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31 真木柱(大島本)
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MAKIBASIRA
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光る源氏の太政大臣時代 三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, from October at the age of 37 to November at the age of 38
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2 |
第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
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2 Tale of Higekuro's Kitanokata pours ashes to Higekuro
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2.1 |
第一段 鬚黒の北の方の嘆き
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2-1 Higekuro's wife grieved over her husband's fickleness
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2.1.1 |
内裏へ参りたまはむことを、やすからぬことに大将思せど、 そのついでにや、 まかでさせたてまつらむの御心つきたまひて、ただあからさまのほどを 許しきこえたまふ。かく 忍び隠ろへたまふ御ふるまひも、 ならひたまはぬ心地に苦しければ、わが殿のうち修理ししつらひて、年ごろは荒らし埋もれ、うち捨てたまへりつる御しつらひ、よろづの 儀式を改めいそぎたまふ。
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宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
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Uti he mawiri tamaha m koto wo, yasukara nu koto ni Daisyau obose do, sono tuide ni ya, makade sase tatematura m no mi-kokoro tuki tamahi te, tada akarasama no hodo wo yurusi kikoye tamahu. Kaku sinobi kakurohe tamahu ohom-hurumahi mo, narahi tamaha nu kokoti ni kurusikere ba, waga tono no uti syuri-si siturahi te, tosi-goro ha arasi udumore, uti-sute tamahe ri turu ohom-siturahi, yorodu no gisiki wo aratame isogi tamahu.
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2.1.2 |
北の方の思し嘆くらむ御心も知りたまはず、かなしうしたまひし君達をも、目にもとめたまはず、 なよびかに情け情けしき心うちまじりたる人こそ、とざまかうざまにつけても、人のため恥がましからむことをば、推し量り思ふところもありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心にて、人の御心動きぬべきこと多かり。
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北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
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Kitanokata no obosi nageku ram mi-kokoro mo siri tamaha zu, kanasiu si tamahi si Kimi-tati wo mo, me ni mo tome tamaha zu, nayobika ni nasake-nasakesiki kokoro uti-maziri taru hito koso, to-zama kau-zama ni tuke te mo, hito no tame hadi-gamasikara m koto woba osihakari omohu tokoro mo ari kere, hita-omomuki ni sukumi tamahe ru mi-kokoro ni te, hito no mi-kokoro ugoki nu beki koto ohokari.
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2.1.3 |
女君、人に劣りたまふべきことなし。人の御本性も、さるやむごとなき父親王の、いみじうかしづきたてまつりたまへるおぼえ、世に軽からず、御容貌なども、いとようおはしけるを、あやしう、執念き御もののけにわづらひたまひて、この年ごろ、人にも似たまはず、うつし心なき折々多くものしたまひて、御仲もあくがれてほど経にけれど、やむごとなきものとは、 また並ぶ人なく思ひきこえたまへるを、めづらしう御心移る方の、なのめにだにあらず、 人にすぐれたまへる御ありさまよりも、かの疑ひおきて、皆人の 推し量りしことさへ、心きよくて 過ぐいたまひけるなどを、 ありがたうあはれと、思ひましきこえたまふも、 ことわりになむ。
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女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
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Womna-Gimi, hito ni otori tamahu beki koto nasi. Hito no go-honzyau mo, saru yamgotonaki titi-Miko no, imiziu kasiduki tatematuri tamahe ru oboye, yo ni karokara zu, ohom-katati nado mo, ito you ohasi keru wo, ayasiu, sihuneki ohom-mononoke ni wadurahi tamahi te, kono tosi-goro, hito ni mo ni tamaha zu, utusi-gokoro naki wori-wori ohoku monosi tamahi te, ohom-naka mo akugare te hodo he ni kere do, yamgotonaki mono to ha, mata narabu hito naku omohi kikoye tamahe ru wo, medurasiu mi-kokoro uturu kata no, nanome ni dani ara zu, hito ni sugure tamahe ru ohom-arisama yori mo, kano utagahi oki te, mina-hito no osihakari si koto sahe, kokoro-kiyoku te sugui tamahi keru nado wo, arigatau ahare to, omohi-masi kikoye tamahu mo, kotowari ni nam.
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2.1.4 |
式部卿宮聞こし召して、
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式部卿宮がお聞きになって、
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Sikibukyau-no-Miya kikosimesi te,
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2.1.5 |
「 今は、しか今めかしき人を渡して、もてかしづかむ片隅に、人悪ろくて添ひものしたまはむも、人聞きやさしかる べし。おのがあらむこなたは、いと人笑へなるさまに 従ひなびかでも、ものしたまひなむ」
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「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
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"Ima ha, sika imamekasiki hito wo watasi te, mote-kasiduka m katasumi ni, hito-waroku te sohi monosi tamaha m mo, hito-giki yasasikaru besi. Onoga ara m konata ha, ito hito-warahe naru sama ni sitagahi nabika de mo, monosi tamahi na m."
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2.1.6 |
とのたまひて、宮の東の対を払ひしつらひて、「渡したてまつらむ」と思しのたまふを、「 親の御あたりといひながら、 今は限りの身にて、たち返り見えたてまつらむこと」と、思ひ乱れたまふに、いとど御心地もあやまりて、うちはへ臥しわづらひたまふ。
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とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
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to notamahi te, Miya no himgasi-no-tai wo harahi siturahi te, "Watasi tatematura m." to obosi notamahu wo, "Oya no ohom-atari to ihi nagara, ima ha kagiri no mi ni te, tati-kaheri miye tatematura m koto." to, omohi midare tamahu ni, itodo mi-kokoti mo ayamari te, uti-hahe husi wadurahi tamahu.
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2.1.7 |
本性は、いと静かに心よく、子めきたまへる人の、 時々、心あやまりして、人に疎まれぬべきことなむ、うち混じりたまひける。
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生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。
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Honzyau ha, ito siduka ni kokoro-yoku, komeki tamahe ru hito no, toki-doki, kokoro-ayamari si te, hito ni utoma re nu beki koto nam, uti-maziri tamahi keru.
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2.2 |
第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)
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2-2 Higekuro gives comfort to his wife(1)
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2.2.1 |
住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋れいたくもてなしたまへるを、 玉を磨ける目移しに、心もとまらねど、年ごろの心ざしひき替ふるものならねば、心には、いとあはれと思ひきこえたまふ。
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お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
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Sumahi nado no, ayasiu sidokenaku, mono no kiyora mo naku yatusi te, ito mumore itaku motenasi tamahe ru wo, tama wo migake ru me utusi ni, kokoro mo tomara ne do, tosi-goro no kokorozasi hiki-kahuru mono nara ne ba, kokoro ni ha, ito ahare to omohi kikoye tamahu.
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2.2.2 |
「 昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、 よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ。いと身も苦しげにもてなし たまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ。
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「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
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"Kinohu kehu no, ito asahaka naru hito no ohom-nakarahi dani, yorosiki kiha nare ba, mina omohi nodomuru kata ari te koso mi-hatu nare. Ito mi mo kurusige ni motenasi tamahi ture ba, kikoyu beki koto mo uti-ide kikoye nikuku nam.
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2.2.3 |
年ごろ契りきこゆることにはあらずや。 世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心おきてに、思し疎むな。
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長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
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Tosi-goro tigiri kikoyuru koto ni ha ara zu ya? Yo no hito ni mo ni nu ohom-arisama wo, mi tatematuri-hate m koso ha, kokora omohi-sidume tutu sugusi kuru ni, e sasimo ari hatu maziki mi-kokoro-okite ni, obosi utomu na.
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2.2.4 |
幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。ひとわたり見果てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし御覧じ果てめ。
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幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
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Wosanaki hito-bito mo habere ba, tozama-kauzama ni tuke te, oroka ni ha ara zi to kikoye wataru wo, womna no mi-kokoro no midari-gahasiki mama ni, kaku urami watari tamhu. Hito-watari mi-hate tamaha nu hodo, samo ari nu beki koto nare do, makase te koso, ima sibasi go-ran-zi hate me.
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2.2.5 |
宮の聞こし召し疎みて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなむ、かへりていと軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」
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式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
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Miya no kikosimesi utomi te, sahayaka ni huto watasi tatematuri te m to obosi notamahu nam, kaherite ito karu-garusiki. Makoto ni obosi-oki turu koto ni ya ara m, sibasi kauzi si tamahu beki ni ya ara m."
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2.2.6 |
と、 うち笑ひてのたまへる、 いとねたげに心やまし。
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と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。
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to, uti-warahi te notamahe ru, ito netage ni kokoro-yamasi.
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2.3 |
第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)
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2-3 Higekuro gives comfort to his wife(2)
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2.3.1 |
御召人だちて、仕うまつり馴れたる 木工の君、中将の御許などいふ 人びとだに、ほどにつけつつ、「やすからずつらし」と思ひきこえたるを、北の方は、うつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。
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殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
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Ohom-mesiudo-dati te tukaumaturi nare taru Moku-no-Kimi, Tyuuzyau-no-Omoto nado ihu hito-bito dani, hodo ni tuke tutu, "Yasukara zu turasi." to omohi kikoye taru wo, Kitanokata ha, utusi-gokoro monosi tamahu hodo nite, ito natukasiu uti-naki te wi tamahe ri.
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2.3.2 |
「 ▼ みづからを、ほけたり、ひがひがし、とのたまひ、恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。 宮の御ことをさへ取り混ぜのたまふぞ、 漏り聞きたまはむはいとほしう、憂き身のゆかり 軽々しきやうなる。 耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」
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「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
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"Midukara wo, hoke tari, higa-higasi, to notamahi, hadi simuru ha, kotowari naru koto ni nam. Miya no ohom-koto wo sahe tori-maze notamahu zo, mori kiki tamaha m ha itohosiu, uki-mi no yukari karu-garusiki yau naru. Mimi-nare ni te habere ba, ima hazime te ikani mo mono wo omohi habera zu."
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2.3.3 |
とて、うち背きたまへる、 らうたげなり。
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と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
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tote, uti-somuki tamahe ru, rautage nari.
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2.3.4 |
いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せ衰へ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、わけたるやうに落ち細りて、削ることもをさをさしたまはず、涙にまつはれたるは、 いとあはれなり。
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たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
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Ito sasayaka naru hito no, tune no ohom-nayami ni yase otorohe, hihadu ni te, kami ito keura ni te nagakari keru ga, wake taru yau ni oti hosori te, keduru koto mo wosa-wosa si tamaha zu, namida ni matuhare taru ha, ito ahare nari.
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2.3.5 |
こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる 容貌したまへるを、もてやつしたまへれば、 いづこのはなやかなるけはひかはあらむ。
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つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
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Komaka ni nihohe ru tokoro ha naku te, Titi-Miya ni ni tatematuri te, namamei taru katati si tamahe ru wo, mote-yatusi tamahe re ba, iduko no hanayaka naru kehahi ka ha ara m.
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2.3.6 |
「 宮の御ことを、 軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
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「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
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"Miya no ohom-koto wo, karoku ha ikaga kikoyuru. Osorosiu, hito-giki kataha ni na notamahi nasi so." to kosirahe te,
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2.3.7 |
「 かの通ひはべる所の、いとまばゆき 玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに 人目たつらむと、かたはらいたければ、 心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。
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「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
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"Kano kayohi haberu tokoro no, ito mabayuki tama no utena ni, uhi-uhisiu, kisuku naru sama ni te ide iru hodo mo, kata-gata ni hitome tatu ram to, katahara-itakere ba, kokoro-yasuku uturohasi te m to omohi haberu nari.
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2.3.8 |
太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、 憎げなること漏り聞こえば、 いとなむいとほしう、かたじけなかるべき。
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太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
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Ohoki-Otodo no, saru yo ni taguhi naki ohom-oboye wo ba, sara ni mo kikoye zu, kokoro-hadukasiu, itari hukau ohasu meru ohom-atari ni, nikuge naru koto mori-kikoye ba, ito nam itohosiu, katazikenakaru beki.
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2.3.9 |
なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、 世の聞こえ人笑へに、 まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」
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穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
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Nadaraka ni te, ohom-naka yoku te, katarahi te monosi tamahe. Miya ni watari tamahe ri tomo, wasururu koto ha habera zi. Totemo-kautemo, imasara ni kokorozasi no hedataru koto ha aru mazikere do, yo no kikoye hito-warahe ni, maro ga tame ni mo karo-garosiu nam haberu beki wo, tosi-goro no tigiri tagahe zu, katamini usiromi m to, obose."
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2.3.10 |
と、こしらへ聞こえたまへば、
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と、とりなし申し上げなさると、
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to, kosirahe kikoye tamahe ba,
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2.3.11 |
「 人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。 世の人にも似ぬ身の憂きをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へなることと、御心を 乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらむ、となむ。
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「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
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"Hito no ohom-turasa ha, tomo-kakumo siri kikoye zu. Yo no hito ni mo ni nu mi no uki wo nam, Miaya ni mo obosi nageki te, imasara ni hito warahe naru koto to, mi-kokoro wo midari tamahu nare ba, itohosiu, ikadeka miye tatematura m, to nam.
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2.3.12 |
大殿の北の方と聞こゆるも、 異人にやはものしたまふ。 かれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世に、かく人の 親だちもてないたまふつらさをなむ、 思ほしのたまふなれど、 ここにはともかくも思はずや。 もてないたまはむさまを見るばかり」
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大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。なさりよう見ているばかりです」
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Oho-tono no Kita-no-kata to kikoyuru mo, koto-bito ni ya ha monosi tamahu. Kare ha, sira nu sama ni te ohi-ide tamahe ru hito no, suwe no yo ni, kaku hito no oya-dati motenai tamahu turasa wo nam, omohosi notamahu nare do, koko ni ha tomo-kaku mo omoha zu ya! Motenai tamaha m sama wo miru bakari."
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2.3.13 |
とのたまへば、
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とおっしゃるので、
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to notamahe ba,
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2.3.14 |
「 いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出で来む。 大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。いつき女のやうにてものしたまへば、 かく思ひ落とされたる人の上 までは 知りたまひなむや。人の御親げなくこそ ものしたまふべかめれ。 かかることの聞こえあらば、いとど苦しかるべきこと」
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「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。大殿の北の方がご存知になることでもございません。箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。あの人の親らしくなくおいでのようです。このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
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"Ito you notamahu wo, rei no mi-kokoro-tagahi ni ya, kurusiki koto mo ide-ko m. Oho-tono no Kitanokata no siri tamahu koto ni mo habera zu. Ituki musume no yau ni te monosi tamahe ba, kaku omohi-otosa re taru hito no uhe made ha siri tamahi na m ya? Hito no ohom-oyage naku koso monosi tamahu beka' mere. Kakaru koto no kikoye ara ba, itodo kurusikaru beki koto."
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2.3.15 |
など、日一日 入りゐて、語らひ申したまふ。
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などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。
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nado, hi-hito-hi iri wi te, katarahi mausi tamahu.
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2.4 |
第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする
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2-4 Higekuro wants to go to Tamakazura
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2.4.1 |
暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、 雪かきたれて降る。 かかる空にふり出でむも、 人目いとほしう、この御 けしきも、憎げに ふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも 迎へ火つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむ、と思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近ううち眺めてゐたまへり。
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日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
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Kure nure ba, kokoro mo sora ni uki-tati te, ikade ide nam to omohosu ni, yuki kaki-tare te huru. Kakaru sora ni huri-ide m mo, hito-me itohosiu, kono mi-kesiki mo, nikuge ni husube urami nado si tamaha ba, naka-naka kototuke te, ware mo mukahebi tukuri te aru beki wo, ito oiraka ni, turenau motenasi tamahe ru sama no, ito kokoro-kurusikere ba, ikani se m, to omohi midare tutu, kausi nado mo sanagara, hasi tikau uti-nagame te wi tamahe ri.
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2.4.2 |
北の方けしきを見て、
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北の方がその様子を見て、
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Kitanokata kesiki wo mi te,
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2.4.3 |
「 あやにくなめる雪を、いかで分けたまはむとすらむ。夜も更けぬめりや」
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「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。夜も更けたようですわ」
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"Ayaniku na' meru yuki wo, ika de wake tamaha m to su ram. Yo mo huke nu meri ya?"
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2.4.4 |
とそそのかしたまふ。「 今は限り、とどむとも」と思ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
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とお促しになる。「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
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to sosonokasi tamahu. "Ima ha kagiri, todomu to mo." to omohi-megurasi tamahe ru kesiki, ito ahare nari.
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2.4.5 |
「 かかるには、いかでか」
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「このような雪では、どうして出かけられようか」
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"Kakaru ni ha, ikade ka."
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2.4.6 |
とのたまふものから、
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とおっしゃる一方で、
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to notamahu monokara,
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2.4.7 |
「 なほ、このころばかり。心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、 大臣たちも、左右に聞き思さむことを憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。思ひしづめて、なほ見果てたまへ。ここになど渡しては、心やすくはべりなむ。かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる」
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「やはり、ここ当分の間だけは。わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
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"Naho, kono-koro bakari. Kokoro no hodo wo sira de, tokaku hito no ihi-nasi, Otodo-tati mo, hidari migi ni kiki obosa m koto wo habakari te nam, todaye ara m ha itohosiki. Omohi-sidume te, naho mi-hate tamahe. Koko ni nado watasi te ha, kokoro-yasuku haberi na m. Kaku yo no tune naru mi-kesiki miye tamahu toki ha, hoka-zama ni wakuru kokoro mo use te nam, ahare ni omohi kikoyuru."
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2.4.8 |
など、語らひたまへば、
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などと、お慰めなさると、
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nado, katarahi tamahe ba,
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2.4.9 |
「 立ちとまりたまひても、御心のほかならむは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだにおこせたまはば、 ▼ 袖の氷も 解けなむかし」
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「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
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"Tati-tomari tamahi te mo, mi-kokoro no hoka nara m ha, naka-naka kurusiu koso aru bekere. Yoso ni te mo, omohi dani okose tamaha ba, sode no kohori mo toke na m kasi."
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2.4.10 |
など、なごやかに言ひゐたまへり。
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などと、穏やかにおっしゃっていられる。
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nado, nagoyaka ni ihi wi tamaheri.
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出典1 |
袖の氷も解けなむ |
思ひつつ寝泣くに明くる冬の夜の袖の氷は解けずもあるかな |
後撰集冬-四八一 読人しらず |
2.4.9 |
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2.5 |
第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける
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2-5 Kitanokata pours ashes to Higekuro
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2.5.1 |
御火取り召して、いよいよ 焚きしめさせたてまつりたまふ。みづからは、萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。しめりておはする、 いと心苦し。御目のいたう泣き腫れたるぞ、 すこしものしけれど、 いとあはれと見る時は、罪なう思して、
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御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
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Ohom-hitori mesi te, iyo-iyo taki-sime sase tatematuri tamahu. Midukara ha, naye taru ohom-zo-domo, utitoke taru ohom-sugata, itodo hosou, ka-yowage nari. Simeri te ohasuru, ito kokoro-gurusi. Ohom-me no itau naki-hare taru zo, sukosi monosikere do, ito ahare to miru toki ha, tumi nau obosi te,
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2.5.2 |
「 いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「 名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは 思ふ思ふ、なほ心懸想は進みて、 そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れて しめゐたまへり。
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「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
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"Ikade sugusi turu tosi-tuki zo." to, "Nagori nau uturohu kokoro no ito karoki zo ya!" to ha omohu omohu, naho kokoro-gesau ha susumi te, sora-nageki wo uti si tutu, naho syauzoku si tamahi te, tihisaki hitori tori-yose te, sode ni hiki-ire te sime wi tamahe ri.
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2.5.3 |
なつかしきほどに萎えたる御装束に、 容貌も、 かの並びなき御光にこそ 圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。
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やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
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Natukasiki hodo ni naye taru ohom-syauzoku ni, katati mo, kano narabi naki ohom-hikari ni koso osa rure do, ito azayaka ni wowosiki sama si te, tadaudo to miye zu, kokoro-hadukasige nari.
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2.5.4 |
侍に、人びと声して、
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侍所で、供人たちが声立てて、
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Saburahi ni, hito-bito kowe si te,
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2.5.5 |
「 雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし」
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「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」
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"Yuki sukosi hima ari. Yo ha huke nura m kasi."
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2.5.6 |
など、 さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。
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などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
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nado, sasuga ni maho ni ha ara de, sosonokasi kikoye te, kowa-dukuri ahe ri.
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2.5.7 |
中将、木工など、「 あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、 正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人の ややみあふるほどもなう、あさましきに、 あきれてものしたまふ。
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中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
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Tyuuzyau, Moku nado, "Ahare no yo ya!" nado uti-nageki tutu, katarahi te husi taru ni, sauzimi ha, imiziu omohi sidume te, rautage ni yorihusi tamahe ri to miru hodo ni, nihaka ni okiagari te, ohoki naru ko no sita nari turu hitori wo tori-yose te, Tono no usiro ni yori te, sato ikake tamahu hodo, hito no yayami-ahuru hodo mo nau, asamasiki ni, akire te monosi tamahu.
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2.5.8 |
さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。
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あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
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Saru komaka naru hahi no, me hana ni mo iri te, obohore te mono mo oboye zu. Harahi sute tamahe do, tati-miti tare ba, ohom-zo-domo nugi tamahi tu.
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2.5.9 |
うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、
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正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
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Utusi-gokoro ni te kaku si tamahu zo to omoha ba, mata kaheri-mi su beku mo ara zu asamasikere do,
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2.5.10 |
「 例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」
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「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
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"Rei no ohom-mononoke no, hito ni utoma se m to suru waza."
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2.5.11 |
と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
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と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
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to, o-mahe naru hito-bito mo, itohosiu mi tatematuru.
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2.5.12 |
立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、 きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。
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大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
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Tati-sawagi te, ohom-zo-domo tatematuri-kahe nado sure do, sokora no hahi no, bin no watari ni mo tati-nobori, yorodu no tokoro ni miti taru kokoti sure ba, kiyora wo tukusi tamahu watari ni, sanagara maude tamahu beki ni mo ara zu.
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2.5.13 |
「 心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と 爪弾きせられ、疎ましうなりて、 あはれと思ひつる心も残らねど、「 このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。 呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。
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「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。
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"Kokoro-tagahi to ha ihi nagara, naho medurasiu, mi-sira nu hito no ohom-arisama nari ya!" to, tuma-haziki se rare, utomasiu nari te, ahare to omohi turu kokoro mo nokora ne do, "Kono-koro, ara-date te ha, imiziki koto ide-ki na m." to obosi-sidume te, yonaka ni nari nure do, sou nado mesi te, kadi mawiri sawagu. Yobahi nonosiri tamahu kowe nado, omohi-utomi tamaha m ni kotowari nari.
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2.6 |
第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る
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2-6 Higekuro sends a letter to Tamakazura
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2.6.1 |
夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、すこしうち休みたまへるほどに、 かしこへ御文たてまつれたまふ。
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一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
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Yo-hito-yo, utare hikare, naki madohi akasi tamahi te, sukosi uti-yasumi tamahe ru hodo ni, kasiko he ohom-humi tatemature tamahu.
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2.6.2 |
「 昨夜、にはかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきも ふり出でがたく、やすらひはべしに、 身さへ冷えてなむ。御心をばさるものにて、人いかに取りなしはべりけむ」
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「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
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"Yobe, nihaka ni kiye-iru hito no haberi si ni yori, yuki no kesiki mo huri-ide gataku, yasurahi habesi ni, mi sahe hiye te nam. Mi-kokoro wo ba saru mono ni te, hito ikani torinasi haberi kem?"
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2.6.3 |
と、きすくに書きたまへり。
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と、生真面目にお書きになっている。
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to, kisuku ni kaki tamahe ri.
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2.6.4 |
「 心さへ空に乱れし雪もよに
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「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
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"Kokoro sahe sora ni midare si yuki-moyo ni
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2.6.5 |
ひとり冴えつる片敷の袖
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独り冷たい片袖を敷いて寝ました
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hitori saye turu katasiki no sode
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2.6.6 |
堪へがたくこそ」
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耐えられませんでした」
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tahe gataku koso."
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2.6.7 |
と、 白き薄様に、つつやかに書い たまへれど、 ことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才かしこくなどぞものしたまひける。
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と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。筆跡はたいそうみごとである。漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
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to, siroki usu-yau ni, tutuyaka ni kai tamahe re do, koto ni wokasiki tokoro mo nasi. Te ha ito kiyoge nari. Zae kasikoku nado zo monosi tamahi keru.
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2.6.8 |
尚侍の君、夜がれを何とも思されぬに、 かく心ときめきしたまへるを、見も入れたまはねば、御返りなし。 男、胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。
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尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
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Kam-no-Kimi, yogare wo nani to mo obosa re nu ni, kaku kokoro-tokimeki si tamahe ru wo, mi mo ire tamaha ne ba, ohom-kaheri nasi. Wotoko, mune tubure te, omohi kurasi tamahu.
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2.6.9 |
北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。 心のうちにも、「 このころばかりだに、ことなく、うつし心にあらせたまへ」と念じたまふ。「 まことの心ばへのあはれなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さかな」と、思ひゐたまへり。
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北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。
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Kitanokata ha, naho ito kurusige ni si tamahe ba, mi-syuhohu nado hazime sase tamahu. Kokoro no uti ni mo, "Kono-koro bakari dani, koto naku, utusi-gokoro ni ara se tamahe." to nen-zi tamahu. "Makoto no kokorobahe no ahare naru wo mi zu sira zu ha, kau made omohi-sugusu beku mo naki ke-utosa kana!" to, omohi wi tamahe ri.
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2.7 |
第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う
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2-7 Higekuro visits to Tamakazura the next day
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2.7.1 |
暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。御装束のことなども、めやすくしなしたまはず、 世にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふを、あざやかなる御直衣なども、え取りあへたまはで、いと見苦し。
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日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
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Kurure ba, rei no, isogi ide tamahu. Ohom-syauzoku no koto nado mo, meyasuku si-nasi tamaha zu, yo ni ayasiu, uti-aha nu sama ni nomi mutukari tamahu wo, azayaka naru ohom-nahosi nado mo, e tori-ahe tamaha de, ito migurusi.
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2.7.2 |
昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。
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昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。御下着にまでその匂いが染みていた。嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
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Yobe no ha, yake-tohori te, utomasige ni kogare taru nihohi nado mo, koto yau nari. Ohom-zo-domo ni uturi-ga mo simi tari. Husube rare keru hodo araha ni, hito mo u-zi tamahi nu bekere ba, nugi-kahe te, ohom-yu-dono nado, itau tukurohi tamahu.
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2.7.3 |
木工の君、御薫物しつつ、
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木工の君、お召物に香をたきしめながら、
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Moku-no-Kimi, ohom-takimono si tutu,
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2.7.4 |
「 ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに
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「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
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"Hitori wi te kogaruru mune no kurusiki ni
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2.7.5 |
思ひあまれる炎とぞ見じ
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思い余って炎となったその跡と拝見しました
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omohi amare ru honoho to zo mi si
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2.7.6 |
名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」
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すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
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Nagori naki ohom-motenasi ha, mi tatematuru hito dani, tada ni ya ha."
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2.7.7 |
と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。されど、「 いかなる心にて、かやうの人にものを言ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。 情けなきことよ。
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と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。薄情なことであるよ。
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to, kuti-ohohi te wi taru, mami, ito itasi. Saredo, "Ika naru kokoro ni te, kayau no hito ni mono wo ihi kem?" nado nomi zo oboye tamahi keru. Nasake naki koto yo!
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2.7.8 |
「 憂きことを思ひ騒げばさまざまに
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「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
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"Uki koto wo omohi sawage ba sama-zama ni
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2.7.9 |
くゆる煙ぞいとど立ちそふ
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後悔の炎がますます立つのだ
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kuyuru keburi zo itodo tati-sohu
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2.7.10 |
いとことのほかなることどもの、もし聞こえあらば、 中間になりぬべき身なめり」
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まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
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Ito koto no hoka naru koto-domo no, mosi kikoye ara ba, tyuugen ni nari nu beki mi na' meri."
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2.7.11 |
と、うち嘆きて出でたまひぬ。
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と、溜息ついてお出かけになった。
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to, uti-nageki te ide tamahi nu.
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2.7.12 |
一夜ばかりの隔てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、 いとど心を分くべくもあらずおぼえて、 心憂ければ、 久しう籠もりゐたまへり。
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一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。
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Hito-yo bakari no hedate dani, mata medurasiu, wokasisa masari te oboye tamahu arisama ni, itodo kokoro wo waku beku mo ara zu oboye te, kokoro-ukere ba, hisasiu komori wi tamahe ri.
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Last updated 9/23/2001 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2) Last updated 9/23/2001 渋谷栄一注釈(ver.1-1-2) |
Last updated 9/23/2001 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 9/15/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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