34 若菜上(明融臨模本)


WAKANA-NO-ZYAU


光る源氏の准太上天皇時代
三十九歳暮から四十一歳三月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from the end of 39 to March the age of 41

12
第十二章 明石の物語 一族の宿世


12  Tale of Akashi  The fate of Akashi's

12.1
第一段 東宮からのお召しの催促


12-1  Togu remaind Akashi-Hime to come back to the Togu Palace

12.1.1   宮より、とく参りたまふべきよしのみあれば
 東宮から、早く参内なさるようにとのお召しが始終あるので、
 東宮から早く参るようにという御催促のしきりにあるのを、
  Miya yori, toku mawiri tamahu beki yosi nomi are ba,
12.1.2  「 かく思したる、ことわりなり。 めづらしきことさへ添ひて、いかに心もとなく思さるらむ」
 「そのようにお思いあそばすのも、無理のないことです。おめでたいことまで加わって、どんなにか待ち遠しがっていらっしゃることでしょう」
 「ごもっともですわね。若宮様もいらっしゃるのですもの、どんなに早くおいあそばしたいでしょう」
  "Kaku obosi taru, kotowari nari. Medurasiki koto sahe sohi te, ikani kokoro-motonaku obosa ru ram?"
12.1.3  と、紫の上ものたまひて、若宮忍びて参らせたてまつらむ 御心づかひしたまふ。
 と、紫の上もおっしゃって、若宮をこっそりと参上させようとご準備なさる。
 と紫夫人も言って、院は若宮を東宮へおのぼらせする用意をしておいでになった。
  to, Murasaki-no-Uhe mo notamahi te, Waka-Miya sinobi te mawira se tatematura m mi-kokoro-dukahi si tamahu.
12.1.4   御息所は、御暇の心やすからぬに懲りたまひて、かかるついでに、しばしあらまほしく思したり。ほどなき御身に、さる恐ろしきことをしたまへれば、すこし面痩せ細りて、いみじくなまめかしき御さましたまへり。
 御息所は、なかなかお暇が出ないのにお懲りになって、このような機会に、暫くお里にいたいと思っていらっしゃった。年端も行かないお身体で、あのような恐ろしいご出産をなさったので、少しお顔がお痩せになって、たいそう優美なご様子をしていらっしゃった。
 桐壺の方は退出のお許しが容易に得られなかったのに懲りて、この機会に今しばらく実家の人になっていたい気持ちでいるのである。小さい身体からだで女の大難を経てきたのであったから、少し顔がせ細って非常にえんな姿になっていた。
  Miyasumdokoro ha, ohom-itoma no kokoro-yasukara nu ni kori tamahi te, kakaru tuide ni, sibasi aramahosiku obosi tari. Hodo naki ohom-mi ni, saru osorosiki koto wo si tamahe re ba, sukosi omoyase hosori te, imiziku namamekasiki ohom-sama si tamahe ri.
12.1.5  「 かく、ためらひがたくおはするほど、つくろひたまひてこそは
 「このような、まだおやつれになっていらっしゃるのですから、もう少し静養なさってからでは」
 「はっきりとなさいませんから、もう少しこちらで御養生をなさいますほうがいいと思います」
  "Kaku, tamerahi gataku ohasuruhodo, tukurohi tamahi te koso ha."
12.1.6  など、御方などは 心苦しがりきこえたまふを、大殿は、
 などと、御方などはお気の毒にお思い申し上げなさるが、大殿は、
 と言うのは明石夫人の意見であった。
  nado, ohom-kata nado ha kokoro-kurusigari kikoye tamahu wo, Otodo ha,
12.1.7  「 かやうに面痩せて見えたてまつりたまはむも、なかなかあはれなるべきわざなり」
 「このように面痩せしてお目通りなさるのも、かえって魅力が増すものですよ」
 「少し細られたこの姿をお目にかけるのはかえってまたよい結果のあるものなのだ」
  "Kayau ni omoyase te miye tatematuri tamaha m mo, naka-naka ahare naru beki waza nari."
12.1.8  などのたまふ。
 などとおっしゃる。
 などと院は言っておいでになるのである。
  nado notamahu.
注釈740宮よりとく参りたまふべきよしのみあれば東宮から女御と若宮に参内の要請あり。12.1.1
注釈741かく思したる以下「思さるらむ」まで、紫の上の詞。12.1.2
注釈742めづらしきことさへ添ひて若宮の誕生をさす。12.1.2
注釈743御息所は明石女御をいう。御子を出産したので、こう呼称する。12.1.4
注釈744かくためらひがたくおはするほどつくろひたまひてこそは明石女御の詞。『集成』は「こんなにまだおやつれになったままなのですから」。『完訳』は「このように、まだ元どおりになっていらっしゃらないのですから」と訳す。12.1.5
注釈745かやうに面痩せて以下「あはれなるべきわざなり」まで、源氏の詞。12.1.7
校訂169 御心づかひ 御心づかひ--御(御/+心)つかひ 12.1.3
校訂170 心苦しがり 心苦しがり--心くるし(し/+かり) 12.1.6
12.2
第二段 明石女御、手紙を見る


12-2  Akashi-Hime reads the letter

12.2.1   対の上などの渡りたまひぬる夕つ方、しめやかなるに、御方、御前に参りたまひて、この文箱聞こえ知らせたまふ。
 対の上などがお帰りになった夕方、ひっそりした時に、御方は、御前に参上なさって、あの文箱のことをお聞かせ申し上げなさる。
 明石は紫の女王にょおうなどが対へ帰ったあとの静かな夕方に、姫君のそばへ来て、文書のはいったじんの木箱を見せ、入道のことを語るのであった。
  Tai-no-Uhe nado no watari tamahi nuru yuhutukata, simeyaka naru ni, Ohom-kata, o-mahe ni mawiri tamahi te, kono hubako kikoye sira se tamahu.
12.2.2  「 思ふさまにかなひ果てさせたまふまでは、取り隠して置きてはべるべけれど、世の中定めがたければ、うしろめたさになむ。何ごとをも 御心と思し数まへざらむこなたともかくも、はかなくなりはべりなば、かならずしも 今はのとぢめを、御覧ぜらるべき身にもはべらねば、なほ、うつし心失せずはべる世になむ、はかなきことをも、聞こえさせ置くべくはべりける、と思ひはべりて。
 「望み通りにおなりあそばすまでは、隠して置くべきことでございますが、この世は無常ですので、気がかりに思いまして。何事もご自分のお考えで一つ一つご判断のおできになります前に、何にせよ、わたしが亡くなるようなことがございましたら、必ずしも臨終の際に、お見取りいただける身分ではございませんので、やはり、しっかりしているうちに、ちょっとした事柄でも、お耳に入れて置いたほうがよい、と存じまして。
 「すべてのことが成り終わりますまでは、こんな物をお目にかけないほうがいいのかもしれませんが、人の命は無常なものでございますからね。何も御承知にならぬうちに私がくなりますことがありましても、必ずしも臨終にあなた様のおいでがいただける身の上でもございませんから、とにかく健在なうちにこうしたこともお聞かせしておくほうがよいと存じまして、それに字が悪くて読みにくいものでございますがこの手紙もお見せすることにいたしましたから、御覧なさいませ。
  "Omohu sama ni kanahi-hate sase tamahu made ha, tori-kakusi te oki te haberu bekere do, yononaka sadame gatakere ba, usirometasa ni nam. Nani-goto wo mo mi-kokoro to obosi kazumahe zara m konata, tomokaku mo, hakanaku nari haberi na ba, kanarazusimo ima ha no todime wo, go-ran-ze raru beki mi ni mo habera ne ba, naho, utusi-gokoro use zu haberu yo ni nam, hakanaki koto wo mo, kikoye sase oku beku haberi keru, to omohi haberi te.
12.2.3  むつかしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この願文は、近き御厨子などに置かせたまひて、かならずさるべからむ折に御覧じて、このうちのことどもは せさせたまへ
 分りにくい変な筆跡ですが、これも御覧くださいませ。この御願文は、身近な御厨子などにお置きあそばして、きっとしかるべき機会に御覧になって、この中の事柄をお果たしください。
 この箱の中の願文がんもんはお居間の置きだななどへしまってお置きになりまして、何をなさることも可能な時がまいりましたら、これに書かれてございます神様などへ入道がいたしました願のおむくいをなすってくださいませ。
  Mutukasiku ayasiki ato nare do, kore mo go-ran-ze yo. Kono gwan-bumi ha, tikaki mi-dusi nado ni oka se tamahi te, kanarazu saru bekara m wori ni go-ran-zi te, kono uti no koto-domo ha se sase tamahe.
12.2.4  疎き人には、な 漏らさせたまひそ。 かばかりと見たてまつりおきつれば、みづからも世を背きはべなむと思うたまへなりゆけば、よろづ心のどかにもおぼえはべらず。
 気心の知れない人には、お話しあそばしてはなりません。将来も確かだと拝察致しましたので、自分自身も出家しましょうと思うようになってまいりましたので、何かにつけゆっくり構えるわけにも行きません。
 他人にはお話をなさらないほうがよろしゅうございます。私はもうあなたのお身の上で何が不安ということもなくなったのでございますから、尼になりたい気がしきりにいたすのでございまして、長くお世話を申し上げることはできないでございましょう。
  Utoki hito ni ha, na mora sase tamahi so. Kabakari to mi tatematuri oki ture ba, midukara mo yo wo somuki habe' na m to omou tamahe nari-yuke ba, yorodu kokoro-nodoka ni mo oboye habera zu.
12.2.5   対の上の御心、おろかに思ひきこえさせたまふな。いとありがたくものしたまふ、深き御けしきを見はべれば、 身にはこよなくまさりて、長き御世にもあらなむとぞ思ひはべる。もとより、御身に添ひきこえさせむにつけても、つつましき身のほどにはべれば、譲りきこえそめはべりにしを、いとかうしも、ものしたまはじとなむ、年ごろは、なほ 世の常に思うたまへわたりはべりつる。
 対の上のお心、いい加減にはお思い申されますな。実にめったにないほどでいらっしゃる、深いご親切のほどを拝見しますと、わたしよりはこの上なく、長生きして戴きたいと存じております。もともと、お側にお付き申し上げるのも、遠慮される身分でございますので、最初からお譲り申し上げていたのでしたが、とてもこうまでも、してくださるまいと、長い間、やはり世間並に考えていたのでございました。
 あなたは対のお母様の御恩をお忘れになってはいけませんよ。ありがたい方でございます。拝見いたしまして、ああしたりっぱな人格の方は必ず命も長くお恵まれになるだろうと思っております。あなたとごいっしょにおりますことはあなたの幸福でないと私が思いまして、はじめて女王様にあなたをお譲り申し上げました時には、これほどまでの愛をあなたにお持ちになることは想像できませんで、それ以後もただ世間並みのよいといわれる継母ままははぐらいのことと思いましたが、
  Tai-no-Uhe no mi-kokoro, oroka ni omohi-kikoye sase tamahu na. Ito arigataku monosi tamahu, hukaki mi-kesiki wo mi habere ba, mi ni ha koyonaku masari te, nagaki mi-yo ni mo ara nam to zo omohi haberu. Motoyori, ohom-mi ni sohi kikoye sase m ni tuke te mo, tutumasiki mi no hodo ni habere ba, yuduri kikoye some haberi si wo, ito kau simo, monosi tamaha zi to nam, tosi-goro ha, naho yo no tune ni omou tamahe watari haberi turu.
12.2.6  今は、来し方行く先、うしろやすく思ひなりにてはべり」
 が今では、過去も将来も、安心できる気持ちになりました」
 あの方の御愛情はそんなものではありませんでした。あの方にお任せいたしますほど安心なことはないとよく私はわかったのでございます」
  Ima ha, kisikata yukusaki, usiroyasuku omohi nari ni te haberi."
12.2.7  など、いと多く聞こえたまふ。涙ぐみて聞きおはす。かくむつましかるべき御前にも、 常にうちとけぬさましたまひて、わりなく ものづつみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたてこはく、憎げなるさまを、陸奥国紙にて、年経にければ、黄ばみ厚肥えたる五、六枚、さすがに香にいと深くしみたるに書きたまへり。
 などと、とても数多く申し上げなさる。涙ぐんで聞いていらっしゃる。このように親しくしてもよい御前でも、いつも礼儀正しい態度をなさって、無闇に遠慮している様子である。この手紙の文句、たいそう固苦しく無愛想な感じであるが、陸奥国紙で年数が経っているので、黄ばんで厚くなった五、六枚に、そうは言っても香をたいそう深く染み込ませたのにお書きになっていた。
 などと明石は淑景舎しげいしゃに言った。姫君は涙ぐんで聞いていた。実母に対しても打ち解けたふうができず、おとなしくものの多く言われない姫君なのである。入道の手紙は若い心に無気味なこわい気のされるようなことが、古檀紙の分厚い黄色がかった、それでも薫物たきものの香のんだのへ五、六枚に書かれてあるのを、姫君は身にしむふうで
  nado, ito ohoku kikoye tamahu. Namidagumi te kiki ohasu. Kaku mutumasikaru beki o-mahe ni mo, tune ni uti-toke nu sama si tamahi te, warinaku mono-dutumi si taru sama nari. Kono humi no kotoba, ito utate kohaku, nikuge naru sama wo, Mitinokuni-gami nite, tosi he ni kere ba, ki-bami atugoye taru go, roku-mai, sasuga ni kau ni ito hukaku simi taru ni kaki tamahe ri.
12.2.8  いとあはれと思して、御額髪のやうやう濡れゆく、御側目、あてになまめかし。
 たいそう感動なさって、御額髪がだんだん涙に濡れて行く、御横顔、上品で優美である。
 読んでいて額髪が涙にぬれていく様子がえんであった。
  Ito ahare to obosi te, ohom-hitahi-gami no yau-yau nure yuku, ohom-sobame, ate ni namamekasi.
12.2.9
注釈746対の上などの渡りたまひぬる夕つ方紫の上が東の対の屋に帰った夕方の意。12.2.1
注釈747思ふさまに以下「思ひなりにてはべり」まで、明石御方の詞。12.2.2
注釈748御心と思し数まへざらむこなた『集成』は「ご自分でいろいろとご判断のおできになる前に」と訳す。12.2.2
注釈749ともかくもはかなくなりはべりなば主語は明石御方。『集成』は「何にせよ」。『完訳』は「もしものことで」と訳す。12.2.2
注釈750今はのとぢめを御覧ぜらるべき身にもはべらねば明石御方は身分が低いので、娘の女御に見取ってもらえるかどうか分からない、という意。12.2.2
注釈751かばかりと見たてまつりおきつれば『集成』は「あなたの将来も、こうとお見届けしましたので。男御子の誕生で、もう安心という気持」という気持ち。12.2.4
注釈752対の上の御心おろかに思ひきこえさせたまふな『集成』は「以下、明石の上も遺言めいて語る」と注す。12.2.5
注釈753身にはこよなくまさりて「身」は自分をさす。私など以上に。12.2.5
注釈754世の常に思うたまへわたり紫の上を世間並の継母ぐらいに思っていという意。12.2.5
注釈755常にうちとけぬさましたまひて『集成』は「いつも礼儀正しい態度でいらして」と訳す。12.2.7
校訂171 せさせたまへ せさせたまへ--せさり(り/$せ)給へ 12.2.3
校訂172 漏らさせ 漏らさせ--もら(ら/+さ)せ 12.2.4
校訂173 ものづつみし ものづつみし--ものつゝま(ま/$み)し 12.2.7
12.3
第三段 源氏、女御の部屋に来る


12-3  Genji comes in Akashi's room

12.3.1   院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子よりふと渡りたまへれば、えしも引き隠さで、御几帳をすこし引き寄せて、みづからははた隠れたまへり。
 院は、姫宮の御方にいらっしゃったが、中の御障子から不意にお越しになったので、手紙を引き隠すことができず、御几帳を少し引き寄せて、ご自身はやはり隠れなさった。
 院は女三にょさんみやのお座敷のほうにおいでになったのであるが、中の戸をあけてにわかにこちらへお見えになったのを知って、明石夫人は急なことで姫君の前に出された文書類を隠すことができず、几帳きちょうを少し前のほうへ引き寄せ、自身もそのかげへ姿を隠してしまった。
  Win ha, Hime-Miya no ohom-kata ni ohasi keru wo, naka no mi-syauzi yori huto watari tamahe re ba, e si mo kakusa de, mi-kityau wo sukosi hiki-yose te, midukara ha hata kakure tamahe ri.
12.3.2  「 若宮は、おどろきたまへりや。時の間も恋しきわざなりけり」
 「若宮は、お目覚めでいらっしゃいますか。ちょっとの間も恋しいものですよ」
 「若宮が私の足音でお目ざめになりませんでしたか。しばらくでも見ずにいては恋しいものだから」
  "Waka-Miya ha, odoroki tamahe ri ya! Toki no ma mo kohisiki waza nari keri!"
12.3.3  と聞こえたまへば、御息所はいらへも聞こえたまはねば、御方、
 と申し上げなさると、御息所はお答えも申し上げなさらないので、御方が、
 と院がお言いになっても姫君は黙っているのを見て、明石が、
  to kikoye tamahe ba, Miyasumdokoro ha irahe mo kikoye tamaha ne ba, ohom-kata,
12.3.4  「 対に渡しきこえたまひつ
 「対の上にお渡し申し上げなさいました」
 「対へおつれになったのでございます」
  "Tai ni watasi kikoye tamahi tu."
12.3.5  と聞こえたまふ。
 と申し上げなさる。
 と言った。
  to kikoye tamahu.
12.3.6  「 いとあやしや。あなたにこの宮を領じたてまつりて、懐をさらに放たずもて扱ひつつ、 人やりならず衣も皆濡らして、脱ぎかへがちなめる。軽々しく、などかく渡したてまつりたまふ。 こなたに渡りてこそ見たてまつりたまはめ」
 「実に不都合な。あちらではこの宮を独り占め申されて、懐から少しも放さずお世話なさっては、好き好んで着物もすっかり濡らして、しきりに脱ぎ替えているようです。かるがると、どうしてお渡し申しなさるのか。こちらに来てお世話申し上げなさればよいものを」
 「けしからんね、若宮をわが物顔にして懐中ふところからお放ししないのだから。始終自身の着物をぬらして脱ぎかえているのですよ。軽々しく宮様をあちらへおやりするようなことはよろしくない。こちらへ拝見に来ればいいではないか」
  "Ito ayasi ya! Anata ni kono Miya wo ryau-zi tatematuri te, hutokoro wo sarani hanata zu mote-atukahi tutu, hito-yari-nara-zu kinu mo mina nurasi te, nugi-kahe-gati na' meru. Karo-garosiku, nado kaku watasi tatematuri tamahu. Konata ni watari te koso mi tatematuri tamaha me."
12.3.7  とのたまへば、
 とおっしゃると、

  to notamahe ba,
12.3.8  「 いと、うたて。思ひぐまなき御ことかな。女におはしまさむにだに、あなたにて見たてまつりたまはむこそよくはべらめ。まして男は、限りなしと聞こえさすれど、心やすくおぼえたまふを。戯れにても、かやうに隔てがましきこと、な さかしがり聞こえさせたまひそ」
 「まあ、いやな。思いやりのないお言葉ですこと。女宮でいらっしゃっても、あちらでお育て申し上げなさるのがよいことでございましょう。まして男宮は、どれほど尊いご身分と申し上げても、ご自由と存じ上げておりますのに。ご冗談にも、そのような分け隔てをするようなことを、変に知ったふうに申されなさいますな」
 「思いやりのないことを仰せになります。内親王様であってもあの女王様に御養育おされになるのがふさわしいことと存じられますのに、まして男宮様は、そんなに尊貴でおありあそばしても、あちこちおつれ申すほどのことが何でございましょう。御冗談ごじょうだんにでも女王様のことをそんなふうにおっしゃってはよろしくございません」
  "Ito, utate. Omohi-gumanaki ohom-koto kana! Womna ni ohasimasa m ni dani, anata nite mi tatematuri tamaha m koso yoku habera me. Masite wotoko ha, kagiri nasi to kikoyesasure do, kokoro-yasuku oboye tamahu wo! Tahabure ni te mo, kayau ni hedate-gamasiki koto, na sakasigari kikoye sase tamahi so."
12.3.9  と聞こえたまふ。うち笑ひて、
 とお答え申し上げなさる。ほほ笑んで、
 明石夫人はこう抗弁した。院はお笑いになって、
  to kikoye tamahu. Uti warahi te,
12.3.10  「 御仲どもにまかせて見放ちきこゆべきななりな。隔てて、今は、誰も誰もさし放ち、 さかしらなどのたまふこそ幼けれ。まづは、かやうにはひ隠れて、つれなく言ひ落としたまふ めりかし
 「お二人にお任せして、お構い申さないのがよいというのですね。分け隔てをして、このごろは、誰も彼もが除け者にして、でしゃばりだなどとおっしゃるのは、考えが足りないことです。第一、そのようにこそこそ隠れて、冷たくこき下ろしなさるようだ」
 「ではもうあなたがたにお任せきりにすべきだね。このごろはだれからも私は冷淡に扱われる。今のようなたしなめを言ったりする人もある。そうじゃありませんか、こんなに顔を隠していて、私を悪くばかり」
  "Ohom-naka-domo ni makase te, mi-hanati kikoyu beki na' nari na. Hedate te, ima ha, tare mo tare mo sasi-hanati, sakasira nado notamahu koso wosanakere. Madu ha, kayau ni hahi kakure te, turenaku ihi-otosi tamahu meri kasi."
12.3.11  とて、御几帳を引きやりたまへれば、 母屋の柱に寄りかかりて、いときよげに、心恥づかしげなるさましてものしたまふ。
 と言って、御几帳を引きのけなさると、母屋の柱に寄り掛かって、たいそう綺麗に、気が引けるほど立派な様子をしていらっしゃる。
 と、お言いになって、几帳を横へお引きになると、明石は清い顔をして中の柱に品よくよりかかっているのであった。
  tote, mi-kityau wo hiki-yari tamahe re ba, mo-ya no hasira ni kakari te, ito kiyoge ni, kokoro-hadukasige naru sama si te monosi tamahu.
注釈756院は姫宮の御方におはしけるを源氏、寝殿の西面の女三の宮のもとから中の襖障子を開けて東面の明石女御のもとに来る。12.3.1
注釈757若宮は以下「恋しきわざなりけり」まで、源氏の詞。12.3.2
注釈758対に渡しきこえたまひつ明石御方の返事。12.3.4
注釈759いとあやしや以下「見たてまつりたまはめ」まで、源氏の詞。12.3.6
注釈760人やりならず衣も皆濡らしてかってに好き好んで若宮のおしっこで衣裳をすっかり濡らしているという意。12.3.6
注釈761いとうたて以下「聞こえさせたまひそ」まで、明石御方の詞。「女に--だに--まして--男は」という構文。女は他人に見られてはならないものだが、紫の上は母の養母だからかまわない、まして、男御子はなおさら差し支えないという意。12.3.8
注釈762御仲どもにまかせて以下「言ひ落としたまふめりかし」まで、源氏の詞。軽い冗談を交えて話す。12.3.10
注釈763見放ちきこゆべきななりな「べき」推量の助動詞、適当の意。「な」断定の助動詞(「なり」の連体形、撥音便無表記)。「なり」伝聞推定の助動詞、終止形。「な」詠嘆の終助詞。12.3.10
注釈764さかしらなどのたまふこそ明石御方の「なさかしらがりきこえさせたまひそ」という語句を受けて返す。12.3.10
注釈765母屋の柱に寄りかかりて主語は明石御方。12.3.11
校訂174 こなたに渡りてこそ見たてまつりたま こなたに渡りてこそ見たてまつりたま--(/+こなたにわたりてこそ見たてまつりたま) 12.3.6
校訂175 さかしがり さかしがり--さかしら(ら/$)かり 12.3.8
校訂176 めりかし めりかし--めりし(し/$かし) 12.3.10
12.4
第四段 源氏、手紙を見る


12-4  Genji reads the letter

12.4.1  ありつる箱も、惑ひ隠さむもさま悪しければ、さておはするを、
 さきほどの文箱も、慌てて隠すのも体裁が悪いので、そのままにしておかれたのを、
 先刻さっきの箱もあわてて隠すのが恥ずかしく思われてそのままにしてあった。
  Arituru hako mo, madohi kakusa m mo sama asikere ba, sate ohasuru wo,
12.4.2  「 なぞの箱。深き心あらむ。懸想人の長歌詠みて封じこめたる心地こそすれ」
 「何の箱ですか。深い子細があるのでしょう。懸想人が長歌を詠んで大事に封じ込めてあるような気がしますね」
 「何の箱ですか。恋する男が長い歌をんで封じて来たもののような気がする」
  "Nazo no kako? Hukaki kokoro ara m. Kesau-bito no naga-uta yomi te hun-zi-kome taru kokoti koso sure."
12.4.3  とのたまへば、
 とおっしゃるので、
 院がこうお言いになると、
  to notmahe ba,
12.4.4  「 あな、うたてや。今めかしくなり返らせたまふめる御心ならひに、聞き知らぬやうなる御すさび言どもこそ、時々出で来れ」
 「まあ、いやですわ。今風に若返りなさったようなお癖で、合点のゆかないようなご冗談が、時々出て来ますこと」
 「いやな御想像でございますね。御自身がお若返りになりましたので、私どもさえまで承ったこともないような御冗談をこのごろは伺います」
  "Ana, utate ya! Imamekasiku nari kahera se tamahu meru mi-kokoro narahi ni, kiki-sira nu yau naru ohom-susabi-goto-domo koso, toki-doki ide-kure."
12.4.5  とて、ほほ笑みたまへれど、ものあはれなりける 御けしきどもしるければ、 あやしとうち傾きたまへるさまなれば、わづらはしくて、
 と言って、ほほ笑んでいらっしゃるが、しみじみとしたご様子がはっきりと感じられるので、妙だと首を傾けていらっしゃる様子なので、厄介に思って、
 と明石は言って微笑を見せていたが、悲しそうな様子は瞭然りょうぜんとわかるのであったから、不思議にお思いになるふうのあるのに困って、明石が言った。
  tote, hohowemi tamahe re do, mono ahare nari keru mi-kesiki-domo sirukere ba, ayasi to uti katabuki tamahe ru sama nare ba, wadurahasiku te,
12.4.6  「 かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈りの巻数、また、まだしき願などのはべりけるを、 御心にも知らせたてまつるべき折あらば、御覧じおくべくやとてはべるを、ただ今は、ついでなくて、何かは開けさせたまはむ」
 「あの明石の岩屋から、内々で致しましたご祈祷の巻数、また、まだ願解きをしていないのがございましたのを、殿にもお知らせ申し上げるべき適当な機会があったら、御覧になって戴いたほうがよいのではないかと送って来たのでございますが、只今は、その時でもございませんので、何のお開けあそばすこともございますまい」
 「あの明石の岩窟いわやから、そっとよこしました経巻とか、まだおむくいのできておりません願文の残りとかなのでございますが、姫君にも昔のことをお話しする時があれば、これもお目にかけたらどうかと申してもまいっているのでございますが、ただ今はまだそうしたものを御覧なさいます時期でもないのでございますから、お手をおつけになりません」
  "Kano Akasi no ihaya yori, sinobi te habe' si ohom-inori no kwanzyu, mata, madasiki gwan nado no haberi keru wo, mi-kokoro ni mo sira se tatematuru beki wori ara ba, go-ran-zi-oku beku ya tote haberu wo, tada ima ha, tuide naku te, nani ka ha ake sase tamaha m?"
12.4.7  と聞こえたまふに、「 げに、あはれなるべきありさまぞかし」と思して、
 と申し上げなさると、「なるほど、泣くのも無理はない」とお思いになって、
 お聞きになって、娘と母に悲しい表情の見えるのももっともであるとお思いになった。
  to kikoye tamahu ni, "Geni, ahare naru beki arisama zo kasi." to obosi te,
12.4.8  「 いかに行なひまして住みたまひにたらむ。命長くて、 ここらの年ごろ勤むる罪も、こよなからむかし。世の中に、よしあり、 賢しき方々の、人とて見るにも、この世に染みたるほどの濁り深きにやあらむ、 賢き方こそあれ、いと限りありつつ及ばざりけりや。
 「どんなに修業を積んでお暮らしになったことだろう。長生きをして、長年の勤行の功徳の積み重ねによって消滅した罪障も、数知れぬことだろう。世の中で、教養があり、賢明であるという方々を、それと見ても、現世の名利に執着した煩悩が深いのだろうか、学問は優れていても、実に限度があって及ばないな。
 「あれ以後ますます深い信仰の道を歩んでおいでになることであろう。長命をされて長い間のお勤めが仏にできたのだから結構だね。世間で有名になっている高僧という者もよく観察してみると、俗臭のない者は少なくて、賢い点には尊敬の念も払われるが、私には飽き足らず思われる所がある、
  "Ika ni okonahi-masi te sumi tamahi ni tara m. Inoti nagaku te, kokora no tosi-goro tutomuru tumi mo, koyonakara m kasi. Yononaka ni, yosi ari, sakasiki kata-gata no, hito tote miru ni mo, kono yo ni somi taru hodo no nigori hukaki ni ya ara m, kasikoki kata koso are, ito kagiri ari tutu oyoba zari keri ya.
12.4.9  さもいたり深く、さすがに、けしきありし人のありさまかな。聖だち、この世離れ顔にもあらぬものから、 下の心は、皆あらぬ世に通ひ住みにたるとこそ、見えしか
 実に悟りは深く、それでいて、風情のあった人だな。聖僧のように、現世から離れている顔つきでもないのに、本心は、すっかり極楽浄土に行き来しているように、見えました。
 あの人だけはりっぱな僧だと私にも思われる。僧がらずにいながら、心持ちはこの世界以上の世界と交渉しているふうに見えた人ですよ。
  Samo itari hukaku, sasuga ni, kesiki ari si hito no arisama kana! Hiziri-dati, kono yo-banare gaho ni mo ara nu monokara, sita no kokoro ha, mina ara nu yo ni kayohi sumi ni taru to koso, miye sika.
12.4.10  まして、今は心苦しきほだしもなく、思ひ離れにたらむをや。かやすき身ならば、忍びて、いと会はまほしくこそ」
 まして、今では気にかかる係累もなく、解脱しきっているだろう。気楽に動ける身ならば、こっそりと行って、ぜひにも会いたいものだが」
 今ではまして係累もなくなって、超然としておられるだろうあの人が想像される。手軽な身分であればそっと行っていたい人だ」
  Masite, ima ha kokoro-gurusiki hodasi mo naku, omohi hanare ni tara m wo ya! Kayasuki mi nara ba, sinobi te, ito aha mahosiku koso."
12.4.11  とのたまふ。
 とおっしゃる。
 院はこうお言いになった。
  to notamahu.
12.4.12  「 今は、かのはべりし所をも捨てて 鳥の音聞こえぬ山に となむ聞きはべる」
 「今は、あの住んでいた所も捨てて、鳥の音も聞こえない奥山にと聞いております」
 ただ今はもうあの家も捨てまして、鳥の声もせぬ山へはいったそうでございます」
  "Ima ha, kano haberi si tokoro wo mo sute te, tori no ne kikoye nu yama ni to nam kiki haberu."
12.4.13  と聞こゆれば、
 と申し上げると、

  to kikoyure ba,
12.4.14  「 さらば、その遺言ななりな 。消息は通はしたまふや。尼君、いかに思ひたまふらむ。親子の仲よりも、またさるさまの契りは、ことにこそ添ふべけれ」
 「それでは、その遺言なのですね。お手紙はやりとりなさっていますか。尼君、どんなにお思いだろうか。親子の仲よりも、また夫婦の仲は、格別に悲しみも深かろう」
 「ではその際に書き残されたものなのだね。あなたからもたよりはしていますか。尼さんはどんなに悲しんでおいでになるだろう。親子の仲とはまた違った深い愛情が夫婦の仲にはあるものだからね」
  "Saraba, sono yuigon na' nari na. Seusoko ha kayohasi tamahu ya. Ama-Gimi, ikani omohi tamahu ram. Oyako no naka yori mo, mata saru sama no tigiri ha, koto ni koso sohu bekere."
12.4.15  とて、うち涙ぐみたまへり。
 とおっしゃって、涙ぐみなさっていた。
 院も涙ぐんでおいでになった。
  tote, uti-namidagumi tamahe ri.
注釈766なぞの箱以下「心地こそすれ」まで、源氏の詞。冗談を言ってからかう。12.4.2
注釈767あなうたてや以下「時々出で来れ」まで、明石御方の返事。『完訳』は「女三の宮との結婚を暗に皮肉りながら、源氏の冗談を切り返す。前に、紫の上も、源氏の若返りと皮肉った」と注す。12.4.4
注釈768御けしきども明石御方と女御の態度。接尾語「ども」複数を表す。12.4.5
注釈769あやしとうち傾きたまへるさまなれば主語は源氏。12.4.5
注釈770かの明石の岩屋より以下「何かは開けさせたまはむ」まで、明石御方の詞。手紙の真相を語る。12.4.6
注釈771御心にも知らせたてまつるべき折あらば源氏をさす。12.4.6
注釈772げにあはれなるべきありさまぞかし源氏の心中。「げに」は前の明石御方と女御がしんみりしていたことをさす。12.4.7
注釈773いかに行なひまして以下「いと会はまほしくこそ」まで、源氏の詞。12.4.8
注釈774ここらの年ごろ勤むる罪もこよなからむかし『集成』は「多年勤めてきた修業によって消滅した罪障も数知れぬことであろう」。『完訳』は「この多くの年月に積み重ねた功徳はこのうえもなく尊いものであろう」と訳す。12.4.8
注釈775賢しき方々主として僧侶をさす。12.4.8
注釈776賢き方こそあれ係助詞「こそ」「あれ」已然形、逆接用法。12.4.8
注釈777下の心は皆あらぬ世に通ひ住みにたるとこそ見えしか『集成』は「本心は、この世ならぬ世界(極楽浄土)に、自在に行き来して暮していると思われた」。『完訳』は「心の奥ではすっかり極楽浄土に通い住んでいる、と見えました」と訳す。12.4.9
注釈778今はかのはべりし所をも捨てて以下「聞きはべる」まで、明石御方の返事。
【かのはべりし所をも捨てて】−明石入道の邸宅。
12.4.12
注釈779鳥の音聞こえぬ山に「飛ぶ鳥の声も聞えぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今集恋一、五三五、読人しらず)の文句を踏まえる。12.4.12
注釈780さらばその遺言ななりな以下「こそ添ふべけれ」まで、源氏の詞。
【ななりな】−「な」断定の助動詞(連体形、撥音便化の無表記)「なり」伝聞推定の助動詞、終止形、「な」終助詞、詠嘆。
12.4.14
出典37 鳥の音聞こえぬ山 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ 古今集恋一-五三五 読人しらず 12.4.12
校訂177 捨てて 捨てて--す(す/$)すてゝ 12.4.12
校訂178 ななりな ななりな--なくも(くも/$なり)な 12.4.14
12.5
第五段 源氏の感想


12-5  Genji thinks far Akashi's father

12.5.1  「 年の積もりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知りゆくままに、あやしく恋しく思ひ出でらるる人の御ありさまなれば、深き契りの仲らひは、いかにあはれならむ」
 「年を取って、世の中の様子を、あれこれと分かってくるにつれて、妙に恋しく思い出されるご様子の方なので、深い契りの夫婦では、どんなにか感慨も深いことであろう」
 「あれからのちいろいろな経験をし、いろいろな種類の人にもったが、昔のあの人ほど心をく人物はなくて、私にも恋しく思われる人なのだから、そんなことがあれば夫婦であった尼君の心はいたむことだろう」
  "Tosi no tumori ni, yononaka no arisama wo, tokaku omohi siri yuku mama ni, ayasiku kohisiku omohi-ide raruru hito no mi-arisama nare ba, hukaki tigiri no nakarahi ha, ikani ahare nara m."
12.5.2  などのたまふついでに、「 この夢語りも思し合はすることもや」と 思ひて
 などとおっしゃっている機会に、「あの夢物語もお思い当たりなさることがあるかも知れない」と思って、
 ともお言いになる院に、入道の夢の話をお思い合わせになることがあろうもしれぬと明石夫人はその手紙を取り出した。
  nado notamahu tuide ni, "Kono yume-gatari mo obosi-ahasuru koto mo ya?" to omohi te,
12.5.3  「 いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。今はとて別れはべりにしかど、 なほこそ、あはれは残りはべるものなりけれ
 「たいそう変な梵字とか言うような筆跡ではございますが、お目に止まるようなこともございましょうかと存じまして。これが最後と思って別れたのでしたが、やはり、愛着は残るものでございました」
 「変わった梵字ぼんじとか申すような字はこれに似ておりますが読みにくい字で書かれましたものでも御参考になることが混じっているようでございますからお目にかけます。昔の別れにももう今日のあることを申しておりまして、あきらめたつもりでおりましても、やはりまた悲しゅうございます」
  "Ito ayasiki bonzi to ka ihu yau naru ato ni habe' mere do, go-ran-zi todomu beki husi mo ya maziri haberu tote nam. Ima ha tote wakare haberi ni sika do, naho koso, ahare ha nokori haberu mono nari kere."
12.5.4  とて、さまよくうち 泣きたまふ。 寄りたまひて
 と言って、見苦しからぬ体でお泣きになる。側に寄りなさって、
 と言い、感じの悪くない程度に泣いた。院は手にお取りになって、
  tote, sama yoku uti-naki tamahu. Yori tamahi te,
12.5.5  「 いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手なども、すべて何ごとも、わざと有職にしつべかりける 人の、ただこの世経る方の心おきてこそ少なかりけれ。
 「実にしっかりしていて、まだまだ耄碌していませんな。筆跡なども、総じて何につけても、ことさら有職と言ってもよい方で、ただ世渡りの心得だけが上手でなかったな。
 「りっぱじゃありませんか。老いぼけてなどいないいい字だ。どんな芸にも達しておられて、尊敬さるべき人なのだが、処世の術だけはうまくゆかなかった人だね。
  "Ito kasikoku, naho hore-boresikara zu koso aru bekere. Te nado mo, subete nani-goto mo, wazato iusoku ni si tu bekari keru hito no, tada kono yo huru kata no kokoro-okite koso sukunakari kere.
12.5.6   かの先祖の大臣は 、いとかしこくありがたき心ざしを尽くして、朝廷に仕うまつり たまひけるほどに、 ものの違ひめありて、その報いにかく末はなきなりなど、人言ふめりしを、女子の方につけたれど、かくていと嗣なしと いふべきにはあらぬも、そこらの行なひのしるしにこそはあらめ」
 あの先祖の大臣は、たいそう賢明で世にも稀な忠誠を尽くして、朝廷にお仕え申していらっしゃった間に、何かの行き違いがあって、その報いでそのような子孫が絶えたのだと、人々が噂したようだが、女子の系統であるが、このように決して子孫がいないというわけでないのも、長年の勤行の甲斐があってなのだろう」
 あの人の祖父の大臣は賢明な政治家だったのが、ある一つのことで失敗をされたために、その報いで子孫が栄えないなどと言う人もあったが、女系をもってすれば繁栄でないとは言われなくなったのも、あの人の信仰が御仏みほとけを動かしたといってよいことですね」
  Kano senzo no Otodo ha, ito kasikoku arigataki kokorozasi wo tukusi te, Ohoyake ni tukau-maturi tamahi keru hodo ni, mono no tagahime ari te, sono mukuyi ni kaku suwe ha naki nari nado, hito ihu meri si wo, womna-go no kata ni tuke tare do, kaku te ito tugi nasi to ihu beki ni ha ara nu mo, sokora no okonahi no sirusi ni koso ha ara me."
12.5.7  など、涙おし拭ひたまひつつ、 この夢のわたりに 目とどめたまふ。
 などと、涙をお拭いになりながら、あの夢物語のあたりにお目を止めなさる。
 などと言い、涙をぬぐいながら読んでおいでになったが、夢の話の所はことに院の御注意をいた。
  nado, namida osi-nogohi tamahi tutu, kono yume no watari ni me todome tamahu.
12.5.8  「 あやしくひがひがしく、すずろに高き心ざしありと人も咎め、 また我ながらも、さるまじき振る舞ひを、仮にてもするかな 、と思ひしことは、 この君の生まれたまひし時に、契り深く思ひ知りにしかど、 目の前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思ひわたりつれ、さらば、 かかる頼みありて、あながちには望みしなりけり。
 「変に偏屈者で、無闇に大それた望みを持っていると人も非難し、また自分ながらも、よろしからぬ結婚をかりそめにもしたことよ、と思ったのは、この姫君がお生まれになった時に、前世からの宿縁だと深く理解したが、目の前に見えない遠い先のことは、どういうものかよく分からぬとずっと思い続けていたのだが、それでは、このような期待があって、無理やり婿に望んだのだったな。
 常人の行ないができずに、むやみに思い上がった望みを持つ男であると人の批難を受け、自分なども非常識に狂気じみて結婚を強要する人だと疑って思っていたことも、姫君が生まれてきたことで、前生の因縁がかくあった間柄であると認めたのであるが、なおそれ以外の未来にどんな望みを入道が持っているかは知らずにいたが、これで見れば初めから君王の母がその家から出る確信があったらしい。
  "Ayasiku higa-higasiku, suzuro ni takaki kokorozasi ari to hito mo togame, mata ware nagara mo, sarumaziki hurumahi wo, kari ni te mo suru kana, to omohi si koto ha, kono Kimi no mumare tamahi si toki ni, tigiri hukaku omohi siri ni sika do, me no mahe ni miye nu anata no koto ha, obotukanaku koso omohi watari ture, sara ba, kakaru tanomi ari te, anagati ni ha nozomi si nari keri.
12.5.9  横さまに、いみじき目を見、ただよひしも、 この人一人のためにこそありけれ。いかなる願をか心に起こしけむ」
 無実の罪によって、酷い目に遭い、流浪したのも、この人一人の祈願成就のためであったのだな。どのような祈願を思い立ったのだろうか」
冤罪えんざいこうむって漂泊してまわる運命を自分が負ったことも、この姫君が明石で生まれるためなのであった。神仏にかけた願はどんなものであったのであろう
  Yokosama ni, imiziki me wo mi, tadayohi si mo, kono hito hitori no tame ni koso ari kere! Ika naru gwan wo ka kokoro ni okosi kem?"
12.5.10  とゆかしければ、心のうちに拝みて取りたまひつ。
 と知りたいので、心の中で拝んでお取りになった。
 と、心で拝をなされながらその箱を院はお取りになった。
  to yukasikere ba, kokoro no uti ni ogami te tori tamahi tu.
注釈781年の積もりに以下「あはれならむ」まで、源氏の詞。12.5.1
注釈782この夢語りも思し合はすることもや明石御方の心中。12.5.2
注釈783いとあやしき梵字とかいふやうなる以下「はべるものなりけれ」まで、明石御方の詞。入道の手紙の筆跡を「梵字」のようなと謙遜していう。12.5.3
注釈784なほこそあはれは残りはべるものなりけれ『集成』は「やはりまだ思いは残るものなのでございました」。『完訳』は「やはりせつない思いはあとあとまで尾をひくものでございました」と訳す。12.5.3
注釈785寄りたまひて主語は源氏。12.5.4
注釈786いとかしこく以下「しるしにこそはあらめ」まで、源氏の詞。12.5.5
注釈787人の格助詞「の」同格の意。12.5.5
注釈788かの先祖の大臣は明石入道の先祖は大臣であるというが、源氏の母桐壷更衣はその弟の按察大納言、同祖でもある。「若紫」「明石」参照。12.5.6
注釈789ものの違ひめありて以下「かく末はなきなり」まで、世人の噂を引用。『河海抄』は藤原実頼の例を指摘する。12.5.6
注釈790この夢のわたりに「世の中は夢のわたりの浮橋かうち渡しつつ物をこそ思へ」(河海抄所引、出典未詳)12.5.7
注釈791あやしくひがひがしく以下「心に起こしけむ」まで、源氏の心中。12.5.8
注釈792また我ながらもさるまじき振る舞ひを仮にてもするかな『集成』は「また自分としても、入道が身分にあるまじき振舞を、かりそめにもすることだと思ったことは。入道が自分を婿にと望んだこと」。『完訳』は「かりそめにも紫の上を裏切って明石の君と結ばれたことをいう。一説には、入道が身分違いの結婚をさせたこと」「またわたし自身も、一時のかりそめにしろ不都合なふるまいをするものよ」と注す。12.5.8
注釈793この君の生まれたまひし時に明石姫君の誕生。「澪標」参照。12.5.8
注釈794目の前に見えぬあなたのことは『集成』は「遠い過去の因縁は」。『完訳』は「過去の因縁。一説に、将来」「目に見えぬこれから先のことは」と注す。12.5.8
注釈795かかる頼みありて夢のお告げを期待して。12.5.8
注釈796この人一人のためにこそありけれ『集成』は「入道一人の祈願成就のためだったのだ」。『完訳』は「この人ひとりがお生れになるためだったのです」と訳す。12.5.9
出典38 夢のわたりに 世の中は夢のわたりの浮き橋かうち渡りつつものをこそ思へ 出典未詳-源氏釈所引 12.5.7
校訂179 思ひて 思ひて--思ひ(ひ/+て) 12.5.2
校訂180 泣きたまふ。寄りたまひて 泣きたまふ。寄りたまひて--なけ(け/$)き給て(て/$より給て) 12.5.4
校訂181 大臣は 大臣は--おとゝを(を/$は) 12.5.6
校訂182 たまひける たまひける--給ひに(に/$)ける 12.5.6
校訂183 いふべきには いふべきには--いふへきにも(も/$は) 12.5.6
校訂184 我ながら 我ながら--われも(も/$)なから 12.5.8
12.6
第六段 源氏、紫の上の恩を説く


12-6  Genji explains the favor of Murasaki to Akashi-Hime

12.6.1  「 これは、また具してたてまつるべきものはべり。今また聞こえ 知らせはべらむ」
 「この願文には、また一緒に差し上げねばならない物があります。そのうちお話しましょう」
 「これといっしょにあなたに見せておきたいものもありますから、またそのうち私からもお話しすることにしよう」
  "Kore ha, mata gusi te tatematuru beki mono haberi. Ima mata kikoye sira se habera m."
12.6.2  と、女御には聞こえたまふ。そのついでに、
 と、女御には申し上げなさる。その折に、
 と院は姫君へお言いになった。そのついでに、
  to, Nyougo ni ha kikoye tamahu. Sono tuide ni,
12.6.3  「 今は、かく、いにしへのことをもたどり知りたまひぬれど、あなたの御心ばへを、おろかに思しなすな。もとより さるべき仲、えさらぬ睦びよりも横さまの人のなげのあはれをもかけ、 一言の心寄せあるは、おぼろけのことにもあらず。
 「今は、このように、昔のことをだいぶお分りになったのだが、あちらのご好意を、いい加減にはお思いなさいますな。もともと親しいはずの夫婦仲や、切っても切れない親兄弟の親しみよりも、血の繋がらない他人がかりそめの情けをかけ、一言の好意でも寄せてくれるのは、並大抵のことではありません。
 「もうあなたは自分の生まれてきた事情を明らかに知ることができたでしょうが、あちらのお母様の好意をおろそかに思ってはなりませんよ。真実の親子、肉身の仲でなくて、他人が少しでも愛してくれ、親切にしてくれるのはありがたいことだと思わなければならない。
  "Ima ha, kaku, inisihe no koto wo mo tadori siri tamahi nure do, anata no mi-kokorobahe wo, oroka ni obosi-nasu na. Motoyori saru-beki naka, e sara nu mutubi yori mo, yokosama no hito no nage no ahare wo mo kake, hito-koto no kokoro-yose aru ha, oboroke no koto ni mo ara zu.
12.6.4  まして、ここになど さぶらひ馴れたまふを 見る見るも、初めの心ざし変はらず、深く ねむごろに思ひきこえたるを。
 まして、ここに始終お付きしていらっしゃるのを見ながら、最初の気持ちも変わらず、深くご好意をお寄せ申しているのですから。
 まして実母があなたのそばへ来たあとまでも初めどおりにあなたを愛することが変わらずに、あなたに幸福があるようにとばかりあの人は願っています。
  Masite, koko ni nado saburahi nare tamahu wo miru miru mo, hazime no kokorozasi kahara zu, hukaku nemgoro ni omohi kikoye taru wo.
12.6.5  いにしへの世のたとへにも、さこそはうはべには育み けれと、らうらうじきたどりあらむも、賢きやうなれど、なほあやまりても、わがため下の心ゆがみたらむ人を、 さも思ひ寄らず、うらなからむためは、引き返しあはれに、いかでかかるにはと、罪得がましきにも、思ひ直ることもあるべし。
 昔の世の例にも、いかにも表面だけはかわいがっているようだがと、賢そうに推量するのも、利口なようだが、やはり間違っても、自分にとって内心悪意を抱いているような継母を、そうとは思わず、素直に慕っていったならば、思い返してかわいがり、どうしてこんなかわいい子にはと、罰が当たることだと、改心することもきっとあるでしょう。
 昔からある継母ままはは話のように、表面だけを賢そうにして継子ままこの世話をする、それはまあよいと見られている母親も、また曲がった心で娘を苦しめている母親も、娘のほうで善意にばかりものを解釈して信頼してやれば、こんな人を憎んでは罪になるという気がして反省するのがありますし、
  Inisihe no yo no tatohe ni mo, sa koso ha uhabe ni ha hagukumi kere to, rau-rauziki tadori ara m mo, kasikoki yau nare do, naho ayamari ni te mo, waga tame sita no kokoro no yugami tara m hito wo, samo omohi-yora zu, ura-nakara m tame ha, hiki-kahesi ahare ni, ikade kakaru ni ha to, tumi e-gamasiki ni mo, omohi nahoru koto mo aru besi.
12.6.6   おぼろけの昔の世のあだならぬ人は、違ふ節々あれど、ひとりひとり罪なき時には、おのづからもてなす例どもあるべかめり。さしもあるまじきことに、 かどかどしく癖をつけ、愛敬なく、人をもて離るる心あるは、いとうちとけがたく、思ひぐまなきわざになむあるべき。
 並々ならぬ昔からの仇敵でない人は、いろいろ行き違いがあっても、お互いに欠点のない場合には、自然と仲好くなる例はたくさんあるようです。それほどでもないことに、とげとげしく難癖をつけ、かわいげなく、人を疎んじる心のある人は、とてもうちとけにくく、考えの至らない者と言うべきでしょう。
 またよい性格の人であれば、継娘ままこに気に入らぬ所はあっても、母として信頼される立場になっては、いつとなく最初の態度を変えるのもあるでしょう。何でもないことに難くせをつけ、愛の皆無な思いやりのない継母でとうてい娘のほうから近づけないのもあるでしょう。
  Oboroke no mukasi no yo no ada nara nu hito ha, tagahu husi-busi are do, hitori hitori tumi naki toki ni ha, onodukara motenasu tamesi-domo aru beka' meri. Sasimo arumaziki koto ni, kado-kadosiku kuse wo tuke, aigyau naku, hito wo mote-hanaruru kokoro aru ha, ito utitoke-gataku, omohi-gumanaki waza ni nam aru beki.
12.6.7   多くはあらねど、人の心の、とあるさまかかるおもむきを見るに、 ゆゑよしといひ、さまざまに口惜しからぬ際の心ばせあるべかめり。皆おのおの得たる方ありて、取るところなくもあらねど、また、取り立てて、わが後見に思ひ、まめまめしく選び 思はむには、ありがたきわざになむ。
 多くはありませんが、人の心の、あれこれとある様子を見ると、嗜み教養といい、それぞれにしっかりした程度の心得は持っているようです。皆それぞれ長所があって、取柄がないでもないが、かと言って、特別に、わが妻にと思って、真剣に選ぼうとすれば、なかなか見当たらないものです。
 私はそうたくさん女の人を知っているのではないが、とにかく私の知っている人で、生まれもよく、婦人としての見識も備わった人で、またそれぞれの長所を持った人でも、自分の娘を託しうる人をその中から選び出すのは困難です。
  Ohoku ha ara ne do, hito no kokoro no, to aru sama kakaru omomuki wo miru ni, yuwe yosi to ihi, sama-zama ni kutiwosi kara nu kiha no kokorobase aru beka' meri. Mina ono-ono e taru kata ari te, toru tokoro naku mo ara ne do, mata, toritate te, waga usiromi ni omohi, mame-mamesiku erabi omoha m ni ha, ari gataki waza ni nam.
12.6.8  ただまことに心の癖なくよきことは、 この対をのみなむ、これをぞおいらかなる人といふべかりける、となむ思ひはべる。 よしとて、またあまりひたたけて頼もしげなきも、いと口惜しや
 ただ本当に素直で良い人は、この対の上だけで、この人を穏やかな人と言うべきだ、と思います。身分の高い人と言っても、またあまりに締まりがなくて頼りなさそうなのも、まことに残念なことですよ」
 真に心の癖のないよい女性は対のお母様以外にありません。これこそ善良な女性というべきだと私は信じている。善良といっても単にお人よしの締まりのない人は頼みになりません」
  Tada makoto ni kokoro no kuse naku yoki koto ha, kono Tai wo nomi nam, kore wo zo oyiraka naru hito to ihu bekari keru, to nam omohi haberu. Yosi tote, mata amari hitatake te tanomosigenaki mo, ito kutiwosi ya!"
12.6.9  とばかりのたまふに、 かたへの人は思ひやられぬかし
 とだけおっしゃったが、もうお一方のことがきっと想像されたことだろう。
 とおしえておいでになるのを聞いていて、紫夫人の偉さが明石にうなずかれた。
  to bakari notamahu ni, katahe no hito ha omohi-yara re nu kasi.
注釈797これはまた具してたてまつるべきもの以下「はべらむ」まで、源氏の詞。入道の願文に一緒にして奉らねばならない自分の願文がある、の意。12.6.1
注釈798今はかく以下「口惜しくや」まで、源氏の詞。12.6.3
注釈799さるべき仲えさらぬ睦びよりも『集成』は「もともと親しかるべき夫婦の仲や、切っても切れない親子兄弟の親しみよりも」と訳す。12.6.3
注釈800横さまの人他人の意。12.6.3
注釈801さぶらひ馴れたまふを主語は明石御方。12.6.4
注釈802見る見るも初めの心ざし変はらず主語は紫の上。12.6.4
注釈803さも思ひ寄らず継母が内心悪意を抱いていると思わずの意。12.6.5
注釈804おぼろけの昔の世のあだならぬ人は『完訳』は「昔の、並々ならず実のある人は」「昔からの尋常ならぬ敵同士というのでなければ」と注す。12.6.6
注釈805多くはあらねど『完訳』は「わたしにはたくさんの経験があるというわけではないけれど」と訳す。12.6.7
注釈806ゆゑよしといひ『集成』は「たしなみといい教養といい」。『完訳』は「その性分といい才覚といい」と訳す。12.6.7
注釈807この対をのみ紫の上をさす。12.6.8
注釈808よしとてまたあまりひたたけて頼もしげなきもいと口惜しや『集成』は「(しかし)いくら人柄がよいといっても、またあまり締りがなく頼りないのも、残念なものです」。『完訳』は「いくら身分がよいといっても、またあまりしまりがなく頼りになりそうでないのも、まったく困ったものですよ」と訳す。暗に女三の宮のことをいう。12.6.8
注釈809かたへの人は思ひやられぬかし『一葉抄』は「草子の詞也」と指摘。語り手の言辞。「れ」可能の助動詞、連用形。「ぬ」完了の助動詞、強調。「かし」終助詞、念押しのニュアンス。明石御方には女三の宮のことがきっと思いやられたことだろうの意。『全集』は「語り手のことばであるが、ここにゆくりなくも女三の宮に言及されていることは、これまで長々と語られてきた明石一族の因縁の物語が、女三の宮の降嫁にはじまる現在の六条院物語の中に相対化されたことになる」と注す。12.6.9
校訂185 知らせ 知らせ--しらせむ(む/$) 12.6.1
校訂186 一言 一言--(/+ひと)こと 12.6.3
校訂187 ねむごろに ねむごろに--(/+ねむ)ころに 12.6.4
校訂188 けれと けれと--けれれ(れ<後出>/$)と 12.6.5
校訂189 かどかどしく かどかどしく--かと/\しき(き/$く) 12.6.6
校訂190 思はむには 思はむには--おも(も/+は)むには 12.6.7
12.7
第七段 明石御方、卑下す


12-7  Akashi fumbles herself

12.7.1  「 そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを、いとよし、睦び交はして、この御後見をも、同じ心にてものしたまへ」
 「あなたこそは、少し物の道理が分かっていらっしゃるようだから、ほんとうに結構なことで、仲好くし合って、この姫君のご後見を、心を合わせてなさって下さい」
 「あなただけはその訳もわかる人なのだから、仲よくしてこの方のお世話もいっしょにしてください」
  "Soko ni koso, sukosi mono no kokoro e te monosi tamahu meru wo, ito yosi, mutubi-kahasi te, kono ohom-usiromi wo mo, onazi kokoro ni te monosi tamahe."
12.7.2  など、 忍びやかにのたまふ。
 などと、声をひそめておっしゃる。
 とまた小声で明石へお言いになった。
  nado, sinobiyaka ni notamahu.
12.7.3  「 のたまはせねどいとありがたき御けしきを見たてまつるままに、明け暮れの言種に聞こえはべる。 めざましきものになど思しゆるさざらむに、かうまで御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたきまで数まへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。
 「仰せはなくとも、まことに有り難いご好意を拝見しておりまして、朝夕の口癖に感謝申し上げております。目障りな者だとお許しがなかったら、こんなにまでお見知りおき下さるはずもございませんのに、身の置き所もない程に人並みにお言葉をかけて下さるので、かえって面映ゆいくらいです。
 「ただ今まで仰せにはなりませんが女王様の御好意がよくわかるものでございますから、毎度そのことをお話しいたしております。私を失礼な女と思召おぼしめすのでございましたら、この方をこれほどにお愛しにもならないでございましょうが、自分で片腹痛く存じますまでに私を御同等な人のようにお扱いくださいますから、私は恐縮いたすばかりでございます。
  "Notamahase ne do, ito arigataki mi-kesiki wo mi tatematuru mama ni, akekure no kotogusa ni kikoye haberu. Mezamasiki mono ni nado obosi yurusa zara m ni, kau made go-ran-zi-siru beki ni mo ara nu wo, kataharaitaki made kazumahe notamaha sure ba, kaheri te ha mabayuku sahe nam.
12.7.4  数ならぬ身の、さすがに消えぬは、世の聞き耳も、いと苦しく、つつましく思うたまへらるるを、罪なきさまに、もて隠されたてまつりつつのみこそ」
 人数にも入らないわたしが、それでも生き永らえていますのは、世間の評判もいかがと、まことに苦しく、遠慮される思いが致しますが、お咎めもない様子に、いつもお庇いいただいているのでございます」
 何の価値もない私などがくなりもしませずいつまでも姫君のおそばにおりますのは、世間の聞こえもよろしくないことと御遠慮がされますのを、女王様の御好意でどうやら邪魔者らしくなくしていられます」
  Kazu nara nu mi no, sasuga ni kiye nu ha, yo no kiki-mimi mo, ito kurusiku, tutumasiku omou tamahe raruru wo, tumi naki sama ni, mote-kakusa re tatematuri tutu nomi koso."
12.7.5  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と明石が言うと、
  to kikoye tamahe ba,
12.7.6  「 その御ためには、何の心ざしかはあらむ。ただ、この御ありさまを、うち添ひてもえ見たてまつらぬおぼつかなさに、 譲りきこえらるるなめりそれもまた、とりもちて、掲焉になどあらぬ御もてなしどもに、よろづのことなのめに目やすくなれば、いとなむ思ひなくうれしき。
 「あなたのためには、特にご好意があるのではないでしょう。ただ、この姫君のご様子を始終付き添ってお世話申し上げられないのが心配で、お任せ申されるのでしょう。それもまた、一人で取り仕切って、特に目立つようにお振る舞いにならないので、何事も穏やかで体裁よく運ぶので、まことに嬉しく思っています。
 「あなたに尽くす心などはないだろうが、姫君を母として愛する心を今になって分けてもらいたいために譲るところがあるのでしょう。あなたもまた実母の権利を主張なさらないから双方の間が円満にいって、私はこれほど安心のできることはない。
  "Sono ohom-tame ni ha, nani no kokorozasi ka ha ara m? Tada, kono ohom-arisama wo, uti-sohi te mo e mi tatematura nu obotukanasa ni, yuduri kikoye raruru na' meri. Sore mo mata, tori moti te, ketien ni nado ara nu ohom-motenasi-domo ni, yorodu no koto nanome ni me-yasuku nare ba, ito nam omohi naku uresiku.
12.7.7  はかなきことにて、ものの心得ずひがひがしき人は、立ち交じらふにつけて、人のためさへからきことありかし。さ直しどころなく、誰もものしたまふめれば、心やすくなむ」
 ちょとしたことにつけても、物の道理の分からずひねくれた者は、人と交際するにつけて、相手まで迷惑を被ることがあるものです。そのような直さなければならない所が、どちらにもなくいらっしゃるようなので、安心です」
 ちょっとしたことにもあさはかな邪推などする人が一人でもあれば周囲の人は迷惑するものですからね。あなたがたには欠点がないから私は苦心をすることもない」
  Hakanaki koto ni te, mono no kokoro e zu higa-higasiki hito ha, tati-mazirahu ni tuke te, hito no tame sahe karaki koto ari kasi. Sa nahosi dokoro naku, tare mo monosi tamahe mere ba, kokoro-yasuku nam."
12.7.8  とのたまふにつけても、
 とおっしゃるにつけても、
 この院のお言葉を聞いて、
  to notamahu ni tuke te mo,
12.7.9  「 さりや、よくこそ卑下しにけれ
 「やっぱりだわ。よくここまで謙遜して来たこと」
 明石は謙遜けんそんをしてよかったと思った。
  "Sariya, yoku koso hige si ni kere!"
12.7.10  など、思ひ続けたまふ。対へ渡りたまひぬ。
 などと思い続けなさる。対の屋へお渡りになった。
 院は対のほうへお帰りになった。
  nado, omohi-tuduke tamahu. Tai he watari tamahi nu.
注釈810そこにこそ以下「ものしたまへ」まで、源氏の詞。12.7.1
注釈811のたまはせねど以下「もて隠されたてまつりつつのみこそ」まで、明石の詞。「のたまはせねど」の主語は源氏。12.7.3
注釈812いとありがたき御けしきを主語は紫の上。12.7.3
注釈813めざましきものに明石御方自身をさしていう。12.7.3
注釈814その御ためには以下「心やすくなむ」まで、源氏の詞。12.7.6
注釈815譲りきこえらるるなめり「きこえ」謙譲の補助動詞、受手の明石御方に対する敬意。「らるる」尊敬の助動詞、仕手の紫の上に対する敬意。「な」断定の助動詞、連体形、撥音便化の無表記、「めり」推量の助動詞、主観的推量のニュアンス、源氏の断定と推量。12.7.6
注釈816それもまたとりもちて掲焉に主語は明石御方。12.7.6
注釈817さりやよくこそ卑下しにけれ明石御方の心中。12.7.9
校訂191 忍びやかに 忍びやかに--しのひ(ひ/+や)かに 12.7.2
12.8
第八段 明石御方、宿世を思う


12-8  Akashi thinks the fate of Akashi's

12.8.1  「 さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな。げにはた、人よりことに、かくしも具したまへるありさまの、ことわりと見えたまへるこそめでたけれ。
 「ああして、たいそう大事になさるお気持ちが深まるばかりのようだこと。なるほどほんとに、人並み勝れて、こんなに何もかも揃っていらっしゃる様子で、無理もないとお見えになるのが立派ですわ。
 「ますます女王にょおう様に御愛情が傾くようですね。実際だれよりもすぐれた、あらゆるものを具足した方なのですから、ごもっともだとわれわれでさえ思うというのは幸福な方ですね。
  "Samo, ito yamgotonaki mi-kokorozasi nomi masaru meru kana! Geni hata, hito yori koto ni, kaku simo gu-si tamahe ru arisama no, kotowari to miye tamahe ru koso medetakere.
12.8.2  宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡りたまふことも、えなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。 同じ筋にはおはすれど今一際は心苦しく」
 宮の御方は、表向きのお扱いだけはご立派で、お渡りになるのも、そう十分でないらしいのは、恐れ多いことのようですわ。同じお血筋でいらっしゃるが、もう一段御身分が高いことだけにお気の毒で」
 宮様を表面だけりっぱなお扱いをなすっても、あちらにおいでになることが多いのですもの、もったいないことともいわれます。御身分から申しても宮様が一段上の方なのですもの」
  Miya-no-Ohomkata, uhabe no ohom-kasiduki nomi medetaku te, watari tamahu koto mo, e nanome nara za' meru ha, katazikenaki waza na' meri kasi. Onazi sudi ni ha ohasure do, ima hito-kiha ha kokoro-gurusiku."
12.8.3  としりうごちきこえたまふにつけても、わが宿世は、いとたけくぞ、おぼえたまひける。
 と陰口を申し上げなさるにつけても、自分の運命は、まことに大したものだと、思われなさるのであった。
 などと姫君に語りながらも、明石あかしはいささか自信を持つことができるのであった。それは姫君を持っていることにおいてである。
  to siriugoti kikoye tamahu ni tuke te mo, waga sukuse ha, ito takeku zo, oboye tamahi keru.
12.8.4  「 やむごとなきだに、思すさまにもあらざめる世に、まして立ちまじるべきおぼえにしあらねば、すべて今は、恨めしき節もなし。ただ、かの絶え籠もりにたる山住みを思ひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき」
 「高貴な方でさえ、思い通りにならないらしいご夫婦仲なのに、ましてお仲間入りできるような身分でもないのだから、何もかも今は、恨めしく思うことはない。ただ、あの世を捨てて籠もった深山生活を思いやるだけが悲しく心配だわ」
 高貴な方でさえ飽き足らぬ待遇を受けておいでになる夫人の中の一人で、薄い院の御愛情などをとやかく自分などは思うべきでないと、そのことではあきらめができていて、明石の心に悲しく思われるのは深い山へはいった父の入道のことだけであった。
  "Yamgotonaki dani, obosu sama ni mo ara za' meru yo ni, masite tati-maziru beki oboye ni si ara ne ba, subete ima ha, uramesiki husi mo nasi. Tada, kano taye komori ni taru yama-zumi wo omohi-yaru nomi zo, ahare ni obotukanaki."
12.8.5  尼君も、ただ、「 福地の園に種まきて」とやうなりし一言をうち頼みて、後の世を思ひやりつつ眺めゐたまへり。
 尼君も、ただ、「福地の園に種を蒔いて」といったような一言を頼みにして、後世の事を考え考え物思いに耽っていらっしゃった。
 尼君も終わりのふみに書かれた良人おっとの一言を頼みにして、未来の世を考えながらも物思わしくしていた。
  Ama-Gimi mo, tada, "Hukuti no sono ni tane maki te." to yau nari si hito-koto wo uti tanomi te, noti no yo wo omohi yari tutu nagame wi tamahe ri.
注釈818さもいとやむごとなき以下「心苦しく」まで、明石御方の詞。12.8.1
注釈819同じ筋にはおはすれど女三の宮と紫の上が同じ皇族、従姉妹どうしの間柄であることをいう。12.8.2
注釈820今一際は女三の宮が内親王で、紫の上が女王であることをいう。12.8.2
注釈821やむごとなき以下「おぼつかなき」まで、明石御方の心中。後半は地の文に融合。12.8.4
注釈822福地の園に種まきて仏典に基づく故事。『異本紫明抄』『河海抄』等が指摘するが、出典不明。12.8.5
出典39 福地の園に種まきて 耶輸陀羅が福地の園に種蒔きて逢はむ必ず有為の都に 出典未詳-奥入所引 12.8.5
Last updated 11/15/2001
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/10/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 11/15/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
門田裕志、小林繁雄(青空文庫)

2004年3月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月4日

Last updated 9/23/2002
Written in Japanese roman letters
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