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04 夕顔(大島本)
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YUHUGAHO
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光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Chujo era from the summer to the first day in the winter at the age of 17
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4 |
第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
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4 Tale of Yugao Yugao's death in the mid-fall
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4.1 |
第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う
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4-1 Genji goes to Yugao's house
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4.1.1 |
まことや、 かの惟光が預かりのかいま見は、いとよく案内見とりて申す。
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それはそうと、あの惟光が受け持ちの偵察は、とても詳しく事情を探ってご報告する。
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それから、あの惟光の受け持ちの五条の女の家を探る件、それについて惟光はいろいろな材料を得てきた。
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Makoto ya, kano Koremitu ga adukari no kaima-mi ha, ito yoku a'nai mi-tori te mausu.
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4.1.2 |
「 その人とは、さらに え思ひえはべらず ★。人にいみじく隠れ忍ぶる気色に なむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋にわたり 来つつ、車の音すれば、若き者どもの覗きなどす べかめるに、この主とおぼしきも、 はひわたる時はべかめる。容貌なむ、ほのかなれど、 いとらうたげにはべる。
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「誰であるかは、まったく分かりません。世間にひどく隠れ潜んでいる様子に見えますが、暇にまかせて、南側の半蔀のある長屋に移って来ては、牛車の音がすると、若い女房たちが覗き見などをするようですが、この主人と思われる女も、来る時があるようでございまして。容貌は、ぼんやりとではありますが、とてもかわいらしげでございます。
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「まだだれであるかは私にわからない人でございます。隠れていることの知れないようにとずいぶん苦心する様子です。閑暇なものですから、南のほうの高い窓のある建物のほうへ行って、車の音がすると若い女房などは外をのぞくようですが、その主人らしい人も時にはそちらへ行っていることがございます。その人は、よくは見ませんがずいぶん美人らしゅうございます。
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"Sono hito to ha, sarani e omohi e habera zu. Hito ni imiziku kakure sinoburu kesiki ni nam miye haberu wo, ture-dure naru mama ni, minami no hazitomi aru nagaya ni watari ki tutu, kuruma no oto sure ba, wakaki mono-domo no nozoki nado su beka' meru ni, kono syuu to obosiki mo, hahi-wataru toki habe'ka' meru. Katati nam, honoka nare do, ito rautage ni haberu.
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4.1.3 |
一日、前駆追ひて渡る 車のはべりしを、 覗きて、童女の急ぎて、『 右近の君こそ、まづ物見たまへ。 中将殿こそ、これより 渡りたまひぬれ』と言へば、また、よろしき大人出で来て、『 あなかま』と、手かくものから、『 いかでさは知るぞ、いで、見む』とて、 はひ渡る。打橋だつものを道にて なむ通ひはべる。 急ぎ来るものは、衣の裾を物に引きかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『 いで、この 葛城の神こそ、 さがしうしおきたれ』と、むつかりて、 物覗きの心も冷めぬめりき。『 君は、御直衣姿にて、 御随身どももありし。なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童を なむ、しるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、
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先日、先払いをして通る牛車がございましたのを、覗き見て、女童が急いで、『右近の君さん、早く御覧なさい。中将殿が、ここをお通り過ぎになってしまいます』と言うと、もう一人、見苦しくない女房が出て来て、『お静かに』と、手で制しながらも、『どうしてそうと分かりますか、どれ、見てみよう』と言って、渡って来ます。打橋のようなものを通路にして、行き来するのでございます。急いで来ると、なんとまあ大変、衣の裾を何かに引っ掛けて、よろよろと倒れて、橋から落ちてしまいそうになったので、『まあ、この葛城の神は、危なっかしく拵えたこと』と、文句を言って、覗き見の興味も冷めてしまったようでした。『頭の君は、直衣姿で、御随身たちもいましたが。あの人は誰、この人は誰』と数えたのは、頭中将の随身や、その小舎人童を、証拠に言っていたのです」などと申し上げると、
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この間先払いの声を立てさせて通る車がございましたが、それをのぞいて女の童が後ろの建物のほうへ来て、『右近さん、早くのぞいてごらんなさい、中将さんが通りをいらっしゃいます』と言いますと相当な女房が出て来まして、『まあ静かになさいよ』と手でおさえるようにしながら、『まあどうしてそれがわかったの、私がのぞいて見ましょう』と言って前の家のほうへ行くのですね、細い渡り板が通路なんですから、急いで行く人は着物の裾を引っかけて倒れたりして、橋から落ちそうになって、『まあいやだ』などと大騒ぎで、もうのぞきに出る気もなくなりそうなんですね。車の人は直衣姿で、随身たちもおりました。だれだれも、だれだれもと数えている名は頭中将の随身や少年侍の名でございました」 などと言った。
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Hito-hi, saki ohi te wataru kuruma no haberi si wo, nozoki te, warahabe no isogi te, 'Ukon-no-Kimi koso, madu mono mi tamahe. Tyuuzyau-dono koso, kore yori watari tamahi nure' to ihe ba, mata, yorosiki otona ide-ki te, 'Ana-kama!' to, te kaku monokara, 'Ikade sa ha siru zo? Ide, mi m.' tote, hahi-wataru. Utihasi-datu mono wo miti ni te nam kayohi haberu. Isogi kuru mono ha, kinu no suso wo mono ni hiki-kake te, yorobohi tahure te, hasi yori mo oti nu bekere ba, 'Ide, kono Kaduraki-no-Kami koso, sagasiu si-oki tare.' to, mutukari te, mono-nozoki no kokoro mo same nu meri ki. 'Kimi ha, ohom-nahosi sugata ni te, mi-zuizin-domo mo ari si. Nanigasi, kuregasi' to kazuhe si ha, Tou-no-Tyuuzyau no zuizin, sono kodoneri-waraha wo nam, sirusi ni ihi haberi si." nado kikoyure ba,
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4.1.4 |
「 たしかにその車をぞ見まし」
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「確かにその車を見たのならよかったのに」
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「確かにその車の主が知りたいものだ」
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"Tasika ni sono kuruma wo zo mi masi."
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4.1.5 |
とのたまひて、「 もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、 思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、
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とおっしゃって、「もしや、あの頭中将が愛しく忘れ難かった女であろうか」と、思いつかれるにつけても、とても知りたげなご様子を見て、
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もしかすればそれは頭中将が忘られないように話した常夏の歌の女ではないかと思った源氏の、も少しよく探りたいらしい顔色を見た惟光は、
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to notamahi te, "Mosi, kano ahare ni wasure zari si hito ni ya?" to, omohosi-yoru mo, ito sira mahosige naru mi-kesiki wo mi te,
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4.1.6 |
「 私の懸想もいとよくしおきて、 案内も残るところなく見たまへおきながら、 ただ、我れどちと知らせて、物など言ふ 若きおもとのはべるを、 そらおぼれしてなむ、隠れ まかり歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが言誤りしつべきも、 言ひ紛らはして、 また人なきさまを 強ひてつくりはべる」 など、語りて笑ふ。
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「わたくし自身の懸想も首尾よく致して、家の内情もすっかり存じておりますが、相手の女は、ただ、同じ同輩どうしの女がいるだけだと思わせて、話しかけてくる若い近習がございますので、わたしも空とぼけたふりして、隠れて通っています。とてもうまく隠していると思って、小さい子供などのございますのが言い間違いそうになるのも、ごまかして、別に主人のいない様子を無理に装っております」などと、話して笑う。
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「われわれ仲間の恋と見せかけておきまして、実はその上に御主人のいらっしゃることもこちらは承知しているのですが、女房相手の安価な恋の奴になりすましております。向こうでは上手に隠せていると思いまして私が訪ねて行ってる時などに、女の童などがうっかり言葉をすべらしたりいたしますと、いろいろに言い紛らしまして、自分たちだけだというふうを作ろうといたします」 と言って笑った。
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"Watakusi no kesau mo ito yoku si-oki te, a'nai mo nokoru tokoro naku mi tamahe oki nagara, tada, ware-doti to sirase te, mono nado ihu wakaki omoto no haberu wo, sora-obore si te nam, kakure makari ariku. Ito yoku kakusi tari to omohi te, tihisaki kodomo nado no haberu ga koto-ayamari si tu beki mo, ihi-magirahasi te, mata hito naki sama wo, sihite tukuri haberu." nado, katari te warahu.
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4.1.7 |
「 尼君の訪ひに ものせむついでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。
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「尼君のお見舞いに伺った折に、垣間見させよ」とおっしゃるのであった。
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「おまえの所へ尼さんを見舞いに行った時に隣をのぞかせてくれ」 と源氏は言っていた。
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"Ama-Gimi no toburahi ni monose m tuide ni, kaimami se sase yo." to notamahi keri.
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4.1.8 |
かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「 これこそ、 かの人の定め、あなづりし 下の品ならめ。その中に、 思ひの外にをかしきこともあらば」 など、思すなりけり。
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一時的にせよ、住んでいる家の程度を思うと、「これこそ、あの左馬頭が判定して、貶んだ下の品であろう。その中に予想外におもしろい事があったら」などと、お思いになるのであった。
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たとえ仮住まいであってもあの五条の家にいる人なのだから、下の品の女であろうが、そうした中におもしろい女が発見できればと思うのである。
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Kari ni te mo, yadore ru sumahi no hodo wo omohu ni, "Kore koso, kano hito no sadame, anaduri si simo-no-sina nara me. Sono naka ni, omohi no hoka ni wokasiki koto mo ara ba" nado, obosu nari keri.
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4.1.9 |
惟光、いささかのことも 御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじく たばかりまどひ歩きつつ、しひて おはしまさせ初めてけり。 このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。
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惟光は、どんな些細なことでも君のお心に違うまいと思うが、自分も抜けめない好色人なので、大変に策を労しあちこち段取りをつけ、しゃにむにお通わし始めたのであった。この辺の事情は、こまごまと煩わしくなるので、例によって省略した。
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源氏の機嫌を取ろうと一所懸命の惟光であったし、彼自身も好色者で他の恋愛にさえも興味を持つほうであったから、いろいろと苦心をした末に源氏を隣の女の所へ通わせるようにした。
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Koremitu, isasaka no koto mo mi-kokoro ni tagaha zi to omohu ni, onore mo kumanaki suki-gokoro nite, imiziku tabakari madohi ariki tutu, sihite ohasimasa se some te keri. Kono hodo no koto, kuda-kudasikere ba, rei no morasi tu.
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4.1.10 |
女、さしてその人と 尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなく やつれたまひつつ、 例ならず下り立ちありきたまふは、 おろかに思されぬなるべし、と見れば、 我が馬をばたてまつりて、御供に走りありく。
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女を、はっきり誰とお確かめになれないので、ご自分も名乗りをなさらず、ひどくむやみに粗末な身なりをなさっては、いつもと違って直接に身を入れてお通いになるのは、並々ならぬご執心なのであろう、と考えると、自分の馬を差し上げて、お供して走りまわる。
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女のだれであるかをぜひ知ろうともしないとともに、源氏は自身の名もあらわさずに、思いきり質素なふうをして多くは車にも乗らずに通った。深く愛しておらねばできぬことだと惟光は解釈して、自身の乗る馬に源氏を乗せて、自身は徒歩で供をした。
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Womna, sasite sono hito to tadune-ide tamaha ne ba, ware mo nanori wo si tamaha de, ito warinaku yature tamahi tutu, rei nara zu oritati ariki tamahu ha, oroka ni obosa re nu naru besi, to mire ba, waga muma wo ba tatematuri te, ohom-tomo ni hasiri-ariku.
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4.1.11 |
「 懸想人のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくも あるべきかな」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、 かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率ておはしける。「 もし思ひよる気色もや」とて、 隣に中宿をだにしたまはず。
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「懸想人のひどく人げない徒ち歩き姿を、見つけられましては、辛いものですね」とこぼすが、誰にもお知らせなさらないことにして、あの夕顔の案内をした随身だけ、その他には、顔をまったく知られてないはずの童一人だけを、連れていらっしゃるのであった。「万一思い当たる気配もあろうか」と慮って、隣に中休みをさえなさらない。
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「私から申し込みを受けたあすこの女はこの態を見たら驚くでしょう」 などとこぼしてみせたりしたが、このほかには最初タ顔の花を折りに行った随身と、それから源氏の召使であるともあまり顔を知られていない小侍だけを供にして行った。それから知れることになってはとの気づかいから、隣の家へ寄るようなこともしない。
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"Kesau-bito no ito monogenaki asimoto wo, mituke rare te habera m toki, karaku mo aru beki kana!" to wabure do, hito ni sirase tamaha nu mama ni, kano yuhugaho no sirube se si zuizin bakari, sate ha, kaho muge ni siru maziki waraha, hitori bakari zo, wi te ohasi keru. "Mosi omohi yoru kesiki mo ya?" tote, tonari ni nakayadori wo dani si tamaha zu.
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4.1.12 |
女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、 御使に人を添へ、 暁の道をうかがはせ、御在処見せむと尋ぬれど、そこはことなく まどはしつつ、 さすがに、あはれに見ではえあるまじく、 この人の御心にかかりたれば、 便なく軽々しきことと、 思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。
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女方も、とても不審に合点のゆかない気ばかりがして、お文使いに跡を付けさせたり、払暁の道を尾行させ、お住まいを現すだろうと追跡するが、どこと分からなく晦まし晦ましして、そうは言っても、かわいく逢わないではいられず、この女がお心に掛かっているので、不都合で軽々しい行為だと、反省してはお困りながらも、とても頻繁にお通いになる。
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女のほうでも不思議でならない気がした。手紙の使いが来るとそっと人をつけてやったり、男の夜明けの帰りに道を窺わせたりしても、先方は心得ていてそれらをはぐらかしてしまった。しかも源氏の心は十分に惹かれて、一時的な関係にとどめられる気はしなかった。これを不名誉だと思う自尊心に悩みながらしばしば五条通いをした。
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Womna mo, ito ayasiku kokoroe nu kokoti nomi si te, ohom-tukahi ni hito wo sohe, akatuki no miti wo ukagaha se, ohom-arika mise m to tadunure do, sokohakatonaku madohasi tutu, sasugani, ahare ni mi de ha e aru maziku, kono hito no mi-kokoro ni kakari tare ba, bin-naku karo-garosiki koto to, omohosi kahesi wabi tutu, ito siba-siba ohasimasu.
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4.1.13 |
かかる筋は、 まめ人の乱るる折もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべき 振る舞ひはしたまはざりつるを、あやしきまで、 今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、 思ひわづらはれたまへば、かつは、 いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、 いみじく思ひさましたまふに、 人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、 もの深く重き方はおくれて、 ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。 いとやむごとなきにはあるまじ、 いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思す。
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このような方面では、実直な人も乱れる時があるものだが、とても見苦しくなく自重なさって、人が非難申し上げるような振る舞いはなさらなかったが、不思議なまでに、今朝の間、昼間の逢わないでいる間も、逢いたく気が気でないなどと、お思い悩みになるので、他方では、ひどく気違いじみており、それほど熱中するに相応しいことではないと、つとめて熱をお冷ましになるが、女の感じは、とても驚くほど従順でおっとりとしていて、物事に思慮深く慎重な方面は少なくて、一途に子供っぽいようでいながら、男女の仲を知らないでもない。たいして高い身分ではあるまい、どこにひどくこうまで心惹かれるのだろうか、と繰り返しお思いになる。
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恋愛問題ではまじめな人も過失をしがちなものであるが、この人だけはこれまで女のことで世間の批難を招くようなことをしなかったのに、夕顔の花に傾倒してしまった心だけは別だった。別れ行く間も昼の間もその人をかたわらに見がたい苦痛を強く感じた。源氏は自身で、気違いじみたことだ、それほどの価値がどこにある恋人かなどと反省もしてみるのである。驚くほど柔らかでおおような性質で、深味のあるような人でもない。若々しい一方の女であるが、処女であったわけでもない。貴婦人ではないようである。どこがそんなに自分を惹きつけるのであろうと不思議でならなかった。
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Kakaru sudi ha, mame-bito no midaruru wori mo aru wo, ito meyasuku sidume tamahi te, hito no togame kikoyu beki hurumahi ha si tamaha zari turu wo, ayasiki made, kesa no hodo, hiruma no hedate mo, obotukanaku nado, omohi waduraha re tamahe ba, katu ha, ito mono-guruhosiku, sa made kokoro todomu beki koto no sama ni mo ara zu to, imiziku omohi-samasi tamahu ni, hito no kehahi, ito asamasiku yaharaka ni ohodoki te, mono-hukaku omoki kata ha okure te, hitaburuni wakabi taru monokara, yo wo mada sira nu ni mo ara zu. Ito yamgotonaki ni ha aru mazi, iduku ni ito kau simo tomaru kokoro zo, to kahesu-gahesu obosu.
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4.1.14 |
いとことさらめきて、御装束をもやつれたる 狩の御衣をたてまつり ★、さまを変へ、 顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、 人をしづめて出で入りなどしたまへば、 昔ありけむものの変化めきて、 うたて思ひ嘆かるれど、人の 御けはひ、はた、 手さぐりもしるべきわざなりければ、「 誰ればかりにかはあらむ。なほこの好き者の し出でつるわざなめり」と、 大夫を疑ひながら、 せめてつれなく知らず顔にて、 かけて思ひよらぬさまに、 たゆまずあざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女方もあやしうやう違ひたる もの思ひをなむしける。
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とてもわざとらしくして、ご装束も粗末な狩衣をお召しになり、姿を変え、顔も少しもお見せにならず、深夜ごろに、人の寝静まるのを待ってお出入りなどなさるので、昔あったという変化の者じみて、気味悪く嘆息されるが、男性のご様子は、そうは言うものの、手触りでも分かることができたので、「いったい、どなたであろうか。やはりこの好色人が手引きして始まったことらしい」と、大夫を疑ってみるが、つとめて何くわぬ顔を装って、まったく知らない様子に、せっせと色恋に励んでいるので、どのようなことかとわけが分からず、女の方も不思議な一風変わった物思いをするのであった。
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わざわざ平生の源氏に用のない狩衣などを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。ずっと更けてから、人の寝静まったあとで行ったり、夜のうちに帰ったりするのであるから、女のほうでは昔の三輪の神の話のような気がして気味悪く思われないではなかった。しかしどんな人であるかは手の触覚からでもわかるものであるから、若い風流男以外な者に源氏を観察していない。やはり好色な隣の五位が導いて来た人に違いないと惟光を疑っているが、その人はまったく気がつかぬふうで相変わらず女房の所へ手紙を送って来たり、訪ねて来たりするので、どうしたことかと女のほうでも普通の恋の物思いとは違った煩悶をしていた。
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Ito kotosara-meki te, ohom-syauzoku wo mo yature taru kari no ohom-zo wo tatematuri, sama wo kahe, kaho wo mo hono-mise tamaha zu, yo-bukaki hodo ni, hito wo sidume te ide-iri nado si tamahe ba, mukasi ari kem mono-no-henge meki te, utate omohi-nageka rure do, hito no ohom-kehahi, hata, tesaguri mo siru beki waza nari kere ba, "Tare bakari ni ka ha ara m? Naho kono suki-mono no si-ide turu waza na' meri." to, Taihu wo utagahi nagara, semete turenaku sirazu-gaho nite, kakete omohi-yora nu sama ni, tayuma zu azare-arike ba, ikanaru koto ni ka to kokoroe-gataku, womna-gata mo ayasiu tagahi taru mono-omohi wo nam si keru.
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4.2 |
第二段 八月十五夜の逢瀬
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4-2 The night of August 15, they have harmonious life
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4.2.1 |
君も、「 かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、 いづこをはかりとか、我も尋ねむ。かりそめの隠れ処と、はた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも、移ろひゆかむ日を、 いつとも知らじ」と思すに、 追ひまどはして、 なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても 過ぎぬべきことを、 さらにさて過ぐしてむと 思されず。
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源氏の君も、「このように無心なように油断させてそっと隠れてしまったなら、どこを目当てにしてか、わたしも尋ねられよう。一時の隠れ家と、また一方では思われるので、どこへともどこへとも、移って行くような日を、いつとも分からないだろう」とお思いになると、跡を追っているうちに見失って、どうでもよく諦めがつくものなら、ただこのような遊び事で終わっても済まされることなのに、まったくそうして過そうとはお思いになれない。
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源氏もこんなに真実を隠し続ければ、自分も女のだれであるかを知りようがない、今の家が仮の住居であることは間違いのないことらしいから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然とするばかりであろう。行くえを失ってもあきらめがすぐつくものならよいが、それは断然不可能である。
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Kimi mo, "Kaku uranaku tayume te hahi-kakure na ba, iduko wo hakari to ka, ware mo tadune m. Karisome no kakurega to, hata miyu mere ba, idukata ni mo idukata ni mo, uturohi-yuka m hi wo, itu to mo sira zi." to obosu ni, ohi-madohasi te, nanome ni omohi-nasi tu beku ha, tada kabakari no susabi nite mo sugi nu beki koto wo, sarani sate sugusi te m to obosa re zu.
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4.2.2 |
人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、 いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「 なほ誰れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえありて便なかるべきことなりとも、 さるべきにこそは。我が心ながら、 いとかく人にしむことはなきを、 いかなる契りにかはありけむ」など 思ほしよる。
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人目をお憚りになって、お途絶えになる夜な夜ななどは、とても我慢ができず、苦しいまでに思われなさるので、「やはり誰とも知らせずに二条院に迎えてしまおう。もし世間に評判になって不都合なことであっても、そうなるはずの運命なのだ。我ながら、ひどくこう女に惹かれることはなかったのに、どのような宿縁であったのだろうか」などとお思いつきになる。
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世間をはばかって間を空ける夜などは堪えられない苦痛を覚えるのだと源氏は思って、世間へはだれとも知らせないで二条の院へ迎えよう、それを悪く言われても自分はそうなる前生の因縁だと思うほかはない、自分ながらもこれほど女に心を惹かれた経験が過去にないことを思うと、どうしても約束事と解釈するのが至当である、こんなふうに源氏は思って、
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Hitome wo obosi te, hedate oki tamahu yona-yona nado ha, ito sinobi-gataku, kurusiki made oboye tamahe ba, "Naho tare to naku te Nideu-no-win ni mukahe te m. Mosi kikoye ari te bin-nakaru beki koto nari tomo, saru-beki ni koso ha. Waga kokoro nagara, ito kaku hito ni simu koto ha naki wo, ika naru tigiri ni ka ha ari kem." nado omohosi-yoru.
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4.2.3 |
「 いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」
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「さあ、とても気楽な所で、のんびりとお話し申そう」
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「あなたもその気におなりなさい。私は気楽な家へあなたをつれて行って夫婦生活がしたい」
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"Iza, ito kokoro-yasuki tokoro nite, nodoka ni kikoye m."
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4.2.4 |
など、語らひたまへば、
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などと、お誘いになると、
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こんなことを女に言い出した。
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nado, katarahi tamahe ba,
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4.2.5 |
「 なほ、あやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、 もの恐ろしくこそあれ」
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「やはり、変でございすわ。そうおっしゃいますが、普通とは違ったお持てなしなので、何となく空恐ろしい気がしますわ」
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「でもまだあなたは私を普通には取り扱っていらっしゃらない方なんですから不安で」
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"Naho, ayasiu. Kaku notamahe do, yoduka nu ohom-motenasi nare ba, mono-osorosiku koso are."
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4.2.6 |
と、 いと若びて言へば、「 げに」と、ほほ笑まれたまひて、
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と、とても子供っぽく言うので、「なるほど」と、思わずにっこりなさって、
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若々しく夕顔が言う。源氏は微笑された。
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to, ito wakabi te ihe ba, "Geni" to, hohowema re tamahi te,
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4.2.7 |
「 げに、いづれか狐なるらむな。 ただはかられたまへかし」
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「なるほど、どちらが狐でしょうかね。ただ、化かされなさいな」
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「そう、どちらかが狐なんだろうね。でも欺されていらっしゃればいいじゃない」
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"Geni, idure ka kitune naru ram na. Tada hakara re tamahe kasi."
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4.2.8 |
と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、 さもありぬべく思ひたり。「 世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふに、なほ、 かの頭中将の常夏疑はしく、 語りし心ざま、 まづ思ひ出でられたまへど、「 忍ぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出でたまはず。
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と、優しそうにおっしゃると、女もすっかりその気になって、そうであってもいいと思っている。「世間に例のない、不都合なことであっても、一途に従順な心は、実にかわいい女だ」と、ご覧になると、やはり、あの頭中将の常夏の女かと疑われて、話された性質、それをまっさきにお思い出さずにはいらっしゃれないが、「きっと隠すような事情があるのだろう」と、むやみにお聞き出しなさらない。
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なつかしいふうに源氏が言うと、女はその気になっていく。どんな欠点があるにしても、これほど純な女を愛せずにはいられないではないかと思った時、源氏は初めからその疑いを持っていたが、頭中将の常夏の女はいよいよこの人らしいという考えが浮かんだ。しかし隠しているのはわけのあることであろうからと思って、しいて聞く気にはなれなかった。
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to, natukasige ni notamahe ba, womna mo imiziku nabiki te, sa mo ari nu beku omohi tari. "Yoni naku, kataha naru koto nari tomo, hitaburu ni sitagahu kokoro ha, ito aharege naru hito" to mi tamahu ni, naho, kano Tou-no-Tyuuzyau no Tokonatu utagahasiku, katari si kokoro-zama, madu omohi-ide rare tamahe do, "Sinoburu yau koso ha" to, anagati ni mo tohi-ide tamaha zu.
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4.2.9 |
気色ばみて、ふと背き 隠るべき心ざまなどはなければ、「 かれがれにとだえ置かむ 折こそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、 心ながらも、すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ」 とさへ、思しけり。
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表情に現して、不意に逃げ隠れするような性質などはないので、「離れ離れに、絶え間を置いたような折には、そのように気を変えることもあろうが、女のほうから、少し浮気することがあったほうが愛情も増さるであろう」とまで、お思いになった。
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感情を害した時などに突然そむいて行ってしまうような性格はなさそうである、自分が途絶えがちになったりした時には、あるいはそんな態度に出るかもしれぬが、自分ながら少し今の情熱が緩和された時にかえって女のよさがわかるのではないかと、それを望んでもできないのだから途絶えの起こってくるわけはない、したがって女の気持ちを不安に思う必要はないのだと知っていた。
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Kesikibami te huto somuki kakuru beki kokoro-zama nado ha nakere ba, "Kare-gare ni todaye-oka m wori koso ha, sayau ni omohi kaharu koto mo ara me, kokoro nagara mo, sukosi uturohu koto ara m koso ahare naru bekere" to sahe, obosi keri.
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4.2.10 |
八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ 住まひのさまも珍しきに、 暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤の男の声々、目覚まして、
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八月十五日夜、満月の光が、隙間の多い板葺きの家に、すっかり射し込んで来て、ご経験のない住居の様子も珍しいが、払暁近くなったのであろう、隣の家々から、賤しい男たちの声々が、目を覚まして、
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八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間だらけの家の中へさし込んで、狭い家の中の物が源氏の目に珍しく見えた。もう夜明けに近い時刻なのであろう。近所の家々で貧しい男たちが目をさまして高声で話すのが聞こえた。
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Hati-gwati zihu-go-ya, kumanaki tukikage, hima ohokaru itaya, nokori naku mori-ki te, mi-narahi tamaha nu sumahi no sama mo medurasiki ni, akatuki tikaku nari ni keru naru besi, tonari no ihe-ihe, ayasiki sidunowo no kowe-gowe, me samasi te,
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4.2.11 |
「 あはれ、いと寒しや」
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「ああ、ひどく貧しいことよ」
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「ああ寒い。
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"Ahare, ito samusi ya!"
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4.2.12 |
「 今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも 思ひかけねば、いと心細けれ。 北殿こそ、聞きたまふや」
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「今年は、商売も当てになる所も少なく、田舎への行き来も望めないから、ひどく心細いなあ。北隣さん、お聞きなさるか」
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今年こそもう商売のうまくいく自信が持てなくなった。地方廻りもできそうでないんだから心細いものだ。北隣さん、まあお聞きなさい」
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"Kotosi koso, narihahi ni mo tanomu tokoro sukunaku, winaka no kayohi mo omohi-kake ne ba, ito kokoro-bosokere. Kita-dono koso, kiki tamahu ya?"
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4.2.13 |
など、言ひ交はすも聞こゆ。
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などと、言い交わしているのも聞こえる。
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などと言っているのである。
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nado, ihi-kahasu mo kikoyu.
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4.2.14 |
いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどなきを、 女いと恥づかしく思ひたり。
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まことにほそぼそとした各自の生計のために起き出して、ざわめいているのも間近なのを、女はとても恥ずかしく思っている。
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哀れなその日その日の仕事のために起き出して、そろそろ労働を始める音なども近い所でするのを女は恥ずかしがっていた。
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Ito ahare naru onogazisi no itonami ni oki-ide te, sosomeki sawagu mo hodo naki wo, Womna ito hadukasiku omohi tari.
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4.2.15 |
艶だち気色ばまむ人は、 消えも入りぬべき住まひの さまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂きもかたはらいたきことも、 思ひ入れたるさまならで、 我がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、 いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかかやかむよりは、 罪許されてぞ見えける。
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風流ぶって気取りたがるような人は、消え入りたいほどの住居の様子のようである。けれでも、のんびりと、辛いことも嫌なことも気恥ずかしいことも、苦にしている様子でなく、自身の態度や様子は、とても上品でおっとりして、またとないくらい下品な隣家のぶしつけさを、どのようなこととも知っている様子でないので、かえって恥ずかしがり赤くなるよりは、罪がないように思われるのであった。
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気どった女であれば死ぬほどきまりの悪さを感じる場所に違いない。でも夕顔はおおようにしていた。人の恨めしさも、自分の悲しさも、体面の保たれぬきまり悪さも、できるだけ思ったとは見せまいとするふうで、自分自身は貴族の子らしく、娘らしくて、ひどい近所の会話の内容もわからぬようであるのが、恥じ入られたりするよりも感じがよかった。
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En-dati kesikibama m hito ha, kiye mo iri nu beki sumahi no sama na' meri kasi. Saredo, nodoka ni, turaki mo uki mo kataharaitaki koto mo, omohi-ire taru sama nara de, waga motenasi arisama ha, ito atehaka ni komekasiku te, mata-naku raugahasiki tonari no youi nasa wo, ika naru koto to mo kiki-siri taru sama nara ne ba, naka-naka, hadi kakayaka m yori ha, tumi yurusa re te zo miye keru.
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4.2.16 |
ごほごほと 鳴る神よりもおどろおどろしく、踏み轟かす唐臼の音も 枕上とおぼゆる。「 あな、耳かしかまし」と、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、 いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。 くだくだしきことのみ多かり。
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ごろごろと鳴る雷よりも騒がしく、踏み轟かす唐臼の音も枕元のように聞こえる。「ああ、やかましい」と、これには閉口されなさる。何の響きともお分りにならず、とても不思議で耳障りな音だとばかりお聞きになる。ごたごたしたことばかり多かった。
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ごほごほと雷以上の恐い音をさせる唐臼なども、すぐ寝床のそばで鳴るように聞こえた。源氏もやかましいとこれは思った。けれどもこの貴公子も何から起こる音とは知らないのである。大きなたまらぬ音響のする何かだと思っていた。そのほかにもまだ多くの騒がしい雑音が聞こえた。
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Goho-goho to Naru-Kami yori mo odoro-odorosiku, humi todorokasu kara-usu no oto mo makura-gami to oboyuru. "Ana, mimi kasikamasi!" to, kore ni zo, obosa ruru. Nani no hibiki to mo kiki-ire tamaha zu, ito ayasiu mezamasiki otonahi to nomi kiki tamahu. Kuda-kudasiki koto nomi ohokari.
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4.2.17 |
白妙の衣うつ砧の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、 忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣戸を引き開けて、もろともに見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる 呉竹、前栽の露は、なほ かかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、 ▼ 壁のなかの蟋蟀だに間遠に聞き慣らひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、 御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。
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衣を打つ砧の音も、かすかにあちらこちらからと聞こえて来て、空を飛ぶ雁の声も、一緒になって、堪えきれない情趣が多い。端近いご座所だったので、遣戸を引き開けて、一緒に外を御覧になる。広くもない庭に、しゃれた呉竹や、前栽の露は、やはりこのような所も同じように光っていた。虫の声々が入り乱れ、壁の内側のこおろぎでさえ、時たまお聞きになっているお耳に、じかに押し付けたように鳴き乱れているのを、かえって違った感じにお思いなさるのも、お気持ちの深さゆえに、すべての欠点が許されるのであろうよ。
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白い麻布を打つ砧のかすかな音もあちこちにした。空を行く雁の声もした。秋の悲哀がしみじみと感じられる。庭に近い室であったから、横の引き戸を開けて二人で外をながめるのであった。小さい庭にしゃれた姿の竹が立っていて、草の上の露はこんなところのも二条の院の前栽のに変わらずきらきらと光っている。虫もたくさん鳴いていた。壁の中で鳴くといわれて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀でさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていたかったが、ここではどの虫も耳のそばへとまって鳴くような風変わりな情趣だと源氏が思うのも、夕顔を深く愛する心が何事も悪くは思わせないのであろう。
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Sirotahe no koromo utu kinuta no oto mo, kasukani konata kanata kiki-watasa re, sora tobu kari no kowe, tori atume te, sinobi-gataki koto ohokari. Hasi tikaki o-masi dokoro nari kere ba, yarido wo hiki-ake te, morotomoni mi-idasi tamahu. Hodo naki niha ni, sare taru kuretake, sensai no tuyu ha, naho kakaru tokoro mo onazi goto kirameki tari. Musi no kowe-gowe midari-gahasiku, kabe no naka no kirigirisu dani madoho ni kiki narahi tamahe ru ohom-mimi ni, sasi-ate taru yau ni naki midaruru wo, naka-naka sama kahe te obosa ruru mo, mi-kokorozasi hito-tu no asakara nu ni, yorodu no tumi yurusa ruru na' meri kasi.
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4.2.18 |
白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「 あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。 心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて 見まほしく思さるれば、
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白い袷、薄紫色の柔らかい衣を重ね着て、地味な姿態は、とてもかわいらしげに華奢な感じがして、どこそこと取り立てて優れた所はないが、か細くしなやかな感じがして、何かちょっと言った感じは、「ああ、いじらしい」と、ただもうかわいく思われる。気取ったところをもう少し加えたらと、御覧になりながら、なおもくつろいで逢いたく思われなさるので、
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白い袷に柔らかい淡紫を重ねたはなやかな姿ではない、ほっそりとした人で、どこかきわだって非常によいというところはないが繊細な感じのする美人で、ものを言う様子に弱々しい可憐さが十分にあった。才気らしいものを少しこの人に添えたらと源氏は批評的に見ながらも、もっと深くこの人を知りたい気がして、
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Siroki ahase, usu-iro no nayoyoka naru wo kasane te, hanayaka nara nu sugata, ito rautage ni ayeka naru kokoti si te, soko to tori-tate te sugure taru koto mo nakere do, hosoyaka ni tawo-tawo to si te, mono uti-ihi taru kehahi, "Ana, kokoro-gurusi!" to, tada ito rautaku miyu. Kokoro-bami taru kata wo sukosi sohe tara ba, to mi tamahi nagara, naho utitoke te mi mahosiku obosa rure ba,
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4.2.19 |
「 いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみは、 いと苦しかりけり」とのたまへば、
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「さあ、ちょっとこの辺の近い所で、気楽に夜を明かそう。こうしてばかりいては、とても辛いなあ」とおっしゃると、
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「さあ出かけましょう。この近くのある家へ行って、気楽に明日まで話しましょう。こんなふうでいつも暗い間に別れていかなければならないのは苦しいから」 と言うと、
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"Iza, tada kono watari tikaki tokoro ni, kokoro yasuku te akasa m. Kakute nomi ha, ito kurusikari keri." to notamahe ba,
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4.2.20 |
「 ▼ いかでか。 にはかならむ」
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「とてもそんな。急でしょう」
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「どうしてそんなに急なことをお言い出しになりますの」
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"Ikade ka. Nihaka nara m."
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4.2.21 |
と、いとおいらかに 言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで 頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所も え憚りたまはで、 右近を召し出でて、 随身を召させたまひて、 御車引き入れさせたまふ。 このある人びとも、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、 おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。
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と、とてもおっとりと言ってじっとしている。この世だけでない来世の約束などまで相手に期待させていらっしゃるので、気を許す心根などが、不思議に普通と違って、世慣れた女とも思われないので、他人がどう思うかを慮ることもおできになれず、右近を召し出して、随身を呼ばせなさって、お車を引き入れさせなさる。この家の女房たちも、このようなお気持ちが並大抵でないのが分かるので、不安に思いながらも、期待をかけ申していた。
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おおように夕顔は言っていた。変わらぬ恋を死後の世界にまで続けようと源氏の誓うのを見ると何の疑念もはさまずに信じてよろこぶ様子などのうぶさは、一度結婚した経験のある女とは思えないほど可憐であった。源氏はもうだれの思わくもはばかる気がなくなって、右近に随身を呼ばせて、車を庭へ入れることを命じた。夕顔の女房たちも、この通う男が女主人を深く愛していることを知っていたから、だれともわからずにいながら相当に信頼していた。
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to, ito oyiraka ni ihi te wi tari. Konoyo nomi nara nu tigiri nado made tanome tamahu ni, utitokuru kokorobahe nado, ayasiku yau kahari te, yo-nare taru hito to mo oboye ne ba, hito no omoha m tokoro mo e habakari tamaha de, Ukon wo mesi-ide te, zuizin wo mesa se tamahi te, mi-kuruma hiki-ire sase tamahu. Kono aru hito-bito mo, kakaru mi-kokorozasi no oroka nara nu wo mi-sire ba, obomekasi nagara, tanomi-kake kikoye tari.
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4.2.22 |
明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、 御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声に ぬかづくぞ聞こゆる。起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、「 ▼ 朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」と、聞きたまふ。「 南無当来導師」 とぞ拝むなる。
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夜明けも近くなってしまった。鶏の声などは聞こえないで、御嶽精進であろうか、ただ老人めいた声で礼拝するのが聞こえる。立ったり座ったりの様子、難儀そうに勤行する。たいそうしみじみと、「朝の露と違わないはかないこの世を、何を欲張りわが身の利益を祈るのだろうか」と、お聞きになる。「南無当来導師、弥勒菩薩」と言って拝んでいるようだ。
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ずっと明け方近くなってきた。この家に鶏の声は聞こえないで、現世利益の御岳教の信心なのか、老人らしい声で、起ったりすわったりして、とても忙しく苦しそうにして祈る声が聞かれた。源氏は身にしむように思って、朝露と同じように短い命を持つ人間が、この世に何の慾を持って祈祷などをするのだろうと聞いているうちに、 「南無当来の導師」 と阿弥陀如来を呼びかけた。
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Akegata mo tikau nari ni keri. Tori no kowe nado ha kikoye de, mitake-syauzi ni ya ara m, tada okinabi taru kowe ni nukaduku zo kikoyuru. Tati-wi no kehahi, tahegatage ni okonahu. Ito ahare ni, "Asita no tuyu ni kotonara nu yo wo, nani wo musaboru mi no inori ni ka" to, kiki tamahu. "Nam taurai dousi" to zo ogamu naru.
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4.2.23 |
「 かれ、聞きたまへ。この世とのみは思はざりけり」と、 あはれがりたまひて、
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「あれを、お聞きなさい。この世だけとは思っていないのだね」と、しみじみと感じられて、
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「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」 とほめて、
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"Kare, kiki tamahe. Konoyo to nomi ha omoha zari keri." to, aharegari tamahi te,
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4.2.24 |
「 優婆塞が行ふ道をしるべにて
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「優婆塞が勤行しているのを道しるべにして
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優婆塞が行なふ道をしるべにて
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"Ubasoku ga okonahu miti wo sirube nite
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4.2.25 |
来む世も深き契り違ふな」
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来世にも深い約束に背かないで下さい」
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来ん世も深き契りたがふな
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ko m yo mo hukaki tigiri tagahu na
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4.2.26 |
長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて ★ ★、 弥勒の世をかねたまふ。 行く先の御頼め、いとこちたし。
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長生殿の昔の例は縁起が悪いので、翼を交そうとは言わずに、弥勒菩薩が出現する未来までの愛を約束なさる。そのような長いお約束とは、まことに大げさである。
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とも言った。玄宗と楊貴妃の七月七日の長生殿の誓いは実現されない空想であったが、五十六億七千万年後の弥勒菩薩出現の世までも変わらぬ誓いを源氏はしたのである。
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Tyausei-den no huruki tamesi ha yuyusiku te, hane wo kahasa m to ha hiki-kahe te, Miroku no yo wo kane tamahu. Yuku-saki no ohom-tanome, ito kotitasi.
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4.2.27 |
「 前の世の契り知らるる身の憂さに
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「前世の宿縁の拙さが身につまされるので
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前の世の契り知らるる身のうさに
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"Saki no yo no tigiri sira ruru mi no usa ni
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4.2.28 |
行く末かねて頼みがたさよ」
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来世まではとても頼りかねます」
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行く末かけて頼みがたさよ
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yuku-suwe kane te tanomi gatasa yo
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4.2.29 |
かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。
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このような返歌のし方なども、実のところ、心細いようである。
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と女は言った。歌を詠む才なども豊富であろうとは思われない。
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Kayau no sudi nado mo, saruha, kokoro-motonaka' meri.
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出典6 |
壁のなかの蟋蟀だに |
季夏之月---蟋蟀居壁 |
礼記-月令 |
4.2.17 |
出典7 |
朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか |
朝露貪名利 夕陽憂子孫 |
白氏文集二-七九 不致仕 |
4.2.22 |
出典8 |
長生殿の古き例は |
七月七日長生殿 夜半無人私語時 |
白氏文集十二-五九六 長恨歌 |
4.2.26 |
出典9 |
翼を交さむとは |
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝 |
白氏文集十二-五九六 長恨歌 |
4.2.26 |
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4.3 |
第三段 なにがしの院に移る
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4-3 They remove to Nanigasi-no-in
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4.3.1 |
いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、 とかくのたまふほど、 にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、 例の急ぎ出でたまひて、軽らかに うち乗せたまへれば、 右近ぞ乗りぬる。
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ためらっている月のように、出し抜けに行く先も分からず出かけることを、女は躊躇し、いろいろと説得なさるうちに、急に雲に隠れて、明け行く空は実に美しい。体裁の悪くなる前にと、いつものように急いでお出になって、軽々とお乗せになったので、右近が乗った。
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月夜に出れば月に誘惑されて行って帰らないことがあるということを思って出かけるのを躊躇する夕顔に、源氏はいろいろに言って同行を勧めているうちに月もはいってしまって東の空の白む秋のしののめが始まってきた。 人目を引かぬ間にと思って源氏は出かけるのを急いだ。女のからだを源氏が軽々と抱いて車に乗せ右近が同乗したのであった。
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Isayohu tuki ni, yukurinaku akugare m koto wo, Womna ha omohi yasurahi, tokaku notamahu hodo, nihaka ni kumo-gakure te, ake-yuku sora ito wokasi. Hasitanaki hodo ni nara nu saki ni to, rei no isogi-ide tamahi te, karoraka ni uti nose tamahe re ba, Ukon zo nori nuru.
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4.3.2 |
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、 預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて 見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、 露けきに、簾をさへ上げたまへれば、 御袖もいたく濡れにけり。
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その辺りに近い某院にお着きあそばして、管理人をお呼び出しになる間、荒れた門の忍草が生い茂っていて見上げられるのが、譬えようなく木暗い。霧も深く、露っぽいところに、簾までを上げていらっしゃるので、お袖もひどく濡れてしまった。
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五条に近い帝室の後院である某院へ着いた。呼び出した院の預かり役の出て来るまで留めてある車から、忍ぶ草の生い茂った門の廂が見上げられた。たくさんにある大木が暗さを作っているのである。霧も深く降っていて空気の湿っぽいのに車の簾を上げさせてあったから源氏の袖もそのうちべったりと濡れてしまった。
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Sono watari tikaki Nanigasi-no-win ni ohasimasi tuki te, adukari mesi-iduru hodo, are taru kado no sinobugusa sigeri te mi-age rare taru, tatosihe-naku kogurasi. Kiri mo hukaku, tuyukeki ni, sudare wo sahe age tamahe re ba, ohom-sode mo itaku nure ni keri.
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4.3.3 |
「 まだかやうなることを 慣らはざりつるを、 心尽くしなることにもありけるかな。
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「まだこのようなことを経験しなかったが、いろいろと気をもむことであるなあ。
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「私にははじめての経験だが妙に不安なものだ。
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"Mada kayau naru koto wo naraha zari turu wo, kokoro-dukusi naru koto ni mo ari keru kana!
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4.3.4 |
いにしへもかくやは人の惑ひけむ
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昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
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いにしへもかくやは人の惑ひけん
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Inisihe mo kaku ya ha hito no madohi kem
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4.3.5 |
我がまだ知らぬしののめの道
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わたしには経験したことのない明け方の道だ
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わがまだしらぬしののめの道
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waga mada sira nu sinonome no miti
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4.3.6 |
慣らひたまへりや」
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ご経験なさいましたか」
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前にこんなことがありましたか」
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Narahi tamahe ri ya?"
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4.3.7 |
とのたまふ。 女、恥ぢらひて、
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とおっしゃる。女は、恥ずかしがって、
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と聞かれて女は恥ずかしそうだった。
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to notamahu. Womna, hadirahi te,
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4.3.8 |
「 山の端の心も知らで行く月は
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「山の端をどこと知らないで随って行く月は
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「山の端の心も知らず行く月は
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"Yama no ha no kokoro mo sira de yuku tuki ha
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4.3.9 |
うはの空にて影や絶えなむ
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途中で光が消えてしまうのではないでしょうか
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上の空にて影や消えなん
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uha-no-sora nite kage ya taye na m
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4.3.10 |
心細く」
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心細くて」
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心細うございます、私は」
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Kokoro-bosoku."
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4.3.11 |
とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「 かのさし集ひたる住まひの慣らひならむ」と、をかしく思す。
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と言って、何となく怖がって気味悪そうに思っているので、「あの建て込んでいる小家に住み慣れているからだろう」と、おもしろくお思いになる。
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凄さに女がおびえてもいるように見えるのを、源氏はあの小さい家におおぜい住んでいた人なのだから道理であると思っておかしかった。
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tote, mono-osorosiu sugoge ni omohi tare ba, "Kano sasi-tudohi taru sumahi no narahi nara m" to, wokasiku obosu.
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4.3.12 |
御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、 高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、 艶なる心地 ★して、 来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。 預りいみじく経営しありく気色に、 この御ありさま知りはてぬ。
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お車を入れさせて、西の対にご座所などを準備する間、高欄に轅を掛けて待っていらっしゃる。右近は、心浮き立つ優美な心地がして、過去のことなども、一人思い出すのであった。管理人が一生懸命奔走している様子から、このご様子をすっかり知った。
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門内へ車を入れさせて、西の対に仕度をさせている間、高欄に車の柄を引っかけて源氏らは庭にいた。右近は艶な情趣を味わいながら女主人の過去の恋愛時代のある場面なども思い出されるのであった。預かり役がみずから出てする客人の扱いが丁寧きわまるものであることから、右近にはこの風流男の何者であるかがわかった。
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Mi-kuruma ire sase te, nisi-no-tai ni o-masi nado yosohu hodo, kauran ni mi-kuruma hiki-kake te tati tamahe ri. Ukon, en naru kokoti si te, kisi-kata no koto nado mo, hito sire zu omohi-ide keri. Adukari imiziku keimei-si ariku kesiki ni, kono ohom-arisama siri-hate nu.
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4.3.13 |
ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。 かりそめなれど、清げにしつらひたり。
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ほのかに物が見えるころに、お下りになったようである。仮ごしらえだが、こざっぱりと設けてある。
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物の形がほのぼの見えるころに家へはいった。 にわかな仕度ではあったが体裁よく座敷がこしらえてあった。
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Hono-bono to mono miyuru hodo ni, ori tamahi nu meri. Karisome nare do, kiyoge ni siturahi tari.
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4.3.14 |
「 御供に人も さぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、 殿にも仕うまつる者なりければ、 参りよりて、「 さるべき人召すべきにや」など、 申さすれど、
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「お供にどなたもお仕えいたしておりませんな。不都合なことですな」と言って、親しい下家司で、大殿にも仕えている者だったので、参り寄って、「適当な人を、お呼びなさるべきではありませんか」などと、申し上げさせるが、
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「だれというほどの人がお供しておらないなどとは、どうもいやはや」 などといって預かり役は始終出入りする源氏の下家司でもあったから、座敷の近くへ来て右近に、 「御家司をどなたかお呼び寄せしたものでございましょうか」 と取り次がせた。
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"Ohom-tomo ni hito mo saburaha zari keri. Hubin naru waza kana!" tote, mutumasiki simo-geisi nite, Tono ni mo tukau-maturu mono nari kere ba, mawiri-yori te, "Saru-beki hito mesu beki ni ya?" nado, mausa sure do,
|
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4.3.15 |
「 ことさらに人来まじき隠れ家求めたる なり。 さらに心よりほかに漏らすな」と 口がためさせたまふ。
|
「特に人の来ないような隠れ家を求めたのだ。決して他人には言うな」と口封じさせなさる。
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「わざわざだれにもわからない場所にここを選んだのだから、おまえ以外の者にはすべて秘密にしておいてくれ」 と源氏は口留めをした。
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"Kotosarani hito ku maziki kakurega motome taru nari. Sarani kokoro yori hoka ni morasu na." to kuti-gatame sase tamahu.
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4.3.16 |
御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、 「 息長川」と契りたまふことよりほかのことなし。
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お粥などを準備して差し上げたが、取り次ぐお給仕が揃わない。まだ経験のないご外泊に、「鳰鳥の息長川」よりもいついつまでもとお約束なさること以外ない。
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さっそくに調えられた粥などが出た。給仕も食器も間に合わせを忍ぶよりほかはない。こんな経験を持たぬ源氏は、一切を切り放して気にかけぬこととして、恋人とはばからず語り合う愉楽に酔おうとした。
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Ohom-kayu nado isogi mawira se tare do, toritugu ohom-makanahi uti-aha zu. Mada sira nu koto naru ohom-tabine ni, "Okinaga-kaha" to tigiri tamahu koto yori hoka no koto nasi.
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4.3.17 |
日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。 いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな 秋の野ら ★にて、池も水草に埋もれたれば、 いとけうとげになりにける所かな ★。 別納の方にぞ、曹司などして、 人住むべかめれど、こなたは離れたり。
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日が高くなったころにお起きになって、格子を自らお上げになる。とてもひどく荒れて、人影もなく広々と見渡されて、木立がとても気味悪く鬱蒼と古びている。側近くの草木などは、格別見所もなく、すっかり秋の野原となって、池も水草に埋もれているので、まことに恐ろしくなってしまった所であるよ。別納の方に、部屋などを設えて、人が住んでいるようだが、こちらは離れている。
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源氏は昼ごろに起きて格子を自身で上げた。非常に荒れていて、人影などは見えずにはるばると遠くまでが見渡される。向こうのほうの木立ちは気味悪く古い大木に皆なっていた。近い値え込みの草や灌木などには美しい姿もない。秋の荒野の景色になっている。池も水草でうずめられた凄いものである。別れた棟のほうに部屋などを持って預かり役は住むらしいが、そことこことはよほど離れている。
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Hi takuru hodo ni oki tamahi te, kausi tedukara age tamahu. Ito itaku are te, hitome mo naku haru-baru to mi-watasa re te, kodati ito utomasiku mono-huri tari. Ke-dikaki kusaki nado ha, koto ni mi-dokoro naku, mina aki no nora ni te, ike mo mikusa ni udumore tare ba, ito keutoge ni nari ni keru tokoro kana! Betinahu no kata ni zo, zausi nado si te, hito sumu beka' mere do, konata ha hanare tari.
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4.3.18 |
「 けうとくもなりにける所かな ★。さりとも、 鬼なども 我をば見許してむ」とのたまふ。
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「気味悪そうになってしまった所だね。いくら何でも、鬼などもわたしならきっと見逃すだろう」とおっしゃる。
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「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」 と源氏は言った。
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"Keutoku mo nari ni keru tokoro kana! Sari-tomo, oni nado mo ware wo ba mi-yurusi te m." to notamahu.
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4.3.19 |
顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「 げに、かばかりにて隔てあらむも、 ことのさまに違ひたり」と思して、
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お顔は依然として隠していらっしゃるが、女がとても辛いと思っているので、「なるほど、これ程深い仲になって隠しているようなのも、男女のあるべきさまと違っている」とお思いになって、
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まだこの時までは顔を隠していたが、この態度を女が恨めしがっているのを知って、何たる錯誤だ、不都合なのは自分である、こんなに愛していながらと気がついた、
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Kaho ha naho kakusi tamahe re do, Womna no ito turasi to omohe re ba, "Geni, kabakari ni te hedate ara m mo, koto-no-sama ni tagahi tari" to obosi te,
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4.3.20 |
「 夕露に紐とく花は玉鉾の
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「夕べの露を待って花開いて顔をお見せするのは
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「夕露にひもとく花は玉鉾の
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"Yuhu-tuyu ni himo toku hana ha tamaboko no
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4.3.21 |
たよりに見えし縁にこそありけれ
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道で出逢った縁からなのですよ
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たよりに見えし縁こそありけれ
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tayori ni miye si e' ni koso ari kere
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4.3.22 |
露の光やいかに」
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露の光はどうですか」
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あなたの心あてにそれかと思うと言った時の人の顔を近くに見て幻滅が起こりませんか」
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Tuyu no hikari ya ikani?"
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4.3.23 |
とのたまへば、 後目に見おこせて、
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とおっしゃると、流し目に見やって、
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と言う源氏の君を後目に女は見上げて、
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to notamahe ba, sirime ni mi-okose te,
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4.3.24 |
「 光ありと見し夕顔のうは露は
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「光輝いていると見ました夕顔の上露は
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光ありと見し夕顔のうは露は
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"Hikari ari to mi si yuhugaho no uha-tuyu ha
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4.3.25 |
たそかれ時のそら目なりけり」
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たそがれ時の見間違いでした」
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黄昏時のそら目なりけり
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tasokare-doki no sorame nari keri
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4.3.26 |
とほのかに言ふ。をかしと 思しなす。 げに、 うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいて ゆゆしきまで見えたまふ。
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とかすかに言う。おもしろいとお思いになる。なるほど、うちとけていらっしゃるご様子は、またとなく、場所が場所ゆえ、いっそう不吉なまでにお美しくお見えになる。
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と言った。冗談までも言う気になったのが源氏にはうれしかった。打ち解けた瞬間から源氏の美はあたりに放散した。古くさく荒れた家との対照はまして魅惑的だった。
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to honoka ni ihu. Wokasi to obosi-nasu. Geni, utitoke tamahe ru sama, yo ni naku, tokoro-kara, maite yuyusiki made miye tamahu.
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4.3.27 |
「 尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと 思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」
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「いつまでも隠していらっしゃる辛さに、顕すまいと思っていたが。せめて今からでもお名乗り下さい。とても気味が悪い」
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「いつまでも真実のことを打ちあけてくれないのが恨めしくって、私もだれであるかを隠し通したのだが、負けた。もういいでしょう、名を言ってください、人間離れがあまりしすぎます」
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"Tukise zu hedate tamahe ru turasa ni, arahasa zi to omohi turu mono wo. Ima dani nanori si tamahe. Ito mukutukesi."
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4.3.28 |
とのたまへど、 「 海人の子なれば」とて、 さすがにうちとけぬさま、いと あいだれたり。
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とおっしゃるが、「海人の子なので」と言って、依然としてうちとけない態度は、とても甘え過ぎている。
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と源氏が言っても、 「家も何もない女ですもの」 と言ってそこまではまだ打ち解けぬ様子も美しく感ぜられた。
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to notamahe do, "Ama no ko nare ba." tote, sasuga ni uti-toke nu sama, ito aidare tari.
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4.3.29 |
「 よし、これも我からなめり ★」と、 怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。
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「それでは、これも『われから』のようだ」と、怨みまた一方では睦まじく語り合いながら、一日お過ごしになる。
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「しかたがない。私が悪いのだから」 と怨んでみたり、永久の恋の誓いをし合ったりして時を送った。
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"Yosi, kore mo ware-kara na' meri." to, urami katu ha katarahi, kurasi tamahu.
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4.3.30 |
惟光、尋ねきこえて、 御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くも えさぶらひ寄らず。「 かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、 さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、「 我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、 めざましう思ひをる。
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惟光が、お探し申して、お菓子などを差し上げさせる。右近が文句言うことは、やはり気の毒なので、お側に伺候することもできない。「こんなにまでご執心でいられるのは、魅力的で、きっとそうに違いない様子なのだろう」と推量するにつけても、「自分がうまく言い寄ろうと思えばできたのを、お譲り申して、なんと寛大なことよ」などと、失敬なことを考えている。
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惟光が源氏の居所を突きとめてきて、用意してきた菓子などを座敷へ持たせてよこした。これまで白ばくれていた態度を右近に恨まれるのがつらくて、近い所へは顔を見せない。惟光は源氏が人騒がせに居所を不明にして、一日を犠牲にするまで熱心になりうる相手の女は、それに価する者であるらしいと想像をして、当然自己のものになしうるはずの人を主君にゆずった自分は広量なものだと嫉妬に似た心で自嘲もし、羨望もしていた。
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Koremitu, tadune kikoye te, ohom-kudamono nado mawira su. Ukon ga iha m koto, sasuga ni itohosikere ba, tikaku mo e saburahi yora zu. "Kaku made tadori-ariki tamahu, wokasiu, sa mo ari nu beki arisama ni koso ha." to osihakaru ni mo, "Waga ito yoku omohi-yori nu bekari si koto wo, yuduri kikoye te, kokoro hirosa yo!" nado, mezamasiu omohi woru.
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4.3.31 |
たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。 つと御かたはらに ★添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、「 名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。
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譬えようもなく静かな夕方の空をお眺めになって、奥の方は暗く何となく気味が悪いと、女は思っているので、端の簾を上げて、添い臥していらっしゃる。夕映えのお顔を互いに見交わして、女も、このような出来事を、意外に不思議な気持ちがする一方で、すべての嘆きを忘れて、少しずつ打ち解けていく様子は、実にかわいい。ぴったりとお側に一日中添ったままで、何かをとても怖がっている様子は、子供っぽくいじらしい。格子を早くお下ろしになって、大殿油を点灯させて、「すっかり深い仲となったご様子でいて、依然として心の中に隠し事をなさっているのが辛い」と、お恨みになる。
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静かな静かな夕方の空をながめていて、奥のほうは暗くて気味が悪いと夕顔が思うふうなので、縁の簾を上げて夕映えの雲をいっしょに見て、女も源氏とただ二人で暮らしえた一日に、まだまったく落ち着かぬ恋の境地とはいえ、過去に知らない満足が得られたらしく、少しずつ打ち解けた様子が可憐であった。じっと源氏のそばへ寄って、この場所がこわくてならぬふうであるのがいかにも若々しい。格子を早くおろして灯をつけさせてからも、 「私のほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうでないのだからいけない」 などと源氏は恨みを言っていた。
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Tatosie-naku siduka naru yuhube no sora wo nagame tamahi te, oku no kata ha, kurau mono-mutukasi to, Womna ha omohi tare ba, hasi no sudare wo age te, sohi-husi tamahe ri. Yuhu-bahe wo mi-kahasi te, Womna mo, kakaru arisama wo, omohi no hoka ni ayasiki kokoti ha si nagara, yorodu no nageki wasure te, sukosi utitoke yuku kesiki, ito rautasi. Tuto ohom-katahara ni sohi-kurasi te, mono wo ito osorosi to omohi taru sama, wakau kokoro-gurusi. Kausi toku orosi tamahi te, ohotonabura mawira se te, "Nagori naku nari ni taru ohom-arisama ni te, naho kokoro no uti no hedate nokosi tamahe ru nam turaki." to, urami tamahu.
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4.3.32 |
「 内裏に、いかに求めさせたまふらむを、 いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「 あやしの心や。 六条わたりにも、 いかに思ひ乱れたまふらむ。 恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「 あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、 思ひ比べられたまひける。
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「主上には、どんなにかお探しあそばしているだろうから、人々はどこを探しているだろうか」と、思いをおはせになって、また一方では、「不思議な気持ちだ。六条辺りでも、どんなにお思い悩んでいらっしゃることだろう。怨まれることも、辛いことだし、もっともなことだ」と、おいたわしい方としては、まっさきにお思い出し申し上げなさる。無心に向かい合って座っているのを、かわいいとお思いになるにつれて、「あまり思慮深く、対座する者までが息が詰るようなご様子を、少し取り除きたいものだ」と、ついご比較されるのであった。
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陛下はきっと今日も自分をお召しになったに違いないが、捜す人たちはどう見当をつけてどこへ行っているだろう、などと想像をしながらも、これほどまでにこの女を溺愛している自分を源氏は不思議に思った。六条の貴女もどんなに煩悶をしていることだろう、恨まれるのは苦しいが恨むのは道理であると、恋人のことはこんな時にもまず気にかかった。無邪気に男を信じていっしょにいる女に愛を感じるとともに、あまりにまで高い自尊心にみずから煩わされている六条の貴女が思われて、少しその点を取り捨てたならと、眼前の人に比べて源氏は思うのであった。
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"Uti ni, ika ni motome sase tamahu ram wo, iduko ni tadunu ram." to, obosi-yari te, katu ha, "Ayasi no kokoro ya! Rokudeu watari ni mo, ika ni omohi-midare tamahu ram? Urami rare m ni, kurusiu, kotowari nari." to, itohosiki sudi ha, madu omohi kikoye tamahu. Nanigokoro-mo-naki sasi-mukahi wo, ahare to obosu mama ni, "Amari kokoro hukaku, miru hito mo kurusiki ohom-arisama wo, sukosi tori-sute baya" to, omohi kurabe rare tamahi keru.
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出典10 |
「息長川」 |
鳰鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむこと尽きめやも |
万葉集二十-四四五八 馬史国人 |
4.3.16 |
出典11 |
「海人の子なれば」 |
白波の寄する渚に世を過ぐす海人の子なれば宿も定めず |
和漢朗詠下-七二二 海人詠 |
4.3.28 |
出典12 |
我からなめり |
海人の刈る藻に棲む虫の我からとねをこそ泣かめ世をば恨みじ |
古今集恋五-八〇七 藤原直子 |
4.3.29 |
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4.4 |
第四段 夜半、もののけ現われる
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4-4 A female ghost appears at midnight
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4.4.1 |
宵過ぐるほど、すこし 寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、
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宵を過ぎるころ、少し寝入りなさった頃に、おん枕上に、とても美しそうな女が座って、
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十時過ぎに少し寝入った源氏は枕の所に美しい女がすわっているのを見た。
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Yohi suguru hodo, sukosi ne-iri tamahe ru ni, ohom-makura-gami ni, ito wokasige naru womna wi te,
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4.4.2 |
「 己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
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「わたしがあなたをとても素晴らしいとお慕い申し上げているそのわたしには、お訪ねもなさらず、このような、特に優れたところもない女を連れていらっしゃって、おかわいがりになさるのは、まことに癪にさわり辛い」
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「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」
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"Onoga ito medetasi to mi tatematuru wo ba, tadune omohosa de, kaku, kotonaru koto naki hito wo wi te ohasi te, tokimekasi tamahu koso, ito mezamasiku turakere."
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4.4.3 |
とて、 この御かたはらの人をかき起こさむとす、 と見たまふ。
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と言って、自分のお側の人を引き起こそうとしているる、と御覧になる。
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と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。
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tote, kono ohom-katahara no hito wo kaki-okosa m to su, to mi tamahu.
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4.4.4 |
物に襲はるる心地して、 おどろきたまへれば、火も 消えにけり。 うたて思さるれば、 太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、 参り寄れり。
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魔物に襲われる気持ちがして、目をお覚ましになると、火も消えていた。気持ち悪くお思いになるので、太刀を引き抜いて、そっとお置きになって、右近をお起こしになる。この人も怖がっている様子で、参り寄った。
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苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。
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Mono ni osoha ruru kokoti si te, odoroki tamahe re ba, hi mo kiye ni keri. Utate obosa rure ba, tati wo hiki-nuki te, uti-oki tamahi te, Ukon wo okosi tamahu. Kore mo osorosi to omohi taru sama ni te, mawiri-yore ri.
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4.4.5 |
「 渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、
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「渡殿にいる宿直人を起こして、『紙燭をつけて参れ』と言いなさい」とおっしゃると、
|
「渡殿にいる宿直の人を起こして、蝋燭をつけて来るように言うがいい」
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"Wata-dono naru tonowi-bito okosi te, 'Sisoku sasi te mawire' to ihe." to notamahe ba,
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4.4.6 |
「 いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
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「どうして行けましょうか。暗くて」と言うので、
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「どうしてそんな所へまで参れるものでございますか、暗うて」
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"Ikade-ka makara m. Kurau te." to ihe ba,
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4.4.7 |
「 あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、 手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。 人え聞きつけで 参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、 いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。
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「ああ、子供みたいな」と、ちょっとお笑いになって、手をお叩きになると、こだまが応える音、まことに気味が悪い。誰も聞きつけないで参上しないので、この女君は、ひどくふるえ脅えて、どうしてよいか分からなく思っている。汗もびっしょりになって、正気を失った様子である。
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「子供らしいじゃないか」 笑って源氏が手をたたくとそれが反響になった。限りない気味悪さである。しかもその音を聞きつけて来る者はだれもない。夕顔は非常にこわがってふるえていて、どうすればいいだろうと思うふうである。汗をずっぷりとかいて、意識のありなしも疑わしい。
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"Ana, waka-wakasi!" to, uti-warahi tamahi te, te wo tataki tamahe ba, yamabiko no kotahuru kowe, ito utomasi. Hito e kiki-tuke de mawira nu ni, kono Womna-Gimi, imiziku wananaki-madohi te, ika-sama ni se m to omohe ri. Ase mo sitodo ni nari te, ware-ka no kesiki nari.
|
|
4.4.8 |
「 物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、 いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「 いとか弱くて、 昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
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「むやみにお怖がりあそばすご性質ですから、どんなにかお怖がりのことでしょうか」と、右近も申し上げる。「ほんとうにか弱くて、昼も空ばかり見ていたものだな、気の毒に」とお思いになって、
|
「非常に物恐れをなさいます御性質ですから、どんなお気持ちがなさるのでございましょうか」 と右近も言った。弱々しい人で今日の昼間も部屋の中を見まわすことができずに空をばかりながめていたのであるからと思うと、源氏はかわいそうでならなかった。
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"Mono-odi wo nam warinaku se sase tamahu honzyau nite, ikani obosa ruru ni ka" to, Ukon mo kikoyu. "Ito ka-yowaku te, hiru mo sora wo nomi mi turu mono wo, itohosi." to obosi te,
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|
4.4.9 |
「 我、人を起こさむ。手たたけば、 山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
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「わたしが、誰かを起こそう。手を叩くと、こだまが応える、まことにうるさい。こちらに、しばらくは、近くへ」
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「私が行って人を起こそう。手をたたくと山彦がしてうるさくてならない。しばらくの間ここへ寄っていてくれ」
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"Ware, hito wo okosa m. Te tatake ba, yamabiko no kotahuru, ito urusasi. Koko ni, sibasi, tikaku."
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4.4.10 |
とて、右近を引き寄せたまひて、 西の妻戸に出でて、戸を 押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。
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と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸に出て、戸を押し開けなさると、渡殿の火も既に消えていた。
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と言って、右近を寝床のほうへ引き寄せておいて、両側の妻戸のロヘ出て、戸を押しあけたのと同時に渡殿についていた灯も消えた。
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tote, Ukon wo hiki-yose tamahi te, nisi no tumado ni ide te, to wo osi-ake tamahe re ba, wata-dono no hi mo kiye ni keri.
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4.4.11 |
風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。 この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、 また上童一人、 例の随身ばかりぞありける。召せば、 御答へして起きたれば、
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風がわずかに吹いているうえに、人気も少なくて、仕えている者は皆寝ていた。この院の管理人の子供で、親しくお使いになる若い男、それから殿上童一人と、いつもの随身だけがいるのであった。お呼び寄せになると、お返事して起きたので、
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風が少し吹いている。こんな夜に侍者は少なくて、しかもありたけの人は寝てしまっていた。院の預かり役の息子で、平生源氏が手もとで使っていた若い男、それから侍童が一人、例の随身、それだけが宿直をしていたのである。源氏が呼ぶと返辞をして起きて来た。
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Kaze sukosi uti-huki taru ni, hito ha sukunaku te, saburahu kagiri mina ne tari. Kono win no adukari no ko, mutumasiku tukahi tamahu wakaki wonoko, mata uhe-waraha hitori, rei no zuizin bakari zo ari keru. Mese ba, ohom-kotahe si te oki tare ba,
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4.4.12 |
「 紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、 心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の 来たりつらむは」と、 問はせたまへば、
|
「紙燭を点けて持って参れ。『随身にも、弦打ちをして、絶えず音を立てていよ』と命じよ。人気のない所に、気を許して寝ている者があるか。惟光朝臣が来ていたようなのは」と、お尋ねあそばすと、
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「蝋燭をつけて参れ。随身に弓の絃打ちをして絶えず声を出して魔性に備えるように命じてくれ。こんな寂しい所で安心をして寝ていていいわけはない。先刻惟光が来たと言っていたが、どうしたか」
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"Sisoku sasi te mawire. 'Zuizin mo, turu-uti si te, taye zu kowa-dukure' to ohose yo. Hito hanare taru tokoro ni, kokoro-toke te inuru mono-ka! Koremitu-no-asom no ki tari tu ram ha?" to, toha se tamahe ba,
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4.4.13 |
「 さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、 滝口なりければ、 弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「 火あやふし」と言ふ言ふ、預りが 曹司の方に 去ぬなり。 内裏を思しやりて、「 名対面は過ぎぬらむ、 滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、 いたう更けぬにこそは。
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「控えていましたが、ご命令もない。早暁にお迎えに参上すべき旨申して、帰ってしまいました」と申し上げる。この、こう申す者は滝口の武士であったので、弓の弦をまことに手馴れた様子に打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ行ったようだ。内裏をお思いやりになって、「名対面は過ぎたろう、滝口の宿直奏しは、ちょうど今ごろか」と、ご推量になるのは、まだ、さほど夜も更けていないのでは。
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「参っておりましたが、御用事もないから、夜明けにお迎えに参ると申して帰りましてございます」 こう源氏と問答をしたのは、御所の滝口に勤めている男であったから、専門家的に弓絃を鳴らして、 「火危し、火危し」 と言いながら、父である預かり役の住居のほうへ行った。源氏はこの時刻の御所を思った。殿上の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終わっているだろう、滝口の武士の宿直の奏上があるころであると、こんなことを思ったところをみると、まだそう深更でなかったに違いない。
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"Saburahi ture do, ohose-goto mo nasi. Akatuki ni ohom-mukahe ni mawiru beki yosi mausi te nam, makade haberi nuru." to kikoyu. Kono, kau mausu mono ha, takiguti nari kere ba, yu-duru ito tuki-dukisiku uti-narasi te, "Hi ayahusi" to ihu-ihu, adukari ga zausi no kata ni inu nari. Uti wo obosi-yari te, "Nadaimen ha sugi nu ram, takiguti no tonowi-mausi, ima koso." to, osihakari tamahu ha, mada, itau huke nu ni koso ha.
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4.4.14 |
帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
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戻って入って、お確かめになると、女君はそのままに臥していて、右近は傍らにうつ伏していた。
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寝室へ帰って、暗がりの中を手で探ると夕顔はもとのままの姿で寝ていて、右近がそのそばで、うつ伏せになっていた。
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Kaheri-iri te, saguri tamahe ba, Womna-Gimi ha sanagara husi te, Ukon ha katahara ni utubusi husi tari.
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4.4.15 |
「 こはなぞ。あな、 もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう 思はするならむ。 まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、 引き起こしたまふ。
|
「これはどうしたことか。何と、気違いじみた怖がりようだ。荒れた所には、狐などのようなものが、人を脅かそうとして、怖がらせるのだろう。わたしがいるからには、そのようなものからは脅されない」と言って引き起こしなさる。
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「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐などが人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」 と言って、源氏は右近を引き起こした。
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"Koha nazo? Ana, mono-guruhosi no mono-odi ya! Are taru tokoro ha, kitune nado yau no mono no, hito wo obiyakasa m tote, ke-osorosiu omoha suru nara m. Maro are ba, sayau no mono ni ha, odosa re zi." tote, hiki-okosi tamahu.
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4.4.16 |
「 いとうたて、 乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。 御前にこそわりなく 思さるらめ」と言へば、
|
「とても気味悪くて、取り乱している気分も悪うございますので、うつ伏しているのでございますよ。ご主人さまこそ、ひどく怖がっていらっしゃるでしょう」と言うので、
|
「とても気持ちが悪うございますので下を向いておりました。奥様はどんなお気持ちでいらっしゃいますことでしょう」
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"Ito utate, midari-gokoti no asiu habere ba, utubusi husi te haberu ya! O-mahe ni koso warinaku obosa ru rame." to ihe ba,
|
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4.4.17 |
「 そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「 いといたく若びたる人にて、 物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
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「そうだ。どうしてこんなに」と言って、探って御覧になると、息もしていない。揺すって御覧になるが、ぐったりとして、正体もない様子なので、「ほんとうにひどく子供じみた人なので、魔性のものに魅入られてしまったらしい」と、なすべき方法もない気がなさる。
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「そうだ、なぜこんなにばかりして」 と言って、手で探ると夕顔は息もしていない。動かしてみてもなよなよとして気を失っているふうであったから、若々しい弱い人であったから、何かの物怪にこうされているのであろうと思うと、源氏は歎息されるばかりであった。
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"Soyo. Nado kau ha?" tote, kai-saguri tamahu ni, iki mo se zu. Hiki-ugokasi tamahe do, nayo-nayo to si te, ware ni mo ara nu sama nare ba, "Ito itaku wakabi taru hito nite, mono ni kedora re nuru na' meri." to, semkata-naki kokoti si tamahu.
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4.4.18 |
紙燭持て参れり。 右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
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紙燭を持って参った。右近も動ける状態でないので、近くの御几帳を引き寄せて、
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蝋燭の明りが来た。右近には立って行くだけの力がありそうもないので、閨に近い几帳を引き寄せてから、
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Sisoku mo'te mawire ri. Ukon mo ugoku beki sama ni mo ara ne ba, tikaki mi-kityau wo hiki-yose te,
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4.4.19 |
「 なほ持て参れ」
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「もっと近くに持って参れ」
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「もっとこちらへ持って来い」
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"Naho mote mawire."
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4.4.20 |
とのたまふ。 例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、 長押にもえ上らず。
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とおっしゃる。いつもと違ったことなので、御前近くに参上できず、ためらっていて、長押にも上がれない。
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と源氏は言った。主君の寝室の中へはいるというまったくそんな不謹慎な行動をしたことがない滝口は座敷の上段になった所へもよう来ない。
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to notamahu. Rei nara nu koto ni te, o-mahe tikaku mo e mawira nu, tutumasisa ni, nagesi ni mo e nobora zu.
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4.4.21 |
「 なほ持て来や、所に従ひてこそ」
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「もっと近くに持って来なさい。場所によるぞ」
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「もっと近くへ持って来ないか。どんなことも場所によることだ」
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"Naho mo'te ko ya! Tokoro ni sitagahi te koso."
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4.4.22 |
とて、 召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、 夢に見えつる容貌したる女、 面影に見えて、ふと 消え失せぬ ★。
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と言って、召し寄せて御覧になると、ちょうどこの枕上に、夢に現れた姿をしている女が、幻影のように現れて、ふっと消え失せた。
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灯を近くへ取って見ると、この閨の枕の近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えて、そしてすっと消えてしまった。
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tote, mesi-yose te mi tamahe ba, tada kono makura-gami ni, yume ni miye turu katati si taru womna, omokage ni miye te, huto kiye use nu.
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4.4.23 |
「 昔の物語などにこそ、かかる ことは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「 この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、 身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには 思すべけれど。 さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
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「昔の物語などに、このようなことは聞くけれど」と、まことに珍しく気味悪いが、まず、「この女はどのようになったのか」とお思いになる不安に、わが身の上の危険もお顧みにならず、添い臥して、「もし、もし」と、お起こしになるが、すっかりもう冷たくなっていて、息はとっくにこと切れてしまっていたのであった。どうすることもできない。頼りになる、どうしたらよいかとご相談できるような方もいない。法師などは、このような時の頼みになる人とはお思いになるが。それほどお強がりになるが、お若い考えで、空しく死んでしまったのを御覧になると、どうしようもなくて、ひしと抱いて、
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昔の小説などにはこんなことも書いてあるが、実際にあるとはと思うと源氏は恐ろしくてならないが、恋人はどうなったかという不安が先に立って、自身がどうされるだろうかという恐れはそれほどなくて横へ寝て、 「ちょいと」 と言って不気味な眠りからさまさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。頼りにできる相談相手もない。坊様などはこんな時のカになるものであるがそんな人もむろんここにはいない。右近に対して強がって何かと言った源氏であったが、若いこの人は、恋人の死んだのを見ると分別も何もなくなって、じっと抱いて、
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"Mukasi no monogatari nado ni koso, kakaru koto ha kike." to, ito meduraka ni mukutukekere do, madu, "Kono hito ikani nari nuru zo?" to omohosu kokoro-sawagi ni, mi-no-uhe mo sira re tamaha zu, sohi-husi te, "Ya! Ya!" to, odorokasi tamahe do, tada hiye ni hiye-iri te, iki ha toku taye-hate ni keri. Iham-kata-nasi. Tanomosiku, ikani to ihi-hure tamahu beki hito mo nasi. Hohusi nado wo koso ha, kakaru kata no tanomosiki mono ni ha obosu bekere do. Sa koso tuyo-gari tamahe do, wakaki mi-kokoro nite, ihu-kahi-naku nari nuru wo mi tamahu ni, yaru-kata-naku te, tuto idaki te,
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4.4.24 |
「 あが君、生き出でたまへ。いといみじき目 な見せたまひそ」
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「おまえさま、生き返っておくれ。とても悲しい目に遭わせないでおくれ」
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「あなた。生きてください。悲しい目を私に見せないで」
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"Aga-Kimi, iki-ide tamahe! Ito imiziki me na mise tamahi so."
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4.4.25 |
とのたまへど、 冷え入りにたれば、 けはひものうとくなりゆく。
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とおっしゃるが、冷たくなっていたので、感じも気味悪くなって行く。
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と言っていたが、恋人のからだはますます冷たくて、すでに人ではなく遺骸であるという感じが強くなっていく。
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to notamahe do, hiye-iri ni tare ba, kehahi mono-utoku nari-yuku.
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4.4.26 |
右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
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右近は、ただ「ああ、気味悪い」と思っていた気持ちもすっかり冷めて、泣いて取り乱す様子はまことに大変である。
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右近はもう恐怖心も消えて夕顔の死を知って非常に泣く。
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Ukon ha, tada "Ana, mutukasi" to omohi keru kokoti mina same te, naki-madohu sama ito imizi.
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4.4.27 |
南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて、心強く、
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南殿の鬼が、某大臣を脅かした例をお思い出しになって、気強く、
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紫宸殿に出て来た鬼は貞信公を威嚇したが、その人の威に押されて逃げた例などを思い出して、源氏はしいて強くなろうとした。
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Na'den no oni no, Nanigasi-no-Otodo obiyakasi keru tatohi wo obosi-ide te, kokoro-duyoku,
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4.4.28 |
「 さりとも、 いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。 あなかま」
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「いくら何でも、死にはなさるまい。夜の声は大げさだ。静かに」
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「それでもこのまま死んでしまうことはないだろう。夜というものは声を大きく響かせるから、そんなに泣かないで」
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"Saritomo, itadura ni nari-hate tamaha zi. Yoru no kowe ha odoro-odorosi. Ana-kama!"
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4.4.29 |
と 諌めたまひて、 いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
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とお諌めになって、まったく突然の事なので、茫然とした気持ちでいらっしゃる。
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と源氏は右近に注意しながらも、恋人との歓会がたちまちにこうなったことを思うと呆然となるばかりであった。
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to isame tamahi te, ito awatatasiki ni, akire taru kokoti si tamahu.
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4.4.30 |
この男を召して、
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先ほどの男を呼び寄せて、
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滝口を呼んで、
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Kono wotoko wo mesi te,
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4.4.31 |
「 ここに、いとあやしう、 物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、 惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし 言へ、と仰せよ。 なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。 かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。かかる歩き許さぬ人なり」
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「ここに、まことに不思議に、魔性のものに魅入られた人が苦しそうなので、今すぐに、惟光朝臣の泊まっている家に行って、急いで参上するように言え、と命じなさい。某阿闍梨が、そこに居合わせていたら、ここに来るよう、こっそりと言いなさい。あの尼君などが聞こうから、大げさに言うな。このような忍び歩きは許さない人だ」
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「ここに、急に何かに襲われた人があって、苦しんでいるから、すぐに惟光朝臣の泊まっている家に行って、早く来るように言えとだれかに命じてくれ。兄の阿闍梨がそこに来ているのだったら、それもいっしょに来るようにと惟光に言わせるのだ。母親の尼さんなどが聞いて気にかけるから、たいそうには言わせないように。あれは私の忍び歩きなどをやかましく言って止める人だ」
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"Koko ni, ito ayasiu, mono ni osoha re taru hito no nayamasige naru wo, tada-ima, Koremitu-no-Asom no yadoru tokoro ni makari te, isogi mawiru beki yosi ihe, to ohose yo. Nanigasi-Azari, soko ni monosuru hodo nara ba, koko ni ku beki yosi, sinobi te, ihe. Kano Ama-Gimi nado no kika m ni, odoro-odorosiku ihu na. Kakaru ariki yurusa nu hito nari."
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4.4.32 |
など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、 この人を空しくしなしてむことのいみじく 思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。
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などと、用件をおっしゃるようだが、胸が一杯で、この人を死なせてしまったらどうまるのかがたまらなくお思いになるのに加えて、辺りの不気味さは、譬えようもない。
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こんなふうに順序を立ててものを言いながらも、胸は詰まるようで、恋人を死なせることの悲しさがたまらないものに思われるのといっしょに、あたりの不気味さがひしひしと感ぜられるのであった。
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nado, mono notamahu yau nare do, mune hutagari te, kono hito wo munasiku si-nasi te m koto no imiziku obosa ruru ni sohe te, ohokata no muku-mukusisa, tatohe m kata nasi.
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4.4.33 |
夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、 松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、 「梟」はこれにやとおぼゆ。 うち思ひめぐらすに、こなたかなた、 けどほく疎ましきに、 人声はせず、「 などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。
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夜中も過ぎたのだろうよ、風がやや荒々しく吹いているのは。その上に、松風の響きが、木深く聞こえて、異様な鳥がしわがれ声で鳴いているのも、「梟」と言う鳥はこのことかと思われる。あれこれと考え廻らすと、あちらこちらと、何となく遠く気味悪いうえに、人声はせず、「どうして、このような心細い外泊をしてしまったのだろう」と、後悔してもしようがない。
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もう夜中過ぎになっているらしい。風がさっきより強くなってきて、それに鳴る松の枝の音は、それらの大木に深く囲まれた寂しく古い院であることを思わせ、一風変わった鳥がかれ声で鳴き出すのを、梟とはこれであろうかと思われた。考えてみるとどこへも遠く離れて人声もしないこんな寂しい所へなぜ自分は泊まりに来たのであろうと、源氏は後悔の念もしきりに起こる。
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Yonaka mo sugi ni kem kasi, kaze no yaya ara-arasiu huki taru ha. Masite, matu no hibiki, kobukaku kikoye te, kesiki aru tori no kara-kowe ni naki taru mo, "hukurohu" ha kore ni ya to oboyu. Uti-omohi-megurasu ni, konata kanata, kedohoku utomasiki ni, hito-gowe ha se zu, "Nado-te, kaku hakanaki yadori ha tori turu zo." to, kuyasisa mo yaram-kata-nasi.
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4.4.34 |
右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき 死ぬべし。「 また、これもいかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。我一人さかしき人にて、 思しやる方ぞなきや。
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右近は、何も考えられず、源氏の君にぴったりと寄り添い申して、震え死にそうである。「また、この人もどうなるのだろうか」と、気も上の空で掴まえていらっしゃる。自分一人がしっかりした人で、途方に暮れていらっしゃるのであったよ。
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右近は夢中になって夕顔のそばへ寄り、このまま慄え死にをするのでないかと思われた。それがまた心配で、源氏は一所懸命に右近をつかまえていた。一人は死に、一人はこうした正体もないふうで、自身一人だけが普通の人間なのであると思うと源氏はたまらない気がした。
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Ukon ha, mono mo oboye zu, Kimi ni tuto-sohi tatematuri te, wananaki sinu besi. "Mata, kore mo ika nara m?" to, kokoro sora nite torahe tamahe ri. Ware hitori sakasiki hito nite, obosi-yaru kata zo naki ya!.
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4.4.35 |
火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの 隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。「 惟光、とく参らなむ」と思す。 ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、 ▼ 千夜を過ぐさむ心地したまふ。
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灯火は微かにちらちらとして、母屋の境に立ててある屏風の上が、あちらこちらと陰って見えなさるうえに、魔性の物の足音が、みしみしと踏み鳴らしながら、後方から近寄って来る気がする。「惟光よ、早く来て欲しい」とお思いになる。居場所が定まらぬ者なので、あちこち探したうちに、夜の明けるまでの待ち遠しさは、千夜を過すような気がなさる。
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灯はほのかに瞬いて、中央の室との仕切りの所に立てた屏風の上とか、室の中の隅々とか、暗いところの見えるここへ、後ろからひしひしと足音をさせて何かが寄って来る気がしてならない、惟光が早く来てくれればよいとばかり源氏は思った。彼は泊まり歩く家を幾軒も持った男であったから、使いはあちらこちらと尋ねまわっているうちに夜がぼつぼつ明けてきた。この間の長さは千夜にもあたるように源氏には思われたのである。
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Hi ha honoka ni matataki te, moya no kiha ni tate taru byaubu no kami, koko-kasiko no kuma-gumasiku oboye tamahu ni, mono no asioto, hisi-hisi to humi-narasi tutu, usiro yori yori-kuru kokoti su. "Koremitu, toku mawira nam." to obosu. Arika sadame nu mono ni te, koko-kasiko tadune keru hodo ni, yo no akuru hodo no hisasisa ha, ti-yo wo sugusa m kokoti si tamahu.
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4.4.36 |
▼ からうして、鶏の声はるかに聞こゆるに、「 命をかけて、何の契りに、 かかる目を見るらむ。我が心ながら、 かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例と なりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの 口ずさびになるべきなめり。ありありて、 をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。
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ようやくのことで、鶏の声が遠くで聞こえるにつけ、「危険を冒して、何の因縁で、このような辛い目に遭うのだあろう。我ながら、このようなことで、大それたあってはならない恋心の報復として、このような、後にも先にも語り草となってしまいそうなことが起こったのだろう。隠していても、実際に起こった事は隠しきれず、主上のお耳に入るだろうことを始めとして、世人が推量し噂するだろうことは、良くない京童べの噂になりそうだ。あげくのはて、馬鹿者の評判を立てられるにちがいないなあ」と、ご思案される。
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やっとはるかな所で鳴く鶏の声がしてきたのを聞いて、ほっとした源氏は、こんな危険な目にどうして自分はあうのだろう、自分の心ではあるが恋愛についてはもったいない、思うべからざる人を思った報いに、こんな後にも前にもない例となるようなみじめな目にあうのであろう、隠してもあった事実はすぐに噂になるであろう、陛下の思召しをはじめとして人が何と批評することだろう、世間の嘲笑が自分の上に集まることであろう、とうとうついにこんなことで自分は名誉を傷つけるのだなと源氏は思っていた。
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Karausite, tori no kowe haruka ni kikoyuru ni, "Inoti wo kake te, nani no tigiri ni, kakaru me wo miru ram? Waga kokoro nagara, kakaru sudi ni, ohokenaku aru-maziki kokoro no mukuyi ni, kaku, kisi-kata yuku-saki no tamesi to nari nu beki koto ha aru na' meri. Sinobu tomo, yo ni aru koto kakure naku te, Uti ni kikosimesa m wo hazime te, hito no omohi iha m koto, yokara nu warahabe no kuti-zusabi ni naru beki na' meri. Ari-ari-te, okogamasiki na wo toru beki kana!" to, obosi-megurasu.
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出典13 |
「梟」はこれにや |
梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢 |
白氏文集一-四 凶宅詩 |
4.4.33 |
出典14 |
千夜を過ぐさむ心地 |
暮るる間の千歳を過ぐす心地して待つはまことに久しかりけり |
後撰集恋二-六六七 藤原隆方 |
4.4.35 |
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4.5 |
第五段 源氏、二条院に帰る
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4-5 Genji comes back to his home
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4.5.1 |
からうして、惟光朝臣参れり。夜中、暁といはず、 御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、 召しにさへおこたりつるを、 憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でむことのあへなきに、ふとも物 言はれたまはず。 右近、大夫のけはひ聞くに、初めよりのこと、 うち思ひ出でられて泣くを、 君もえ堪へたまはで、 我一人さかしがり 抱き持たまへりけるに、 この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく、 えもとどめず泣きたまふ。
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ようやくのことで、惟光朝臣が参上した。夜中、早朝の区別なく、御意のままに従う者が、今夜に限って控えていなくて、お呼び出しにまで遅れて参ったのを、憎らしいとお思いになるものの、呼び入れて、おっしゃろうとする内容があっけないので、すぐには何もおっしゃれない。右近は、大夫の様子を聞くと、初めからのことが、つい思い出されて泣くと、源氏の君も我慢がおできになれず、自分一人気丈夫に抱いていらっしゃったところ、この人を見てほっとなさって、悲しい気持ちにおなりになるのであったが、しばらくは、まことに大変にとめどもなくお泣きになる。
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やっと惟光が出て来た。夜中でも暁でも源氏の意のままに従って歩いた男が、今夜に限ってそばにおらず、呼びにやってもすぐの間に合わず、時間のおくれたことを源氏は憎みながらも寝室へ呼んだ。孤独の悲しみを救う手は惟光にだけあることを源氏は知っている。惟光をそばへ呼んだが、自分が今言わねばならぬことがあまりにも悲しいものであることを思うと、急には言葉が出ない。右近は隣家の惟光が来た気配に、亡き夫人と源氏との交渉の最初の時から今日までが連続的に思い出されて泣いていた。源氏も今までは自身一人が強い人になって右近を抱きかかえていたのであったが、惟光の来たのにほっとすると同時に、はじめて心の底から大きい悲しみが湧き上がってきた。非常に泣いたのちに源氏は躊躇しながら言い出した。
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Karausite, Koremitu-no-Asom mawire ri. Yonaka, akatuki to iha zu, mi-kokoro ni sitagahe ru mono no, koyohi simo saburaha de, mesi ni sahe okotari turu wo, nikusi to obosu monokara, mesi-ire te, notamahi-ide m koto no ahenaki ni, huto mo mono iha re tamaha zu. Ukon, Taihu no kehahi kiku ni, hazime yori no koto, uti-omohi-ide rare te naku wo, Kimi mo e tahe tamaha de, ware hitori sakasi-gari idaki mo' tamahe ri keru ni, kono hito ni iki wo nobe tamahi te zo, kanasiki koto mo obosa re keru, to bakari, ito itaku, e mo todome zu naki tamahu.
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4.5.2 |
ややためらひて、「 ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふにもあまりてなむ ある。かかるとみの事には、 誦経などをこそはすなれとて、 その事どももせさせむ。願なども立てさせむとて、 ▼ 阿闍梨ものせよ、と言ひつるは」とのたまふに、
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やっと気持ちを落ち着けて、「ここで、まことに奇妙な事件が起こったが、驚くと言っても言いようのないほどだ。このような危急のことには、誦経などをすると言うので、その手配をさせよう。願文なども立てさせようと思って、阿闍梨に来るようにと、言ってやったのは」とおっしゃると、
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「奇怪なことが起こったのだ。驚くという言葉では現わせないような驚きをさせられた。人のからだにこんな急変があったりする時には、僧家へ物を贈って読経をしてもらうものだそうだから、それをさせよう、願を立てさせようと思って阿闍梨も来てくれと言ってやったのだが、どうした」
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Yaya tamerahi te, "Koko ni, ito ayasiki koto no aru wo, asamasi to ihu ni mo amari te nam aru. Kakaru tomi no koto ni ha, zyukyau nado wo koso ha su nare tote, sono koto-domo mo se sase m. Gwan nado mo tate sase m tote, Azyari monose yo, to ihi turu ha." to notamahu ni,
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4.5.3 |
「 昨日、山へまかり上りにけり。まづ、いとめづらかなる ことにもはべるかな。かねて、例ならず 御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ」
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「昨日、帰山してしまいました。それにしても、まことに奇妙なことでございますね。以前から、常とは違ってご気分のすぐれないことでもございましたのでしょうか」
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「昨日叡山へ帰りましたのでございます。まあ何ということでございましょう、奇怪なことでございます。前から少しはおからだが悪かったのでございますか」
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"Kinohu, yama he makari nobori ni keri. Madu, ito meduraka naru koto ni mo haberu kana! Kanete, rei nara zu mi-kokoti monose sase tamahu koto ya haberi tu ram?"
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4.5.4 |
「 さることもなかりつ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、 見たてまつる人もいと悲しくて、おのれも よよと泣きぬ。
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「そのようなこともなかった」と言って、お泣きになる様子、とても優美でいたわしく、拝見する人もほんとうに悲しくて、自分もおいおいと泣いた。
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「そんなこともなかった」 と言って泣く源氏の様子に、惟光も感動させられて、この人までが声を立てて泣き出した。
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"Saru koto mo nakari tu." tote, naki tamahu sama, ito wokasige ni rautaku, mi tatematuru hito mo ito kanasiku te, onore mo yoyo to naki nu.
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4.5.5 |
さいへど、 年うちねび、世の中のとあることと、しほじみぬる人こそ、もののをりふしは 頼もしかりけれ、 いづれもいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、
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そうは言っても、年も相当とり、世の中のあれやこれやと、経験を積んだ人は、非常の時には頼もしいのであるが、どちらもどちらも若者同士で、どうしようもないが、
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老人はめんどうなものとされているが、こんな場合には、年を取っていて世の中のいろいろな経験を持っている人が頼もしいのである。源氏も右近も惟光も皆若かった。どう処置をしていいのか手が出ないのであったが、やっと惟光が、
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Sa ihe do, tosi uti-nebi, yononaka no to-aru koto to, sihozimi nuru hito koso, mono no worihusi ha tanomosikari kere, iduremo-iduremo wakaki-doti nite, ihamkatanakere do,
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4.5.6 |
「 この院守などに 聞かせむことは、いと便なかるべし。 この人一人こそ睦しくもあらめ、おのづから物 言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ。まづ、 この院を出でおはしましね」と言ふ。
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「この院の管理人などに聞かせるようなことは、まことに不都合なことでしょう。この管理人一人は親密であっても、自然と口をすべらしてしまう身内も中にはいることでしょう。まずは、この院をお出なさいましね」と言う。
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「この院の留守役などに真相を知らせることはよくございません。当人だけは信用ができましても、秘密の洩れやすい家族を持っていましょうから。ともかくもここを出ていらっしゃいませ」 と言った。
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"Kono win-mori nado ni kikase m koto ha, ito bin-nakaru besi. Kono hito hitori koso mutumasiku mo ara me, onodukara mono ihi-morasi tu beki kwenzoku mo tati-maziri tara m. Madu, kono win wo ide ohasimasi ne." to ihu.
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4.5.7 |
「 さて、これより人少ななる所は いかでかあらむ」とのたまふ。
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「ところで、ここより人少なな所がどうしてあろうか」とおっしゃる。
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「でもここ以上に人の少ない場所はほかにないじゃないか」
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"Sate, kore yori hito-zukuna naru tokoro ha ikadeka ara m." to notamahu.
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4.5.8 |
「 げに、さぞはべらむ。 かの故里は、女房などの、悲しびに堪へず、 泣き惑ひはべらむに、隣しげく、とがむる里人多くはべらむに、 おのづから聞こえはべらむを、山寺こそ、なほかやうのこと、おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」と、思ひまはして、「 昔、見たまへし女房の、尼にてはべる東山の辺に、移したてまつらむ。 惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の、 みづはぐみて 住みはべるなり。辺りは、人しげきやうにはべれど、 いとかごかにはべり」
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「なるほど、そうでございましょう。あの元の家は、女房などが、悲しみに耐えられず、泣き取り乱すでしょうし、隣家が多く、見咎める住人も多くございましょうから、自然と噂が立ちましょうが、山寺は、何と言ってもこのようなことも、自然ありがちで、目立たないことでございましょう」と言って、思案して、「昔、親しくしておりました女房で、尼になって住んでおります東山の辺に、お移し申し上げましょう。惟光めの父朝臣の乳母でございました者が、年老いて住んでいるのです。周囲は、人が多いようでございますが、とても閑静でございます」
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「それはそうでございます。あの五条の家は女房などが悲しがって大騒ぎをするでしょう、多い小家の近所隣へそんな声が聞こえますとたちまち世間へ知れてしまいます、山寺と申すものはこうした死人などを取り扱い馴れておりましょうから、人目を紛らすのには都合がよいように思われます」 考えるふうだった惟光は、 「昔知っております女房が尼になって住んでいる家が東山にございますから、そこへお移しいたしましょう。私の父の乳母をしておりまして、今は老人になっている者の家でございます。東山ですから人がたくさん行く所のようではございますが、そこだけは閑静です」
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"Geni, sa zo habera m. Kano hurusato ha, nyoubau nado no, kanasibi ni tahe zu, naki-madohi habera m ni, tonari sigeku, togamuru sato-bito ohoku habera m ni, onodukara kikoye habera m wo, yama-dera koso, naho kayau no koto, onodukara yuki-maziri, mono magiruru koto habera me." to, omohi-mahasi te, "Mukasi, mi tamahe si nyoubau no, ama nite haberu Himgasi-yama no atari ni, utusi tatematura m. Koremitu ga titi no Asom no menoto ni haberi si mono no, miduhagumi te sumi haberu nari. Atari ha, hito sigeki yau ni habere do, ito kagoka ni haberi."
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4.5.9 |
と聞こえて、 明けはなるるほどの紛れに、御車寄す。
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と申し上げて、夜がすっかり明けるころの騒がしさに紛れて、お車を寄せる。
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と言って、夜と朝の入り替わる時刻の明暗の紛れに車を縁側へ寄せさせた。
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to kikoye te, ake-hanaruru hodo no magire ni, mi-kuruma yosu.
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4.5.10 |
この人を え抱きたまふまじければ、 上蓆におしくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかにて、疎ましげもなく、らうたげなり。 したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、 あさましう悲し、と思せば、 なり果てむさまを見むと思せど、
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この女をお抱きになれそうもないので、上筵に包んで、惟光がお乗せ申す。とても小柄で、気味悪くもなく、かわいらしげである。しっかりとしたさまにもくるめないので、髪の毛がこぼれ出ているのを見るにつけ、目の前が真っ暗になって、何とも悲しい、とお思いになると、最後の様子を見届けたい、とお思いになるが、
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源氏自身が遺骸を車へ載せることは無理らしかったから、茣蓙に巻いて惟光が車へ載せた。小柄な人の死骸からは悪感は受けないできわめて美しいものに思われた。残酷に思われるような扱い方を遠慮して、確かにも巻かなんだから、茣蓙の横から髪が少しこぼれていた。それを見た源氏は目がくらむような悲しみを覚えて煙になる最後までも自分がついていたいという気になったのであるが、
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Kono hito wo e idaki tamahu mazikere ba, uha-musiro ni osi-kukumi te, Koremitu nose tatematuru. Ito sasayaka ni te, utomasige mo naku, rautage nari. Sitataka ni simo e se ne ba, kami ha kobore-ide taru mo, me kure-madohi te, asamasiu kanasi, to obose ba, nari-hate m sama wo mi m to obose do,
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4.5.11 |
「 はや、御馬にて、二条院へ おはしまさむ。人騒がしくなりはべらぬほどに」
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「早く、お馬で、二条院へお帰りあそばすのがよいでしょう。人騒がしくなりませぬうちに」
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「あなた様はさっそく二条の院へお帰りなさいませ。世間の者が起き出しませんうちに」
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"Haya, ohom-muma nite, Nideu-no-win he ohasimasa m. Hito sawagasiku nari habera nu hodo ni."
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4.5.12 |
とて、 右近を添へて乗すれば、徒歩より、 君に馬はたてまつりて、くくり引き上げなどして、かつは、いとあやしく、 おぼえぬ送りなれど、 御気色のいみじきを見たてまつれば、 身を捨てて行くに、君は物もおぼえたまはず、 我かのさまにて、おはし着きたり。
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と言って、右近を添えて乗せると、徒歩で、源氏の君に馬はお譲り申して、裾を括り上げなどをして、かつ一方では、とても変で、奇妙な野辺送りだが、君のお悲しみの深いことを拝見すると、自分のことは考えずに行くが、源氏の君は何もお考えになれず、茫然自失の態で、お帰りになった。
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と惟光は言って、遺骸には右近を添えて乗せた。自身の馬を源氏に提供して、自身は徒歩で、袴のくくりを上げたりして出かけたのであった。ずいぶん迷惑な役のようにも思われたが、悲しんでいる源氏を見ては、自分のことなどはどうでもよいという気に惟光はなったのである。 源氏は無我夢中で二条の院へ着いた。
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tote, Ukon wo sohe te nosure ba, kati yori, Kimi ni muma ha tetematuri te, kukuri hiki-age nado si te, katu ha, ito ayasiku, oboye nu okuri nare do, mi-kesiki no imiziki wo mi tatemature ba, mi wo sute te yuku ni, Kimi ha mono mo oboye tamaha zu, ware-ka no sama nite, ohasi tuki tari.
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4.5.13 |
人びと、「 いづこより、おはしますにか。なやましげに 見えさせたまふ」など言へど、 御帳の内に入りたまひて、 胸をおさへて思ふに、いといみじければ、「 などて、乗り添ひて 行かざりつらむ。 生き返りたらむ時、 いかなる心地せむ。見捨てて行きあかれにけりと、 つらくや思はむ」と、心惑ひのなかにも、思ほすに、御胸せきあぐる心地したまふ。御頭も痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、 惑はれたまへば、「 かくはかなくて、我もいたづらに なりぬるなめり」と思す。
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女房たちは、「どこから、お帰りあそばしましたのか。ご気分が悪そうにお見えあそばします」などと言うが、御帳台の内側にお入りになって、胸を押さえて思うと、まことに悲しいので、「どうして、一緒に乗って行かなかったのだろうか。もし生き返った場合、どのような気がするだろう。見捨てて行ってしまったと、辛く思うであろうか」と、気が動転しているうちにも、お思いやると、お胸のせき上げてくる気がなさる。お頭も痛く、身体も熱っぽい感じがして、とても苦しく、どうしてよいやら分からない気がなさるので、「こう元気がなくて、自分も死んでしまうのかも知れない」とお思いになる。
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女房たちが、 「どちらからのお帰りなんでしょう。御気分がお悪いようですよ」 などと言っているのを知っていたが、そのまま寝室へはいって、そして胸をおさえて考えてみると自身が今経験していることは非常な悲しいことであるということがわかった。なぜ自分はあの車に乗って行かなかったのだろう、もし蘇生することがあったらあの人はどう思うだろう、見捨てて行ってしまったと恨めしく思わないだろうか、こんなことを思うと胸がせき上がってくるようで、頭も痛く、からだには発熱も感ぜられて苦しい。こうして自分も死んでしまうのであろうと思われるのである。
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Hito-bito, "Iduko yori, ohasimasu ni ka? Nayamasige ni miye sase tamahu." nado ihe do, mi-tyau no uti ni iri tamahi te, mune wo osahe te, omohu ni, ito imizikere ba, "Nadote, nori-sohi te ika zari tu ram? Iki-kaheri tara m toki, ika naru kokoti se m. Mi-sute te yuki-akare ni keri to, turaku ya omoha m?" to, kokoro-madohi no naka ni mo, omohosu ni, ohom-mune seki aguru kokoti si tamahu. Mi-gusi mo itaku, mi mo atuki kokoti si te, ito kurusiku, madoha re tamahe ba, "Kaku hakanaku te, ware mo itadura ni nari nuru na' meri." to obosu.
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4.5.14 |
日高くなれど、起き上がりたまはねば、人びとあやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、 いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。 昨日、 え尋ね出でたてまつらざりしより、 おぼつかながらせたまふ。大殿の君達参りたまへど、頭中将ばかりを、「 立ちながら、こなたに入りたまへ」とのたまひて、 御簾の内ながらのたまふ。
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日は高くなったが、起き上がりなさらないので、女房たちは不思議に思って、お粥などをお勧め申し上げるが、気分が悪くて、とても気弱くお思いになっているところに、内裏からお使者が来る。昨日、お探し申し上げられなかったことで、御心配あそばしていらっしゃる。大殿の公達が参上なさったが、頭中将だけを、「立ったままで、ここにお入り下さい」とおっしゃって、御簾の内側のままでお話しなさる。
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八時ごろになっても源氏が起きぬので、女房たちは心配をしだして、朝の食事を寝室の主人へ勧めてみたが無駄だった。源氏は苦しくて、そして生命の危険が迫ってくるような心細さを覚えていると、宮中のお使いが来た。帝は昨日もお召しになった源氏を御覧になれなかったことで御心配をあそばされるのであった。左大臣家の子息たちも訪問して来たがそのうちの頭中将にだけ、 「お立ちになったままでちょっとこちらへ」 と言わせて、源氏は招いた友と御簾を隔てて対した。
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Hi takaku nare do, oki-agari tamaha ne ba, hito-bito ayasigari te, ohom-kayu nado sosonokasi kikoyure do, kurusiku te, ito kokoro-bosoku obosa ruru ni, Uti yori ohom-tukahi ari. Kinohu, e tadune-ide tatematura zari si yori, obotukanagara se tamahu. Ohoi-dono no kindati mawiri tamahe do, Tou-no-Tyuuzyau bakari wo, "Tati nagara, konata ni iri tamahe." to notamahi te, mi-su no uti nagara notamahu.
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4.5.15 |
「 乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重く わづらひはべりしが、頭剃り忌むこと受けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、 このごろ、またおこりて、 弱くなむなりにたる、『今一度、とぶらひ見よ』と 申したりしかば、 いときなきよりなづさひし者の、今はのきざみに、つらしとや思はむ、と思うたまへて まかれりしに、 その家なりける下人の、 病しけるが、にはかに 出であへで亡くなりにけるを、 怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ 取り出ではべりけるを、 聞きつけはべりしかば、 神事なるころ、いと不便なること、 と思うたまへかしこまりて、 え参らぬなり。この暁より、 しはぶき病みにやはべらむ、頭いと痛くて苦しくはべれば、 いと無礼にて聞こゆること」
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「乳母でございます者で、この五月のころから、重く患っておりました者が、髪を切り受戒などをして、その甲斐があってか、生き返っていましたが、最近、再発して、弱くなっていますのが、『今一度、見舞ってくれ』と申していたので、幼いころから馴染んだ人が、今はの際に、薄情なと思うだろうと、存じて参っていたところ、その家にいた下人で、病気していた者が、急に暇をとる間もなく亡くなってしまったのを、恐れ遠慮して、日が暮れてから運び出したのを、聞きつけましたので、神事のあるころで、まことに不都合なこと、と存じ謹慎して、参内できないのです。この早朝から、風邪でしょうか、頭がとても痛くて苦しうございますので、大変失礼したまま申し上げます次第」
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「私の乳母の、この五月ごろから大病をしていました者が、尼になったりなどしたものですから、その効験でか一時快くなっていましたが、またこのごろ悪くなりまして、生前にもう一度だけ訪問をしてくれなどと言ってきているので、小さい時から世話になった者に、最後に恨めしく思わせるのは残酷だと思って、訪問しましたところがその家の召使の男が前から病気をしていて、私のいるうちに亡くなったのです。恐縮して私に隠して夜になってからそっと遺骸を外へ運び出したということを私は気がついたのです。御所では神事に関した御用の多い時期ですから、そうした穢れに触れた者は御遠慮すべきであると思って謹慎をしているのです。それに今朝方からなんだか風邪にかかったのですか、頭痛がして苦しいものですからこんなふうで失礼します」
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"Menoto ni te haberu mono no, kono go-gwati no korohohi yori, omoku wadurahi haberi si ga, kasira sori imu koto uke nado si te, sono sirusi ni ya, yomigaheri tari si wo, konogoro, mata okori te, yowaku nam nari ni taru, 'Ima hito-tabi, toburahi mi yo.' to mausi tari sika ba, itokinaki yori nadusahi si mono no, imaha-no-kizami ni, turasi to ya omoha m, to omou tamahe te makare ri si ni, sono ihe nari keru simo-bito no, yamahi si keru ga, nihaka ni ide-ahe de nakunari ni keru wo, odi-habakari te, hi wo kurasi te nam tori-ide haberi keru wo, kiki-tuke haberi sika ba, kamwaza naru koro, ito hubin naru koto, to omou tamahe kasikomari te, e mawira nu nari. Kono akatuki yori, sihabuki-yami ni ya habera m, kasira ito itaku te kurusiku habere ba, ito murai ni te kikoyuru koto."
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4.5.16 |
などのたまふ。中将、
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などとおっしゃる。頭中将は、
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などと源氏は言うのであった。中将は、
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nado notamahu. Tyuuzyau,
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4.5.17 |
「 さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。昨夜も、御遊びに、かしこく 求めたてまつらせたまひて、御気色悪しくはべりき」と聞こえたまひて、 立ち返り、「 いかなる行き触れに かからせたまふぞや。 述べやらせたまふことこそ、 まことと思うたまへられね」
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「それでは、そのような旨を奏上しましょう。昨夜も、管弦の御遊の折に、畏れ多くもお探し申しあそばされて、御機嫌お悪うございました」と申し上げなさって、また引き返して、「どのような穢れにご遭遇あそばしたのですか。ご説明なされたことは、本当とは存じられません」
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「ではそのように奏上しておきましょう。昨夜も音楽のありました時に、御自身でお指図をなさいましてあちこちとあなたをお捜させになったのですが、おいでにならなかったので、御機嫌がよろしくありませんでした」
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"Saraba, saru yosi wo koso sou-si habera me. Yobe mo, ohom-asobi ni, kasikoku motome tatematura se tamahi te, mi-kesiki asiku haberi ki." to kikoye tamahi te, tati-kaheri, "Ikanaru iki-bure ni kakara se tamahu zo ya? Nobe-yara se tamahu koto koso, makoto to omou tamahe rare ne."
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4.5.18 |
と言ふに、 胸つぶれたまひて、
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と言うので、胸がどきりとなさって、
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と言って、帰ろうとしたがまた帰って来て、
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to ihu ni, mune tubure tamahi te,
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4.5.19 |
「 かく、こまかにはあらで、ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、奏したまへ。いとこそ たいだいしくはべれ」
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「このように、詳しくではなく、ただ、思いがけない穢れに触れた由を、奏上なさって下さい。まったく不都合なことでございます」
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「ねえ、どんな穢れにおあいになったのですか、さっきから伺ったのはどうもほんとうとは思われない」
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"Kaku, komaka ni ha ara de, tada, oboye nu kegarahi ni hure taru yosi wo, sou-si tamahe. Ito koso tai-daisiku habere."
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4.5.20 |
と、つれなくのたまへど、心のうちには、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地も悩ましければ、人に目も見合せたまはず。 蔵人弁を召し寄せて、まめやかに かかるよしを 奏せさせたまふ。 大殿などにも、かかることありて、え参らぬ御消息など聞こえたまふ。
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と、さりげなくおっしゃるが、心中は、どうしようもなく悲しい事とお思いになるにつけ、ご気分もすぐれないので、誰ともお顔を合わせなさらない。蔵人の弁を呼び寄せて、きまじめにその旨を奏上させなさる。大殿などにも、これこれの事情があって、参上できないお手紙などを差し上げなさる。
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と、頭中将から言われた源氏ははっとした。 「今お話ししたようにこまかにではなく、ただ思いがけぬ穢れにあいましたと申し上げてください。こんなので今日は失礼します」 素知らず顔には言っていても、心にはまた愛人の死が浮かんできて、源氏は気分も非常に悪くなった。だれの顔も見るのが物憂かった。お使いの蔵人の弁を呼んで、またこまごまと頭中将に語ったような行触れの事情を帝へ取り次いでもらった。左大臣家のほうへもそんなことで行かれぬという手紙が行ったのである。
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to, turenaku notamahe do, kokoro no uti ni ha, ihukahinaku kanasiki koto wo obosu ni, mi-kokoti mo nayamasikere ba, hito ni me mo mi-ahase tamaha zu. Kuraudo-no-Ben wo mesi-yose te, mameyaka ni kakaru yosi wo sou-se sase tamahu. Ohoi-dono nado ni mo, kakaru koto ari te, e mawira nu ohom-seusoko nado kikoye tamahu.
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4.6 |
第六段 十七日夜、夕顔の葬送
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4-6 Yugao's funeral on the night of 17
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4.6.1 |
日暮れて、惟光 参れり。 かかる穢らひありとのたまひて、 参る人びとも、 皆立ちながらまかづれば、人しげからず。 召し寄せて、
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日が暮れて、惟光が参上した。これこれの穢れがあるとおっしゃったので、お見舞いの人々も、皆立ったままで退出するので、人目は多くない。呼び寄せて、
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日が暮れてから惟光が来た。行触れの件を発表したので、二条の院への来訪者は皆庭から取り次ぎをもって用事を申し入れて帰って行くので、めんどうな人はだれも源氏の居間にいなかった。惟光を見て源氏は、
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Hi kure te, Koremitu mawire ri. Kakaru kegarahi ari to notamahi te, mawiru hito-bito mo, mina tati-nagara makadure ba, hito sigekara zu. Mesi-yose te,
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4.6.2 |
「 いかにぞ。今はと見果てつや」
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「どうであったか。もうだめだと見えてしまったか」
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「どうだった、だめだったか」
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"Ikani zo? Ima-ha to mi-hate tu ya?"
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4.6.3 |
と のたまふままに、袖を御顔に押しあてて泣きたまふ。惟光も泣く泣く、
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とおっしゃると同時に、袖をお顔に押し当ててお泣きになる。惟光も泣きながら、
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と言うと同時に袖を顔へ当てて泣いた。惟光も泣く泣く言う、
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to notamahu mama ni, sode wo ohom-kaho ni osi-ate te naki tamahu. Koremitu mo naku-naku,
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4.6.4 |
「 今は限りにこそは ものしたまふめれ。 長々と籠もりはべらむも便なきを、 明日なむ、日よろしくはべれば ★、 とかくの事、 いと尊き老僧の、あひ知りてはべるに、 言ひ語らひつけはべりぬる」と聞こゆ。
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「もはやご最期のようでいらっしゃいます。いつまでも一緒に籠っておりますのも不都合なので、明日は、日柄がよろしうございますので、あれこれ葬儀のことを、大変に尊い老僧で、知っております者に、連絡をつけました」と申し上げる。
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「もう確かにお亡れになったのでございます。いつまでお置きしてもよくないことでございますから、それにちょうど明日は葬式によい日でしたから、式のことなどを私の尊敬する老僧がありまして、それとよく相談をして頼んでまいりました」
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"Ima ha kagiri ni koso ha monosi tamahu mere. Naga-naga to komori habera m mo bin-naki wo, asu nam, hi yorosiku habere ba, tokaku no koto, ito tahutoki rau-sou no, ahi-siri te haberu ni, ihi katarahi-tuke haberi nuru." to kikoyu.
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4.6.5 |
「 添ひたりつる女はいかに」とのたまへば、
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「付き添っていた女はどうしたか」とおっしゃると、
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「いっしょに行った女は」
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"Sohi tari turu womna ha ikani?" to notamahe ba,
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4.6.6 |
「 それなむ、また、え生くまじくはべるめる。 我も後れじと惑ひはべりて、今朝は 谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる。『 かの故里人に告げやらむ』と申せど、『 しばし、思ひしづめよ、と。ことのさま思ひめぐらして』 となむ、こしらへおきはべりつる」
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「その者も、同様に、生きられそうにございませんようです。自分も死にたいと取り乱しまして、今朝は谷に飛び込みそうになったのを拝見しました。『あの前に住んでいた家の人に知らせよう』と申しますが、『今しばらく、落ち着きなさい、と。事情をよく考えてからに』と、宥めておきました」
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「それがまたあまりに悲しがりまして、生きていられないというふうなので、今朝は渓へ飛び込むのでないかと心配されました。五条の家へ使いを出すというのですが、よく落ち着いてからにしなければいけないと申して、とにかく止めてまいりました」
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"Sore nam, mata, e iku maziku haberu meru. Ware mo okure zi to madohi haberi te, kesa ha tani ni oti-iri nu to nam mi tamahe turu. 'Kano hurusato-bito ni tuge-yara m.' to mause do, 'Sibasi, omohi-sidume yo, to. Koto no sama omohi-megurasi te.' to nam, kosirahe-oki haberi turu."
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4.6.7 |
と、語りきこゆるままに、 いといみじと思して、
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と、ご報告申すにつれて、とても悲しくお思いになって、
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惟光の報告を聞いているうちに、源氏は前よりもいっそう悲しくなった。
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to, katari kikoyuru mama ni, ito imizi to obosi te,
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4.6.8 |
「 我も、いと心地悩ましく、 いかなるべきにかとなむおぼゆる」とのたまふ。
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「わたしも、とても気分が悪くて、どうなってしまうのであろうかと思われる」とおっしゃる。
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「私も病気になったようで、死ぬのじゃないかと思う」 と言った。
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"Ware mo, ito kokoti nayamasiku, ika naru beki ni ka to nam oboyuru." to notamahu.
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4.6.9 |
「 何か、さらに思ほし ものせさせたまふ。 さるべきにこそ、よろづのことはべらめ。 人にも漏らさじと思うたまふれば、 惟光おり立ちて、 よろづはものしはべる」など申す。
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「何を、この上くよくよお考えあそばしますか。そうなる運命に、万事決まっていたのでございましょう。誰にも聞かせまいと存じますので、惟光めが身を入れて、万事始末いたします」などと申す。
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「そんなふうにまでお悲しみになるのでございますか、よろしくございません。皆運命でございます。どうかして秘密のうちに処置をしたいと思いまして、私も自身でどんなこともしているのでございますよ」
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"Nanika, sarani omohosi monose sase tamahu. Saru-beki ni koso, yorodu no koto habera me. Hito ni mo morasa zi to omou tamahure ba, Koremitu ori-tati te, yorodu ha monosi haberu." nado mausu.
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4.6.10 |
「 さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、 人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。 少将の命婦などにも聞かすな。 尼君ましてかやうのことなど、 諌めらるるを、 心恥づかしくなむおぼゆべき」と、 口かためたまふ。
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「そうだ。そのように何事も思ってはみるが、いい加減な遊び心から、人を死なせてしまった非難を受けねばならないのが、まことに辛いのだ。少将命婦などにも聞かせるな。尼君はましてこのようなことなど、お叱りになるから、恥ずかしい気がしよう」と、口封じなさる。
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「そうだ、運命に違いない。私もそう思うが軽率な恋愛漁りから、人を死なせてしまったという責任を感じるのだ。君の妹の少将の命婦などにも言うなよ。尼君なんかはまたいつもああいったふうのことをよくないよくないと小言に言うほうだから、聞かれては恥ずかしくてならない」
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"Sakasi. Sa mina omohi-nase do, ukabi taru kokoro no susabi ni, hito wo itadura ni nasi turu kagoto ohi nu beki ga, ito karaki nari. Seusyau-no-Myaubu nado ni mo kikasu na. Ama-Gimi masite kayau no koto nado, isame raruru wo, kokoro-hadukasiku nam oboyu beki." to, kuti-katame tamahu.
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4.6.11 |
「 さらぬ法師ばらなどにも、皆、 言ひなすさま異にはべる」
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「その他の法師たちなどにも、すべて、説明は別々にしてございます」
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「山の坊さんたちにもまるで話を変えてしてございます」
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"Sara-nu hohusi-bara nado ni mo, mina, ihi-nasu sama koto ni haberu."
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4.6.12 |
と聞こゆるにぞ、かかりたまへる。
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と申し上げるので、頼りになさっている。
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と惟光が言うので源氏は安心したようである。
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to kikoyuru ni zo, kakari tamahe ru.
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4.6.13 |
ほの聞く女房など、「 あやしく、何ごとならむ、穢らひのよしのたまひて、内裏にも参りたまはず、また、かくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。
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わずかに会話を聞く女房などは、「変だわ、何事だろうか、穢れに触れた旨をおっしゃって、宮中へも参内なさらず、また、このようにひそひそと話して嘆いていらっしゃる」と、ぼんやり不思議がる。
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主従がひそひそ話をしているのを見た女房などは、 「どうも不思議ですね、行触れだとお言いになって参内もなさらないし、また何か悲しいことがあるようにあんなふうにして話していらっしゃる」 腑に落ちぬらしく言っていた。
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Hono-kiku nyoubau nado, "Ayasiku, nani goto nara m, kegarahi no yosi notamahi te, Uti ni mo mawiri tamaha zu, mata, kaku sasameki nageki tamahu." to, hono-bono ayasigaru.
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4.6.14 |
「 さらに事なくしなせ」と、 そのほどの作法のたまへど、
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「重ねて無難に取り計らえ」と、葬式の作法をおっしゃるが、
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「葬儀はあまり簡単な見苦しいものにしないほうがよい」 と源氏が惟光に言った。
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"Sarani koto naku si-nase." to, sono hodo no sahohu notamahe do,
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4.6.15 |
「 何か、ことことしくすべきにもはべらず」
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「いやいや、大げさにする必要もございません」
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「そうでもございません。これは大層にいたしてよいことではございません」
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"Nanika, koto-kotosiku su beki ni mo habera zu."
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4.6.16 |
とて立つが、 いと悲しく思さるれば、
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と言って立つのが、とても悲しく思わずにはいらっしゃれないので、
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と否定してから、惟光が立って行こうとするのを見ると、急にまた源氏は悲しくなった。
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tote tatu ga, ito kanasiku obosa rure ba,
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4.6.17 |
「 便なしと 思ふべけれど、今一度、 かの亡骸を見ざらむが、 いといぶせかるべきを、 馬にてものせむ ★」
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「きっと不都合なことと思うだろうが、今一度、あの亡骸を見ないのが、とても心残りだから、馬で行ってみたい」
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「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度遺骸を見たいのだ。それをしないではいつまでも憂鬱が続くように思われるから、馬ででも行こうと思うが」
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"Bin-nasi to omohu bekere do, ima hito-tabi, kano nakigara wo mi zara m ga, ito ibusekaru beki wo, muma nite monose m."
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4.6.18 |
とのたまふを、 いとたいだいしきこととは思へど、
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とおっしゃるので、とんでもない事だとは思うが、
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主人の望みを、とんでもない軽率なことであると思いながらも惟光は止めることができなかった。
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to notamahu wo, ito tai-daisiki koto to ha omohe do,
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4.6.19 |
「 さ思されむは、 いかがせむ。はや、おはしまして、 夜更けぬ先に帰らせおはしませ」
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「そのようにお思いになるならば、仕方ございません。早く、お出かけあそばして、夜が更けない前にお帰りあそばしませ」
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「そんなに思召すのならしかたがございません。では早くいらっしゃいまして、夜の更けぬうちにお帰りなさいませ」
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"Sa obosa re m ha, ikaga-se-m. Haya, ohasimasi te, yo huke nu saki ni kahera se ohasimase."
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|
4.6.20 |
と申せば、 このごろの御やつれにまうけたまへる、狩の御装束着替へなどして出でたまふ。
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と申し上げるので、最近のお忍び用にお作りになった、狩衣のご衣装に着替えなどしてお出かけになる。
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と惟光は言った。五条通いの変装のために作らせた狩衣に着更えなどして源氏は出かけたのである。
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to mause ba, konogoro no ohom-yature ni mauke tamahe ru, kari no ohom-syauzoku ki-kahe nado si te ide tamahu.
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4.6.21 |
御心地かきくらし、いみじく堪へがたければ、 かくあやしき道に出で立ちても、 危かりし物懲りに、いかにせむと思しわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「 ただ今の骸を見では、 またいつの世にかありし容貌をも見む」と、思し念じて、例の大夫、随身を具して出でたまふ。
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お心はまっ暗闇で、大変に堪らないので、このような変な道に出かけようとするにつけても、危なかった懲り事のために、どうしようかとお悩みになるが、やはり悲しみの晴らしようがなく、「現在の亡骸を見ないでは、再び来世で生前の姿を見られようか」と、悲しみを堪えなさって、いつものように惟光大夫、随身を連れてお出掛けになる。
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病苦が朝よりも加わったこともわかっていて源氏は、軽はずみにそうした所へ出かけて、そこでまたどんな危険が命をおびやかすかもしれない、やめたほうがいいのではないかとも思ったが、やはり死んだ夕顔に引かれる心が強くて、この世での顔を遺骸で見ておかなければ今後の世界でそれは見られないのであるという思いが心細さをおさえて、例の惟光と随身を従えて出た。
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Mi-kokoti kaki-kurasi, imiziku tahe-gatakere ba, kaku ayasiki miti ni ide-tati te mo, ayahukari si mono-gori ni, ikani se m to obosi wadurahe do, naho kanasisa no yaru-kata-naku, "Tada ima no kara wo mi de ha, mata itu no yo ni ka ari-si katati wo mo mi m." to, obosi-nen-zi te, rei no Taihu, Zuizin wo gu-si te ide tamahu.
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4.6.22 |
道遠くおぼゆ。 十七日の月さし出でて、 河原のほど、 御前駆の火もほのかなるに、 鳥辺野の方など見やりたるほどなど、 ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。
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道中が遠く感じられる。十七日の月がさし昇って、河原の辺りでは、御前駆の松明も仄かであるし、鳥辺野の方角などを見やった時など、何となく気味悪いのも、何ともお感じにならず、心乱れなさって、お着きになった。
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非常に路のはかがゆかぬ気がした。十七日の月が出てきて、加茂川の河原を通るころ、前駆の者の持つ松明の淡い明りに鳥辺野のほうが見えるというこんな不気味な景色にも源氏の恐怖心はもう麻痺してしまっていた。ただ悲しみに胸が掻き乱されたふうで目的地に着いた。
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Miti tohoku oboyu. Zihu-siti-niti no tuki sasi-ide te, kahara no hodo, ohom-saki no hi mo honoka naru ni, Toribeno no kata nado mi-yari taru hodo nado, mono-mutukasiki mo, nani to mo oboye tamaha zu, kaki-midaru kokoti si tamahi te, ohasi-tuki nu.
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4.6.23 |
辺りさへ すごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、 女一人泣く声のみして、外の方に、法師ばら二、三人 物語しつつ、 わざとの声立てぬ念仏ぞする。 寺々の初夜も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。 清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の声尊くて、 経うち読みたるに、涙の残りなく思さる。
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周囲一帯までがぞっとする所だが、板屋の隣に堂を建ててお勤めしている尼の家は、まことにもの寂しい感じである。御燈明の光が、微かに隙間から見える。その家には、女一人の泣く声ばかりして、外の方に、法師たち二、三人が話をしいしい、特に声を立てない念仏を唱えている。寺々の初夜も、皆、お勤めが終わって、とても静かである。清水寺の方角は、光が多く見え、人の気配がたくさんあるのであった。この尼君の子である大徳が尊い声で、経を読んでいるので、涙も涸れんばかりに思わずにはいらっしゃれない。
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凄い気のする所である。そんな所に住居の板屋があって、横に御堂が続いているのである。仏前の燈明の影がほのかに戸からすいて見えた。部屋の中には一人の女の泣き声がして、その室の外と思われる所では、僧の二、三人が話しながら声を多く立てぬ念仏をしていた。近くにある東山の寺々の初夜の勤行も終わったころで静かだった。清水の方角にだけ灯がたくさんに見えて多くの参詣人の気配も聞かれるのである。主人の尼の息子の僧が尊い声で経を読むのが聞こえてきた時に、源氏はからだじゅうの涙がことごとく流れて出る気もした。
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Atari sahe sugoki ni, itaya no katahara ni dau tate te okonahe ru ama no sumahi, ito ahare nari. Mi-akasi no kage, honoka ni suki te miyu. Sono ya ni ha, womna hitori naku kowe nomi si te, to no kata ni, hohusi-bara ni, sam-nin monogatari si tutu, wazato no kowe tate nu nenbutu zo suru. Tera-dera no syoya mo, mina okonahi hate te, ito simeyaka nari. Kiyomidu no kata zo, hikari ohoku miye, hito no kehahi mo sigekari keru. Kono Ama-Gimi no ko naru Daitoko no kowe tahutoku te, kyau uti-yomi taru ni, namida no nokori naku obosa ru.
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4.6.24 |
入りたまへれば、 火取り背けて、右近は屏風隔てて臥したり。 いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。手をとらへて、
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お入りになると、灯火を遺骸から背けて、右近は屏風を隔てて臥していた。どんなに侘しく思っているだろう、と御覧になる。気味悪さも感じられず、とてもかわいらしい様子をして、まだ少しも変わった所がない。手を握って、
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中へはいって見ると、灯をあちら向きに置いて、遺骸との間に立てた屏風のこちらに右近は横になっていた。どんなに佗しい気のすることだろうと源氏は同情して見た。遺骸はまだ恐ろしいという気のしない物であった。美しい顔をしていて、まだ生きていた時の可憐さと少しも変わっていなかった。
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Iri tamahe re ba, hi tori somuke te, Ukon ha byaubu hedate te husi tari. Ikani wabisikara m to, mi tamahu. Osorosiki ke mo oboye zu, ito rautage naru sama si te, mada isasaka kahari taru tokoro nasi. Te wo torahe te,
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4.6.25 |
「 我に、今一度、 声をだに聞かせたまへ。 いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を尽くして あはれに思ほえしを、うち捨てて、 惑はしたまふが、いみじきこと」
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「わたしに、もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。どのような前世からの因縁があったのだろうか、少しの間に、心の限りを尽くして愛しいと思ったのに、残して逝って、途方に暮れさせなさるのが、あまりのこと」
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「私にもう一度、せめて声だけでも聞かせてください。どんな前生の縁だったかわずかな間の関係であったが、私はあなたに傾倒した。それだのに私をこの世に捨てて置いて、こんな悲しい目をあなたは見せる」
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"Ware ni, ima hito-tabi kowe wo dani kika se tamahe. Ika naru mukasi no tigiri ni ka ari kem, sibasi no hodo ni, kokoro wo tukusi te ahare ni omohoye si wo, uti-sute te, madohasi tamahu ga, imiziki koto."
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4.6.26 |
と、声も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。
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と、声も惜しまず、お泣きになること、際限がない。
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もう泣き声も惜しまずはばからぬ源氏だった。
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to, kowe mo wosima zu, naki tamahu koto, kagirinasi.
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4.6.27 |
大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、涙落としけり。
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大徳たちも、この方たちを誰とは知らないが、子細があると思って、皆、涙を落としたのだった。
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僧たちもだれとはわからぬながら、死者に断ちがたい愛着を持つらしい男の出現を見て、皆涙をこぼした。
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Daitoko-tati mo, tare to ha sira nu ni, ayasi to omohi te, mina, namida otosi keri.
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4.6.28 |
右近を、「 いざ、二条へ」とのたまへど、
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右近に、「さあ、二条へ」とおっしゃるが、
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源氏は右近に、 「あなたは二条の院へ来なければならない」 と言ったのであるが、
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Ukon wo, "Iza, Nideu he." to notamahe do,
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4.6.29 |
「 年ごろ、 幼くはべりしより、片時たち 離れたてまつらず、 馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、 いづこにか帰りはべらむ。 いかになりたまひにき とか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、 人に言ひ騒がれはべらむが、いみじきこと」と言ひて、泣き惑ひて、「 煙にたぐひて、慕ひ参りなむ」と言ふ。
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「長年、幼うございました時から、片時もお離れ申さず、馴れ親しみ申し上げてきた方に、急にお別れ申して、どこに帰ったらよいのでございましょう。どのようにおなりになったと、皆に申せましょう。悲しいことはさておいて、皆にとやかく言われましょうことが、辛いことで」と言って、泣き崩れて、「煙と一緒になって、後をお慕い申し上げましょう」と言う。
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「長い間、それは小さい時から片時もお離れしませんでお世話になりました御主人ににわかにお別れいたしまして、私は生きて帰ろうと思う所がございません。奥様がどうおなりになったかということを、どうほかの人に話ができましょう。奥様をお亡くししましたほかに、私はまた皆にどう言われるかということも悲しゅうございます」 こう言って右近は泣きやまない。 私も奥様の煙といっしょにあの世へ参りとうございます」
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"Tosi-goro, wosanaku haberi si yori, kata-toki tati-hanare tatematura zu, nare kikoye turu hito ni, nihaka ni wakare tatematuri te, iduko ni ka kaheri habera m. Ikani nari tamahi ni ki to ka, hito ni mo ihi habera m. Kanasiki koto wo ba saru mono ni te, hito ni ihi-sawaga re habera m ga, imiziki koto." to ihi te, naki-madohi te, "Keburi ni taguhi te, sitahi mawiri na m." to ihu.
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4.6.30 |
「 道理なれど、 さなむ世の中はある。別れと言ふもの、悲しからぬはなし。 とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を頼め」と、のたまひこしらへて、「 かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ」
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「ごもっともだが、世の中はそのようなものである。別れというもので、悲しくないものはない。先立つのも残されるのも、同じく寿命で定まったものである。気を取り直して、わたしを頼れ」と、お慰めになりながらも、「このように言う我が身こそが、生きながらえられそうにない気がする」
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「もっともだがしかし、人世とはこんなものだ。別れというものに悲しくないものはないのだ。どんなことがあっても寿命のある間には死ねないのだよ。気を静めて私を信頼してくれ」 と言う源氏が、また、 「しかしそういう私も、この悲しみでどうなってしまうかわからない」
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"Kotowari nare do, sa nam yononaka ha aru. Wakare to ihu mono, kanasikara nu ha nasi. Toaru-mo-kakaru-mo, onazi inoti no kagiri aru mono ni nam aru. Omohi-nagusame te, ware wo tanome." to, notamahi kosirahe te, "Kaku ihu waga-mi koso ha, iki tomaru maziki kokoti sure."
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4.6.31 |
とのたまふも、頼もしげなしや。
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とおっしゃるのも、頼りない話であるよ。
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と言うのであるから心細い。
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to notamahu mo, tanomosige nasi ya!
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4.6.32 |
惟光、「 夜は、明け方になりはべりぬらむ。 はや帰らせたまひなむ」
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惟光が、「夜は、明け方になってしまいましょう。早くお帰りあそばしますように」
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「もう明け方に近いころだと思われます。早くお帰りにならなければいけません」
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Koremitu, "Yo ha, akegata ni nari haberi nu ram. Haya kahera se tamahi na m."
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4.6.33 |
と聞こゆれば、 返りみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。
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と申し上げるので、振り返り振り返りばかりされて、胸をひしと締め付けられた思いでお出になる。
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惟光がこう促すので、源氏は顧みばかりがされて、胸も悲しみにふさがらせたまま帰途についた。
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to kikoyure ba, kaheri-mi nomi se rare te, mune mo tuto hutagari te ide tamahu.
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4.6.34 |
道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなく惑ふ心地したまふ。ありしながらうち臥したりつるさま、 うち交はしたまへりしが、我が御紅の御衣の 着られたりつるなど、 いかなりけむ契りにかと 道すがら思さる。御馬にも、はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また、惟光添ひ助けて おはしまさするに、 堤のほどにて、御馬よりすべり下りて、いみじく御心地惑ひければ、
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道中とても露っぽいところに、更に大変な朝霧で、どこだか分からないような気がなさる。生前の姿のままで横たわっていた様子、互いにお掛け合いになって寝たのや、その自分の紅のご衣装がそのまま着せ掛けてあったことなどが、どのような前世の因縁であったのかと、道すがらお思いにならずにはいらっしゃれない。お馬にも、しっかりとお乗りになることができそうにないご様子なので、再び、惟光が介添えしてお連れしていくと、堤の辺りで、馬からすべり下りて、ひどくご惑乱なさったので、
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露の多い路に厚い朝霧が立っていて、このままこの世でない国へ行くような寂しさが味わわれた。某院の閨にいたままのふうで夕顔が寝ていたこと、その夜上に掛けて寝た源氏自身の紅の単衣にまだ巻かれていたこと、などを思って、全体あの人と自分はどんな前生の因縁があったのであろうと、こんなことを途々源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうでもなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。失心したふうで、
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Miti ito tuyu-keki ni, itodosiki asagiri ni, iduko to mo naku madohu kokoti si tamahu. Ari-si-nagara uti-husi tari turu sama, uti-kahasi tamahe ri si ga, waga ohom-kurenawi no ohom-zo no ki rare tari turu nado, ika nari kem tigiri ni ka to miti-sugara obosa ru. Ohom-muma ni mo, haka-bakasiku nori tamahu maziki ohom-sama nare ba, mata, Koremitu sohi-tasuke te ohasimasa suru ni, tutumi no hodo nite, ohom-muma yori suberi ori te, imiziku mi-kokoti madohi kere ba,
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4.6.35 |
「 かかる道の空にて、 はふれぬべきにやあらむ。 さらに、え行き着くまじき心地なむする」
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「こんな道端で、野垂れ死んでしまうのだろうか。まったく、帰り着けそうにない気がする」
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「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない気がする」
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"Kakaru miti no sora nite, hahure nu beki ni ya ara m? Sarani, e iki-tuku maziki kokoti nam suru."
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4.6.36 |
とのたまふに、惟光心地惑ひて、「 我がはかばかしくは、 さのたまふとも、かかる道に 率て出でたてまつるべきかは」と思ふに、いと心あわたたしければ、 川の水に手を洗ひて、清水の観音を ★念じたてまつりても、すべなく思ひ惑ふ。
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とおっしゃるので、惟光も困惑して、「自分がしっかりしていたら、あのようにおっしゃっても、このような所にお連れ出し申し上げるべきではなかった」と反省すると、とても気ぜわしく落ち着いていられないので、鴨川の水で手を洗い清めて、清水の観音をお拝み申しても、どうしようもなく途方に暮れる。
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と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確とした人間だったら、あんなことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。川の水で手を洗って清水の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶した。
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to notamahu ni, Koremitu kokoti madohi te, "Waga haka-bakasiku ha, sa notamahu tomo, kakaru miti ni wi te ide tatematuru beki kaha." to omohu ni, ito kokoro awatatasikere ba, kaha no midu ni te wo arahi te, Kiyomidu-no-Kwan'on wo nen-zi tatematuri te mo, sube naku omohi madohu.
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4.6.37 |
君も、しひて御心を起こして、心のうちに仏を念じたまひて、また、 とかく助けられたまひてなむ、二条院へ帰りたまひける。
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源氏の君も、無理に気を取り直して、心中に仏を拝みなさって、再び、あれこれ助けられなさって、二条院へお帰りになるのであった。
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源氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ行き着いた。
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Kimi mo, sihite mi-kokoro wo okosi te, kokoro no uti ni Hotoke wo nen-zi tamahi te, mata, tokaku tasuke rare tamahi te nam, Nideu-no-win he kaheri tamahi keru.
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4.6.38 |
あやしう 夜深き御歩きを、人びと、「 見苦しきわざかな。このごろ、例よりも静心なき 御忍び歩きの、しきるなかにも、 昨日の御気色の、 いと悩ましう思したりしに。 いかでかく、たどり歩きたまふらむ」と、嘆きあへり。
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奇妙な深夜のお忍び歩きを、女房たちは、「みっともないこと。近ごろ、いつもより落ち着きのないお忍び歩きが、うち続く中でも、昨日のご様子が、とても苦しそうでいらっしゃいましたが。どうしてこのように、ふらふらお出歩きなさるのでしょう」と、嘆き合っていた。
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毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、 「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行をなさる中でも昨日はたいへんお加減が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですから、困ったことですね」 こんなふうに歎息をしていた。
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Ayasiu yo-bukaki ohom-ariki wo, hito-bito, "Migurusiki waza kana! Kono-goro, rei yori mo sidu-gokoro naki ohom-sinobi-ariki no, sikiru naka ni mo, kinohu no mi-kesiki no, ito nayamasiu obosi tari si ni. Ikade kaku, tadori-ariki tamahu ram." to, nageki-ahe ri.
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4.6.39 |
まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、 二、三日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなく ゆゆしき御ありさまなれば、 世に長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
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ほんとうに、お臥せりになったままで、とてもひどくお苦しみになって、二、三日にもなったので、すっかり衰弱のようでいらっしゃる。帝におかせられても、お耳にあそばされ、嘆かれることはこの上ない。御祈祷を、方々の寺々にひっきりなしに大騒ぎする。祭り、祓い、修法など、数え上げたらきりがない。この世にまたとなく美しいご様子なので、長生きあそばされないのではないかと、国中の人々の騷ぎである。
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源氏白身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日続いたあとはまた甚しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝も非常に御心痛あそばされてあちらでもこちらでも間断なく祈祷が行なわれた。特別な神の祭り、祓い、修法などである。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
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Makoto ni, husi tamahi nuru mama ni, ito itaku kurusigari tamahi te, ni, sam-niti ni nari nuru ni, muge ni yowaru yau ni si tamahu. Uti ni mo, kikosimesi, nageku koto kagirinasi. Ohom-inori, kata-gata ni hima naku nonosiru. Maturi, harahe, syuhohu nado, ihi-tukusu beku mo ara zu. Yo ni taguhi naku yuyusiki ohom-arisama nare ba, yo ni nagaku ohasimasu maziki ni ya to, ame-no-sita no hito no sawagi nari.
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4.6.40 |
苦しき御心地にも、 かの右近を召し寄せて、局など近くたまひて、 さぶらはせたまふ。 惟光、心地も騒ぎ惑へど、思ひのどめて、 この人のたづきなしと思ひたるを、もてなし助けつつさぶらはす。
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苦しいご気分ながらも、あの右近を呼び寄せて、部屋などを近くにお与えになって、お仕えさせなさる。惟光は、気が気でなくどうしてよいかわからないでいるが、気を落ち着けて、この右近が主人を亡くして悲しんでいるのを、支え助けてやりながら仕えさせる。
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病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋なども近い所へ与えて、手もとで使う女房の一人にした。惟光は源氏の病の重いことに顛倒するほどの心配をしながら、じっとその気持ちをおさえて、馴染のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情してよく世話をしてやった。
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Kurusiki mi-kokoti ni mo, kano Ukon wo mesi-yose te, tubone nado tikaku tamahi te, saburaha se tamahu. Koremitu, kokoti mo sawagi madohe do, omohi nodome te, kono hito no taduki-nasi to omohi taru wo, motenasi tasuke tutu saburaha su.
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4.6.41 |
君は、いささか隙ありて思さるる時は、 召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。 服、いと黒くして、容貌などよからねど、 かたはに見苦しからぬ若人なり。
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源氏の君は、少し気分のよろしく思われる時は、呼び寄せてご用を言いつけたりなどなさるので、まもなく馴染んだ。喪服は、とても黒いのを着て、器量など良くはないが、不器量で見苦しいというほどでもない若い女性である。
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源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居まの用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴れてきた。濃い色の喪服を着た右近は、容貌などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
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Kimi ha, isasaka hima ari te obosa ruru toki ha, mesi-ide te tukahi nado sure ba, hodo naku mazirahi-tuki tari. Buku ito kuroku si te, katati nado yokara ne do, kataha ni migurusikara nu wakaudo nari.
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4.6.42 |
「 あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえ あるまじきなめり ★。年ごろの頼み失ひて、 心細く思ふらむ慰めにも、 もしながらへば、よろづに育まむ とこそ思ひしか、 ほどなくまたたち添ひぬべきが、 口惜しくもあるべきかな」
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「不思議に短かったご宿縁に引かれて、わたしもこの世に生きていられないような気がする。長年の主人を亡くして、心細く思っていましょう慰めにも、もし生きながらえたら、いろいろと面倒を見たいと思ったが、まもなく自分も後を追ってしまいそうなのが、残念なことだなあ」
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「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、その片割れの私ももう長くは生きていないのだろう。長い間たよりにしてきた主人に別れたおまえが、さぞ心細いだろうと思うと、せめて私に命があれば、あの人の代わりの世話をしたいと思ったこともあったが、私もあの人のあとを追うらしいので、おまえには気の毒だね」
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"Ayasiu mizikakari keru ohom-tigiri ni hikasare te, ware mo yo ni e aru maziki na' meri. Tosi-goro no tanomi usinahi te, kokoro-bosoku omohu ram nagusame ni mo, mosi nagarahe ba, yorodu ni hagukuma m to koso omohi sika, hodo naku mata tati-sohi nu beki ga, kutiwosiku mo aru beki kana!"
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4.6.43 |
と、忍びやかにのたまひて、 弱げに泣きたまへば、 言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と 思ひきこゆ。
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と、ひっそりとおっしゃって、弱々しくお泣きになるので、今さら言ってもしかたないことはさて措いても、「はなはだもったいないことだ」とお思い申し上げる。
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と、ほかの者へは聞かせぬ声で言って、弱々しく泣く源氏を見る右近は、女主人に別れた悲しみは別として、源氏にもしまたそんなことがあれば悲しいことだろうと思った。
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to, sinobiyaka ni notamahi te, yowage ni naki tamahe ba, ihu-kahi-naki koto wo-ba oki te, "Imiziku wosi" to omohi kikoyu.
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4.6.44 |
殿のうちの人、足を空にて思ひ惑ふ。内裏より、御使、 雨の脚よりもけにしげし。 思し嘆きおはしますを聞きたまふに、いとかたじけなくて、 せめて強く思しなる。 大殿も経営したまひて、大臣、 日々に渡りたまひつつ、 さまざまのことを せさせたまふ、しるしにや、 二十余日、いと重くわづらひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
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お邸の人々は、足も地に着かないほどどうしてよいか分からないでいる。内裏から、御勅使が、雨脚よりも格段に頻繁にある。ご心配あそばされていらっしゃるのをお聞きになると、まことに恐れ多くて、無理に気を強くお持ちになる。大殿邸でも懸命にお世話なさって、左大臣が、毎日お越しになっては、さまざまな加持祈祷をおさせなさる、その効果があってか、二十余日間、ひどく重く患っていらしゃったが、格別の余病もなく、回復された様子にお見えになる。
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二条の院の男女はだれも静かな心を失って主人の病を悲しんでいるのである。御所のお使いは雨の脚よりもしげく参入した。帝の御心痛が非常なものであることを聞く源氏は、もったいなくて、そのことによって病から脱しようとみずから励むようになった。左大臣も徹底的に世話をした、大臣自身が二条の院を見舞わない日もないのである。そしていろいろな医療や祈祷をしたせいでか、二十日ほど重態だったあとに余病も起こらないで、源氏の病気は次第に回復していくように見えた。
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Tono no uti no hito, asi wo sora nite omohi madohu. Uti yori, ohom-tukahi, ame no asi yori mo keni sigesi. Obosi-nageki ohasimasu wo kiki tamahu ni, ito katazikenaku te, semete tuyoku obosi naru. Ohoi-dono mo keimei-si tamahi te, Otodo, hi-bi ni watari tamahi tutu, sama-zama no koto wo se sase tamahu, sirusi ni ya, ni-zihu yo-niti, ito omoku wadurahi tamahi ture do, koto naru nagori nokora zu, okotaru sama ni miye tamahu.
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4.6.45 |
穢らひ忌みたまひしも、一つに満ちぬる夜なれば ★、 おぼつかながらせたまふ御心、わりなくて、 内裏の御宿直所に参りたまひなどす。大殿、我が御車にて 迎へたてまつりたまひて、御物忌なにやと、むつかしう 慎ませたてまつりたまふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。
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死穢によって籠っていらっしゃった忌中明けの日が、病気回復の床上げの日と同日の夜になったので、御心配あそばされていらっしゃるお気持ちが、どうにも恐れ多いので、宮中のご宿直所に参内などなさる。大殿は、ご自分のお車でお迎え申し上げなさって、御物忌みや何やかやと、うるさくお慎みさせ申し上げなさる。ぼんやりとして、別世界にでも生き返ったように、暫くの間はお感じになっていた。
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行触れの遠慮の正規の日数もこの日で終わる夜であったから、源氏は逢いたく思召す帝の御心中を察して、御所の宿直所にまで出かけた。退出の時は左大臣が自身の車へ乗せて邸へ伴った。病後の人の謹慎のしかたなども大臣がきびしく監督したのである。この世界でない所へ蘇生した人間のように当分源氏は思った。
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Kegarahi imi tamahi si mo, hito-tu ni miti nuru yo nare ba, obotukanagara se tamahu mi-kokoro, warinaku te, uti no ohom-tonowi-dokoro ni mawiri tamahi nado su. Ohoi-dono, waga mi-kuruma nite mukahe tatematuri tamahi te, ohom-mono-imi nani ya to, mutukasiu tutusima se tatematuri tamahu. Ware ni mo ara zu, ara nu yo ni yomi-gaheri taru yau ni, sibasi ha oboye tamahu.
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4.7 |
第七段 忌み明ける
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4-7 Genji gets well and remembers Yugao
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4.7.1 |
九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、 いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「 御物の怪なめり」など言ふもあり。
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九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって、とてもひどく面やつれしていらっしゃるが、かえって、たいそう優美で、物思いに沈みがちに、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。拝見して怪しむ女房もいて、「お物の怪がお憑きのようだわ」などと言う者もいる。
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九月の二十日ごろに源氏はまったく回復して、痩せるには痩せたがかえって艶な趣の添った源氏は、今も思いをよくして、またよく泣いた。その様子に不審を抱く人もあって、物怪が憑いているのであろうとも言っていた。
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Ku-gwati hatu-ka no hodo ni zo, okotari hate tamahi te, ito itaku omo-yase tamahe re do, naka-naka, imiziku namamekasiku te, nagame-gati ni, ne wo nomi naki tamahu. Mi tatematuri togamuru hito mo ari te, "Ohom-mononoke na' meri" nado ihu mo ari.
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4.7.2 |
右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、
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右近を呼び出して、気分もゆったりとした夕暮に、お話などなさって、
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源氏は右近を呼び出して、ひまな静かな日の夕方に話をして、
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Ukon wo mesi-ide te, nodo-yaka naru yuhugure ni, monogatari nado si tamahi te,
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4.7.3 |
「 なほ、いとなむあやしき。などてその人と 知られじとは、 隠いたまへりしぞ。まことに 海人の子なりとも、 さばかりに思ふを知らで、 隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、
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「やはり、とても不思議だ。どうして誰とも知られまいと、お隠しになっていたのか。本当に賤しい身分であったとしても、あれほど愛しているのを知らず、隠していらっしゃったので、辛かった」とおっしゃると、
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「今でも私にはわからぬ。なぜだれの娘であるということをどこまでも私に隠したのだろう。たとえどんな身分でも、私があれほどの熱情で思っていたのだから、打ち明けてくれていいわけだと思って恨めしかった」 とも言った。
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"Naho, ito nam ayasiki. Nadote sono hito to sira re zi to ha, kakui tamahe ri si zo? Makoto ni ama no ko nari tomo, sabakari ni omohu wo sira de, hedate tamahi sika ba nam, turakari si." to notamahe ba,
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4.7.4 |
「 などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。 いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを 聞こえたまはむ。初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『 現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『 御名隠しも、さばかりにこそは』と 聞こえたまひながら、『 なほざりにこそ紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに 思したりし」と聞こゆれば、
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「どうして、深くお隠し申し上げなさる必要がございましょう。いつの折にか、たいした名でもないお名前を申し上げなさることができましょう。初めから、不思議な思いもかけなかったご関係なので、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『お名前を隠していらしたのも、あなた様でいらっしゃるからでしょう』と存じ上げておられながら、『いい加減な遊び事として、お名前を隠していらっしゃるのだろう』と辛いことに、お思いになっていました」と申し上げるので、
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「そんなにどこまでも隠そうなどとあそばすわけはございません。そうしたお話をなさいます機会がなかったのじゃございませんか。最初があんなふうでございましたから、現実の関係のように思われないとお言いになって、それでもまじめな方ならいつまでもこのふうで進んで行くものでもないから、自分は一時的な対象にされているにすぎないのだとお言いになっては寂しがっていらっしゃいました」 右近がこう言う。
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"Nadote-ka, hukaku kakusi kikoye tamahu koto ha habera m. Itu no hodo nite ka ha, nani nara nu ohom-nanori wo kikoye tamaha m. Hazime yori, ayasiu oboye nu sama nari si ohom-koto nare ba, 'Ututu to mo oboye zu nam aru' to notamahi te, 'Ohom-na-gakusi mo, sabakari ni koso ha.' to kikoye tamahi nagara, 'Nahozari ni koso magirahasi tamahu rame.' to nam, uki koto ni obosi tari si." to kikoyure ba,
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4.7.5 |
「 あいなかりける心比べどもかな。 我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、 まだ慣らはぬことなる。 内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる 身にて、 はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、 取りなしうるさき身のありさまになむあるを、 はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに 見たてまつりしも、かかるべき契りこそは ものしたまひけめ と思ふも、あはれになむ。またうち 返し、つらうおぼゆる。 かう長かるまじきにては、 など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。なほ詳しく語れ。 今は、何ごとを隠すべきぞ。 七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、
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「つまらない意地の張り合いであったな。自分は、そのように隠しておく気はなかった。ただ、このように人から許されない忍び歩きを、まだ経験ないことなのだ。主上が御注意あそばすことを始め、憚ることの多い身分で、ちょっと人に冗談を言っても、窮屈で、取り沙汰が大げさな身の上の有様なので、ふとした夕方の事から、妙に心に掛かって、無理算段してお通い申したのも、このような運命がおありだったのだろうと思うにつけても、お気の毒で。また反対に、恨めしく思われてならない。こう長くはない宿縁であったれば、どうして、あれほど心底から愛しく思われなさったのだろう。もう少し詳しく話せ。今はもう、何を隠す必要があろう。七日毎に仏画を描かせても、誰のためと、心中にも祈ろうか」とおっしゃると、
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「つまらない隠し合いをしたものだ。私の本心ではそんなにまで隠そうとは思っていなかった。ああいった関係は私に経験のないことだったから、ばかに世間がこわかったのだ。御所の御注意もあるし、そのほかいろんな所に遠慮があってね。ちょっとした恋をしても、それを大問題のように扱われるうるさい私が、あの夕顔の花の白かった日の夕方から、むやみに私の心はあの人へ惹かれていくようになって、無理な関係を作るようになったのもしばらくしかない二人の縁だったからだと思われる。しかしまた恨めしくも思うよ。こんなに短い縁よりないのなら、あれほどにも私の心を惹いてくれなければよかったとね。まあ今でもよいから詳しく話してくれ、何も隠す必要はなかろう。七日七日に仏像を描かせて寺へ納めても、名を知らないではね。それを表に出さないでも、せめて心の中でだれの菩提のためにと思いたいじゃないか」 と源氏が言った。
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"Ainakari keru kokoro-kurabe-domo kana! Ware ha, sika hedaturu kokoro mo nakari ki. Tada, kayau ni hito ni yurusa re nu hurumahi wo nam, mada naraha nu koto naru. Uti ni isame notamahasuru wo hazime, tutumu koto ohokaru mi ni te, hakanaku hito ni tahabure-goto wo ihu mo, tokoro-seu, torinasi urusaki mi no arisama ni nam aru wo, hakanakari si yuhube yori, ayasiu kokoro ni kakari te, anagati ni mi tatematuri si mo, kakaru beki tigiri koso ha monosi tamahi keme to omohu mo, ahare ni nam. Mata uti-kahesi, turau oboyuru. Kau nagakaru maziki ni te-ha, nado, sasimo kokoro ni simi te, ahare to oboye tamahi kem. Naho kuhasiku katare. Ima ha, nani goto wo kakusu beki zo! Nanu-ka nanu-ka ni Hotoke kaka se te mo, taga tame to ka, kokoro no uti ni mo omoha m." to notamahe ba,
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4.7.6 |
「 何か、隔てきこえさせはべらむ。 自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、 口さがなくやは、 と思うたまふばかりになむ。
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「どうして、お隠し申し上げましょう。ご自身が、お隠し続けていらしたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言い洩らしてはいかがなものか、と存じおりますばかりです。
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「お隠しなど決してしようとは思っておりません。ただ御自分のお口からお言いにならなかったことを、お亡れになってからおしゃべりするのは済まないような気がしただけでございます。
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"Nani-ka, hedate kikoye sase habera m. Midukara, sinobi sugusi tamahi si koto wo, naki ohom-usiro ni, kuti-saganaku ya-ha, to omou tamahu bakari ni nam.
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4.7.7 |
親たちは、はや亡せたまひにき。 三位中将となむ聞こえし。 いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、 我が身のほどの心もとなさを 思すめりしに、 命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、 頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、 見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、 去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの 聞こえ参で来しに、 物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、 せむかたなく思し怖ぢて、 西の京に、御乳母住みはべる所になむ、 はひ隠れたまへりし。 それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、 山里に移ろひなむと思したりしを、 今年よりは塞がりける方にはべりければ、 違ふとて、 あやしき所にものしたまひしを、 見あらはされたてまつりぬることと、 思し嘆くめりし。世の人に似ず、ものづつみをしたまひて 人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、 御覧ぜられたてまつりたまふめり しか」
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ご両親は、早くお亡くなりになりました。三位中将と申しました。とてもかわいい娘とお思い申し上げられていましたが、ご自分の出世が思うにまかせぬのをお嘆きのようでしたが、お命までままならず亡くなってしまわれた後、ふとした縁で、頭中将殿が、まだ少将でいらした時に、お通い申し上げあそばすようになって、三年ほどの間は、ご誠意をもってお通いになりましたが、去年の秋ごろ、あの右大臣家から、とても恐ろしい事を言って寄こしたので、ものをむやみに怖がるご性質ゆえに、どうしてよいか分からなくお怖がりになって、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れなさいました。そこもとてもむさ苦しい所ゆえ、お住まいになりにくくて、山里に移ってしまおうと、お思いになっていたところ、今年からは方塞がりの方角でございましたので、方違えしようと思って、賤しい家においでになっていたところを、お見つけ申されてしまった事と、お嘆きのようでした。世間の人と違って、引っ込み思案をなさって、他人から物思いしている様子を見られるのを、恥ずかしいこととお思いなさって、さりげないふうを装って、お目にかかっていらっしゃるようでございました」
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御両親はずっと前にお亡くなりになったのでございます。殿様は三位中将でいらっしゃいました。非常にかわいがっていらっしゃいまして、それにつけても御自身の不遇をもどかしく思召したでしょうが、その上寿命にも恵まれていらっしゃいませんで、お若くてお亡くなりになりましたあとで、ちょっとしたことが初めで頭中将がまだ少将でいらっしったころに通っておいでになるようになったのでございます。三年間ほどは御愛情があるふうで御関係が続いていましたが、昨年の秋ごろに、あの方の奥様のお父様の右大臣の所からおどすようなことを言ってまいりましたのを、気の弱い方でございましたから、むやみに恐ろしがっておしまいになりまして、西の右京のほうに奥様の乳母が住んでおりました家へ隠れて行っていらっしゃいましたが、その家もかなりひどい家でございましたからお困りになって、郊外へ移ろうとお思いになりましたが、今年は方角が悪いので、方角避けにあの五条の小さい家へ行っておいでになりましたことから、あなた様がおいでになるようなことになりまして、あの家があの家でございますから侘しがっておいでになったようでございます。普通の人とはまるで違うほど内気で、物思いをしていると人から見られるだけでも恥ずかしくてならないようにお思いになりまして、どんな苦しいことも寂しいことも心に納めていらしったようでございます」
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Oya-tati ha, haya use tamahi ni ki. Samwi-no-Tyuuzyau to nam kikoye si. Ito rautaki mono ni omohi kikoye tamahe ri sika do, waga mi no hodo no kokoro-motonasa wo obosu meri si ni, inoti sahe tahe tamaha zu nari ni si noti, hakanaki mono no tayori nite, Tou-no-Tyuuzyau nam, mada Seusyau ni monosi tamahi si toki, mi-some tatematura se tamahi te, mi-tose bakari ha, kokorozasi aru sama ni kayohi tamahi si wo, kozo no aki-goro, kano Migi-no-Ohoidono yori, ito osorosiki koto no kikoye ma'de-ko si ni, mono-wodi wo warinaku si tamahi si mi-kokoro ni, semkatanaku obosi-wodi te, nisi-no-kyau ni, ohom-menoto sumi haberu tokoro ni nam, hahi-kakure tamahe ri si. Sore mo ito mi-gurusiki ni, sumi-wabi tamahi te, yama-zato ni uturohi na m to obosi tari si wo, kotosi yori ha hutagari keru kata ni haberi kere ba, tagahu tote, ayasiki tokoro ni monosi tamahi si wo, mi-arahasa re tatematuri nuru koto to, obosi-nageku meri si. Yo no hito ni ni zu, mono-dutumi wo si tamahi te hito ni mono omohu kesiki wo miye m wo, hadukasiki mono ni si tamahi te, turenaku nomi motenasi te, go-ran-ze rare tatematuri tamahu meri sika."
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4.7.8 |
と、語り出づるに、「 さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
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と、話し出すと、「そうであったのか」と、お思い合わせになって、ますます不憫さが増した。
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右近のこの話で源氏は自身の想像が当たったことで満足ができたとともに、その優しい人がますます恋しく思われた。
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to, katari-iduru ni, "Sareba-yo" to, obosi-ahase te, iyo-iyo ahare masari nu.
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4.7.9 |
「 幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。
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「幼い子を行く方知れずにしたと、頭中将が残念がっていたのは、そのような子でもいたのか」とお尋ねになる。
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「小さい子を一人行方不明にしたと言って中将が憂鬱になっていたが、そんな小さい人があったのか」 と問うてみた。
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"Wosanaki hito madohasi tari to, Tyuuzyau no urehe si ha, saru hito ya?" to tohi tamahu.
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4.7.10 |
「 しか。 一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。 女にて、いとらうたげになむ」と語る。
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「さようでございます。一昨年の春に、お生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしくて」と話す。
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「さようでございます。一昨年の春お生まれになりました。お嬢様で、とてもおかわいらしい方でございます」
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"Sika. Wototosi no haru zo, monosi tamahe ri si. Womna ni te, ito rautage ni nam." to kataru.
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4.7.11 |
「 さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、 いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。「 かの中将にも 伝ふべけれど、言ふかひなき かこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、 育まむに咎あるまじきを。 そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。
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「それで、どこに。誰にもそうとは知らせないで、わたしに下さい。あっけなくて、悲しいと思っている人のお形見として、どんなにか嬉しいことだろう」とおっしゃる。「あの中将にも伝えるべきだが、言っても始まらない恨み言を言われるだろう。あれこれにつけて、お育てするに不都合はあるまいからね。その一緒にいる乳母などにも違ったふうに言い繕って、連れて来てくれ」などと相談をもちかけなさる。
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「で、その子はどこにいるの、人には私が引き取ったと知らせないようにして私にその子をくれないか。形見も何もなくて寂しくばかり思われるのだから、それが実現できたらいいね」 源氏はこう言って、また、 「頭中将にもいずれは話をするが、あの人をああした所で死なせてしまったのが私だから、当分は恨みを言われるのがつらい。私の従兄の中将の子である点からいっても、私の恋人だった人の子である点からいっても、私の養女にして育てていいわけだから、その西の京の乳母にも何かほかのことにして、お嬢さんを私の所へつれて来てくれないか」 と言った。
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"Sate, iduko ni zo? Hito ni sa to ha sira se de, ware ni e sase yo. Atohakanaku, imizi to omohu ohom-katami ni, ito uresikaru beku nam." to notamahu. "Kano Tyuuzyau ni mo tutahu bekere do, ihukahinaki kakoto ohi na m. Tozama-kauzama ni tuke te, hagukuma m ni toga aru maziki wo. Sono ara m menoto nado ni mo, koto-zama ni ihi-nasi te, monose yo kasi." nado katarahi tamahu.
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4.7.12 |
「 さらば、いとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて 生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。 はかばかしく扱ふ人なしとて、 かしこに」 など聞こゆ。
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「それならば、とても嬉しいことでございましょう。あの西の京でご成育なさるのは、不憫でございまして。これといった後見人もいないというので、あちらで」などと申し上げる。
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「そうなりましたらどんなに結構なことでございましょう。あの西の京でお育ちになってはあまりにお気の毒でございます。私ども若い者ばかりでしたから、行き届いたお世話ができないということであっちへお預けになったのでございます」 と右近は言っていた。
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"Saraba, ito uresiku nam haberu beki. Kano nisi-no-kyau ni te ohi-ide tamaha m ha, kokoro-gurusiku nam. Haka-bakasiku atukahu hito nasi tote, kasiko ni." nado kikoyu.
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4.7.13 |
夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを 見わたして、 心よりほかにをかしき交じらひかなと、 かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを 聞きたまひて、 かのありし院に この鳥の鳴きしを、 いと恐ろしと思ひたりしさまの、 面影にらうたく思し出でらるれば、
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夕暮の静かなころに、空の様子はとてもしみじみと感じられ、お庭先の前栽は枯れ枯れになり、虫の音も鳴き弱りはてて、紅葉がだんだん色づいて行くところが、絵に描いたように美しいのを見渡して、思いがけず結構な宮仕えをすることになったと、あの夕顔の宿を思い出すのも恥ずかしい。竹薮の中に家鳩という鳥が、太い声で鳴くのをお聞きになって、あの先日の院でこの鳥が鳴いたのを、とても怖いと思っていた様子が、まぶたにかわいらしくお思い出されるので、
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静かな夕方の空の色も身にしむ九月だった。庭の植え込みの草などがうら枯れて、もう虫の声もかすかにしかしなかった。そしてもう少しずつ紅葉の色づいた絵のような景色を右近はながめながら、思いもよらぬ貴族の家の女房になっていることを感じた。五条のタ顔の花の咲きかかった家は思い出すだけでも恥ずかしいのである。竹の中で家鳩という鳥が調子はずれに鳴くのを聞いて源氏は、あの某院でこの鳥の鳴いた時に夕顔のこわがった顔が今も可憐に思い出されてならない。
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Yuhugure no siduka naru ni, sora no kesiki ito ahare ni, o-mahe no sensai kare-gare ni, musi no ne mo naki kare te, momidi no yau-yau iro-duku hodo, we ni kaki taru yau ni omosiroki wo mi-watasi te, kokoro yori hoka ni wokasiki mazirahi kana to, kano Yuhugaho no yadori wo omohi-iduru mo hadukasi. Take no naka ni ihe-bato to ihu tori no, hututuka ni naku wo kiki tamahi te, kano ari-si win ni kono tori no naki si wo, ito osorosi to omohi tari si sama no, omokage ni rautaku obosi-ide rarure ba,
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4.7.14 |
「 年はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、 かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。
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「年はいくつにおなりだったか。不思議に普通の人と違って、か弱くお見えであったのも、このように長生きできなかったからなのだね」とおっしゃる。
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「年は幾つだったの、なんだか普通の若い人よりもずっと若いようなふうに見えたのも短命の人だったからだね」
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"Tosi ha ikutu ni ka monosi tamahi si? Ayasiku yo no hito ni ni zu, ayeka ni miye tamahi si mo, kaku nagakaru maziku te nari keri." to notamahu.
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4.7.15 |
「 十九にやなりたまひけむ。 右近は、 亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、 三位の君の らうたがりたまひて、 かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを 思ひたまへ出づれば、 いかでか世にはべらむずらむ。 ▼ いとしも人にと、 悔しくなむ。ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。
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「十九歳におなりだったでしょうか。右近めは、亡くなった乳母があとに残して逝きましたので、三位の君様がわたしをかわいがって下さって、お側離れず一緒に、お育て下さいましたのを思い出しますと、どうして生きておられましょう。どうしてこう深く親しんだのだろうと、悔やまれて。気弱そうでいらっしゃいました女君のお気持ちを、頼むお方として、長年仕えてまいりましたことでございます」と申し上げる。
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「たしか十九におなりになったのでございましょう。私は奥様のもう一人のほうの乳母の忘れ形見でございましたので、三位様がかわいがってくださいまして、お嬢様といっしょに育ててくださいましたものでございます。そんなことを思いますと、あの方のお亡くなりになりましたあとで、平気でよくも生きているものだと恥ずかしくなるのでございます。弱々しいあの方をただ一人のたよりになる御主人と思って右近は参りました」
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"Zihu-ku ni ya nari tamahi kem? Ukon ha, nakunari ni keru ohom-menoto no sute-oki te haberi kere ba, Samwi-no-Kimi no rautagari tamahi te, kano ohom-atari sara zu, ohosi-tate tamahi si wo omohi tamahe idure ba, iakadeka yo ni habera muzu ram. Ito simo hito ni to, kuyasiku nam. Mono-hakanage ni monosi tamahi si hito no mi-kokoro wo, tanomosiki hito nite, tosi-goro narahi haberi keru koto." to kikoyu.
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4.7.16 |
「 はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。 自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして 人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、 見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、
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「頼りなげな人こそ、女はかわいらしいのだ。利口で我の強い人は、とても好きになれないものだ。自分自身がてきぱきとしっかりしていない性情だから、女はただ素直で、うっかりすると男に欺かれてしまいそうなのが、そのくせ引っ込み思案で、男の心にはついていくのが、愛しくて、自分の思いのままに育てて一緒に暮らしたら、慕わしく思われることだろう」などと、おっしゃると、
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「弱々しい女が私はいちばん好きだ。自分が賢くないせいか、あまり聡明で、人の感情に動かされないような女はいやなものだ。どうかすれば人の誘惑にもかかりそうな人でありながら、さすがに慎ましくて恋人になった男に全生命を任せているというような人が私は好きで、おとなしいそうした人を自分の思うように教えて成長させていげればよいと思う」 源氏がこう言うと、
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"Hakanabi taru koso ha, rautakere. Kasikoku hito ni nabika nu, ito kokorodukinaki waza nari. Midukara haka-bakasiku sukuyoka nara nu kokoro-narahi ni, womna ha tada yaharaka ni, tori-hadusi te hito ni azamuka re nu beki ga, sasuga ni mono-dutumi si, mi m hito no kokoro ni sitagaha m nam, ahare ni te, waga kokoro no mama ni tori-nahosi te mi m ni, natukasiku oboyu beki." nado notamahe ba,
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4.7.17 |
「 この方の御好みには、 もて離れたまはざりけり、 と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。
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「こちらのお好みには、きっとお似合いだったでしょうと、存じられますにつけても、残念なことでございますわ」と言って泣く。
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「そのお好みには遠いように思われません方の、お亡れになったことが残念で」と右近は言いながら泣いていた。
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"Kono kata no ohom-konomi ni ha, mote-hanare tamaha zari keri, to omohi tamahuru ni mo, kutiwosiku haberu waza kana!" tote naku.
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4.7.18 |
空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、
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空が少し曇って、風も冷たく感じられる折柄、とても感慨深く物思いに沈んで、
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空は曇って冷ややかな風が通っていた。寂しそうに見えた源氏は、
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Sora no uti-kumori te, kaze hiya-yaka naru ni, ito itaku nagame tamahi te,
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4.7.19 |
「 見し人の煙を雲と眺むれば
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「契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると
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見し人の煙を雲とながむれば
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"Misi hito no keburi wo kumo to nagamure ba
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4.7.20 |
夕べの空もむつましきかな」
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この夕方の空も親しく思われるよ」
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夕の空もむつまじきかな
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yuhube no sora mo mutumasiki kana
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4.7.21 |
と独りごちたまへど、 えさし答へも聞こえず。 かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。 耳かしかましかりし砧の音を、 思し出づるさへ恋しくて、「 ▼ 正に長き夜」とうち誦じて、臥したまへり。
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と独り詠じられたが、ご返歌も申し上げられない。このように、生きていらしたならば、と思うにつけても、胸が一杯になる。耳障りであった砧の音を、お思い出しになるのまでが、恋しくて、「八月九月正に長き夜」と口ずさんで、お臥せりになった。
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と独言のように言っていても、返しの歌は言い出されないで、右近は、こんな時に二人そろっておいでになったらという思いで胸の詰まる気がした。源氏はうるさかった砧の音を思い出してもその夜が恋しくて、「八月九月正長夜、千声万声無止時」と歌っていた。
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to hitori-goti tamahe do, e sasi-irahe mo kikoye zu. Kayau nite, ohase masika ba, to omohu ni mo, mune hutagari te oboyu. Mimi kasikamasikari si kinuta no oto wo obosi-iduru sahe kohisiku te, "Masa ni nagaki yo" to uti-zun-zi te, husi tamahe ri.
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出典15 |
いとしも人にと |
思ふとていとこそ人になれざらめしかならひてぞ見ねば恋しき |
拾遺集恋四-900 読人しらず |
4.7.15 |
出典16 |
正に長き夜 |
八月九月正長夜 千声万声無了時 |
白氏文集十九-一二八七 聞夜砧 |
4.7.21 |
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Last updated 6/25/2003 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-3-1) Last updated 6/25/2003 渋谷栄一注釈(ver.1-2-1) |
Last updated 6/25/2203 渋谷栄一訳(C)(ver.1-3-1) |
現代語訳 | 与謝野晶子 |
電子化 | 上田英代(古典総合研究所) |
底本 | 角川文庫 全訳源氏物語 |
渋谷栄一訳 との突合せ | 宮脇文経 2003年8月14日 |
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Last updated 6/25/2003 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-4-1) |
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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