02 帚木(明融臨模本)


HAHAKIGI


光る源氏 十七歳夏の参議(宰相)兼近衛中将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Chujo era in the summer at the age of 17

3
第三章 空蝉の物語


3  Tale of Utsusemi

3.1
第一段 天気晴れる


3-1  One fine day

3.1.1   からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、 大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。
 やっと今日は天気も好くなった。こうしてばかり籠っていらっしゃるのも、左大臣殿のお気持ちが気の毒なので、退出なさった。
 やっと今日は天気が直った。源氏はこんなふうに宮中にばかりいることも左大臣家の人に気の毒になってそこへ行った。
  Karausite kehu ha hi no kesiki mo nahore ri. Kaku nomi komori saburahi tamahu mo, Ohoidono no mi-kokoro itohosikere ba, makade tamahe ri.
3.1.2  おほかたの気色、 人のけはひも、 けざやかにけ高く、乱れたるところまじらずなほ、これこそはかの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、 あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるさうざうしくて中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、 戯れ言などのたまひつつ暑さに乱れたまへる御ありさま を、 見るかひありと思ひきこえたり
 邸内の有様や、姫君の様子も、端麗で気高く、くずれたところがなく、やはり、この女君こそは、あの、人びとが捨て置き難く取り上げた実直な妻としては信頼できるだろう、とお思いになる一方では、度を過ぎて端麗なご様子で、打ち解けにくく気づまりな感じにとり澄ましていらっしゃるのが物足りなくて、中納言の君や中務などといった、人並み優れている若い女房たちに、冗談などをおっしゃりおっしゃりして、暑さにお召し物もくつろげていらっしゃるお姿を、素晴らしく美しい、と思い申し上げている。
 一糸の乱れも見えぬというような家であるから、こんなのがまじめということを第一の条件にしていた、昨夜の談話者たちには気に入るところだろうと源氏は思いながらも、今も初めどおりに行儀をくずさぬ、打ち解けぬ夫人であるのを物足らず思って、中納言の君、中務などという若いよい女房たちと冗談を言いながら、暑さに部屋着だけになっている源氏を、その人たちは美しいと思い、こうした接触が得られる幸福を覚えていた。
  Ohokata no kesiki, hito no kehahi mo, kezayaka ni kedakaku, midare taru tokoro mazira zu, naho, kore koso ha, kano, hito-bito no sute-gataku tori-ide si mame-bito ni ha tanoma re nu bekere, to obosu mono-kara, amari uruhasiki ohom-arisama no, toke-gataku hadukasige ni omohi sidumari tamahe ru wo sau-zausiku te, Tyuunagon-no-Kimi, Nakatukasa nado yau no, osinabe tara nu wakaudo-domo ni, tahabure-goto nado notamahi tutu, atusa ni midare tamahe ru ohom-arisama wo, miru kahi ari to omohi kikoye tari.
3.1.3  大臣も渡りたまひて、 うちとけたまへれば御几帳隔てておはしまして、 御物語聞こえたまふを、「 暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。「 あなかま」とて、脇息に寄り おはすいとやすらかなる御振る舞ひなりや
 左大臣殿もお渡りになって、くつろいでいらっしゃるので、御几帳を間に立ててお座りになって、お話を申し上げなさるのを、「暑いのに」と苦い顔をなさるので、女房たちは笑う。「お静かに」と制して、脇息に寄り掛かっていらっしゃる。いかにも大君らしい鷹揚なお振る舞いであるよ。
 大臣も娘のいるほうへ出かけて来た。部屋着になっているのを知って、几帳を隔てた席について話そうとするのを、
 「暑いのに」
 と源氏が顔をしかめて見せると、女房たちは笑った。
 「静かに」
 と言って、脇息に寄りかかった様子にも品のよさが見えた。
  Otodo mo watari tamahi te, utitoke tamahe re ba, mi-kityau hedate te ohasimasi te, ohom-monogatari kikoye tamahu wo, "Atuki ni" to nigami tamahe ba, hito-bito warahu. "Ana-kama" tote, kehusoku ni yori ohasu. Ito yasuraka naru ohom-hurumahi nari ya!
3.1.4  暗くなるほどに、
 暗くなるころに、
 暗くなってきたころに、
  Kuraku naru hodo ni,
3.1.5  「 今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。
 「今夜は、天一神が、内裏からこちらの方角へは方塞がりになっております」と申し上げる。
 「今夜は中神のお通り路になっておりまして、御所からすぐにここへ来てお寝みになってはよろしくございません」
 という、源氏の家従たちのしらせがあった。
  "Koyohi, Naka-gami, Uti yori ha hutagari te haberi keri." to kikoyu.
3.1.6  「 さかし、例は忌みたまふ方なりけり
 「そうですわ。普通は、お避けになる方角でありますよ」
 「そう、いつも中神は避けることになっているのだ。
  "Sakasi, rei ha imi tamahu kata nari keri."
3.1.7  「 二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」
 「二条院も同じ方角であるし、どこに方違えをしようか。とても気分が悪いのに」
 しかし二条の院も同じ方角だから、どこへ行ってよいかわからない。私はもう疲れていて寝てしまいたいのに」
  "Nideu-no-win ni mo onazi sudi nite, iduku ni ka tagahe m. Ito nayamasiki ni."
3.1.8  とて大殿籠もれり。「 いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。
 と言って寝所で横になっていらっしゃる。「大変に具合悪いことです」と、誰彼となく申し上げる。
 そして源氏は寝室にはいった。
 「このままになすってはよろしくございません」
 また家従が言って来る。
  tote ohotono-gomore ri. "Ito asiki koto nari." to, kore-kare kikoyu.
3.1.9  「 紀伊守にて親しく仕うまつる人の中川のわたりなる家なむ 、このころ 水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。
 「紀伊守で親しくお仕えしております者の、中川の辺りにある家が、最近川の水を堰き入れて、涼しい木蔭でございます」と申し上げる。
 紀伊守で、家従の一人である男の家のことが上申される。
 「中川辺でございますがこのごろ新築いたしまして、水などを庭へ引き込んでございまして、そこならばお涼しかろうと思います」
  "Ki-no-kami nite sitasiku tukaumaturu hito no, Naka-gaha no watari naru ihe nam, kono-koro midu seki-ire te, suzusiki kage ni haberu." to kikoyu.
3.1.10  「 いとよかなり。悩ましきに、 牛ながら引き入れつべからむ 所を」
 「とても良い考えである。気分が悪いから、牛車のままで入って行かれる所を」
 「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」
  "Ito yoka nari. Nayamasiki ni, usi-nagara hiki-ire tu bekara m tokoro wo."
3.1.11  とのたまふ。 忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへ と思さむは、いとほしきなるべし紀伊守に仰せ言賜へば承りながら、退きて
 とおっしゃる。内密の方違えのお邸は、たくさんあるに違いないが、長いご無沙汰の後にいらっしゃったのに、方角が悪いからといって、期待を裏切って他へ行ったとお思いになるのは、気の毒だと思われたのであろう。紀伊守に御用を言い付けなさると、お引き受けは致したものの、引き下がって、
 と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、方角除けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、
  to notamahu. Sinobi-sinobi no ohom-katatagahe-dokoro ha, amata ari nu bekere do, hisasiku hodo he te watari tamahe ru ni, kata hutage te, hiki-tagahe hoka-zama he to obosa m ha, itohosiki naru besi. Ki-no-kami ni ohose-goto tamahe ba, uketamahari nagara, sirizoki te,
3.1.12  「 伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、 女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、 なめげなることやはべらむ
 「伊予守の朝臣の家に、慎み事がございまして、女房たちが来ている時なので、狭い家でございますので、失礼に当たる事がありはしないか」
 「父の伊予守−伊予は太守の国で、官名は介になっているが事実上の長官である−の家のほうにこのごろ障りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭い家なんですから失礼がないかと心配です」
  "Iyo-no-kami-no-asom no ihe ni tutusimu koto haberi te, nyoubau nam makari uture ru koro nite, sebaki tokoro ni habere ba, namege naru koto ya habera m."
3.1.13   と、下に嘆くを聞きたまひて
 と、陰で嘆息しているのをお聞きになって、
 と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、
  to, sita ni nageku wo kiki tamahi te,
3.1.14  「 その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、 もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、
 「そうした人が近くにいるのが、嬉しいのだ。女気のない旅寝は、何となく不気味な心地がするからね。ちょうどその几帳の後ろに」とおっしゃるので、
 「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜がこわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳の後ろでいいのだからね」
 冗談混じりにまたこう言わせたものである。
  "Sono hito tikakara m nam, uresikaru beki. Womna tohoki tabine ha, mono-osorosiki kokoti su beki wo! Tada sono kityau no usiro ni." to notamahe ba,
3.1.15  「 げに、よろしき御座所にも」とて、 人走らせやる。いと忍びて、 ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、 大臣にも聞こえたまはず御供にも睦ましき限りしておはしましぬ
 「なるほど、適当なご座所で」と言って、使いの者を走らせる。とてもこっそりと、格別に大げさでない所をと、急いでお出になるので、左大臣殿にもご挨拶なさらず、お供にも親しい者ばかり連れておいでになった。
 「よいお泊まり所になればよろしいが」
 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。
  "Geni, yorosiki o-masi-dokoro ni mo" tote, hito hasirase yaru. Ito sinobi te, kotosara ni koto-kotosikara nu tokoro wo to, isogi-ide tamahe ba, Otodo ni mo kikoye tamaha zu, ohom-tomo ni mo mutumasiki kagiri site ohasimasi nu.
注釈516からうして「からうして Caroxite」(『日葡辞書』)。『集成』『新大系』は清音。梅雨が明けた趣。『新大系』は「かつがつ。長い雨期をようやく越えて」と注す。3.1.1
注釈517大殿の御心左大臣をさす。3.1.1
注釈518人のけはひ姫君の様子、雰囲気。葵の上。3.1.2
注釈519けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず葵の上の性格。はっきりと、端麗で気品高く見え、何事にもきちんとしている、という、源氏の目から見た鮮明な印象。「桐壺」巻の楊貴妃と桐壺更衣とを比較した「絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。「太液芙蓉未央柳」も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、(桐壺更衣の)なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき」(第二章三段)を想起すれば、源氏が思慕する母桐壺更衣のイメージとは違った個性の人物である。3.1.2
注釈520なほこれこそは以下「頼まれぬべけれ」まで、源氏の心。「これ」は正妻の葵の上をさす。3.1.2
注釈521かの人びとの捨てがたく取り出でし左馬頭たちが高く評価した。3.1.2
注釈522あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへる源氏の目から見た葵の上。度を過ぎて端麗な態度で、心が打ち解けず、こちらが気づまりに感じるばかりに相手はとり澄ましていらっしゃる、という印象。3.1.2
注釈523さうざうしくて源氏は、そのような妻に物足りなさを感じる。3.1.2
注釈524中納言の君中務などやうの女房であるが、源氏のお手つきの女房。召人(めしうど)という。3.1.2
注釈525戯れ言などのたまひつつ接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。3.1.2
注釈526暑さに乱れたまへる御ありさま暑さのためにお召物をくつろげていらっしゃる源氏の様子。3.1.2
注釈527見るかひありと思ひきこえたり主語は女房たち。3.1.2
注釈528うちとけたまへれば主語は源氏。3.1.3
注釈529御几帳隔ててくつろいでいるところに直接対座するのは不躾であろうと、左大臣と源氏の間に御几帳を立てて会った。舅である左大臣の聟である源氏に対する大変な気のつかいようが窺われる。3.1.3
注釈530御物語聞こえたまふを左大臣が源氏に。源氏の官職は宰相兼中将。その人に左大臣が「聞こえたまふ」という敬意表現を用いるのは、桐壺帝の御子だからである。3.1.3
注釈531暑きにとにがみたまへば人びと笑ふ源氏が苦々しい顔をすると、女房たちが笑う、というように、源氏は女房たちに囲まれた中にいる。3.1.3
注釈532あなかま源氏の詞。3.1.3
注釈533おはす前の「おはします」よりやや敬意は低い敬語である。左大臣より低く語られているが、次の批評の言葉と連動してであろう。3.1.3
注釈534いとやすらかなる御振る舞ひなりや断定の助動詞「なり」終止形、係助詞「や」詠嘆の意。源氏の態度に対する語り手の感想。『岷江入楚』は「草子の評也」と注す。『古典セレクション』は「貴人らしいおおような源氏の態度についての、語り手の賞賛」と注す。3.1.3
注釈535今宵中神内裏よりは塞がりてはべりけり女房の詞。「中神」は陰陽道で説く天一神の神様。六十日を一周期として、癸巳の日から天上にいること十六日間、この間は人はどの方向へ行っても良い。残り四十四日を己酉の日から八方に遊行し廻り、五または六日で次の方角に移る。その間を、「方塞がり」といって、その方向を忌み避け、「方違へ」をする。過去の助動詞「けり」詠嘆の意、今初めて気付いたというニュアンス。内裏から見て、左大臣邸は今夜はその方塞がりになっている、という。3.1.5
注釈536さかし例は忌みたまふ方なりけり女房の詞。「忌みたまふ」という敬語表現があるので、別の女房の詞と解しておく。『集成』は女房の詞。『古典セレクション』は「語り手の言葉」と注す。『新大系』は源氏の詞とする。とすると「忌みたまふ」は、源氏自身の動作ではななく、中神に対する敬語の意か。3.1.6
注釈537二条の院にも同じ筋にて源氏の詞。左大臣邸と源氏の二条院邸が内裏から同じ方角にあった。当時の摂関家の邸宅は左京二条大路に面して建てられていた。内裏から東南の方角に当たる。3.1.7
注釈538いと悪しきことなり女房の詞だが、語り手が要約し引用した間接話法であろう。3.1.8
注釈539紀伊守にて親しく仕うまつる人のこれは男の侍者の詞であろう。左大臣家に仕えている家司か。御簾の外から中の女房に取り次いで申し上げたのであろう。紀伊守は上国の国守。従五位下相当官。受領であるがこの時は任国に赴任していなくて京にいる。「人の」所有格は「家なむ」に続く。3.1.9
注釈540中川のわたりなる家なむ二条以北の京極川の呼称。内裏からは東の方角に当たる。係助詞「なむ」は「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。3.1.9
注釈541水せき入れて京極川から水を邸内に堰き入れて。3.1.9
注釈542いとよかなり以下「所を」まで、源氏の詞。御簾の中から答えたもの。侍者は、その言葉を女房から受けて、さっそく、紀伊守を呼びに行ったろう。3.1.10
注釈543牛ながら引き入れつべからむ接尾語「ながら」、牛車のまま、の意。3.1.10
注釈544忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど完了の助動詞「ぬ」確述、推量の助動詞「べし」当然、意。語り手の思い入れが窺える表現。「三光院実枝説」は「草子の地なるへし」と注す。3.1.11
注釈545久しくほど経て渡りたまへるに接続助詞「に」逆接を表す。源氏が左大臣邸へいらっしゃったのに。3.1.11
注釈546と思さむはいとほしきなるべし左大臣が、とお思いになるのは、お気の毒だと源氏は思われたのであろう、の意。「なる」「べし」は語り手が源氏の心を推測した表現。『古典セレクション』は「なるべし」の下に読点を打つ。語り手の挿入句と解する。3.1.11
注釈547紀伊守に仰せ言賜へば主語は源氏。源氏のご意向を男の侍者が紀伊守に命じる。3.1.11
注釈548承りながら退きて接続助詞「ながら」逆接を表す。『新大系』は「(直接に)お下しになると、承諾しつつ(源氏のもとから)退出して。以下は紀伊守の嘆き」と注す。場面は源氏のいる所とは離れた所で。3.1.11
注釈549伊予守の朝臣の家に以下「ことやはべらむ」まで、紀伊守の詞。丁寧語「はべる」は源氏に対しての敬意表現。伊予守は上国の国守。しかし、後文によると、「介」とあり、次官である。おそらく守が赴任せず、次官のこの介が赴任しているので、会話の中では「守」と言ったのであろう。紀伊守の父親。3.1.12
注釈550女房なむまかり移れるころにて係助詞「なむ」は「移れる」に係るが、下文に続くため、結びの流れ。3.1.12
注釈551なめげなることやはべらむ係助詞「や」疑問、推量の助動詞「む」連体形に係る、係り結びの法則。3.1.12
注釈552と下に嘆くを聞きたまひて主語は源氏。紀伊守の困惑の詞は間接的に聞いたものであろう。3.1.13
注釈553その人近からむなむ以下「几帳のうしろに」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」は形容詞「うれしかる」連体形+「べき」連体形、当然の意に係る、係り結びの法則。この詞の主旨も取次ぎを通じて紀伊守に伝えられたものであろう。3.1.14
注釈554もの恐ろしき心地すべきを推量の助動詞「べき」当然の意、間投助詞「を」詠嘆を表す。3.1.14
注釈555げによろしき御座所にも源氏の従者の詞か。源氏の習性、性癖を知っている者の発言であろう。『評釈』は侍女たちの詞と解す。『新大系』は「紀伊守の受け答え。ごもっとも。悪くないご座所としてでも。源氏との何らかの合意が成り立った感じで自宅に使いの者を走らせる」と注す。3.1.15
注釈556人走らせやる主語は紀伊守。使いの者を邸に遣わして源氏来訪の旨を伝えその準備をさせる。3.1.15
注釈557ことさらにことことしからぬ所をと源氏の心。「ことことし」清音。「コトコトシイ Cotocotoxij」(日葡辞書)。3.1.15
注釈558大臣にも聞こえたまはずお暇乞いの挨拶を。行く先は告げずとも状況からして自ずと判断されたろう。3.1.15
注釈559御供にも睦ましき限りしておはしましぬ紀伊守邸に御到着になった、という意。「おはします」という最高敬語は源氏と紀伊守との身分格差を印象づける。3.1.15
校訂35 暑さに 暑さに--あつま(ま/$さ)に 3.1.2
校訂36 なる なる--なり(り/$ル<朱>) 3.1.9
校訂37 べからむ べからむ--へき(き/$か)らむ 3.1.10
3.2
第二段 紀伊守邸への方違へ


3-2  Genji goes to Ki-no-Kami's villa

3.2.1  「 にはかに」とわぶれど、 人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。 田舎家だつ柴垣して前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。
 「あまりに急なことで」と迷惑がるが、誰も聞き入れない。寝殿の東面をきれいに片づけさせて、急拵えのご座所を設けた。遣水の趣向などは、それなりに趣深く作ってある。田舎家風の柴垣を廻らして、前栽など気を配って植えてある。風が涼しく吹いて、どこからともない微かな虫の声々が聞こえ、蛍がたくさん飛び交って、趣のある有様である。
 あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿の東向きの座敷を掃除させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝ってできた住宅である。わざと田舎の家らしい柴垣が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍がたくさん飛んでいた。
  "Nihaka ni" to wabure do, hito mo kiki-ire zu. Sinden no himgasi-omote harahi ake sase te, karisome no ohom-siturahi si tari. Midu no kokoro-bahe nado, saru kata ni wokasiku si-nasi tari. Winaka-ihe-datu sibagaki si te, sensai nado kokoro tome te uwe tari. Kaze suzusiku te, sokohakatonaki musi no kowe-gowe kikoye, hotaru sigeku tobi-magahi te, wokasiki hodo nari.
3.2.2   人びと、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。 主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君は のどやかに眺めたまひて、 かの、中の品に 取り出でて言ひし、 この並ならむかしと思し出づ。
 供人たちは、渡殿の下から湧き出ている泉に臨んで座って、酒を飲む。主人の紀伊守もご馳走の準備に走り回っている間、源氏の君はゆったりとお眺めになって、あの人たちが、中の品の例に挙げていたのは、きっとこういう程度の家の女性なのだろう、とお思い出しになる。
 源氏の従者たちは渡殿の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。
  Hito-bito, wata-dono yori ide taru idumi ni nozoki wi te, sake nomu. Aruzi mo sakana motomu to, koyurugi no isogi ariku hodo, Kimi ha nodoyaka ni nagame tamahi te, kano, naka-no-sina ni tori-ide te ihi si, kono nami nara m kasi to obosi-idu.
3.2.3   思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、 この西面にぞ人のけはひする衣の音なひはらはらとして、 若き声どもにくからずさすがに忍びて、笑ひなどする けはひことさらびたり格子を上げたりけれど、守、「 心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、 障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「 見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、 この近き母屋に集ひゐたるなるべしうちささめき言ふことどもを聞きたまへばわが御上なるべし
 高い望みをもっていたようにお耳になさっていた女性なので、どのような女性かと知りたくて耳を澄ましていらっしゃると、この寝殿の西面に人のいる様子がする。衣ずれの音がさらさらとして、若い女性の声々が愛らしい。そうは言っても小声で、笑ったりなどする様子は、わざとらしい。格子を上げてあったが、紀伊守が、「不用意な」と小言を言って下ろしてしまったので、火を灯している明りが、襖障子の上から漏れているので、そっとお近寄りになって、「見えるだろうか」とお思いになるが、隙間もないので、少しの間お聞きになっていると、自分に近い方の母屋に集っているのであろう、ひそひそ話している内容をお聞きになると、ご自分の噂話のようである。
 思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺れが聞こえ、若々しい、媚めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。初めその前の縁の格子が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影が、襖子の隙間から赤くこちらへさしていた。源氏は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立って聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、源氏自身が話題にされているらしい。
  Omohi-agare ru kesiki ni kiki-oki tamahe ru musume nare ba, yukasiku te mimi todome tamahe ru ni, kono nisi-omote ni zo hito no kehahi suru. Kinu no otonahi hara-hara to si te, wakaki kowe-domo nikukara zu. Sasuga ni sinobi te, warahi nado suru kehahi, kotosarabi tari. Kausi wo age tari kere do, Kami, "Kokoro-nasi" to mutukari te orosi ture ba, hi tomosi taru suki-kage, syauzi no kami yori mori taru ni, yawora yori tamahi te, "Miyu ya?" to obose do, hima mo nakere ba, sibasi kiki tamahu ni, kono tikaki moya ni tudohi wi taru naru besi, uti-sasameki ihu koto-domo wo kiki tamahe ba, waga ohom-uhe naru besi.
3.2.4  「 いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが 定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ
 「とてもたいそう真面目ぶって。まだお若いのに、高貴な北の方が定まっていらっしゃるとは、なんとつまらないのでしょう」
 「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。
  "Ito itau mame-dati te. Madaki ni, yamgotonaki yosuga sadamari tamahe ru koso, sau-zausika' mere."
3.2.5  「されど、さるべき隈には、 よくこそ、隠れ歩きたまふなれ
 「でも、人の知らない所では、うまくもまあ、隠れて通っていらっしゃるということですよ」
 でもずいぶん隠れてお通いになる所があるんですって」
  "Saredo, saru-beki kuma ni ha, yoku koso, kakure-ariki tamahu nare."
3.2.6  など言ふにも、 思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「 かやうのついでにも人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。
 などと噂しているのにつけても、胸の内にあることばかりが気にかかっていらっしゃるので、まっさきにどきりとして、「このような噂話の折にも、人が言い漏らすようなことを、人が聞きつけるような事が起こったら」などとご心配なさる。
 こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。
  nado ihu ni mo, obosu koto nomi kokoro ni kakari tamahe ba, madu, mune tubure te, "Kayau no tuide ni mo, hito no ihi-morasa m wo, kiki-tuke tara m toki." nado oboye tamahu.
3.2.7  ことなることなければ、聞きさしたまひつ。 式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、 すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。「 くつろぎがましく歌誦じがちにもあるかななほ見劣りはしなむかし」と思す。
 別段のこともないので、途中まで聞いてお止めになった。式部卿宮の姫君に、朝顔の花を差し上げなさった時の和歌などを、少し文句を違えて語るのが聞こえる。「ゆったりと和歌を口にすることよ、やはり見劣りすることだろう」とお思いになる。
 でも話はただ事ばかりであったから皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌などを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は思った。
  Kotonaru koto nakere ba, kiki-sasi tamahi tu. Sikibukyau-no-Miya-no-Hime-Gimi ni asagaho tatematuri tamahi si uta nado wo, sukosi hoho-yugame te kataru mo kikoyu. "Kuturogi-gamasiku, uta zun-zi-gati ni mo aru kana! Naho mi-otori ha si na m kasi." to obosu.
3.2.8   守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして御くだものばかり参れり
 紀伊守が出て来て、灯籠を掛け添え、灯火を明るく掻き立てたりして、お菓子ぐらいのものを差し上げた。
 紀伊守が出て来て、灯籠の数をふやさせたり、座敷の灯を明るくしたりしてから、主人には遠慮をして菓子だけを献じた。
  Kami ide-ki te, touro kake sohe, hi akaku kakage nado si te, ohom-kudamono bakari mawire ri.
3.2.9  「 とばり帳も、いかにぞは さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、
 「帷帳の準備も、いかがなっておるか。そうした方面の趣向もなくては、興醒めなもてなしであろう」とおっしゃると、
 「わが家はとばり帳をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつかないでは主人の手落ちかもしれない」
  "Tobari tyau mo, ika-ni-zo ha? Saru kata no kokoro-motonaku te ha, mezamasiki aruzi nara m." to notamahe ba,
3.2.10  「 何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。
 「はて、何がお気に召しますやら、わかりませんので」と、恐縮して控えている。端の方のご座所に、うたた寝といったふうに横におなりになると、供人たちも静かになった。
 「通人でない主人でございまして、どうも」
 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥のように横になっていた。随行者たちももう寝たようである。
  "Nani yoke m to mo, e uketamahara zu." to, kasikomari te saburahu. Hasi-tu-kata no o-masi ni, kari naru yau nite, ohotono-gomore ba, hito-bito mo sidumari nu.
3.2.11   主人の子ども、をかしげにてあり。 童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。 伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、 十二、三ばかりなるもあり
 主人の子供たちが、かわいらしい様子をしている。その子供で、童殿上している間に見慣れていらっしゃっるのもいる。伊予介の子もいる。大勢いる中で、とても感じが上品で、十二、三歳くらいになるのもいる。
 紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来する中には伊予守の子もあった。何人かの中に特別に上品な十二、三の子もある。
  Aruzi no kodomo, wokasige ni te ari. Waraha naru, tenzyau no hodo ni go-ran-zi nare taru mo ari. Iyo-no-suke-no-ko mo ari. Amata aru naka ni, ito kehahi atehaka ni te, zihu-ni, sam bakari naru mo ari.
3.2.12  「 いづれかいづれ」など問ひたまふに、
 「どの子が誰の子か」などと、お尋ねになると、
 どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。
  "Idure ka idure?" nado tohi tamahu ni,
3.2.13  「 これは故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、 姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうは え交じらひはべらざめると申す
 「この子は、故衛門督の末っ子で、大変にかわいがっておりましたが、まだ幼いうちに親に先立たれまして、姉につながる縁で、こうしてここにいるわけでございます。学問などもできそうで、悪くはございませんが、童殿上なども考えておりますが、すらすらとはできませんようで」と申し上げる。
 「ただ今通りました子は、亡くなりました衛門督の末の息子で、かわいがられていたのですが、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来のためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが、それも姉の手だけでははかばかしく運ばないのでございましょう」
 と紀伊守が説明した。
  "Kore ha, ko-Emon-no-kami no suwe no ko ni te, ito kanasiku si haberi keru wo, wosanaki hodo ni okure haberi te, Ane-naru-hito no yosuga ni, kakute haberu nari. Zae nado mo tuki haberi nu beku, kesiu ha habera nu wo, tenzyau nado mo omohi tamahe kake nagara, suga-sugasiu ha e mazirahi habera za' meru." to mausu.
3.2.14  「 あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親
 「気の毒なことだ。この子の姉君が、そなたの継母か」
 「あの子の姉さんが君の継母なんだね」
  "Ahare no koto ya! Kono Ane-gimi ya, mauto no noti no oya?"
3.2.15  「 さなむはべる」と申すに、
 「さようでございます」と申し上げると、
 「そうでございます」
  "Sa nam haberu." to mausu ni,
3.2.16  「 似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『 宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。 世こそ定めなきものなれ」と、 いとおよすけのたまふ
 「年に似合わない継母を、持ったことだなあ。主上におかれてもお耳にお忘れにならず、『宮仕えに差し上げたいと、ちらと奏上したことは、その後どうなったのか』と、いつであったか仰せられた。人の世とは無常なものだ」と、とても大人びておっしゃる。
 「似つかわしくないお母さんを持ったものだね。その人のことは陛下もお聞きになっていらっしって、宮仕えに出したいと衛門督が申していたが、その娘はどうなったのだろうって、いつかお言葉があった。人生はだれがどうなるかわからないものだね」
 老成者らしい口ぶりである。
  "Nigenaki oya wo mo, mauke tari keru kana! Uhe ni mo kikosimesi-oki te, 'Miyadukahe ni idasi-tate m to morasi souse si, ika ni nari ni kem?' to, ituzoya notamahase si. Yo koso sadame naki mono nare." to, ito oyosuke notamahu.
3.2.17  「 不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、 さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は 浮かびたるなむ、あはれにはべる」など 聞こえさす
 「思いがけず、こうしているのでございます。男女の仲と言うものは、所詮、そのようなものばかりで、今も昔も、どうなるか分からないものでございます。中でも、女の運命は定めないのが、哀れでございます」などと申し上げて途中で止める。
 「不意にそうなったのでございます。まあ人というものは昔も今も意外なふうにも変わってゆくものですが、その中でも女の運命ほどはかないものはございません」
 などと紀伊守は言っていた。
  "Hui ni, kakute monosi haberu nari. Yononaka to ihu mono, sa nomi koso, ima mo mukasi mo, sadamari taru koto habera ne. Naka ni tui te mo, womna no sukuse ha ukabi taru nam, ahare ni haberu." nado kikoye sasu.
3.2.18  「 伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな
 「伊予介は、大事にしているか。主君と思っているだろうな」
 「伊予介は大事にするだろう。主君のように思うだろうな」
  "Iyo-no-suke ha, kasiduku ya? Kimi to omohu ram na."
3.2.19  「 いかがは私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、 なにがしよりはじめてうけひきはべらずなむ」と申す。
 「どう致しまして。内々の主君として世話しておりますようですが、好色がましいことだと、わたくしめをはじめとして、納得できないほどでございます」などと申し上げる。
 「さあ。まあ私生活の主君でございますかな。好色すぎると私はじめ兄弟はにがにがしがっております」
  "Ikaga ha? Watakusi no syuu to koso ha omohi te haberu meru wo, suki-zukisiki koto to, nanigasi yori hazime te, uke-hiki habera zu nam." to mausu.
3.2.20  「 さりとも、まうとたちのつきづきしく今めき たらむに、 おろしたてむやはかの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、
 「そうは言っても、そなたたちのような年に相応しく当世風の人に、譲るであろうか。あの伊予介は、なかなか風流心があって、気取っているからな」などと、お話なさって、
 「だって君などのような当世男に伊予介は譲ってくれないだろう。あれはなかなか年は寄ってもりっぱな風采を持っているのだからね」
 などと話しながら、
  "Saritomo, mauto-tati no tuki-dukisiku imameki tara m ni, orosi-tate m ya ha? Kano Suke ha, ito yosi ari te kesikibame ru wo ya!" nado, monogatari si tamahi te,
3.2.21  「 いづかたにぞ
 「で、どこに」
 「その人どちらにいるの」
  "Idu-kata ni zo?"
3.2.22  「 皆、下屋に おろしはべりぬるをえやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。
 「皆、下屋に下がらせましたが、まだ下がりきらないで残っているかも知れません」と申し上げる。
 「皆下屋のほうへやってしまったのですが、間にあいませんで一部分だけは残っているかもしれません」
 と紀伊守は言った。
  "Mina, simoya ni orosi haberi nuru wo, e ya makari ori-ahe zara m." to kikoyu.
3.2.23   酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ
 酔いが回って、供人は皆は簀子にそれぞれ横になって、寝静まってしまった。
  Wehi susumi te, mina hito-bito sunoko ni husi tutu, sidumari nu.
注釈560にはかにと青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本は「にはかにと」。池田本、伝冷泉為秀筆本、書陵部本と河内本や別本の陽明文庫本、国冬本は「守にはかにと」。三条西家本は「かみ」を補入。紀伊守邸の人々。まだ源氏を迎え入れる準備が十分に整っていない。3.2.1
注釈561人も聞き入れず「人」は源氏の供人たち。係助詞「も」強調のニュアンス。3.2.1
注釈562田舎家だつ柴垣して京都神護寺蔵国宝「山水屏風」に似た風景が描かれている。3.2.1
注釈563前栽「平安而台はセンサイと清音」(岩波古語辞典)。3.2.1
注釈564人びと源氏一行の人々。3.2.2
注釈565主人も肴求むとこゆるぎのいそぎありくほど君は『源氏釈』は「玉垂れの 小瓶を中に据ゑて あるじはも や 肴まぎに 肴りに こゆるぎの磯の 若布と(わかめ)刈り上げに」(風俗歌 玉垂れ)を指摘する。その歌句によった表現である。「主人も」の係助詞「も」は、家人たちだけでなく主人も、の意。紀伊守が肩を揺すって忙しそうに接待に追われているのに対し、「君は」というように、源氏は一人悠然と構えている様子が対比されて語られる。3.2.2
注釈566かの中の品に以下「この並ならむかし」まで、源氏の心。昨夜の議論を想起する。「かの」は、あの人たちが、の意。3.2.2
注釈567この並ならむかしと断定の助動詞「なら」未然形、推量の助動詞「む」終止形、終助詞「かし」念押しを表す。。3.2.2
注釈568思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば空蝉のことをさす。源氏は、すでにこの邸に来ている女について知っていたという語り方である。前の紀伊守の「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて」という「女房」の中に空蝉のことも含まれていたのである。当時は「女(むすめ)」は既婚女性でも若ければ「むすめ」と言った。3.2.3
注釈569この西面にぞ人のけはひする「この」は源氏のいる場所を軸にして。寝殿の西面。係助詞「ぞ」は「する」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンス。3.2.3
注釈570衣の音なひ以下の描写は、源氏の耳を通して語った表現。3.2.3
注釈571若き声どもにくからず若い女たちの声が愛らしい。源氏の感情を交えて語った表現。3.2.3
注釈572さすがに忍びて活発で若い女房とはいえ客人に遠慮して、というニュアンス。3.2.3
注釈573ことさらびたり来客を意識した振る舞い、と源氏は思う。3.2.3
注釈574格子を上げたりけれど日中は金具で釣り下げてあった蔀格子。3.2.3
注釈575心なし紀伊守の詞。3.2.3
注釈576障子の上より漏りたるに障子は襖のこと。「上(かみ)」は、上長押の上から光が漏れてくるのであろう。「かみ」を「紙」と解する説もある。『評釈』は「障子の紙よりもりたるに」とし、「「障子の紙」は「障子の上」と解する説もある。「上」説の理由は、襖障子の紙を透して火影がもれるはずがないからというのである。「紙より」と解して「障子の紙の間より漏る(障子ノ紙スナワチ襖ノ間カラ漏ル)」というのを、「障子の紙より漏る」と慣用句的に言ったのではないか、「襖の閉めてある合せ目から火影が漏れ出るのであろう」という島津久基博士説に従う」と注す。3.2.3
注釈577見ゆや源氏の心。3.2.3
注釈578この近き母屋に集ひゐたるなるべし源氏の耳からの推察。完了の助動詞「たる」連体形、存続の意、断定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、源氏の判断。語り手と登場人物の視点が一体化している。3.2.3
注釈579うちささめき言ふことどもを聞きたまへば地の文。源氏に添った表現である。3.2.3
注釈580わが御上なるべし源氏の耳からの推察。伝聞推定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、前同様に源氏の判断。自分で自分の事を「わが御上」という敬語の使い方は、今ではおかしいが、語り手の源氏に対する敬意が表れたものである。3.2.3
注釈581いといたう以下「隠れ歩きたまふなれ」まで、女たちの詞。二人の会話とみる。「いといたう」以下「さうさうしかめれ」まで、最初の女。しかし、『集成』は区別しない。この巻の冒頭にあったような源氏の性格の一面をいう。「されど」以下、もう一人の女の詞。別の噂も聞いているという。3.2.4
注釈582定まりたまへるこそさうざうしかめれ完了の助動詞「る」連体形、係助詞「こそ」。形容詞「さうざうしかる」連体形「る」が撥音便化し無表記の形。推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量のを表す。係り結びの法則。3.2.4
注釈583よくこそ隠れ歩きたまふなれ係助詞「こそ」、尊敬の補助動詞「たまふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。3.2.5
注釈584思すことのみ心にかかりたまへば藤壺のことをさす。3.2.6
注釈585かやうのついでにも以下「聞きつけたらむ時」まで、源氏の心。女房どうしの所在ない時の世間話。前に宿直の夜に男どうしの女性体験談が語られていた。3.2.6
注釈586人の言ひ漏らさむを女房などが、藤壺と自分との関係を言い漏らすようなのを。3.2.6
注釈587聞きつけたらむ時主語は他人と解す。完了の助動詞「たら」未然形、推量の助動詞「む」仮定の意。3.2.6
注釈588式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌この話は物語に語られていない。噂話として語られる。明融臨模本には傍書(後人注記)に「槿斎院ナリ源氏ニ心ツヨクテヤミニシ人也」とある。3.2.7
注釈589すこしほほゆがめて語る動詞「頬歪め」下二段、連用形。事実を歪める、意。少し歌の文句を違えて語る。3.2.7
注釈590くつろぎがましく以下「しなむかし」まで、源氏の心。明融臨模本の傍書に「カルカルシクシトケナキ也」とある。『集成』は「有閑婦人気取りで」と解し、『完訳』は「気楽な世間話の歌語り」と解す。3.2.7
注釈591歌誦じがちにもあるかな何かと機会あれば、歌を口ずさむことよ、の意。3.2.7
注釈592なほ見劣りはしなむかし完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量、終助詞「かし」念押し、の意。『古典セレクション』は「風流めかしていてもしょせん中流と見てとる。この軽蔑が、以下の好色の行動をたやすくさせる」と注す。3.2.7
注釈593守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして「灯籠」は「とうろう」「とうろ」の両方ある。明融臨模本では「とうろ」とある。紀伊守登場。源氏のいる部屋の前の軒先に釣り灯籠を掛け加え、室内の灯台の芯を引き出し、さらに明るくする。「添へ」は数を増やしたことを意味し、「かかげ」は「掻き上げ」の意で、芯を引き出すこと。時間の経過したことをも表す。3.2.8
注釈594御くだものばかり参れり菓子、果物類。紀伊守は酒の肴類だけを差し上げる。副助詞「ばかり」は程度を表す。言外にこの程度では不足であるというニュアンスが下文の源氏の詞を導き出す。「参る」謙譲語は、差し上げる。3.2.8
注釈595とばり帳もいかにぞは以下「めざましき饗応ならむ」まで、源氏の詞。『源氏釈』は「我家<わいへん>は 帷帳<とばりちやう>も垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴<みさかな>に何よけむ 鮑<あはび> 栄螺<さだをか>か 石陰子<かせ>よけむ 鮑 栄螺か 石陰子よけむ」(催馬楽、我家)を指摘する。鮑はその形が女陰に似ている。源氏は、催馬楽「我家」の文句を引用して、女の準備はどうなっているかと紀伊守に要求。3.2.9
注釈596さる方の心もとなくては「さる方」は女のもてなし、の意。3.2.9
注釈597何よけむともえうけたまはらず紀伊守の返答。「よけむ」は「よからむ」の古い形。副詞「え」、打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。何がお気に召しますやら、分かりませんのでと言うが、実はその「我家」の文句「何よけむ」を引用して答えているので、十分にわかっております、という意になる。3.2.10
注釈598主人の子ども以下、源氏の目と語り手の目とが重なった描写である。紀伊守の子ども。時間は遡って、「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」となる前までのこと。3.2.11
注釈599童なる殿上のほどに殿上童のこと。貴族の子弟で容姿端麗な子どもが殿上間で小間使いを努める。3.2.11
注釈600伊予介の子もあり紀伊守の弟たち。3.2.11
注釈601十二三ばかりなるもあり後文から、小君、故衛門督の子で空蝉の弟と知れる。3.2.11
注釈602いづれかいづれ源氏の詞。紀伊守に尋ねる。3.2.12
注釈603これは以下「はべらざめる」まで、紀伊守の返答。前の十二、三歳くらいの男の子をさして言う。3.2.13
注釈604故衛門督の末の子にて衛門府の長官。従四位下相当。後に柏木が衛門督として有名。名門の貴族子弟が着任している。3.2.13
注釈605姉なる人のよすがにその子の姉が伊予介と結婚した縁で、ここに一緒にいる。3.2.13
注釈606え交じらひはべらざめる副詞「え」、打消の助動詞「ざる」と呼応して不可能の意。丁寧の補助動詞「はべら」未然形。打消の助動詞「ざ」は「ざる」連体形の「る」が撥音便化して無表記の形。推量の助動詞「める」連体形、主観的推量を表す。言い切らずに余情を残した連体中止法。3.2.13
注釈607と申す明融臨模本は「申す」の次に朱筆で「ニ」を補入する。後人の筆であろう。大島本には「申」とある。3.2.13
注釈608あはれのことやこの姉君やまうとの後の親源氏の問い。気の毒なことだ、すると、その姉君があなたの継母になるわけか、という確認の問い。3.2.14
注釈609さなむはべる紀伊守の返答。3.2.15
注釈610似げなき親をも以下「定めなきものなれ」まで、源氏の詞。年齢にふさわしくない若い継母だという意。3.2.16
注釈611宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし衛門督は、その娘を入内させようと、内々に帝に奏上していた、それを源氏は聞き知っていたという経緯である。「宮仕へ」は更衣として入内させること。推量の助動詞「む」意志を表す。「奏す」は天皇に申し上げる。3.2.16
注釈612世こそ定めなきものなれ係助詞「こそ」「、断定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。3.2.16
注釈613いとおよすけのたまふ『集成』『古典セレクション』は「およすけ」と清音で読み、『新大系』は「およすげ」と濁音で読む。『河海抄』には濁符がある。『全集』は「不自然の感を免れるための作者の弁解でもある」と注す。3.2.16
注釈614不意にかくて以下「あはれにはべる」まで、紀伊守の詞。3.2.17
注釈615さのみこそ今も昔も定まりたることはべらね係助詞「こそ」、打消の助動詞「ね」已然形、係り結びの法則。3.2.17
注釈616浮かびたるなむあはれにはべる完了の助動詞「たる」連体形、主格となる。係助詞「なむ」は丁寧の補助動詞「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。3.2.17
注釈617聞こえさす「さす」は、中途で止める意。紀伊守は、少しでしゃばって物を言い過ぎたと感じたか、源氏の顔色を見て、議論を言いさした。3.2.17
注釈618伊予介はかしづくや君と思ふらむな源氏の詞。推量の助動詞「らむ」視界外推量、終助詞「な」念押しを表す。宮中に入内するはずだった女性なので、伊予介はその女を主君と思って大切にしているだろうな、という高飛車な言い方。3.2.18
注釈619いかがは以下「うけひきはべらずなむ」まで、紀伊守の返答。反語表現。もちろんです、の意。老父の女好みを苦々しく思っている、という意。3.2.19
注釈620私の主とこそは思ひてはべるめるを係助詞「こそ」は、「はべる」にかかるが、下文に続くため、結びの流れとなっている。推量の助動詞「める」連体形、話者の主観的推量を表す。接続助詞「を」逆接を表す。3.2.19
注釈621なにがしよりはじめて自分をはじめとして兄弟一同、の意。3.2.19
注釈622うけひきはべらずなむ係助詞「なむ」は結びの省略。3.2.19
注釈623さりとも以下「けしきばめるをや」まで、源氏の詞。3.2.20
注釈624おろしたてむやは推量の助動詞「む」推量、連語「やは」(「や」係助詞「は」係助詞)反語を表す。伊予介は後妻の空蝉を子の紀伊守に譲ろうか、譲るまい、の意。3.2.20
注釈625かの介はいとよしありて気色ばめるをや連語「をや」(終助詞「を」終助詞「や」)感動を表す。紫式部が結婚した相手の藤原宣孝も晩年に息子たちと同年齢の紫式部を後添えに迎えている。その彼も風流人であったエピソードが伝わっている。3.2.20
注釈626いづかたにぞ源氏の詞。係助詞「ぞ」の下に「ある」連体形、などの語が省略。真意は、その女はどこに、の意。だが、漠然と含みのある尋ね方をする。3.2.21
注釈627皆下屋に以下「下りあへざらむ」まで、紀伊守の返答。ややずらして答えているが、用意してありますという含みのある表現をする。『新大系』は「母屋に女が残してあるとの暗示にも聞こえる」と注す。3.2.22
注釈628おろしはべりぬるを完了の助動詞「ぬる」連体形、完了の意、接続助詞「を」逆接を表す。3.2.22
注釈629えやまかりおりあへざらむ副詞「え」は打消の助動詞「ざら」と呼応して不可能の意を表す。係助詞「や」疑問の意、推量の助動詞「む」連体形、推量の意を表す。身分卑しい女たちは皆下屋に下ろしたが、全員は下ろしきれず、やや高い女は残っている、という意。3.2.22
注釈630酔ひすすみて皆人びと簀子に臥しつつ静まりぬ時間は前に「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」とあった時点に戻る。接続助詞「つつ」は同じ動作の繰り返しのニュアンスを添える。めいめい臥せっている意。3.2.23
出典12 こゆるぎのいそぎ 玉垂れの 小瓶を中に据ゑて 主はも や 魚求きに 魚取りに こゆるぎの 磯の若藻 刈り上げに 風俗歌-玉垂れ 3.2.2
出典13 とばり帳も 我家は 帷<とばり>帳<ちやう>も 垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴<みさかな>に 何よけむ 鮑<あはび>栄螺<さだを>か 石陰子<かせ>よけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ 催馬楽-我家 3.2.9
校訂38 取り出でて 取り出でて--とり(り/+い)てゝ 3.2.2
校訂39 けはひ けはひ--を(を/$けはひ) 3.2.3
校訂40 たらむ たらむ--たる(る/$ら)む 3.2.20
3.3
第三段 空蝉の寝所に忍び込む


3-3  Genji creeps into Utsusemi's bedroom

3.3.1  君は、 とけても寝られたまはずいたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「 こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて 立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
 源氏の君は、気を落ち着けてお寝みにもなれず、空しい一人寝だと思われるとお目も冴えて、この北の襖障子の向こう側に人のいる様子がするので、「ここが、話に出た女が隠れている所であろうか、かわいそうな」とご関心をもって、静かに起き上がって立ち聞きなさると、先程の子供の声で、
 深く酔った家従たちは皆夏の夜を板敷で仮寝してしまったのであるが、源氏は眠れない、一人臥をしていると思うと目がさめがちであった。この室の北側の襖子の向こうに人のいるらしい音のする所は紀伊守の話した女のそっとしている室であろうと源氏は思った。かわいそうな女だとその時から思っていたのであったから、静かに起きて行って襖子越しに物声を聞き出そうとした。その弟の声で、
  Kimi ha, toke te mo nera re tamaha zu, itadura-busi to obosa ruru ni ohom-me same te, kono kita no syauzi no anata ni hito no kehahi suru wo, "konata ya, kaku ihu hito no kakure taru kata nara m, ahare ya!" to mi-kokoro todome te, yawora oki te tati-kiki tamahe ba, arituru ko no kowe ni te,
3.3.2  「 ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」
 「もしもし。どこにいらっしゃいますか」
 「ちょいと、どこにいらっしゃるの」
  "Mono'ke-tamaharu. Iduku ni ohasimasu zo?"
3.3.3  と、 かれたる声のをかしきにて言へば、
 と、かすれた声で、かわいらしく言うと、
 と言う。少し涸れたきれいな声である。
  to, kare taru kowe no wokasiki ni te ihe ba,
3.3.4  「 ここにぞ臥したる客人は寝たまひぬるかいかに近からむと思ひつるを、されど、 け遠かりけり
 「ここに臥せっています。お客様はお寝みになりましたか。どんなにお近かろうかと心配していましたが、でも、遠そうだわね」
 「私はここで寝んでいるの。お客様はお寝みになったの。ここと近くてどんなに困るかと思っていたけれど、まあ安心した」
  "Koko ni zo husi taru. Marauto ha ne tamahi nuru ka? Ikani tikakara m to omohi turu wo, saredo ke-dohokari keri."
3.3.5  と言ふ。寝たりける 声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、 いもうとと聞きたまひつ
 と言う。寝ていた声で取り繕わないのが、とてもよく似ていたので、その姉だなとお聞きになった。
 と、寝床から言う声もよく似ているので姉弟であることがわかった。
  to ihu. Ne tari keru kowe no sidokenaki, ito yoku ni-kayohi tare ba, imouto to kiki tamahi tu.
3.3.6  「 廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを 見たてまつりつるげにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。
 「廂の間にお寝みになりました。噂に聞いていたお姿を拝見いたしましたが、噂通りにご立派でしたよ」と、ひそひそ声で言う。
 「廂の室でお寝みになりましたよ。評判のお顔を見ましたよ。ほんとうにお美しい方だった」
 一段声を低くして言っている。
  "Hisasi ni zo ohotono-gomori nuru. Oto ni kiki turu ohom-arisama wo mi tatematuri turu, geni koso medetakari kere!" to, misoka ni ihu.
3.3.7  「 昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし
 「昼間であったら、覗いて拝見できるのにね」
 「昼だったら私ものぞくのだけれど」
  "Hiru nara masika ba, nozoki te mi tatematuri te masi."
3.3.8  とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「 ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。
 と眠そうに言って、顔を衾に引き入れた声がする。「惜しいな、気を入れてもっと聞いていろよ」と残念にお思いになる。
 睡むそうに言って、その顔は蒲団の中へ引き入れたらしい。もう少し熱心に聞けばよいのにと源氏は物足りない。
  to nebutage ni ihi te, kaho hiki-ire turu kowe su. "Netau, kokoro todome te mo tohi kike kasi." to adikinaku obosu.
3.3.9  「 まろは端に寝はべらむ。あなくるし
 「わたしは、端に寝ましょう。ああ、疲れた」
 「私は縁の近くのほうへ行って寝ます。暗いなあ」
  "Maro ha hasi ni ne habera m. Ana kurusi!"
3.3.10  とて、 灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたる ほどにぞ臥したるべき
 と言って、灯心を引き出したりしているのであろう。女君は、ちょうどこの襖障子口の斜め向こう側に臥しているのであろう。
 子供は燈心を掻き立てたりするものらしかった。女は襖子の所からすぐ斜いにあたる辺で寝ているらしい。
  tote, hi kakage nado su besi. Womna-Gimi ha, tada kono syauzi-guti sudikahi taru hodo ni zo husi taru beki.
3.3.11  「 中将の君は いづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」
 「中将の君はどこですか。誰もいないような感じで、何となく恐い」
 「中将はどこへ行ったの。今夜は人がそばにいてくれないと何だか心細い気がする」
  "Tyuuzyau-no-Kimi ha, iduku ni zo? Hitoge tohoki kokoti si te, mono-osorosi."
3.3.12  と 言ふなれば、長押の下に、人びと臥して 答へすなり
 と言うらしい、すると、長押の下の方で、女房たちは臥したまま答えているらしい。
 低い下の室のほうから、女房が、
  to ihu nare ba, nagesi no simo ni, hito-bito husi te irahe su nari.
3.3.13  「 下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。
 「下屋に、お湯を使いに下りていますが。『すぐに参ります』とのことでございます」と言う。
「あの人ちょうどお湯にはいりに参りまして、すぐ参ると申しました」
 と言っていた。
  "Simo ni yu ni ori te. 'Tada-ima mawira m' to haberu." to ihu.
3.3.14  皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに 引きあけたまへればあなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、 灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。 なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、 求めつる人と思へり。
 皆寝静まった様子なので、掛金を試しに開けて御覧になると、向こう側からは鎖してないのであった。几帳を襖障子口に立てて、灯火はほの暗いが、御覧になると唐櫃のような物どもを置いてあるので、ごたごたした中を、掻き分けて入ってお行きになると、ただ一人だけでとても小柄な感じで臥せっていた。何となく煩わしく感じるが、上に掛けてある衣を押しのけるまで、呼んでいた女房だと思っていた。
 源氏はその女房たちも皆寝静まったころに、掛鉄をはずして引いてみると襖子はさっとあいた。向こう側には掛鉄がなかったわけである。そのきわに几帳が立ててあった。ほのかな灯の明りで衣服箱などがごたごたと置かれてあるのが見える。源氏はその中を分けるようにして歩いて行った。
 小さな形で女が一人寝ていた。やましく思いながら顔を掩うた着物を源氏が手で引きのけるまで女は、さっき呼んだ女房の中将が来たのだと思っていた。
  Mina sidumari taru kehahi nare ba, kake-gane wo kokoromi ni hiki-ake tamahe re ba, anata yori ha sasa zari keri. Kityau wo syauzi-guti ni ha tate te, hi ha hono-kuraki ni, mi tamahe ba, karabitu-datu mono-domo wo oki tare ba, midari-gahasiki naka wo, wake-iri tamahe re ba, tada hitori ito sasayaka ni te husi tari. Nama-wadurahasi kere do, uhe naru kinu osi-yaru made, motome turu hito to omohe ri.
3.3.15  「 中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」
 「中将をお呼びでしたので。人知れずお慕いしておりました、その甲斐があった気がしまして」
 「あなたが中将を呼んでいらっしゃったから、私の思いが通じたのだと思って」
  "Tyuuzyau mesi ture ba nam. Hito sire nu omohi no, sirusi aru kokoti si te."
3.3.16  とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、 顔に衣のさはりて、音にも立てず。
 とおっしゃるのを、すぐにはどういうことかも分からず、魔物にでも襲われたような気がして、「きゃっ」と脅えたが、顔に衣が触れて、声にもならない。
 と源氏の宰相中将は言いかけたが、女は恐ろしがって、夢に襲われているようなふうである。「や」と言うつもりがあるが、顔に夜着がさわって声にはならなかった。
  to notamahu wo, tomo-kakumo omohi-waka re zu, mono ni osoha ruru kokoti si te, "Ya!" to obiyure do, kaho ni kinu no sahari te, oto ni mo tate zu.
3.3.17  「 うちつけに、深からぬ心のほどと 見たまふらむ、ことわりなれど、 年ごろ思ひわたる心のうちも、 聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、 さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」
 「突然のことで、一時の戯れ心とお思いになるのも、ごもっともですが、長年、恋い慕っていましたわたしの気持ちを、聞いていただきたいと思いまして。このような機会を待ち受けていたのも、決していい加減な気持ちからではない深い前世からの縁と、お思いになって下さい」
 「出来心のようにあなたは思うでしょう。もっともだけれど、私はそうじゃないのですよ。ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆前生の縁が導くのだと思ってください」
  "Utituke ni, hukakara nu kokoro no hodo to mi tamahu ram, kotowari nare do, tosigoro omohi wataru kokoro no uti mo, kikoye sira se m tote nam. Kakaru wori wo mati-ide taru mo, sarani asaku ha ara zi to, omohi-nasi tamahe!"
3.3.18   、いとやはらかにのたまひて、 鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、 えののしらず。心地はた、 わびしくあるまじきことと思へば、あさましく、
 と、とても優しくおっしゃって、鬼神さえも手荒なことはできないような態度なので、ぶしつけに「ここに、変な人が」とも、大声が出せない。気分は辛く、あってはならない事だと思うと、情けなくなって、
 柔らかい調子である。神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろうと思われる美しさで近づいているのであるから、露骨に、
 「知らぬ人がこんな所へ」
 ともののしることができない。
 しかも女は情けなくてならないのである。
  to, ito yaharaka ni notamahi te, oni-gami mo aradatu maziki kehahi nare ba, hasitanaku, "Koko ni, hito!" to mo, e nonosira zu. Kokoti hata , wabisiku, arumaziki koto to omohe ba, asamasiku,
3.3.19  「 人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。
 「お人違いでございましょう」と言うのもやっとである。
 「人まちがえでいらっしゃるのでしょう」
 やっと、息よりも低い声で言った。
  "Hito-tagahe ni koso haberu mere." to ihu mo iki no sita nari.
3.3.20   消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、
 消え入らんばかりにとり乱した様子は、まことにいたいたしく可憐なので、いい女だと御覧になって、
 当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐でもあった。
  Kiye madohe ru kesiki, ito kokoro-gurusiku rautage nare ba, wokasi to mi tamahi te,
3.3.21  「 違ふべくもあらぬ 心のしるべを思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、 よに見えたてまつらじ。思ふことすこし 聞こゆべきぞ
 「間違えるはずもない心の導きを、意外にも理解しても下さらずはぐらかしなさいますね。好色めいた振る舞いは、決して致しません。気持ちを少し申し上げたいのです」
 「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」
  "Tagahu beku mo ara nu kokoro no sirube wo, omoha zu ni mo obomei tamahu kana! Suki-gamasiki sama ni ha, yoni miye tatematura zi. Omohu koto sukosi kikoyu beki zo."
3.3.22  とて、 いと小さやかなれば、かき抱きて 障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。
 と言って、とても小柄なので、抱き上げて襖障子までお出になるところへ、呼んでいた中将らしい女房が来合わせた。
 と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子の所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。
  tote, ito tihisayaka nare ba, kaki-idaki te syauzi no moto ide tamahu ni zo, motome turu Tyuuzyau-datu-hito ki-ahi taru.
3.3.23  「 やや」とのたまふにあやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、 思ひ寄りぬ。あさましう、 こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。 並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、 それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、 動もなくて奥なる御座に入りたまひぬ。
 「これ、これ」とおっしゃると、不審に思って手探りで近づいたところ、大変に薫物の香があたり一面に匂っていて、顔にまで匂いかかって来るような感じがするので、理解がついた。意外なことで、これはどうしたことかと、おろおろしないではいられないが、何とも申し上げようもない。普通の男ならば、手荒に引き放すこともしようが、それでさえ大勢の人が知ったらどうであろうか。胸がどきどきして、後からついて来たが、平然として、奥のご座所にお入りになった。
 「ちょいと」
 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫き込めた源氏の衣服の香が顔に吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どうなることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、
  "Ya ya!" to notamahu ni, ayasiku te saguri yori taru ni zo, imiziku nihohi miti te, kaho ni mo kuyuri kakaru kokoti suru ni, omohi-yori nu. Asamasiu, ko ha ika naru koto zo to omohi madoha rure do, kikoye m kata nasi. Nami-nami no hito nara ba koso, araraka ni mo hiki-kanagura me, sore dani hito no amata sira m ha, ikaga ara m? Kokoro mo sawagi te, sitahi-ki tare do, dou mo naku te, oku naru o-masi ni iri tamahi nu.
3.3.24  障子をひきたてて、「 暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、 女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、 いと悩ましげなる、いとほしけれど、 例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、 なほいとあさましきに
 襖障子を引き閉てて、「明朝、お迎えに参られよ」とおっしゃるので、女は、この女房がどう思うかまでが、死ぬほど耐えられないので、流れ出るほどの汗びっしょりになって、とても悩ましい様子でいる、それは、気の毒であるが、例によって、どこから出てくる言葉であろうか、愛情がわかるほどに、優しく優しく、言葉を尽くしておっしゃるようだが、やはりまことに情けないので、
 それから襖子をしめて、
 「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟に許されていない恋に共鳴してこない。
  Syauzi wo hiki-tate te, "Akatuki ni ohom-mukahe ni monose yo." to notamahe ba, womna ha, kono hito no omohu ram koto sahe, sinu bakari warinaki ni, nagaruru made ase ni nari te, ito nayamasige naru, ito itohosikere do, rei no, iduko yori tou'de tamahu kotonoha ni ka ara m, ahare sira ru bakari, nasake-nasakesiku notamahi-tukusu beka' mere do, naho ito asamasiki ni,
3.3.25  「 現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、 思しくたしける御心ばへのほども、 いかが浅くは思うたまへざらむ。いと かやうなる際は、際とこそはべなれ
 「真実のこととは思われません。しがない身の上ですが、お貶みなさったお気持ちのほどを、どうして浅いお気持ちと存ぜずにいられましょうか。まことに、このような身分の女には、それなりの生き方がございます」
 「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあなた様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」
  "Ututu to mo oboye zu koso. Kazu nara nu mi nagara mo, obosi-kutasi keru mi-kokorobahe no hodo mo, ikaga asaku ha omou tamahe zara m. Ito kayau naru kiha ha, kiha to koso habe' nare."
3.3.26  とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、 げにいとほしく心恥づかしきけはひなれば
 と言って、このように無体なことをなさっているのを、深く思いやりがなく嫌なことだと思い込んでいる様子も、なるほど気の毒で、気後れがするほど立派な態度なので、
 こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省さす力があった。
  tote, kaku ositati tamahe ru wo, hukaku nasakenaku usi to omohi-iri taru sama mo, geni itohosiku, kokoro-hadukasiki kehahi nare ba,
3.3.27  「 その際々を、まだ知らぬ、 初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。 あながちなる好き心は、さらにならはぬを。 さるべきにや、げに、かく あはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからも あやしきまでなむ
 「おっしゃる身分身分の違いを、まだ知りません、初めての事ですよ。かえって、わたしを普通の人と同じように思っていらっしゃるのが残念です。自然とお聞きになっているようなこともありましょう。むやみな好色心は、まったく持ち合わせておりませんものを。前世からの因縁でしょうか、おっしゃるように、このように軽蔑されいただくのも、当然なわが惑乱を、自分でも不思議なほどで」
 「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょう、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋に盲目になっています」
  "Sono kiha-giha wo, mada sira nu, uhigoto zo ya! Naka-naka, osinabe taru tura ni omohi-nasi tamahe ru nam utate ari keru. Onodukara kiki tamahu yau mo ara m. Anagati naru suki-gokoro ha, sarani naraha nu wo! Saru-beki ni ya, geni, kaku ahame rare tatematuru mo, kotowari naru kokoro-madohi wo, midukara mo ayasiki made nam."
3.3.28  など、まめだちてよろづにのたまへど、 いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、 すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、 さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、 つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、 なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。
 などと、真面目になっていろいろとおっしゃるが、まことに類ないご立派さで、ますます打ち解け申し上げることが辛く思われるので、無愛想な気にくわない女だとお見受け申されようとも、そうしたつまらない女として押し通そうと思って、ただそっけなく身を処していた。人柄がおとなしい性質なところに、無理に気強く張りつめているので、しなやかな竹のような感じがして、さすがにたやすく手折れそうにもない。
 まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹のようで、さすがに折ることはできなかった。
  nado, mame-dati te yorodu ni notamahe do, ito taguhi naki ohom-arisama no, iyo-iyo uti-toke kikoye m koto wabisikere ba, sukuyoka ni kokoro-dukinasi to ha miye tatematuru tomo, saru kata no ihukahinaki ni te sugusi te m to omohi te, turenaku nomi motenasi tari. Hitogara no tawoyagi taru ni, tuyoki kokoro wo sihite kuhahe tare ba, nayotake no kokoti si te, sasuga ni woru beku mo ara zu.
3.3.29   まことに心やましくてあながちなる御心ばへを、 言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり 心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。 慰めがたく、憂しと思へれば
 本当に辛く嫌な思いで、無理無体なお気持ちを、何とも言いようがないと思って、泣いている様子など、まことに哀れである。気の毒ではあるが、逢わなかったら心残りであったろうに、とお思いになる。気持ちの晴らしようもなく、情けないと思っているので、
 真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。
 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを見て、
  Makoto ni kokoro-yamasiku te, anagati naru mi-kokorobahe wo, ihukatanasi to omohi te, naku sama nado, ito ahare nari. Kokoro-gurusiku ha are do, mi zara masika ba kutiwosikara masi, to obosu. Nagusame-gataku, usi to omohe re ba,
3.3.30  「 など、かく 疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、 契りあるとは思ひたまはめ。むげに 世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなむ、いとつらき」と 恨みられて
 「どうして、こうお嫌いになるのですか。思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だとお考えなさい。むやみに男女の仲を知らない者のように、泣いていらっしゃるのが、とても辛い」と、恨み言をいわれて、
 「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむのが恨めしい」
 と、源氏が言うと、
  "Nado, kaku utomasiki mono ni simo obosu beki? Oboye naki sama naru simo koso, tigiri aru to ha omohi tamaha me. Mugeni yo wo omohi-sira nu yau ni, obohore tamahu nam, ito turaki." to urami rare te,
3.3.31  「 いとかく憂き身のほどの定まらぬ、 ありしながらの身にてかかる御心ばへを見ましかばあるまじき我が頼みにて、見直したまふ 後瀬をも 思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、 たぐひなく思うたまへ惑はるるなりよし、今は見きとなかけそ
 「とてもこのような情けない身の運命が定まらない、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、とんでもない身勝手な希望ですが、愛していただける時もあろううかと存じて慰めましょうに、とてもこのような、一時の仮寝のことを思いますと、どうしようもなく心惑いされてならないのです。たとえ、こうとなりましても、逢ったと言わないで下さいまし」
 「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなたの熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですからせめてなかったことだと思ってしまってください」
  "Ito kaku uki mi no hodo no sadamara nu, arisi-nagara no mi ni te, kakaru mi-kokoro-bahe wo mi masika ba, arumaziki waga tanomi ni te, minahosi tamahu notise wo mo omohi tamahe nagusame masi wo, ito kau kari naru ukine no hodo wo omohi haberu ni, taguhi naku omou tamahe madoha ruru nari. Yosi, ima ha mi ki to na kake so."
3.3.32  とて、思へるさま、 げにいとことわりなりおろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。
 と言って、悲しんでいる様子は、いかにも道理である。並々ならず行く末を約束し慰めなさる言葉は、きっと多いことであろう。
 と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発しているのであった。
  tote, omohe ru sama, geni ito kotowari nari. Oroka nara zu tigiri nagusame tamahu koto ohokaru besi.
3.3.33   鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、
 鶏も鳴いた。供びとが起き出して、
 鶏の声がしてきた。家従たちも起きて、
  Tori mo naki nu. Hito-bito oki-ide te,
3.3.34  「いといぎたなかりける夜かな」
 「ひどく寝過ごしてしまったなあ」
 「寝坊をしたものだ。
  "Ito igitanakari keru yo kana!"
3.3.35  「御車ひき出でよ」
 「お車を引き出せよ」
 早くお車の用意をせい」
  "Mi-kuruma hiki-ide yo."
3.3.36   など言ふなり。守も出で来て、
 などと言っているようだ。紀伊守も起き出して来て、
 そんな命令も下していた。
  nado ihu nari. Kami mo ide-ki te,
3.3.37  「 女などの御方違へこそ。夜深く 急がせたまふべきかは」など言ふもあり。
 「女性などの方違えならばともかく。暗いうちからお急きあそばさずとも」などと言っているのも聞こえる。
 「女の家へ方違えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」
 と言っているのは紀伊守であった。
  "Womna nado no ohom-katatagahe koso. Yobukaku isoga se tamahu beki kaha!" nado ihu mo ari.
3.3.38   君はまたかやうのついであらむこともいとかたく、 さしはへては いかでか、御文なども通はむことの いとわりなきを思すに、いと胸いたし。 奥の中将も出でて、いと苦しがれば、 許したまひても、また引きとどめたまひつつ
 源氏の君は、再びこのような機会があろうこともとても難しいし、わざわざ訪れることはどうしてできようか、お手紙などもを通わすことはとても無理なことをお思いになると、ひどく胸が痛む。奥にいた中将の君も出て来て、とても困っているので、お放しになっても、再びお引き留めになっては、
 源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。
  Kimi ha, mata kayau no tuide ara m koto mo ito kataku, sasihae te ha ikade ka, ohom-humi nado mo kayoha m koto no ito warinaki wo obosu ni, ito mune itasi. Oku no Tyuuzyau mo ide te, ito kurusigare ba, yurusi tamahi te mo, mata hiki-todome tamahi tutu,
3.3.39  「いかでか、聞こゆべき。 世に知らぬ 御心のつらさも、あはれも浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」
 「どのようにして、お便りを差し上げたらよかろうか。ほんとうに何とも言いようのない、あなたのお気持ちの冷たさといい、慕わしさといい、深く刻みこまれた思い出は、いろいろとめったにないことであったね」
 「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」
  "Ikade ka, kikoyu beki. Yoni sira nu mi-kokoro no turasa mo, ahare mo, asakara nu yo no omohi-ide ha, sama-zama meduraka naru beki tamesi kana!"
3.3.40  とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。
 と言って、お泣きになる様子は、とても優美である。
 泣いている源氏が非常に艶に見えた。
  tote, uti-naki tamahu kesiki, ito namameki tari.
3.3.41   鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、
 鶏もしきりに鳴くので、気もせかされて、
 何度も鶏が鳴いた。
  Tori mo siba-siba naku ni, kokoro awatatasiku te,
3.3.42  「 つれなきを恨みも果てぬしののめに
 「あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ
  つれなさを恨みもはてぬしののめに
    "Turenaki wo urami mo hate nu sinonome ni
3.3.43   とりあへぬまでおどろかすらむ
  鶏までが取るものも取りあえぬまであわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか
  とりあへぬまで驚かすらん
    tori-ahe nu made odorokasu ram
3.3.44  女、身のありさまを思ふに、 いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の 思ひやられて、「 夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし。
 女は、わが身の上を思うと、まことに不似合いで眩しい気持ちがして、源氏の君の素晴らしいお持てなしも、何とも感ぜず、平生はとても生真面目過ぎて嫌な男だと侮っている伊予国の方角が思いやられて、「夢に現われやしないか」と思うと、何となく恐ろしくて気がひける。
 あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。
 女は己を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。
  Womna, mi no arisama wo omohu ni, ito tukinaku mabayuki kokoti si te, medetaki ohom-motenasi mo, nani to mo oboye zu, tune ha ito suku-sukusiku kokorodukinasi to omohi anaduru Iyo no kata no omohi-yara re te, "Yume ni ya miyu ram?" to, sora-osorosiku tutumasi.
3.3.45  「 身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は
 「わが身の辛さを嘆いても嘆き足りないうちに明ける夜は
  身の憂さを歎くにあかで明くる夜は
    "Mi no usa wo nageku ni aka de akuru yo ha
3.3.46   とり重ねてぞ音もなかれける
  鶏の鳴く音に取り重ねて、わたしも泣かれてなりません
  とり重ねても音ぞ泣かれける
    tori-kasane te zo ne mo naka re keru
3.3.47  ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、 引き立てて、別れたまふほど、心細く、 隔つる関と見えたり。
 ずんずんと明るくなるので、襖障子口までお送りになる。家の内も外も騒がしいので、引き閉てて、お別れになる時、心細い気がして、仲を隔てる関のように思われた。
と言った。
 ずんずん明るくなってゆく。女は襖子の所へまで送って行った。奥のほうの人も、こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。
  Koto to akaku nare ba, syauzi-guti made okuri tamahu. Uti mo to mo hito sawagasikere ba, hiki-tate te, wakare tamahu hodo, kokorobosoku, hedaturu seki to miye tari.
3.3.48  御直衣など着たまひて、 南の高欄にしばしうち眺めたまふ。西面の格子そそき上げて、 人びと覗くべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる 好き心どもあめり
 御直衣などをお召しになって、南面の高欄の側で少しの間眺めていらっしゃる。西面の格子を忙しく上げて、女房たちが覗き見しているようである。簀子の中央に立ててある小障子の上から、わずかにお見えになるお姿を、身に感じ入っている好色な女もいるようである。
 直衣などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている女房もあった。
  Ohom-nahosi nado ki tamahi te, minami no kauran ni sibasi uti-nagame tamahu. Nisi-omote no kausi sosoki-age te, hito-bito nozoku beka' meru. Sunoko no naka no hodo ni tate taru ko-syauzi no kami yori honoka ni miye tamahe ru ohom-arisama wo, mi ni simu bakari omohe ru suki-gokoro-domo a' meri.
3.3.49   月は有明にて、光をさまれるものから、 かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、 艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、 言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。
 月は有明で、光は弱くなっているとはいうものの、面ははっきりと見えて、かえって趣のある曙の空である。無心なはずの空の様子も、ただ見る人によって、美しくも悲しくも見えるのであった。人に言われぬお心には、とても胸痛く、文を通わす手立てさえないものをと、後ろ髪引かれる思いでお出になった。
 残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わったおもしろい夏の曙である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的にひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言づて一つする便宜がないではないかと思って顧みがちに去った。
  Tuki ha ariake ni te, hikari wosamare ru monokara, kage kezayaka ni miye te, naka-naka wokasiki akebono nari. Nanigokokoronaki sora no kesiki mo, tada miru hito kara, en ni mo sugoku mo miyuru nari keri. Hito sire nu mi-kokoro ni ha, ito mune itaku, koto-dute yara m yosuga dani naki wo to, kaherimi-gati ni te ide tamahi nu.
3.3.50   殿に帰りたまひても、とみにも まどろまれたまはず。また あひ見るべき方なきをまして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。「 すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。 隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と 思し合はせられけり
 お邸にお帰りになっても、すぐにもお寝みになれない。再び逢える手立てのないのが、自分以上に、あの女が悩んでいるであろう心の中は、どんなであろうかと、気の毒にご想像なさる。「特に優れた所はないが、見苦しくなく身嗜みもとりつくろっていた中の品の女であったな。何でもよく知っている人の言ったことは、なるほど」とうなずかれるのであった。
 家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶があるはずであると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。
  Tono ni kaheri tamahi te mo, tomi ni mo madoroma re tamaha zu. Mata ahi-miru beki kata naki wo, masite, kano hito no omohu ram kokoro no uti, ika-nara m to, kokoro-gurusiku omohiyari tamahu. "Sugure taru koto ha nakere do, meyasuku motetuke te mo ari turu naka-no-sina kana! Kumanaku mi atume taru hito no ihi si koto ha, geni." to obosi-ahase rare keri.
3.3.51   このほどは 大殿にのみおはします。 なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。
 最近は左大臣邸にばかりいらっしゃる。やはり、すっかりあれきり途絶えているので、思い悩んでいるであろうことが、気の毒にお心にかかって、心苦しく思い悩みなさって、紀伊守をお召しになった。
 このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身にとってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しいはてに源氏は紀伊守を招いた。
  Kono hodo ha, Ohoidono ni nomi ohasimasu. Naho ito kaki-taye te, omohu ram koto no itohosiku mi-kokoro ni kakari te, kurusiku obosi-wabi te, Ki-no-Kami wo mesi tari.
3.3.52  「 かの、ありし中納言の子は得させてむやらうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、
 「あの、先日の故中納言の子は、わたしに下さらないか。かわいらしげに見えたが。身近に使う者としたい。主上にも、わたしが差し上げたい」とおっしゃると、
 「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったからそばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」
 と言うのであった。
  "Kano, arisi Tyuunagon-no-ko ha, e sase te m ya? Rautage ni miye si wo. Mi-dikaku tukahu hito ni se m. Uhe ni mo ware tatematura m." to notamahe ba,
3.3.53  「 いとかしこき仰せ言にはべるなり。 姉なる人にのたまひみむ
 「とても恐れ多いお言葉でございます。姉に当たる人に仰せ言を申し聞かせてみましょう」
 「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」
  "Ito kasikoki ohose-goto ni haberu nari. Ane-naru-hito ni notamahi mi m."
3.3.54  と申すも、 胸つぶれて思せど
 と、申し上げるにつけても、どきりとなさるが、
 その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。
  to mausu mo, mune tubure te obose do,
3.3.55  「 その姉君は、朝臣の弟や持たる
 「その姉君は、そなたの弟をお持ちか」
 「その姉さんは君の弟を生んでいるの」
  "Sono Ane-gimi ha, Asom no otouto ya mo' taru?"
3.3.56  「 さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、 親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、 聞きたまふる
 「いえ、ございません。この二年ほどは、こうして暮らしておりますが、父親の意向と違ったと嘆いて、気も進まないでいるように、聞いております」
 「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望んでいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」
  "Sa mo habera zu. Kono huta-tose bakari zo, kaku te monosi habere do, oya no okite ni tagahe ri to omohi nageki te, kokoro-yuka nu yau ni nam, kiki tamahuru."
3.3.57  「 あはれのことやよろしく聞こえし人ぞかしまことによしや」とのたまへば、
 「気の毒なことよ。まあまあの評判であった人だ。本当に、器量が良いか」とおっしゃると、
 「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」
  "Ahare no koto ya! Yorosiku kikoye si hito zo kasi. Makoto ni yosi ya?" to notamahe ba,
3.3.58  「 けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、 世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。
 「悪くはございませんでしょう。離れて疎遠に致しておりますので、世間の言い草のとおり、親しくしておりません」と申し上げる。
 「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子と若い継母は親しくせぬものだと申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」
 と紀伊守は答えていた。
  "Kesiu ha habera zaru besi. Mote-hanare te uto-utosiku habere ba, yo no tatohi ni te, mutubi habera zu." to mausu.
注釈631とけても寝られたまはず可能の助動詞「られ」連用形。3.3.1
注釈632いたづら臥しと思さるるに源氏の心。自発の助動詞「るる」連体形。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。3.3.1
注釈633こなたや以下「あはれや」まで、源氏の心。「あはれや」を、『集成』は「どうしているだろう」と解し、『完訳』は「かわいそうな」と訳す。『新大系』は「老受領の後妻になっている女への哀れみである。中の品に転じているらしい女への興味がかきたてられて様子を窺う」と注す。3.3.1
注釈634立ち聞きたまへば以下、源氏の耳を通して語る描写。3.3.1
注釈635ものけたまはる以下「おはしますぞ」まで、小君の詞。姉の空蝉に言う。「ものけたまはる」は「物承る」の約。3.3.2
注釈636かれたる声の格助詞「の」同格を表す。変声期ころの少年。3.3.3
注釈637ここにぞ臥したる以下「け遠かりける」まで、姉君の返答。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「たる」連体形、存続の意。係り結びの法則。3.3.4
注釈638客人は寝たまひぬるか「客人」は源氏の君をさす。完了の助動詞「ぬる」連体形、係助詞「か」疑問の意。3.3.4
注釈639いかに近からむと思ひつるを副詞「いかに」、推量の助動詞「む」終止形、完了の助動詞「つる」連体形、完了の意。接続助詞「を」逆接を表す。3.3.4
注釈640け遠かりけり接頭語「け」は、なんとなく、いくらか、などのニュアンスを添える。過去の助動詞「けり」詠嘆の意。3.3.4
注釈641声のしどけなき格助詞「の」同格を表す。「しどけなき」連体形は主格となる。声で取り繕わないのが、の文意。3.3.5
注釈642いもうとと聞きたまひつ「いもうと」は男からみた異性の姉妹。ここは姉をいう。男の子(小君)の姉と理解。3.3.5
注釈643廂にぞ以下「めでたかりけれ」まで、小君の詞。源氏の君は、廂の間にお寝みになりましたという。廂の間は、女の寝ている母屋の外側になる。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「ぬる」連体形、係り結びの法則。3.3.6
注釈644見たてまつりつる完了の助動詞「つる」連体形、下に接続助詞「に」順接などの語が省略。3.3.6
注釈645げにこそめでたかりけれ係助詞「こそ」過去の助動詞「けれ」已然形、詠嘆の意。係り結びの法則。3.3.6
注釈646昼ならましかば覗きて見たてまつりてまし姉君の詞。推量の助動詞「ましか」未然形、仮想の意+接続助詞「ば」順接の仮定条件、推量の助動詞「まし」終止形、反実仮想の構文。3.3.7
注釈647ねたう心とどめても問ひ聞けかし源氏の心。「問ひ聞け」命令形。終助詞「かし」念押し。聞いていろよ、の意。小君と姉の空蝉の会話をもっと聞いていたい気持ち。3.3.8
注釈648まろは端に寝はべらむあなくるし小君の詞。「端(はし)に」について、青表紙本系の明融臨模本、大島本、三条西家本は「はしに」とある。松浦本、池田本、伝冷泉為秀本と書陵部本は「こゝに」とある。また「あなくるし」について、青表紙本系の明融臨模本、松浦本、伝冷泉為秀筆本は「あなくるし」(ああ、疲れた)とあり、大島本、三条西家本と書陵部本は「あなくら」(ああ、暗い)とある。池田本は「あなくらるし」とある。定家本原本は「あなくるし」とあったのであろう。3.3.9
注釈649灯かかげなどすべし副助詞「など」、推量の助動詞「べし」推量の意、などの推量表現は源氏の耳に添った表現である。次の「中将の君は」の文との間には、小君が端の方に出て行って後、少し時間の経過があろう。3.3.10
注釈650ほどにぞ臥したるべき係助詞「ぞ」、推量の助動詞「べき」連体形、係り結びの法則。3.3.10
注釈651中将の君は以下「もの恐ろし」まで、女(空蝉)の詞。「中将の君」は女房名。その女房を呼ぶ。3.3.11
注釈652いづくにぞ係助詞「ぞ」の下に「をる」連体形、などの語が省略。3.3.11
注釈653言ふなれば「言ふ」終止形、伝聞推定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。--たところ、--と、という文意。を表す。源氏の耳を通してかたる描写。「ば」は単なる継起的前後関係を表す。言うらしい、するとの意。3.3.12
注釈654答へすなり「す」終止形、伝聞推定の助動詞「なり」終止形。源氏の耳を通して語る描写。3.3.12
注釈655下に湯におりてただ今参らむとはべる女房の返答。「ただ今参らむ」という中将の君の詞を引用して答える。当時の入浴法は沐浴で、湯を浴びて体を清めた。3.3.13
注釈656引きあけたまへれば「たまへ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。3.3.14
注釈657あなたよりは鎖さざりけり過去の助動詞「けり」詠嘆の意。その意外さに驚く。源氏の驚きの気持ちと語り手の気持ちが一体化したような表現。紀伊守が外しておいたものであろう。3.3.14
注釈658灯はほの暗きに「暗き」連体形+接続助詞「に」逆接。3.3.14
注釈659なまわづらはしけれど『集成』は「何となく気が咎めるけれども」と、源氏の君の心中と解す。『古典セレクション』は「うとうとししかけたところを寄り添われた女の意識」と解す。『新大系』も同じ。ここまで、源氏の耳、目を通して語ってきたが、ここで主語(語り手の視点)が女に転じたとみる。3.3.14
注釈660求めつる人空蝉が召した人、女房の中将の君。3.3.14
注釈661中将召しつればなむ以下「心地して」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。女が呼んだのは、女房の「中将の君」であった。源氏も近衛府の中将であった。それで「中将召しつれば」と言った。3.3.15
注釈662顔に衣のさはりて源氏の直衣の袖が空蝉の顔に触れて。『古典セレクション』は顔に衾がかぶさって、と解す。3.3.16
注釈663うちつけに以下「思ひなしたまへ」まで、源氏の詞。3.3.17
注釈664見たまふらむ主語はあなた(空蝉)が。「たまふ」終止形+推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。下に「ことは」などの語句が省略、主格となって下文に続く。3.3.17
注釈665年ごろ思ひわたる心のうち源氏の女を口説くときの常套句。3.3.17
注釈666聞こえ知らせむとてなむ推量の助動詞「む」意志、係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。3.3.17
注釈667さらに浅くはあらじ前の「深からぬ心のほど」と照応するが、またあなたとわたしの縁が浅くはない、の意も込められている。両義性をもった掛詞的な表現。副詞「さらに」は打消の助動詞「じ」と呼応して、決して、少しも、全然、の意を表す。3.3.17
注釈668鬼神も荒だつまじきけはひなれば係助詞「も」強調を表す。猛々しく恐ろしい鬼神でさえも源氏の物腰には手荒なことができない、まして弱い女人の身では、のニュアンス。3.3.18
注釈669えののしらず副詞「え」打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。大声を出すことができない。3.3.18
注釈670あるまじきこと空蝉は人妻である。他の男性との逢瀬はあってはならないこと。3.3.18
注釈671人違へにこそはべるめれ女の詞。係助詞「こそ」、推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意。係り結びの法則。強調のニュアンス。3.3.19
注釈672消えまどへる気色いと心苦しくらうたげなればをかし源氏は、こうした状況下にある女とその態度に対して「いと心苦し」と思いやる一方で、自身「らうたげ」だと思いながら、そうした女に「をかし」と心惹かれていく。3.3.20
注釈673違ふべくもあらぬ以下「聞こゆべきぞ」まで、源氏の詞。3.3.21
注釈674心のしるべを格助詞「を」目的格を表す。3.3.21
注釈675思はずにもおぼめいたまふかな「思はずにも」は、意外にも、理解せずに、の両義性をもった掛詞的表現。終助詞「かな」詠嘆を表す。3.3.21
注釈676よに見えたてまつらじ副詞「よに」は下に打消推量の助動詞「じ」終止形、意志と呼応して、決して、の意を表す。3.3.21
注釈677聞こゆべきぞ係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。3.3.21
注釈678いと小さやかなれば女の体つき。当時は小柄を美人とした。3.3.22
注釈679障子のもと出でたまふにぞ「もと」の次に格助詞「に」場所が省略。係助詞「ぞ」は完了の助動詞「たる」連体形に係る、係り結びの法則。3.3.22
注釈680ややとのたまふに源氏が中将の君に、もしもし、と声を掛けた。3.3.23
注釈681あやしくて探り寄りたるにぞ完了の助動詞「たる」連体形+接続助詞「に」順接+係助詞「ぞ」。「ぞ」は「心地する」に係るが、下文に続いて、結びの流れ。中将の君は不審に思って手探りで近付いたところ、の意。3.3.23
注釈682思ひ寄りぬその声の主が源氏であると理解した。3.3.23
注釈683こはいかなることぞ中将の君の心。係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。源氏の君がわが主人の空蝉を抱いて部屋から連れ出そうとしているので。3.3.23
注釈684並々の人ならばこそ以下「いかがはあらむ」まで、中将の君の心。係助詞「こそ」は「引きかなぐらめ」に係る、下文に続く逆接用法。3.3.23
注釈685それだに人のあまた知らむは副助詞「だに」最小限を表す。推量の助動詞「む」婉曲を表す。3.3.23
注釈686動もなくて主語は源氏。源氏の君の平然とした態度。3.3.23
注釈687奥なる御座『評釈』は「端つ方の御座」に対して「母屋に設けられた源氏の寝所」と注す。『新大系』は「東の廂にある奥の座所。正式の寝所がしつらえられていたのだろうと言う」と注す。『古典セレクション』は「障子口の向こうの源氏の寝室にあてられた母屋の南半分」と注す。いずれにしても、紀伊守は源氏のために、「端つ方の御座」とは別に正式の寝所を準備していた。3.3.23
注釈688暁に御迎へにものせよ源氏から中将の君への詞。「暁」は明朝早くの意。3.3.24
注釈689女はこの人の思ふらむことさへ「女」は空蝉、「この人」は中将の君。推量の助動詞「らむ」視界外推量、副助詞「さへ」添加を表す。3.3.24
注釈690いと悩ましげなる断定の助動詞「なる」連体中止法で下文に続く。3.3.24
注釈691例の以下「べかめれど」まで、「例の」「にかあらむ」(疑問、推量)「べかめれど」(推量)は、語り手が源氏の態度に対して発したものである。挿入句。『湖月抄』は「地」と記して、いわゆる草子地であることを指摘する。3.3.24
注釈692なほいとあさましきに主語は女に転じる。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。やはりまことに情けないので。3.3.24
注釈693現ともおぼえずこそ以下「はべるなれ」まで、女の詞。係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語が省略。3.3.25
注釈694思しくたしける「くたす」は清音、「腐す」意。「下す」ではない。3.3.25
注釈695いかが浅くは思うたまへざらむ反語表現。浅くは思わない、すなわち深く思う、の意。ただしかし、源氏の愛情を深く理解するというのではなく、源氏が私(空蝉)を蔑んだ気持ちが深い、というもの。『新大系』は「人数にも入らぬいやしいわが身のままであれ、その私を心から見下してこられた、あなたさまのお気持の程度につけてもどうして浅いと思い申さずにはいられよう。前頁に「さらに浅くはあらじ」とあった源氏の言葉を受けて、あなたの私への見下す心もまた浅からぬとせいいっぱい言い返す」と注す。『古典セレクション』でも「前文に源氏が「さらに浅くはあらじ」と言ったのを受けて、「心ばへ」の内容を自分に対する軽蔑にすりかえて、切り返したもの」と注す。3.3.25
注釈696かやうなる際は際とこそはべなれ「はべなれ」は「はべる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形。断定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。このようなしがない身分のわたしには、わたしらなりの、生き方というものがございます、源氏の君のような高貴な方とは無縁は世界の女です、の意。3.3.25
注釈697げにいとほしく源氏と語り手の気持ちが一体化した表現。3.3.26
注釈698心恥づかしきけはひなれば女(空蝉)の態度。こちらが恥じ入るほど立派な態度。3.3.26
注釈699その際々を以下「あやしきまでなむ」まで、源氏の詞。3.3.27
注釈700初事ぞや係助詞「ぞ」文末におかれて強調の意、間投助詞「や」詠嘆を表す。3.3.27
注釈701あながちなる好き心「帚木」巻冒頭部に源氏の本性について、「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にてまれにはあながちに引き違へ心尽くしなることを御心に思しとどむる癖なむあやにくにて」とあった。源氏は口では否定しても性分では「あながちなる好き心」の人間である。3.3.27
注釈702さるべきにや前世からの宿縁であろうか、の意。3.3.27
注釈703あはめられたてまつるもあなたからわたしが「あはめられ」、軽蔑される、見下される。謙譲の補助動詞「たてまつる」、いただく。「見下されいただく」とはおかしな言い方だが、語法としては適っている。嫌味な言い方をしたもの。3.3.27
注釈704あやしきまでなむ係助詞「なむ」の下に「ある」連体形などの語が省略。3.3.27
注釈705いとたぐひなき御ありさまの源氏の姿をさす。主語は女に転じる。格助詞「の」同格を表す。以下、空蝉の視点から語られていく。3.3.28
注釈706すくよかに以下「過ぐしてむ」まで、女の心。3.3.28
注釈707さる方の言ふかひなきにて「さる方」は「くよかに心づきなし」をさす。3.3.28
注釈708つれなくのみ本心を隠してただそっけなくのみ振る舞っているというニュアンス。3.3.28
注釈709なよ竹の心地して源氏には女がしなやかな竹のように感じられて。主語は源氏に転じる。『古典セレクション』は「次の「まことに--」の文文との間に、それまで拒み続けた女との間に、強姦に近い形で契りが果されたことが省かれている」と注す。3.3.28
注釈710まことに心やましくて主語は女。「まことに」は、心底からのニュアンス。「心やまし」は、不愉快、辛いのニュアンス。3.3.29
注釈711あながちなる御心ばへ源氏の無理無体ななされようをさす。3.3.29
注釈712言ふ方なしと思ひて泣くさまなどいとあはれなり女に諦め折れたさまが読み取れる。『紹巴抄』は「空心を双地」と、空蝉の心を草子地で表現した、と指摘する。「あはれなり」は、空蝉に対する語り手の評言である。3.3.29
注釈713心苦しくはあれど見ざらましかば主語は源氏。女に対する同情に気持ちはあるが、自己満足を優先させている。「ましかば」は下文の「まし」と呼応して、反実仮想の意を表す。3.3.29
注釈714慰めがたく憂しと思へれば女の態度。3.3.29
注釈715などかく以下「いとつらき」まで、源氏の詞。3.3.30
注釈716疎ましきものにしも思す副助詞「しも」強調。あなたはわたしを嫌な男とお思いになる。3.3.30
注釈717契りあるとは思ひたまはめ推量の助動詞「め」已然形、「こそ」の係り結び。3.3.30
注釈718世を思ひ知らぬやうに「世」は男女の仲。既に人妻であり男を知っていながらそれを知らない生娘のように、の意。3.3.30
注釈719おぼほれ『集成』は「悲しみに沈んで」と訳し、『完訳』は「ぼんやりして」と訳す。『古典セレクション』『新大系』は「とぼけていらっしゃる」と訳す。涙にむせんで、何もわからなくなっているさま、というニュアンスであろう。3.3.30
注釈720恨みられてマ上二段動詞「恨む」未然形、受身の助動詞「られ」連用形。源氏の君から恨まれて、の文意。3.3.30
注釈721いとかく憂き身の以下「見きとなかけそ」まで、女の詞。3.3.31
注釈722ありしながらの身にて『異本紫明抄』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ」<昔の時代に戻りたいものだ、そうしたら今のあなたとの関係も昔のままのわたしでと思おう、できぬことで残念だ>(出典未詳)を指摘する。3.3.31
注釈723かかる御心ばへを見ましかば反実仮想の助動詞「ましか」未然形+接続助詞「ば」、「慰めまし」に係る。3.3.31
注釈724あるまじき我が頼みにて挿入句。3.3.31
注釈725後瀬をも『源氏釈』は「若狭なる後瀬の山の後に逢はむわが思ふ人にけふならずとも」(古今六帖二、国、一二七二)を指摘する。「若狭なる後瀬の山の」は「後に」に係る序詞。3.3.31
注釈726思ひたまへ慰めましを謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形。反実仮想の助動詞「まし」連体形+接続助詞「を」逆接。3.3.31
注釈727たぐひなく思うたまへ惑はるるなり「おもう」は「思ひ」連用形のウ音便形。謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、自発の助動詞「るる」連体形、断定の助動詞「なり」終止形。3.3.31
注釈728よし今は見きとなかけそ副詞「よし」。『源氏釈』は「それをだに思ふこととて我が宿を見きとないひそ人の聞かくに」(古今集、恋五、八一一、読人しらず)を指摘する。過去の助動詞「き」終止形。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。3.3.31
注釈729げにいとことわりなり「げに」と同意し、「ことわりなり」と断定するのは、語り手の評言。『一葉抄』は「双紙の地也」と指摘し、『新釈』は「作者の空蝉の態度に対する批判であり、同情である。紫式部も人妻として当然なことをいつてゐるのである」と評す。3.3.32
注釈730おろかならず以下「多かるべし」までの一文は、語り手の推量。『万水一露』は「双紙の批判の詞也」と指摘する。語り手は、その現場は見ていないが、きっとそうであったろう、という表現。3.3.32
注釈731鶏も鳴きぬ夜が明けた。人目に付かぬうちに別れなばならない。3.3.33
注釈732など言ふなり「言ふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なり」。語り手の位置は部屋の中で、外の声を聞いているというふうである。3.3.36
注釈733女などの以下「急がせたまふへきかは」まで、紀伊守の詞。係助詞「こそ」の下に「急がめ」などの語句が省略されている。女性の方違えと男性の方違えでは帰る時刻が相違したものか、未詳。『集成』は「女などの」以下を紀伊守の詞とする。しかし『新大系』『古典セレクション』は下の「御方違へこそ」以下を、女房の詞と解す。3.3.37
注釈734急がせたまふべきかは「せ」「たまふ」最高敬語。連語「かは」反語表現。3.3.37
注釈735君は「思すに」に係る。その間に、源氏の心が挿入される。3.3.38
注釈736またかやうの以下「いとわりなき」まで、源氏の心。3.3.38
注釈737さしはへてはいかでか「さしはへて」の下に「訪れむこと」などの語句が省略。「いかでか」反語表現。3.3.38
注釈738いとわりなきを「わりなき」までが源氏の心。それを「を」で受けて、地の文に続ける。したがって、現行の括弧では括れない、心と地とが融合した源氏物語特有の表現構造である。3.3.38
注釈739奥の中将女房の中将の君。奥から出てきてのニュアンスを「奥の」と表す。語り手の位置もわかる。3.3.38
注釈740許したまひてもまた引きとどめたまひつつ「桐壺」巻の「輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず」という帝が更衣の里下がりをなかなか許そうとしない態度に類似する。3.3.38
注釈741いかでか以下「例かな」まで、源氏の詞。3.3.38
注釈742世に知らぬ副詞「世に」程度のはなはだしいさまを表す。ほんとうに3.3.39
注釈743御心のつらさもあはれも『古典セレクション』は「あなたのつれなさにつけ、またわたしのせつなさにつけ」と訳す。3.3.39
注釈744浅からぬ世の思ひ出で「浅からぬ世」は、男女の縁が浅くないという意と、夏の夜の短さを背後に響かせた表現となっている。3.3.39
注釈745鶏もしばしば鳴くに前に「鶏も鳴きぬ」とあった。それからの時刻の経過と次の和歌を詠み出す契機となる。3.3.41
注釈746つれなきを恨みも果てぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ源氏の贈歌。「しののめ」は東の空の明らむ時刻、歌語。「とりあへぬ」に「鶏」と「取りあへぬ」を掛ける。推量の助動詞「らむ」原因推量を表す。どうして--するのだろうか、の意。第一句「つれなきを」の詠嘆の間投助詞「を」、第二句「恨みも果てぬ」の「ぬ」(打消の助動詞、終止形)というように、いずれも句が切れるかなり強い恨み言と詠嘆を詠み込んだ歌である。3.3.42
注釈747いとつきなくまばゆき心地して源氏を前にして感じた女の境遇や身分や容貌などのいずれも格段に劣ったみすぼらしさをいう表現である。「まばゆき心地」は恥ずかしくて顔を合せられない意。3.3.44
注釈748思ひやられて自発の助動詞「れ」連用形。3.3.44
注釈749夢にや見ゆらむ空蝉の心中の思い。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量を表す。当時はものを思えば魂があくがれ出てその人の前に現れると信じられていた。「見ゆ」は現れる、意。わたしが伊予介の夢の中に。3.3.44
注釈750身の憂さを嘆くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音もなかれける女の返歌。係助詞「ぞ」は「詠嘆の助動詞「ける」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。自発の助動詞「れ」連用形。源氏の「とりあへぬまで」の語句を受けて、「とりかさねてぞ」と返す。「とりかさね」に「鶏」と「取り重ね」を掛ける。3.3.45
注釈751引き立てて襖障子を引き閉めて。3.3.47
注釈752隔つる関『源氏釈』は「逢坂の名をば頼みてこしかども隔つる関のつらくもあるかな」(新勅撰集、恋二、七三三、読人しらず)を指摘する。『伊勢物語』にも「彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ」(九十五段)とある。歌語である。3.3.47
注釈753南の高欄に格助詞「に」場所を表す。高欄の側で、高欄に寄り掛かって、の意。3.3.48
注釈754人びと覗くべかめる推量の助動詞「べか」連体形は「る」が撥音便化しさらに無表記の形。推量の助動詞「める」連体形は主観的推量を表す。語り手と源氏の目が一体になった推量、判断の表現。連体中止法で余情表現。3.3.48
注釈755好き心どもあめり「ある」連体形の「る」が溌音便化してさらに無表記化された形。推量の助動詞「めり」主観的推量を表す。語り手と源氏の視覚が一体化して捉えた推量の表現。3.3.48
注釈756月は有明にて西の空に残っている月。時刻の経過をも表す。3.3.49
注釈757艶にもすごくも見ゆる『集成』は「色めかしい感じにも、またもの悲しい感じにも」と解し、『新大系』は「華やかにも殺風景にも」と解し、『古典セレクション』は「ほのぼのと美しくも、あるいは恐ろしくも」と解す。3.3.49
注釈758言伝てやらむよすがだになきをと推量の助動詞「む」婉曲、副助詞「だに」最小限、間投助詞「を」詠嘆を表す。手紙を遣る手段さえない、まして直接逢うことは、というニュアンス。3.3.49
注釈759殿に帰りたまひても二条院に。3.3.50
注釈760まどろまれたまはず可能の助動詞「れ」連用形。3.3.50
注釈761あひ見るべき方なきを接続助詞「を」逆接を表す。3.3.50
注釈762ましてかの人の以下「いかならむ」まで、地の文から源氏の心の文へと融合したような表現。3.3.50
注釈763すぐれたることはなけれど以下「げに」まで、源氏の心。3.3.50
注釈764隈なく見集めたる人左馬頭をいう。3.3.50
注釈765思し合はせられけり自発の助動詞「られ」連用形、詠嘆の助動詞「けり」。3.3.50
注釈766このほどは紀伊守邸から帰宅して以後の生活。場面は変わる。3.3.51
注釈767大殿に左大臣邸。正妻の葵の上のもとに。3.3.51
注釈768なほいとかき絶えて副詞「なほ」は「御心にかかりて」に係る。「かき絶えて」は挿入句。副詞「いと」は「苦しく思しわびて」に係る。3.3.51
注釈769かのありし中納言の子は以下「我奉らむ」まで、源氏の詞。「中納言の子」は、前に「衛門督の末の子」とあった子。父は中納言兼衛門督であった。従三位相当官である。主上にもわたしから殿上童として差し上げたい、の意。3.3.52
注釈770得させてむや使役の助動詞「させ」連用形、完了の助動詞「て」連用形、推量の助動詞「む」、係助詞「や」疑問を表す。3.3.52
注釈771らうたげに見えしを過去の助動詞「し」連体形、間投助詞「を」詠嘆を表す。3.3.52
注釈772いとかしこき以下「のたまひみむ」まで、紀伊守の詞。仰せ言をお伝えしてみましょう、の意。3.3.53
注釈773姉なる人にのたまひみむ尊敬の動詞「のたまふ」四段は、「上位者との対話において、話者自身の支配下の身内をまたは目下に言い聞かせる意」(小学館古語大辞典)。3.3.53
注釈774胸つぶれて思せどその女のことが話題に出るだけで、源氏は胸がどきりとする。源氏のうぶさを表す。3.3.54
注釈775その姉君は朝臣の弟や持たる源氏の問い。係助詞「や」疑問。「持たる」は「持ちたる」が約った語形。完了の助動詞「たる」連体形、係り結び。伊予介との夫婦間に子供がいるか、という問いを、あなたの異母弟がいるかと遠回しに尋ねた。「朝臣」は、あなたの意。敬称。3.3.55
注釈776さもはべらず以下「聞きたまふる」まで、紀伊守の答え。3.3.56
注釈777親のおきて前に「宮仕へに出だしたてむと漏らし奏せし」とあったことをさす。3.3.56
注釈778聞きたまふる謙譲の補助動詞「たまふる」連体形、係助詞「なむ」と係り結びの法則。3.3.56
注釈779あはれのことや以下「よしや」まで、源氏の詞。3.3.57
注釈780よろしく聞こえし人ぞかし連語「ぞかし」文末に用いられて強く念を押す意。まずまずの器量よしとの評判の人であった、の意。しかし、空蝉の容貌は、『源氏物語』の中ではむしろ不器量の部類に入る人である。ここは、実際以上のお世辞を使って尋ねたものか。3.3.57
注釈781まことによしや「よし」は「よろし」よりも良い意。『古典セレクション』は「ほの暗い所で逢ったので、源氏はよく見ていない。先夜女との間に何事もなかったと思わせ、かつ小君についての斡旋の底意を、守に勘づかせないための用意もあろう」と注す。3.3.57
注釈782けしうははべらざるべし以下「睦びはべらず」まで、紀伊守の詞。悪くはないでございましょう、の意。源氏に合わせた答え方。また、紀伊守の価値基準から見た答えであろう。源氏やこの物語の作者の評価基準とは異なる。3.3.58
注釈783世のたとひにて継母と継子の関係は疎遠であるという世間一般の道理。3.3.58
出典14 ありしながらの身にて 取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ 出典未詳 3.3.31
出典15 後瀬をも 若狭なる後背の山の後も逢はむわが思ふ人に今日ならずとも 古今六帖二-一二七二 3.3.31
出典16 見きとなかけそ それをだに思ふ事とてわが宿を見きとな言ひそ人の聞かくに 古今集恋五-八一一 読人しらず 3.3.31
出典17 隔つる関 逢坂の名をば頼みて来しかども隔つる関のつらくもあるかな 新勅撰集恋二-七三一 読人しらず 3.3.47
校訂41 と--は(は/$と<朱>) 3.3.18
校訂42 わびしく わひしく--わる(る/$ひ)しく 3.3.18
校訂43 思ひて 思ひて--思ひ(ひ/+て) 3.3.29
校訂44 かげ かげ--かほ(ほ/=け歟) 3.3.49
3.4
第四段 それから数日後


3-4  Several days later

3.4.1   さて、五六日ありてこの子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、 なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。 いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、 恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されど、 いとよく言ひ知らせたまふ
 そうして、五、六日が過ぎて、この子を連れて参上した。きめこまやかに美しいというのではないが、優美な姿をしていて、良家の子弟と見えた。招き入れて、とても親しくお話をなさる。子供心に、とても素晴らしく嬉しく思う。姉君のことも詳しくお尋ねになる。答えられることはお答え申し上げなどして、こちらが恥ずかしくなるほどきちんとかしこまっているので、ちょっと言い出しにくい。けれど、とても上手にお話なさる。
 紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶な風采を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手に嘘まじりに話して聞かせると、
  Sate, itu-ka mui-ka ari te, kono ko wi te mawire ri. Komayaka ni wokasi to ha nakere do, namameki taru sama si te, ate-bito to miye tari. Mesi-ire te, ito natukasiku katarahi tamahu. Waraha-gokoti ni, ito medetaku uresi to omohu. Imouto-no-Kimi no koto mo kuhasiku tohi tamahu. Saru-beki koto ha irahe kikoye nado si te, hadukasi-ge ni sidumari tare ba, uti-ide nikusi. Saredo, ito yoku ihi-sira se tamahu.
3.4.2   かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。 御文を持て来たれば、女、 あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠しに広げたり。いと多くて、
 このようなことであったかと、ぼんやりと分かるのも、意外なことではあるが、子供心に深くも考えない。お手紙を持って来たので、女は、あまりのことに涙が出てしまった。弟がどう思っていることだろうかときまりが悪くて、そうは言っても、お手紙で顔を隠すように広げた。とてもたくさん書き連ねてあって、
そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿をしようともしない。
 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
  Kakaru koto koso ha to, hono-kokoro-uru mo, omohi no hoka nare do, wosana-gokoti ni hukaku simo tadora zu. Ohom-humi wo mote-ki tare ba, Womna, asamasiki ni namida mo ide-ki nu. Kono ko no omohu ram koto mo hasitanaku te, sasuga ni, ohom-humi wo omo-gakusi ni hiroge tari. Ito ohoku te,
3.4.3  「 見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに
 「夢が現実となったあの夜以来、再び逢える夜があろうかと嘆いているうちに
  見し夢を逢ふ夜ありやと歎く間に
    "Mi si yume wo ahu yo ari ya to nageku ma ni
3.4.4   目さへあはでぞころも経にける
  目までが合わさらないで眠れない夜を幾日も送ってしまいました
  目さへあはでぞ頃も経にける
    me sahe aha de zo koro mo he ni keru
3.4.5   寝る夜なければ
 眠れる夜がないので」
 安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。
  Nuru yo nakere ba"
3.4.6  など、目も及ばぬ御書きざまも、 霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける 身を思ひ続けて臥したまへり
 などと、見たこともないほどの、素晴らしいご筆跡も、目も涙に曇って、不本意な運命がさらにつきまとう身の上を思い続けて臥せってしまわれた。
 とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。
  nado, me mo oyoba nu ohom-kaki-zama mo, kiri hutagari te, kokoroe nu sukuse uti-sohe ri keru mi wo omohi tuduke te husi tamahe ri.
3.4.7   またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ
 翌日、小君をお召しになっていたので、参上しますと言って、お返事を催促する。
 翌日源氏の所から小君が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。
  Mata no hi, Ko-Gimi mesi tare ba, mawiru tote ohom-kaheri kohu.
3.4.8  「 かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ
 「このようなお手紙を見るような人はいません、と申し上げなさい」
 「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」
  "Kakaru ohom-humi miru beki hito mo nasi, to kikoye yo."
3.4.9  と のたまへばうち笑みて
 とおっしゃると、にこっと微笑んで、
 と姉が言った。
  to notamahe ba, uti-wemi te,
3.4.10  「 違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」
 「人違いのようにはおっしゃらなかったのに。どうして、そのように申し上げられましょうか」
 「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」
  "Tagahu beku mo notamaha zari si mono wo. Ikaga, sa ha mausa m?"
3.4.11  と言ふに、 心やましく残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。
 と言うので、不愉快に思い、すっかりおっしゃられ、知らせてしまったのだ、と思うと、辛く思われること、この上ない。
 そう言うのから推せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。
  to ihu ni, kokoro-yamasiku, nokorinaku notamahase, sira se te keru to omohu ni, turaki koto kagirinasi.
3.4.12  「 いで、およすけたることは言はぬぞよき。 さはな参りたまひそ」と むつかられて
 「いいえ、ませた口をきくものではありませんよ。それなら、もう参上してはいけません」と不機嫌になられたが、
 「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいげない。お断わりができなければお邸へ行かなければいい」
 無理なことを言われて、弟は、
  "Ide, oyosuke taru koto ha iha nu zo yoki. Saha, na mawiri tamahi so." to mutukara re te,
3.4.13  「 召すには、いかでか」とて、参りぬ。
 「お召しになるのに、どうして」と言って、参上した。
 「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」
 と言って、そのまま行った。
  "Mesu ni ha, ikade ka." tote, mawiri nu.
3.4.14  紀伊守、好き心にこの継母のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、 率てありく
 紀伊守は、好色心をもってこの継母の様子をもったいない人と思って、何かとおもねっているので、この子も大切にして、連れて歩いている。
 好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。
  Ki-no-Kami, suki-gokoro ni kono mama-haha no arisama wo atarasiki mono ni omohi te, tuisyou-si arike ba, kono ko wo mote-kasiduki te, wi te ariku.
3.4.15   君、召し寄せて
 源氏の君は、お召しになって、
 小君が来たというので源氏は居間へ呼んだ。
  Kimi, mesi-yose te,
3.4.16  「 昨日 待ち暮らししを。なほ あひ思ふまじきなめり
 「昨日一日中待っていたのに。やはり、わたしほどには思ってくれないようだね」
 「昨日も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、おまえは私に冷淡なんだね」
  "Kinohu mati kurasi si wo. Naho ahi omohu maziki na' meri."
3.4.17  と怨じたまへば、 顔うち赤めてゐたり
 とお恨みになると、顔を赤らめて畏まっている。
 恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。
  to wen-zi tamahe ba, kaho uti-akame te wi tari.
3.4.18  「 いづら」とのたまふに、 しかしかと申すに、
 「どこに」とおっしゃると、これこれしかじかです、と申し上げるので、
 「返事はどこ」
 小君はありのままに告げるほかに術はなかった。
  "Idura?" to notamahu ni, sika-sika to mausu ni,
3.4.19  「 言ふかひなのことや。あさまし」とて、 またも賜へり
 「だめだね。呆れた」と言って、またもお与えになった。
 「おまえは姉さんに無カなんだね、返事をくれないなんて」
 そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。
  "Ihukahi-na no koto ya! Asamasi." tote, mata mo tamahe ri.
3.4.20  「 あこは知らじな。その伊予の翁よりは、 先に見し人ぞ。されど、 頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、 かく侮りたまふなめり。さりとも、 あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、 行く先短かりなむ
 「おまえは知らないのだね。わたしはあの伊予の老人よりは、先に関係していた人だよ。けれど、頼りなく弱々しいといって、不恰好な夫をもって、このように馬鹿になさるらしい。そうであっても、おまえはわたしの子でいてくれよ。あの頼りにしている人は、どうせ老い先短いでしょう」
 「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸の細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好な老人を良人に持って、今だって知らないなどと言って私を軽蔑しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたよりにしている人はさきが短いよ」
  "Ako ha sira zi na. Sono Iyo-no-okina yori ha, saki ni mi si hito zo. Saredo, tanomosigenaku kubi hososi tote, hututuka naru usiromi mauke te, kaku anaduri tamahu na' meri. Sari-tomo, Ako ha waga ko ni te wo are yo! Kono tanomosi-bito ha, yukusaki mizikakari na m."
3.4.21  とのたまへば、「 さもやありけむ、いみじかりけることかなと思へる、「をかし」と思す
 とおっしゃると、「そういうこともあったのだろうか、大変なことだな」と思っているのを、「かわいいい」とお思いになる。
 と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだと思う様子をかわいく源氏は思った。
  to notamahe ba, "Samo ya ari kem, imizikari keru koto kana!" to omohe ru, "Wokasi" to obosu.
3.4.22   この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが 御匣殿にのたまひて、 装束などもせさせまことに親めきてあつかひたまふ。
 この子を連れて歩きなさって、内裏にも連れて参上などなさる。ご自分の御匣殿にお命じになって、装束なども調達させ、本当に親のように面倒見なさる。
 小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言葉どおり親代わりらしく世話をしていた。
  Kono ko wo matuhasi tamahi te, Uti ni mo wi te mawiri nado si tamahu. Waga mikusige-dono ni notamahi te, syauzoku nado mo se sase, makoto ni oya-meki te atukahi tamahu.
3.4.23   御文は常にあり。されど、 この子もいと幼し心よりほかに散りもせば軽々しき名さへとり添へむ、身のおぼえをいと つきなかるべく思へばめでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。 ほのかなりし御けはひありさまは、「 げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、「 をかしきさまを見えたてまつりても何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。
 お手紙はいつもある。けれど、この子もとても幼い、うっかり落としでもしたら、軽々しい浮名まで背負い込む、我が身の風評も相応しくなく思うと、幸せも自分の身分に合ってこそはと思って、心を許したお返事も差し上げない。ほのかに拝見した感じやご様子は、「本当に、並々の人ではなく素晴らしかった」と、思い出し申さずにはいられないが、「お気持ちにお応え申しても、今さら何になることだろうか」などと、考え直すのであった。
 女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分がまた正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであるという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いている女であった。
  Ohom-humi ha tune ni ari. Saredo, kono ko mo ito wosanasi, kokoro yori hoka ni tiri mo se ba, karo-garosiki na sahe tori-sohe m, mi no oboye wo ito tukinakaru beku omohe ba, medetaki koto mo waga mi kara koso to omohi te, utitoke taru ohom-irahe mo kikoye zu. Honoka nari si ohom-kehahi arisama ha, "Geni, nabete ni yaha!" to, omohi-ide kikoye nu ni ha ara ne do, "Wokasiki sama wo miye tatematuri te mo, nani ni ka ha naru beki." nado, omohi-kahesu nari keri.
3.4.24   君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。 思へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、 人目しげからむ所に、便なき振る舞ひや あらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。
 源氏の君は、お忘れになる時の間もなく、心苦しくも恋しくもお思い出しになる。悩んでいた様子などのいじらしさも、払い除けようもなく思い続けていらっしゃる。軽々しくひそかに隠れてお立ち寄りなさるのも、人目の多い所で、不都合な振る舞いを見せはしまいかと、相手にも気の毒である、と思案にくれていらっしゃる。
 源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思った。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んであいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のためにも、女のためにもと思っては煩悶をしていた。
  Kimi ha obosi-okotaru toki no ma mo naku, kokoro-gurusiku mo kohisiku mo obosi-idu. Omohe ri si kesiki nado no itohosisa mo, haruke m kata naku obosi-wataru. Karo-garosiku hahi-magire tati-yori tamaha m mo, hito-me sigekara m tokoro ni, bin-naki hurumahi ya arahare m to, hito no tame mo itohosiku, to obosi wadurahu.
3.4.25   例の、内裏に日数経たまふころさるべき方の忌み待ち出でたまふにはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。
 例によって、内裏に何日もいらっしゃるころ、都合のよい方違えの日をお待ちになる。急に退出なさるふりをして、途中からお越しになった。
 例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障りになる日を選んで、御所から来る途中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。
  Rei no, Uti ni hi-kazu he tamahu koro, saru-beki kata no imi mati-ide tamahu. Nihaka ni makade tamahu mane si te, miti no hodo yori ohasimasi tari.
3.4.26  紀伊守おどろきて、 遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「 かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。
 紀伊守は驚いて、先日の遣水を光栄に思い、恐縮し喜ぶ。小君には、昼から、「こうしようと思っている」とお約束なさっていた。朝に夕に連れ従えていらっしゃったので、今宵も、まっさきにお召しになっていた。
 紀伊守は驚きながら、
 「前栽の水の名誉でございます」
 こんな挨拶をしていた。小君の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやってあって、約束ができていたのである。
 始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。
  Ki-no-Kami odoroki te, yarimidu no meiboku to kasikomari yorokobu. Ko-Gimi ni ha, hiru yori, "Kaku nam omohi-yore ru." to notamahi tigire ri. Ake-kure matuhasi narasi tamahi kere ba, koyohi mo madu mesi-ide tari.
3.4.27  女も、 さる御消息ありけるに、 思したばかりつらむほどは浅くしも思ひなされねどさりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、 あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、 なほさて待ちつけ きこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて往ぬるほどに、
 女も、そのようなお手紙があったので、工夫をこらしなさるお気持ちのほどは、浅いものとは思われないが、そうだからといって、気を許して、みっともない様をお見せ申すのも、つまらなく、夢のようにして過ぎてしまった嘆きを、さらにまた味わおうとするのかと、思い乱れて、やはりこうしてお待ち受け申し上げることが気恥ずかしいので、小君が出て行った間に、
 女のほうへも手紙は行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうかといって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気にはならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはならぬとも思った。妄想で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、
  Womna mo, saru ohom-seusoko ari keru ni, obosi-tabakari tu ram hodo ha, asaku simo omohi-nasa re ne do, saritote, utitoke, hitogenaki arisama wo miye tatematuri te mo, adikinaku, yume no yau ni te sugi ni si nageki wo, mata ya kuhahe m, to omohi midare te, naho sate mati-tuke kikoyesase m koto no mabayukere ba, Ko-Gimi ga ide te inuru hodo ni,
3.4.28  「 いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、 ほど離れてを
 「とても近いので、気が引けます。気分が悪いので、こっそりと肩腰を叩かせたりしたいので、少し離れた所でね」
 「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたたいてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」
  "Ito ke-dikakere ba, kataharaitasi. Nayamasikere ba, sinobi te uti-tataka se nado se m ni, hodo hanare te wo!"
3.4.29  とて、渡殿に、 中将といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。
 と言って、渡殿に、中将の君といった者が部屋を持っていた奥まった処に、移ってしまった。
 と言って、渡殿に持っている中将という女房の部屋へ移って行った。
  tote, wata-dono ni, Tyuuzyau to ihi si ga tubone si taru kakure ni, uturohi nu.
3.4.30   さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、 からうしてたどり来たり。 いとあさましくつらし、と思ひて、
 そのつもりで、供人たちを早く寝静まらせて、お便りなさるが、小君は尋ね当てられない。すべての場所を探し歩いて、渡殿に入りこんで、やっとのことで探し当てた。ほんとうにあんまりなひどい、と思って、
 初めから計画的に来た源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。
  Saru kokoro si te, hito toku sidume te, ohom-seusoko are do, Ko-Gimi ha tadune aha zu. Yorodu no tokoro motome ariki te, wata-dono ni wake-iri te, karausite, tadori ki tari. Ito asamasiku turasi, to omohi te,
3.4.31  「 いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、
 「どんなにか、役立たずな者と、お思いになるでしょう」と、泣き出してしまいそうに言うと、
 「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」
 もう泣き出しそうになっている。
  "Ika ni kahinasi to obosa m." to, naki nu bakari ihe ba,
3.4.32  「 かく、けしからぬ心ばへは つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく 忌むなるものを」と言ひおどして、「『 心地悩ましければ人びと避けず おさへさせてなむ』と 聞こえさせよあやしと誰も誰も見るらむ
 「このような、不埒な考えは、持っていいものですか。子供がこのような事を取り次ぐのは、ひどく悪いことと言うのに」ときつく言って、「『気分がすぐれないので、女房たちを側に置いて揉ませております』とお伝え申し上げなさい。変だと皆が見るでしょう」
 「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするのはとてもいけないことなのだよ」
 としかって、
 「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱をしてもらっていますって申せばいいだろう。皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」
  "Kaku, kesikara nu kokoro-bahe ha, tukahu mono-ka. Wosanaki hito no kakaru koto ihi tutahuru ha, imiziku imu naru monowo!" to ihi-odosi te, "'Kokoti nayamasikere ba, hito-bito sake zu osahe sase te nam' to kikoye sase yo. Ayasi to tare-mo tare-mo miru ram."
3.4.33  と 言ひ放ちて、心の中には、「 いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、 をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうに思すらむ」と、 心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。「 とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。
 とつっぱねたが、心中では、「ほんとうに、このように身分の定まってしまった身の上でなく、亡くなった親の御面影の残っている邸にいたままで、たまさかにでもお待ち申し上げるならば、喜んでそうしたいところであるが。無理にお気持ちを分からないふうを装って無視したのも、どんなにか身の程知らぬ者のようにお思いになるだろう」と、心に決めたものの、胸が痛くて、そうはいってもやはり心が乱れる。「どっちみち、今はどうにもならない運命なのだから、非常識な気にくわない女で、押しとおそう」と思い諦めた。
 取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まらないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷ややかな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。
  to ihi-hanati te, kokoro no uti ni ha, "Ito, kaku sina sadamari nuru mi no oboye nara de, sugi ni si oya no ohom-kehahi tomare ru hurusato nagara, tamasaka ni mo mati-tuke tatematura ba, wokasiu mo ya ara masi. Sihite omohi-sira nu kaho ni mi-ketu mo, ika ni hodo sira nu yau ni obosu ram." to, kokoro-nagara mo, mune itaku, sasuga ni omohi-midaru. "Totemo-kakutemo, ima ha ihukahinaki syukuse nari kere ba, musin ni kokorodukinaku te yami na m." to omohi-hate tari.
3.4.34  君は、 いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、「 身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、憂しと思したり。
 源氏の君は、どのように手筈を調えるかと、まだ小さいので不安に思いながら横になって待っていらっしゃると、不首尾である旨を申し上げるので、驚くほどにも珍しかった強情さなので、「わが身までがまことに恥ずかしくなってしまった」と、とてもお気の毒なご様子である。しばらくは何もおっしゃらず、ひどく嘆息なさって、辛いとお思いになっていた。
 源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思いながら寝ているところへ、だめであるという報せを小君が持って来た。女のあさましいほどの冷淡さを知って源氏は言った。
 「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」
 気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息をしてからまた女を恨んだ。
  Kimi ha, ika ni tabakari-nasa m to, mada wosanaki wo usirometaku mati-husi tamahe ru ni, huyou naru yosi wo kikoyure ba, asamasiku meduraka nari keru kokoro no hodo wo, "Mi mo ito hadukasiku koso nari nure." to, ito itohosiki mi-kesiki nari. Tobakari mono mo notamaha zu, itaku umeki te, usi to obosi tari.
3.4.35  「 帚木の心を知らで園原の
 「近づけば消えるという帚木のような、あなたの心も知らないで
  帚木の心を知らでその原の
    "Hahakigi no kokoro wo sira de Sonohara no
3.4.36   道にあやなく惑ひぬるかな
  園原への道に、空しく迷ってしまったことです
  道にあやなくまどひぬるかな
    miti ni ayanaku madohi nuru kana
3.4.37   聞こえむ方こそなけれ
 申し上げるすべもありません」
 今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。
  Kikoye m kata koso nakere."
3.4.38  とのたまへり。 女も、さすがに、まどろまざりければ、
 と詠んで贈られた。女も、やはり、まどろむこともできなかったので、
 女もさすがに眠れないで悶えていたのである。それで、
  to notamahe ri. Womna mo, sasuga ni, madoroma zari kere ba,
3.4.39  「 数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに
 「しがない境遇に生きるわたしは情けのうございますから
  数ならぬ伏屋におふる身のうさに
    "Kazu nara nu huseya ni ohuru na no usa ni
3.4.40   あるにもあらず消ゆる帚木
  見えても触れられない帚木のようにあなたの前から姿を消すのです
  あるにもあらず消ゆる帚木
    aru ni mo ara zu kiyuru Hahakigi
3.4.41  と聞こえたり。
 とお答え申し上げた。
 という歌を弟に言わせた。
  to kikoye tari.
3.4.42  小君、 いといとほしさに眠たくもあらで まどひ歩くを、 人あやしと見るらむ、と わびたまふ
 小君が、とてもお気の毒に思って眠けを忘れてうろうろと行き来するのを、女房たちが変だと思うだろう、と心配なさる。
 小君は源氏に同情して、眠がらずに往ったり来たりしているのを、女は人が怪しまないかと気にしていた。
  Ko-Gimi, ito itohosisa ni nebutaku mo ara de madohi-ariku wo, hito ayasi to miru ram, to wabi tamahu.
3.4.43  例の、 人びとはいぎたなきに一所すずろにすさまじく思し続けらるれど人に似ぬ心ざまの、なほ 消えず立ち上れりける、とねたく、 かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、
 例によって、供人たちは眠りこけているが、お一方はぼうっと白けた感じで思い続けていらっしゃるが、他の女と違った気の強さが、やはり消えるどころかはっきり現れている、と悔しく、こういう女であったから心惹かれたのだと、一方ではお思いになるものの、癪にさわり情けないので、ええいどうともなれとお思いになるが、そうともお諦めきれず、
 いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでもよいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。
  Rei no, hito-bito ha igitanaki ni, hito-tokoro suzuro ni susamaziku obosi-tuduke rarure do, hito ni ni nu kokoro-zama no, naho kiye zu tati nobore ri keru, to netaku, kakaru ni tuke te koso kokoro mo tomare to, katu ha obosi nagara, mezamasiku turakere ba, sabare to obose domo, sa-mo obosi-hatu maziku,
3.4.44  「 隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、
 「隠れている所に、それでも連れて行け」とおっしゃるが、
 「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」
  "Kakure tara m tokoro ni, naho wi te ike!" to notamahe do,
3.4.45  「 いとむつかしげにさし籠められて、 人あまたはべるめればかしこげに
 「とてもむさ苦しい所に籠もっていて、女房が大勢いますようなので、恐れ多いことで」
 「なかなか開きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな所へ、もったいないことだと思います」
  "Ito mutukasige ni sasi-kome rare te, hito amata haberu mere ba, kasikoge ni."
3.4.46  と聞こゆ。 いとほしと思へり
 と申し上げる。気の毒にと思っていた。
 と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。
  to kikoyu. Itohosi to omohe ri.
3.4.47  「 よし、あこだに、な捨てそ
 「それでは、おまえだけは、わたしを裏切るでないぞ」
 「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」
  "Yosi, Ako dani, na sute so."
3.4.48  とのたまひて、 御かたはらに臥せたまへり若くなつかしき御ありさまを、 うれしくめでたしと思ひたればつれなき人よりはなかなかあはれに思さるとぞ
 とおっしゃって、お側に寝かせなさった。お若く優しいご様子を、嬉しく素晴らしいと思っているので、あの薄情な女よりも、かえってかわいく思われなさったということである。
 と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。
  to notamahi te, ohom-katahara ni huse tamahe ri. Wakaku natukasiki ohom-arisama wo, uresiku medetasi to omohi tare ba, turenaki hito yori ha, naka-naka ahare ni obosa ru to zo.
注釈784さて五六日ありて逢瀬から五、六日後。3.4.1
注釈785この子率て参れり主語は紀伊守。3.4.1
注釈786なまめきたるさましてあて人と見えたり源氏の目から見た判断である。小君が中納言兼衛門督の子という高貴な血筋の家柄であることを思わせる。3.4.1
注釈787いもうとの君小君の姉君。3.4.1
注釈788恥づかしげにしづまりたれば源氏が気恥ずかしくなるほど相手の小君が畏まっているので、の意。3.4.1
注釈789いとよく言ひ知らせたまふ小君に彼の姉と源氏の間を手引きさせるべく言葉巧みに言い聞かせる意。3.4.1
注釈790かかることこそはと小君の心。「こそは」の下に「ありけれ」などの語句が省略。源氏と姉君の間に何らかの関係が前々からあったのだ、という意。3.4.2
注釈791御文を持て来たれば小君が源氏のもとから姉君の所へ。3.4.2
注釈792あさましきに涙も出で来ぬ『新大系』は「激しい動揺や悔悟の念いから」と注す。3.4.2
注釈793見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに目さへあはでぞころも経にける源氏の贈歌。「あふ」に「夢が合う」(正夢となる)と「あなたに逢ふ」を掛け、次の「あはで」に「目が合はない」(眠れない)と「あなたに逢えない」を掛ける。「あう」を二度用いた執念き歌である。3.4.3
注釈794寝る夜なければ歌に添えたことば。明融臨模本は朱合点と「恋しさのなにゝつけてかなくさまん夢たにもみえすぬるよなけれは」という付箋あり。『源氏釈』は「恋しきを何につけてか慰めむ夢だに見えず寝る夜なければ」(拾遺集、恋二、七三五、源順)を指摘する。現実はもちろんのこと、夢の中でさえあなたに会えない、の意。3.4.5
注釈795霧り塞がりて譬喩表現。涙に目が曇って、の意。3.4.6
注釈796身を思ひ続けて臥したまへり明融臨模本は「ふし給へりける」とあり、「ける」にミセケチ符号が付いている。女の態度に対して初めて敬語が付く。『評釈』は「この女とても自分の邸では多くの人にかしずかれる女主人公である。こういう敬語の出てくる場合、自邸内での女主人公としての女を、読者は感ずるのであろう、と思う」と注す。今や源氏の愛人の一人になったことによる待遇の変化であろう。3.4.6
注釈797またの日小君召したれば参るとて御返り乞ふ翌日、源氏が小君を呼び寄せていたので、小君は源氏のもとへ参上しようとして、その前に姉君に源氏への返事を催促した、という経緯。3.4.7
注釈798かかる御文見るべき人もなしと聞こえよ姉君の詞。3.4.8
注釈799のたまへば女の行為に対する敬語。二例め。3.4.9
注釈800うち笑みて小君の表情。自信ある顔つき。3.4.9
注釈801違ふべくも以下「さは申さむ」まで、小君の詞。源氏の君がお間違いになっておっしゃるはずもない、の意。『新大系』は「人違いでもあるように(君は)おっしゃらなかったのに」と訳す。3.4.10
注釈802心やましく弟小君の小生意気な言い方に対する感情。3.4.11
注釈803残りなくのたまはせ知らせてける女の心。源氏の君は弟の小君に自分と源氏の君との関係を。3.4.11
注釈804いで以下「な参りたまひそ」まで、姉君の詞。感動詞「いで」は他者の言動に対して否定する気持ちを表す。3.4.12
注釈805さは接続詞「さは」それならばの意。『古典セレクション』では「さば」と濁音に読む。3.4.12
注釈806な参りたまひそ副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。3.4.12
注釈807むつかられて動詞「むつから」未然形+尊敬の助動詞「れ」連用形。3.4.12
注釈808召すにはいかでか小君のぶつぶつ言った詞。連語「いかでか」(副詞「いかで」+係助詞「か」)反語表現。下に「参らざらむ」などの語句が省略。どうして参上しないでいられましょう、の意。返事も持たないで参上する。3.4.13
注釈809率てありく紀伊守が小君を連れて行く。「紀伊守好き心に」以下「率てありく」まで、「参りぬ」の、補足説明的文が挿入されたもの。3.4.14
注釈810君召し寄せて源氏の君は小君を召し寄せて、の意。3.4.15
注釈811昨日以下「なめり」まで、源氏の詞。「あひ」は源氏と小君の相互をさし、わたしはおまえを思っているのにおまえはわたしを思ってくれないようだ、の意。同性愛的関係の物言い。3.4.16
注釈812待ち暮らししを「暮らし」連用形、過去の助動詞「し」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。3.4.16
注釈813あひ思ふまじきなめり打消推量の助動詞「まじき」連体形、「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形+推量の助動詞「めり」の「る」が撥音便化してさらに無表記の形、「めり」は主観的推量を表す。3.4.16
注釈814顔うち赤めてゐたり主語は小君に変わる。3.4.17
注釈815いづら源氏の詞。返事はどこに、の意。3.4.18
注釈816しかしか小君の詞。語り手が言い換えた表現。これこれしかじかの理由でいただけませんでした、の意。『岩波古語辞典』に「江戸時代以後シカジカと濁音化した」とある。『古典セレクション』は「しかじか」と濁音に読む。3.4.18
注釈817言ふかひなのことやあさまし源氏の詞。「言ふかひなし」の約。間投助詞「や」詠嘆。3.4.19
注釈818またも賜へり再び手紙をお与えになった。係助詞「も」は強調のニュアンスを添える。3.4.19
注釈819あこは知らじな以下「短かりなむ」まで、源氏の詞。「あこ」は目下の者に対する親愛の情をこめた呼びかけ。打消推量の助動詞「じ」終止形+終助詞「な」詠嘆を表す。3.4.20
注釈820先に見し人ぞ「見し」(動詞「見」連用形+過去の助動詞「し」連体形)は、関係をもった、契りを結んだ、の意。係助詞「ぞ」文末にあって文全体を強調する。3.4.20
注釈821頼もしげなく頚細し空蝉が源氏を評した言として、源氏が引用した文である。首が細い。頼りない、の意のニュアンスがある。源氏の容貌姿態を表現とすれば珍しい箇所である。3.4.20
注釈822かく侮りたまふなめり主語は空蝉。「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形+推量の助動詞「めり」主観的推量。3.4.20
注釈823あこはわが子にてをあれよ間投助詞「を」詠嘆、間投助詞「よ」呼びかけの意を表す。3.4.20
注釈824行く先短かりなむ形容詞「短かり」連用形+完了の助動詞「な」未然形、確述の意+推量の助動詞「む」推量。どうせこの先長いことないでしょうよ、の意。3.4.20
注釈825さもやありけむいみじかりけることかな小君の心中の思い。係助詞「や」、過去推量の助動詞「けむ」連体形。終助詞「かな」詠嘆を表す。3.4.21
注釈826と思へるをかしと思す完了の助動詞「る」連体中止法、そのまま下文の目的格になる。3.4.21
注釈827この子をまつはしたまひて主語は源氏。3.4.22
注釈828御匣殿摂関家などの上流貴族の家では裁縫する建物を自前で持っていた。それを宮中の貞観殿にあった裁縫所の呼び名に倣って同様に呼称した。3.4.22
注釈829装束などもせさせ童殿上の装束。使役の助動詞「させ」連用形。3.4.22
注釈830まことに親めきて「まことに」は「あこはわが子にてあれよ」を受ける。語り手の感想を交えた表現である。3.4.22
注釈831御文は常にあり空蝉の側に立った語り。3.4.23
注釈832この子もいと幼し以下「いとつきなかるべく」まで、女の心。しかし、冒頭は「されど」「この子も」云々というように、地の文と空蝉の心の文が融合したような表現で始まる。3.4.23
注釈833心よりほかに散りもせば源氏への返事を。サ変動詞「せ」未然形+接続助詞「ば」順接の仮定条件。3.4.23
注釈834軽々しき名さへとり添へむ副助詞「さへ」添加は、身を受領の後妻に落とした上に源氏の君との不倫の噂まで立てたら、意。推量の助動詞「む」について、『集成』は、連体中止法。『古典セレクション』と『新大系』は連体形で「身」に係けて読む。3.4.23
注釈835つきなかるべく思へば「つきなかるべく」が「思へば」を修飾しているように、心の文が地の文に融合した表現。いわば間接話法的心の文である。3.4.23
注釈836めでたきこともわが身からこそ女の心。「わが身からこそ」について、『集成』は「結構なことも自分の身分次第のことなのだ」と解す。自分の身分が相手の身分に適う意であろう。3.4.23
注釈837ほのかなりし御けはひ女の目や体験を通しての叙述。源氏の様子や態度について。過去の助動詞「し」連体形は自らの直接体験を表す助動詞。3.4.23
注釈838げになべてにやは副詞「げに」は世間の噂通りだと納得する女の気持ちの現れ。女の心を語る。係助詞「やは」反語を表す。下に「おはせむ」などの語句が省略。3.4.23
注釈839をかしきさまを見えたてまつりても源氏の愛情に対して、自分の気持ちをお応え申し上げたとしても、というニュアンス。3.4.23
注釈840何にかはなるべき係助詞「かは」反語表現を表す。3.4.23
注釈841君は思しおこたる時の間もなく以下は源氏についての語り。3.4.24
注釈842思へりし気色などのいとほしさも空蝉がつらそうに悩んでいた様子を。形容詞「いとほし」は、かわいい、いじらしい、気の毒だ、不憫だ、などの幅広い意味がある。一義的には現代語訳できない。3.4.24
注釈843人目しげからむ所に以下「いとほしく」まで、源氏の心を語る。しかし、その前の「這ひ紛れ立ち寄り」あたりから源氏の心のような文であるが、「立ち寄りたまはむも」と敬語があるので、地の文である。源氏の心に添った描写である。3.4.24
注釈844例の内裏に日数経たまふころ「例の」は「帚木」冒頭の「内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ」という源氏の生活態度をさす。3.4.25
注釈845さるべき方の忌み待ち出でたまふ『評釈』によれば「中神」は中央に十六日間、次に四方に五日間ずつ、四隅に六日間ずつ遊行し、六十日で一巡するという。宮中から左大臣邸が方塞がりとなり紀伊守邸に方違えするのに都合の良い日。『古典セレクション』は「前の紀伊守邸への方違え後、暦のうえからいえば、中神の巡行周期の約六十日がたっているはずで、陰暦七月、初秋のころとなるが、文の内容からいえばやはり夏で、やや不審」と注す。3.4.25
注釈846にはかにまかでたまふまねして源氏は左大臣邸へ行くように見せて、途中から中川の紀伊守邸へ行く。3.4.25
注釈847遣水の面目遣水がお気に召した光栄、実は女を提供したこと、の意。3.4.26
注釈848かくなむ思ひよれる源氏の詞を間接話法的に表現した。紀伊守邸に行き女に再び逢うつもりでいることを告げる。3.4.26
注釈849さる御消息源氏が小君に言った内容、すなわち今夜訪れるという事。この文遣いをしたのは小君である。3.4.27
注釈850思したばかりつらむほどは主語は源氏。完了の助動詞「つ」終止形、完了の意+推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量の意。正妻の葵の上を欺いてやって来る源氏の気持ち。3.4.27
注釈851浅くしも思ひなされねど主語は空蝉。副助詞「しも」強調、可能の助動詞「れ」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ど」逆接。3.4.27
注釈852さりとて以下「またや加へむ」まで、女の心を語る。「さりとて」は接続詞。3.4.27
注釈853あぢきなく「またや加へむ」に係る。3.4.27
注釈854なほさて「なほ」は「まばゆければ」に係る。「さて」は、源氏の手紙に言いなりにの意。3.4.27
注釈855いとけ近ければ以下「ほど離れてを」まで、空蝉の詞。周囲の女房に言ったもの。客人の源氏の御座所と大変に近い位置なので、の意。3.4.28
注釈856ほど離れてを間投助詞「を」詠嘆の意。3.4.28
注釈857中将といひしが局したる隠れに「中将」は前出の女房。過去の助動詞「し」連体形、下に「者」などの語が省略。格助詞「が」主格。3.4.29
注釈858さる心して源氏は空蝉に逢う魂胆で。3.4.30
注釈859からうして「カラウシテ[Caroxite]」(日葡辞書補遺)。『集成』と『新大系』は清音。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。3.4.30
注釈860いとあさましくつらし小君の心。3.4.30
注釈861いかにかひなしと思さむ小君の詞。「思す」の主語は源氏。3.4.31
注釈862かくけしからぬ心ばへは以下「忌むなるものを」まで、姉君の詞。小君を戒める。3.4.32
注釈863つかふものか動詞「つかふ」連体形+終助詞「ものか」反語表現。諌める気持ちを表す。3.4.32
注釈864忌むなるものを「忌む」終止形+伝聞推定の助動詞「なる」連体形+接続助詞「ものを」逆接の意を表す。3.4.32
注釈865心地悩ましければ以下「見るらむ」まで、姉君の詞。途中「おさへさせてなむ」まで、小君に源氏へ言わせた伝言。3.4.32
注釈866人びと避けず女房たちを側に置いての意。3.4.32
注釈867おさへさせてなむ使役の助動詞「させ」連用形、接続助詞「て」、係助詞「なむ」、下に「はべる」連体形などの語が省略。3.4.32
注釈868聞こえさせよ源氏に申し上げなさい。「聞こえさす」は「聞こゆ」より一段と謙った謙譲語。3.4.32
注釈869あやしと誰も誰も見るらむ『集成』は「お前がこんな所にうろうろしていては」と注す。「見るらむ」について、明融臨模本、大島本、松浦本は「みるらむ」とある。池田本、伝冷泉為秀筆本と書陵部本は「思らん」とある。三条西家本は「みる」をミセケチにして「思」と訂正する。3.4.32
注釈870言ひ放ちて接続助詞「て」は、逆接の文脈で使われている。3.4.33
注釈871いとかく以下「思すらむ」まで、空蝉の心。3.4.33
注釈872をかしうもやあらまし間投助詞「や」詠嘆を表す。「まし」反実仮想の助動詞。3.4.33
注釈873心ながらも空蝉が自分から思い決めたことながら、の意。3.4.33
注釈874とてもかくても以下「止みなむ」まで、空蝉の心。3.4.33
注釈875いかにたばかりなさむ小君がどのように手筈を整えるだろうか。源氏の心。3.4.34
注釈876身もいと恥づかしくこそなりぬれ源氏の心。面目丸つぶれだ、の意。3.4.34
注釈877帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな源氏から空蝉への贈歌。「帚木」は歌語。信濃国の園原の伏屋に生えていたという箒を逆さにしたような恰好をした木で、遠くから見ると見えるが、側に近づくと消えてしまうという伝説上の木。『異本紫明抄』は「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな」(古今六帖五、くれどあはず、三〇一九、坂上是則)を指摘する。空蝉を喩える。3.4.35
注釈878聞こえむ方こそなけれ歌に添えた言葉。3.4.37
注釈879女も係助詞「も」は源氏と同様の気持ちでいることを表す。3.4.38
注釈880数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木空蝉から源氏への返歌。贈歌の「帚木」の語句を受け、「園原」の原歌にちなむ「伏屋」の語句を用いて答える。空蝉の教養の高さを示す。『新大系』は「低い身分のうちにはかなく消えてゆく自分を嘆く」と注す。3.4.39
注釈881いといとほしさに源氏の君を気の毒に思って。3.4.42
注釈882まどひ歩く源氏と姉君との間をうろうろと往復する。3.4.42
注釈883人あやしと見るらむ空蝉の心。「人」は女房たち。推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。3.4.42
注釈884わびたまふ主語は空蝉。「たまふ」という敬語が付く。源氏の愛人の一人としての待遇であろう。3.4.42
注釈885人びとはいぎたなきに形容詞「いぎたなき」連体形+接続助詞「に」逆接を表す。3.4.43
注釈886一所すずろにすさまじく思し続けらるれど「一所」は下に「かつは思しながら」と敬語表現があるので、源氏とわかる。自発の助動詞「らるれ」已然形。以下、源氏の心に添った叙述となる。3.4.43
注釈887人に似ぬ心ざまの以下「上れりける」まで、源氏の心。空蝉の心ばえを賞賛。3.4.43
注釈888消えず立ち上れりける「消えず」は女の返歌の「消ゆる」の語句を受ける。「立ち上る」は「消えず」の縁語。気位高く構えていたこと。3.4.43
注釈889かかるにつけてこそ心もとまれ源氏の心。係助詞「こそ」「とまれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。女の魅力が顧みられる。3.4.43
注釈890隠れたらむ所になほ率て行け源氏の小君への詞。3.4.44
注釈891いとむつかしげに以下「かしこげに」まで、小君の詞。できない旨を答える。3.4.45
注釈892人あまたはべるめれば「人」は女房たち。推量の助動詞「めれ」主観的推量を表す。3.4.45
注釈893かしこげに下に「はべり」などの語が省略。3.4.45
注釈894いとほしと思へり主語は小君。3.4.46
注釈895よしあこだにな捨てそ源氏の詞。副助詞「だに」最小限を表す。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。3.4.47
注釈896御かたはらに臥せたまへり「臥せ」は他動詞。源氏がお側に小君を横にならせなさるの意。3.4.48
注釈897若くなつかしき御ありさま源氏の様子。3.4.48
注釈898うれしくめでたしと思ひたれば主語は小君。3.4.48
注釈899つれなき人よりは空蝉をさす。主語は源氏に移る。3.4.48
注釈900なかなかあはれに思さるとぞ女よりは、かえって小君のほうを可愛くお思われなさる、の意。「とぞ」は、この巻、この空蝉物語の語り収めの言葉。「とぞ」の下に「ある」などの語が省略されたかたち。『一葉集』は「紫式部か詞也」と注す。『評釈』では「以上は、ある人が語った話だ、というのである。この巻の冒頭にいう「語り伝へけむ」人の話はこうだったという、とことわるのである」とある。3.4.48
出典18 寝る夜なければ 恋しきを何につけてか慰めむ夢だに見えず寝る夜なければ 拾遺集恋二-七三五 源順 3.4.5
校訂45 身を 身を--身(身/+を) 3.4.6
校訂46 たまへり たまへり--給へりける(ける/$) 3.4.6
校訂47 むつかられ むつかられ--むつか(か/+ら)れ 3.4.12
校訂48 あらはれ あらはれ--あら(ら/+はれ) 3.4.24
校訂49 きこえさせ きこえさせ--あきこえ(え/+させ) 3.4.27
校訂50 心ばへ 心ばへ--(所/$心)はえ 3.4.32
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-4-1)
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一注釈(C)(ver.1-3-1)
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2003年8月14日

Last updated 6/25/2003
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