34 若菜上(明融臨模本)


WAKANA-NO-ZYAU


光る源氏の准太上天皇時代
三十九歳暮から四十一歳三月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from the end of 39 to March the age of 41

10
第十章 明石の物語 男御子誕生


10  Tale of Akashi  A baby boy is born between Togu and Akashi-Hime

10.1
第一段 明石女御、産期近づく


10-1  It is near to be born a baby to Akashi-Hime

10.1.1   年返りぬ桐壷の御方近づきたまひぬるにより正月朔日より御修法不断にせさせたまふ。寺々、社々の御祈り、はた数も知らず。大殿の君、 ゆゆしきことを見たまへてしかば、かかるほどのこと、いと恐ろしきものに思ししみたるを、対の上などのさることしたまはぬは、口惜しくさうざうしきものから、うれしく思さるるに、 まだいとあえかなる御ほどに、いかにおはせむと、かねて思し騒ぐに、二月ばかりより、あやしく御けしき変はりて悩みたまふに、 御心ども騒ぐべし
 年が改まった。桐壷の御方の御出産が近づきなさったことによって、正月上旬から、御修法を不断におさせになる。多くの寺々、神社神社の御祈祷は、これまた数えきれないほどである。大殿の君は、不吉なことをご経験なさったことがあるので、このような時のことは、たいそう恐ろしいものと心底から思っていらっしゃるので、対の上などがそのようなことがおありでなかったのは、残念に物足りなく思うものの、一方では嬉しく思わずにはいらっしゃれないので、まだとてもお小さいお年頃なので、どんなことにおなりかと、前々からご心配であったが、二月ごろから、妙にご容態が変わってお苦しみなさるので、どなたもご心痛のようである。
 新年になった。六条院では淑景舎しげいしゃかたの産期が近づいたために不断の読経どきょうが元日から始められていた。諸社、諸寺でも数知れぬ祈祷きとうをさせておいでになるのである。院は昔のあおい夫人が出産のあとで死んだことで懲りておいでになって、恐ろしいものと子を産むことを感じておいでになり、紫夫人に出産のなかったことは物足らぬお気持ちもしながらまたうれしくお思われにもなるのであったから、まだ少女といってよいほどの身体からだで、その女の大厄たいやくを突破せねばならぬ御女おんむすめのことを、早くから御心配になっていたが、二月ごろからは寝ついてしまうほどにも苦しくなったふうであるのを院も女王にょおうも不安がられないはずもない。
  Tosi kaheri nu. Kiritubo-no-Ohomkata tikaduki tamahi nuru ni yori, Syaugwati tuitati yori, mi-syuhohu hudan ni se sase tamahu. Tera-dera, yasiro-yasiro no ohom-inori, hata kazu mo sira zu. Otodo-no-Kimi, yuyusiki koto wo mi tamahe te sika ba, kaakru hodo no koto, ito osorosiki mono ni obosi simi taru wo, Tai-no-Uhe nado no saru koto si tamaha nu wo, kutiwosiku sau-zausiki monokara, uresiku obosa ruru ni, mada ito ayeka naru ohom-hodo ni, ikani ohase m to, kanete obosi sawagu ni, Kisaragi bakari yori, ayasiku mi-kesiki kahari te nayami tamahu ni, mi-kokoro-domo sawagu besi.
10.1.2  陰陽師どもも、 所を変へてつつしみたまふべく申しければ、他のさし離れたらむはおぼつかなしとて、 かの明石の御町の中の対に渡したてまつりたまふ。 こなたは、ただおほきなる対二つ、廊どもなむめぐりてありけるに、御修法の壇隙なく塗りて、いみじき験者ども集ひて、ののしる。
 陰陽師たちも、お住まいを変えてお大事になさるのがよいと申したので、他のかけ離れた所は気がかりであると思って、あの明石の御町の中の対にお移し申し上げなさる。こちらは、ただ大きい対の屋が二棟だけあって、幾つもの渡廊などが周囲を廻っていたが、御修法の壇を隙間なく塗り固めて、たいそう霊験ある修験者たちが集まって、大声を上げて祈願する。
 陰陽師おんようじどもは場所を変えて謹慎をせねばならぬと進言するので、院外の離れた家へ移すのは気がかりに思召され、明石あかし夫人の北の町の一つの対の屋へ淑景舎の病室は移されることになった。こちらはただ大きい対の屋が二つと、そのほかは廊にしてめぐらせた座敷ばかりの建物であったから、廊座敷に祈祷の壇が幾つも築かれ、評判のよい祈祷僧は皆集められて祈っていた。
  Omyauzi-domo mo, tokoro wo kahe te tutusimi tamahu beku mausi kere ba, hoka no sasi-hanare tara m ha obotukanasi tote, kano Akasi no ohom-mati no naka-no-tai ni watasi tatematuri tamahu. Konata ha, tada ohoki naru tai hutatu, rau-domo nam meguri te ari keru ni, mi-syuhohu no dan hima naku nuri te, imiziki genzya-domo tudohi te, nonosiru.
10.1.3   母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば、いみじき心を尽くしたまふ。
 母君は、この時に自分の御運もはっきりするだろうことなので、たいそう気が気でない思いでいらっしゃる。
 明石夫人は桐壺きりつぼの方が平らかに出産されるか否かで自身の運命も決まることと信じていて、一所懸命な看護をしていた。
  Haha-Gimi, kono toki ni waga ohom-sukuse mo miyu beki waza na' mere ba, imiziki kokoro wo tukusi tamahu.
注釈618年返りぬ源氏四十一歳、紫の上三十三歳、女三の宮十五六歳、明石女御十三歳、柏木二十五六歳、夕霧二十歳。10.1.1
注釈619桐壷の御方近づきたまひぬるにより明石女御の出産が迫る。10.1.1
注釈620正月朔日より正月の上旬、初めころからの意。10.1.1
注釈621御修法不断にせさせたまふ『集成』は「真言密教の祈祷。安産祈願のためである」と注す。10.1.1
注釈622ゆゆしきことを見たまへてしかば葵の上が夕霧を出産して亡くなった例をさす。10.1.1
注釈623まだいとあえかなる御ほどに明石女御、十三歳。10.1.1
注釈624御心ども騒ぐべし『集成』は「草子地」と注す。10.1.1
注釈625所を変へてつつしみたまふべく陰陽師の詞を間接話法で語る。明石女御のいる場所を変えての意。10.1.2
注釈626かの明石の御町の中の対に六条院内の明石御方の町の中の対。第二番目の対。10.1.2
注釈627こなたはただおほきなる対二つ廊どもなむめぐりてありけるに明石の町は、普通の寝殿を中央に左右対の屋を配置する造りとは違って、大きな対の屋が二棟あり、それを渡廊で囲んでいる造りである。10.1.2
注釈628母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば『完訳』は「この出産で、わが運勢も証されるとする。女御の出産が無事か否か、また男子か女子か。明石一門が皇統と繋って繁栄するか否か」と注す。10.1.3
10.2
第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る


10-2  Grandmother talks about old days to Akashi-Hime

10.2.1   かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞありけむかしこの御ありさまを見たてまつるは、夢の心地して、いつしかと参り、近づき馴れたてまつる。
 あの大尼君も、今ではすっかりもうろくした人になったのであろう。このご様子を拝見するのは、夢のような心地がして、早速お側に上がり、親しくお付き添い申す。
 明石入道の尼夫人はもうぼけた老婆になっているはずである。姫君に接近のできることを夢のような幸福と思って、移って間もなくこの人がそばへ出てくるようになった。
  Kano Oho-Ama-Gimi mo, ima ha koyonaki hoke bito ni te zo ari kem kasi. Kono ohom-arisama wo mi tatematuru ha, yume no kokoti si te, itusika to mawiri, tikaduki nare tatematuru.
10.2.2   年ごろ、母君はかう添ひさぶらひたまへど、昔のことなど、まほにしも聞こえ知らせたまはざりけるを、この尼君、喜びにえ堪へで、参りては、いと涙がちに、古めかしきことどもを、わななき出でつつ語りきこゆ。
 今まで、この母君はこのようにお付き添いなさっていたが、昔のことなどは、まともにお聞かせ申し上げなかったが、この尼君、喜びを抑えることができず、参上しては、たいそう涙っぽく、大昔のことどもを震え声を出しては度々お話し申し上げる。
 もう幾年か明石夫人は姫君に付き添っているのであるが、桐壺の方の生まれてきた当時の事情などはまだ正確に話してなかった。それを老尼はうれしさのあまりに病室へ来ては涙まじりに、昔の話を身じまいをしながら姫君へ語るのであった。
  Tosi-goro, Haha-Gimi ha kau sohi saburahi tamahe do, mukasi no koto nado, maho ni simo kikoye sira se tamaha zari keru wo, kono Ama-Gimi, yorokobi ni e tahe de, mawiri te ha, ito namida-gati ni, hurumekasiki koto-domo wo, wananaki ide tutu katari kikoyu.
10.2.3  初めつ方は、 あやしくむつかしき人かなと、うちまもりたまひしかど、かかる人ありとばかりは、ほの聞きおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。
 初めのころは、妙にうるさい人だと、じっと顔を見つめていらっしゃったが、このような人がいるという程度には、うすうす聞いていらっしゃったので、やさしくお相手なさっていた。
 初めの間は無気味な老婆であると姫君は思って、顔ばかり見つめているのを常としたが、実母にそうした母親があるということは何かの時に聞いたこともあったのを思い出してからは好意を持つようになった。
  Hazime-tu-kata ha, ayasiku mutukasiki hito kana to, uti-mamori tamahi sika do, kakaru hito ari to bakari ha, hono-kiki-oki tamahere ba, natukasiku motenasi tamahe ri.
10.2.4  生まれたまひしほどのこと、大殿の 君のかの浦におはしましたりしありさま、
 お生まれになったころのこと、大殿の君があの浦にいらっしゃった様子、
 明石で生まれた時のこと、また院がその海岸へ移って来ておいでになったころの様子などを尼君は言う、
  Mumare tamahi si hodo no koto, Otodo-no-Kimi no kano ura ni ohasimasi tari si arisama,
10.2.5  「 今はとて 京へ上りたまひしに、誰も誰も、心を惑はして、今は限り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のかく引き助けたまへる御宿世の、いみじくかなしきこと」
 「もうお別れとばかり都へ上京なさった時、皆が皆、気が動転して、これが最後と、これだけの御縁であったのだと嘆いていましたが、若君がお生まれになってお助けくださった御運が、ほんとうに身にしみて感じられますこと」
 「京へお帰りになりました時、一家の者はこれで御縁が切れてしまうのかとひどく悲しんだものでございますがね、お生まれになったお姫様が暗い運命から私たちを救い上げてくだすったのでございますから、ありがたいことと御恩を思っております」
  "Ima ha tote kyau he nobori tamahi si ni, tare mo tare mo, kokoro wo madohasi te, ima ha kagiri, kabakari no tigiri ni koso ha ari kere to nageki si wo, Waka-Gimi no kaku hiki-tasuke tamahe ru ohom-sukuse no, imiziku kanasiki koto."
10.2.6  と、ほろほろと 泣けば
 とぼろぼろと涙をこぼして泣くので、
  はらはらと涙をこぼしている。
  to, horo-horo to nake ba,
10.2.7  「 げに、あはれなりける昔のことを、かく聞かせざらましかば、おぼつかなくても過ぎぬべかりけり」
 「なるほど、大変であった当時のことを、このように聞かせてくださらなかったら、知らずに過ごしてしまったにちがいないことだわ」
 そんな哀れな昔の話をこの尼さんが聞かせてくれなければ、自分はただ疑ってみるだけで、真相は何もわからずにしまったかもしれぬ
  "Geni, ahare nari keru mukasi no koto wo, kaku kika se zara masika ba, obotukanaku te mo sugi nu bekari keri."
10.2.8  と思して、うち 泣きたまふ。心のうちには、
 とお思いになって、涙をお漏らしになる。心の中では、
 と思って桐壺の方は泣いた。心のうちでは、
  to obosi te, uti-naki tamahu. Kokoro no uti ni ha,
10.2.9  「 わが身は、げにうけばりていみじかるべき際にはあらざりけるを、対の上の御もてなしに磨かれて、人の思へるさまなども、かたほにはあらぬなりけり。 人びとをばまたなきものに。 思ひ消ち、こよなき心おごりをばしつれ。世人は、下に言ひ出づるやうもありつらむかし」
 「わが身は、なるほど大きな顔をして栄華をきわめるような身分ではなかったのに、対の上のご養育のお蔭で立派になって、世間の人の思惑なども、悪くはなかったのだわ。傍輩の女御更衣たちをまったく問題にもせず、すっかり思い上がっていたものだわ。世間の人は、蔭で噂することもあったであろうよ」
 自分の身の上は決して欠け目ないものとは言えなかったのを、養母の夫人の愛にみがかれて十分な尊敬も受ける院の御女おんむすめともなりえたのである、思い上がった心で東宮の後宮に侍していても、他の人たちを自分に劣ったもののように見たりしてきたのは過失あやまりである、表面に出して言わないでも、世間の人は自分のその態度をそしったことであろう
  "Waga mi ha, geni ukebari te imizikaru beki kiha ni ha ara zari keru wo, Tai-no-Uhe no ohom-motenasi ni migaka re te, hito no omohe ru sama nado mo, kataho ni ha ara nu nari keri. Hito-bito wo ba mata naki mono ni omohi-keti, koyonaki kokoro-ogori wo ba si ture. Yo-hito ha, sita ni ihi-iduru yau mo ari tu ram kasi."
10.2.10  など思し知り果てぬ。
 などと、すっかりお分りになった。
 と反省もされるようになった。
  nado obosi-siri hate nu.
10.2.11  母君をば、もとよりかくすこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれたまひけむほどなどをば、さる世離れたる境にてなども知りたまはざりけり。 いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや
 母君を、もともとこのように少し身分が低い家柄とは知っていたが、お生まれになったときの状況などを、あのような都から遠く離れた田舎だなどとはご存知なかったのである。実にあまりにおっとりし過ぎていらっしゃるせいであろう。変に頼りないお話であったこと。
 実母は少し劣った家の出であるとは知っていても、生まれたのはそうした遠い田舎いなかの家であったなどとは思いも寄らぬことだったのである。おおように育てられ過ぎたせいだったかもしれぬが、自身の今まで知らぬとは不思議なことのように思われるのであった。
  Haha-Gimi wo ba, moto yori kaku sukosi oboye kudare ru sudi to siri nagara, umare tamahi kem hodo nado wo ba, saru yo-banare taru sakahi ni te nado mo siri tamaha zari keri. Ito amari ohodoki tamahe ru ke ni koso ha! Ayasiku obo-obosikari keru koto nari ya!
10.2.12  かの入道の、今は仙人の、世にも住まぬやうにてゐたなるを聞きたまふも、心苦しくなど、かたがたに思ひ乱れたまひぬ。
 あの入道が、今では仙人のように、とてもこの世ではないような暮らしぶりでいるとの話をお聞きになるにつけても、お気の毒ななどと、あれやこれやとお心をお痛めになった。
 祖父である入道が現在では人間離れのした仙人せんにんのような生活をしているということも若い心には悲しかった。
  Kano Nihudau no, ima ha sennin no, yo ni mo suma nu yau ni te wi ta' naru wo kiki tamahu mo, kokoro-gurusiku nado, kata-gata ni omohi midare tamahi nu.
注釈629かの大尼君も今はこよなきほけ人にてぞありけむかし『集成』は「今はすっかり老い呆けた人になってしまっていたことだろう。草子地」、句点で文を切る。『完訳』は「あの大尼君も、今はもうすっかり老いほうけた人になっていたのだろうか」「語り手の推測。大堰転居のころは思慮深い人だった。今は六十歳半ばの老耄の人」、読点で下文に掛けて読む。10.2.1
注釈630この御ありさまを見たてまつるは夢の心地して孫の明石姫君と別れて十年ぶりの再会である。「薄雲」巻に明石姫君三歳で二条院に引き取られた。10.2.1
注釈631年ごろ『完訳』は「長い間」「明石の君が女御に付き添うのは前年四月の女御入内以降。「年ごろ」はやや不審」と注す。昨年今年と二年にわたるので、「年ごろ」というのだろう。10.2.2
注釈632あやしくむつかしき人かな明石女御の感想。10.2.3
注釈633今はとて以下「いみじくかなしきこと」まで、尼君の詞。『集成』は「このあたりから、地の文より自然に会話の体に移っていく」と注す。10.2.5
注釈634げにあはれなりける昔のことを以下「過ぎぬべかりけり」まで、明石女御の心中。「げに」は尼君の言葉に納得する気持ち。『完訳』は「なるほどそういうことだったのかと、なんともいたわしく思われる当時のことを」と訳す。10.2.7
注釈635わが身はげにうけばりて以下「言ひ出づるやうもやありつらむかし」まで、明石女御の心中。10.2.9
注釈636いとあまりおほどきたまへるけにこそはあやしくおぼおぼしかりけることなりや『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「(それも)女御が、あまりおっとりしていらっしゃるせいだろう。変に頼りない話ですこと。草子地」。『完訳』は「おっとりしすぎておられるせいだろう、妙に頼りない話ではある。語り手の評言で、読者の非難を先取りし、逆に女御を擁護」と注す。10.2.11
校訂139 君の 君の--き(き/+み)の 10.2.4
校訂140 京へ 京へ--京(京/+へ) 10.2.5
校訂141 泣けば 泣けば--なき(き/$け)は 10.2.6
校訂142 泣き 泣き--なけ(け/$)き 10.2.8
校訂143 人びと 人びと--み(み/$人/\) 10.2.9
校訂144 思ひ消ち 思ひ消ち--おもひて(て/$)けち 10.2.9
10.3
第三段 明石御方、母尼君をたしなめる


10-3  Akashi reproves her mother for talking old times

10.3.1  いとものあはれに眺めておはするに、御方参りたまひて、 日中の御加持に、こなたかなたより参り集ひ、もの騒がしくののしるに、御前にこと人もさぶらはず、尼君、所得ていと近くさぶらひたまふ。
 たいそう物思いに沈んでいらっしゃるところに、御方がお上がりになって、日中の御加持に、あちらこちらから参まって来て、大声を立てて祈祷していたが、御前に特に女房たちも伺候していず、尼君、得意顔にたいそう身近にお付きしていらっしゃる。
 姫君がにわかにいろいろな物思いを胸に持って、寂しい顔をしている時に明石夫人が出て来た。昼の加持にあちらこちらから手つだいの者や僧が来て騒いでいるのを、この人は今まで監督していたのであるが、来てみると姫君のそばには他の者がいずに尼君だけが得意な気分を見せて近くにすわっていた。
  Ito mono-ahare ni nagame te ohasuru ni, Ohom-kata mawiri tamahi te, nittiu no ohom-kadi ni, konata-kanata yori mawiri tudohi, mono-sawagasiku nonosiru ni, o-mahe ni koto-bito mo saburaha zu, Ama-Gimi, tokoro e te ito tikaku saburahi tamahu.
10.3.2  「 あな、見苦しや。短き御几帳引き寄せてこそ、さぶらひたまはめ。風など騒がしくて、おのづからほころびの隙もあらむに。 医師などやうのさましていと盛り過ぎたまへりや
 「まあ、見苦しいこと。短い御几帳をお側に置いてこそ、お付きなさいませ。風などが強くて、自然と隙間もできましょうに。医師のようにして。ほんとうに盛りを過ぎていらっしゃること」
 「体裁が悪うございますよ。短い几帳きちょう身体からだをお隠しになってお付きしていらっしゃればいいのに、風が吹いていますからお座敷の外から人がのぞけば、あなたはお医者のような恰好かっこうでおそばに出ているのですから恥ずかしい。こんなふうにしておいでになってはね」
  "Ana mi-gurusi ya! Mizikaki mi-kityau hiki-yose te koso, saburahi tamaha me. Kaze nado sawagasiku te, onodukara hokorobi no hima mo ara m ni. Kususi nado yau no sama si te. Ito sakari sugi tamahe ri ya!"
10.3.3  など、なまかたはらいたく思ひたまへり。よしめきそして 振る舞ふと、おぼゆめれども、もうもうに耳もおぼおぼしかりければ、「ああ」と、傾きてゐたり。
 などと、はらはらしていらっしゃった。十分気を付けて振る舞っていると、思っているらしいけれども、老いぼれて耳もよく聞こえなかったので、「ああ」と、首をかしげていた。
 などと明石は片腹痛がっていた。品のよいとりなしでこうしているのであると尼君自身は信じているのであるが、もう耳もあまり聞こえなくて、娘の言葉も、「ああよろしいよ」などと言っていいかげんに聞いているのである。
  nado, nama-kataharaitaku omohi tamahe ri. Yosimeki sosi te hurumahu to, oboyu mere domo, mou-mou ni mimi mo obo-obosikari kere ba, "A a!" to, katabuki te wi tari.
10.3.4   さるは、いとさ言ふばかりにもあらずかし。六十五、六のほどなり。尼姿、いとかはらかに、 あてなるさまして、目艶やかに泣き腫れたるけしきの、あやしく昔思ひ出でたるさまなれば、胸うちつぶれて、
 実際、そう言うほどの年齢でもない。六十五、六歳ぐらいである。尼姿、たいそうこざっぱりと、気品がある様子で、目がきらきらと涙で泣きはらした様子が、妙に昔を思い出しているようなので、胸がどきりとして、
 六十五、六である。しゃんとした尼姿で上品ではあるが、目を赤く泣きはらしているのを見ては、古い時代、つまり源氏の君の明石の浜を去ったころによくこうであったことが思い出されて夫人ははっとした。
  Saruha, ito sa ihu bakari ni mo ara zu kasi. Roku-zihu go, roku no hodo nari. Ama-sugata, ito kaharaka ni, ate naru sama si te, me tuyayaka ni naki hare taru kesiki no, ayasiku mukasi omohi-ide taru sama nare ba, mune uti-tubure te,
10.3.5  「 古代のひが言どもや、はべりつらむ。よく、この世のほかなるやうなるひがおぼえどもにとり混ぜつつ、あやしき昔のことどもも出でまうで来つらむはや。夢の心地こそしはべれ」
 「古めかしいわけのわからないお話でも、ございましたのでしょう。よく、この世にはありそうもない記憶違いのことを交えては、妙な昔話もあれこれとお話し申し上げたことでしょうよ。夢のような心地がします」
 「間違いの多い昔話などを申していたのでしょう。怪しくなりました記憶から取り出します話には荒唐無稽こうとうむけいな夢のようなこともあるのでございますよ」
  "Kodai no higa-koto-domo ya, haberi tu ram. Yoku, kono yo no hoka naru yau naru higa oboye-domo ni tori-maze tutu, ayasiki mukasi no koto-domo mo ide maude ki tu ram ha ya! Yume no kokoti koso si habere."
10.3.6  と、 うちほほ笑みて見たてまつりたまへば、いとなまめかしくきよらにて、例よりもいたくしづまり、もの思したるさまに見えたまふ。 わが子ともおぼえたまはず、かたじけなきに
 と、ちょっと苦笑して拝見なさると、たいそう優雅でお美しくて、いつもよりひどく落ち着いていらして、物思いに沈んでいるようにお見えになる。自分が生んだ子ともお見えにならないほど、恐れ多い方なので、
 と、微笑を作りながら夫人のながめる姫君は、えんにきれいな顔をしていて、しかも平生よりはめいったふうが見えた。自身の子ながらももったいなく思われるこの人の心を、
  to, uti-hohowemi te mi tatematuri tamahe ba, ito namamekasiku kiyora ni te, rei yori mo itaku sidumari, mono obosi taru sama ni miye tamahu. Waga ko to mo oboye tamaha zu, katazikenaki ni,
10.3.7  「 いとほしきことどもを聞こえたまひて、思し乱るるにや。 今はかばかりと御位を極めたまはむ世に、聞こえも知らせむとこそ思へ、 口惜しく思し捨つべきにはあらねど、いといとほしく心劣りしたまふらむ」
 「お気の毒なことを申し上げなさったので、お悩みになっていらっしゃるのだろうか。もうこれ以上ない最高のお地位におつきになった時に、お話し申し上げようと思っていたのに、残念にも自信をおなくしになる程のことではないが、さぞやお気の毒にがっかりしていられることだろう」
 傷つけるような話を自身の母がして煩悶はんもんをしているのではないか、おきさきの位にもこの人の上る時を待って過去の真実を知らせようとしていたのであるが、現在はまだ若いこの人でも、昔話から母の自分をうとましく思うことはあるまいが、この人自身の悲観することにはなろう
  "Itohosiki koto-domo wo kikoye tamahi te, obosi midaruru ni ya? Ima ha kabakari to mi-kurawi wo kihame tamaha m yo ni, kikoye mo sira se m to koso omohe, kutiwosiku obosi-sutu beki ni ha ara ne do, ito itohosiku kokoro-otori si tamahu ram."
10.3.8  とおぼゆ。
 とご心配なさる。
 と明石夫人はあわれんだ。
  to oboyu.
注釈637日中の御加持に『完訳』は「以下「さぶらひたまふ」まで挿入句。女御と尼君の直接対面する場面を説明したもの」。10.3.1
注釈638あな見苦しや以下「いと盛り過ぎたまへりや」まで、明石御方の詞。10.3.2
注釈639医師などやうのさまして医師は貴人の御帳台の中にまで入れる。尼君が女御の側にいることを揶揄。10.3.2
注釈640いと盛り過ぎたまへりや『集成』は「ほんに盛りを過ぎていらっしゃる。老耄をやわらかくたしなめて言う」と注す。10.3.2
注釈641さるはいとさ言ふばかりにもあらずかし『休聞抄』は「双也」と指摘。『全集』は「草子地。滑稽な人物描写に続いて、逆に一言弁護に似たことばをはさむことは、この物語に他にも見える」と注す。10.3.4
注釈642古代のひが言どもや以下「夢の心地こそしはべれ」まで、明石御方の詞。10.3.5
注釈643うちほほ笑みて苦笑して、の意。10.3.6
注釈644わが子ともおぼえたまはずかたじけなきに自分が産んだ子ともお見えにならぬほどで。気高いさま。10.3.6
注釈645いとほしきことどもを以下「心劣りしたまふらむ」まで、明石御方の心中。立后の暁に素姓を明かそうと思っていた。10.3.7
注釈646今はかばかりと御位を極めたまはむ世に立后をさしていう。10.3.7
注釈647口惜しく思し捨つべきにはあらねど『集成』は「(実情をお知りになったからといって)むざむざと自信をおなくしになるほどのことでないが」と訳す。10.3.7
校訂145 振る舞ふと 振る舞ふと--ふるまふは(は/$と) 10.3.3
校訂146 あてなるさまして、目艶やかに あてなるさまして、目艶やかに--(/+あてなるさましてめつやゝかに) 10.3.4
10.4
第四段 明石女三代の和歌唱和


10-4  Akashis, her mother and her daughter and herself, compose waka

10.4.1  御加持果ててまかでぬるに、御くだものなど近くまかなひなし、「 こればかりをだに」と、いと心苦しげに 思ひて聞こえたまふ。
 御加持が終わって退出したので、果物など近くにさし上げ、「せめてこれだけでもお召し上がりください」と、たいそうおいたわしく思い申し上げなさる。
 加持が済んで僧たちの去ったあとで、夫人は近く寄って菓子などを勧め、「少しでも召し上がれ」と心苦しいふうに姫君を扱っていた。
  Ohom-kadi hate te makade nuru ni, ohom-kudamono nado tikaku makanahi-nasi, "Kore bakari wo dani." to, ito kokoro-gurusige ni omohi te kikoye tamahu.
10.4.2  尼君は、いとめでたううつくしう 見たてまつるままにも、涙はえとどめず。顔は笑みて、口つきなどは見苦しくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみ ゐたり
 尼君は、とても立派でかわいらしいと拝見するにつけても、涙を止めることができない。顔は笑って、口もとなどはみっともなく広がっているが、目のあたりは涙に濡れて、泣き顔していた。
 尼君はりっぱな美しい桐壺きりつぼの方に視線をやっては感激の涙を流していた。顔全体にみを作って、口は見苦しく大きくなっているが、目は流れ出す涙で悲しい相になっていた。
  Ama-Gimi ha, ito medetau utukusiu mi tatematuru mama ni mo, namida ha e todome zu. Kaho ha wemi te, kuti-tuki nado ha migurusiku hirogori tare do, mami no watari uti-sigure te, hisomi wi tari.
10.4.3  「 あな、かたはらいた
 「まあ、みっともない」
 困る
  "Ana! Kataharaita."
10.4.4  と、目くはすれど、聞きも入れず。
 と、目くばせするが、かまいつけない。
 というように明石は目くばせをするが、気のつかないふうをしている。
  to, me kuhasure do, kiki mo ire zu.
10.4.5  「 老の波かひある浦に立ち出でて
 「長生きした甲斐があると嬉し涙に泣いているからと言って
  「老いの波かひある浦に立ちいでて
    "Oyi no nami kahi aru ura ni tati-ide te
10.4.6   しほたるる海人を誰れかとがめむ
  誰が出家した老人のわたしを咎めたりしましょうか
  しほたるるあまをたれかとがめん
    siho taruru ama wo tare ka togame m
10.4.7   昔の世にも、かやうなる古人は、罪許されてなむはべりける」
 昔の時代にも、このような老人は、大目に見てもらえるものでございます」
 昔の聖代にも老齢者は罪されないことになっていたのでございますよ」
  Mukasi no yo ni mo, kayau naru huru-bito ha, tumi yurusa re te nam haberi keru."
10.4.8  と聞こゆ。 御硯なる紙に
 と申し上げる。御硯箱にある紙に、
 と尼君は言った。硯箱すずりばこに入れてあった紙に、
  to kikoyu. Ohom suzuri naru kami ni,
10.4.9  「 しほたるる海人を波路のしるべにて
 「泣いていらっしゃる尼君に道案内しいただいて
  しほたるるあまを波路のしるべにて
    "Siho taruru ama wo namidi no sirube ni te
10.4.10   尋ねも見ばや浜の苫屋を
  訪ねてみたいものです、生まれ故郷の浜辺を
  尋ねも見ばや浜の苫屋とまや
    tadune mo mi baya hama no tomaya wo
10.4.11  御方もえ忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。
 御方も我慢なされずに、つい泣いておしまいになった。
 こんな歌を姫君は書いた。明石も堪えがたくなって泣いた。
  Ohom-kata mo e sinobi tamaha de, uti-naki tamahi nu.
10.4.12  「 世を捨てて明石の浦に住む人も
 「出家して明石の浦に住んでいる父入道も
  世を捨てて明石の浦に住む人も
    "Yo wo sute te Akasi no ura ni sumu hito mo
10.4.13    心の闇ははるけしもせじ
  子を思う心の闇は晴れることもないでしょう
  心のやみは晴るけしもせじ
    kokoro no yami ha haruke simo se zi
10.4.14  など聞こえ、紛らはしたまふ。 別れけむ暁のことも、夢の中に思し出でられぬを、「口惜しくもありけるかな」と思す。
 などと申し上げて、涙をお隠しになる。別れたという暁のことを、少しも覚えていらっしゃらないのを、「残念なことだった」とお思いになる。
 などと言って、この場の悲しい空気の密度をより濃くすまいとした。姫君は祖父に別れた朝のことなどを、心には忘れていても、夢の中だけにも見たいのが見えぬのは残念であると思った。
  nado kikoye, magirahasi tamahu. Wakare kem akatuki no koto mo, yume no naka ni obosi-ide rare nu wo, "Kutiwosiku mo ari keru kana!" to obosu.
注釈648こればかりをだに明石御方の詞。果物をすすめる。10.4.1
注釈649見たてまつるままに『集成』は「拝するともうそれだけで」。『完訳』は「お思い申しあげるにつけても」と訳す。10.4.2
注釈650あなかたはらいた明石御方の心中。10.4.3
注釈651老の波かひある浦に立ち出でてしほたるる海人を誰れかとがめむ尼君の和歌。「貝」と「効」、「尼」と「海人」の掛詞。「波」「貝」「浦」「潮垂る」は「海人」の縁語。10.4.5
注釈652昔の世にも以下「罪許されてなむはべりけり」まで、和歌に続けた尼君の詞。『完訳』は「おきなさび人なとがめそかり衣今日ばかりぞと鶴も鳴くなる(伊勢物語百十四段)によるか」と注す。10.4.7
注釈653御硯なる紙に女御の硯箱の中にある紙にの意。敬語「御」があるので、女御の所有という意。「硯」は「硯箱」、「なる」は存在の意。10.4.8
注釈654しほたるる海人を波路のしるべにて尋ねも見ばや浜の苫屋を女御の歌。「しほたるる」「海人」「波」の語句を受けて、「訪ねて見ばや」と唱和する。10.4.9
注釈655世を捨てて明石の浦に住む人も心の闇ははるけしもせじ明石御方の歌。父明石入道を思いやる。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ路に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を踏まえる。10.4.12
注釈656別れけむ暁の過去推量の助動詞「けむ」伝聞のニュアンス、主語が明石女御ゆえである。10.4.14
出典33 心の闇 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 10.4.13
校訂147 思ひて 思ひて--思ひ(ひ/+て) 10.4.1
校訂148 ゐたり ゐたり--ゐたりし(し/$) 10.4.2
10.5
第五段 三月十日過ぎに男御子誕生


10-5  A baby boy is born at March 10 past

10.5.1   弥生の十余日のほどに、平らかに生まれたまひぬ。かねてはおどろおどろしく思し騷ぎしかど、いたく悩みたまふことなくて、男御子にさへおはすれば、限りなく思すさまにて、大殿も御心落ちゐたまひぬ。
 三月の十何日のころに、無事にお生まれになった。前々は仰々しく大騒ぎしていたのだが、ひどくお苦しみになることもなくて、男の御子でさえいらっしゃったので、際限もなく望みどおりだったので、大殿もご安心なさった。
 三月の十幾日に桐壺の方は安産した。その時まではあぶないことのようにして、多くの祈祷が神仏にささげられていたのであるが、たいした苦しみもなく、しかも男宮をお生みしたのであったから、この上の幸福もないようで院のお心も落ち着いた。
  Yayohi no towo-yo-ka no hodo ni, tahiraka ni mumare tamahi nu. Kanete ha odoro-odorosiku obosi-sawagi sika do, itaku nayami tamahu koto naku te, wotoko-miko ni sahe ohasure ba, kagirinaku obosu sama ni te, Otodo mo mi-kokoro oti-wi tamahi nu.
10.5.2   こなたは隠れの方にて、ただ気近きほどなるに、いかめしき御産養などのうちしきり、響きよそほしきありさま、 げに「かひある浦」と、尼君のためには見えたれど儀式なきやうなれば渡りたまひなむとす
 こちらは裏側に当たっていて、端近な所であるが、盛大な御産養などがひき続き、騷ぎの仰々しい様子は、なるほど「価値ある浦」と、尼君のためには見えたが、威儀も整わないようなので、お移りになることになる。
 こちらはかげの場所のようになっていた所で、ただ風流な座敷が幾つも作られてある建物では、いかめしい今後続いてあるはずの産養うぶやしないの式などに不便であって、老尼君のためにだけはうれしいことと見えても、外見へは不都合であるために、南の町へ産屋うぶやを移す計画ができていた。
  Konata ha kakure no kata ni te, tada kedikaki hodo naru ni, ikamesiki ohom-ubuyasinahi nado no uti-sikiri, hibiki yosohosiki arisama, geni "kahi aru ura" to, Ama-Gimi no tame ni ha miye tare do, gisiki naki yau nare ba, watari tamahi na m to su.
10.5.3   対の上も渡りたまへり。白き御装束したまひて、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知りたまはず、人の上にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱きとりたまへば、 まことの祖母君は、ただ任せたてまつりて、御湯殿の扱ひなどを仕うまつりたまふ。
 対の上もいらっしゃった。白い御装束をお着けになって、まるで親のようにして、若宮をしっかりと抱いていらっしゃる様子、たいそう素晴らしい。ご自身ではこのようなことはご経験もないし、他人のことでも御覧になったことがないので、とても珍しくかわいいとお思い申し上げていらっしゃった。まだお扱いにくそうでいらっしゃる時なのを、しじゅうお抱きになっていらっしゃるので、実の祖母君は、ただお任せ申して、お湯殿のお世話などをなさる。
 紫の女王にょおうも出て来た。白い服装をして母らしく若宮をお抱きしている姫君はかわいく見えた。紫夫人は自身に経験のないことであったし、他の人の場合にもこうした産屋などに立ち合ったことはなかったから、幼い宮を珍しくおかわいく思うふうが見えた。まだあぶないように思われるほどの小さい方を女王は始終手に抱いているので、ほんとうの祖母である明石あかし夫人は、養祖母に任せきりにして、産湯うぶゆ仕度したくなどにばかりかかっていた。
  Tai-no-Uhe mo watari tamahe ri. Siroki ohom-syauzoku si tamahi te, hito no oya-meki te, Waka-Miya wo tuto-idaki te wi tamahe ru sama, ito wokasi. Midukara kakaru koto siri tamaha zu, hito no uhe ni te mo mi narahi tamaha ne ba, ito meduraka ni utukusi to omohi kikoye tamahe ri. Mutukasige ni ohasuru hodo wo, tayezu idaki tori tamahe ba, makoto no Oba-Gimi ha, tada makase tatematuri te, ohom-yudono no atukahi nado wo tukau-maturi tamahu.
10.5.4   春宮の宣旨なる典侍ぞ仕うまつる御迎湯に、おりたちたまへるもいとあはれに、 うちうちのこともほの知りたるに、
 東宮の宣旨である典侍がお湯殿に奉仕する。御迎湯の役を、ご自身がなさるのも大変に胸をうつことで、内々の事情も少しは知っているので、  東宮宣下せんげの際の宣旨拝受の役を勤めた典侍ないしのすけがお湯をお使わせするのであった。迎え湯をたらいぎ入れる役を明石の勤めるのも気の毒で淑景舎しげいしゃの方の生母がこの人であることは知らないこともない東宮がたの女房たちは目をとめて、
  Touguu-no-senzi naru Naisi-no-Suke zo tukau-maturu. Ohom-mukahe-yu ni, oritati tamahe ru mo ito ahare ni, uti-uti no koto mo hono-siri taru ni,
10.5.5  「 すこしかたほならばいとほしからましを、あさましく気高く、げに、かかる契りことにものしたまひける人かな」
 「少しでも欠点があれば、お気の毒であったろうに、驚くほど気品があり、なるほど、このような前世からの約束事があったお方なのだわ」
 どこかに欠点でもある人なら当然のこととも思っておられようが、あまりに気高けだかい明石の姿はこの人たちに畏敬いけいの念を起こさせて、未来の天子の御外祖母たる因縁を身に備えて生まれた人に違いない
  "Sukosi kataho nara ba, itohosikara masi wo, asamasiku kedakaku, geni, kakaru tigiri koto ni monosi tamahi keru hito kana!"
10.5.6  と見きこゆ。 このほどの儀式なども、まねびたてむに、いとさらなりや。
 と拝見する。この時の儀式の様子などを、そっくりそのまま語り伝えるのも、まったく今さららしく思われるよ。
 というようなことも思わせた。お湯殿の式のくわしい記事は省略する。
  to mi kikoyu. Kono hodo no gisiki nado mo, manebi tate m ni, ito sara nari ya!
注釈657弥生の十余日のほどに平らかに生まれたまひぬ明石女御、三月十日過ぎに無事男御子を出産。10.5.1
注釈658こなたは隠れの方にて六条院の明石の町。『完訳』は「人目につかぬ裏側の御殿で」と訳す。10.5.2
注釈659げにかひある浦と尼君のためには見えたれど「げに」は語り手の納得する気持ちの表出。「かひ(貝・効)ある浦」は尼君の和歌中の言葉。10.5.2
注釈660儀式なきやうなれば『集成』は「(こんな所では)威儀も整わないようなので。表立たず、手狭だから」と注す。10.5.2
注釈661渡りたまひなむとす元の御殿の東南の町の寝殿へ。10.5.2
注釈662対の上も渡りたまへり紫の上も産屋にいらっしゃっていた、の意。10.5.3
注釈663まことの祖母君はただ任せたてまつりて御湯殿の扱ひなどを明石御方はお湯殿の世話をする。産湯をつかわせる儀式。朝夕七日間行う。10.5.3
注釈664春宮の宣旨なる典侍ぞ仕うまつる『完訳』は「産湯を使わせる主役は東宮の宣旨(女房。立太子の宣旨の取次による命名)。その介添である「迎湯」をつとめるのが明石の君。女房格に卑下する点に注意」と注す。10.5.4
注釈665すこしかたほならば以下「ものしたまひける人かな」まで、典侍の心中。10.5.5
注釈666いとほしからましを「まし」反実仮想の助動詞。「を」接続助詞、逆接の意。10.5.5
注釈667このほどの儀式なども以下、語り手の言辞。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『集成』は「省筆をことわる草子地」。『完訳』は「語り手の、産養の盛大さを読者の想像にゆだねようとする言辞」と注す。10.5.6
校訂149 御迎湯に 御迎湯に--御むかへゆ(ゆ/+に) 10.5.4
校訂150 うちうちの うちうちの--うち/\の△(△/#) 10.5.4
10.6
第六段 帝の七夜の産養


10-6  The birth ceremony is celebrated splendidy

10.6.1  六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ。 七日の夜、内裏よりも御産養のことあり
 六日目という日に、いつもの御殿にお移りになった。七日の夜に、内裏からも御産養がある。
 六日めに以前の南の町の御殿へ桐壺の方は移った。七日の夜には宮中からのお産養うぶやしないがあった。
  Mui-ka to ihu ni, rei no otodo ni watari tamahi nu. Nanu-ka no yo, Uti yori mo ohom-ubuyasinahi no koto ari.
10.6.2  朱雀院の、かく世を捨ておはします 御代はりにや、蔵人所より、頭弁、宣旨うけたまはりて、めづらかなるさまに仕うまつれり。禄の衣など、また中宮の御方よりも、公事にはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。次々の親王たち、大臣の家々、そのころのいとなみにて、われもわれもと、きよらを尽くして仕うまつりたまふ。
 朱雀院が、このように御出家あそばされいるお代わりであろうか、蔵人所から、頭弁が、宣旨を承って、例のないほど立派にご奉仕した。禄の衣装など、また中宮の御方からも、公事のきまり以上に、盛大におさせあそばす。次々の親王方、大臣の家々、その当時のもっぱらの仕事にして、われもわれもと、善美を尽くしてご奉仕なさる。
 朱雀すざく院が世捨て人の御境遇へおはいりになったために、そのお代わりにあそばされたことであったらしい。宮中から頭の弁が宣旨で来て、この日の派手はでな祝宴を管理した。纏頭てんとうの品々は中宮のお志で慣例以上の物が出された。親王がた、諸大臣家からもわれもわれもとはなやかな御祝い品の来るお産屋うぶやであった。
  Syuzyaku-Win no, kaku yo wo sute ohasimasu ohom-kahari ni ya, Kuraudo-dokoro yori, Tou-no-Ben, senzi uketamahari te, meduraka naru sama ni tukau-mature ri. Roku no koromo nado, mata Tyuuguu no ohom-kata yori mo, ohoyake-goto ni ha tati masari, ikamesiku se sase tamahu. Tugi-tugi no Miko-tati, Otodo no ihe-ihe, sono-koro no itonami ni te, ware mo ware mo to, kiyora wo tukusi te tukau-maturi tamahu.
10.6.3  大殿の君も、このほどのことどもは、例のやうにもこと削がせたまはで、世になく響きこちたきほどに、 うちうちのなまめかしくこまかなるみやびに、まねび伝ふべき節は、目も止まらずなりにけり。大殿の君も、若宮をほどなく抱きたてまつりたまひて、
 大殿の君も、この時の儀式はいつものように簡略になさらずに、世に例のないほど大仰な騷ぎで、内輪の優美で繊細な優雅さの、そのままお伝えしなければならない点は、目も止まらずに終わってしまったのであった。大殿の君も、若宮をすぐにお抱き申し上げなさって、
 この際の祝宴については、いつも華奢かしゃに流れることは遠慮したいとお言いになる院も、あまりお止めにはならなかったために、目もくらむほどのお産養の日が続き、ぼんやりとしていた筆者にその際の洗練された細かな物好みで製作されたおのおのの式の賀品などのことによく気がつかなかった。院は若宮をお抱きになって、
  Otodo-no-Kimi mo, kono hodo no koto-domo ha, rei no yau ni mo kotosoga se tamaha de, yo ni naku hibiki koti taki hodo ni, uti-uti no namamekasiku komaka naru miyabi ni, manebi tutahu beki husi ha, me mo tomara zu nari ni keri. Otodo-no-Kimi mo, Waka-Miya wo hodo naku idaki tatematuri tamahi te,
10.6.4  「 大将のあまたまうけたなるを、今まで見せぬがうらめしきに、かくらうたき人をぞ得たてまつりたる」
 「大将が大勢子供を儲けているそうだが、今まで見せないのが恨めしいが、このようにかわいらしい子をお授かり申したことよ」
 「大将が幾人も持った子を今まで見せないのを恨めしく思っていたが、こんなかわいい方が授かった」
  "Daisyau no amata mauke ta' naru wo, ima made mise nu ga uramesiki ni, kaku rautaki hito wo zo e tatematuri taru."
10.6.5  と、うつくしみきこえたまふは、 ことわりなりや
 と、おかわいがり申し上げなさるのは、無理もないことであるよ。
 と愛しておいでになるのはごもっともなことである。
  to, utukusimi kikoye tamahu ha, kotowari nari ya!
10.6.6  日々に、ものを引き伸ぶるやうにおよすけたまふ。御乳母など、心知らぬはとみに召さで、さぶらふ中に、品、心すぐれたる限りを選りて、仕うまつらせたまふ。
 日に日に、物を引き伸ばすようご成長なさっていく。御乳母など、気心の知れないのは急いでお召しにならず、伺候している者の中から、家柄、嗜みのある人ばかりを選んで、お仕えさせなさる。
 毎日物が引き伸ばされるように若宮は大きくおなりになるのであった。乳母めのとなどは新しい人をお見つけになることは当分されずに、これまでの六条院の女房の中から、身柄も性質もよい人ばかりを選んでお付けになった。
  Hi-bi ni, mono wo hiki noburu yau ni oyosuke tamahu. Ohom-menoto nado, kokoro-sira nu ha tomi ni mesa de, saburahu naka ni, sina kokoro sugure taru kagiri wo eri te, tukau-matura se tamahu.
注釈668七日の夜内裏よりも御産養のことあり七夜の日、帝主催の産養の儀式が行われる。10.6.1
注釈669御代はりにや「にや」連語、語り手の推測の言辞を挿入。10.6.2
注釈670うちうちのなまめかしくこまかなるみやびにまねび伝ふべき節は目も止まらずなりにけり『一葉抄』は「記者詞なり」と指摘。『集成』は「お内輪同士の優雅で繊細な風雅の趣の、詳しくお伝えすべき点は、目も引かれずに終ってしまった。贈り物や歌のやりとりである。語り手の言葉をそのまま伝える草子地」。『完訳』は「以下、語り手の、目もとまらぬうちに終ったとする省筆の弁」と注す。10.6.3
注釈671大将のあまたまうけたなるを以下「えたてまつりたる」まで源氏の詞。夕霧が雲居雁と結婚したのは二年前の「藤裏葉」巻である。したがって、ここには藤典侍との間に産まれた子も含まれていよう。10.6.4
注釈672ことわりなりや語り手の言辞。10.6.5
10.7
第七段 紫の上と明石御方の仲


10-7  Murasaki and Akashi are friendly

10.7.1  御方の御心おきての、らうらうじく気高く、おほどかなるものの、さるべき方には卑下して、憎らかにもうけばらぬなどを、褒めぬ人なし。
 御方のお心構えが、気が利いていて気品があって、おっとりしているものの、しかるべき時には謙遜して、小憎らしくわがもの顔に振る舞ったりしないことなどを、誉めない人はいない。
 明石夫人が聡明そうめいで、気高けだかい、おおような心を持っていながら、ある場合に卑下することを忘れずに、自身が表に出ようとすることのない態度のとれることについてはほめない人はなかった。
  Ohom-kata no mi-kokoro-okite no, rau-rauziku kedakaku, ohodoka naru mono no, saru-beki kata ni ha hige si te, nikuraka ni mo ukebara nu nado wo, home nu hito nasi.
10.7.2  対の上は、まほならねど、見え交はしたまひて、 さばかり許しなく思したりしかど、今は、宮の御徳に、いと睦ましく、やむごとなく思しなりにたり。稚児うつくしみたまふ御心にて、天児など、御手づから作りそそくりおはするも、いと若々し。明け暮れこの御かしづきにて過ぐしたまふ。
 対の上は、改まった形というのではないが、時々お会いなさって、あれほど許せないと思っていらっしゃったが、今では、若宮のお蔭で、たいそう仲好く、大切な方と思うようにおなりになっていた。子供をおかわいがりになるご性格で、天児などを、ご自身でお作りになり忙しそうにしていらっしゃるのも、たいそう若々しい。毎日このお世話で日を暮していらっしゃる。
 紫夫人は顔をあらわに見せて話すようなことは今までこの人となかったのであるが、今度はよくむつまじく話して、過去においては長く僭越せんえつな競争者であると見ていた人に好意を持ちうるようになり、若宮を愛する気持ちの交流があたたかい友情までも覚えさすことになった。女王にょおうは子供好きであったから、天児あまがつの人形などを自身で縫ったりしている時はことさら若々しく見えた。日夜を若宮のために心をつかう紫夫人であった。
  Tai-no-Uhe ha, maho nara ne do, miye kahasi tamahi te, sabakari yurusi naku obosi tari sika do, ima ha, Miya no ohom-toku ni, ito mutumasiku, yamgotonaku obosi nari ni tari. Tigo utukusimi tamahu mi-kokoro ni te, amagatu nado, ohom-tedukara tukuri sosokuri ohasuru mo, ito waka-wakasi. Akekure kono ohom-kasiduki ni te sugusi tamahu.
10.7.3  かの古代の尼君は、若宮をえ心のどかに見たてまつらぬなむ、飽かずおぼえける。なかなか見たてまつり初めて、恋ひきこゆるにぞ、 命もえ堪ふまじかめる
 あの年寄の尼君は、若君をゆっくりと拝見できないことを、残念に思っているのであった。なまじ拝見したために、またお目にかかりたく思って、死ぬほど切ない思いをしているようである。
 明石の老尼は、若宮を満足できるほど拝見することのできないのを残念に思っていた。しかしそれがかえって幸いであったかもしれぬ、なおしばらくでもそばでお愛し申し上げるような時間が許されたものであれば、あとの恋しい思いで尼は死んだかもしれないから。
  Kano kodai no Ama-Gimi ha, Waka-Miya wo e kokoro nodoka ni mi tatematura nu nam, akazu oboye keru. Naka-naka mi tatematuri some te, kohi kikoyuru ni zo, inoti mo e tahu mazika' meru.
注釈673さばかり許しなく思したりしかど紫の上が明石御方に対して嫉妬心を抱いた場面は、「澪標」「松風」「薄雲」「玉鬘」等に見られる。10.7.2
注釈674命もえ堪ふまじかめる『集成』は「せつない思いに、命も堪えられぬ様子である。今にも死にそうだと、滑稽化していう」。『完訳』は「命をちぢめかねぬばかりである」と訳す。「ぞ」--「める」係結びの構文。推量の助動詞「めり」主観的推量のニュアンスは語り手の推測。10.7.3
Last updated 11/15/2001
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/10/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-3)
Last updated 11/15/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
門田裕志、小林繁雄(青空文庫)

2004年3月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月4日

Last updated 9/23/2002
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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