13 明石(大島本)


AKASI


光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語


Tale of Hikaru-Genji's parting and comeback, from March at the age of 27 to in fall at the age of 28

3
第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語


3  Tale of Akashi  Happiness and grief in marriage

3.1
第一段 明石の侘び住まい


3-1  Lonely life in Akashi

3.1.1   明石には、例の、秋、浜風のことなるに、一人寝もまめやかにものわびしうて、入道にも 折々語らはせたまふ
 明石では、例によって、秋、浜風が格別で、独り寝も本当に何となく淋しくて、入道にも時々話をおもちかけになる。
  Akasi ni ha, rei no, aki, hama-kaze no koto naru ni, hitori-ne mo mameyaka ni mono-wabisiu te, Nihudau ni mo wori-wori kataraha se tamahu.
3.1.2  「 とかく紛らはして、こち参らせよ
 「何とか人目に立たないようにして、こちらに差し向けなさい」
  "Tokaku magirahasi te, koti mawira se yo."
3.1.3  とのたまひて、 渡りたまはむことをばあるまじう思したるを正身はた、さらに思ひ立つべくもあらず。
 とおっしゃって、いらっしゃることは決してないようにお思いになっているが、娘は娘でまた、まったく出向く気などない。
  to notamahi te, watari tamaha m koto wo ba aru maziu obosi taru wo, sauzimi hata, sara ni omohi-tatu beku mo ara zu.
3.1.4  「 いと口惜しき際の 田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふ わざをもすなれ、 人数にも思されざらむものゆゑ、我はいみじき もの思ひをや添へむ。かく及びなき心を思へる親たちも、 世籠もりて過ぐす年月こそ、あいな頼みに、 行く末心にくく思ふらめなかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「 ただこの浦におはせむほどかかる御文ばかりを聞こえかはさむこそ、おろかならね。年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさまをほのかにも見たてまつらむなど、思ひかけざりし御住まひにて、まほならねどほのかにも見たてまつり、世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御ありさまおぼつかなからで、 かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ、かかる海人のなかに朽ちぬる身にあまることなれ」
 「とても取るに足りない身分の田舎者は、一時的に下向した人の甘い言葉に乗って、そのように軽く良い仲になることもあろうが、一人前の夫人として思ってくださらないだろうから、わたしはたいへんつらい物思いの種を増すことだろう。あのように及びもつかぬ高望みをしている両親も、未婚の間で過ごしているうちは、当てにならないことを当てにして、将来に希望をかけていようが、かえって心配が増ることであろう」と思って、「ただこの浦にいらっしゃる間は、このようなお手紙だけをやりとりさせていただけるのは、並々ならぬこと。長年噂にだけ聞いて、いつの日にかそのような方のご様子をちらっとでも拝見しようなどと、思いもしなかったお住まいで、よそながらもちらと拝見し、世にも素晴らしいと聞き伝えていたお琴の音をも風に乗せて聴き、毎日のお暮らしぶりもはっきりと見聞きし、このようにまでわたしに対してご関心いただくのは、このような海人の中に混じって朽ち果てた身にとっては、過分の幸せだわ」
  "Ito kutiwosiki kiha no winaka-bito koso, kari ni kudari taru hito no uti-toke-goto ni tuki te, sayau ni karoraka ni katarahu waza mo su nare, hito-kazu ni mo obosa re zara m mono yuwe, ware ha imiziki mono-omohi wo ya sohe m. Kaku oyobi naki kokoro wo omohe ru oya-tati mo, yo-gomori te sugusu tosi-tuki koso, aina-danomi ni, yuku-suwe kokoro-nikuku omohu rame, naka-naka naru kokoro wo ya tukusa m." to omohi te, "Tada kono ura ni ohase m hodo, kakaru ohom-humi bakari wo kikoye kahasa m koso, oroka nara ne. Tosi-goro oto ni nomi kiki te, ituka ha saru hito no ohom-arisama wo honoka ni mo mi tatematura m nado, omohi-kake zari si ohom-sumahi nite, maho nara ne do honoka ni mo mi tatematuri, yo ni naki mono to kiki-tutahe si ohom-koto no ne wo mo kaze ni tuke te kiki, ake-kure no ohom-arisama obotukanakara de, kaku made yo ni aru mono to obosi tadunuru nado koso, kakaru ama no naka ni kuti nuru mi ni amaru koto nare."
3.1.5  など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆも気近きことは思ひ寄らず。
 などと思うと、ますます気後れがして、少しもお側近くに上がることなどは考えもしない。
  nado omohu ni, iyo-iyo hadukasiu te, tuyu mo ke-dikaki koto ha omohi-yora zu.
3.1.6  親たちは、ここらの年ごろの祈りの 叶ふべきを思ひながら
 両親は、長年の念願が今にも叶いそうに思いながら、
  Oya-tati ha, kokora no tosi-goro no inori no kanahu beki wo omohi nagara,
3.1.7  「 ゆくりかに見せたてまつりて、思し数まへざらむ時、いかなる嘆きをかせむ」
 「不用意にお見せ申して、もし相手にもしてくださらなかった時は、どんなに悲しい思いをするだろうか」
  "Yukurika ni mise tatematuri te, obosi-kazumahe zara m toki, ika naru nageki wo ka se m."
3.1.8  と思ひやるに、ゆゆしくて、
 と想像すると、心配でたまらず、
  to omohi-yaru ni, yuyusiku te,
3.1.9  「 めでたき人と聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな。目にも見えぬ仏、神を頼みたてまつりて、 人の御心をも、宿世をも知らで
 「立派な方とは申しても、辛く堪らないことであるよ。目に見えない仏、神を信じ申して、君のお心や、娘の運命をも分からないままに」
  "Medetaki hito to kikoyu tomo, turau imiziu mo aru beki kana! Me ni mo miye nu Hotoke, Kami wo tanomi tatematuri te, hito no mi-kokoro wo mo, sukuse wo mo sira de."
3.1.10  など、うち返し思ひ乱れたり。君は、
 などと、改めて思い悩んでいた。君は、
  nado, uti-kahesi omohi-midare tari. Kimi ha,
3.1.11  「 このころの波の音に、かの物の音を聞かばや。さらずは、かひなくこそ
 「この頃の波の音に合わせて、あの琴の音色を聴きたいものだ。それでなかったら、何にもならない」
  "Kono-koro no nami no oto ni, kano mono no ne wo kika baya! Sara-zu-ha, kahi naku koso."
3.1.12  など、常はのたまふ。
 などと、いつもおっしゃる。
  nado, tune ha notamahu.
注釈389明石には、例の、秋、浜風のことなるに一人寝もまめやかにものわびしうて【明石には、例の、秋、浜風の】−源氏、明石の君を呼び寄せようとするが、明石の君は動じない。第十二段。<BR/>【浜風のことなるに一人寝もまめやかにものわびしうて】−「に」格助詞、時また添加。また接続助詞、順接。3.1.1
注釈390折々語らはせたまふ「せ」尊敬の助動詞。また使役の助動詞とも解せる。「たまふ」尊敬の補助動詞。『集成』は「話をおもちかけさせなさる」と使役の意に。『完訳』は「話をもちかけられる」と尊敬の意に訳す。3.1.1
注釈391とかく紛らはしてこち参らせよ源氏の詞。娘を源氏のもとに差し出せという趣旨。3.1.2
注釈392渡りたまはむことをばあるまじう思したるを主語は源氏。「む」推量の助動詞、仮定また婉曲。「まじう」打消の推量、意志の打消。「たる」完了の助動詞、存続。「を」接続助詞、逆接。3.1.3
注釈393正身はたさらに明石の君をさす。「さらに」副詞、下に打消の語に係って、全然の意を表す。また比較の意で、源氏以上に、の意も含もう。3.1.3
注釈394いと口惜しき際の以下「心をや尽くさむ」まで、明石の君の心中。3.1.4
注釈395田舎人こそ「こそ」係助詞、「わざをもす」「なれ」に係る。逆接用法。3.1.4
注釈396人数にも思されざらむものゆゑ明石の君の身の程意識。「思さ」は「思ふ」の尊敬語。主体そのものは源氏。「れ」受身の助動詞、源氏から思われるの意。「む」推量の助動詞、推量。3.1.4
注釈397もの思ひをや添へむ「を」格助詞、目的。「や」間投助詞、詠嘆。「む」推量の助動詞、推量。『集成』は「物思いの種を加えるだけのことだろう」。『完訳』は「たいへんな苦労を背負いこむにちがいない」。「や」を係助詞、疑問の意と解することも可能だろう。3.1.4
注釈398世籠もりて過ぐす年月こそ「こそ」係助詞、「らめ」推量の助動詞、視界外推量に係り、逆接用法で下文に続く。明石の君の未婚時代、源氏が眼前に現れる以前をいう。3.1.4
注釈399行く末心にくく思ふらめ『集成』は「将来立派にと望みをいだいてもいようが」。『完訳』「行く末を楽しみにしているのだろうが」と訳す。3.1.4
注釈400なかなかなる心をや尽くさむ結婚したら、かえって今まで以上に、の意。「や」間投助詞、詠嘆。「む」推量の助動詞。「や」を係助詞、疑問の意と解することも可能だろう。3.1.4
注釈401ただこの浦におはせむほど以下「身にあまることなれ」まで、再び明石の君の心中。3.1.4
注釈402かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそおろかならね「ばかり」副助詞、程度。「む」推量の助動詞、婉曲。「こそ」係助詞、「ね」打消の助動詞、已然形に係る。3.1.4
注釈403かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ「こそ」係助詞、「なれ」断定の助動詞、已然形に係り、強調のニュアンス。『集成』は「こうまで人並みにお心にかけてお声をかけて下さるなどということは」と訳す。3.1.4
注釈404叶ふべきを思ひながら「べき」推量の助動詞、当然。「ながら」接続助詞、逆接の意を含む。3.1.6
注釈405ゆくりかに見せたてまつりて以下「いかなる嘆きをかせむ」まで、明石入道夫妻の心中。間接叙述。もしもの場合の娘の身を心配。3.1.7
注釈406めでたき人と聞こゆとも以下「宿世をも知らで」まで、主として入道の心中。『完訳』は「直接話法による心内叙述」と注す。3.1.9
注釈407人の御心をも宿世をも知らで「人」は「御」があるので源氏、「宿世」は娘のをさす。3.1.9
注釈408このころの波の音にかの物の音を聞かばやさらずはかひなくこそ源氏の詞。「このころ」は秋の季節をいう。「波」「貝」(効)は縁語、一種の言葉遊び。「ばや」終助詞、願望。「ずは」連語(「ず」打消の助動詞、連用形+「は」係助詞)、順接の仮定条件。「こそ」係助詞、下に「あれ」已然形、などの語句が省略された文。「波の音に合わせて」。3.1.11
校訂40 わざ わざ--は(は/$わ)さ 3.1.4
3.2
第二段 明石の君を初めて訪ねる


3-2  The first visit to Akashi-no-Kimi

3.2.1   忍びて吉しき日見て、母君のとかく思ひわづらふを聞き入れず、 弟子どもなどにだに知らせず、心一つに立ちゐ、かかやくばかりしつらひて、 十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「 あたら夜の」と聞こえたり。
 こっそりと吉日を調べて、母君があれこれと心配するのには耳もかさず、弟子たちにさえ知らせず、自分の一存で世話をやき、輝くばかりに整えて、十三日の月の明るくさし出た時分に、ただ「あたら夜の」と申し上げた。
  Sinobi te yorosiki hi mi te, Haha-Gimi no tokaku omohi wadurahu wo kiki-ire zu, desi-domo nado ni dani sirase zu, kokoro hitotu ni tati-wi, kakayaku bakari siturahi te, zihu-sam-niti no tuki no hanayaka ni sasi-ide taru ni, tada "Atara yo no" to kikoye tari.
3.2.2  君は、「 好きのさまや」と思せど、 御直衣たてまつりひきつくろひて、 夜更かして出でたまふ。御車は二なく作りたれど、所狭しとて、御馬にて出でたまふ。 惟光などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。道のほども、四方の浦々見わたしたまひて、 思ふどち見まほしき入江の月影にも まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふにやがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す
 君は、「風流ぶっているな」とお思いになるが、お直衣をお召しになり身なりを整えて、夜が更けるのを待ってお出かけになる。お車はまたとなく立派に整えたが、仰々しいと考えて、お馬でお出かけになる。惟光などばかりをお従わせになる。少し遠く奥まった所であった。道すがら、四方の浦々をお見渡しになって、恋人どうしで眺めたい入江の月影を見るにつけても、まずは恋しい人の御ことをお思い出し申さずにはいらっしゃれないので、そのまま馬で通り過ぎて、上京してしまいたく思われなさる。
  Kimi ha, "Suki no sama ya" to obose do, ohom-nahosi tatematuri hiki-tukurohi te, yo-hukasi te ide tamahu. Mi-kuruma ha ni-naku tukuri tare do, tokoro-sesi tote, ohom-muma nite ide tamahu. Koremitu nado bakari wo saburaha se tamahu. Yaya tohoku iru tokoro nari keri. Miti no hodo mo, yomo no ura-ura mi-watasi tamahi te, omohu-doti mi-mahosiki irie no tuki-kage ni mo, madu kohisiki hito no ohom-koto wo omohi-ide kikoye tamahu ni, yagate muma hiki-sugi te, omomuki nu beku obosu.
3.2.3  「秋の夜の 月毛の駒よ我が恋ふる
 「秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ
    "Aki no yo no tuki-ge no koma yo waga kohuru
3.2.4   雲居を翔れ時の間も見む
  束の間でもあの人に会いたいので
    kumowi wo kake re toki no ma mo mi m
3.2.5  と、 うちひとりごたれたまふ
 とつい独り口をついて出る。
  to, uti-hitori-gota re tamahu.
3.2.6   造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、 これは心細く住みたるさま、「ここにゐて、思ひ残すことは あらじ」と思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声、松風に響きあひて、もの悲しう、 岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあるさまなり前栽どもに 虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。娘住ませたる方は、心ことに磨きて、 月入れたる真木の戸口、けしきばかり押し開けたり
 造りざまは、木が深く繁って、ひどく感心する所があって、結構な住まいである。海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいの様子で、「ここで暮らしたら、どんな物思いもし残すことはなかろう」と自然と想像されて、しみじみとした思いにかられる。三昧堂が近くにあって、鐘の音、松風に響き合って、もの悲しく、巌に生えている松の根ざしも、情趣ある様子である。いくつもの前栽に虫が声いっぱいに鳴いている。あちらこちらの様子を御覧になる。娘を住ませている建物は、格別に美しくしてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。
  Tukure ru sama, ko-bukaku, itaki tokoro masari te, mi-dokoro aru sumahi nari. Umi no tura ha ikamesiu omosiroku, kore ha kokoro-bosoku sumi taru sama, "Koko ni wi te, omohi nokosu koto ha ara zi." to, obosi-yara ruru ni, mono-ahare nari. Sammai-dau tikaku te, kane no kowe, matu-kaze ni hibiki-ahi te, mono-kanasiu, iha ni ohi taru matu no nezasi mo, kokoro-bahe aru sama nari. Sensai-domo ni musi no kowe wo tukusi tari. Koko kasiko no arisama nado go-ran-zu. Musume suma se taru kata ha, kokoro-koto ni migaki te, tuki ire taru maki no toguti, kesiki bakari osi-ake tari.
3.2.7   うちやすらひ、何かとのたまふにも、「 かうまでは見えたてまつらじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、 うちとけぬ心ざまを、「 こよなうも人めきたるかなさしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、 いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」とねたう、さまざまに思し悩めり。「 情けなうおし立たむも、ことのさまに違へり。心比べに負けむこそ、人悪ろけれ」など、乱れ怨みたまふさま、 げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ
 少しためらいがちに、何かと言葉をおかけになるが、「こんなにまでお側近くには上がるまい」と深く決心していたので、何となく悲しくて、気を許さない態度を、「ずいぶんと貴婦人ぶっているな。容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、これほど近づき言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのであったが、このように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」としゃくで、いろいろと悩んでいるようである。「容赦なく無理じいするのも、意向に背くことになる。根比べに負けたりしたら、体裁の悪いことだ」などと、千々に心乱れてお恨みになるご様子、本当に物の情趣を理解する人に見せたいものである。
  Uti-yasurahi, nani ka to notamahu ni mo, "Kau made ha miye tatematura zi." to hukau omohu ni, mono-nagekasiu te, uti-toke nu kokoro-zama wo, "Koyonau mo hito meki taru kana! Sasimo aru maziki kiha no hito dani, kabakari ihi-yori nure ba, kokoro-duyou simo ara zu narahi tari si wo, ito kaku yature taru ni, anadurahasiki ni ya?" to netau, sama-zama ni obosi-nayame ri. "Nasake nau osi-tata m mo, koto no sama ni tagahe ri. Kokoro-kurabe ni make m koso, hito-warokere." nado, midare urami tamahu sama, geni mono-omohi-sira m hito ni koso mise mahosikere.
3.2.8   近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるもけはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、
 近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたてたのも、感じが取り繕ってなく、くつろいだ普段のまま琴を弄んでいた様子が想像されて、興趣あるので、
  Tikaki kityau no himo ni, syau-no-koto no hiki-nara sare taru mo, kehahi sidokenaku, uti-toke nagara kaki-masaguri keru hodo miye te wokasikere ba,
3.2.9  「 この、聞きならしたる琴をさへや
 「この、噂に聞いていた琴までも聴かせてくれないのですか」
  "Kono, kiki-narasi taru koto wo sahe ya."
3.2.10  など、よろづにのたまふ。
 などと、いろいろとおっしゃる。
  nado, yorodu ni notamahu.
3.2.11  「 むつごとを語りあはせむ人もがな
 「睦言を語り合える相手が欲しいものです
    "Mutu-goto wo katari-ahase m hito mo gana
3.2.12   憂き世の夢もなかば覚むやと
  この辛い世の夢がいくらかでも覚めやしないかと
    uki-yo no yume mo nakaba samu ya to
3.2.13  「 明けぬ夜にやがて惑へる心には
 「闇の夜にそのまま迷っておりますわたしには
    "Ake nu yo ni yagate madohe ru kokoro ni ha
3.2.14   いづれを夢とわきて語らむ
  どちらが夢か現実か区別してお話し相手になれましょう
    idure wo yume to waki te katara m
3.2.15   ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。何心もなくうちとけてゐたりけるを、 かうものおぼえぬにいとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、 いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。 されど、さのみもいかでかあらむ
 かすかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ていた。何も知らずにくつろいでいたところを、こう意外なお出ましとなったので、たいそう困って、近くにある曹司の中に入って、どのように戸締りしたものか、固いのだが、無理して開けようとはなさらない様子である。けれども、いつまでもそうしてばかりいられようか。
  Honoka naru kehahi, Ise-no-Miyasumdokoro ni ito you oboye tari. Nani-gokoro mo naku uti-toke te wi tari keru wo, kau mono oboye nu ni, ito warinaku te, tikakari keru zausi no uti ni iri te, ikade katame keru ni ka, ito tuyoki wo, sihite mo osi-tati tamaha nu sama nari. Saredo, sa nomi mo ikade ka ara m.
3.2.16   人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたるかうあながちなりける契りを思すにも、 浅からずあはれなり。御心ざしの、近まさりするなるべし、 常は厭はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、「 人に知られじ」と思すも、心あわたたしうて、こまかに語らひ置きて、出でたまひぬ。
 人柄は、とても上品で、すらりとして、気後れするような感じがする。このような無理に結んだ契りをお思いになるにつけても、ひとしおいとしい思いが増すのである。情愛が、逢ってますます思いが募るのであろう、いつもは嫌でたまらない秋の夜の長さも、すぐに明けてしまった気持ちがするので、「人に知られまい」とお思いになると、気がせかれて、心をこめたお言葉を残して、お立ちになった。
  Hito-zama, ito ate ni, sobiye te, kokoro-hadukasiki kehahi zo si taru. Kau anagati nari keru tigiri wo obosu ni mo, asakara zu ahare nari. Mi-kokoro-zasi no, tika-masari suru naru besi, tune ha itohasiki yoru no nagasa mo, toku ake nuru kokoti sure ba, "Hito ni sira re zi." to obosu mo, kokoro-awatatasiu te, komaka ni katarahi-oki te, ide tamahi nu.
3.2.17   御文、いと忍びてぞ今日はあるあいなき御心の鬼なりやここにもかかることいかで漏らさじとつつみて、御使 ことことしうももてなさぬを、 胸いたく思へり
 後朝のお手紙、こっそりと今日はある。つまらない良心の呵責であるよ。こちらでも、このようなことを何とか世間に知られまいと隠して、御使者を仰々しくもてなさないのを、残念に思った。
  Ohom-humi, ito sinobi te zo kehu ha aru. Ainaki mi-kokoro-no-oni nari ya! Koko ni mo, kakaru koto ikade morasa zi to tutumi te, ohom-tukahi koto-kotosiu mo motenasa nu wo, mune itaku omohe ri.
3.2.18  かくて後は、忍びつつ時々おはす。「 ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人の子もや立ちまじらむ」と 思し憚るほどを、「 さればよ」と 思ひ嘆きたるを、「 げに、いかならむ」と、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただ この御けしきを待つことにはす今さらに心を乱るも、いといとほしげなり
 こうして後は、こっそりと時々お通いになる。「距離も少し離れているので、自然と口さがない海人の子どもがいるかも知れない」とおためらいになる途絶えを、「やはり、思っていたとおりだわ」と嘆いているので、「なるほど、どうなることやら」と、入道も極楽往生の願いも忘れて、ただ君のお通いを待つことばかりである。今さら心を乱すのも、とても気の毒なことである。
  Kakute noti ha, sinobi tutu toki-doki ohasu. "Hodo mo sukosi hanare taru ni, onodukara mono-ihi saga naki ama no ko mo ya tati-mazira m." to obosi-habakaru hodo wo, "Sareba yo!" to omohi nageki taru wo, "Geni, ika nara m?" to, Nihudau mo Gokuraku no negahi wo ba wasure te, tada kono mi-kesiki wo matu koto ni hasu. Imasara ni kokoro wo midaru mo, ito itohosige nari.
注釈409忍びて吉しき日見て明石入道、吉日を占って、八月十三夜に源氏を招く。3.2.1
注釈410弟子どもなどにだに「だに」副助詞、最小限の程度。腹心となって下働きをする弟子にさえの意。3.2.1
注釈411十三日の月十二三日の月横陽−十二三日の月の月の池 河内本も「十二三日の月」。大島本と肖柏本、書陵部本、三条西家本が同文。『完訳』は「十二三日の月」と訂正。3.2.1
注釈412あたら夜の入道の文。「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(後撰集春下、一〇三、源信明)を踏まえる。『集成』は「娘を許す意をほのめかす」と注す。3.2.1
注釈413好きのさまや源氏の心中。入道を批評。『集成』は「風流ぶったものよ」と訳す。3.2.2
注釈414御直衣たてまつり「たてまつり」は「着る」の尊敬語。3.2.2
注釈415夜更かして出でたまふ夜の更けるのを待って。『完訳』は「噂や良清の思惑を憚るためか」と注す。3.2.2
注釈416惟光などばかりをさぶらはせたまふ「など」副助詞、婉曲。「ばかり」副助詞、範囲。「せ」使役の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。3.2.2
注釈417思ふどち見まほしき入江の月影にも「思ふどちいざ見に行かむ玉津島入江の底に沈む月影」(源氏釈所引、出典未詳)の語句を踏まえる。『集成』は「いとしい人と一緒に眺めたい入江に映る月影につけても」。『完訳』は「古歌にいうように「思ふどち」で行って見たいような入江の月影を御覧になるにつけても」と訳す。3.2.2
注釈418まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふに「まづ」副詞、「思ひ出できこえたまふ」に係る。「に」接続助詞、順接。紫の君のことがまっさきに思い出されるので。3.2.2
注釈419やがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す「やがて」副詞、「赴きぬべく」に係る。「引き過ぎて」は明石の君の家を通り過ぎて都への意。「ぬべく」連語(「ぬ」完了の助動詞+「べく」推量の助動詞)、強い当然のニュアンス。行ってしまいそうに。3.2.2
注釈420秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる雲居を翔れ時の間も見む源氏の独詠歌。紫の君を恋うる歌。「雲居を」の格助詞「を」は空間の移動を表す。「む」推量の助動詞、源氏の意志。見たい。「月毛の駒」に「月」という名を負うなら、天翔って都まで行き、しばしの間でもよいから紫の君に一目逢いたい。3.2.3
注釈421うちひとりごたれたまふ「うち」接頭語、つい、思わずというニュアンス。「れ」自発の助動詞、源氏の心情の底流を語る。3.2.5
注釈422造れるさま、木深く、いたき所まさりて場面変わって明石の君のいる岡辺の家。3.2.6
注釈423これは心細く住みたるさま海辺の家と岡辺の家を比較。『完訳』は「「ものあはれなり」に続く」と注す。3.2.6
注釈424あらじと大島本は独自異文。青表紙諸本多く「あらしとすらむと」とある。視界外推量の助動詞「らむ」がある。『集成』『完訳』「すらむ」を補入。3.2.6
注釈425思しやらるるに「るる」自発の助動詞。「に」接続助詞、順接。『集成』は「娘の人柄がしのばれて」。『完訳』は「おもいやらずにはいらっしゃれないにつけても」と注す。3.2.6
注釈426岩に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり岩に生えていえう松の根も風情のあるさまだの意。3.2.6
注釈427虫の声を尽くしたり『集成』は「あらゆる虫を放って鳴かせている」。『完訳』は「秋の虫がいっせいに鳴きたてている」と訳す。3.2.6
注釈428月入れたる真木の戸口けしきばかり押し開けたり「君や来む我や行かむのいさよひに真木の板戸もささず寝にけり」(古今集恋四、六九〇、読人しらず)。『集成』は「月のさし入った妻戸の出入口が、ほんのわずか押し開けてある。「月入れたる」の措辞に、あたかも源氏を閨に誘うかのように、という感じが表されている」「この戸口を木戸口とするのは当たらない」と注す。『完訳』は「月の光のさしこんだ木戸口がおもわせぶりに押し開けてある」と注す。『新大系』は「源氏の訪れに備えて少し開けてある妻戸から月光がさし込んでいる情景」と注す。3.2.6
注釈429うちやすらひ何かとのたまふにも主語は源氏。ためらいながら話かける。3.2.7
注釈430かうまでは見えたてまつらじ明石の君の心中。「かうまで」このように近々との意。「じ」打消推量の助動詞。明石の君の意志。3.2.7
注釈431うちとけぬ心ざまを「ぬ」打消の助動詞。気を許さない態度を。3.2.7
注釈432こよなうも人めきたるかな以下「あなづらはしきにや」まで、源氏の心中。『集成』は「なんとまあいっぱしの貴婦人めいた振舞であることか」と訳す。3.2.7
注釈433さしもあるまじき際の人だに「さしも」副詞(「さ」副詞+「しも」副助詞)は明石の君をさす。「まじ」打消推量の助動詞。「だに」副助詞、最低限を表す。『集成』は「そんな態度をとりそうもない(簡単に男になびきそうもない)高い身分の女性でも」。『完訳』は「容易に近寄りがたい高貴な身の女でさえも」と注す。3.2.7
注釈434いとかくやつれたるに源氏の流離の身をさす。「に」接続助詞、原因理由。3.2.7
注釈435あなづらはしきにや「に」断定の助動詞、「や」係助詞、疑問。『集成』は「見くびっているのだろうか」と訳す。3.2.7
注釈436情けなう以下「人悪ろけれ」まで、源氏の心中。3.2.7
注釈437げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ語り手の批評。『集成』「前の「あたら夜の」という入道の誘いを受けて「げに」という」。3.2.7
注釈438近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも『完訳』は「几帳の紐が、女君の身動きで、箏の絃にふれ音をたてる。彼女の心の琴線がふれる感じである」と注す。3.2.8
注釈439けはひしどけなくうちとけながら『集成』は「取り片付けた様子もなく、くつろいだふだんのまま」。『完訳』は「「けはひしどけなく」は、上からは述語、下へは連用修飾で続く」「取り散らかしたままうちくつろいだ格好で」と注す。3.2.8
注釈440この聞きならしたる琴をさへや源氏の詞。「聞きならす」は入道から常日頃聞かされていたという意。「たる」完了の助動詞、存続。「こと」は「事」と「琴」の掛詞、言葉遊び。琴が巧みだという話と琴そのもの。「さへ」副助詞、言葉はもちろん琴までもの意。「や」係助詞、疑問。下に「聞かせたまはぬ」などの語句が省略。最後まで明言しないところに余意余情が生まれる。3.2.9
注釈441むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと源氏の贈歌。「憂き世の夢」は現実世界の流浪の身をいう。『集成』は「「むつごと」「夢」は縁語」。『完訳』は「「うき世の夢」は、現在の流離の身を夢ととらえた表現。あなたと親しく語り合えば、その夢から覚められる、と親交を訴えた歌。なお逢瀬の歌の「夢」は、情交を暗示する」と注す。3.2.11
注釈442明けぬ夜にやがて惑へる心にはいづれを夢とわきて語らむ明石の君の返歌。源氏の「夢」を受けて、それを「明けぬ夜に」「惑へる」を自分の「夢」として返す。3.2.13
注釈443ほのかなるけはひ『集成』は「ほのかに言う様子」。『完訳』は「暗闇の中で想像される様子」と注す。3.2.15
注釈444かうものおぼえぬに「に」接続助詞、順接、原因理由。このように意外な事なので。3.2.15
注釈445いとわりなくて『完訳』は「源氏の直接行動を無我夢中の女の心に即していう表現」と注す。3.2.15
注釈446いかで固めけるにか「いかで」副詞、方法、どのように。「に」完了の助動詞。「か」係助詞、疑問。源氏の心中、また語り手の疑問。どのように鎖してしまったのか。3.2.15
注釈447されど、さのみもいかでかあらむ「さ」明石の君が曹司の内側から固く閉めたことさす。「のみ」副助詞、限定・強調。そうとばかり。「も」係助詞、強調のニュアンス。「いかでかは」連語(「いかで」副詞+「か」係助詞+「は」係助詞)、反語。やや強調のニュアンス。「む」推量の助動詞、推量。語り手の事態の推量。どうしていつまでそうしてばかりいられようか、ついには開けてしまった。3.2.15
注釈448人ざまいとあてにそびえて心恥づかしきけはひぞしたる閨房の中の明石の君の容姿や態度。「ぞ」係助詞、「たる」完了の助動詞、存続、連体形、係結び、強調のニュアンス。3.2.16
注釈449かうあながちなりける契りを源氏の心に即して語る表現。『集成』は「こんな結ばれるはずもない二人がむすばれたという深い縁をお思いになるにつけても」。『完訳』は「こうして無理強いして一方的に結んだ二人の仲をお思いになるにつけても」と訳す。3.2.16
注釈450浅からずあはれなり「なり」断定の助動詞、語り手の批評。御心さしのちかまさりするなるへし−「なる」断定の助動詞、「べし」推量の助動詞。源氏の心を語り手が推量した表現。集成「草子地」。集成、句点で文を完結。完訳、読点で文を下に続ける。3.2.16
注釈451常は厭はしき夜の長さもとく明けぬる心地すれば季節は秋(八月十三日)、夜が長く感じられるころ。3.2.16
注釈452人に知られじ源氏の心中。3.2.16
注釈453御文いと忍びてぞ今日はある「御文」は後朝の文。「は」係助詞、区別、強調のニュアンス。『集成』は「今までの文通は大っぴらだったのである」と注す。3.2.17
注釈454あいなき御心の鬼なりや「あいなき」形容詞。「なり」断定の助動詞。「や」間投助詞、詠嘆。語り手の批評。『集成』は「草子地。源氏としては京への聞えを憚るのである」。『完訳』は「語り手の評。紫の上など気にせずともよい、無用の良心の呵責」と注す。3.2.17
注釈455ここにも明石入道方をさす。3.2.17
注釈456かかることいかで漏らさじ明石入道の心中。娘と源氏の結婚をさす。源氏の意向に従って、内密にする。3.2.17
注釈457ことことしうも「コトコトシイ」(日葡辞書)。3.2.17
注釈458胸いたく思へり『集成』は「入道は残念に思っている。結婚第一夜の後朝の文の使いは盛大にもてなすしきたりであった」。3.2.17
注釈459ほどもすこし離れたるに以下「立ちまじらむ」まで、源氏の心中。「に」接続助詞、順接、原因理由。3.2.18
注釈460思し憚るほどを「程」名詞、時間・程度を表す。具体的には途絶え。3.2.18
注釈461さればよ明石の君の心中。出来心を想像していた。3.2.18
注釈462思ひ嘆きたるを「を」、『集成』は「悲しむのを」と格助詞に解し、『完訳』は「嘆いているので」と接続助詞、順接に解す。3.2.18
注釈463げにいかならむ入道の心中。『集成』は「げに」を、本当に、全くの意に解し、また「いかならむ」を事態の成り行きを心配する意に解し、「ほんとにどうなることかと」と訳す。『完訳』は「げに」を娘の気持ちを受けて、なるほど、娘が嘆いているように、の意に解し、「いかならむ」を源氏の真意を推測する意に解し、「いかにも、源氏のお気持ちはどうなのだろうと」と訳す。いずれにも解せる両義を含んだ表現。3.2.18
注釈464この御けしきを待つことにはす「御けしき」は源氏の通って来ることをさす。「に」断定の助動詞。「は」係助詞、強調のニュアンス。3.2.18
注釈465今さらに心を乱るもいといとほしげなり語り手の入道に対する同情。3.2.18
出典10 あたら夜の あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや 後撰集春下-一〇三 源信明 3.2.1
出典11 思ふどち見まほしき 思ふどちいざ見に行かむ玉津島入り江の底に沈む月影 源氏釈所引、出典未詳 3.2.2
出典12 月毛の駒 久方の月毛の駒をうち早め来ぬらむとのみ君を待つかな 古今六帖二-一四三〇 3.2.3
校訂41 前栽どもに虫の声を尽くしたり 前栽どもに虫の声を尽くしたり--(/+前栽ともに虫のこゑをつくしたり) 3.2.6
校訂42 ばかり ばかり--ことに(ことに/#はかり) 3.2.6
校訂43 胸--む(む/+ね) 3.2.17
3.3
第三段 紫の君に手紙


3-3  Mail to Murasaki-no-Kimi

3.3.1   二条の君の、風のつてにも漏り聞きたまはむことは、「 たはぶれにても、心の隔てありけると、 思ひ疎まれたてまつらむ心苦しう恥づかしう」思さるるもあながちなる御心ざしのほどなりかし。「 かかる方のことをば さすがに、心とどめて 怨みたまへりし折々、などて、 あやなきすさびごとにつけてもさ思はれたてまつりけむ 」など、取り返さまほしう、 人のありさまを見たまふにつけても、恋しさの慰む方なければ 、例よりも御文こまやかに書きたまひて、
 二条院の君が、風の便りにも漏れお聞きなさるようなことは、「冗談にもせよ、隠しだてをしたのだと、お疎み申されるのは、申し訳なくも恥ずかしいことだ」とお思いになるのも、あまりなご愛情の深さというものであろう。「こういう方面のことは、穏和な方とはいえ、気になさってお恨みになった折々、どうして、つまらない忍び歩きにつけても、そのようなつらい思いをおさせ申したのだろうか」などと、昔を今に取り戻したく、女の有様を御覧になるにつけても、恋しく思う気持ちが慰めようがないので、いつもよりお手紙を心こめてお書きになって、
  Nideu-no-Kimi no, kaze no tute ni mo mori-kiki tamaha m koto ha, "Tahabure ni te mo, kokoro no hedate ari keru to, omohi utoma re tatematura m, kokoro-gurusiu hadukasiu" obosa ruru mo, anagati naru mi-kokoro-zasi no hodo nari kasi. "Kakaru kata no koto wo ba, sasuga ni, kokoro todome te urami tamahe ri si wori-wori, nado te, ayanaki susabi-goto ni tukete mo, sa omoha re tatematuri kem." nado, tori-kahesa mahosiu, hito no arisama wo mi tamahu ni tukete mo, kohisisa no nagusamu kata nakere ba, rei yori mo ohom-humi komayaka ni kaki tamahi te,
3.3.2  「 まことや、我ながら心より外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりし節々を、思ひ出づるさへ胸いたきに、また、あやしうものはかなき夢をこそ見はべしりか。かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心のほどは思し合はせよ。『 誓ひしことも』」など書きて、
 「ところで、そうそう、自分ながら心にもない出来心を起こして、お恨まれ申した時々のことを、思い出すのさえ胸が痛くなりますのに、またしても、変なつまらない夢を見たのです。このように申し上げます問わず語りに、隠しだてしない胸の中だけはご理解ください。『誓ひしことも』」などと書いて、
  "Makoto ya, ware nagara kokoro yori hoka naru nahozari-goto ni te, utoma re tatematuri si husi-busi wo, omohi-iduru sahe mune itaki ni, mata, ayasiu mono-hakanaki yume wo koso mi haberi sika. Kau kikoyuru toha-zu-gatari ni, hedate naki kokoro no hodo ha obosi-ahase yo. 'Tikahi si koto mo'." nado kaki te,
3.3.3  「 何事につけても
 「何事につけても、
  "Nani-goto ni tuke te mo,
3.3.4    しほしほとまづぞ泣かるるかりそめの
  あなたのことが思い出されて、さめざめと泣けてしまいます
    Siho-siho to madu zo naka ruru karisome no
3.3.5   みるめは海人のすさびなれども
  かりそめの恋は海人のわたしの遊び事ですけれども
    mirume ha ama no susabi nare do mo
3.3.6   とある御返り、何心なくらうたげに 書きて
 とあるお返事、何のこだわりもなくかわいらしげに書いて、
  to aru ohom-kaheri, nani-gokoro naku rautage ni kaki te,
3.3.7  「 忍びかねたる 御夢語りにつけても、 思ひ合はせらるること多かるを
 「隠しきれずに打ち明けてくださった夢のお話につけても、思い当たることが多くございますが、
  "Sinobi-kane taru ohom-yume-gatari ni tuke te mo, omohi-ahase raruru koto ohokaru wo,
3.3.8    うらなくも思ひけるかな契りしを
  固い約束をしましたので、何の疑いもなく信じておりました
    Uranaku mo omohi keru kana tigiri si wo
3.3.9    松より波は越えじものぞと
  末の松山のように、心変わりはないものと
    matu yori nami ha koye zi mono zo to
3.3.10  おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いとあはれに、うち置きがたく見たまひて、 名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず
 鷹揚な書きぶりながら、お恨みをこめてほのめかしていらっしゃるのを、とてもしみじみと思われ、下に置くこともできず御覧になって、その後は、久しい間忍びのお通いもなさらない。
  oiraka naru mono kara, tada-nara-zu kasume tamahe ru wo, ito ahare ni, uti-oki gataku mi tamahi te, nagori hisasiu, sinobi no tabine mo si tamaha zu.
注釈466二条の君紫の君。3.3.1
注釈467たはぶれにても以下「恥づかしう」まで、源氏の心中。自然と心中文に移り、再び引用句がなく地の文に流れる。3.3.1
注釈468思ひ疎まれたてまつらむ「れ」受身の助動詞、「たてまつら」謙譲の補助動詞。源氏が紫の君から疎まれ申す、と自卑した表現。「む」推量の助動詞、仮定・婉曲のニュアンス。『集成』は「不愉快な思いをおさせ申すことになるのは」、「れ」尊敬の助動詞に解し、紫の君を主体にした解釈。『完訳』は「お疎まれ申すようなことがあっては」、「れ」受身の助動詞に解し、源氏自身を主体にした解釈。3.3.1
注釈469心苦しう恥づかしう思さるるも「心苦し」は紫の君に対する源氏の気持ち、「恥づかし」は源氏自身に対する気持ち。3.3.1
注釈470あながちなる御心ざしのほどなりかし語り手の源氏の紫の君を思う気持ちの厚いことについての批評。3.3.1
注釈471かかる方のことをば以下「思はれたてまつりけむ」まで、源氏の心中。「かかる方のこと」とは源氏の浮気沙汰をいう。3.3.1
注釈472さすがに温厚な紫の君とはいえというニュアンス。3.3.1
注釈473怨みたまへりし折々「し」過去の助動詞。『完訳』は「紫の上の嫉妬の事実は、これまで具体的には語られていない」と注す。ここが初見。紫の君の人間性を増幅。3.3.1
注釈474あやなきすさびごとにつけても過去の浮気沙汰をさす。3.3.1
注釈475さ思はれたてまつりけむ「さ」、『完訳』「つらい思い」。嫉妬ともとれる。「れ」尊敬の助動詞と解せば、辛い思い。受身の助動詞と解せば、嫉妬されること。前の「思ひ疎まれたてまつらむ」と同じ表現。3.3.1
注釈476人のありさまを見たまふにつけても恋しさの慰む方なければ明石の君と逢うにつけ紫の君を恋しく思われるの意。源氏の心情。3.3.1
注釈477まことや以下「誓ひし事ことも」まで、源氏の紫の君への手紙。「心より外なる」「なほざりごと」「疎まれ」「思ひ出づるさへ」と続け「また」「あやしうものはかなき夢をこそ見はべりしか」と明石の地の女との情交をほのめかす。3.3.2
注釈478誓ひしことも「忘れじと誓ひし事を過たず三笠の山の神もことわれ」(出典未詳)を踏まえる。3.3.2
注釈479何事につけても手紙文が「しほしほと」の和歌に係る。3.3.3
注釈480しほしほとまづぞ泣かるるかりそめのみるめは海人のすさびなれども源氏の紫の君への贈歌。掛詞、「しほしほと」(擬態語)と「塩」、「見る目」(女に逢う)と「海松布」(海草)。縁語、「塩」「刈り」「海松布」「海人」。大変に技巧的な和歌。他の女と逢った後ろめたさの自己韜晦がある。3.3.4
注釈481とある御返り間髪を入れず一続きに続ける。3.3.6
注釈482忍びかねたる以下「波は越えじものぞと」まで、紫の君の返信。3.3.7
注釈483御夢語り源氏の「問はず語り」の「夢を見はべりし」を「夢語り」とし、源氏の告白を合点する。3.3.7
注釈484思ひ合はせらるること多かるをこれも次の和歌の「うらなくも」に係る。手紙の地の文から和歌へ直接続く表現。源氏と同じ手法を用いる。「を」接続助詞は、順接・逆接、いづれにも解せる表現。3.3.7
注釈485うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと紫の君の返歌。「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(古今集、一〇九三、陸奥歌)。「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(後拾遺集恋四、七七〇、清原元輔)などを踏まえる。「うらなく」(思慮なくの意)に「浦」を響かす。「浦」「波」縁語。3.3.8
注釈486名残久しう忍びの旅寝もしたまはずその後、明石の君を訪うことが久しくなくなったの意。3.3.10
出典13 誓ひしことも 忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠の山の神もことわれ 源氏釈所引、出典未詳 3.3.2
出典14 松より波は越えじ 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ 古今集東歌-一〇九三 陸奥歌 3.3.9
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 元輔集-二一八
校訂44 ことをば ことをば--ことをを(を/#)は 3.3.1
校訂45 さ--(/+さ) 3.3.1
校訂46 なければ なければ--なけれ(れ/+は) 3.3.1
校訂47 書きて 書きて--かきてはてに(はてに/#) 3.3.6
3.4
第四段 明石の君の嘆き


3-4  Akashi-no-Kimi's grief

3.4.1   女、思ひしもしるきに今ぞまことに身も投げつべき心地する
 女は、予想通りの結果になったので、今こそほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい心地がする。
  Womna, omohi si mo siruki ni, ima zo makoto ni mi mo nage tu beki kokoti suru.
3.4.2  「 行く末短げなる親ばかりを頼もしきものにて、いつの世に人並々になるべき身と思はざりしかど、ただ そこはかとなくて過ぐしつる年月は、 何ごとをか心をも悩ましけむ、かういみじうもの思はしき 世にこそありけれ
 「老い先短い両親だけを頼りにして、いつになったら人並みの境遇になれる身の上とは思っていなかったが、ただとりとめもなく過ごしてきた年月の間は、何事に心を悩ましたろうか、このようにひどく物思いのする結婚生活であったのだ」
  "Yuku-suwe mizikage naru oya bakari wo tanomosiki mono ni te, itu no yo ni hito nami-nami ni naru beki mi to omoha zari sika do, tada sokohakato-naku te, sugusi turu tosi-tuki ha, nani-goto wo ka kokoro wo mo nayamasi kem, kau imiziu mono-omohasiki yo ni koso ari kere."
3.4.3  と、かねて推し量り思ひしよりも、よろづに悲しけれど、 なだらかにもてなして、憎からぬさまに見えたてまつる
 と、以前から想像していた以上に、何事につけ悲しいけれど、穏やかに振る舞って、憎らしげのない態度でお会い申し上げる。
  to, kanete osihakari omohi si yori mo, yorodu ni kanasikere do, nadaraka ni motenasi te, nikukara nu sama ni miye tatematuru.
3.4.4   あはれとは月日に添へて思しませどやむごとなき方の、おぼつかなくて年月を過ぐしたまひ、 ただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。
 いとしいと月日がたつにつれてますますお思いになっていくが、れっきとした方が、いつかいつかと帰りを待って年月を送っていられるのが、一方ならずご心配なさっていらっしゃるだろうことが、とても気の毒なので、独り寝がちにお過ごしになる。
  Ahare to ha tuki-hi ni sohe te obosimase do, yamgotonaki kata no, obotukanaku te tosi-tuki wo sugusi tamahi, tadanarazu uti-omohi-okose tamahu ram ga, ito kurusikere ba, hitori husi-gati ni te sugusi tamahu.
3.4.5   絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり見む人の心に染みぬべきもののさまなり いかでか、空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰む方なくおぼえたまふ折々、 同じやうに絵を描き集めたまひつつ、やがて我が御ありさま、日記のやうに書きたまへりいかなるべき御さまどもにかあらむ
 絵をいろいろとお描きになって、思うことを書きつけて、返歌を聞かれるようにという趣向にお作りなった。見る人の心にしみ入るような絵の様子である。どうして、お心が通じあっているのであろうか、二条院の君も、悲しい気持ちが紛れることなくお思いになる時々は、同じように絵をたくさんお描きになって、そのままご自分の有様を、日記のようにお書きになっていた。どうなって行かれるお二方の身の上であろうか。
  We wo sama-zama kaki atume te, omohu koto-domo wo kaki-tuke, kaheri-koto kiku beki sama ni si-nasi tamahe ri. Mi m hito no kokoro ni simi nu beki mono no sama nari. Ikade ka, sora ni kayohu mi-kokoro nara m, Nideu-no-Kimi mo, mono-ahare ni nagusamu kata naku oboye tamahu wori-wori, onazi yau ni we wo kaki atume tamahi tutu, yagate waga ohom-arisama, ni'ki no yau ni kaki tamahe ri. Ika naru beki ohom-sama domo ni ka ara m?
注釈487女思ひしもしるきに明石の君の嘆き。女という呼称に変わる。3.4.1
注釈488今ぞまことに身も投げつべき心地する明石の君の深い絶望感。3.4.1
注釈489行く末短げなる親ばかりを以下「世にこそありけれ」まで、明石の君の心中。3.4.2
注釈490そこはかとなくて過ぐしつる年月明石の君の娘時代。3.4.2
注釈491何ごとをか心をも悩ましけむ「か」係助詞、「けむ」過去推量の助動詞、連体形、係結び。反語表現。読点で下文に続く。3.4.2
注釈492世にこそありけれ「こそ」係助詞、「けれ」過去の助動詞、詠嘆、已然形、係結び。強調のニュアンス。3.4.2
注釈493なだらかにもてなして憎からぬさまに見えたてまつる明石の君のたしなみのある態度。3.4.3
注釈494あはれとは月日に添へて思しませど主語は源氏。明石の君に対し月日とともに愛情が増してゆく。「ど」接続助詞、逆接の確定条件。3.4.4
注釈495やむごとなき方の都の紫の君をさす。3.4.4
注釈496ただならずうち思ひおこせたまふらむが『集成』は「心おだやかでなくこちらのことをお思いであろうが」。『完訳』は「ひとかたならず自分に思いを寄せていらっしゃるか」と訳す。「らむ」視界外推量、源氏が都の紫の君を想像しているニュアンス。3.4.4
注釈497絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり絵の余白に和歌を書きつけ、さらにその絵や歌に対する紫の君の返歌も載せるべく余白を残した体裁。3.4.5
注釈498見む人の心に染みぬべきもののさまなり語り手の批評。3.4.5
注釈499いかでか空に通ふ御心ならむ語り手の推量の挿入句。『集成』は「どうしてお話し合いもないのにお互いのお気持が通じ合うのであろうか」と注す。「雲居にもかよふ心のおくれねば別ると人に見ゆばかりなり」(古今集離別、三七八、清原深養父)。3.4.5
注釈500同じやうに絵を描き集めたまひつつやがて我が御ありさま日記のやうに書きたまへり紫の君も源氏同様に、絵の余白に歌日記のような体裁に書きつけた。3.4.5
注釈501いかなるべき御さまどもにかあらむ語り手の推量。『集成』は「草子地。どんな二人の身の上が絵日記に書かれてゆくのだろうか、の意」。『完訳』は「語り手の、今後の源氏と紫の上に期待を抱かせる言辞」と注す。3.4.5
校訂48 なり なり--(/+なり) 3.4.5
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渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
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Last updated 6/14/2001
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