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13 明石(大島本)
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AKASI
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光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語
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Tale of Hikaru-Genji's parting and comeback, from March at the age of 27 to in fall at the age of 28
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2 |
第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
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2 Tale of Akashi Hikaru-Genji's new life in Akashi
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2.1 |
第一段 明石入道の浜の館
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2-1 Nyudo's house at the seaside
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2.1.1 |
浜のさま、げにいと心ことなり。 人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道の領占めたる所々、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、 興をさかすべき渚の苫屋、行なひをして後世のことを 思ひ澄ましつべき山水のつらに、いかめしき堂を建てて三昧を行なひ、この世のまうけに、 秋の田の実を刈り収め ★、残りの 齢積むべき稲の倉町どもなど、折々、所につけたる見どころありてし集めたり。
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浜の様子は、なるほどまことに格別である。人が多く見える点だけが、ご希望に添わないのであった。入道の所領している所々、海岸にも山蔭にも、季節折々につけて、興趣をわかすにちがいない海辺の苫屋、勤行をして来世のことを思い澄ますにふさわしい山川のほとりに、厳かな堂を建てて念仏三昧を行い、この世の生活には、秋の田の実を刈り収めて、余生を暮らすための稲の倉町が幾倉もなど、四季折々につけて、場所にふさわしい見所を多く集めている。
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Hama no sama, geni ito kokoro koto nari. Hito sigeu miyuru nomi nam, ohom-negahi ni somuki keru. Nihudau no ryau-zime taru tokoro-dokoro, umi no tura ni mo yama-gakure ni mo, toki-doki ni tuke te, kyou wo sakasu beki nagisa no tomaya, okonahi wo si te go-se no koto wo omohi-sumasi tu beki yama-midu no tura ni, ikamesiki dau wo tate te sammai wo okonahi, konoyo no mauke ni, aki no ta-no-mi wo kari-wosame, nokori no yohahi tumu beki ine no kura-mati-domo nado, wori-wori, tokoro ni tuke taru mi-dokoro ari te si atume tari.
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2.1.2 |
高潮に怖ぢて、このころ、娘などは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜の館に 心やすくおはします。
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高潮を恐れて、近頃は、娘などは岡辺の家に移して住ませていたので、この海辺の館に気楽にお過ごになる。
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Taka-siho ni odi te, kono-koro, musume nado ha wokabe no yado ni utusi te suma se kere ba, kono hama no tati ni kokoro-yasuku ohasimasu.
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2.1.3 |
舟より御車にたてまつり移るほど、日やうやうさし上がりて、 ほのかに見たてまつるより、老忘れ、齢延ぶる心地して、笑みさかえて、 まづ住吉の神を、かつがつ拝みたてまつる。 月日の光を手に得たてまつりたる心地して、いとなみ仕うまつること、ことわりなり。
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舟からお車にお乗り移りになるころ、日がだんだん高くなって、ほのかに拝するやいなや、老いも忘れ、寿命も延びる心地がして、笑みを浮かべて、まずは住吉の神をとりあえず拝み申し上げる。月と日の光を手にお入れ申した心地がして、お世話申し上げること、ごもっともである。
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Hune yori mi-kuruma ni tatematuri uturu hodo, hi yau-yau sasi-agari te, honoka ni mi tatematuru yori, oyi wasure, yohahi noburu kokoti si te, wemi-sakaye te, madu Sumiyosi-no-Kami wo, katu-gatu wogami tatematuru. Tuki-hi no hikari wo te ni e tatematuri taru kokoti si te, itonami tukau-maturu koto, kotowari nari.
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2.1.4 |
所のさまをばさらにも言はず、作りなしたる心ばへ、木立、立石、前栽などのありさま、えも言はぬ入江の水など、 絵に描かば、心のいたり少なからむ絵師は描き及ぶまじと見ゆ。 月ごろの御住まひよりは、こよなくあきらかに、なつかしき ★。 御しつらひなど、えならずして、 住まひけるさまなど、げに都のやむごとなき所々に異ならず、艶にまばゆきさまは、まさりざまにぞ見ゆる。
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天然の景勝はいうまでもなく、こしらえた趣向、木立、立て石、前栽などの様子、何とも表現しがたい入江の水など、もし絵に描いたならば、修業の浅いような絵師ではとても描き尽くせまいと見える。数か月来の住まいよりは、この上なく明るく、好もしい感じがする。お部屋の飾りつけなど、立派にしてあって、生活していた様子などは、なるほど都の高貴な方々の住居と少しも異ならず、優美で眩しいさまは、むしろ勝っているように見える。
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Tokoro no sama wo ba sarani mo iha zu, tukuri-nasi taru kokoro-bahe, kodati, tate-isi, sensai nado no arisama, e mo iha nu irie no midu nado, we ni kaka ba, kokoro no itari sukunakara m wesi ha kaki oyobu mazi to miyu. Tuki-goro no ohom-sumahi yori ha, koyonaku akiraka ni, natukasiki. Ohom-siturahi nado, e nara zu si te, sumahi keru sama nado, geni miyako no yamgotonaki tokoro-dokoro ni kotonara zu, en ni mabayuki sama ha, masari-zama ni zo miyuru.
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注釈169 | 浜のさまげにいと心ことなり | 2.1.1 |
注釈170 | 人しげう見ゆるのみなむ御願ひに背きける | 2.1.1 |
注釈171 | 興をさかすべき渚の苫屋 | 2.1.1 |
注釈172 | 思ひ澄ましつべき山水 | 2.1.1 |
注釈173 | 秋の田の実を刈り収め | 2.1.1 |
注釈174 | 齢積むべき稲の倉町ども | 2.1.1 |
注釈175 | 心やすくおはします | 2.1.2 |
注釈176 | 舟より御車にたてまつり移るほど | 2.1.3 |
注釈177 | ほのかに見たてまつるより | 2.1.3 |
注釈178 | 月日の光を手に得たてまつりたる心地して | 2.1.3 |
注釈179 | 絵に描かば心のいたり少なからむ絵師は描き及ぶまじ | 2.1.4 |
注釈180 | 月ごろの御住まひよりはこよなくあきらかになつかしき | 2.1.4 |
注釈181 | 御しつらひなどえならずして | 2.1.4 |
注釈182 | 住まひけるさまなど、げに都のやむごとなき所々に | 2.1.4 |
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2.2 |
第二段 京への手紙
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2-2 Mails to Kyoto
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2.2.1 |
すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ。 参れりし使は、今は、
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少しお心が落ち着いて、京へのお手紙をお書き申し上げになる。参っていた使者は、現在、
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Sukosi mi-kokoro sidumari te ha, Kyau no ohom-humi-domo kikoye tamahu. Mawire ri si tukahi ha, ima ha,
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2.2.2 |
「 いみじき道に出で立ちて悲しき目を見る」
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「ひどい時に使いに立って辛い思いをした」
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"Imiziki miti ni ide-tati te kanasiki me wo miru."
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2.2.3 |
と泣き沈みて、 あの須磨に留まりたるを召して、 身にあまれる物ども多くたまひて遣はす。 むつましき御祈りの師ども、さるべき所々には、このほどの御ありさま、詳しく言ひつかはすべし。
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と泣き沈んで、あの須磨に留まっていたのを召して、身にあまるほどの褒美を多く賜って遣わす。親しいご祈祷の師たち、しかるべき所々には、このほどのご様子を、詳しく書いて遣わすのであろう。
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to naki sidumi te, ano Suma ni tomari taru wo mesi te, mi ni amare ru mono-domo ohoku tamahi te tukahasu. Mutumasiki ohom-inori no si-domo, saru-beki tokoro-dokoro ni ha, kono hodo no ohom-arisama, kuhasiku ihi-tukahasu besi.
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2.2.4 |
入道の宮ばかりには、 めづらかにてよみがへるさまなど聞こえたまふ。二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きもやりたまはず、うち置きうち置き、おしのごひつつ聞こえたまふ御けしき、なほことなり。
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入道の宮だけには、不思議にも生き返った様子などをお書き申し上げなさる。二条院からの胸を打つ手紙のお返事には、すらすらと筆もお運びにならず、筆をうち置きうち置き、涙を拭いながらお書き申し上げになるご様子、やはり格別である。
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Nihudau-no-Miya bakari ni ha, meduraka ni te yomigaheru sama nado kikoye tamahu. Nideu-no-Win no ahare nari si hodo no ohom-kaheri ha, kaki mo yari tamaha zu, uti-oki uti-oki, osi-nogohi tutu kikoye tamahu mi-kesiki, naho koto nari.
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2.2.5 |
「 返す返すいみじき目の限りを尽くし果てつるありさまなれば、 今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、『 鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、 かくおぼつかなながらや ★と、ここら悲しきさまざまのうれはしさは、さしおかれて、
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「繰り返し繰り返し、恐ろしい目の極限を体験し尽くした状態なので、今は俗世を離れたいという気持ちだけが募っていますが、『鏡を見ても』とお詠みになった面影が離れる間がないので、このように遠く離れたまま出来ようかと思うと、たくさんのさまざまな心配事は、二の次に自然と思われて、
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"Kahesu-gahesu imiziki me no kagiri wo tukusi-hateturu arisama nare ba, ima ha to yo wo omohi-hanaruru kokoro nomi masari habere do, 'Kagami wo mi te mo' to notamahi si omokage no hanaruru yo naki wo, kaku obotukana nagara ya to, kokora kanasiki sama-zama no urehasisa ha, sasi-oka re te,
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2.2.6 |
遥かにも思ひやるかな知らざりし
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遠く遥かより思いやっております
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Haruka ni mo omohi-yaru kana sira zari si
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2.2.7 |
浦よりをちに浦伝ひして
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知らない浦からさらに遠くの浦に流れ来ても
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ura yori woti ni ura-dutahi si te
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2.2.8 |
夢のうちなる心地のみして、覚め果てぬほど、いかにひがこと多からむ」
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夢の中の心地ばかりして、まだ覚めきらないでいるうちは、どんなにか変なことを多く書いたことでしょう」
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Yume no uti naru kokoti nomi si te, same-hate nu hodo, ikani higa-koto ohokara m."
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2.2.9 |
と、 げに、そこはかとなく 書き乱りたまへるしもぞ、いと見まほしき側目なるを、「いとこよなき御心ざしのほど」と、人びと見たてまつる。
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と、なるほど、とりとめもなくお書き散らしになっているが、まことに側からのぞき込みたくなるようなのを、「たいそう並々ならぬご寵愛のほどだ」と、供の人々は拝見する。
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to, geni, sokohakatonaku kaki midari tamahe ru simo zo, ito mi mahosiki sobame naru wo, "Ito koyonaki mi-kokoro-zasi no hodo." to, hito-bito mi tatematuru.
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2.2.10 |
おのおの、故郷に心細げなる 言伝てすべかめり。
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それぞれも、故郷に心細そうな言伝をしているようである。
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Ono-ono, hurusato ni kokoro-bosoge naru kotodute su beka' meri.
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2.2.11 |
を止みなかりし空のけしき、名残なく澄みわたりて、 ▼ 漁する海人ども誇らしげなり。須磨はいと心細く、海人の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひしかど、ここはまた、さまことにあはれなること多くて、よろづに思し慰まる。
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絶え間なく降り続いた空模様も、すっかり晴れわたって、漁をする海人たちも元気がよさそうである。須磨はとても心細く、海人の岩屋さえ数少なかったのに、人の多い嫌悪感はなさったものの、ここはまた一方で、格別にしみじみと心を打つことが多くて、何かにつけて自然と慰められるのであった。
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Wo-yami nakari si sora no kesiki, nagori naku sumi watari te, asari suru ama-domo hokorasige nari. Suma ha ito kokoro-bosoku, ama no ihaya mo mare nari si wo, hito sigeki itohi ha si tamahi sika do, koko ha mata, sama koto ni ahare naru koto ohoku te, yorodu ni obosi-nagusama ru.
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注釈183 | すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ | 2.2.1 |
注釈184 | 参れりし使は今は | 2.2.1 |
注釈185 | いみじき道に | 2.2.2 |
注釈186 | 身にあまれる物ども多くたまひて遣はす | 2.2.3 |
注釈187 | むつましき御祈りの師どもさるべき所々には | 2.2.3 |
注釈188 | 入道の宮ばかりには | 2.2.4 |
注釈189 | めづらかにてよみがへるさまなど聞こえたまふ | 2.2.4 |
注釈190 | 返す返すいみじき目の限りを | 2.2.5 |
注釈191 | 今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど | 2.2.5 |
注釈192 | 鏡を見てもとのたまひし | 2.2.5 |
注釈193 | かくおぼつかなながらや | 2.2.5 |
注釈194 | 遥かにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちに浦伝ひして | 2.2.6 |
注釈195 | げにそこはかとなく | 2.2.9 |
注釈196 | 書き乱りたまへるしもぞいと見まほしき側目なるを | 2.2.9 |
注釈197 | 言伝てすべかめり | 2.2.10 |
注釈198 | 漁する海人ども誇らしげなり | 2.2.11 |
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出典2 |
漁する海人ども誇らしげなり |
漁する与謝の海人びとほこるらむ浦風ぬるく霞わたれり |
恵慶集-一 |
2.2.11 |
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2.3 |
第三段 明石の入道とその娘
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2-3 Akashi-no-Nyudo and his daughter
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2.3.1 |
明石の入道、行なひ勤めたるさま、いみじう思ひ澄ましたるを、ただこの娘一人をもてわづらひたるけしき、いと かたはらいたきまで、時々漏らし愁へきこゆ。 御心地にも、をかしと聞きおきたまひし人なれば、「 かくおぼえなくてめぐりおはしたるも、さるべき契りあるにや」と 思しながら、「 なほ、かう身を沈めたるほどは、 行なひより他のことは思はじ。 都の人も、 ただなるよりは、言ひしに違ふと思さむも、心恥づかしう」思さるれば、けしきだちたまふことなし。ことに触れて、「 心ばせ、ありさま、なべてならずもありけるかな」と、 ゆかしう思されぬにしもあらず ★。
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明石の入道、その勤行の態度は、たいそう悟り澄ましているが、ただその娘一人を心配している様子は、とても側で見ているのも気の毒なくらいに、時々愚痴をこぼし申し上げる。ご心中にも、興味をお持ちになった女なので、「このように意外にも廻り合わせなさったのも、そうなるはずの前世からの宿縁があるのか」とお思いになるものの、「やはり、このように身を沈めている間は、勤行より他のことは考えまい。都の人も、普通の場合以上に、約束したことと違うとお思いになるのも、気恥ずかしい」と思われなさると、素振りをお見せになることはない。折にふれて、「気立てや、容姿など、並み大抵ではないのかなあ」と、心惹かれないでもない。
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Akasi-no-Nihudau, okonahi tutome taru sama, imiziu omohi-sumasi taru wo, tada kono musume hitori wo mote-wadurahi taru kesiki, ito kataharaitaki made, toki-doki morasi urehe kikoyu. Mi-kokoti ni mo, wokasi to kiki-oki tamahi si hito nare ba, "Kaku oboye naku te meguri ohasi taru mo, saru-beki tigiri aru ni ya?" to obosi nagara, "Naho, kau mi wo sidume taru hodo ha, okonahi yori hoka no koto ha omoha zi. Miyako no hito mo, tada naru yori ha, ihi si ni tagahu to obosa m mo, kokoro-hadukasiu" obosa rure ba, kesiki-dati tamahu koto nasi. Koto ni hure te, "Kokorobase, arisama, nabete nara zu mo ari keru kana!" to, yukasiu obosa re nu ni simo ara zu.
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2.3.2 |
ここにはかしこまりて、みづからもをさをさ参らず、もの隔たりたる下の屋にさぶらふ。 さるは、 明け暮れ見たてまつらまほしう、飽かず思ひきこえて、「 思ふ心を叶へむ」と、仏、神をいよいよ念じたてまつる。
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こちらではご遠慮申し上げて、自身はめったに参上せず、離れた下屋に控えている。その実、毎日お世話申し上げたく思い、物足りなくお思い申して、「何とか願いを叶えたい」と、仏、神をますますお祈り申し上げる。
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Koko ni ha kasikomari te, midukara mo wosa-wosa mawira zu, mono hedatari taru simo-no-ya ni saburahu. Saru ha, ake-kure mi tatematura mahosiu, aka zu omohi kikoye te, "Omohu kokoro wo kanahe m." to, Hotoke, Kami wo iyo-iyo nen-zi tatematuru.
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2.3.3 |
年は六十ばかりになりたれど、いときよげに あらまほしう、行なひさらぼひて、 人のほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみほれぼれしきことはあれど、いにしへの ことをも知りて、ものきたなからず、よしづきたることも交れれば、 昔物語などせさせて聞きたまふに、すこしつれづれの紛れなり。
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年齢は六十歳くらいになっているが、とてもこざっぱりとしていかにも好ましく、勤行のために痩せぎみになって、人品が高いせいであろうか、頑固で老いぼれたところはあるが、故事をもよく知っていて、どことなく上品で、趣味のよいところもまじっているので、古い話などをさせてお聞きになると、少しは所在なさも紛れるのであった。
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Tosi ha roku-zihu bakari ni nari tare do, ito kiyoge ni aramahosiu, okonahi sarabohi te, hito no hodo no atehaka nare ba ni ya ara m, uti-higami hore-boresiki koto ha are do, inisihe no koto wo mo siri te, mono kitanakara zu, yosi-duki taru koto mo mazire re ba, mukasi-monogatari nado se sase te kiki tamahu ni, sukosi ture-dure no magire nari.
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2.3.4 |
年ごろ、公私御暇なくて、さしも聞き置きたまはぬ世の古事どもくづし出でて、「 かかる所をも人をも、見ざらましかば、さうざうしくや」 とまで、興ありと思すことも交る。
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ここ数年来、公私にお忙しくて、こんなにお聞きになったことのない世の中の故事来歴を少しずつ説きおこすので、「このような土地や人をも、知らなかったら、残念なことであったろう」とまで、おもしろいとお思いになることもある。
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Tosi-goro, ohoyake watakusi ohom-itoma naku te, sasimo kiki-oki tamaha nu yo no huru-koto-domo kudusi-ide te, "Kakaru tokoro wo mo hito wo mo, mi zara masika ba, sau-zausiku ya!" to made, kyou ari to obosu koto mo maziru.
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2.3.5 |
かうは馴れきこゆれど、いと気高う心恥づかしき御ありさまに、 さこそ言ひしか、つつましうなりて、わが思ふことは心のままにも えうち出できこえぬを、「 心もとなう、口惜し」と、 母君と言ひ合はせて嘆く。
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このようにお親しみ申し上げてはいるが、たいそう気高く立派なご様子に、そうはいったものの、遠慮されて、自分の思うことは思うようにもお話し申し上げることができないので、「気がせいてならぬ、残念だ」と、母君と話して嘆く。
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Kau ha nare kikoyure do, ito ke-dakau kokoro-hadukasiki ohom-arisama ni, sa koso ihi sika, tutumasiu nari te, waga omohu koto ha kokoro no mama ni mo e uti-ide kikoye nu wo, "Kokoro-motonau, kutiwosi." to, Haha-gimi to ihi-ahase te nageku.
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2.3.6 |
正身は、「 おしなべての人だに、めやすきは見えぬ世界に、世にはかかる人もおはしけり」と 見たてまつりしにつけて、 身のほど知られて、 いと遥かにぞ思ひきこえける。親たちのかく思ひあつかふを聞くにも、 「似げなきことかな」と思ふに、 ただなるよりはものあはれなり。
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ご本人は、「普通の身分の男性でさえ、まあまあの人は見当たらないこの田舎に、世の中にはこのような方もいらっしゃっるのだ」と拝見したのにつけても、わが身のほどが思い知らされて、とても及びがたくお思い申し上げるのであった。両親がこのように事を進めているのを聞くにも、「不釣り合いなことだわ」と思うと、何でもなかった時よりもかえって物思いがまさるのであった。
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Sauzimi ha, "Osinabete no hito dani, me-yasuki ha miye nu sekai ni, yo ni ha kakaru hito mo ohasi keri." to mi tatematuri si ni tuke te, mi no hodo sira re te, ito haruka ni zo omohi kikoye keru. Oya-tati no kaku omohi-atukahu wo kiku ni mo, "Nigenaki koto kana!" to omohu ni, tada naru yori ha mono ahare nari.
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2.4 |
第四段 夏四月となる
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2-4 It becomes April in summer
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2.4.1 |
四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子など、よしあるさまにし出でつつ、よろづに仕うまつりいとなむを、「 いとほしう、すずろなり」と思せど、人ざまのあくまで思ひ上がりたるさまの あてなるに、思しゆるして見たまふ。
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四月になった。衣更えのご装束、御帳台の帷子など、風流な様に作って調進しながら、万事にわたってお世話申し上げるのを、「気の毒でもあり、これほどしてくれなくてもよいものを」とお思いになるが、人柄がどこまでも気位を高くもって上品なので、そのままになさっていらっしゃる。
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Si-gwati ni nari nu. Koromo-gahe no ohom-syauzoku, mi-tyau no katabira nado, yosi aru sama ni si-ide tutu, yorodu ni tukau-maturi itonamu wo, "Itohosiu, suzuro nari" to obose do, hito-zama no akumade omohi-agari taru sama no ate naru ni, obosi yurusi te mi tamahu.
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2.4.2 |
京よりも、うちしきりたる御とぶらひども、たゆみなく多かり。のどやかなる夕月夜に、海の上曇りなく見えわたれるも、住み馴れたまひし故郷の池水、思ひまがへられたまふに、 言はむかたなく恋しきこと、何方となく行方なき心地したまひて、ただ目の前に見やらるるは、淡路島なりけり。
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京からも、ひっきりなしにお見舞いの手紙が、つぎつぎと多かった。のんびりとした夕月夜の晩に、海上に雲もなくはるかに見渡されるのが、お住みなれたお邸の池の水のように、思わず見間違えられなさると、何とも言いようなく恋しい気持ちは、どこへともなくさすらって行く気がなさって、ただ目の前に見やられるのは、淡路島なのであった。
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Kyau yori mo, uti-sikiri taru ohom-toburahi-domo, tayuminaku ohokari. Nodoyaka naru yuhudukiyo ni, umi no uhe kumori naku miye watare ru mo, sumi-nare tamahi si hurusato no ike-midu, omohi-magahe rare tamahu ni, ihamkata-naku kohisiki koto, idukata to naku yukuhe naki kokoti si tamahi te, tada me no mahe ni mi-yara ruru ha Ahadi-sima nari keri.
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2.4.3 |
「 ▼ あはと、遥かに」 などのたまひて、
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「ああ、と遥かに」などとおっしゃって、
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"Aha to, haruka ni" nado notamahi te,
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2.4.4 |
「 あはと見る淡路の島のあはれさへ
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「ああと、しみじみ眺める淡路島の悲しい情趣まで
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"Aha to miru Ahadi no sima no ahare sahe
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2.4.5 |
残るくまなく澄める夜の月」
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すっかり照らしだす今宵の月であることよ」
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nokoru kuma naku sume ru yo no tuki
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2.4.6 |
久しう手触れたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はかなくかき鳴らしたまへる御さまを、 見たてまつる人もやすからず、あはれに悲しう思ひあへり。
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長いこと手をお触れにならなかった琴を、袋からお取り出しになって、ほんのちょっとお掻き鳴らしになっているご様子を、拝し上げる人々も心が動いて、しみじみと悲しく思い合っている。
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Hisasiu te hure tamaha nu kin wo, hukuro yori tori-ide tamahi te, hakanaku kaki-narasi tamahe ru ohom-sama wo, mi tatematuru hito mo yasukara zu, ahare ni kanasiu omohi-ahe ri.
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2.4.7 |
「 広陵」といふ手を、ある限り弾きすましたまへるに、かの岡辺の家も、松の響き波の音に合ひて、心ばせある若人は 身にしみて思ふべかめり。何とも 聞きわくまじきこのもかのものしはふる人どもも、すずろはしくて、 浜風をひきありく。
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「広陵」という曲を、秘術の限りを尽くして一心に弾いていらっしゃると、あの岡辺の家でも、松風の音や波の音に響き合って、音楽に嗜みのある若い女房たちは身にしみて感じているようである。何の楽の音とも聞き分けることのできそうにないあちこちの山賤どもも、そわそわと浜辺に浮かれ出て、風邪をひくありさまである。
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Kwauryau to ihu te wo, aru kagiri hiki-sumasi tamahe ru ni, kano wokabe no ihe mo, matu no hibiki nami no oto ni ahi te, kokorobase aru waka-udo ha mi ni simi te omohu beka' meri. Nani to mo kiki-waku maziki konomo-kanomo no sihahuru-hito-domo mo, suzurohasiku te, hama-kaze wo hiki-ariku.
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注釈231 | 四月になりぬ更衣の御装束御帳の帷子など | 2.4.1 |
注釈232 | いとほしうすずろなり | 2.4.1 |
注釈233 | 言はむかたなく恋しきこと何方となく行方なき心地したまひて | 2.4.2 |
注釈234 | あはと遥かに | 2.4.3 |
注釈235 | あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月 | 2.4.4 |
注釈236 | 久しう手触れたまはぬ琴を | 2.4.6 |
注釈237 | 見たてまつる人も | 2.4.6 |
注釈238 | 広陵といふ手をある限り弾きすましたまへるに | 2.4.7 |
注釈239 | 身にしみて思ふべかめり | 2.4.7 |
注釈240 | 浜風をひきありく | 2.4.7 |
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出典3 |
あはと、遥かに |
淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は心からかも |
新古今集雑上-一五一五 凡河内躬恒 |
2.4.3 |
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2.5 |
第五段 源氏、入道と琴を合奏
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2-5 Genji and Nyudo play in concert with koto
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2.5.1 |
入道もえ堪へで、供養法たゆみて、急ぎ参れり。
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入道もじっとしていられず、供養法を怠って、急いで参上した。
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Nihudau mo e tahe de, kuyau-hohu tayumi te, isogi mawire ri.
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2.5.2 |
「 さらに、背きにし世の中も取り返し 思ひ出でぬべくはべり。後の世に願ひはべる所のありさまも、 思うたまへやらるる夜の、さまかな」
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「まったく、一度捨て去った俗世も改めて思い出されそうでございます。来世に願っております極楽の有様も、かくやと想像される今宵の、妙なる笛の音でございますね」
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"Sara ni, somuki si yononaka mo torikahesi omohi-ide nu beku haberi. Noti no yo ni negahi haberu tokoro no arisama mo, omou tamahe yara ruru yo no sama kana!"
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2.5.3 |
と泣く泣く、めできこゆ。
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と感涙にむせんで、お褒め申し上げる。
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to naku-naku, mede kikoyu.
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2.5.4 |
わが御心にも、折々の御遊び ★、その人かの人の琴笛、もしは声の出でしさまに、時々につけて、世にめでられたまひしありさま、帝よりはじめたてまつりて、 もてかしづきあがめたてまつりたまひしを、人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、心すごく聞こゆ。
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ご自身でも、四季折々の管弦の御遊、その人あの人の琴や笛の音、または声の出し具合、その時々の催しにおいて絶賛されなさった様子、帝をはじめたてまつり、多くの方々が大切に敬い申し上げなさったことを、他人の身の上もご自身の様子も、お思い出しになられて、夢のような気がなさるままに、掻き鳴らしなさっている琴の音も、寂寞として聞こえる。
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Waga mi-kokoro ni mo, wori-wori no ohom-asobi, sono hito kano hito no koto hue, mosiha kowe no ide si sama ni, toki-doki ni tuke te, yo ni mede rare tamahi si arisama, Mikado yori hazime tatematuri te, mote-kasiduki agame tatematuri tamahi si wo, hito no uhe mo waga ohom-mi no arisama mo, obosi-ide rare te, yume no kokoti si tamahu mama ni, kaki-narasi tamahe ru kowe mo, kokoro-sugoku kikoyu.
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2.5.5 |
古人は涙もとどめあへず ★、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、 入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
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老人は涙も止めることができず、岡辺の家に、琵琶、箏の琴を取りにやって、入道は、琵琶法師になって、たいそう興趣ある珍しい曲を一つ二つ弾き出した。
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Huru-hito ha namida mo todome-ahe zu, wokabe ni, biwa, syau-no-koto tori ni yari te, Nihudau, biwa no hohusi ni nari te, ito wokasiu medurasiki te hitotu hutatu hiki tari.
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2.5.6 |
箏の御琴参りたれば、少し弾きたまふも、さまざまいみじうのみ思ひきこえたり。 いと、さしも聞こえぬ物の音だに、折からこそはまさるものなるを ★、 はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭ども、なまめかしきに、水鶏のうちたたきたるは、「 ▼ 誰が門さして」と、あはれにおぼゆ。
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箏の琴をお進め申したところ、少しお弾きになるのも、さまざまな方面にも、たいそうご堪能だとばかり感じ入り申し上げた。実際には、さほどだと思えない楽の音でさえ、その状況によって引き立つものであるが、広々と何物もない海辺である上に、かえって、春秋の花や紅葉の盛りである時よりも、ただ何ということなく青々と繁っている木蔭が、美しい感じがするので、水鶏が鳴いているのは、「誰が門さして」と、しみじみと興趣が催される。
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Syau-no-ohom-koto mawiri tare ba, sukosi hiki tamahu mo, sama-zama imiziu nomi omohi kikoye tari. Ito, sa si mo kikoye nu mono no ne dani, wori kara koso ha masaru mono naru wo, haru-baru to mono no todokohori naki umi-dura naru ni, naka-naka, haru aki no hana momidi no sakari naru yori ha, tada sokohaka to nau sigere ru kage-domo, namamekasiki ni, kuhina no uti-tataki taru ha, "Taga kado sasi te" to, ahare ni oboyu.
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2.5.7 |
音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴らしたるも、御心とまりて、
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音色もまこと二つとないくらい素晴らしく出す二つの琴を、たいそう優しく弾き鳴らしたのも、感心なさって、
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Ne mo ito ni nau iduru koto-domo wo, ito natukasiu hiki-narasi taru mo, mi-kokoro tomari te,
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2.5.8 |
「 これは、女のなつかしきさまにてしどけなう弾きたるこそ、をかしけれ」
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「この琴は、女性が優しい姿態でくつろいだ感じに弾いたのが、おもしろいですね」
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"Kore ha, womna no natukasiki sama ni te sidokenau hiki taru koso, wokasi kere."
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2.5.9 |
と、 おほかたにのたまふを、 入道はあいなくうち笑みて、
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と、何気なくおっしゃるのを、入道はわけもなく微笑んで、
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to, ohokata ni notamahu wo, Nihudau ha ainaku uti-wemi te,
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2.5.10 |
「 あそばすよりなつかしきさまなるは、いづこのかはべらむ。なにがし、延喜の御手より弾き伝へたること、 四代になむなりはべりぬるを、かうつたなき身にて、この世のことは捨て忘れはべりぬるを、もののせちにいぶせき折々は、 かき鳴らしはべりしを、 あやしう、まねぶ者のはべるこそ、自然にかの先大王の御手に通ひてはべれ。 山伏のひが耳に、松風を聞きわたしはべるにやあらむ ★。いかで、 これも 忍びて聞こしめさせてしがな」
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「お弾きあそばす以上に優しい姿態の人は、どこにございましょうか。わたくしは、延喜の帝のご奏法から弾き伝えること、四代になるのでございますが、このようにふがいない身の上で、この世のことは捨て忘れておりましたが、ひどく気の滅入ります時々は、掻き鳴らしておりましたが、不思議にも、それを見よう見真似で弾く者がおりまして、自然とあの先大王のご奏法に似ているのでございます。山伏のようなひが耳では、松風をその音を妙なる音と聞き誤ったのでございましょうか。何とかして、それも一度こっそりとお耳にお入れ申し上げたいものです」
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"Asobasu yori natukasiki sama naru ha, iduko no ka habera m. Nanigasi, Engi no mi-te yori hiki-tutahe taru koto, si-dai ni nam nari haberi nuru wo, kau tutanaki mi ni te, konoyo no koto ha sute-wasure haberi nuru wo, mono no seti ni ibuseki wori-wori ha, kaki-narasi haberi si wo, ayasiu, manebu mono no haberu koso, zinen ni kano sen-daiwau no mi-te ni kayohi te habere. Yamabusi no higa-mimi ni, matu-kaze wo kiki-watasi haberu ni ya ara m? Ikade, kore mo sinobi te kikosimesa se te si gana!"
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2.5.11 |
と聞こゆるままに、うちわななきて、 涙落とすべかめり。
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と申し上げるにつれて、身をふるわして、涙を落としているようである。
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to kikoyuru mama ni, uti-wananaki te, namida otosu beka' meri.
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2.5.12 |
君、
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君は、
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Kimi,
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2.5.13 |
「 琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに、ねたきわざかな」
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「琴など、琴ともお聞きになるなずのない名人揃いの所で、悔しいことをしたなあ」
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"Koto wo koto to mo kiki tamahu mazikari keru atari ni, netaki waza kana!"
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2.5.14 |
とて、押しやりたまふに、
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と言って、押しやりなさって、
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tote, osi-yari tamahu ni,
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2.5.15 |
「 あやしう、昔より 箏は、女なむ弾き取るものなりける。 嵯峨の御伝へにて、女五の宮、さる世の中の上手にものしたまひけるを、その御筋にて、取り立てて伝ふる人なし。すべて、ただ今世に名を取れる人びと、 掻き撫での心やりばかりにのみあるを、ここにかう 弾きこめたまへりける、いと興ありけることかな。いかでかは、聞くべき」
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「不思議なことに、昔から箏は、女が習得するものであった。嵯峨の帝のご伝授で、女五の宮が、その当時の名人でいらっしゃったが、その御系統で、格別に伝授する人はいません。総じて、ただ現在に著名な人々は、通り一遍の自己満足程度に過ぎないが、ここにそのように隠れて伝えていらっしゃるとは、実に興味深いものですね。ぜひとも、聴いてみたいものです」
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"Ayasiu, mukasi yori sau ha, womna nam hiki-toru mono nari keru. Saga no ohom-tutahe nite, Womna-Go-no-Miya, saru yononaka no zyauzu ni monosi tamahi keru wo, sono ohom-sudi nite, tori-tate te tutahuru hito nasi. Subete, tada ima ni na wo tore ru hito-bito, kaki-nade no kokoro-yari bakari ni nomi aru wo, koko ni kau hiki-kome tamahe ri keru, ito kyou ari keru koto kana! Ikade ka ha, kiku beki."
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2.5.16 |
とのたまふ。
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とおっしゃる。
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to notamahu.
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2.5.17 |
「 聞こしめさむには、何の憚りかはべらむ。御前に召しても。 商人の中にてだにこそ、古琴聞きはやす人は、はべりけれ。 琵琶なむ、まことの音を弾きしづむる人、いにしへも難うはべりしを、 をさをさとどこほることなうなつかしき手など、 筋ことになむ。 いかでたどるにかはべらむ。荒き波の声に交るは、悲しくも思うたまへられながら、かき積むるもの嘆かしさ、紛るる折々もはべり」
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「お聴きあそばすについては、何の支障がございましょう。御前にお召しになっても。商人の中でさえ、古曲を賞美した人も、ございました。琵琶は、本当の音色を弾きこなす人、昔も少のうございましたが、少しも滞ることない優しい弾き方など、格別でございます。どのように習得したものでございましょう。荒い波の音と一緒なのは、悲しく存じられますが、積もる愁え、慰められる折々もございます」
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"Kikosimesa m ni ha, nani no habakari ka habera m. O-mahe ni mesi te mo. Aki-udo no naka ni te dani koso, huru-koto kiki-hayasu hito ha, haberi kere. Biwa nam, makoto no ne wo hiki-sidumuru hito, inisihe mo katau haberi si wo, wosa-wosa todokohoru koto nau natukasiki te nado, sudi koto ni nam. Ikade tadoru ni ka habera m. Araki nami no kowe ni maziru ha, kanasiku mo omou tamahe rare nagara, kaki-tumuru mono-nagekasisa, magiruru wori-wori mo haberi."
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2.5.18 |
など好きゐたれば、をかしと思して、箏の琴取り替へて賜はせたり。
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などと風流がっているので、おもしろいとお思いになって、箏の琴を取り替えてお与えになった。
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nado suki-wi tare ba, wokasi to obosi te, syau-no-koto tori-kahe te tamahase tari.
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2.5.19 |
げに、いとすぐしてかい弾きたり。今の世に聞こえぬ筋弾きつけて、手づかひいといたう唐めき、ゆの音深う澄ましたり。「 伊勢の海」ならねど、「清き渚に貝や拾はむ ★」など、声よき人に歌はせて、我も時々拍子とりて、声うち添へたまふを、 琴弾きさしつつ、めできこゆ。御くだものなど、めづらしきさまにて参らせ、人びとに酒強ひそしなどして、おのづから もの忘れしぬべき夜のさまなり。
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なるほど、たいそう上手に掻き鳴らした。現在では知られていない奏法を身につけていて、手さばきもたいそう唐風で、揺の音が深く澄んで聞こえた。「伊勢の海」ではないが、「清い渚で貝を拾おう」などと、声の美しい人に歌わせて、自分でも時々拍子をとって、お声を添えなさるのを、琴の手を度々弾きやめて、お褒め申し上げる。お菓子など、珍しいさまに盛って差し上げ、供の人々に酒を大いに勧めたりして、いつしか物憂さも忘れてしまいそうな夜の様子である。
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Geni, ito sugusi te kai-hiki tari. Ima no yo ni kikoye nu sudi hiki-tuke te, te-dukahi ito itau kara-meki, yu-no-ne hukau sumasi tari. "Ise no umi" nara ne do, "Kiyoki nagisa ni kahi ya hiroha m" nado, kowe yoki hito ni uta utaha se te, ware mo toki-doki hausi tori te, kowe uti-sohe tamahu wo, koto hiki-sasi tutu, mede kikoyu. Ohom-kudamono nado, medurasiki sama nite mawira se, hito-bito ni sake sihi-sosi nado si te, onodukara mono-wasure si nu beki yo no sama nari.
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出典4 |
誰が門さして |
まだ宵にうち来てたたく水鶏かな誰が門さして入れぬなるらむ |
源氏釈所引、出典未詳 |
2.5.6 |
出典5 |
山伏のひが耳に |
松風に耳慣れにける山伏は琴を琴とも思はざりけり |
花鳥余情所引、出典未詳 |
2.5.10 |
出典6 |
清き渚に貝や拾はむ |
伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや |
催馬楽-伊勢の海 |
2.5.19 |
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2.6 |
第六段 入道の問わず語り
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2-6 Nyudo talks about his daughter to Genji not asking
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2.6.1 |
いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月も入り方になるままに、澄みまさり、 静かなるほどに、 御物語残りなく聞こえて、この浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさま、かきくづし聞こえて、この娘のありさま、問はず語りに聞こゆ。 をかしきものの、さすがにあはれと聞きたまふ節もあり。
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たいそう更けて行くにつれて、浜風が涼しくなってきて、月も入り方になるにつれて、ますます澄みきって、静かになった時分に、お話を残らず申し上げて、この浦に住み初めたころの心づもりや、来世を願う模様など、ぽつりぽつりお話し申して、自分の娘の様子を、問わず語りに申し上げる。おかしくおもしろいと聞く一面で、やはりしみじみ不憫なとお聞きになる点もある。
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Itaku huke-yuku mama ni, hama-kaze suzusiu te, tuki mo iri-gata ni naru mama ni, sumi masari, ohom-monogatari nokori naku kikoye te, kono ura ni sumi hazime si hodo no kokoro-dukahi, noti no yo wo tutomuru sama, kaki-kudusi kikoye te, kono musume no arisama, tohazu-gatari ni kikoyu. Wokasiki mono no, sasuga ni ahare to kiki tamahu husi mo ari.
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2.6.2 |
「 いと取り申しがたきことなれど、わが君、かうおぼえなき世界に、仮にても、 移ろひおはしましたるは、もし、年ごろ 老法師の祈り申しはべる神仏のあはれびおはしまして、しばしのほど、 御心をも悩ましたてまつるにやとなむ思うたまふる。
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「とても取り立てては申し上げにくいことでございますが、あなた様が、このような思いがけない土地に、一時的にせよ、移っていらっしゃいましたことは、もしや、長年この老法師めがお祈り申していました神仏がお憐れみになって、しばらくの間、あなた様にご心労をお掛け申し上げることになったのではないかと存ぜられます。
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"Ito tori mausi gataki koto nare do, waga Kimi, kau oboye naki sekai ni, kari ni te mo, uturohi ohasimasi taru ha, mosi tosi-goro oyi-hohusi no inori mausi haberu Kami Hotoke no aharebi ohasimasi te, sibasi no hodo, mi-kokoro wo mo nayamasi tatematuru ni ya to nam omou tamahuru.
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2.6.3 |
その故は、 住吉の神を頼みはじめたてまつりて、この十八年になりはべりぬ。 女の童いときなうはべりしより、思ふ心はべりて、年ごとの春秋ごとに、かならず かの御社に参ることなむはべる。 昼夜の六時の勤めに、みづからの 蓮の上の願ひをば、さるものにて、 ただこの人を高き本意叶へたまへと、なむ念じはべる。
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そのわけは、住吉の神をご祈願申し始めて、ここ十八年になりました。娘がほんの幼少でございました時から、思う子細がございまして、毎年の春秋ごとに、必ずあの住吉の御社に参詣することに致しております。昼夜の六時の勤行に、自分自身の極楽往生の願いは、それはそれとして、ただ自分の娘に高い望みを叶えてくださいと、祈っております。
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Sono yuwe ha, Sumiyosi-no-Kami wo tanomi hazime tatematuri te, kono zihu-hati-nen ni nari haberi nu. Me-no-waraha itokinau haberi si yori, omohu kokoro haberi te, tosi-goto no haru aki goto ni, kanarazu kano Mi-yasiro ni mawiru koto nam haberu. Hiru-yoru no roku-zi no tutome ni, midukara no hatisu no uhe no negahi wo ba, saru mono nite, tada kono hito wo takaki ho'i kanahe tamahe to, nam nen-zi haberu.
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2.6.4 |
前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賤となりはべりけめ、 親、大臣の位を保ちたまへりき。みづからかく田舎の民となりにてはべり。次々、さのみ劣り まからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、 これは、生れし時より頼むところなむはべる。いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、 ほどほどにつけて、あまたの人の嫉みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。 命の限りは狭き衣にもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨てはべりなば、波のなかにも交り失せね、となむ掟てはべる」
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前世からの宿縁に恵まれませんもので、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、父親は、大臣の位を保っておられました。自分からこのような田舎の民となってしまったのでございます。子々孫々と、落ちぶれる一方では、終いにはどのようになってしまうのかと悲しく思っておりますが、わが娘は生まれた時から頼もしく思うところがございます。何とかして都の高貴な方に差し上げたいと思う決心、固いものですから、身分が低ければ低いなりに、多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってもつらい目に遭う折々多くございましたが、少しも苦しみとは思っておりません。自分が生きておりますうちは微力ながら育てましょう。このまま先立ってしまったら、海の中にでも身を投げてしまいなさい、と申しつけております」
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Saki no yo no tigiri tutanaku te koso, kaku kutiwosiki yamagatu to nari haberi keme, oya, daizin no kurawi wo tamoti tamahe ri ki. Midukara kaku winaka no tami to nari ni te haberi. Tugi-tugi, sa nomi otori makara ba, nani no mi ni ka nari habera m to, kanasiku omohi haberu wo, kore ha, umare si toki yori tanomu tokoro nam haberu. Ika ni si te miyako no takaki hito ni tatematura m to omohu kokoro, hukaki ni yori, hodo-hodo ni tuke te, amata no hito no sonemi ohi, mi no tame karaki me wo miru wori-wori mo ohoku habere do, sara ni kurusimi to omohi habera zu. Inoti no kagiri ha sebaki koromo ni mo hagukumi haberi na m. Kaku nagara mi-sute haberi na ba, nami no naka ni mo maziri use ne, to nam okite haberu."
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2.6.5 |
など、 すべてまねぶべくもあらぬことどもを、うち泣きうち泣き聞こゆ。
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などと、全部はお話できそうにもないことを、泣く泣く申し上げる。
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nado, subete manebu beku mo ara nu koto-domo wo, uti-naki uti-naki kikoyu.
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2.6.6 |
君も、ものをさまざま思し続くる 折からは、 うち涙ぐみつつ聞こしめす。
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君も、いろいろと物思いに沈んでいらっしゃる時なので、涙ぐみながら聞いていらっしゃる。
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Kimi mo, mono wo sama-zama obosi-tudukuru wori kara ha, uti-namida-gumi tutu kikosimesu.
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2.6.7 |
「 横さまの罪に当たりて、思ひかけぬ世界にただよふも、何の罪にかとおぼつかなく思ひつる、今宵の御物語に聞き合はすれば、げに浅からぬ前の世の 契りにこそはと、 あはれになむ。などかは、かくさだかに 思ひ知りたまひけることを、今までは告げたまはざりつらむ。都離れし時より、世の常なきもあぢきなう、行なひより他のことなくて 月日を経るに、心も皆くづほれにけり。 かかる人ものしたまふとは、ほの聞きながら、 いたづら人をば ゆゆしきものにこそ思ひ捨てたまふらめと、思ひ屈しつるを、さらば 導きたまふべきにこそあなれ。 心細き一人寝の慰めにも」
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「無実の罪に当たって、思いもよらない地方にさすらうのも、何の罪によるのかと分からなく思っていたが、今夜のお話をうかがって考え合わせてみると、なるほど浅くはない前世からの宿縁であったのだと、しみじみと分かった。どうして、このようにはっきりとご存じであったことを、今までお話してくださらなかったのか。都を離れた時から、世の無常に嫌気がさし、勤行以外のことはせずに月日を送っているうちに、すっかり意気地がなくなってしまった。そのような人がいらっしゃるとは、ほのかに聞いてはいたが、役立たずの者では縁起でもなく思って相手にもなさらぬであろうと、自信をなくしていたが、それではご案内してくださるというのだね。心細い独り寝の慰めにも」
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"Yoko-sama no tumi ni atari te, omohi-kake nu sekai ni tadayohu mo, nani no tumi ni ka to obotukanaku omohi turu, koyohi no ohom-monogatari ni kiki-ahasure ba, geni asakara nu saki-no-yo no tigiri ni koso ha to, ahare ni nam. Nado kaha, kaku sadaka ni omohi-siri tamahi keru koto wo, ima made ha tuge tamaha zari tura m. Miyako hanare si toki yori, yo no tune naki mo adikinau, okonahi yori hoka no koto naku te tuki-hi wo huru ni, kokoro mo mina kuduhore ni keri. Kakaru hito monosi tamahu to ha, hono-kiki nagara, itadura-bito wo ba yuyusiki mono ni koso omohi-sute tamahu rame to, omohi-ku'-si turu wo, sara ba mitibiki tamahu beki ni koso a' nare. Kokoro-bosoki hitori-ne no nagusame ni mo."
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2.6.8 |
などのたまふを、限りなくうれしと思へり。
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などとおっしゃるのを、この上なく光栄に思った。
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nado notamahu wo, kagiri naku uresi to omohe ri.
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2.6.9 |
「 一人寝は君も知りぬやつれづれと
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「独り寝はあなた様もお分かりになったでしょうか
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"Hitori-ne ha kimi mo siri nu ya ture-dure to
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2.6.10 |
思ひ明かしの浦さびしさを
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所在なく物思いに夜を明かす明石の浦の心淋しさを
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omohi-akasi no ura sabisisa wo
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2.6.11 |
まして年月思ひたまへわたるいぶせさを、 推し量らせたまへ」
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まして長い年月ずっと願い続けてまいった気のふさぎようを、お察しくださいませ」
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masite tosi-tuki omohi tamahe wataru ibusesa wo, osihakara se tamahe."
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2.6.12 |
と 聞こゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑなからず。
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と申し上げる様子、身を震わせていたが、それでも気品は失っていない。
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to kikoyuru kehahi, uti-wananaki tare do, sasuga ni yuwe nakara zu.
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2.6.13 |
「 されど、浦なれたまへらむ人は」とて、
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「それでも、海辺の生活に馴れた人は」とおっしゃって、
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"Saredo, ura-nare tamahe ram hito ha." tote,
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2.6.14 |
「 旅衣うら悲しさに明かしかね
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「旅の生活の寂しさに夜を明かしかねて
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"Tabi-goromo ura-ganasisa ni akasi-kane
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2.6.15 |
草の枕は夢も結ばず」
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安らかな夢を見ることもありません」
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kusa no makura ha yume mo musuba zu
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2.6.16 |
と、 うち乱れたまへる御さまは、いとぞ愛敬づき、言ふよしなき御けはひなる。 数知らぬことども聞こえ尽くしたれど、うるさしや。 ひがことどもに書きなしたれば、いとど、をこにかたくなしき入道の心ばへも、あらはれぬべかめり。
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と、ちょっと寛いでいらっしゃるご様子は、たいそう魅力的で、何ともいいようのないお美しさである。数えきれないほどのことどもを申し上げたが、何とも煩わしいことよ。誇張をまじえて書いたので、ますます、馬鹿げて頑固な入道の性質も、現れてしまったことであろう。
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to, uti-midare tamahe ru ohom-sama ha, ito zo aigyau-duki, ihu yosi naki ohom-kehahi naru. Kazu sira nu koto-domo kikoye-tukusi tare do, urusasi ya! Higa-koto-domo ni kaki-nasi tare ba, itodo, woko ni katakunasiki Nihudau no kokoro-bahe mo, arahare nu beka' meri.
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2.7 |
第七段 明石の娘へ懸想文
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2-7 Love letter to Akashi-no-Kimi
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2.7.1 |
思ふこと、かつがつ叶ひぬる心地して、涼しう思ひゐたるに、 またの日の昼つ方、岡辺に御文つかはす。 心恥づかしきさまなめるも、 なかなか、かかるものの隈にぞ、思ひの外なることも籠もるべかめると、心づかひしたまひて、 高麗の胡桃色の紙に、えならずひきつくろひて、
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願いが、まずまず叶った心地がして、すがすがしい気持ちでいると、翌日の昼頃に、岡辺の家にお手紙をおつかわしになる。奥ゆかしい方らしいのも、かえって、このような辺鄙な土地に、意外な素晴らしい人が埋もれているようだと、お気づかいなさって、高麗の胡桃色の紙に、何ともいえないくらい念入りに趣向を調えて、
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Omohu koto, katu-gatu kanahi nuru kokoti si te, suzusiu omohi-wi taru ni, mata no hi no hiru-tu-kata, wokabe ni ohom-humi tukahasu. Kokoro-hadukasiki sama na' meru mo, naka-naka, kakaru mono no kuma ni zo, omohi no hoka naru koto mo komoru beka' meru to, kokoro-dukahi si tamahi te, Koma no kurumi-iro no kami ni, e nara zu hiki-tukurohi te,
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2.7.2 |
「 をちこちも知らぬ雲居に眺めわび
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「何もわからない土地にわびしい生活を送っていましたが
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"Woti-koti mo sira nu kumo-wi ni nagame wabi
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2.7.3 |
かすめし宿の梢をぞ訪ふ
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お噂を耳にしてお便りを差し上げます
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kasume si yado no kozuwe wo zo tohu
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2.7.4 |
『 ▼ 思ふには』」
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『思ふには』」 |
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'Omohu ni ha'."
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2.7.5 |
とばかりやありけむ。
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というぐらいあったのであろうか。
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to bakari ya ari kem?
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2.7.6 |
入道も、人知れず待ちきこゆとて、かの家に 来ゐたりけるもしるければ、御使いとまばゆきまで酔はす。
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入道も、こっそりとお待ち申し上げようとして、あちらの家に来ていたのも期待どおりなので、御使者をたいそうおもはゆく思うほど酔わせる。
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Nihudau mo, hito-sire-zu mati kikoyu tote, kano ihe ni ki-wi tari keru mo sirukere ba, ohom-tukahi ito mabayuki made weha su.
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2.7.7 |
御返り、いと久し。 内に入りてそそのかせど、娘は さらに聞かず。恥づかしげなる御文のさまに、さし出でむ手つきも、 恥づかしうつつまし。 人の御ほど、わが身のほど思ふに、こよなくて ★、心地悪しとて寄り臥しぬ。
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お返事には、たいそう時間がかかる。奥に入って催促するが、娘は一向に聞き入れない。気後れするようなお手紙の様子に、お返事をしたためる筆跡も、恥ずかしく気後れして、相手のご身分と、わが身の程を思い比べると、比較にもならない思いがして、気分が悪いといって、物に寄り伏してしまった。
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Ohom-kaheri, ito hisasi. Uti ni iri te sosonokase do, musume ha sarani kika zu. Hadukasige naru ohom-humi no sama ni, sasi-ide m te-tuki mo, hadukasiu tutumasi. Hito no ohom-hodo, waga mi no hodo omohu ni, koyonaku te, kokoti asi tote yori-husi nu.
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2.7.8 |
言ひわびて、入道ぞ書く。
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説得に困って、入道が書く。
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Ihi-wabi te, Nihudau zo kaku.
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2.7.9 |
「 いとかしこきは、田舎びてはべる 袂に、つつみあまりぬるにや ★。 さらに見たまへも、及びはべらぬかしこさになむ。さるは、
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「とても恐れ多い仰せ言は、田舎者には、身に余るほどのことだからでございましょうか。まったく拝見させて戴くことなど、思いも及ばぬもったいなさでございます。それでも、
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"Ito kasikoki ha, winaka-bi te haberu tamoto ni, tutumi amari nuru ni ya. Sarani mi tamahe mo, oyobi habera nu kasikosa ni nam. Saru ha,
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2.7.10 |
眺むらむ同じ雲居を眺むるは
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物思いされながら眺めていらっしゃる空を同じく眺めていますのは
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Nagamu ram onazi kumowi wo nagamuru ha
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2.7.11 |
思ひも同じ思ひなるらむ
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きっと同じ気持ちだからなのでしょう
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omohi mo onazi omohi naru ram
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2.7.12 |
となむ見たまふる。 いと好き好きしや」
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と拝見してます。大変に色めいて恐縮でございます」
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to nam mi tamahuru. Ito suki-zukisi ya!"
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2.7.13 |
と聞こえたり。 陸奥紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり。「 げにも、好きたるかな」と、 めざましう見たまふ。御使に、 なべてならぬ玉裳などかづけたり。
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と申し上げた。陸奥紙に、ひどく古風な書き方だが、筆跡はしゃれていた。「なるほど、色っぽく書いたものだ」と、目を見張って御覧になる。御使者に、並々ならぬ女装束などを与えた。
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to kikoye tari. Mitinoku-gami ni, itau hurumeki tare do, kaki-zama yosi-bami tari. "Geni mo, suki taru kana!" to, mezamasiu mi tamahu. Ohom-tukahi ni, nabete nara nu tama-mo nado kaduke tari.
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2.7.14 |
またの日、
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翌日、
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Mata no hi,
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2.7.15 |
「 宣旨書きは、見知らずなむ」とて、
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「代筆のお手紙を頂戴したのは、初めてです」とあって、
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"Senzi-gaki ha, mi-sira zu nam." tote,
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2.7.16 |
「 いぶせくも心にものを悩むかな
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「悶々として心の中で悩んでおります
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"Ibuseku mo kokoro ni mono wo nayamu kana
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2.7.17 |
やよやいかにと問ふ人もなみ
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いかがですかと尋ねてくださる人もいないので
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yayo ya ika ni to tohu hito mo nami
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2.7.18 |
『 言ひがたみ』」
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『言ひがたみ』」
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'Ihi gatami'."
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2.7.19 |
と、このたびは、 いといたうなよびたる薄様に、いとうつくしげに書きたまへり。 若き人のめでざらむも、いとあまり埋れいたからむ。 めでたしとは見れど、なずらひならぬ身のほどの、いみじうかひなければ、なかなか、世にあるものと、尋ね知りたまふにつけて、涙ぐまれて、さらに例の動なきを、せめて言はれて、 浅からず染めたる紫の紙に、墨つき濃く薄く紛らはして、
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と、今度は、たいそうしなやかな薄様に、とても美しそうにお書きになっていた。若い女性が素晴らしいと思わなかったら、あまりに引っ込み思案というものであろう。ご立派なとは思うものの、比較にならないわが身の程が、ひどくふがいないので、かえって、自分のような女がいるということを、お知りになり訪ねてくださるにつけて、自然と涙ぐまれて、まったく例によって動こうとしないのを、責められ促されて、深く染めた紫の紙に、墨つきも濃く薄く書き紛らわして、
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to, kono tabi ha, ito itau nayobi taru usuyau ni, ito utukusige ni kaki tamahe ri. Wakaki hito no mede zara m mo, ito amari umore itakara m. Medetasi to ha mire do, nazurahi nara nu mi no hodo no, imiziu kahinakere ba, naka-naka, yo ni aru mono to, tadune siri tamahu ni tuke te, namidaguma re te, sarani rei no dou naki wo, semete ihare te, asakara zu sime taru murasaki no kami ni, sumi-tuki koku usuku magirahasi te,
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2.7.20 |
「思ふらむ 心のほどややよいかに
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「思って下さるとおっしゃいますが、その真意はいかがなものでしょうか
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"Omohu ram kokoro no hodo ya yayo ika ni
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2.7.21 |
まだ見ぬ人の聞きか悩まむ」
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まだ見たこともない方が噂だけで悩むということがあるのでしょうか」
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mada mi nu hito no kiki ka nayama m
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2.7.22 |
手のさま、書きたるさまなど、やむごとなき人にいたう劣るまじう、上衆めきたり。
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筆跡や、出来ぐあいなど、高貴な婦人方に比べてもたいして見劣りがせず、貴婦人といった感じである。
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Te no sama, kaki taru sama nado, yamgotonaki hito ni itau otoru maziu, zyauzu-meki tari.
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2.7.23 |
京のことおぼえて、をかしと見たまへど、うちしきりて遣はさむも、人目つつましければ、 二、三日隔てつつ、つれづれなる夕暮れ、もしは、ものあはれなる曙などやうに 紛らはして、折々、同じ心に見知りぬべきほど推し量りて、書き交はしたまふに、 似げなからず。
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京の事が思い出されて、興趣深いと御覧になるが、続けざまに手紙を出すのも、人目が憚られるので、二、三日置きに、所在ない夕暮や、もしくは、しみじみとした明け方などに紛らわして、それらの時々に、同じ思いをしているにちがいない時を推量して、書き交わしなさると、不似合いではない。
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Kyau no koto oboye te, wokasi to mi tamahe do, uti-sikiri te tukahasa m mo, hitome tutumasikere ba, hutu-ka, mi-ka hedate tutu, ture-dure naru yuhugure, mosiha, mono-ahare naru akebono nado yau ni magirahasi te, wori-wori, onazi kokoro ni mi-siri nu beki hodo osihakari te, kaki-kahasi tamahu ni, nigenakara zu.
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2.7.24 |
心深う思ひ上がりたるけしきも、 見ではやまじと思すものから、 良清が領じて言ひしけしきも めざましう、年ごろ心つけてあらむを、目の前に思ひ違へむも いとほしう思しめぐらされて、「 人進み参らば、さる方にても、紛らはしてむ」と思せど、 女はた、なかなかやむごとなき際の人よりも、いたう思ひ上がりて、ねたげにもてなしきこえたれば、 心比べにてぞ過ぎける。
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思慮深く気位高くかまえている様子も、是非とも会わないと気がすまないと、お思いになる一方で、良清がわがもの顔に言っていた様子もしゃくにさわるし、長年心にかけていただろうことを、目の前で失望させるのも気の毒にご思案されて、「相手が進んで参ったような恰好ならば、そのようなことにして、うやむやのうちに事をはこぼう」とお思いになるが、女は女で、かえって高貴な身分の方以上に、たいそう気位高くかまえていて、いまいましく思うようにお仕向け申しているので、意地の張り合いで日が過ぎて行ったのであった。
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Kokoro-hukau omohi-agari taru kesiki mo, mi de ha yama zi to obosu mono-kara, Yosikiyo ga ryau-zi te ihi si kesiki mo mezamasiu, tosi-goro kokoro-tuke te ara m wo, me no mahe ni omohi-tagahe m mo itohosiu obosi-megurasa re te, "Hito susumi mawira ba, saru kata ni te mo, magirahasi te m." to obose do, Womna hata, naka-naka yamgotonaki kiha no hito yori mo, itau omohi-agari te, netage ni motenasi kikoye tare ba, kokoro-kurabe ni te zo sugi keru.
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2.7.25 |
京のことを、かく 関隔たりては、いよいよおぼつかなく思ひきこえたまひて、「 いかにせまし。 たはぶれにくくもあるかな ★。忍びてや、 迎へたてまつりてまし」と、思し弱る折々あれど、「 さりとも、かくてやは、年を重ねむと、今さらに 人悪ろきことをば」と、思し静めたり。
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京の事を、このように関よりも遠くに行った今では、ますます気がかりにお思い申し上げなさって、「どうしたものだろう。冗談でないことだ。こっそりと、お迎え申してしまおうか」と、お気弱になられる時々もあるが、「そうかといって、こうして何年も過せようかと、今さら体裁の悪いことを」と、お思い静めになった。
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Kyau no koto wo, kaku seki hedatari te ha, iyo-iyo obotukanaku omohi kikoye tamahi te, "Ika ni se masi. Tahabure-nikuku mo aru kana! Sinobi te ya mukahe tatematuri te masi." to, obosi-yowaru wori-wori are do, "Saritomo, kaku te ya ha, tosi wo kasane m to, imasara ni hito waroki koto wo ba." to, obosi-sidume tari.
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出典7 |
思ふには |
思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを |
古今集恋一-五〇三 読人しらず |
2.7.4 |
出典8 |
袂に、つつみあまりぬる |
うれしさを昔は袖につつみけり今宵は身にもあまりぬるかな |
新勅撰集賀-四五六 読人しらず |
2.7.9 |
うれしきを何につつまむ唐衣袂豊かに裁てと言はましを |
古今集雑上-八六五 読人しらず |
出典9 |
たはぶれにくくも |
ありぬやと試みがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき |
古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず |
2.7.25 |
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2.8 |
第八段 都の天変地異
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2-8 Convulsions of nature in Kyoto
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2.8.1 |
その年、朝廷に、もののさとししきりて、もの騒がしきこと多かり。 三月十三日、雷鳴りひらめき、雨風騒がしき夜、帝の御夢に、 院の帝、 御前の御階のもとに 立たせたまひて、御けしきいと悪しうて、 にらみきこえさせたまふを、 かしこまりておはします。 聞こえさせたまふことも多かり。 源氏の御事なりけむかし。
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その年、朝廷では、神仏のお告げが続いてあって、物騒がしいことが多くあった。三月十三日、雷が鳴りひらめき、雨風が激しかった夜に、帝の御夢に、院の帝が、御前の階段の下にお立ちあそばして、御機嫌がひどく悪くて、お睨み申し上げあそばすので、畏まっておいであそばす。お申し上げあそばすこと多かった。源氏のお身の上の事であったのだろう。
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Sono tosi, ohoyake ni, mono no satosi sikiri te, mono-sawagasiki koto ohokari. Yayohi no zihu-sam-niti, kami nari hirameki, ame kaze sawagasiki yoru, Mikado no ohom-yume ni, Win-no-Mikado, o-mahe no mi-hasi no moto ni tata se tamahi te, mi-kesiki ito asiu te, nirami kikoye sase tamahu wo, kasikomari te ohasimasu. Kikoye sase tamahu koto mo ohokari. Genzi no ohom-koto nari kem kasi.
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2.8.2 |
いと恐ろしう、いとほしと思して、 后に聞こえさせたまひければ、
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たいそう恐ろしく、またおいたわしく思し召して、大后にお申し上げあそばしたのだが、
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Ito osorosiu, itohosi to obosi te, kisaki ni kikoye sase tamahi kere ba,
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2.8.3 |
「 雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなることはさぞはべる。軽々しきやうに、思し驚くまじきこと」
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「雨などが降り、天候が荒れている夜には、思い込んでいることが夢に現れるのでございます。軽々しい態度に、お驚きあそばすものではありませぬ」
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"Ame nado huri, sora midare taru yoru ha, omohi-nasi naru koto ha sa zo haberu. Karo-garosiki yau ni, obosi odoroku maziki koto."
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2.8.4 |
と聞こえたまふ。
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とお諌めになる。
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to kikoye tamahu.
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2.8.5 |
にらみたまひしに、目見合はせたまふと見しけにや、 御目患ひたまひて、堪へがたう悩みたまふ。御つつしみ、内裏にも宮にも限りなくせさせたまふ。
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お睨みになったとき、眼をお見合わせになったと思し召してか、眼病をお患になって、堪えきれないほどお苦しみになる。御物忌み、宮中でも大后宮でも、数知れずお執り行わせあそばす。
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Nirami tamahi si ni, me mi-ahase tamahu to mi si ke ni ya, ohom-me wadurai tamahi te, tahe-gatau nayami tamahu. Ohom-tutusimi, Uti ni mo Miya ni mo kagiri naku se sase tamahu.
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2.8.6 |
太政大臣亡せたまひぬ。ことわりの御齢なれど、次々におのづから 騒がしきことあるに、 大宮もそこはかとなう患ひたまひて、ほど経れば 弱りたまふやうなる、 内裏に思し嘆くこと、さまざまなり。
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太政大臣がお亡くなりになった。無理もないお年であるが、次々に自然と騒がしいことが起こって来る上に、大后宮もどことなくお具合が悪くなって、日がたつにつれ弱って行くようなので、主上におかれてもお嘆きになること、あれやこれやと尽きない。
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Ohoki-otodo use tamahi nu. Kotowari no ohom-yohahi nare do, tugi-tugi ni onodukara sawagasiki koto aru ni, Oho-Miya mo sokohakatonau wadurahi tamahi te, hodo hure ba yowari tamahu yau naru, Uti ni obosi-nageku koto, sama-zama nari.
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2.8.7 |
「 なほ、この源氏の君、まことに犯しなきにてかく沈むならば、かならずこの報いありなむとなむおぼえはべる。今は、なほ もとの位をも 賜ひてむ」
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「やはり、この源氏の君が、真実に無実の罪でこのように沈んでいるならば、必ずその報いがあるだろうと思われます。今は、やはり元の位階を授けよう」
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"Naho, kono Genzi-no-Kimi, makoto ni wokasi naki ni te kaku sidumu nara ba, kanarazu kono mukuyi ari na m to nam oboye haberu. Ima ha, naho moto no kurawi wo mo tamahi te m."
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2.8.8 |
とたびたび思しのたまふを、
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と度々お考えになり仰せになるが、
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to tabi-tabi obosi notamahu wo,
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2.8.9 |
「 世のもどき、軽々しきやうなるべし。 罪に懼ぢて都を去りし人を、 三年をだに過ぐさず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」
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「世間の非難、軽々しいようでしょう。罪を恐れて都を去った人を、わずか三年も過ぎないうちに赦されるようなことは、世間の人もどのように言い伝えることでしょう」
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"Yo no modoki, karo-garosiki yau naru besi. Tumi ni odi te miyako wo sari si hito wo, sam-nen wo dani sugusa zu yurusa re m koto ha, yo no hito mo ikaga ihi-tutahe habera m."
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2.8.10 |
など、后かたく諌めたまふに、思し憚るほどに月日かさなりて、 御悩みども、さまざまに 重りまさらせたまふ。
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などと、大后は固くお諌めになるので、ためらっていらっしゃるうちに月日がたって、お二方の御病気も、それぞれ次第に重くなって行かれる。
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nado, Kisaki kataku isame tamahu ni, obosi-habakaru hodo ni tuki-hi kasanari te, ohom-nayami-domo, sama-zama ni omori masara se tamahu.
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Last updated 6/14/2001 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2) Last updated 6/30/2003 渋谷栄一注釈(ver.1-1-4) |
Last updated 6/14/2001 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 8/17/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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