぐれておいでになりながら、どうして御愛子をこう凡庸に思われるまでの女にお育てになったか
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"Win-no-Mikado ha, wowosiku sukuyoka naru kata no ohom-zae nado koso, kokoro-motonaku ohasimasu to, yo-hito omohi ta' mere wokasiki sudi, namameki yuwe-yuwesiki kata ha, hito ni masari tamahe ru wo, nado te, kaku oyiraka ni ohosi-tate tamahi kem. Saru ha, ito mi-kokoro todome tamahe ru miko to kiki si wo."
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6.8.6 |
と思ふも、なま口惜しけれど、 憎からず見たてまつりたまふ。
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と思うと、何やら残念な気がするが、それもかわいいと拝見なさる。
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と院は残念な気もあそばされたのであるが、御愛情が起こらないのでもなかった。
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to omohu mo, nama kutiwosikere do, nikukara zu mi tatematuri tamahu.
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6.8.7 |
ただ 聞こえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、御いらへなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうち のたまひ出でて、 え見放たず見えたまふ。
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ただ申し上げるままに、柔らかくお従いになって、お返事なども、お心に浮かんだことは、何の考えもなくお口に出されて、とても見捨てられないご様子にお見えになる。
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院のお言いになるままになってなよなよとおとなしい。お返辞なども習っておありになることだけは子供らしく皆言っておしまいになって、自発的には何もおできにならぬらしい。
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Tada kikoye tamahu mama ni, nayo-nayo to nabiki tamahi te, ohom-irahe nado wo mo, oboye tamahi keru koto ha, ihakenaku uti notamahi ide te, e mi-hanata zu miye tamahu.
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6.8.8 |
昔の心ならましかば、うたて心劣りせましを、今は、世の中を皆さまざまに思ひなだらめて、
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若いころの考えであったなら、嫌になってがっかりしたろうが、今では、世の中を人それぞれだと穏やかに考えて、
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昔の自分であれば厭気()のさしてしまう相手であろうが、今日になっては完全なものは求めても得がたい、足らぬところを心で補って平凡なものに満足すべきであるという教訓を、多くの経験から得てしまった自分であるから、
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Mukasi no kokoro nara masika ba, utate kokoro-otori se masi wo, ima ha, yononaka wo mina sama-zama ni omohi nadarame te,
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6.8.9 |
「 とあるもかかるも、際離るることは難きものなりけり。とりどりにこそ 多うはありけれ、 よその思ひは、いとあらまほしきほどなりかし」
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「あれやこれやといろいろな女がいるが、飛び抜けて立派な女はいないものだなあ。それぞれいろいろな特色があるものだが、はたから見れば、まったく申し分のない方なのだ」
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これをすら妻の一人と見ることができる。第三者は自分のことを好適な配偶を得たと見ることであろう
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"Toarumo-kakarumo, kiha hanaruru koto ha kataki mono nari keri. Tori-dori ni koso ohou ha ari kere, yoso no omohi ha, ito aramahosiki hodo nari kasi."
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6.8.10 |
と思すに、 差し並び目離れず見たてまつりたまへる年ごろよりも、対の上の御ありさまぞなほありがたく、「 われながらも生ほしたてけり」と思す。一夜のほど、朝の間も、恋しくおぼつかなく、いとどしき御心ざしのまさるを、「 などかくおぼゆらむ」と、 ゆゆしきまでなむ。
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とお思いになると、二人一緒にいつも離れずお暮らし申して来られた年月からも、対の上のご様子がやはり立派で、「自分ながらもよく教育したものだ」とお思いになる。一晩の間、朝の間も、恋しく気にかかって、いっそうのご愛情が増すので、「どうしてこんなに思われるのだろう」と、不吉な予感までなさる。
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とお考えになると、離れる日もなく見ておいでになった紫の女王()の価値が今になってよくおわかりになる気がされて、御自身のお与えになった教育の成功したことをお認めにならずにはおられなかった。ただ一夜別れておいでになる翌朝の心はその人の恋しさに満たされ、しばらくして逢いうる時間がもどかしくお思われになって、院の愛はその人へばかり傾いていった。なぜこんなにまで思うのであろうかと院は御自身をお疑いになるほどであった。
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to obosu ni,sasi-narabi me kare zu mi tatematuri tamahe ru tosi-goro yori mo, Tai-no-Uhe no ohom-arisama zo naho arigataku, "Ware nagara mo ohosi-tate keri!" to obosu. Hito-yo no hodo, asita no ma mo, kohisiku obotukanaku, itodosiki mi-kokorozasi no masaru wo, "Nado kaku oboyu ram?" to, yuyusiki made nam.
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6.9 |
第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る
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6-9 Suzaku send a letter to Murasaki
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6.9.1 |
院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ。この院に、あはれなる御消息ども聞こえたまふ。姫宮の御ことはさらなり。
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院の帝は、その月のうちにお寺にお移りになった。こちらの院に、情のこもったお手紙を何度も差し上げなさる。姫宮の御事は言うまでもない。
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朱雀院はそのうちに御寺()へお移りになるのであって、このころは御親心のこもったお手紙をたびたび六条院へつかわされた。姫宮のことをお頼みになるお言葉とともに、
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Win-no-Mikado ha, tuki no uti ni mi-tera ni uturohi tamahi nu. Kono Win ni, ahare naru ohom-seusoko-domo kikoye tamahu. Hime-Miya no ohom-koto ha sara nari.
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6.9.2 |
▼ わづらはしく、いかに聞くところやなど、 憚りたまふことなくて、ともかくも、ただ御心にかけてもてなしたまふべくぞ、たびたび聞こえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、幼くおはするを思ひきこえたまひけり。
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気を遣って、どのように思うかなどと、遠慮なさることもなく、どうなりと、ただお心次第にお世話くださいますように、度々お申し上げなさるのであった。けれども、身にしみて後ろ髪引かれる思いで、幼くていらっしゃるのを御心配申し上げなさるのでもあった。
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自分がどう思うかと心にお置きになるようなことはないようにして、ともかくもお心にかけていてくださればよいという意味の仰せがあるのであった。そうは仰せられながらも御幼稚な宮がお気がかりでならぬ御様子が見えるお文()であった。
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Wadurahasiku, ikani kiku tokoro ya nado, habakari tamahu koto naku te, tomo-kaku mo, tada mi-kokoro ni kake te motenasi tamahu beku zo, tabi-tabi kikoye tamahi keru. Saredo, ahare ni usirometaku, wosanaku ohasuru wo omohi kikoye tamahi keri.
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6.9.3 |
紫の上にも、御消息ことにあり。
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紫の上にも、お手紙が特別にあった。
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紫夫人へもお手紙があった。
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Murasaki-no-Uhe ni mo, ohom-seusoko koto ni ari.
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6.9.4 |
「 幼き人の、心地なきさまにて移ろひものすらむを、罪なく思しゆるして、後見たまへ。 尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ。
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「幼い人が、何のわきまえもない有様でそちらへ参っておりますが、罪もないものと大目に見ていただき、お世話ください。お心にかけてくださるはずの縁もあろうかと存じます。
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幼い娘が、何を理解することもまだできぬままでそちらへ行っておりますが、邪気のないものとしてお許しになってお世話をおやきください。あなたには縁故がないわけでもないのですから。
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"Wosanaki hito no, kokoti naki sama ni te uturohi monosu ram wo, tumi naku obosi yurusi te, usiromi tamahe. Tadune tamahu beki yuwe mo ya ara m to zo.
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6.9.5 |
背きにしこの世に残る心こそ
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捨て去ったこの世に残る子を思う心が
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そむきにしこの世に残る心こそ
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Somuki ni si kono yo ni nokoru kokoro koso
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6.9.6 |
入る山路のほだしなりけれ
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山に入るわたしの妨げなのです
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入る山みちの絆()なりけれ
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iru yama-miti no hodasi nari kere
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6.9.7 |
▼ 闇をえはるけで聞こゆるも、をこがましくや」
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親心の闇を晴らすことができずに申し上げるのも、愚かなことですが」
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親の心の闇()を隠そうともしませんでこの手紙を差し上げるのもはばかり多く思われます。
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Yami wo e haruke de kikoyuru mo, wokogamasiku ya!"
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6.9.8 |
とあり。大殿も見たまひて、
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とある。殿も御覧になって、
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というのであった。院も御覧になって、
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to ari. Otodo mo mi tamahi te,
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6.9.9 |
「 あはれなる御消息を。かしこまり聞こえたまへ」
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「お気の毒なお手紙よ。謹んでお承りした旨を差し上げなさい」
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「御同情すべきお手紙ですから、あなたからも丁寧にお返事を書いておあげなさい」
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"Ahare naru ohom-seusoko wo! Kasikomari kikoye tamahe."
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6.9.10 |
とて、御使にも、女房して、土器さし出でさせたまひて、しひさせたまふ。「御返りはいかが」など、 聞こえにくく思したれど、ことことしくおもしろかるべき折のことならねば、ただ心をのべて、
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とおっしゃって、お使いにも、女房を通じて、杯をさし出させなさって、何杯もお勧めになる。「お返事はどのように」などと、申し上げにくくお思いになったが、仰々しく風流めかすべき時のことでないので、ただ心のままを書いて、
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こうお言いになって、そのお使いへは女房を出して酒をお勧めになった。「どう書いてよろしいのかわかりません。お返事がいたしにくうございます」と女王は言っていたが、言葉を飾る必要のある場合のお返事でもなかったから、ただ感じただけを、
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tote, ohom-tukahi ni mo, nyoubau si te, kaharake sasi-ide sase tamahi te, sihi sase tamahu. "Ohom-kaheri ha ikaga?" nado, kikoye nikuku obosi tare do, koto-kotosiku omosirokaru beki wori no koto nara ne ba, tada kokoro wo nobe te,
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6.9.11 |
「背く世の うしろめたくはさりがたき
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「お捨て去りになったこの世が御心配ならば
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そむく世のうしろめたくばさりがたき
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"Somuku yo no usirometaku ha sari gataki
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6.9.12 |
ほだしをしひてかけな離れそ」
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離れがたいお方を無理に離れたりなさいますな」
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絆()を強()ひてかけなはなれそ
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hodasi wo sihite kake na hanare so
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6.9.13 |
などやうにぞあめりし。
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などというようにあったらしい。
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こんな歌にして書いた。
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nado yau ni zo a' meri si.
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6.9.14 |
女の装束に、細長添へてかづけたまふ。御手などのいとめでたきを、院御覧じて、 何ごともいと恥づかしげなめるあたりに、いはけなくて見えたまふらむこと、いと心苦しう思したり。
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女の装束に、細長を添えてお与えになる。ご筆跡などがとても立派なのを、院が御覧になって、万事気後れするほど立派なような所で、幼稚にお見えになるだろうこと、まことにお気の毒に、お思いになっていた。
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女の装束に細長衣()を添えた纏頭()をお使いへ出した。女王の書いたお返事の字のりっぱであるのを院は御覧になって、こんなにも物事の整った夫人もある六条院へ、一人の夫人となって幼稚な姫宮が行っておられることを心苦しく思召した。
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Womna no syauzoku ni, hosonaga sohe te kaduke tamahu. Ohom-te nado no ito medetaki wo, Win go-ran-zi te, nani-goto mo ito hadukasige na' meru atari ni, ihakenaku te miye tamahu ram koto, ito kokoro-gurusiu obosi tari.
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注釈422 | 院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ | 6.9.1 |
注釈423 | わづらはしくいかに聞くところやなど | 6.9.2 |
注釈424 | 憚りたまふことなくて | 6.9.2 |
注釈425 | 幼き人の | 6.9.4 |
注釈426 | 尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ | 6.9.4 |
注釈427 | 背きにしこの世に残る心こそ入る山路のほだしなりけれ | 6.9.5 |
注釈428 | 闇をえはるけで | 6.9.7 |
注釈429 | あはれなる御消息をかしこまり聞こえたまへ | 6.9.9 |
注釈430 | 背く世のうしろめたくはさりがたきほだしをしひてかけな離れそ | 6.9.11 |
注釈431 | などやうにぞあめりし | 6.9.13 |
注釈432 | 何ごともいと恥づかしげなめるあたりに | 6.9.14 |
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出典17 |
入る山路のほだし |
世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ |
古今集雑下-九五五 物部吉名 |
6.9.6 |
出典18 |
闇をえはるけで |
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな |
後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 |
6.9.7 |
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Last updated 11/15/2001 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2) Last updated 3/10/2002 渋谷栄一注釈(ver.1-1-3) |
Last updated 11/15/2001 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 9/23/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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